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 祖母の愛情も、自分のルーツも、素直に受け入れられなかった少女が大人になり、生まれ育った長崎市でカフェを開いている。いまだからこそつくれるスープに自身のアイデンティティーを重ねながら、お客さんたちを元気にしている。

 長崎市江戸町にあるカフェ「Nobister(ノビスタ)」。4月中旬のお昼どき、10席の小さな店に常連客が次々と訪れる。オーナーの金海伸子さん(43)がつくるこの日の日替わりスープは「キムズスープ」。ニンジンや大根などの根菜に、調味料はみそとコチュジャン、ごま油。「おいしい」「この味好き」と言いながら、心と体をあたためて、午後の仕事に戻っていく。

 日本人の母と在日韓国人2世の父との間に生まれた伸子さん。長崎市で育ち、話す言葉も日本語だったが、食卓は周りの家とは違った。母がつくるハンバーグなどのおかずに、父方の祖母、金(キム)西運(セイウン)さんがつくるキムチやナムルが並んだ。

 祖母と物心つく前に亡くなった祖父は、戦時中に朝鮮半島から長崎に来た。祖父は生前、父たちに「炭鉱でだけは働くな」と告げていたそうだが、それ以上のことは誰も知らない。小学生のころ、被爆者健康手帳を持つ祖母に「戦争の時ってどうやったと?」と尋ねても、はぐらかされた。

 思春期になると、友だちが来たときに家の食卓を恥ずかしく思うようになった。自身のルーツは、言ってはいけないと感じていた。忙しい両親に代わり一緒に長い時間を過ごした祖母に反発するようになったのも、そのころからだ。

 テレビを見ていると、手をつないでくる。ことあるごとに顔や髪に触れ、後ろから包み込むように抱き締める。友だちの前でもスキンシップをとるのが照れくさかった。日本語がたどたどしい姿が嫌になり、聞き返されると「分からんなら、よか!」と突き返した。悲しそうな姿が目に入っても見ないふりをした。

 もやもやしていた気持ちが変わったのは、2004年から米国に5年間、留学していたとき。アルバイト先の飲食店で客から「英語が分からないなら、分かる人を連れてきて」と冷たくされた。孫に反抗され、何か言いたそうにしていた祖母の顔が浮かんだ。

 英語があまり分からなくても笑…

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