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まだ速く泳げる可能性はある。
この挑戦は始まったばかり
かもしれない。
リオデジャネイロ2016パラリンピックで日本人最多の4つのメダルを獲得するなど、パラ水泳における世界的エースの木村選手。2018年8月に行われたパンパシフィックパラ水泳大会では、自身の持つ日本記録を更新。
さらなる進化を続ける彼が、今まさに何を思い、厳しいトレーニングに励んでいるのか語った。
パラ水泳、S11、SB11、SM11クラス(全盲)
木村敬一 選手
1990年生まれ。2歳の時に先天性疾患から全盲になり、小学生から水泳を始める。これまで数々の世界大会で優秀な成績を残し、国内外から大きな期待が集まる有力選手。
小さい頃から体を動かすのが好きで、目が見えないなかで思いっきり動けるようにと母が水泳を勧めてくれたんです。プールなら転んだりぶつかったりする心配がないですからね。平泳ぎやクロールといった泳ぎ方を習い、息つぎの仕方を練習して、一つひとつ自分でできるようになることが嬉しかったんです。だから、数ヶ月後には水泳に行くのが楽しみになっていました。
滋賀の自宅から盲学校が遠かったため小学生から寮生活をしていたのですが、中学生になると上京をすることに。将来、自立するために、いろいろな人がいる環境で学んでほしいという父の薦めで、都内の盲学校に進学しました。そこでパラ水泳の先輩やその指導者に出会い、本格的に水泳に取り組むようになり、高校生になる頃にはパラリンピックを目指していました。
そして、17歳の時、北京2008パラリンピックに出場することができました。周囲の応援や、海外選手の4年間にかける思いが伝わり、パラリンピックの圧倒的なスケールを感じました。そして自分自身、これまでやってきたことが一つのカタチになるのを実感しました。とにかくパラリンピックに出てみたかったので、大舞台に立つことができて、もうそれだけで十分でした。高校卒業後もどうやって水泳を続けるかを考え、大学に入学して水泳サークルでトレーニングをすることにしました。
次のロンドン2012パラリンピックでは旗手を務め、銀メダルと銅メダルを獲得することができて、あのときは大満足でしたね。同時にほっとしたという気持ちも大きかったです。大会の後に社会科の教育実習があったのですが、その3週間が人生で一番しんどかったと思うほど大変で、大会の記憶が飛んじゃったくらいでした(笑)。子どもたちに教えられるほど社会の勉強や経験が足りず、先生という仕事の重さを知りました。
卒業旅行には友だちと1週間ヨーロッパに行ったり、たくさんの出会いのなかで充実した学生時代を過ごしました。卒業後は大学院に進学するとともに、東京ガスに入社。リオ2016大会に向けて自分を追い込むため、トレーニング中心の生活になりました。学生時代は応援してくれるのは家族や友人ぐらいでしたが、社会人になって大きく増えたのを肌で感じました。試合に出るたびに注目が集まり、今までにはない期待とプレッシャーを感じるようになりました。そして、何としてでも速くならないと、勝っていかないといけないと思うようになりました。
元々食が細く痩せやすい体質だったので、体づくりのためにがむしゃらに食べて、何を食べても同じ味に感じてしまう程に食事が苦痛になっていた時期もありました。今は食事のとり方も変わって、どの食材をどのタイミングで食べるのが自分の身体に合っているのかもわかってきました。少しでも速く泳ぎたい。その思いだけはずっと変わりません。
リオ2016パラリンピックは、とにかく疲れました。何時間かかってもいいから、早く家に帰って休みたいというのが本音でした。日本人として誰も金メダルをとれなかったのもあり、銀と銅の4つのメダルを獲れたことをたくさんの人が喜んでくれていたので自分なりに頑張ったと思えるようになりました。そうはいっても、負けは負け。金メダル争いができると信じた自分の実力は、金メダルに届かなかったんです。
パラリンピックとオリンピックの記録には、差があります。でも、障がいがあっても、物理的にはまだ速く泳げるはずなんです。自分の可能性をさらに追求して、この差を少しでも縮め、いずれは超えていきたいと思っています。差があって当然ではなく、単純に一人のアスリートとして甘えたくないんです。
今、スピードを上げるためにやっているのが、手足のタイミングを合わせるトレーニング。水をかくたびに手足のタイミングが完全に合っていれば、手足が連動して力まずに進むことができ、 1+1が3になるくらいの推進力が出てきます。このタイミングが合う“ハマるポイント”というのを探っているところです。
現在は、アメリカのパラ水泳のライバル選手にコーチを紹介してもらい、東海岸のボルチモアでトレーニングをしています。これまでとは違い、アメリカ行きは自分の意思で決めました。東京も環境は整っていますが、毎日トレーニングに100%全力でぶつかっていくために、自分を奮い立たせるような新しい刺激がほしかったんです。
日本では試合は集中して戦うものだけれど、アメリカでは試合を楽しみながら盛り上がるという姿勢なんです。どちらも間違っていなくて、学ぶことがたくさんありますね。言葉には苦労していますが、最近はコーチのほうが僕の英語を汲み取ってくれるようになって、コミュニケーションもスムーズになりました(笑)。これから語学力をもっと伸ばしてたくさんのことを吸収したいです。あと、海外に滞在してみて、世界が東京2020オリンピック・パラリンピック大会を楽しみにしているのがよくわかりました。
東京2020大会が盛り上がるのは、やはり日本人が勝つ瞬間ですよね。僕も最高のパフォーマンスをして、その瞬間をできるだけたくさんつくっていきたいです。
パラリンピックは、障がいのある人にスポットライトが当たる機会です。障がいのある人やいろいろな人がいて当たり前とみんなが思える社会になるといいなと思います。
障がいのある人を目にする機会が少ないと、いつまでも当たり前にはならないですよね。障がいのある人がもっと積極的に外に出るようになって、社会とつながるきっかけを創っていくことができたらと思います。
木村 敬一 選手
KIMURA KEIICHI
最終更新日:2018.09.26
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