ベネタリアン的非対称性の評価の仕方

ベネタリアン的非対称性の評価の仕方


デイヴィッド・ベネターが自身のアンチナタリズムの基底の一つとする価値論的な基本的非対称性について、極めて多くの誤解や混同が見られる。それも、それの意味することを丁寧に説明してあるベネターの著書を読んだものの間でさえである。

この非対称性はベネターのアンチナタリズムにとって不可欠なものであり、これを退ければアンチナタリズムという結論を回避できる、という考えがまず最初の誤解であるが、この非対称性を退けることに成功したと考えているものの多くも、実際はそもそも非対称性の意味を正しく理解してさえいないため、ここでは、その正しい理解を説明したうえで、それを退けることがいかに困難かを示したいと思う。


I. 基本的非対称性


I-1. 誰にとってどう悪い/良いのか


まず、基本的非対称性の説明からおさらいしよう。ベネターは、快と苦の間には、ほとんどの人が受け入れる非対称性が存在していると考える。それは、義務論や功利主義など、具体的な倫理学的立場を仮定しているものではない。その非対称性とは、快と苦が存在する場合を比較したときには、「苦痛の存在は悪い」そして「快の存在は良い」と判断されるため、それらの間には対称な関係が成り立つが、不在の場合「苦痛の不在は良い」一方で、「快の不在は、それを失うものがいない限り悪くはない」となり、その関係が成り立たないということを指している。

下の図1がその基本的非対称性と呼ばれる快と苦の価値論的な非対称性を表したものだ。

図1 基本的非対称性

まず、ここでの悪い(bad)や良い(good)が、どういう意味を持っているのかを理解する必要がある。よくある誤解は、ベネターは苦が少なく快の多い世界の方が理想的だ、という主張をしようとしているのだ、というもの。すなわち、存在を得るもの自身にとっての悪いさ良さではなく、非人格的(impersonal)な評価をしているのだと。しかしこれは誤りである。ベネターはそれについてこう説明している

私が意図していたことを明確にすると、私は非人格的な評価は行っていない。そうではなく、存在を得ることは、存在を得るその人の利益になるのか、それとも存在を得ない方が良い(better)のか、ということを考慮しているのだ。私が関心あるのは、彼が存在しない方が世界はより良い場所であるかどうかよりも、存在を得ることがその人にとって良いか悪いか(better or worse)ということなのである。

そして、存在しないものにとって良いという考えは意味を成さないのではないか、という主張に対しては:

誰かが存在を得ていなければ、それによって恩恵を受ける実際の人はいないというのは明らかだ。しかし、その言い回しがより複雑な考えの簡略と理解することで、ある人にとって存在しない方が良い(better)ということができる。そのより複雑な考え方とは次のとおりである:我々は可能な2つの世界、すなわちある人が存在する世界と存在しない世界を比較している。これらの可能な世界のどちらがより良い(better)かを判断できる1つ方法は、一方の(そして唯一の)世界に存在する人の利益を参照することだ。明らかにそれらの利益は、その人が存在する方の可能な世界にのみ存在する。しかし、これは我々の判断や、彼が存在する可能な世界においての人物の利益に照らし合わせてそれを行うことを排除するものではない[see Benatar 2006, p. 31 (and p. 4)]。

答えている。より簡単な説明としては、すでに存在しているものにとって、もし存在を得ていなかったら、存在を得たことによって経験することになった苦痛は回避することができただろうということであり、この事実を考えれば、この評価が正当なものであることがわかる。

そしてもう一つ、苦が存在しないことが良いと言うとき、それは苦の不在が内在的に(それ自体が)良いということではなく、苦が存在する場合と比べて、存在しない方が比較的に良いと述べているのだ、ということにも注意しないといけない。

I-2. 評価のしかた


次に、この非対称性を評価する正しい方法を理解しないといけない。最もナイーブな誤りは、苦の存在にマイナス、快の存在にプラスの重みづけをして比較し、何らかの仕方でそれらの量を測り、結果的にプラスになれば存在を得ることは良いことである、という判断の仕方をすることだ。

このやりかたは何の意味を成さない。快と苦は符号の違う同種のものではないため、ナイーブに足し算引き算できるものではなく、生のクオリティの評価はもっと複雑なものである。それに、ある程度の苦痛を経験すれば、たとえその後にどれほど心地良い経験があろうと、それを埋め合わせることは出来ない。

正しい評価の仕方は図2のように

(1) 苦の存在 ⇔ (3) 苦の不在
(2) 快の存在 ⇔ (4) 快の不在

と比較することだ。

図2

苦について比較すれば、当然存在しない方にアドバンテージがある。さらに、快について比較しても、存在するものの快は存在するものが快を得られないことに比べれば良い(better)だけであり、存在しないことで快を感じていないことに比べてアドバンテージがあるわけではないため、結論として、存在を得るより得ない方が好ましいと言える。

ここで、なぜ(2)「存在を得た場合の快の存在」が、(4)「存在を得ていない場合の快の不在」よりもアドバンテージがあると言えないのかということ、そして始めにも少し触れた、なぜ(3)「存在しないものにとっての苦の不在」が良いと言えるのかということが、理解の不十分な読者の批判を集める点である。

それについて誤った読者は、ベネターは論理的に独自の価値基準を導入しようと試みながら、快と苦について対称な扱いをしておらず、いかさまな論証をしているといった批判をすることがあるが、これは単に読者がベネターの主張を正しく理解していないだけである。

ベネターはこの価値論的非対称性を、厳密に証明しようと試みているわけではない。彼は非対称性を受け入れなければならない理由として、次のように説明している

その価値論的非対称性を受け入れなければならないということを、決定的に証明することは困難だ。しかし、我々がそれを受け入れるべきである理由が相互に結集している。それらが集合的に非対称性を受け入れるべき理由を提供すると考えるために、個々の理由のどれかが単独で、価値論的非対称性に関する打ち破ることの出来ない証拠を提供すると考えなければいけないわけではない。

その相互に結集する理由の一つとして挙げられるのが、基本的非対称性によって統一的な説明を与えられる、次に述べる一般に受け入れられている別の非対称性である。


II. 4つの非対称性


II-1. 基本的非対称性の説明力


基本的非対称性を認めなければならない理由の一つとして挙げられるのが、一般に受け入れられている以下の4つの非対称性である:

(i)生殖の義務の非対称性―苦しむ人々を生み出さない義務はあっても、幸福な人々を生み出さなければならない義務はない。

(ii)将来の利益の非対称性―子供を作ることを、それによって利益を受けたいという子供の意志を理由にするのは奇妙である一方で、潜在的な子供の受ける害を理由に、子供に存在を与えるのを回避することは奇妙なことではない。

(iii)回顧的な利益の非対称性―苦しむ子どもを生み出すことも、幸福な子を生み出せなかった場合も、ともに後悔する対象となりうるが、本人のために後悔できる/気の毒に思えるのは苦しむ子供を生み出した場合だけであり、幸福な子供を生み出さなかったことで、本人のために後悔できる/気の毒に思えることはない。

(iv)遠隔地の苦しみと幸福の不在の非対称性―苦しみに満ちた異郷の地の住民について悲しく思うことはあっても、誰も存在していない場所に、そこに存在し得た幸福な人がいないことを、彼らのことを思って悲しく思ったりはしない。

これらの非対称性は一般的に広く受け入れられたものであり、ベネターの基本的非対称性によって統一的に綺麗に説明されることが見てわかるはずだ。逆に言えば、基本的非対称性の価値判断を変更することで、これらの認識と大きく矛盾する判断を導くことになる。つまり、これらの判断の根底には、ベネターの基本的非対称性があるはずなのである。

もちろん、この見方に対する批判もある。ただし、ベネターの基本的非対称性の意義を受け入れないで済ませるために行うべきことは、―苦痛にも良さがある!という根性論などではなく―これらの4つの非対称性をベネターの基本的非対称性に頼らずに説明するか、それともこれらの非対称を退けてしまうかであることがわかるだろう。

II-2. 積極的義務と消極的義務による説明の試み


この4つの非対称性の基盤として基本的非対称性が持つ役割を否定するために行われる定番の主張は、まず(i)生殖の義務の非対称性―苦しむ人々を生み出さない義務はあっても、幸福な人々を生み出さなければならない義務はないという見方―に対して、別の説明が与えられるのではないか、というものだ。私たちに苦しむ人を生み出さない消極的な義務はあっても、それに対応する幸福な人を生み出す積極的な義務はないからではないか、というものである。

しかし、中には積極的な義務を肯定する人もいる。それでも、そのような人々の間ですら、幸福な人を生み出す義務があると考えるものは少ないだろう。その理由として、快を増やす義務が成り立つのは重大なコストを必要としない場合であり、生殖には多くのコストがかかるからではないか、という反論も考えられる。

だがこの主張の問題は、結局自身へのコストが十分大きくなければ、幸福な人間を生み出さないことは間違いだということになってしまうということだ。つまり、子供を作り出せるなら、そうしないものは非道徳的であるとみなされてしまうことになるのだ。

もし、不幸な子供を生みださないことと同じくらい、幸福な子供を生みださなければならない理由が本来強いものである、すなわち生殖の義務に対称性があり、それを生殖に伴うコストが阻害しているだけであるというのであれば、そのコストが不幸な子供を生みださないことと同じくらい強いものでないといけない:

...したがって、「幸福な子供」の将来的な親が、自分たちが生殖をしないことを正当化するのに、単にその子を持つコストを引き受けたくない、というだけでは十分ではない。なぜなら、「不幸な子供」を生みだす将来的な親が、生殖をしないことは彼らにとってあまりに大きな犠牲となるから、というだけで彼らの生殖を正当化できないだろうからである。

つまり、積極的な義務を肯定するものですら生殖の非対称性を受け入れるだろう理由の説明に関して、ベネターの基本的非対称性の方がより強い説明力を持っているのだ。

II-3. 対象の有無による説明


次に(iii)回顧的な利益の非対称性および(iv)遠隔地の苦しみと幸福の不在の非対称性に関する代わりの説明として良く見られるのが、デイヴィッド・ドゥグラツィア(David DeGrazia)なども試みているもので、それらは害や利益を被るものが存在するかどうかで説明できるというものだ。

つまり、 (iii) でも(iv)でも、それらの非対称性が成り立つのは、それらのケースでは苦しむ子供/遠隔地の人々がいるため気の毒に思うことは意味を成すが、気の毒に思う幸福な子供/遠隔地の人々が存在しないことから、彼らについて気の毒に思うことは意味を成さないためである、ということである。

この主張の問題は、まずこれでは(i)、(ii)について全く何も説明できないことである。そのため、ベネターはこう述べている

よって、価値論的非対称性に頼らずに(iii) 、(iv)を説明することを模索するものは、価値論非対称性の統一的説明力を失うか、(i)および(ii)を退けないといけない。どちらも代償となる。 

そして、もし(i)および(ii)を退けることなく、利益を与えるより害を避けることにより強い義務が存在するということを何らかの別の説明によって与えるなら、この主張はベネターいわく

フライパンから火の中に飛び込んでいるようなもの

となる。なぜなら、これによりベネターの基本的非対称性を退けられたとしても、利益を与えるより害を避けることにより強い義務が存在するという見方と組み合わせれば、この議論は結局アンチナタリズムを導くことになるためである。

Further reading:

種々の非対称性に関する議論は他にも多く成されているが、関心がある人は
Every Conceivable Harm: A Further Defence of Anti-Natalism
および
それでも、生まれてこない方が良かった ― 批判への返答 by デイヴィッド・ベネター
を参照してほしい。大抵の人が思いつきそうな誤解や批判はすでに処理されている。

III. その他の説明


III-1. シックさんとヘルシーさんのアナロジー


ベネターの基本的非対称性において、(2)「存在を得た場合の快の存在」が、(4)「存在を得ていない場合の快の不在」よりもアドバンテージがあるというわけではない、ということを理解させるために、ベネターは4つの非対称性だけでなく、あるアナロジーを用いても説明している。これはとても分かりやすい例えで、著書でも十分説明されているため、簡単に概略だけ述べる。

さて、病気にかかりやすいが幸い素早い回復力を持つシックさんという人と、素早い回復力は持たないが決して病気にかからないヘルシーさんという人がいたとする。

シックさんにとって回復が早いという能力はもちろん良いことであるが、その能力はそもそも病気にならないヘルシーさんからすれば良いものではない。

つまり、シックさんにとっては、早い回復力はないよりも良い(good)ものであるが、それがないことによって何も失うことはないヘルシーさんにとっては、それがなくとも悪くはない(not bad)。よってその能力を持つシックさんの状況は、それを持たないヘルシーさんよりアドバンテージがあるわけではない。

これが、快の不在はそれを失うものが存在する場合には悪いが、そうでない場合、快の存在と比べても、悪いわけ(worse)ではないということのアナロジーである。

III-2. 除去的役割としての快


上のアナロジーより、もう少し具体的な議論もある。

それは、快や利益とは(少なくとも部分的に)苦や害を取り除くことによって得られるものであるから、苦や害が存在しなければそれらの必要はなく、存在しない苦や害の除去が存在しないことを悪いという主張が意味を成すと考えるには無理があるだろうというものだ。

これに対し、利益は除去的利益(relief benefit)と内在的利益(intrinsic benefit)に分類することができ、価値論的非対称性は内在的利益について適用されるものだという返しも考えられる。しかしそれでもまだ問題がある。除去的利益と内在的利益の区別は全く明確なものでないからだ。 人間関係によるものなり社会承認などによるものなり、なんでも良いが、対称性の支持者が純粋な内在的利益として挙げるものすべてが存在しない人生を考えて見れば、それが極めて退屈で苦痛のあるものであることがわかるだろう。

利益の除去的効果というのは、すでにある欠乏を埋めるだけでなく、新たに欠乏―したがって苦痛―が現れないようにする予防的効果も含んでいるのだ。そのため、純粋な内在的利益と除去的利益を区別することは実際には極めて困難なのである。

この立場のうち、選好を利益として見たChristoph Fehigeによるanti-frustrationismに従えば、満たされた選好は、選好が存在しないことに比べてより良いわけではないことになる。彼は

例えばシドニーオペラハウスから一番近い木を赤く塗り、ケイトという少女にシドニーオペラハウスから一番近い木が赤いことを望むようになる薬を与えたとしたら、彼女の望みが叶うことは、そもそもそんな望みがなかった場合に比べて何ら良いことはないだろう

と議論する。

そしてベネターは、これは選好だけでなく、必要などの場合についても同じように言えるとし、こう述べる

必要が満たされることが良いのは、その必要が存在する場合だけだ。

そして仮に除去的利益とは完全に区別できる内在的利益が存在したとしても、少なくともそれは、直感的に考えられているものより遥かに少ないものになり、それに対称性の議論を適用しベネターの基本的非対称性を退けようとしたところで、存在を得ることに好意的な判断を下すに十分な利益の可能性は手元に残らないだろう。



以上、ベネターの基本的非対称性の意味することについての簡単な解説である。本来、彼の著書をバイアスなしに見れば、この程度の主張は理解できるはずである。まして、「ベネターは非対称性の論証でいかさまをしている...」などと主張し、自身の不誠実さをベネターに反射させるような愚かなことをする羽目にはならないだろう。

そして、「存在を得ていないものについて良し悪しは判断できない...」とか「幸福がないことは悪いことだ...」などと的外れな議論をして、一生懸命その議論を土台に新たな対称性をこしらえても、それを現実の価値判断に適用した途端、「全ての人間は出来る限り子供を生む道徳的義務がある!」、「生命のいない惑星はなんて気の毒なんだ!」、「バイオテクノロジーによってどれだけ悲惨な存在を生み出しても、道徳的に全く問題ない!」など、アンチナタリズムよりはるかに反直観的かつ恐ろしい帰結を増産することになるだけだ。

そして、仮に非対称性の議論を退けられたとしても、(ベネターの主張するものだけに限っても)アンチナタリズムを支持する議論は一つではなく、子を生み出すことは道徳的に間違いであるという結論を退けるためには、それらも個別に対処する必要がある。

その他、アンチナタリズム一般に関する質問や挑戦への返答は『アンチナタリズムFAQ - よくある質問と返答』を参照してほしい。


~K-Singleton


アンチナタリズム一般と自殺の関係については『アンチナタリストはなぜ自殺しないのか』を参照

エフィリズム/アンチナタリズムについてのさらなる議論はこちらから

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