Ⅴ 星の記憶
5-0 Prologue
――――唐突だけれども。
あなたは『劇的な言葉』というものを、自分に向けられた事があるだろうか。
漫然と過ぎていく日常を塗り替えてしまうような一言であったり、或いは心無い赤の他人に言われたたった一言の嫌味でもいい。
詰まるところ、自分の在り方というものを塗り替えるような、そんな言葉を。
僕――高槻 悠――にとっての『劇的な言葉』と言われて思い浮かぶのは、まず間違いなく「ようこそいらっしゃいました、異界の勇者様がた」というアメリア女王陛下のあの言葉じゃないだろうか。
平々凡々な高校生活を送り、何不自由なければ、自由もないような日々を塗り替えるような言葉だったからね。
――で、あるのなら――――
「――ふふふっ。おはよう、旦那様」
――――目が覚めた僕の隣で、被った布団の下からキメの細かい白い肌を露わにしている女性からのこの言葉。
こうなるに至るまでの記憶さえない僕にとって、これは果たして『劇的な言葉』に当たるのだろうか。
……まぁ、刺激的ではあるんだけれども。
「……何を、しているんですかね」
「何って、この格好見れば分かるでしょう?」
「……僕に分かる事と言えば、何も着ないまま、僕の被る布団に一緒になって包まっているという不可解な状況、としか理解が及びませんけど」
「……? その通りだけど、他に何があるのかしら?」
他に何もない事自体が問題であったりする訳なのだけれど、どうやらこの女性にとってみればそういう訳ではないらしい。
「言い方を変えましょうか」
「あら、愛を囁いてくれるのなら大歓迎よ?」
「……何故『異界の勇者』であるところの僕と、そんな役回りとはまず絶対に分かり合えちゃいけないはずの『魔王』であるあなたが、同衾しているのかを訊いてるんですがね」
そう。只今僕の目の前で惜しげも無く、隠す事さえするつもりもないとでも言いたげに、白い素肌を曝しながらニコニコと微笑む相手。
ラティクスで出会って以来――いや、僕が今こうして理解できない状況に陥る前。ファルム王国の王都にあるディートフリート劇場の地下で会った相手が、何故か僕と一緒になって一つのベッドの上に寝転んでいる。
魔王――アルヴィナ。
長く艶やかな黒髪に、真っ赤な鮮血を思わせるような瞳。
側頭部から額にかけて、巻き込むように伸びた角を生やした妖艶なる美女。
そんな彼女は、かつて対峙した際の身の毛もよだつような危険な気配を感じさせる事もなく、ただただ僕に――そう、まるで恋する乙女のような潤んだ瞳を愉しげに細めながら、うつ伏せのまま両手を曲げて、顎を載せた。
豊満な胸元が、なんとも僕にとっては刺激が強すぎる気がしないでもないけれども……相手は魔王。混乱とか困惑とかよりまず先に、おかしな動揺を見せてイニシアチブを握られてしまわぬよう、平静を装う。
「ねぇ、旦那様?」
「……え? 僕ですか?」
「ふふふっ、おかしな旦那様」
おかしいのはあなたでしょうに、とはさすがに言えない。
まさか勝手に同衾しておきながら、これを既成事実に僕に結婚を申し込むなんて……うん、ある訳ないね。僕は別にそんな真似をされる程にイケメンでもなければ、モテた記憶だってないし。
「ねぇ、旦那様」
「……やっぱりそれ、僕の事ですかね」
「えぇ、そうよ?」
「……まぁ言いたい事はたくさんあるんですが、話が進まないので一度いいとして……。で、なんですか?」
いい加減、話が進まないんじゃ僕としても困る。
けれど――。
一度諦めて聞き流そうとした僕の耳に届いたのは――――
「――私の夫として、私を殺してちょうだい」
――――脈絡もなく告げられた、けれど真剣そのもの。
先程まで嬉しそうに僕に視線を向けていたアルヴィナの表情は一転して、酷く寂しそうに告げられた、彼女の願いだった。
言葉の意味を噛み砕きつつ訝しむ僕を尻目に、アルヴィナはくすりと小さく笑ってみせるなりベッドから立ち上がった。
……やはりというか一糸纏わぬ姿だったらしい。
僕に背を向けたまま、ショーツを履いて漆黒のドレスを着た。
さすがに僕とて、その姿を凝視する訳にもいかずに視線を逆方向へ逃がしてみたのだけれど、布がするすると滑る音に妙な背徳感とでも言うような感情を抱かされてしまっては、冷静に考えられる程の余裕もなかった。
気まずい沈黙を貫いている内に、ドレスを身に着けたアルヴィナは僕に向かって振り返ったらしく、やがて口を開いた。
「別に見ていてくれても良かったのに」
「生憎、僕には刺激が強すぎます」
「かく言う私も初めてだから緊張していたんだけれど、ね?」
「それにしては余裕さえ感じられた気がしますけど」
「そういう風に振る舞わなきゃ、恥ずかしいでしょう?」
……「不慣れならやらなくていいよ」とぼやく僕に、アルヴィナは再びくすりと小さく笑う。
なんというか、この人はどうにもいちいち蠱惑的過ぎる。
自分でも分かる程度に翻弄されている僕は、アルヴィナから視線を外したまま改めて口を開いた。
「それで、さっきの質問の意味ですけど――」
「だーめ。いきなりそんな風に本題に入っちゃうなんて、つまらないわ」
「本題をいきなり告げてきたのはそっちなんじゃないですかね……」
「ふふふっ、私はいいの」
酷い暴論を見た気がする。
ジャイアニズムにも匹敵するんじゃないだろうか。
「ずっと眠っていたんだもの、お腹空いたでしょう? ご飯を用意させるからちょっと待っててね」
「それはありがたいですけど……それより、ここってどこなんです?」
「私達の家――魔王城よ」
……えっと。
レベルが上がらない僕が魔王城にいるって、どう考えても死亡フラグでしかないような気がするんだけれども。
「地下牢とかなら分かるんですけど、ここってどう見ても違いません?」
「それはそうよ。旦那様なんだから、私の寝室に決まってるでしょう?」
「いや、何がどう決まって当然なのか、さっぱりですけど……」
――高槻 悠、十七歳。
レベルの上がらない異世界にて、魔王に拉致られました。
ちょうど僕が目覚めたのは明け方だったらしく、魔王アルヴィナは自ら運んできてくれた。
部屋のテーブルに置いて僕を手招き。
空腹には抗えず、当然ながらにこの状況で逃げようにも幼女にも劣る僕の運動能力では、あまりに無理があり過ぎる。
大人しく向かい合うように座った僕を見ながら、アルヴィナは相変わらず楽しそうな様子で朝食を食べている。
朝食のメニューは、ファルム王国とそう変わる訳でもないらしい。
もしもゲテモノ料理でも出て来ようものなら、きっと僕は空腹と戦う道を選んでいただろうし、良かった。
食事をしながら、ちらりとアルヴィナを見やる。
見た目だけなら、二十歳前後といったところに見える美女。
エキドナのような妖艶さも今は鳴りを潜めていて、さっきから食べ物を食べながら美味しそうに目を細めたりと、どちらかと言えば近所のお姉さんといった空気を纏っているような、なんとなく親しみさえ持てる。
食べるものも同じで、ただ角があるだけしか、そう僕らと違いがあるようにも思えない。
じっと見ていた僕の視線に気が付いたのか、アルヴィナはにこりと微笑んで僕を見つめて小首を傾げた。
「どうしたの?」
「……ちょっと考え事を」
「考え事? 何かしら?」
「癖みたいなものなので、気にしないでください」
「むぅぅ~……。ケチ」
――魔族って、一体どんな存在なんだろうか。
僕の脳裏に浮かんでいる疑問は、目の前のアルヴィナを見れば見る程に大きくなっているような気さえする。
例えばアルヴィナが、ゲームやラノベ、アニメや漫画で描かれるような悪意の塊だったのなら、僕はこんな事を今更ながらに疑問に感じたりもしなかっただろう。
ラティクスで出会った二人――男勝りな口調が特徴的だったアイリスも、エイギルもまた、ただの悪意の塊と判断できるような相手とは思えなかった。
……まぁ、アイリスはちょっと手のつけられない感じがあったのは事実だけども。
ともあれ、今こうして目の前に座っているアルヴィナを見ている限り、お世辞にも世界を目的もなく混沌に陥れ、脅かしている存在であるとは到底思えない。
――いや、思えなくなってしまった、というのが妥当かもしれない。
立場上、敵。
対立してきたからこそ、僕は魔族と相対してきた。そういった大前提があったからこそ、僕は魔族をあまり知ろうとはしてこなかった。
エキドナの時も、ファムが病魔をばら撒こうとした時も、ラティクスでのぶつかり合いも。看過できる問題じゃなかったからこそ、僕は首を突っ込んできた。けれど、恨みがある訳でも戦う理由がある訳でもない。
――そこに感情が含まれてしまえば、どうなるのか。
それがなんとなく理解できていたからこそ、僕は魔族を知ろうとはしなかったというのは否めない。
元々、知らないから感情移入せずにいられた。
自分の目で見極めるだとか、そんな凛々しい事を考えている訳でもない僕にとってみれば、この状況はなんというか……今後敵対した時に、情が湧いてしまう可能性さえある。
「――旦那様は、私達魔族がどういう存在か知らないでしょう?」
不意に、アルヴィナは僕に向かってそんな言葉を告げてきた。
顔を見ても僕の目を見ている訳でもなく、並べられた朝食をフォークの先で転がしていて、さながらただ独り言でも呟いているかのように彼女は続ける。
「私達はより良い暮らしを夢見て、時には慢心してみたり迷ってみたりもする。もちろん、魔族の全てが大人しい気性をしている者、という訳でもないわ。でもそれは、あなた達にも、この世界に生きる全ての者に言える事」
「……つまり、僕らと魔族はそう変わりはない、と?」
「えぇ、普通なら、ね。でも、私達とこの世界に生きる者とでは、明らかに――決定的に違うものがある」
アルヴィナの纏った空気が、優しげなものから一瞬にして切り替わる。
「私達――魔族は、『世界の敵』という宿命を背負わされた存在。人と何も変わらないというのに大きな力を与えられ、爪弾きにされ、敵対されてきた者達。人とは決して分かり合う事も、手を取り合う事も許されない、そんな存在」
何が言いたいのか、僕にはいまいち判然としなかった。
判った事と言えば、アルヴィナの瞳に宿った明らかな憎悪と怒りの感情が、何者かに向けられているという事ぐらいだろうか。
ただ、アルヴィナの物言いから察するに、どうやらアメリア女王様やこの世界の人々に対するもの――という訳でもないように思えたのだけは、確かだった。
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