私がかつて所属していた合氣道の道場を破門になった経緯について、今回は書いておこうと思います。
このことについては、具体的に書くべきかどうかずいぶん迷っていたのですが、今後もPLATFORMの活動を続けていく上で、私自身の立場や基本的な考え方を人々に理解してもらうために「書くだけの意味がある」と判断しました。
それ以外にも、今現在なにかしらの「道」を求めて修行しておられる方や、自分の所属している組織の在り方について疑問を持っておられる方の参考になれば幸いです。また、自分自身で既に教室や道場などの場を主宰しておられる方は、私の書く内容について考えることを通じて、ご自分が普段おこなっていることを省みるきっかけとしてください。
では、始めます。
私は、去年の夏、2017年7月末に、約8年半にわたって所属してきた道場を破門になりました。その道場の名は「凱風館」と言います。
道場を主宰していたのは内田樹(たつる)師範で、彼は武道の師範だけでなく、執筆活動や講演活動なども精力的におこなっており、世間でも広く名の知られた人でした。私は、その内田師範のもとで「書生」という名目で雇われ、指導の補佐や道場運営の手伝いなどをしていた時期が4年ほどありました。お給金を頂きながら毎日稽古ができる。それはまさに「夢のような日々」でした。
ですが、書生として働く期間が長くなるに従って、私は自分が「内田樹の書生」という立場に寄り掛かり続けていることに対して心理的な抵抗を感じるようになっていきました。世の中には自力でどうかこうか生活費を稼ぎながら地道に稽古を続けている若い修行者がたくさんいることを、私は自分で知っていましたから、そういう人たちに対して「疚しさ」に似た感情も持っていました。
そして、「内田樹」の名前に寄り掛かって、大事に保護されながら語られる自分の言葉に、拭いがたい「軽薄さ」を感じてもいたのです。
私は「自分の言葉」を胸を張って語れるようになりたいと思っていましたし、そのためには書生をいつまでも続けているわけにはいかないと感じていました。そして、内田師範からはずいぶん引き留められたのですが、私は自分の意志で書生を辞めることになったのです。
この時点では、私はまだ凱風館を破門になってはいませんでした。
私は書生としてではなく、一人の弟子として、それまで通り稽古に通っていました。ただ、私の中では凱風館という道場の在り方そのものへの疑問が徐々に大きくなっていったのです。
私は、書生として凱風館に所属していた時から、他の合氣道の道場に出稽古に行ったり、他流派の師範が主宰している武道の講習会に潜り込んだりしていました。他にも、武道とは直接関係ないようなボディワークの講座などで興味を持ったものがあれば手当たり次第に参加していましたし、凱風館ではあまり体系的に指導されることのなかった「瞑想法」についても、独自に調査・研究・実践を重ねていました。
私が凱風館の在り方に疑問を持つようになったのは、こういった「個人的な試行錯誤」の結果でした。私は、凱風館で教えられることだけではどうしても満足できませんでしたし、「本当のこと」が知りたかったのです。表面的ではない、もっと深いところにある「真実」や、合氣道でいう「氣」とは一体何なのかといった「根源的なこと」をこそ、私は自分自身で知りたかったのです。
私は、凱風館で書生として雇われるようになったのとほぼ同じ時期に、このPLATFORMの活動を始めたのですが、実際に人に指導をするようになって、自分がどれほど「本当のこと」がわかっていないかを痛感しました。私はいつも「わかっているかのように言う」ことしかできず、確信を持って指導にあたることができませんでした。「本質的なこと」が何もわからないまま、口では「もっともらしい言葉」を語ってその場を取繕っている自分に対して、私はいつも悔しい想いをしていました。
貴重な時間とお金を費やして私のところにやってきてくれる人たちに対して、私は「真実らしく語られた嘘」ばかり口にしていました。「真実らしい言葉」だけなら、世の中のどこにでも転がっているので、私はそれらを借りてきては「心にもないこと」を言い続けていたのです。それはとても不誠実なことでしたし、間違ったことだったと今も思っています。
私は、縁あって私のもとに来てくれた人たちに、「真実らしい嘘」ではなくて「紛れもない本物」をこそ渡したいと願いました。
ですが、当時の私は何が「本物」で何が「偽物」なのか、自分自身で見分けることさえできませんでした。それで、手当たり次第に探していけばどこかで「本物」に出会えるかもしれないと思い、盲滅法に様々な教えを自分で試し、「この人は何か知っているかもしれない」と感じられたあらゆる教師のもとを訪ねてまわりました。
そして、そのような試みを続ける中で、私は幸運にも何人かの「本物」に出会うことができました。もちろんそれは、私の目から見て「本物」のように見えた人であって、主観的な判断に過ぎません。しかし、彼らの在り方は、私が凱風館での稽古では決して見出せなかった「進むべき道筋」を私に示してくれました。
正直に言って、そのときの私は「この世にはけっきょく『本物らしく語る人』しか存在せず、『本物を体現している人』は実在しないのではないか」と思い始めていたところでした。ですから、そういった「本物を体現している」と感じられるような人と間近に接する機会を得られたことで、私は「暗闇の中の光」を見出したような心地がしたものでした。
そして、彼らの放つ「光」に触れることを通じて、「この世に『本物』は在る。ただ、まだ私自身がそれを体現できるだけの深みまで到達していないだけなのだ」と、私ははっきりとした確信を持つことができたのです。
その後も、私の「暗中模索」は続きました。「『本物』は在る」ということと、「自分はまだ『本物』ではない」ということについては確信が持てましたが、「どうすれば『本物』に至れるのか」はいまだわかっていなかったからです。
私が凱風館の稽古に疑問を持つことが増えてきたのは、ちょうどこの頃のことでした。
そのときの私の判断基準から言うと、内田師範はどう見ても「偽物」でした。これは別に私の個人的な判断ではなく、内田師範自身も自分でよく言っていたことです。「自分の師は偉大なのだが、私自身は師の教えを体現できるだけの才能も能力も無い凡庸な武道家に過ぎない」と、口でも言っていれば、自分で書いた本の中でもたびたび言っていました。そういう意味で、内田樹師範が武道家としては「偽物」であるということについては、「公的な事実」と言ってもいいくらいのものでした。
この観点からすると、内田師範の在り方はとても「正直」なものだったと私は思っています。
私と違って「本物らしい振り」をして取繕ったりせず、「自分の師は『本物』だったが、当の自分は『偽物』である」と世間に向かって公表していたわけですから。
しかし、「自分には『本物』を示すだけの力量がない」と公言するところから踏み出された内田師範の「次の一歩」に、私はいつも納得がいきませんでした。
内田師範は「自分には力量がないので、師の教えを言葉で伝えることしかできない」と常々言っていました。たしかに、もし今この時点で本人の力量が足りていないならば、師の教えを「自分の在り方」で示せない以上、「せめて弟子達に言葉だけでも伝えたい」と感じるのが、師としての人情というものだと思います。
でも、だからといって、「これから先も、自分は『本物』を体現できるようにならなくてもいい」という話にはなりません。というのも、「自分は力量が足りない」と正直に認めることに意味があるのは、「だから、これから必死で努力して少しでも体現できるようにならないといけない」と自分自身に刃を突きつけるときだけだからです。
「自分はしょせん力量が無いのだから、必死で努力しなくてもいい」という結論を導くために、「私は無力だ」と言う人を、私は「正直な人」だとは思うけれども、「誠実な人」とは思いません。
内田師範は、いつも「他人の言葉」を稽古の中で語っていました。
現代思想に通じ、名文家でもあった彼の言葉は、表面的にはとても美しいように感じられましたが、書生として彼の技を直接受ける機会の多かった私は、「この人は自分で言っている通りのことを全然やっていない」といつも感じていました。
内田師範は、自分の師以外にも多くの著名な武術家や芸術家と交流があったので、そういった人たちから聞いた言葉を自分なりに組み合わせて稽古の中で語ることもしばしばありました。しかし、それらは「他人から聞いた言葉の組み合わせ」が中心でしたから、表面的には言っていることがコロコロ変わるように見えます。使われる言葉の色彩は多様で、表現もユーモラスでした。内田師範の話を稽古中に坐って聞いていると、まるで講演を聴きに来ているかのように感じてしまうほどそれは整ったものだったと思います。
実際、それが彼の指導の特色であり、人々を引きつける大きな魅力でもあったのだとは思うのですが、内田師範の技を約4年間受け続けて、「この人はまったく技が進歩していない」と感じました。もちろん、これは私の「個人的な感覚」に過ぎませんから、本当にそうかどうかを他人の目にわかる形で証明することはできません。
ですが、内田師範は自分でも常々「自分は力量がない」と言い続けていた人でした。内田師範の主観的には、「そうやって自分の未熟さを自覚するからこそ進歩しようと思えるのだ」と考えていたかもしれませんが、私は彼のすぐそばで何年も辛抱強く観察を続けた結果、「この人はそもそも『本物』に向かって真剣に努力することに関心があるのではなく、次々と『新しい思いつき』を語ることにしか関心がないのだ」と判断することになりました。
内田師範は、言うことこそコロコロ変わるけれど、やっていることはずっと同じで、しばしば「言っていること」と「やっていること」が矛盾していました。口では「相手と同化するのだ」と言っていながら、彼の技を受けていると、「無理やり言うことを聞かされている感じ」がいつも身体の中に残りました。「相手の言うことに耳を傾けるように」と指導していながら、彼が弟子の技を受けるときには、まだ弟子が動いている最中なのに勝手に受けを作って一人で転んでしまっていました。
私はそんな様子を、何年も何年も、彼のすぐそばで見続けていました。
初めのうちは「自分の修行が足りないから、そういう風に見えるのだ」と自分に言い聞かせて納得しようとしましたが、さすがに何年も書生としてすぐそばに仕えていると、そういうこともできなくなります。
しかし、私には師範に「自分の感じたこと」をはっきり言うだけの勇気がなかなか持てませんでした。だから、いつも黙って見ていたのです。
もちろん、師範がいくら「言っていること」と「やっていること」が矛盾していても、弟子の側がしっかりしているなら特に問題はないと思います。
しかし、私は凱風館ができてから二年ほど経った頃、弟子たちの間にも、同じ事が起こり始めているように感じました。つまり、「自分では体現できていないし十分理解もできていない術理を、言葉だけ巧みに使って、相手に無理やり押しつける」という内田師範と振る舞いを、道場内の有段者たち(特に当時初段~弐段のあたりにいた人たち)がそろってし始めたのです。
ここには当然私自身も含まれます。私は自分に意識できる限り、そういった「口だけで理論を語って押しつける」という在り方を自制しようとしていましたが、完全には成功しなかったと思っています。私はきっとどこかで、「無知で無力な初心者」に向かって何かを無理やり押しつけていたと思いますし、少なくともPLATFORMの活動ではよくそれをしていたと思います。
いずれにせよ、「内田先生はこう言っていた」「誰々先生はこう言っていた」と他人の語った言葉を組み合わせて表面だけは飾りながら、「中身」はまだ十分に満ちていない技を、入門したての初心者に向かって力ずくでぶつけて得意がっている有段者達の姿を見て、私は「凱風館が『間違った方向』に進もうとしている」という危機感を抱き始めました。「師範の言っていること」を頼りにして自力で「本物」を探究するのではなく、「師範のやっていること」だけを真似して、公然と無垢な初心者に「偽物」を押しつける弟子達が現れてきたように、当時の私には見えたのです。
もちろん、こういったことは「どこの道場」にも多かれ少なかれあることだとは思います。
でも、「だから、うちがそうであっても仕方がない」という話にするわけにはいかないはずです。
仮にも「武道の道場」として看板を掲げているのであれば、「真実の探究」をないがしろにしていいわけがないと私は思います。もしも「ここは武道の道場だ」と公言するのであれば、それと同時に、「だから、私たちは全身全霊で『本物の技』を探究し続ける」とはっきり言えないと「嘘」だと思います。
私は、生来の気質なのか「嘘」と「卑怯」が大嫌いです。
私は自分が「嘘つき」であることにも、「臆病者」であることにも、長く耐えることができない性格をしています。
それで、私はある夜、独りで自室に坐って自分の内側をジッと見据え、「本当のこと」を言う覚悟を決めました。
それからというもの、私は、たとえ稽古で組んだ相手が自分より高段者であっても、「間違っている」と思ったら「技がかかっている振り」をするのを一切やめました。
「間違っている」ということをもっと具体的に言えば、「相手のほうが自分より段位が下だから」といった「甘え」の上に寄り掛かって技をしているように感じられた人に対しては、一切おもねった受けをしないことにしたのです。
同時に、まだ黒帯をもらっていない初学者に対しては、なんとかして勇気と自信を持って技をしてもらいたいと思いながら、彼らの技を受けました。こちらに関しては別にそのとき始めたことではなくて、私がそれまでもずっと意識的に続けてきたことでした。
そして、内田師範に見本として受けに呼ばれたときも、私は同じようにしました。「技がかかるに決まってる」と思いこんで、今この瞬間に全身全霊で「対話」を行う用意が師範の中にないと判断されたときは、私は一切受けを作りませんでした。結果として、一時間弱にわたって受けをとって、私に技がしっかりとかかったのは二回か三回だけでした。
一言申し添えておくと、私はそのとき「何があっても絶対に受けを作らないようにしよう」とは固く決意していましたが、「何があっても技がかからないようにしよう」とは思っていませんでした。そして、私は「師範の手を掴んだら、絶対に自分から勝手に離さない」ということを自分自身で決めていました。なぜなら、それが相手と「対話」するための最低限の礼儀だと思えたからです。
また、私はそのとき、内田師範が「口で言っていること」よりも「身体で言っていること」のほうを聞き取ろうとして全身を耳にして受けを取り続けました。
そして、私の「主観的な感覚」は、彼の身体が「私の言うことを聞け」と言い続けていることを告げていました。「私の言う通りにしろ」というただそのことだけが、「そのときの彼の身体が最も言いたがっていること」だと、私は感じたのです。
私はその時の内田師範の技に「美」も「武」も感じませんでした。「街のどこにでもあるほど凡庸な暴力」以外のものを、私はそこに見出せませんでした。
私はその翌日の稽古で、内田師範が「こうすれば相手が思い通りに動く」とか「ここをこうすると相手が崩れる」とかいった説明をしきりにしているのを聞いて、心底悲しくなりました。
「相手が思い通りに動くこと」や「相手が崩れ落ちること」を、どうしてそんなに熱心に説いたり稽古したりしないといけないのか、私にはまったくわからなかったからです。
私にとっては、「相手が思い通りに動くこと」より、「『自分以外のもの』に無闇に動かされないこと」のほうが、いつも大事でした。私自身が「自分の足」でちゃんと立てないならば、私はきっと恐れに駆られて、「相手を思い通りに動かそう」と策略を巡らせることになるでしょう。そうだとしたら、私はたとえ結果的には「相手を思い通りに動かすこと」ができたとしても、そもそも「自分の恐れ」に動かされた結果としてそうしただけに過ぎないのです。
そして、私は「相手が崩れ落ちる姿」よりも、むしろ「相手が自分の足で立とうとする姿」のほうをこそ見たいと、いつも願っています。もちろん、「まだ自分の足で立てていない」ということを相手に自覚してもらうために、「あえて一度崩す」という過程を踏むのは意味のあることと思いますが、もし「相手を崩すこと」そのものを希求してやまないのだとしたら、それは「とにかく早く相手を打ち負かして安心したい」という「恐れ」が、その人の中で強い力を持っているからだと私は思います。
私は内田師範のことをとても「臆病な人」だと思いました。私に負けないくらい「臆病な人」だと思いました。
実際、その時の私は、「自分の感じていること」を内田師範に直接言葉で伝える勇気がありませんでした。それで、内田師範も見ているSNS上で、間接的に師範と道場の在り方とを批判しました。
それを見咎めた内田師範は、私の言い分を一切聞かずに、そのままSNSのダイレクトメッセージを使って、私に破門を言い渡したのです。
私はその瞬間から道場への出入りを禁止されました。以来、私は「自分のやろうとしたことは本当に『正しいこと』だったのだろうか?」と、独り、自問し続けました。
私は凱風館が好きでしたし、私に目を掛けて育ててくださった内田師範にも感謝していました。そして、だからこそ、「どうしても言いたいこと」があったのです。
私は合氣道を始める前、東京で三年間引き籠もり生活をしていました。自分の先行きに絶望して、「生きるのも恐いけれど、死ぬのも恐い」という宙づり状態のなか、私は壁に囲まれた部屋に籠もって、「自分がどんな風に死ぬか」を空想し続けていました。
内田師範の本を読むようになったのは、そのときのことでした。私は師範の語る言葉の虜になり、彼が当時出していた本を片っ端から読んでいきました。
私は少しずつ自分の考え方が変わっていくのを内側で感じました。私は内田師範の本を読みながら、彼がすぐそばに坐って励ましてくれているようにしばしば感じました。
「生きているのは辛いことも多いけれど、それでもあなたの人生には、生きるだけの価値がある」と、彼の本は語っているように聞こえ始めたのです。
私はあるとき思い切って家から出て、アルバイトを始めました。近所のスーパーに朝だけ助っ人として出勤する、パートタイムの仕事でした。
それまで世の中で働いた経験が「ほぼゼロ」だった私には、慣れないことも多くて大変ではありましたが、仕事を終えて帰ってくると、私は内田師範の本を開いて、「労働とは何か?」について書かれた彼の言葉を貪るように読みました。
私は一年間働いて貯めたお金を使って、神戸に引っ越しました。
どうしても、内田師範に直接会って、お礼を言いたかったからです。
そして、私は「内田先生に会う」ということのためだけに、彼の道場に入門しました。もともとは合氣道をやりたかったわけではないのです。私はただ、彼に会いたかったのです。
入門してから、私は内田師範に近づこうと懸命に努力しました。
私は寂しくて仕方なかったし、生きることがまだまだ恐くて仕方なかったからです。だから、「温かい何か」を、彼から直接注いで欲しかったのです。
実際、内田師範は私に多くのものを注いでくれました。でも、私が本当に心から満たされたのは、彼が神戸の住吉に「凱風館」という自分の道場を建ててからでした。それまでは公共の柔道場を借りて指導をおこなっていたのですが、道場建設に向けた師範の努力が実を結び、私たち門下生はとうとう「自分たちの道場」で好きなだけ稽古することができるようになったのです。
凱風館ができたばかりの頃、それまで毎週土曜に一回しかなかった稽古は、週五回まで増えました。平日の朝や夜にも、稽古をすることができるようになった。
ですが、かつて公共の施設での稽古に来ていた有段者の多くは、土曜の昼の稽古には来るけれど、平日朝夜の稽古には来ない場合がほとんどでした。柔道場いっぱいにいた門下生達が、平日の稽古では突然減って、初心者ばかりの少人数で稽古をする日も多かったのを思い出します。
私はまだそのとき黒帯をもらっていなくて、ずっと「先輩から教わる側」だったのですけれど、平日は「有段者が一人いるかいないか」という状況になってしまっていたので、結果として、私はまだ白帯ながらも、後輩の指導にあたらなければならなくなったのです。
私は初めて合氣道を指導することになりました。そのことが、私をどれほど満たしたか、私は言葉で言い表すことができません。
ずっと「自分の恐れ」に振り回されながらビクビクしてきた私は、「自分のため」ではなく、「誰かのため」にできることがあると知って、本当に嬉しかった。私の妻が先日教えてくれたのですが、私が誰かに何かを教えているときの様子は、妻の目からも、実に嬉しそうで活き活きして見えるらしいです。
私は、目の前の相手がどんな問題を抱えて行き詰まっているのかを、いつも相手と一緒に真剣に考えました。場合によっては、「これを『行き詰まり』だと思っていることそのものが問題なんじゃないか?」ということまで、一緒に考えていくこともありました。
私と話して、何か「きっかけ」のようなものをつかんで「ありがとうございました」と言ってくれる人がいて、私が一緒に考えたことを「自分でもこれから試してみます」と言いながら大事に持って帰ってくれる人がいました。
そうした人たちとの対話が、恐れでいっぱいだった私に心を「温かいもの」で満たしてくれたのです。
当時の私は暇だったので、子どもクラスの指導の手伝いにも行くようになりました。
子ども達の様子を見ていると、発見や驚きがいっぱいでした。それまで子どもと接する機会のなかった私は、戸惑いながらも、子ども達に丁寧に接することを心掛けました。
同時に、自分がいかに子ども達を偏見でいっぱいの目で見て、心の中で見下していたかにも、少しずつ私は気づいていきました。
こうした私の在り方を見て、内田師範も何か感じていたようでした。私が「ダメで元々」と思いながら、「何か仕事の口はありませんか?」と内田師範に相談したとき、彼は「それなら書生をやってみないか」と、私に言ってくれたのです。
私は凱風館で後輩の指導にあたりながら、書生としての給金をいただきつつ、毎日稽古を続けました。今の私があるのは、間違いなく、あの日々があったからだと私は思っています。
どうしたら子ども達はもっと活き活きするのか。
どうしたら恐れや思い込みでいっぱいの大人達は、「自分の心」を取り戻せるのか。
それを、私はあの日々を通して学びました。
私は、それまで自分が懸命に指導してきた後輩達が有段者になった時、彼らが内田師範の真似をして、「口先だけの理論を振りかざし、初心者に無理やり技を掛ける」という振る舞いに出たのを見て、深い悲しみを覚えました。
私は「そういうこと」を教えたかったのではありませんでしたが、彼らからして見ると、私は「数多くいる先輩の一人」に過ぎず、あくまでも道場を主宰しているのは内田師範のほうなのです。「誰の真似をするか」ということに関しては、やはり優先順位が出てきてしまいます。
だとしたら、内田師範が自分の在り方を省みない限り、「この状況」は悪化こそしても改善はしないと私は感じていました。
ですが、結局、私の伝え方が「臆病」で「不器用」だったために、私の言葉は師範の元に届くことなく、葬られてしまいました。
私はそれが、とても残念です。
私は兵庫から岡山に引っ越す直前、もう一度だけ内田師範に会いに行きました。
今の妻とはもともと凱風館で知り合った仲でしたし、妻共々師範にお世話になったのも事実でしたから、せめてお礼だけでも言いたかったのです。また、もし叶うなら、「私がかつて伝えたかったこと」を今度こそ聞いてもらえるかもしれないとも期待していました。
しかし、結果として私は、またしても「自分の言いたかったこと」を伝えることができませんでした。
私は妻と一緒に凱風館へ出向きました。凱風館は、一階が道場になっていて、二階は内田師範の自宅スペースになっていましたから、「私が内田師範に会いに行く」ということは、「自分が破門になった道場に出向く」ということを意味します。
それゆえ、私と妻は、「破門になった人間を入れるわけにはいかない」という理由で、玄関から奥には通してもらえませんでした。
私は「お礼を言いに来ました」と言って、前の日に妻と一緒にデパートで選んで買った、贈り物の菓子折を内田師範に渡そうとしました。
しかし、「一体何のお礼なのか?」と内田師範は私に問いました。私はこの文章の中で書いたことを、必死に呼吸を落ち着けながら、訥々と語りました。
私は実際、感謝していました。私をあの東京の引き籠もり部屋から救い出してくれたのは、紛れもなく「内田師範の言葉」でしたし、私が自分の稽古に専念できたのも、彼が私を書生として置いてくれたからです。私は、稽古で内田師範に名前を呼ばれて、みんなの見本として前で師範の受けを初めて取ったときの「誇らしい気持ち」を、今も思い出すことができます。私は本当に、お礼を言いたかったのです。
しかし、内田師範から「お礼より前に、自分がしたことについて謝罪するべきなのではないか?」と言われ、私は言葉に詰まりました。
私は「自分の考えを伝える仕方」については間違っていたと思っていました。だからこそ、今度の訪問では、師範の前で礼を失したりしないよう気をつけていたのです。
ですが、私は破門になってからの約半年の間に、自分の振る舞いや考えについてひたすら自問し続けた結果、「やはり自分は間違っていない」と感じていました。だからこそ私は、今度は「納得のいく伝え方」で「かつてと同じ考え」を伝えたいと思ってやってきたのです。
私は「謝罪の言葉」を、即座には口にできませんでした。
もしあのとき、「私の『伝え方』が間違っていました」と心からの謝罪することができていたら、また違った結果になったかもしれません。
私が逡巡している間に、師範は「今もまだこの道場の指導の仕方は間違っていると思うのか?」と私に問いました。私は師範の目を見据えたまま、即座に「はい」と答えました。なぜなら、それこそが、私が半年間考え続けていたことだったからです。
師範は、私の返答を聞くやいなや、「お礼なんか要らないから、すぐに帰りなさい」と言いました。
「お願いですから、せめて話だけでも聞いてください」という言葉を口にするだけの勇気が、当時の私にはまだありませんでした。
それで私は何も言わず、なるべく丁寧に師範に向かってお辞儀をし、妻のほうを向いて「帰ろう」と言いました。そして、そのまま持ってきた菓子折を携えて、ゆっくりと玄関の引き戸を閉めたのです。
それ以来、内田師範には会っていません。
以上で、私からの言葉は終わります。
これらは全て私が自分一人で考えたことですので、もしそこに思考や物の見方の偏りがあるとしたら、その一切は、私の責任です。この文章の中に、いったいどれだけの「真実」を示すことができたのか、私には何もはっきりとしたことは言えません。
ただ、もしもこの文章を読んで、何かそこに「真剣に考えるに足るもの」があると感じた方は、どうか自分自身でそれについてさらに考えてみてください。
最後に、もし内田師範がこの文章を読むことがあったなら、どうかご自分の在り方を今一度省みて欲しいと願います。
もし凱風館の有段者の人がこれを読んでいるならば、どうか後輩を指導するときの自分の在り方を、一度見つめ直してみて欲しいと願います。
そして、もし凱風館で居場所がないように感じて震えながら稽古に通っている初学者の方がこれを読んでいたならば、どうか、一握りの勇気を奮い起こし、先輩からの言葉によって慌てふためいたりせず、自分自身をこそ信じて、日々の稽古に臨んで欲しいと願います。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。