貰うということ〜その10〜 | ハシブト鴉のブログ

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他人の『学び』を妨げることは、自然の死期に先立ち人の生命を断絶させる行為に準じる大罪であり、
それは、妨げた者への巨大な負のカルマとなるのです。



当たり前のお話ですが、
それは、カルマ解消などを謳う巷のヒーリングなどでどうにかできるようなものではありませんし、
そもそも、何度もお伝えしたように、そのようなヒーリング自体が妄想です。



ただし、他人の『学び』を妨げる罪を犯したとしても、その者が救われる方法は、二つあるのです。



しかし、具体的内容を公開するまでもなく、
その方法の一つは、他人の『学び』を妨げた者が自分自身でどうにかできるような内容ではありません。



また、もう一つの方法も、他人の『学び』を妨げるような者には容易に理解しえない内容であるからこそ、
『学び』を妨げた者たちは、容易く“やつら”の仲間になっていくのです。



ところで、これも相まってか、
今では、職種を問わず、老若男女を問わず、
魂を喰われ、ゾンビのようになっている方々や、
エネルギー的なシッポが生えてしまっている方々や、
ネズミ男の様な状態になってしまっている方々や、
タグを巻きつけられたり、シールを貼り付けられている方々など、
いたるところに散見されるようになりました。



一般社会生活シャフトに増して、巷のスピリチュアル業界には、
そういった“シッポの生えた方々”や、“ゾンビな方々”や、“タグをぶら下げた方々”などが年々増えていることに、
お気づきの方々もいらっしゃることと思います。



既に堕ちている巷のヒーラーや霊能者などと同様に、
自分自身も、今後そのようになってしまうのか…、
それは、自分次第です。



ただ、「貰う」という言葉の意味一つ、定義づけて自分なりに探究することもできず、
なんとなくフィーリングで騒いでいるような自分自身のままなら、
堕ちるのは時間の問題でしょう。



なぜなら、それは思考を自ら停止させ、“悪しき”に洗脳されている証だからです。



それは、何度もお伝えするように、
霊などが視えると自負している霊能者なりなんなりが、
そもそも「悪しき“やつら”にそのように見させられているにすぎない」と、自分自身を疑えないことと同じです。



とはいえ
秘教・密教を『真に学ぶ』こともなく
借りてきた上部の知識を拾い集め、「宇宙の真理だ」なんだのと、下らないゴタクを並べても、
それは、真理を探究することにはなりません。



なぜなら、それは、低い意識レベルの自分が集めた上辺の知識に陶酔しているだけだからです。



巷には、そのような自称“覚者”なりも数多いるようですが、そういう輩のいう“悟り”だの“覚醒"だの“覚悟”だのというのは、
言ってしまえば、現実社会を生きられない中二病者の妄想にすぎません。



“真理”という名の自慰的妄想だけで、
闇への道案内なら、愚かな輩ほどできるのです。



もちろん、
そのような愚かな輩が魂を喰われ、どのようになっていこうと、どうでもよいお話なのですが、



大切なことは、
そのような愚かな輩と関わり、同じく愚かな者として命を無駄にしてしまうのか、

そのような愚かな輩にならないよう、
しっかりと自分の命をいかしていくのか、

それは、自分の責任なのだということです。



「信じた相手が悪かった」とか、「師匠と仰いだ相手が悪かった」とかいうことは、言い訳にさえならないのです。



今、ある命をいかすこと、
それを忘れてはなりませんね。




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ナマステ
ドキドキ

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