4-20 赫月の一日 Ⅳ
「――ハンナさんは下手に手を出したりしないよう、他の職人の人達に伝えてください。僕はすぐにディートフリート劇場へ向かいます」
状況は切迫していた。
ハンナさんが慌てて報告してくれた、王都内に描かれていた悪戯書と思われていた『空白の時代』の魔導記号が突然発光を開始したという情報。
それが示すところがつまり、魔族によるこの町への急襲の可能性があると説明した上で、僕はハンナさんに指示を飛ばした。
「な、なんでだよ!? 放っておいたら危険だって言うなら、壊しちまえば――……あ」
「えぇ、そうです。破壊しようとすれば膨大な魔力の逆流が襲ってくる可能性があるんです。だから、絶対に手を出さないように」
ラティクスで〈エスティオの結界〉に手を出せなかった理由でもある、魔力の逆流。ラティクスでは大きな魔石の一つで全身を焼く程の痛みであったと考えれば、それが
下手に手を出せば、それこそ普通の人じゃ耐えられないと考えた方がいいだろう。
「アタシはすぐに聖教会に報告しよう」
「お願いします」
短く告げて孤児院を飛び出した僕は――空を見上げて目を大きく見開いた。
「な、んで……」
ついさっきまでは晴天の午後で、青々とした空が広がっていたはずだった。
なのに、今では空は夕暮れが沈んで藍色から闇色に変わろうとしているかのような暗さに変わっていて、空にはどこから現れたのかと言いたくなる程の、巨大で赤い月が浮かんでいた。
ついさっきまではまだ昼下がり――せいぜい十四時程度だったはず。
なのに、たった数分程度孤児院にいただけで、一体何故こんな風に……?
「――『異界の勇者』、ユウ・タカツキ」
突然声をかけられて振り返ると、そこにはいかにも占い師らしくも踊り子の衣装を思わせるような服装をした、口元をスカーフで覆った白い瞳の女性が立っていた。
その特徴はすでに、一度遭遇したという赤崎くんから聞いた通りだった。
「……〈星詠み〉……」
「えぇ、そうです。こうして直接お目にかかるのは初めてですね」
構える僕とは異なり、彼女は一切の気負いすら見せる事なく目元だけで微笑んだ。
「ご安心を。私はあなたと敵対するつもりなどありません」
「魔族に力を貸している以上、僕とあなたは敵対していると言っても過言ではないはずですが?」
「仰る通り。確かに私達と勇者であるあなたとでは、敵と言っても過言ではありません。が、今のあなたは間違いなく私達の仲間ではありませんか。何せあなたは――」
――邪神を宿しているのですから。
そう付け加えると、〈星詠み〉は口元を覆っていたスカーフを外して再び微笑んだ。
「……どうして、それを?」
「読めなかったから、と言えばお分かりでしょうか」
「……読めなかった?」
「えぇ、その通りです。あなたは――あなただけは、私達〈星詠み〉にとっての異質。未来が視えない、唯一の存在です。だからこそ、アビスノーツが視えなくなったのは、あなたの中に彼女の残滓が呑み込まれてしまったから。違いますか?」
「違いますかって言われても、いまいち分かっていませんけど」
「ふふふ、そうですか。その反応で確信しました」
――どうやら僕と〈星詠み〉の相性は、最悪らしい。
短いやり取りで僕はそう確信した。
僕はなるべく相手を逆上させて主導権を握ったりする方が得意だけれど、それは相手が僕を下に見てくれているからこそできるやり口でもある。けれど、この人は一切、まったくもって僕を侮ってくれていない。
自惚れではなくて僕自身を高く評価しているのだろう。
更に加えれば、この人は人を読む事にも慣れている。
多少のハッタリや詭弁を弄したところで、簡単に踊ってくれる気が一切しない。
「さて、ユウさん。私と共に魔王アルヴィナ様の元へと来ていただけませんか?」
「……断ると言えば?」
「いいえ、あなたは断りませんわ。天秤にかけられているのは、この王都にいる全ての者の命と、あなた一人。自身が犠牲となるのなら、あなたはこの条件を呑みます」
分かりきった答えをなぞるような物言いで、あっさりと告げてみせる〈星詠み〉の態度にはさすがに物申したい気分ではあったけれど、それは僕も否定しきれる内容じゃなかった。
魔導陣に下手に手を出すのは難しい。
けれど、僕の変化したスキルならばどうなるのか、それをまだ試していない。
いくら未来を読むかのような存在である〈星詠み〉とて、自分から僕に関しては読めないと宣言している以上、僕にはまだ手があるという事だ。
「ここであなたから逃げて、この王都に仕掛けられている転移魔導陣を破壊すれば、あなたの計画は御破算になるんだけど?」
「……私には戦う力はありませんので、あなたが逃げるというのなら逃げる事も可能でしょう。ですが、未来は変わりません。素直に応じていただいた方が、余程利口な選択かと思いますが?」
「その未来を変えてやろうと思ってるんだけどね」
「そう意気込み、やがて絶望する方は何人も見てきました。諦める方をお薦めします」
暖簾に腕押し、糠に釘、柳に風。
そんな言葉が思い浮かぶ程に〈星詠み〉の態度は柔らかなものであって、僕としてもなんだか毒気が抜かれた気さえしてならなかった。
それでもここで油断する訳にはいかないと睨みつける僕に、〈星詠み〉は困ったように眉尻を下げつつ嘆息した。
「仕方ありませんね。――では、どうぞ阻止しに向かってください」
「……は?」
「先程も言った通り、私には戦う力はありません。そのため、あなたが私から逃れようと思えばそれも決して難しくはないでしょう。なら、ここで戦うのは無意味というもの。でしたら、諦めずに足掻いてみせるあなたを止めるでもなく、私は時を待てば良いだけ。どちらを選ぶべきかは自明の理ではありませんか?」
お世辞にも冗談で言っているようには見えないし、後ろを向いたからと言って奇襲を仕掛けてくるなんて真似をするようにも見えない。
だとすると、本当に僕をこのまま行かせるつもりだと考えてもいいのだろう。
早速とばかりに『
◆ ◆ ◆
「いきなり空が暗くなったから、何かと思ったぜ」
「
「この現象のためか、昔は
悠が〈星詠み〉との邂逅を果たしていたその頃、屋敷からディートフリート劇場へと向かっていた真治と祐奈の言葉に、エルナが補足して説明した。
「それにしても、エルナさんが悠くんと一緒にいないっていうのもなんだか不思議ね」
「あちらにはリティをつけていますし、私は私で新しい使用人達に仕事を教えたりと忙しかったものですから」
「ふーん。――ねぇ、エルナさんって悠くんのこと、どう思ってるの?」
「お、おい、祐奈! お前いきなり何を……!」
「いいじゃない。こういう機会がなきゃ、なかなかガールズトークにエルナさんを巻き込むなんて真似、できないんだもの」
唐突に振られたエルナの気持ちに対する祐奈の問いかけ。
真治もさすがは〈発言勇者〉の面目躍如と感心したいところではあるが、あまりにも急過ぎると思わずにはいられなかった。
慌てて止めに入りつつも、返ってくる返答が気になっていた真治がちらりとエルナを見やると、エルナは小首を傾げていた。
「ユウナ様の仰る意味が、いまいち分からないのですが……」
「へ? いやいやいや、意味も何も、悠のことが好きなのかどうかって意味だけど」
あまりにも的外れな反応を見せたエルナに、思わず制止した側であった真治が意味を説明する。
するとエルナは、逡巡した様子を見せるとあっさりと答えた。
「ユウ様を、ですか? そうですね……。放ってはおけない方、でしょうか」
「それって、恋愛感情はないってことですか?」
「恋愛感情、ですか……?」
「そう! 他の女性達と親しげに話していたりする姿を見ると胸が苦しくなるっていうか、もやもやするとか、そういうのです!」
熱くなって語る祐奈の言葉を聞いて、エルナはぴたりと動きを止めた。
「……そう、ですね。なんだか落ち着かなくなるとか、そういった事は何度かありましたが、ラティクスに行ってしまわれた時の方がそれは強かったですし……。そういった点も考えれば、やはり放っておけないというのが正しいかと」
「あっちゃ~……。エルナさん、そういう経験ないんだね……」
「はい?」
「エルナさん、気付いてないんですね……。それ、好きって感情の一歩手前の感情ですよ?」
「……え?」
祐奈の言葉は当然ながらにエルナにも理解はできた。
過去に聖教会へと自ら飛び込んだエルナは、〈男嫌い〉という称号にもある通りに男性を拒絶する傾向があった。
それでも悠に対してそうならないのは、あくまでも悠が自分より年下で、更に言えば根っからの草食系男子っぷりに対してエルナが悠に対して男性というものを意識して来なかったからという経緯があった。
エルナが語った通り、少なからず悠に対しては特別な感情を抱く事もあるのだが、それでさえ「自分が仕えている相手だから放っておけないのだ」と無意識下に自分の心をセーブし続けてきてしまっているのである。
しかし、それはあくまでも建前でしかない。
でなければ、エキドナとの戦いに倒れた悠が目覚めた後や、つい数刻程前の思わずといった抱擁をするような真似をするはずもないのだ。
唐突に向けられた祐奈の言葉に、今更ながらにエルナは自分の心に疑問を抱いてしまった。
――はたして自分は、悠の事を一人の男として好いているのだろうか、と。
その疑問を一度意識してしまえば――エルナは箱入りではないものの、これまでに愛だの恋だのといった感情を持つ事さえいなかった、初心な少女のそれであった。
しばしの沈黙の後に、突然顔を紅潮させながら目を泳がせ始めるエルナの態度に、祐奈は思わずニヤニヤとした笑みを浮かべ始めた。
「あははっ、エルナさん可愛いっ!」
「な、何を……」
しかし、困ったエルナが慌てて何か助けを求めるかのように周囲を見回し、ふと上空へと視線を泳がせたその瞬間――
「あれは……」
「またまたー、誤魔化そうとしたってそうは……」
「ユウナ様、話は後です。ユウ様が町中で『
「悠くんが……? 分かったわ。どこへ向かったか判る?」
「方角からして、恐らくはディートフリート劇場かと」
「おいおい、今から朱里のコンサートがあるんだぞ……! 急ごう!」
真治の声よりも速く駆け出したエルナは、早鐘を打つ自分の胸に手を当てながら小さく続けた。
「――ユウ様。どうか、無理だけはなさらないで……」
エルナの呟く声は、しかし空を駆ける悠の耳には決して届く事はなかった。
◆ ◆ ◆
「――さぁ、いよいよ本番よ」
「朱里、楽しんで」
「ん。朱里ならきっとできる」
「うんっ! ありがと、頑張ってくるからね!」
ディートフリート劇場。
舞台袖に設けられた控室では現在、アシュリーと楓、それに咲良が、これから本番へと向かう朱里を見つめて静かにエールを送っていた。
すでに観客席は満席になり、厳かなクラシックやオペラといったものとは異なる朱里の公演ならではと言うべきか、異例の立ち見客を受け入れているような状態となっている。
リハーサルでは問題が起こりかけたものの、それ以外では特に何も起こらずに無事に済んでいる以上、朱里もすっかり気持ちを切り替えていた。
「そういえば、悠くんとか他のみんな、来てくれてるのかな?」
「判らないけれど、きっと来ているはずよ」
「ん。悠が約束を破ったりするとは思えない」
「そう、だよね……。じゃあ、しっかりと頑張りつつみんなの姿も探してみるよ」
これから大勢の観客の前に立つというにも関わらず、朱里は気負った様子を見せる事もなく笑って告げてみせた。
「じゃあ、行きましょうか」
「はいっ! お願いします、アシュリーさん!」
咲良と楓の二人に見送られ、アシュリーを伴って朱里はステージへと向かって歩き出した。
防音の廊下にカツカツと二人の足音が響く中、朱里は自らの手が小さく震えている事に気が付いていた。
楓と咲良の手前、緊張した素振りを見せて不安にさせてしまわないようにと、気丈に振る舞っていたが、やはりこうしていざステージへと向かうその道で、アシュリーと二人きりになった途端、改めて緊張に押し潰されそうな気さえしていた。
狭まる視界、緊張に激しく鳴動する心臓。
思わずぎゅっと目を瞑ってしまった朱里であったが、ふとアシュリーが朱里の手をそっと握り締めた。
「怖がる必要なんてないのよ、アカリ。あなたの歌声には誰もが魅了されるのだから」
「……スキルのおかげ、ですけど」
「聞いていますわ。でも、いくら【
「……アシュリーさん」
「アカリ。あなたの歌声は不思議。魔族との戦いが激化しているこの時代だと言うのに、あなたの歌声を聞いている時だけは何もかもを忘れてしまえる。それはとても素晴らしい事なの。誰もが心のどこかで怯えていて、心にゆとりをなくしてしまっている。それを少しでも取り除かせてあげたいと、あなたはわたくしにそう言ってくれたのを、忘れないで」
――――異世界にやって来たものの、朱里には力がなかった。
仲の良かった咲良は強さを求め、楓や祐奈はそれぞれに己のスキルを磨く事で活躍を開始する中、朱里だけは自分が進むべき道というものを見つけられなかった。
そんな中、悠がエキドナを倒したというその時も、自分だけは何もできずに、それがどれだけ悔しかったのかを朱里は憶えている。
自らに与えられた、【天使の歌声】というスキル。
何も持っていなかった学生だった自分に与えられたそれを使って、自分にだって何かをしたいと強く決意した、あの日の事を。
故に、朱里は人前ではどうしても緊張してしまうというあがり症を克服しようと、何度も何度もアシュリーに練習を頼み、そうしてゆっくりとではあったものの、着実に一歩ずつ前へ前へと歩んできたのだ。
その成果が、朱里にとってはこのディートフリート劇場という、由緒ある大舞台での公演だ。
だからこそ、皆に見てもらいたいと朱里は思っているのだ。自分にもできる事があるのだと、その一歩をようやく踏み出せたのだと、皆に胸を張って宣言してみせる、その為にも。
いつしか抱いた、小さな誓い。
それを思い出した朱里の手の震えは、すでに落ち着きを取り戻していた。
「ありがとう、アシュリーさん」
「頑張ってくるのですよ、アカリ」
舞台袖に着けば、観客席に座る観客達の話し声が僅かに漏れて聞こえてきている。先程の朱里ならば頭の中が真っ白になってしまいそうな、人の塊が放つ存在感のようなものがすでに溢れ、迫ってきているようにさえ思えるような空気が流れていた。
しかし、朱里の瞳にはすでに不安の色はすっかりと消えていた。
魔導具の調整に携わる職人達や、今回朱里の後ろで演奏をする演奏者達をしっかりと見据えた朱里は、改めて皆へと声をかけた。
「みなさん。今日まで練習や調整に付き合ってくれて、本当にありがとうございました」
まるで全てが終わってしまったかのような挨拶にきょとんとする面々であったが、朱里は顔をあげるなり、眩しい程の屈託のない笑顔を見せた。
「あとは今日、みなさんと一緒に楽しむだけですっ! どうかみなさん、私と一緒に盛り上がっていきましょーっ!」
――大物ね、この子は。
アシュリーは眼前の光景を目の当たりにして、思わず心の中で呟いた。
つい先程まで、自分も不安に煽られどこか頼りなくも見えたというのに、今となってはそんな影があったとは微塵も思わせない。
ディートフリート劇場で演奏するという名誉ある本番を前に、演奏者や技術者達にもそんな色に似たような気配も先程までは確かにあったはずではあるのだが、朱里の持ち前の天真爛漫さと堂々とした態度に、今では朱里と同様に盛り上がってみせているではないか。
「――さぁ、いきましょー!」
朱里の合図と共に、いざ本番へと意識を切り替えた演奏者達が次々に舞台上へと上がり、会場内には割れんばかりの拍手が鳴り響く。
――――その音に呼応するかのように、モーリッツが地下に仕掛けた魔導陣が、そして町中に描かれていた魔導陣が一際強い光を放った事に、この時はまだ誰も気が付いてはいなかった。
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