お返しに智恵子さんは手紙で
たまゆらに
昨日の夕(ゆふべ)
見しものを
と上の句を手紙にしたためました。
すると穴澤大尉が、
今日(けふ)の朝(あした)に
恋ふべきものか
と下の句を返します。
柿本人麿呂の歌です。
意訳すると、
「あなたと昨夜お会いしたばかりなのに、
一夜が明けると
もうこんなにもあなたが恋しい」
となります。
お二人は一緒に歩いたこともデートしたこともありません。
もちろん手さえ触れたこともありません。
それでもお二人の心と心、情感と情感、教養と教養が、互いの愛をはぐぐんで行ったのです。
お二人は結婚を望みました。
けれど穴澤大尉の郷里の兄が猛反対でした。
これは当時はよくあることでした。
「都会の娘なんて信用できない」というのです。
それにひきずられて両親も結婚に反対しました。
大東亜戦争の真っ只中です。
穴澤大尉は昭和18年10月1日、戦時特例法によって大学を繰り上げ卒業となり、陸軍特別操縦見習士官第一期生として、熊谷陸軍飛行学校相模教育隊に入隊しました。
穴澤大尉は、入隊の時点で死を決意されたそうです。
昭和十九年十月、神風特別攻撃隊が編成され、十二月八日、飛行第二四六戦隊に配属されていた穴澤大尉のもとに、特別攻撃隊第二〇振武隊員選抜の知らせが届きました。
その任地の三重県の亀山兵舎に、智恵子さんが訪ねて来てくれました。
同僚達は気をきかせて、二人を旅館に送りだしました。
けれど穴澤大尉は、連日の猛訓練の疲れで寝てしまいました。
二人は清い交際のままででした。
昭和20年3月9日、前日に両親を説得した穴澤大尉は、東京の智恵子さんの家を訪ねました。
智恵子さんのご両親に結婚したい旨を告げ、ご了解をいただきました。
喜んだ穴澤大尉は、その日は目黒にある大尉の親戚の家に泊まりました。
翌朝の明け方、大事件が起こりました。
東京の三分の一を焼き尽くした3月10日の東京大空襲です。
死者は八万人以上となりました。
智恵子さんの無事を心配した穴澤大尉は、まだ夜が明けないうちに親戚の家を飛び出しました。
智恵子さんの実家に向かったのです。
焼け跡も生々しい町でした。
歩いて、その焼け跡を行きました。
同じ頃、穴澤大尉の身を案じた智恵子さんも、夜明けとともに目黒に向かいました。
いかなる偶然でしょうか。
それともお二人の引き合う気持ちがなせるわざだったのでしょうか。
二人は巣鴨の大鳥神社のあたりで、バッタリと出会いました。
互いに生きていた。
いまならハグして互いの体温を感じ合うところです。
けれど当時は互いの姿を見て、互いに生き残ったことを喜び合いました。
穴澤大尉は戦火の中にあっても、当日中に大宮の飛行場に帰らなければなりません。
智恵子さんは、穴澤大尉を送って、二人で国電に乗りこみました。
空襲の直後のことです。
国電は避難する人があふれかえっていました。
超満員です。
あまりの混雑のため、智恵子さんは息苦しくなって、穴澤大尉の勧めもあって池袋駅で電車を降りました。
これが二人の永遠(とわ)の別れとなりました。
ひと月後、穴澤大尉から手紙が届きました。
去月十日、
楽しみの日を胸に描きながら
池袋の駅で別れたが、
帰隊直後、
我が隊を直接取り巻く情況は急転した。
婚約をしてあった男性として、
散ってゆく男子として、
女性であるあなたに
少し言って征きたい。
あなたの幸を希う以外に何物もない。
徒に過去の小義に拘るなかれ。
あなたは過去に生きるのではない。
勇気をもって過去を忘れ、
将来に新活面を見出すこと。
あなたは今後の一時々々の
現実の中に生きるのだ。
穴澤は現実の世界にはもう存在しない。
極めて抽象的に流れたかも知れぬが、
将来生起する具体的な場面々々に活かしてくれる様、
自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。
純客観的な立場に立って言うのである。
当地は既に桜も散り果てた。
大好きな嫩葉の候が此処へは直に訪れることだろう。
今更何を言うかと自分でも考えるが、
ちょっぴり欲を言って見たい。
1、読みたい本
「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」
2、観たい画
ラファエル「聖母子像」、芳崖「悲母観音」
3、智恵子
逢いたい。話したい。無性に・・・。
今後は明るく朗らかに。
自分も負けずに朗らかに笑って征く。
昭20・4・12
智恵子様
利夫
手紙の書かれた日付と、利夫さんの戦死の日付は、同じ日でした。
おそらく出撃の直前に、書かれた手紙だったのでしょう。
智恵子さんは、穴澤大尉との面会の折のとき、
「いつも一緒にいたい」と、自分の巻いていた薄紫色のマフラーを渡しました。
穴澤大尉は、その女物のマフラーを首に巻いて出撃されました。
読みたい本の中に「万葉」とあります。
万葉集のことです。
先日、ある東大の学者さんが、
「万葉集にある勇ましい歌は昭和の戦争期に軍国主義に利用されていた」
などと朝日新聞に書いておられました。
この先生は著書でそのように述べておいでなのだと朝日が報じていました。
なるほど激しい戦いは、ともすれば人の心を失わせます。
このことは世界中の国々で、戦争といわず平時の暴動でさえ、はげしい略奪に至ることを考えれば明らかなことです。
けれど私達の若き日の父祖は、軍務という生死の土壇場にあってなお、万葉のやさしい心を愉(たの)しむやさしい心を持っていたのです。
穴澤大尉の遺書にもそのことは明らかです。
単に日本のものだけを挙げるのではなく、そこにはラファエルの「聖母子像」も挙げられています。
単純な国粋主義に陥っていたわけではなく、美しいものを美しいと感じる素直な心を持ち、その心があればこそ、特攻という究極の出撃をなさっておいでです。
文を書いたその東大教授は国文・漢文学者であり、斎藤茂吉短歌文学賞, 日本歌人クラブ評論賞, 上代文学会賞, 日本古典文学会賞などを取得した現代国文学界の大御所の肩書を持つ教授です。
しかし残念ながらその人は、日本の文化性の深さを理解しない、外国人の留学生レベルの、極めて幼い見解しか持ち合わせていない曲学阿世の徒であると申し上げたいと思います。
思想的ドグマによって歪むと、どんなに頭の良い人でも、正しいものが正しく見えなくなります。
「体(たい)斜めなら、影(かげ)斜めなり」なのです。
つまらないドグマによって歪むのではなく、素直に日本人としての心を取り戻すことのほうが、よほど大事なことなのではないでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございました。※この記事は2009年8月の記事のリニューアルです。

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そして…穴澤大尉の言葉を受け止めて生きた智恵子さん。
お二人の生き様は何度読んでも胸がギュッとなります。