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2019-05-08

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・ラジオを聞きながら「言ってることがわかる」
 っていうのは、かなり高度な頭の使い方だろう。

 「1アウト一三塁、ゲッツー態勢の中間守備。
 右打席には中村、1ボールからの第2球を…」
 などという野球中継の情報を耳から入れて、
 野球ファンは、それをじぶんなりの画像にしている。
 チームの選手たちを知ってる場合には、
 投手の顔や投球フォームも、
 打者の足の速さやスイングも、すべて想像できて、
 次に何が起こるか、その瞬間を待っているわけだ
 …などと書いている、この文だって、
 わからない人にはほとんどわからないはずだ。

 音声だけのスポーツ中継はもちろんむつかしいけれど、
 落語なんかだって、ことばで表現されている世界が、
 いつの、どんな場所で、どんな話になっているのかを、
 簡単に理解できるとは限らない。

 思えば、ある時代まで、大人もこどもも、
 「ラジオ」で表現されている内容を、
 ある程度は理解できることを前提に生きていたんだよな。
 小学生のころのぼくのたのしみのひとつは落語だった。
 わからないところもあったけれど、おもしろかった。
 わかろうとしてくらいついていた、という気もする。
 音声だけの表現をもとに、頭のなかに絵を描いて、
 その絵を見つめながら受け止めていたのだろう。

 同様に、文字だけで書かれた小説を読むことも
 ラジオの音声から絵を想像するのと似ている。
 ことばだけで表されたものをもとにして、
 そこからじぶんの頭をつかって
 「わかる」「見える」を実現していくことは、
 なにかすばらしい人間の力であるように思う。
 すぐにわかるように、だれでもわかるように、
 などという「商業的親切(?)」が発達したおかげで、
 じぶんの頭、じぶんの想像力を強くする機会が、
 けっこう失われているのではないだろうか。
 石井桃子訳の『くまのプーさん』の文章なんて、
 いま読んだら、実におとなっぽいんだよねぇ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。 
6割とか7割の「わかる」で読み進めるのも、悪かないよね。


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