― 連載「倉山満の言論ストロングスタイル」―
国際連合と称する、無知な野蛮人の集まりがある
国際連合と称する、無知な野蛮人の集まりがある。かつて国連女子差別撤廃委員会は、「日本の皇室が男系男子にしか皇位継承を認めないのは女性差別だ。女系、女子にも認めよ」との勧告をしようとし、日本政府の抗議を受けて撤回したと報道されたことがある。
この文明の何たるかを知らない御仁たちは、西園寺寧子(ねいし)という方を御存じないだろう。民間人の女性でありながら、治天の君に上られた方である。治天の君とは、皇室の家長のことで、特に院政を敷く力を持つ上皇(出家したら法皇)のことを、こう呼ぶ。
南北朝の動乱期、1352年の事である。北朝の崇光天皇は廃され、上皇にさせられた。さらに南朝は、北朝の光厳、光明、崇光の三上皇に加え、皇太子をも全員拉致した。北朝を支える足利幕府は、寺に入る予定だった14歳の弥仁親王を擁立した(後光厳天皇)。しかし三種の神器は盗まれ、新帝に譲国の儀を行う資格のある上皇は全員が拉致されている。そこで北朝と幕府は、故後伏見(ごふしみ)法皇の女御(側室)であった西園寺寧子に治天の君となってもらい、場を乗り切った。
寧子はこの時60歳、出家して広義門院と名乗っていた。先例は、無理やり継体天皇に求めた。800年以上も前の継体天皇にしか先例を求められないのは、明らかに無理がある。何より、60歳の民間人出身の女性が、天皇・上皇・法皇を飛び越えて治天の君となる。以後、先例とされていないが、急場しのぎとして行われた。とにもかくにも、「元は民間人の女性を治天の君に担ぐ」との奇策で、朝廷は維持された。
我が国では、民間人でも、女性は「陛下」と呼ばれる地位に上ることができるのである。不敬を承知で畏れ多い言い方をさせていただくが、現代でも、皇后陛下は元々「正田さん」だった。「小和田さん」「川島さん」は今でも「殿下」だが、いずれは「皇后陛下」となられる御方である。この先例は、奈良時代の光明皇后に遡る。
民間人女性の立后(りっこう)は最初、時の権力者の藤原氏が一族の娘の光明子(こうみょうし)を押し込んだことに始まる。決して褒められたやり方ではなかった。ただ、光明皇后は善徳を積まれ人望が厚かったので、民間人女性の立后は、後世の先例となった。