66 最終選定1
(ついにきた……)
リズは唇を噛みしめた。足に重りがついて、地の底まで落ちていく気がした。
ここで選定に落ちる。
(……嫌だ)
心の底から込み上げてきた感情の激しさに、自分でも驚いた。
次期聖女になりたかった。それはもちろんこの世の不公平を、理不尽さを何とかしたいという思いも、もちろんあった。
けれど「聖女」になれたら、たとえ平民でも「王太子」と釣り合いが取れるのではないか、とも思ったからだ。
この国の聖職者は神官含め聖女も、婚姻も恋愛も可能である。現聖女は自分の意思で一度も結婚していないが、その前の聖女は結婚して子供もいたと聞いた。
とても、そこまでは望んでいない。だが、たとえ少しだとしても今の立場よりはキーファに近づける。そう願ったからだ。
行き場のない思いを噛みしめるしかない。すると、
「リズ……」
キーファが呼びかけてくる口調の重さに、驚いた。キーファは知っているのだ。リズの扉がなくなり、選定に落ちる事を。ただの平民に戻って村へ帰らなければいけない事を。
リズは強く両手を強く握りしめて、うつむいた。込み上げてくる気持ちは果てしなく苦い。
キーファの顔が見られない。きつく目を閉じた。
「リズ」
おかしい。キーファの声がやけに近くで聞こえる。リズの顔のすぐ横、いや下からか。
好奇心に負けて目を開けた。するとすぐ前にキーファの顔があって、小さく悲鳴をあげそうになった。
キーファが下からリズの顔をのぞき込んでいたのだ。
(またか)
クセなのか。ちょっと悔しくなったところで、キーファが微笑んで言った。
「俺は王太子をやめるよ」
(は?)
「殿下、何を言いだすのです!?」
背後で重臣たちが目を剥いた。
「弟に、次期王位を譲ろうと思う」
「殿下――!?」
驚愕に顔をゆがめる周りとは裏腹に、キーファはえらく晴れ晴れとした顔をしている。
「王都内の集合住宅の部屋を借りて、一緒に暮らそう。コツコツ働くのは昔から得意だ。リズは知っているだろう?」
前世のユージンは確かに働き者だった。孤児だったが、世間の冷たい目にも負けず、毎日一生懸命仕事をしていた。身を持って知っている。だが。
前世とは違う。不審そうなリズの表情に、キーファが心外だと言いたげに片方の眉を上げた。
そして、リズの目をまっすぐ見つめて言った。
「今度は、絶対に君を一人にしない。絶対に一人で死なせない。ずっとそばに、一緒にいる。そう決めたんだ」
リズを見つめたまま、優しい微笑みを浮かべた。
「何があろうと」
静かに、けれど一切迷いのない口調で言い切る。
途端にリズの脳裏に、前世で一緒に住んでいた時の事がよみがえった。二人で向かい合ってお茶を飲み、ご飯を食べて一緒に眠った。幸せだった記憶。
胸がいっぱいになった。のどの奥が詰まったように言葉が出てこない。
心の中にあったいくつもの不安の粒が、ゆっくりと乾いた音を立てて消えていく。そんな感じがした。
「聖女を目指すなら、次の聖女選定を目指そう。今からまた五、六十年後くらいに行われるだろう? それを目指せばいい」
「……私、その頃にはおばあちゃんだよ。生きているかもわからない」
「大丈夫、俺もおじいちゃんだ。足腰を鍛えておくよ。リズを神殿へ送り届けたいから。それに俺はリズより先に死なない。リズを看取ってから、俺もあの世へ行く。今度は必ずそうする」
「……私が就任できたとして、その瞬間から次の聖女を決めないと間に合わなさそうだね」
「いいじゃないか。歴史に残る『最短聖女』だ」
顔を見合わせて、思わず噴き出した。
笑うところではないし、全く笑い事ではないとわかっている。
けれど気持ちが明るくなった。「不安」の最後の粒がパチンと音をたてて消えた。
先程までの暗く救いのない気持ちが嘘のようだ。
リズは笑って顔を上げた。
(リズってキーファ殿下とそういう関係だったの? 一緒に暮らそう、って言ったわよ? 絶対に一人で死なせない、って言ったわよ!?)
目の前の光景に、オリビアは心の中で興奮していた。
現聖女が助かって本当によかったと喜んだのもつかの間、突然最終選定が始まってしまった。展開の速さについていけない。
(レベッカは扉を見つけたのかしら……?)
隣に立つレベッカを盗み見ると、レベッカもまたリズたちに釘づけになっていた。
レベッカの着ている深い緑色のドレスの胸元から、ミミズンが首をもたげている。ギョッとしたが、ミミズンの頭もリズたちの方を向いている。
(もしかしてミミズンも釘づけ!? っていうか、そもそも見えてるの?)
意外に野次馬根性なミミズに驚いていると、足元にいるペンギンも「ひょえー」という感じでリズたちに興味津々だった。
オリビアは小さく息を吐いた。
リズの扉は割れてなくなった。粉々になった。次期聖女は、オリビアかレベッカだ。
そして――オリビアは扉を見つけた。
ドレスのスカート部分、その内側についたポケットを探った。指先が、固く冷たいそれにふれる。重いはずなのに不思議と重さを感じない。それは「扉」だからか。
第九塔門の扉に着いていた真鍮製のノッカー。オリビアの扉はそれだった。
キーファの部屋に、兵士が「マノンが現聖女の姿に変わった」と飛び込んできてから、レベッカの部屋へ移動する間に見つけたのだ。
第九塔門の前でペンギンが目を輝かせ、翼と足をばたつかせて反応した。ノッカーが光り始め、小さな鍵穴が出現した。震える手でそこに鍵を差し込むと、ぽろりとノッカーが取れたのだ。しっかりと留められていて、工具がないと取れないはずなのに。
オリビアの手の中で、ノッカーは光を失わなかった。そして今も。
体が震えた。心もだ。だって、これは第一神殿へ入るためのものだ。第一神殿を示唆する、つまりは「聖女」を。それなのに――。
オリビアはポケットの中でノッカーを握りしめた。
それなのに、なぜか自分が次期聖女だと思えないのだ。なぜかと言われればわからない。否定したいのに、自分こそが次期聖女だと喜びたいのに、どうしてもそう思えない。心が否定している。
「もっと他に、ふさわしい者がいるのじゃないか」と。
唇を噛みしめた。以前、候補者のアナが去り際に言っていた。「扉を見つけてわかった。私は次期聖女じゃないって」――。
神官たちが不思議そうに首をひねっていたけれど、今はよくわかる。
(……)
このまま黙っていればいいのだ。自分の気持ちにふたをして、そうすればもしかしたら次期聖女になれるかもしれない――。
『一番でないと意味がないのよ』偽の聖女に言われた言葉がよみがえった。
『二番じゃ意味がないの。その他大勢と同じ。次期聖女になれるのは、たった一人だけなんだから』
その通りだ。二番では意味がない。憧れ続けた聖女の地位は手に入らない。
オリビアはうつむいた。第一神殿では偽の聖女よりリズたち、ひいては現聖女の味方についた。あの時は確かに正しい道を選べたのに、また選ぶ事になるなんて。
偽の聖女のニヤリとした笑みが、まざまざと脳裏に浮かび怖ろしくなった。
「では聞こう。オリビア、レベッカ、リズ。最終選定の条件、自分の『扉』を見つけたかね?」
リズが唇を噛みしめている。そこへ、「はい」と、レベッカが笑顔で手を上げた。神官たちが一斉に振り向いた。
「はい、レベッカ」
「私の扉はありませんでした」
神官たちが驚愕した気配がした。オリビアもだ。
「見つからなかった、という事かね?」
「はい」
驚いた。何を笑顔で言っているのだ。レベッカが続けた。
「見つけられませんでした。だから、もし私の扉があったとしても、神殿ではないのでしょう」
落ちたというのに、自分から落選を告げたというのに、どうしてそんな心から納得したような、すがすがしい顔をしているのだろう。
なぜだか悔しさのような焦りのような感情がわいた。
「そうか。残念だ。リズはどうかの?」
「……私の扉はなくなりました。鏡でしたが、割れて粉々になってしまって、もうないです」
「そうか。残念だ」
神官たちがさらに驚愕した気配がし、そのまま視線がオリビアへと集中した。リズもレベッカもダメなら、残るはオリビアだけだからだ。取り巻く空気が一気に緊張したのがわかった。
「ではオリビアはどうかね?」
「――私は」
皆が息を呑む。オリビアは小さく息を吐いた。
「見つけました」
おおお――!! と空気が揺れた。
「これです」
ノッカーを出した。第一神殿を、聖女を意味するものの登場に、「おお!!」と、さらに神官たちがざわめく。
どうしよう? どうすればいいの!? 焦りのあまり背筋が冷たくなる。
「うむ。これは確かに扉だな。よく見つけた」
ノッカーを検分していた神官長が笑顔になった。
神官たちの間からどよめきがあがる。けれどそれは歓喜の声というよりは、戸惑いが含まれていたように感じた。
彼らの心の内は読める。誰が次期聖女にふさわしいか、誰が次期聖女だったらいいかと無意識のうちに考えていたのだろう。
その誰かがオリビアではなかったのだ。
悔しい。確かに悔しい。けれど――そんな事、オリビア自身が一番そう思っている。
現聖女を治してみせた時の神々しい姿が思い出された。
誰よりも大きな聖なる木を咲かせて、聖竜を生み出した。公爵と偽の聖女をもやっつけて、この国を救った。
周りの批判に負けず、いつでもまっすぐ前を見ていた強く赤い目。
不思議な話だ。この選定が始まった時は、その者が一番次期聖女にふさわしくないと、誰もが思っていたのに。
その考えをひっくり返してみせた。自らの力で――。
泣きそうな思いで足元に立つペンギンを見下ろすと、ペンギンが見つめ返してきた。嬉しそうに両方の翼をばたつかせる。オリビアを一心に慕う黒いつぶらな目。
今、自分に嘘をついたら、私はこの子に顔向けできるのだろうか。
「――神官長様。現聖女様」
気づくと、声を発していた。
何を言おうとしているのだろう。次期聖女になりたかった。子供の頃からだ。それが叶うというのに。このまま黙っていれば叶うというのに。
「私は扉を見つけました」
神官長がうなずく。その隣で、現聖女が微笑んだ。優しい笑顔。子供の頃に見た笑顔と変わっていない。あの笑顔に近づきたかった。黙っていれば近づける。
(――本当に?)
それは本当に近づいた事になるのだろうか。
「……ですが私は、次期聖女ではないようです」
「「は?」」
神官たちの間の抜けた声が響いた。リズもレベッカも、ぽかんとした顔でオリビアを見つめている。
けれど言葉にした瞬間、踏ん切りがついた。そして霧が晴れるように、自分の扉の意味がわかった。
(そうだったんだ)
オリビアが近づきたかったのは現聖女。誇り高くて慈悲深くて皆に愛され、誰にでも優しく、見ず知らずの少女を助けてくれるような、そんな現聖女だ。
オリビアは勢いよく顔を上げた。
「私の扉の意味がわかりました。私は次期聖女ではありません」
「「ええ!?」」
神官たちが驚愕の声をあげる。
「――それは確かかね?」
神官長の鋭い声が降ってきた。オリビアは確信をこめてうなずいた。
「はい、確かです」
少し悲しいけれど、悔しいけれど、今ここで自分の確信に嘘をついたら、偽の聖女と同じになってしまう。
「いやいや、ちょっと待て!」
「レベッカの扉は見つからず、リズのも壊れて存在しないんだぞ!」
変な空気が辺りを取り巻くのがわかった。
皆の心の声が聞こえる。
次期聖女、誰もいないじゃん!? と。
「オリビア、何で……?」
ぽかんとしているリズに、苦笑してみせた。だって、しょうがない。自分の心が確かにそう告げているのだから。
不意に現聖女がベッドから下りた。まだ顔色は悪い。くさびは抜けても、命を取り留めるためにずっと魔力を使っていたはずだから体力を使い果たしたのだろう。それでも何か伝えることがあるというように、オリビアに近づいてきた。
「昔、会いましたね。あなたが子供だった頃に」
オリビアは目を見開いた。覚えていてくれたのか。むせ返るような嬉しさとなつかしさが込み上げてきた。
「あの時は名前を聞けませんでした。でも、もう知っていますよ。オリビア。きれいな名前です」
微笑んだ。一瞬、幼いあの日に戻った気がした。式典が終わり、ケガを治して優しく微笑んでくれたあの時に。
胸が一杯になり、涙が浮かんだ。
あの時、偽の聖女の言う事を聞かなくて本当に良かった。そして今、自分の確信に嘘をつかなくてよかった。自分のした事は間違っていなかった。
たとえ一番になれなくたって、ここまで残った意味はちゃんとあった。もしあの時、そして今、違う道を選んでいれば、今こうやって現聖女に顔向けできなかっただろう。
今、偽の聖女にもう一度会えたら、全力でこう言ってやる。二番だって構わない。頑張っている者を笑うな、と。
「神官長様! 次期聖女が誰もおりません! どうされるんですか!?」
「困ったのう。どうしよう?」
「どうしようって……知りませんよ! もしかして、また選定を一からやり直し!?」
「おい、冗談だろ!」