呪詛10~呪詛の対価:後編 | ハシブト鴉のブログ

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「神に与えられた力だから対価を得ることはおかしい」という理論は、
既に破綻しているとしても、

対価について忘れてはいけないことは、
貨幣経済下において、流通貨幣は交換価値代替物であるということなのです。



ここで、精神性を重んじるならば、すなわち、貨幣対価とは、均衡すべき感謝の指数たるべきなのです。



すなわち、
対価は感謝の証しです。



もちろん、
感謝の証しとはいえ、感謝に乗じて、不相当な金員を得ることは、悪しきカルマになるでしょう。



この点、
例えば、本当の祓いは、魂をかけたものだということは、再三お伝えしています。



また、
加持祈祷も同じなのです。



加持祈祷について、巷の密教オタクなどが安っぽく語っていたりもしますが、 
密教の加持祈祷の一つに、例えば、土砂加持法というものがあります。



本当の土砂加持法は、導師が1週間もの間、完全断食をしながら命掛けで行うご祈祷です。



御砂の効果は、それゆえの効果でもあります。



はたして、巷の加持祈祷を執り行なう方々の中で、本当にそのようなことをしている方が何人いるのでしょうか…。



土砂加持の御砂はもとより、
なんとなればブレスや水の作成さえ、命を削ってなされているということも判らず、
また、本当に良いエネルギーか否かを感じ取れるわけでもなく、
「ブレスを売るのはおかしい」とか、
「祓いに金を要求するのはおかしい」とか、言えるその神経がおかしいと気づくべきなのです。



そもそも、「対価を要求するのはおかしい」ということを言う方々は、
対価というものを感謝として捉えるのではなく、

自分自身が、交換価値代替物に過ぎない貨幣それ自体に価値を見出し、

自分自身が、対価を貨幣獲得を目的としたものであるという、物質的意識に支配されているのです。



また、「あわよくば、ただで恩恵を被りたい」という下賤な図々しさが、その方の意識の中にはあるのです。



そして、
貨幣獲得それ自体を目的化するなら、
そこには、本当の感謝などなく…、
それは、外道な生き方となるのです。



そういう方々の特徴は、「神恩多謝」とか、「ブロ友さんに感謝」とか、「多謝多謝」とか、ブログなりで、安っぽい上っ面な言葉が書き連ねてあることです。



そして、例えば、無償であると聞くと、「祓ってくれ」だの、何だの散々泣きついて、
あげく、自分が気に入らなければ、「変なモノをつけられた」とかなんとか言いながら被害者ぶるような救われない輩だったりするのです…。



本当の感謝を忘れた人間は、
図々しく、
平気で恩を仇で返すような生き方を選び、
よって、「人でなし」となるのです。



「人ではない生き方」、それは、すなわち、魔道です。



かくして、感謝を忘れて外道に墜ちれば、その魂は魔物に喰われるのです。



仮に本当に修行をした阿闍梨であろうと、
容易く魂を喰われてしまいます。  



今まで、沢山喰われた阿闍梨を見てきましたが、
喰われた阿闍梨の特徴は、
密教で最重視されるべき「生き方」を謳うではなく、

例えば、心の弱い輩を傀儡たる弟子にして、密教知識をひけらかし、

その知識に群がる、
得度を受けて特別意識に浸るような未熟な者達を、
魔物の生贄にすべく探している、ということです。



それは、かつて、ミステリースクールで、

魔物の手下であるマスターから、ミューティングで、そのマスターの傀儡であるガイドが、散々「アデプトを増やせ、ハイアラーキーの指示だ」と、強迫された如くです。



とにかく、魔物の生贄たるアデプトを増やすために…。



繰り返しますが、
本当に修行をした阿闍梨ですら簡単に堕ちるのです。



まして、きちんと修行もしていない阿闍梨や、僧侶や、霊能者や、ミステリースクールの信者や、ヒーラーや、密教オタクや、なんちゃって修験者如きはなおさらです。



ゆえに、金に目がくらみ堕ちていくヒーラーやら、スピリチュアルカウンセラーやら、霊能者やら、なんやらといった輩が後を絶たないのです。



世も変わり目、
少し前は、「アセンション」だのという言葉に酔う輩が目につきましたが、
昨今では、密教にかぶれた方々が目立ちますね。



密教に興味を持つこと、
それ自体は素晴らしいことだとは、思います。



しかし、
密教とは、術でもなければ、知識でもなく、
命をいかす「生き方」である、ということを忘れないでいたいものですね。



そして、対価について、お話を戻せば、
そもそも非難されるべきは、
請求されたでもなく、依頼したでもなく、関係もないのに、
好き勝手に、「お金を取ることがおかしい」と言えてしまう輩、自身でしょう。



ただ、
そういう方々は、意識レベルがあまりにも幼稚で、
いつでも自分を被害者だと位置づける、心の壊れた方々なので、

「お百度参り」だの、「読経」だのに陶酔することはあっても、
自戒することは難しいのかもしれませんね。



続く…。


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