盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)を経(へ)て、日本軍は北京(ペキン、当時は北平=ほくへい)・天津(てんしん)地域を平定しましたが、政府による不拡大方針があったことで、通州事件(つうしゅうじけん)によって国内世論が激高(げきこう)したにもかかわらず、国民政府(こくみんせいふ)との和平実現に向けて動き出しました。
和平工作において我が国は元上海(シャンハイ)総領事で国民党(こくみんとう)の信頼が厚かった船津振一郎(ふなつしんいちろう)を担当者としたため、この和平の交渉(こうしょう)は「船津和平工作(ふなつわへいこうさく)」と呼ばれています。
船津和平工作において我が国は、日中軍事停戦協定(別名を塘沽停戦協定=タンクーていせんきょうてい)など華北(かほく)に対する従来の軍事協定をすべて解消する代わりに、国民政府が満州国(まんしゅうこく)を黙認(もくにん)するほか反日運動を取り締(し)まるという、極(きわ)めて寛大(かんだい)な条件を示しました。
ところが、船津和平工作をめぐって最初の話し合いが行われた日に、またしても日本人が無惨(むざん)にも殺害されるという事件が起こってしまったのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
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- 黒田先生
こんばんは
青田です。
日本の平和で、穏やかな姿勢にたいして、
また、何か事件があるのですね。
シナと日本の近現代史を知ると
もう、『怒り』を通り越して、『何ともやり切れない気持ち』になりました。(泣)
青田さんへ
黒田裕樹 お気持ちはよく分かりますし、紹介する私も同じ思いです。
しかしながら、ここからの「真実の歴史」を学ばなければ我が国の未来はありませんから、今後も粛々と続けていきます。
真実を見ることが大事ですね
- 黒田先生
青田です。
ちょうど、このあたりの歴史から、日本人は
詳しい歴史が完全に空白かしています。
戦後、日本人が
シナに振り廻された原因のような気がします。
ただ、ここまでの内容でも、相当、気持ちが重いです。
明日からの更新内容は、覚悟して、読みます。
青田さんへ その2
黒田裕樹 仰るとおり、多くの日本人が知らされていない真実が明らかになるのがこのあたりからです。
心してお越しください。
ぴーち おはようございます!
常に交戦の構えを辞さない相手には、こちらがどんなに正当な条件を提示しても聞く耳も持たないものですね。
まともな対話では勝てる自信が無い勝負には、すぐにでも暴力行為に走りたがる心理が働くのかも知れませんが。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 両方とも仰るとおりだと思います。
日本人の甘さがよく分かる時代でもありますね。
事件に対し、中国側は大山中尉が中国兵を殺害したのが原因であると主張しましたが、その証拠(しょうこ)となった中国兵の死体は事件発生当初には存在せずに後から置かれたことや、殺された中国兵が小銃(しょうじゅう)で後ろから撃たれたのに対し、大山中尉はピストルしか持っていなかったうえに袋(ふくろ)の中に入れたままであった(つまり、大山中尉は小銃を発砲していない)ことが判明し、中国側の主張が出鱈目(でたらめ)であることが分かりました。
この事件により、同日に始まった船津和平工作(ふなつわへいこうさく)が中止となってしまったうえに、わずか数日後には上海全体を巻(ま)き込(こ)んだ更(さら)なる一大事変が発生してしまうのです。
なお、大山事件に関しては国民党に潜(ひそ)んでいた中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう)のスパイが蒋介石(しょうかいせき)に日本への攻撃を迫(せま)る目的で仕組んだものであることが後に明らかとなっており、彼の狙(ねら)いどおりに和平交渉が消滅(しょうめつ)したことになります。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
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ぴーち おはようございます!
見るも無残な光景が浮かんで来ました(´゚д゚`)
人間とは残酷な生き物だと改めて感じます。
けれど、中国側の保安隊に包囲されてしまう事は
予め警戒されて居なかったという事なのでしょうかね。
もしもそれが事実ならば、
前記事へのお返事をいただいた通り、日本がいかに
こういう事態に何の防備も考えて居なかったかという事が伺えますね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに残酷ですね。
警戒を怠っていなかったとは考えにくいのですが、個人ではどうすることもできないこともあります。
この後、我が国は防戦一方となってしまい、防備以前にとんでもない目にもあってしまいますし、難しいですね…。
そして通州事件(つうしゅうじけん)や大山事件から間もない昭和12(1937)年8月12日に国民政府軍は日本総領事館と商社の電話線を切断し、翌13日には上海の租界(そかい、外国人居留地のこと)から外に通じる道路をすべて遮断(しゃだん)して多くの日本人や中国人を含(ふく)む一般市民が逃(に)げられないように閉じ込めたうえで一方的な攻撃(こうげき)を開始しました。これを第二次上海事変といいます。
事変発生時、上海の日本軍は海軍陸戦隊(かいぐんりくせんたい)の約4,000名しかおらず、多くの民間人を守ることは不可能だったため、我が国は同日のうちに陸軍2個師団の派遣(はけん)を決定しました。もし陸戦隊が全滅(ぜんめつ)して国民政府軍の租界への侵入(しんにゅう)を許せば、第二の通州事件として大虐殺(だいぎゃくさつ)が起きるのが目に見えていたからです。
しかし、日本の陸軍2個師団が同月23日になってようやく上海に到着(とうちゃく)したため、我が国の海軍陸戦隊は10日近くも10倍以上の敵兵相手に奮戦(ふんせん)することとなってしまいました。何とか全滅は免(まぬが)れて「上海大虐殺」という最悪の事態は防げたものの、上海が列強の共同租界であったため、日本人や中国人、あるいは欧米人を含む約3,600名が死傷(ししょう)するという悲劇(ひげき)を呼んでしまいました。
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- 黒田先生
青田です。
今回の内容で、日中戦争が
防衛戦争だったことが、わかりました。
特に
この上海事変について、私の学校で、習った歴史教育では、
日本の中国へのさらなる侵略行為だと習っていただけに、驚きました。
(もっとも、日露戦争もロシアとの、中国の利権の奪い合いと習っていましたが)
ただ、こういう状況は、複雑な蟻地獄のような気がします。(どの選択をしても、日本にとって、
最悪の状態)
① 中国にいる日本人を守るために軍隊を出さないといけない。
② かといって、派兵すると本格的な戦争状態になる。(そうならないために何度も和平工作をしてきたが、無理でした。)
③ かといって、出さないと日本人の安全が守れません。
④さらに、軍隊を出すと、後に現代にいたるまで、侵略戦争と批判される。
歴史のifから、解決法を考えると、最初から
シナに関わらないようにするしかないですね。
ただ、現代の日本人も『これからは、中国の時代と思い込み』全く、懲りてませんが。。
ぴーち おはようございます!
昔も今も日本は「人命第一」と位置づけて
どこかで日本人の命が危ぶまれていると聞けば
直ちに人命救助の手配を設けようとしますが、
勿論、それは倫理的にみれば、当たり前の行動ではあると思いますが、その良心を上手く利用してやろうと考える国が相手だとたちまち、その術中にハマってしまう所がなんとも・・・。
応援凸
青田さんへ
黒田裕樹 仰るとおり、チャイナと深くかかわったことで当時の我が国は中国大陸に引き付けられ、以後の戦略の大きな負担となってしまいましたからね。
「過去への反省」のベクトルが逆を向いていては意味がないのですが…。
ぴーちさんへ
黒田裕樹 残念ながら仰るとおりですね。
助けないわけにはいきませんが、みすみす敵の術中にはまるのが目に見えていましたから…。
ではなぜ蒋介石(しょうかいせき)はわざわざ事変を起こしたのでしょうか。その理由として考えられるのは、第二次上海事変を通じて「日本が中国を侵略(しんりゃく)している」というイメージを作り出し、中国に対する国際世論の同情を集めようとしたのではないかということです。
だからこそ蒋介石は一般市民が逃(に)げられないように道路をすべて封鎖(ふうさ)したうえで民間人がいる可能性が高いホテルなどを中心に爆撃(ばくげき)を加えたのみならず、欧米人の犠牲者(ぎせいしゃ)をわざと出すことで列強の目を中国に向けさせようとしたともされており、事変を拡大させた蒋介石の責任は重大であると言わざるを得ません。
なお、こうした中国による一方的な虐殺(ぎゃくさつ)や事変が相次(あいつ)いだことによって、日本政府は自国民を中心とする生命や財産などを守るために中国に対する不拡大方針を放棄(ほうき)せざるを得ず、この後日本軍は中国軍に引きずられるかのように戦線を中国全土に拡(ひろ)げ、果てしない戦いを続けることになってしまうのです。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
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ぴーち おはようございます!
中国の戦略のうまさが伺えますね。
けれど、そうして得た同情が例えばその時は成功したとしても、そのからくりを知らされた時に
騙された方の憤りは
相当なバッシングに変わるでしょうね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりですね。
ただし「ウソも百回つけば本当になる」とも言いますし、プロパガンダにはしっかりと反論しないといけません。
戦後の歴史教育では「日華事変」と主(おも)に呼ばれてきましたが、なぜか昭和50年代(1970年代後半~1980年代前半)頃(ごろ)から「日中戦争(にっちゅうせんそう)」と呼(よ)ばれるようになり、そのまま現在に至(いた)っていますが、そもそもこの戦いに「戦争」という表現は相応(ふさわ)しくありません。
なぜなら、戦争というのはお互(たが)いに宣戦布告(せんせんふこく)をして始めるものであるのに対して、盧溝橋事件以後の動きではそれらは一切見当たらず、中国側が正式に我が国に宣戦布告したのはいわゆる真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)が行われた直後の昭和16(1941)年12月になってからだったからです。ちなみに中国による宣戦布告を受け、我が国では一連の戦いを、支那事変を含(ふく)めて「大東亜戦争(だいとうあせんそう)」と名づけています。
これらの歴史的事実が存在することから、当講座では可能な限り当時の状況(じょうきょう)に即(そく)して説明するため、今後は多くの歴史教科書で使用されている「日中戦争」ではなく、戦前及(およ)び戦後を通じて長く使用された「日華事変」という呼称で統一しますので、ご理解くださるようお願いします。
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- 黒田先生
青田です。
私は、今まで、『日中戦争』だと思っていました。
『事変』の意味をを国語辞典で、調べてみると
----------------------
1 天変地異や突発的な騒動などの、非常の出来事。変事。
2 警察力では抑えきれず、軍隊の出動を必要とする程に拡大した騒乱。
3 宣戦布告なしに行われる国家間の戦闘行為。
----------------------
でした。
そう考えると、『日中戦争』に変えた意味が
全く、理解できません。
何だか、長い間、イヤなマインドコントロールに支配されてきた気がします。
青田さんへ
黒田裕樹 そう、これはプロパガンダによるマインドコントロールなんです。
宣戦布告が行われていない戦闘状態である以上、日華事変(あるいは支那事変)以外の名称は考えられませんね。
シナの戦い方
- 黒田先生
青田です。
結果論ですが、もっと、日本軍は
シナの特性について、最初に知って置くべきだったと思います。
ただ、そうならなかった原因として
(シナのこういう謀略・調略で、振り廻された原因)
以前、ある本に、
『日本は、明治以降、欧米列強の国際法
用兵術、兵の近代化に異常傾倒したことが
原因である。
これは、幕末に欧米列強の近代兵器に驚き、
近代化により、日清戦争、日露戦争で勝ったから
シナにたいして、国同士の戦いの仕方で、通用すると思い込んでしまった。』と
書いてありました。
対シナ戦のように宣戦布告もない、国際法も守らない、
目的も観えない戦いでは、現場の兵士は
かなり、精神的に、つらかったと思います。
おまけに、戦後は、シナから、戦争犯罪者扱いとは、あまりにも、
ひどすぎます。(正直、怒りを越えて、虚しいです。)
青田さんへ その2
黒田裕樹 確かに仰るとおりですね。
ただ、中国との戦争状態については今後も更新を続けますので、先走らないように願えればと考えますが。
失礼しました。つい~
- 黒田先生
青田です。
失礼しました。
今回は、怒りのあまり、つい感情的になり、
先走りました。
おそらく、この真実を知ると多くの日本人も同じ気持ちになると思います。
これからの更新内容も、さらに覚悟して、読むようにします。
青田さんへ その3
黒田裕樹 読み手が内容に対して様々な感情を抱くのは当然ですが、書き手が一方的な感情で更新を続けることは許されません。
今後も慎重に進めていきますので、青田さんも冷静にお願いします。
ぴーち おはようございます!
戦争にもちゃんとしたルールがあるんですね(^_^;)
スポーツでも、何かの勝負事でも
確かに互いがこれから一戦を交える相手には
勝負に対する意志を互いに確認し合う為にも、
まずは見合って一礼し、相手方と自分が
同じ土俵に上がっている事が確認出来た事を
認識して初めて戦いが繰り広げられるものですが、相手側からの一方的な攻めや、不意打ち(だまし討)などの卑怯な手口で攻撃された戦いは
戦争という正式な呼び名としてさえも扱えない意味合いで、事変とあえて呼称する訳ですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
盧溝橋事件以来、宣戦布告もなくズルズルと戦闘状態が続いている状況では「戦争」とは言えません。
言葉は正確に使用したいものです。
文明人ではない
青田です。 黒田先生
青田です。
通常の文明人は、『宣戦布告』→『戦闘』→『講和』が当たり前ですが
シナ人では、
「停戦協定」→『同時に戦闘始める。』を繰り返しています。
たとえば、時代は、先の話ですが
1945年10月10日に
毛沢東VS蒋介石で、あまり、仲が悪いので
停戦協定を結びましたが、スグに戦争が始まりました。
日本の日華事変の失敗は、彼らを文明人という前提で、接したからだと思います。
(通春事件は、文明人のすることではありません。)
今まで、近現代史は、嫌いでしたが、最近、黒田先生のおかげで、ハマってしまいました。
青田さんへ その4
黒田裕樹 ハマっていただき光栄です(笑)。
仰る背景は確かに有り得ますね。
一方、不拡大方針を放棄(ほうき)したとはいえ、可能な限り早期の停戦を模索(もさく)していた日本政府と軍部の首脳(しゅのう)は、中立的な第三国の仲介(ちゅうかい)を通じての和平をめざしました。
和平の仲介を最終的にドイツに依頼(いらい)することにした日本政府は、同年11月2日に和平条件を駐日(ちゅうにち)ドイツ大使に通知しましたが、その内容はかつての船津和平工作(ふなつわへいこうさく)と同様に寛大(かんだい)なものでした。
我が国からの和平条件が妥当(だとう)なものであると判断したドイツ政府は、同月15日にトラウトマン駐華大使(ちゅうかたいし)を通じて蒋介石(しょうかいせき)に日本側の和平条件を通知しました。このことから一連の和平への動きを第一次トラウトマン和平工作といいます。
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ぴーち おはようございます!
こういう状態になった場合は、やはり第三国の
仲裁、介入なくしては収拾がつかなくなるのでしょうね。
とは言え、あくまでも日本は寛大な処置を行なっていますが、私個人の意見では日本の次元の高い考え方には共感するものの、悪意を持った外国からみれば、弱腰、あるいは対等な立場ではなく、上から常に見られている気がする為に、何処か弱点を探って怒りのポイントを探し、取り乱して崩れさせようと余計に躍起になってくるのではないかと思うのですが・・
私の単なる思い過ごしでしょうかね(^_^;)
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 確かに仰る一面はあると思います。
当時の我が国は何よりも早期の和平を望んでいましたから、それが相手国にも第三国にも「足元を見られかねない」部分もあったかもしれません。外交は難しいですね。
とはいえ、だからと言って他の手段があったかといえばこれも難しいですが…。
しかし、国際連盟のブリュッセル会議では対日制裁は行われず、蒋介石の思惑(おもわく)は外れました。また、和平工作が行われていた間に日本軍が杭州湾(こうしゅうわん)に奇襲上陸(きしゅうじょうりく)して国民政府軍が攻撃(こうげき)されるなど、膠着状態(こうちゃくじょうたい)が続いていた戦線が一気に動き出しました。
事態の悪化を悟(さと)った蒋介石は12月に入ってトラウトマン和平工作を受けいれる姿勢を見せましたが、詳(くわ)しい回答を保留(ほりゅう)したまま本格的な交渉(こうしょう)に応じようとしませんでした。
こうして蒋介石が国家の最高責任者と思えないような遅々(ちち)とした行動を繰(く)り返している間に上海(シャンハイ)の鎮圧(ちんあつ)に成功した我が国は、国民政府の首都(しゅと)であった南京(ナンキン)を攻略(こうりゃく)する決断を下(くだ)したのです。
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ぴーち おはようございます!
蒋介石からした思惑は、自分の思った通りの展開から大幅に外れたので、その後の判断も確かに潔くというわけにはいかなくなりますね。
その後の蒋介石の行く末は存じませんが、
いつまでも責任者としての判断を鈍らせていると
国内でもその地位から速やかに退かなければならなくなったのでは無いでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 蒋介石はその後も国民党の独裁的な指導者として君臨します。
しかし、彼の行動が世界中を不幸に巻き込んでしまったことに変わりはないといえるでしょう。指導者の決断力ほど重要なものはないですね。
つまり、膠着状態(こうちゃくじょうたい)にあった日華事変(にっかじへん)を打開するために我が国は首都攻略という手段を選んだのであり、そこに領土的野心が存在する余地(よち)は全(まった)くなかったといえるのです。
さて、首都攻略を決意した日本軍でしたが、その行動は実に慎重(しんちょう)でした。いきなり南京を攻めるようなことをせず、籠城(ろうじょう)する国民政府軍に投降勧告(とうこうかんこく)を行って退却(たいきゃく)をうながし、彼らが拒否(きょひ)をしてから攻め込(こ)んだのです。
なぜなら我が国と中国との戦いは当時の世界各国が注目しており、決して親日とは言えない外国人ジャーナリストも日本軍の一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)に注視していたからです。南京攻略の責任者であった松井石根(まついいわね)陸軍大将(りくぐんたいしょう)も「後世(こうせい)の模範(もはん)となるような行動をとるべし」と軍規(ぐんき)の徹底(てってい)を呼(よ)びかけていました。
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ぴーち おはようございます!
日華事変は
日本側の一方的な侵略行為だという誤解を
なるべく払拭していきたいという日本側の
思惑を知らしめる為にも、慎重な対応が
必要だったのですね。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
その意図が全くなくても誤解されては元も子もありませんからね。
松井将軍は非常に紳士的な対応でしたが、この後東京裁判で絞首刑に処されました…。
なぜなら、首都攻防戦に陥れば多くの一般市民の生命や財産を巻(ま)き添(ぞ)えにするのが必至(ひっし、必ずそうなること)だったからです。戦闘状態(せんとうじょうたい)が長くなればなるほど、たとえ守り切ったとしても周囲(しゅうい)は火の海あるいは瓦礫(がれき)の山となって都市機能が完全に麻痺(まひ)しますし、流れ弾(だま)に当たるなど一般市民も犠牲(ぎせい)になりやすくなります。
そんな大きな被害(ひがい)を受けるくらいならばいっそのことあっさりと敵に開放して、後日に奪還(だっかん)すべく力を蓄(たくわ)えて捲土重来(けんどちょうらい)を期したほうがはるかに得策(とくさく)というものではないでしょうか。
現実にこの後勃発(ぼっぱつ)した第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)においても、フランスの首都であるパリにドイツ軍が迫(せま)った際にフランスの指導者がパリを「オープン・シティ」にすることによって破壊(はかい)を免(まぬが)れていますし、我が国でも戊辰戦争(ぼしんせんそう)の際に旧幕臣の勝海舟(かつかいしゅう)が江戸を無傷(むきず)で明け渡すことによって、その後の江戸改(あらた)め東京に首都としての機能(きのう)を持たせることに成功しています。
では、南京攻略が目の前に迫った際に蒋介石(しょうかいせき)は何をしたのでしょうか。実は、彼は日本軍による降伏勧告(こうふくかんこく)に応じるどころか、それよりも以前に20万人近くの南京市民を置(お)き去りにしたまま、夜陰(やいん)に乗(じょう)じて南京を脱出(だっしゅつ)してしまったのです。
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- 黒田先生
青田です。
オープンシティの発想は、国民国家としては
当たり前なのですが、
おそらく、この当時のシナの指導者には
根本的に国民国家という考え方がなかったの
ように思います。
蒋介石の取った行動は、古代、中世の
シナでは、皇帝・王は、領民のことを
全く、考えず、平気で、見殺しにすることが
何度も行われてきました。
つまり、シナがいくら装備を近代化しても
社会そのものは、古代、中世のままだったように
思います。
青田さんへ
黒田裕樹 確かに中国の伝統的要素がありますね。
だからこそ日本軍による統治が歓迎されたということもありますが…。
ぴーち こんにちは!
あくまでも人命第一と考える日本的な感覚からすれば、蒋介石の取った行動は暴虐非道であるように思いますが、最初から人の命、兵士の命など
争い事に使用する1つの駒でしかないと考えていたとすれば、当然の行動なのでしょうけれど、
やはり指導者としての資質はと言う点から考えてみても、信じられない行動だと感じました。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 漢民族の長年の伝統を考えればぴーちさんの仰るとおりかもしれませんが、20世紀の段階で同じことをしていること自体がやはり信じられないですよね。
しかし、敗北した国民政府軍の一部兵士が軍服(ぐんぷく)を脱(ぬ)ぎ捨てて便衣隊(べんいたい)として一般市民に紛(まぎ)れてゲリラ的活動を繰(く)り返したために、南京攻略後も日本軍は便衣隊に対して徹底的(てっていてき)な掃討戦(そうとうせん)を行い、その後ようやく17日になって南京への入城式(にゅうじょうしき)を行ったのです。
南京攻略後、暴行や略奪(りゃくだつ)を繰り返していた国民政府軍がいなくなったことで、南京城内に設(もう)けられていた安全地帯(あんぜんちたい)の市民は入城した日本軍を歓迎(かんげい)しました。また、南京には日本人のほか多くの外国人ジャーナリストが残っており、当時の南京の様子を世界中に打電(だでん)しましたが、その内容には特に大きな問題もありませんでした。
ところが、現代の中国や我が国を中心として、南京攻略の際に数十万人もの人々が無惨(むざん)にも殺されたという、いわゆる「南京大虐殺(ナンキンだいぎゃくさつ)」があった、ということにされてしまっているのです。
なぜこんなことになっているのでしょうか?
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Kawakatu 早速やっていただけたこと感謝感激であります!
お手数をおかけしてしまいました!
今後ともよろしくお願い申し上げます。
Kawakatu ぼくは南京のことだけは日本軍はやらなければよかった、やらなくてもよかったんではないかと、感じております。これは井沢元彦氏なども言っていることですが・・・。
Kawakatuさんへ
黒田裕樹 いえいえ、ご指摘ありがとうございました。
南京攻略は結果だけを見れば確かに仰るとおりだとは思います。
ただ、早期の和平をひたすら望んでいた当時の日本軍の立場を思えば、南京を落とすことに一縷の望みを託していたことは痛いほど理解できます。
難しいですよね…。
ぴーち おはようございます!
確かに日本軍の手によって
亡くなった中国人はゼロでは無いかも知れませんが、結果ばかりを伝えるだけでは
何の意味もなさないものだと思います。
例えば、殺人事件が起きた。
世間はその結果だけを聞けば、
怖いとしか感じませんが、その事件が
無差別殺人だったのか、それとも怨恨だったのか
と言う動機の違いによって、印象が随分と
変わります。
事の発端はなんであったのか、止むに止まれぬ事情があるではないか・・・
という事を知る義務が必要になりますよね。
そういう意味でも
黒田さんが提唱する歴史を知る本当の意味が
ここで生きてくるのでは無いでしょうか。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりです。
南京攻略によって具体的にどのようなことが起きたのか。
もし不幸であったとすれば、それをもたらしたのは何だったのかなど、考えられることはそれこそ数えきれないほど存在します。
それなのに日本軍を一方的に断罪するだけであるならば、これほど他人をバカにした話はないですし、ましてやそれが「冤罪」であればまさに「何をかいわんや」の世界ではないでしょうか。
その後、昭和57(1982)年の文部省(もんぶしょう、現在の文部科学省=もんぶかがくしょう)の教科書検定において中国大陸への「侵略」を「進出」に書き改めさせたという新聞記事が出て、記事自体は誤報(ごほう)であったにもかかわらず当時の日中関係の外交問題にまで発展しました。
こうしたいわゆる「教科書誤報事件」によって近隣諸国条項(きんりんしょこくじょうこう)が設けられ、我が国の歴史教育や教科書に深刻(しんこく)な悪影響(あくえいきょう)を与えるとともに、歴史問題が外交カードとして使えることに味をしめた中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)が「南京大虐殺」が歴史上の事実であると喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)し始め、その流れが今もなお続いてしまっているのです。
では、彼らが主張する「南京大虐殺」は本当にあったのでしょうか。結論から先に言えば、そうした「事実」は全(まった)く有り得ないのです。
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ぴーち おはようございます!
この教科書問題は、歴史に疎い私でも
覚えております^^
こうして伺っていると
アメリカも相当ブラックな要素を
秘めている国ですよね(^_^;)
然しながら、世界と同等に
関係を保っていくのには、
日本も白黒はっきりしたい気持ちを
抑えつつ、グレーゾーンを
保っていかなければいけない
所が、また悩ましい所ではありますが・・。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 対米関係や世界との関係は仰るとおり「グレーゾーン」を保ちながら上手に立ち行かねばなりません。
しかし、それは単なる追従や相手の言うことを無条件で聞くのではなく、我が国の立場で自己主張をはっきりとしなければならないのは当然です。
その意味においても、南京大虐殺の虚構を私たちはしっかりと検証する必要があります。
その理由としては「南京攻略(こうりゃく)当時は報道管制(ほうどいうかんせい)を敷(し)いていて一切事実を明らかにしなかったからだ」とも考えられそうですが、当時の戦争報道は自由であり、先述(せんじゅつ)のとおり南京入城に対しても外国人を含(ふく)む多数のジャーナリストが同行していましたが、彼らが「大虐殺」の記事を書いたり、後になって本として出版したりしたという事実は一切ありません。
また、戦後になって次々と発表されたいわゆる「南京大虐殺の証拠(しょうこ)写真」に関しても、そのすべてが捏造(ねつぞう)されたものであることや、南京攻略とは無関係であったことが明らかになっています。
一方で「虐殺の現場を見せなかったから報道されなかっただけだ」という意見もありますが、当時の南京は東京の世田谷区(せたがやく)よりも小さい面積でしかなく、そんな狭(せま)い場所で数十万の人々を秘密裏(ひみつり)に虐殺しようにも、どんなに隠(かく)そうとしても隠しきれるものではないことは火を見るより明らかではないでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
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- 黒田先生
こんにちは
青田です。
普通の大人の常識で、考えれば、
『南京大虐殺』などないことは、わかりますよね。
本当に滑稽な話です。
20年前、中国人のエリートの友人と話をしたことが
ありますが、
『中国人でも、知識者は、常識的にないことを
本当は、知っている』と語っていました。
逆に
その時、私は、歴史教育で、『南京大虐殺』を信じていたので、
日本の歴史教師のほうが、???!!と感じてしまいました。
青田さんへ
黒田裕樹 まさに滑稽な話ではありますが、教育現場では笑って済ませられる話ではありえないのもまた事実ですね。
カチンの森。
晴雨堂ミカエル 左派勢力が強かった時期は、カチンの犯人はナチスドイツであるとの定説がほぼ固まっていましたが、80年代末のゴルバチョフ政権がソ連軍の犯行であることを認めました。
歴史は常に変わります。
ティーグ 黒田先生、こんばんは。
数十万人分の遺体をそう易々と処分出来るはずはありませんから遺体が無い以上大虐殺などあり得ない事なんですけれど
中国にしろ韓国にしろ「日本人は歴史上残虐でなければならない。だから大虐殺を行った」というイデオロギーに凝り固まっていますね。
歴史をねじ曲げているのがどちらなのか、明らかだと思うんですけれどね。
晴雨堂ミカエルさんへ
黒田裕樹 確かにその通りですね。
北朝鮮による日本人拉致問題も金正日が認めたことで大きく歴史が動きました。
南京大虐殺の虚構もいつかは完全に明らかになることを願っております。
ティーグさんへ
黒田裕樹 まさしく仰るとおりです。
歴史的事実をイデオロギーで歪めようなど言語道断ですからね。
ぴーち おはようございます!
以前、南京大虐殺(多分そうだと思うんですが)で日本兵が中国人を殺害して
生首を晒し首にしている画像というものを観たことがありますが、明らかに生首の下の胴体の部分が黒いマジックか(墨か?)分かりませんが、塗りつぶしているだけというひじょうにお粗末だということが分かる証拠写真でした。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 仰るとおりでして、証拠写真と呼ばれているものはすべてがお粗末な偽物です。
にもかかわらず堂々と「本物」と言いつくろっている神経には信じがたいものがあります。
当時の我が国は国際連盟(こくさいれんめい)から脱退(だったい)していることもあって、国際社会の目はどちらかと言えば日本軍の中国大陸における行動に批判的(ひはんてき)でした。もしそんな折(おり)に大虐殺を行っていれば、当時の世界のジャーナリストはこぞって我が国を非難するはずですが、現実にはそんな声は全く聞かれていません。
確かに南京攻略から半年後に書かれた「虐殺の記録」は残っていますが、これも筆者が南京へは一度も出向(でむ)かずにすべて伝聞(でんぶん)で書かれていたことや、後には筆者自体が中国政府に雇(やと)われていたことから反日プロパガンダの一環(いっかん)として出版されていたという事実も明らかになっています。
また、中国は南京大虐殺における死者が約30万人いたと喧伝(けんでん、盛んに言いふらすこと)していますが、当時の正式な記録によれば南京陥落(かんらく)直後の南京の人口は約20万人で、軍隊は別に約5万人いたと伝えられていますから、合わせても約25万人しかいません。
25万人しかいないのに、どうやって30万人も虐殺できるというのでしょうか。しかも、日本軍が占領(せんりょう)してからわずか1ヵ月後に南京の人口は約5万人も増えているのです。大虐殺が行われたばかりの都市に、なぜ1ヵ月に5万人もの多くの人々が押しかけてくるのでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
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ぴーち おはようございます!
この当時の中国と日本の力関係は、どうなっていたのでしょう・・。
こういう問題というのは、躍起になって弁明しようとする方にどうしても軍配が上がってしまう傾向があると思うのですが、日本は力強く国際社会にアピール出来たのでしょうか・・?
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 いわゆる「南京大虐殺」が本格的に問題となったのは終戦後のことでした。
つまり、我が国とチャイナとの関係が逆転し、敗戦国であるがゆえに我が国が強い立場に出られない時期を狙い撃ちして問題化しているのです。
昭和57年の教科書誤報事件でも、チャイナを相手に下手に出ようとしたことが諸悪の根源と化しています。
しかし、それは先述(せんじゅつ)の便衣隊(べんいたい)が一般市民に紛(まぎ)れてゲリラ的活動を繰(く)り返していたからであり、その行為(こうい)自体が国際法(こくさいほう)に違反(いはん)しています。確かに民間人が巻(ま)き添(ぞ)えによって不幸にも殺された事実もあったでしょうが、ゲリラ兵を掃討(そうとう)しなければ何時(いつ)まで経(た)っても戦闘状態が終わりません。
さらにいえば、そもそも南京を「オープン・シティ」にしていれば、このようなゲリラ兵の掃討(そうとう)を行う必要すらなかったのではないでしょうか。だとすれば、一般市民に犠牲者(ぎせいしゃ)が出ることが分かっていながら自分だけさっさと逃亡(とうぼう)してしまった蒋介石(しょうかいせき)の責任は極(きわ)めて重いと言わざるを得ないでしょう。
ところで、これだけの「大虐殺はなかった」という証拠(しょうこ)がそろっていながら、我が国の歴史教科書の多くが南京大虐殺を肯定(こうてい)する内容を記載しており、そうでない教科書においても「南京攻略の際に日本軍によって現地の軍民に多くの死傷者が出た」と記載(きさい)されています。
しかも、後者の場合は「そのように記載しないと教科書検定が通らない」からそう書かざるを得なかったという情報も伝えられています。いつまでこのようなことが続けられるのでしょうか。
(※下線を引いた事例については、リンク先もご参照下さい)
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ぴーち おはようございます!
同じ日本人である私達が、
同じ日本人が起こした行動の正当性を認めてあげなければ、誰が
認めるというのでしょうか・・
という事ですよね。
しかしながら、こうして
日本の正当性が認められようとしてる今となっては
教科書検定の件で誰が一体
そのような愚かな事を言っていたのか
気になります。
応援凸
ぴーちさんへ
黒田裕樹 全くもって仰るとおりです。
近隣諸国条項に固執する検定の愚かさは、いずれ改善された際に全貌が明らかになることを望みたいですね。
本当にヤバイのは、中高年
- 黒田先生
こんばんは
青田です。
私は、これからの学生は、まだ、希望があると
思っています。
というのも、ネットの力で、真実がわかってきて、
最近では、今後、正しい教科書を創ろうという動きも
一部ですが、あるからです。
一番、私が危険だと思うのは、ネットのなかった時代に教育を受け、
『南京大虐殺』について、洗脳されている、今の50代、40代、30代です。
というのも、その世代は、
特に1981年~1990年に肯定論者が強く発言するようになり、テレビ番組、本などの影響で、そうだと信じている人間が多くいるからです。
かくいう、私も、黒田裕樹先生の歴史講座を受けるまでは、『百人斬り』を信じていました1人です。
個人的な意見として、歴史教育については、
中高年は、再教育する必要があると思います。
そうしないと、正しい歴史を教える教師自体がいません。
青田さんへ
黒田裕樹 確かにおっしゃるとおりですね。
私の講座には同年代の方々も多く参加されておられますし、地道な行動をしていけば道は開けると信じております。