■芸名・渥美清の由来 結核で療養所に入っている時に、空気の綺麗な渥美半島のお花畑が頭に浮かんでねぇ。 渥美半島の清い空気にあこがれて、"渥美清"って付けたんですよ。 | これは「男はつらいよ」で一躍スターとなった渥美清が、若い時分にインタビューで答えた 内容である。このエピソードが多くの追悼本に引用されたらしいが、実際はこれは間違いである。 いや、間違いというより事実ではない。何故なら、渥美清は結核で入院する以前から"渥美清"の芸名 で浅草の舞台に上がっていたからである。本当の芸名の由来は次の通りである。 駆け出しの頃、たまたま小説を読んでいたら"渥美悦郎"という主人公の名前が目にとまり、それを 拝借した。 | しばらくは"渥美悦郎"で舞台を勤めていたが、ある日舞台に上がる直前に支配人か誰かに「悦郎は語呂が悪いから 清に変えた方がいい」と言われ、その場で"渥美清"が誕生する事になったという。しかしこの実話より渥美半島の話の方が カッコ良くてドラマチックである。今となっては伝説であるが、渥美清は何故こんな作り話をしたのだろうか。 渥美清という人はイメージを大切にする人だったのか。イメージというのは"らしさ"である。渥美清らしさ、 車寅次郎らしさ、らしさにも色々あると思うが、私生活の事は親しい仕事仲間にもほとんど明かさなかったのは、 この"らしさ"を守る為だったのではないだろうか。付き人さえも渥美半島の話を真実だと思わせた渥美清。 それ程までに"らしさ"に大きな価値感をもっていたという事だろうか。 役者は役を演じきって初めて役者となる。それによってお客に夢を売るのが商売である。夢を売る為には イメージが大事である。渥美清にすれば「男はつらいよ」シリーズは一本の長篇映画であり、完結篇まであらゆる 意味での役作りに専念したのだろう。 「男はつらいよ」の事をいつも同じ内容などと批判する人達がいたが、20年以上も同じキャラクターをイメージを 変えずに持続させるには相当の精神力が必要である。いつも同じ顔をして、いつも同じ髪型で、いつも同じ雰囲気で・・・。 これはシナリオを作る人にしても別な意味で同じである。それを考えると、二枚目俳優がイメージチェンジと称してガラッと 自分を変える事の方がよっぽど楽な事なのかも知れない。芸名の由来さえ誤魔化した渥美清は、役者としての建前を生涯貫き 通した本物の役者である事は間違いない。 ■初めて見せた心の素顔 渥美清は「男はつらいよ」の最終作品となった第48作「寅次郎紅の花」で、NHKの取材に応じている。それまでも取材依頼は 何度もあったらしいが、当然のように断り続けていたらしい。この取材は第48作のロケ現場に張りつくというものであり、 その中には渥美清への単独インタビューもあった。 その取材番組は「寅さんの60日」というタイトルでNHKのクローズアップ現代で 放映され、さらに「渥美清の伝言」というタイトルで再編集され、平成11年に再び放映された。番組中、渥美清が車寅次郎の 格好でインタビューに応じ、自分の胸の内を話している姿があった。 (以下、枠内は「渥美清の伝言」より引用) 絞ってると言うよりも、そうあんまり他の事をしたくない。アッチコッチそうできないしね。もう精一杯だ、 これ(寅さん)だけで。あんまり器用じゃないんだろうね、そういった意味では。 | まあ、言ってみれば、面白おかしく過ごさせてもらったね。これが何かのセールスマンなんかだったら、 もっともっと生きる悲哀とか、朝起きるつらさだとか、色んなものを感じたろうね。そういう事をしてる人達よりは、 遥かに面白おかしくさせてもらったんじゃないかしら。 | だから本当は、一番いいのは、その人が幾つだか歳もわかんないみたいのが一番いいやね。僕なんか観る側 としては、あんまり細かいインタビューとか、あんまり細かい記事なんかでもって、その人がどこどこの出身で、 どこでどうで、歳が幾つでなんて言うとげんなりしちゃうもんね。うん、歳なんかむしろわかんない方が いい。それから、どんなとこで生まれて何してきて、どういう風になったんだかわかんない方がいい。そんな事より、 何が何だか分かんないんだけど、「何してた人だろう。これやる前、泥棒かなんかやってたんじゃねぇかなぁ」って 感じがするような人がオモロイねぇ。 | 単独インタビューでは上のような話がいくつかあった。山田洋次監督はこの番組中、これらの発言は後で考えてみると 遺言に聞こえると言った。確かにそうかもしれない。車寅次郎を演じるようになってから、渥美清はあまりメディアの 前ではこの手の話しはしておらず、テレビを通じて自分の胸の内を明かすのはこの時ぐらいしか チャンスはなかったのではないか。渥美清はNHKからのインタビューの依頼があった時、「もういいんじゃないかな」と 言ったそうである。つまり、もう素顔を隠す必要はないだろう、もう寅さんの大変さをさらけ出しても いいだろう、そういう意味だったのではないだろうか。そこまで覚悟を決めて取り組んだ第48作、 何度考えても心が痛む話である。 このインタビューの中で一番印象に残ったのは次の言葉である。 寅さんが、手を振り過ぎていたのかな。愛想が良過ぎたのかな。スーパーマンが、撮影の時に見てた子供達 が、「飛べ飛べ、早く飛べ!」って言ったって言うけども、スーパーマンやっぱり2本の足で地面に立ってちゃ いけないんだよね。だから寅さんも、黙ってちゃいけないんでしょ。24時間手振ってなきゃ。ご苦労さんな こったね。飛べ飛べって言われても、スーパーマン飛べないもんね。針金で吊ってんだもんね・・・。 | この言葉で見えるのは、渥美清は車寅次郎であり続ける為に、限界まで全力で"らしさ"を作り出していたという事である。 全ては作り事である。この作り事の重さは作品数が一つ増える度に重くなっていったに違いない。私はこの言葉で、"渥美清"と いう殻に包まれた内側に、もう一人の人間がいる事を感じた。渥美清が一人の人間として語ったこの言葉、私はこの言葉を生涯 忘れる事はないだろう。 それにしても何故そこまでして車寅次郎を演じ続けたのだろうか。ファンの為、映画会社の為、そしてお世話になった人達 の為、もちろんこれらの事もあるだろう。仕事だからと言えばそれまでかもしれない。しかし私が思うに、 車寅次郎を誰よりも愛していたのは、他ならぬ渥美清自身だったのではないだろうか。 車寅次郎、渥美清はこれからもファンの心の中で生き続ける。 |