49.自覚と優先
布の擦れる音、緊張に乱れた息遣い、紙を引っ掻くペン先。どれも小さな音のはずなのに、現状に神経が研ぎ澄まされているせいか、さっきからいやに耳に突く。
鼓動が早いのは本人以外に知り得ない事ではあるが、あまりに耳元でドキドキと音を立てているから周りにも聞こえてるのではと錯覚してしまう。勿論そんな事はあり得ないのだけど。
「ヴィオちゃん、手が止まってるけど、どこか分からない?」
「え?あ……大丈夫よ、問題ないわ」
問題は、ない。むしろ色々と良い方向に転がっている気さえしている。これなら前回よりも楽に良い点がとれるだろう。
そっか、と一点の曇りもない笑顔で頷く姿はいつも通り。基本的にユランはヴィオレットの言葉を全面的に信じる傾向にある。
だが現状では、そのいつも通りが多大な違和感となるのだが。それに関しては大丈夫ではないし、問題大有りだ。それに気が付かないほどユランは鈍かっただろうか……と思案するが、ヴィオレットも基本的にユランの事を疑わない為あまり意味はなかった。
ただ、それでもこの場所このメンバーには疑問を抱かざるを得ない。
「ヴィオレット、そこは多分文章の変更がある。担当教師は確か……」
金色の髪が目の前で重力に従い垂れ下げる。その指先が示すのはヴィオレットが取り組んでいるプリントだ。
正しくは、ヴィオレットが借りている、過去のテスト問題。
自分が置かれている状況を、ヴィオレットはきちんと理解している。重々理解した上で、あえて言わせて頂きたい。
どうしてこうなったのだろうか、と。
× × × ×
始まりは、ユランがヴィオレットをテスト勉強に誘いに来た事だった。
その時はなんの疑問もなく、むしろ自分に過去のテストを借りている身なのだから当然だ。もうヴィオレットには必要ないので譲ってしまってもなんら問題ないのだが、それはユランが頑なに遠慮……最早拒否に近い勢いなので、未だヴィオレットの手元で燻っている状態だ。たかがプリント数枚、学園に置きっぱなしにするだけなので別に構わないが、自宅で復習したりする時不便ではないのだろうかと心配はしている。
実際は、ヴィオレットと一緒でなければユランは自習などしないので問題ないのだけど。
そんな彼と図書室に通って数日。
いつもの様に人の少ない場所を見繕うつもりだったヴィオレットに、ユランがある提案を持って来た。
「去年の二年生のテスト問題を持っている人に借りれるよう約束してきたから、今日はそっちで勉強しよう」
「え……」
去年の二年生、つまり現在の三年生。
そんな当然の事を飲み込むに随分かかった様に思う。戸惑っているヴィオレットにユランはただ笑みを浮かべ、急かす事はしないが特別説明がある訳でもない。
ただじっと、それこそ忠犬の様に、ヴィオレットが紡ぐ言葉を待っている。
静けさに包まれた空間に、ユランが伝えたい全ては済んだのだと気が付いたヴィオレットは、呆れと諦めが混ざったため息を吐いた。
「……ユラン、三年生に知り合いがいたのね」
いや、知り合いがいる事は知っているけれど、ヴィオレットの想像する人物にユランが接触する図は想像出来なかった。ヴィオレットに対しては穏和な態度を崩さないけれど、その姿だけでユランの全てを知った気になるほど浅はかではない。
ユランが、クローディアを得意としていない事くらい、ヴィオレットだってよく知っている。二人の間柄が複雑な事だけなら学園中が何かしら感じ取っている事だろう。
その延長なのか、ユランはあまりクローディアの同学年、つまり現三年生とはあまり交流がない……少なくとも自分は今日の今までそう思っていたのだが。それは思い違いだったらしい。よくよく考えると人当たりの良いユランの交遊関係は学年を跨いでいてもなんら不思議はない。
「まぁ、ね……」
「……?」
「それじゃあ、行こう。多分向こうはもう着いてると思うから」
「そうね……お待たせしたら申し訳ないもの」
一瞬翳った表情は、すぐに穏やかさを取り戻して、人によっては見間違いだと素通りしてしまう様な変化だが、それを見逃す様な間柄ではない。
そして仮に追及したところで、決して答えてくれないだろうことも、ヴィオレットはよく知っている。
どうせ行けば分かる事だろうと、気にしていなかったのだが。
進む道の先にある部屋を想像出来る様になって、それが確信に変わって、信じられずに何度もユランを見上げたがそれに対しての返答はない。
斜め後ろを歩いているとはいえ、ユランがヴィオレットの心情を察せないはずはない……つまり、分かっていて説明するつもりがないのだろう。
到着したのは、生徒会室だった。
そして現在、生徒会所持のサロンにて、ヴィオレットは真っ先に候補から外したはずのクローディアに勉強を見てもらっている。
本当に、どうしてこうなったのだろうか。