韓国で「吉田清治」が作った謝罪碑が復活、未だ残る従軍慰安婦“ウソ証言”の傷跡
韓国・天安市に「望郷の丘」という国立墓地がある。
朝鮮半島から海外に渡って帰国を果たせぬまま亡くなった人たちの墓地で、1976年10月にまず213体を収めて開園。現在は1万体以上が安置され、「安葬申請」はいまも受け付けられている。
パンフレットには「日帝強占期に、本人の意志によらず強制動員された海外同胞たちの帰郷の念を叶える場所」と示され、言ってみれば「徴用工」の墓地だ。徴用工訴訟はさらに拡大していく様相を呈しているが、そのうち韓国がこの墓地を象徴的な場所として持ち出すかもしれない。そしてここにもう一つ、反日の原点ともいえる石碑がある。
あの吉田清治氏の「謝罪碑」である。
済州島の女性205人を強制連行して従軍慰安婦にしたなどの作り話で従軍慰安婦問題の発火点になった吉田清治氏は、1983年12月、慰安婦問題を書いた著作の印税でその碑を作った。「謝罪碑」はハングルと日本語で以下のように書かれている。
〈「日本人の謝罪碑」
あなたは日本の侵略戦争のために徴用され強制連行されて
強制労働の屈辱と苦難の中で 家族を想い 望郷の念も空しく
貴い命を奪われました
私は徴用と強制連行を実行指揮した日本人の一人として
人道に反したその行為と精神を深く反省して
謹んで あなたに謝罪いたします
老齢の私は死後も あなたの霊の前に拝跪して
あなたの許しを請い續けます 合掌
1983年12月15日
元勞務報國會徴用隊長 吉田清治〉
だが2年前、この「謝罪碑」は、奥茂治なる人物によって改変された。元の石板の上に短く3行、
「慰霊碑 日本国 福岡県・吉田雄兎」(原文はハングル)
と刻んだ石板を貼りつけたのだ。「雄兎」は吉田氏の本名である。
奥氏は元海上自衛官。実業に転じたものの、予備自衛官や沖縄県隊友会(OB組織)幹部として自衛隊を支え、国防問題の啓蒙、情報収集を行う「南西諸島安全保障研究所」を主宰している。尖閣諸島に最初に「本籍」を移したことでも知られる。
奥氏は、吉田氏の長男・英治氏の依頼を受け、石板を張り替えて帰国した。その後、韓国警察の出頭命令に応じ渡韓して逮捕され、裁判になった。これは度々メディアで報じられたから、あるいは記憶にある人も多いかもしれない。
そして2018年1月に懲役6カ月・執行猶予2年の判決が下る。一時控訴したが、取り下げて判決が確定、2018年2月に帰国した。
それでは、その後「謝罪碑」はどうなったか。
無縁故韓国人合同墓
ソウル駅から最寄りの天安駅までは高速鉄道で約1時間、天安駅からはバスに乗って20分ほど北上すると「望郷の丘」バス停に着く。田畑の中にたっぷり敷地がとってあり、まず目に入るのは入口近くに聳える「大韓航空旅客機攻撃被害者慰霊塔」である。これは1983年にサハリン沖でソ連の戦闘機に撃墜された旅客機に乗っていた犠牲者の冥福を祈るものだ。これを背にして左右に墓石が立ち並ぶ中を奥に向かっていくと、「望郷の丘」と漢字交じりで書かれたもう一つの巨大な「慰霊碑」に行き着く。
ここが中心だが、その慰霊碑の前を左に折れ、「薔薇墓地」と名づけられた区画を進んで「合葬墓地」に入ると、その入り口付近に吉田清治氏の「謝罪碑」はあった。
福岡県や三重県、山口県美祢市などと掘られた「無縁故韓国人合同墓」の石碑が整然と立ち並ぶ静謐な墓地の中、その一角だけが禍々しい雰囲気をまとっている。まず目に飛び込んでくるのは、吉田清治氏の写真を載せた案内板だ。そしてその横に吉田清治の「謝罪碑」がある。奥茂治の貼った石板は剥ぎ取られて「謝罪碑」の下に並べられていた。そして隣には広島の「高暮ダム強制連行を調査する会」が作った「謝罪」の碑がある。
吉田清治氏の「謝罪碑」は復活していたのである。
石板は重量感があった。大きさは、横120センチ、縦80センチ。奥氏が張り付けたものは厚さ3センチで、3つに分かれていた。それは一枚35キロもあったからで、それらを深夜にタクシーで運び、入口から現場までは、一枚一枚、奥氏が運んだという。接着に関しては、左官工事の見習いをして技術を身につけたらしい。
さて、案内板にはどう書かれてあるか。
〈日本が私たち民族を強制徴用し…〉
上下2部構成で、上部は「吉田清治 謝罪碑 無断毀損 経緯」、下部には「謝罪碑 無断毀損」とある。下部、韓国が奥氏の石板をいかに剥ぎ取ったかを写真付きで紹介しているだけで、問題は「経緯」のほうである。そこにはこうあった。
〈日本人吉田清治(吉田清治、2000年死去)は、太平洋戦争当時の1943~1945年、日本山口県労務報国会下関支部で、動員部長として在職し、慰安婦女性など朝鮮人6000余名を強制連行する任務を遂行した。
1983年、自身の戦争犯罪行為を認定、懺悔する内容の自叙伝『私の戦争犯罪――朝鮮人強制連行』を著述して、その印税収入の一部を謝罪碑の設置費にあてることを志願した。
吉田清治は、日本在日大韓婦人会に謝罪碑設置に必要な助力を要請し、在日大韓婦人会は、韓国の中蘇離散家族会にこれを伝達した。中蘇離散家族会は、保健社会部(現・保健福祉部)から謝罪碑の設置許可をもらい、1983年12月15日、強制徴用として幽名を異にする無縁故合葬墓域に謝罪碑を設置した。
当時、吉田清治は除幕式に参加して謝罪碑の内容を直接朗読し、多くの参席者の前で跪いたが、出席者たちは、罪人はうつ伏せになって詫びなければならないと、謝罪碑もまたきちんと立たせず、横たえて設置するようにした。
しかし2017年3月、吉田清治の長男(吉田英治)は、父親の証言が偽証だと、日本自衛隊の自衛官だった奥茂治に依頼し、謝罪碑に他の表示石版を重ね、慰霊碑に無断交替した。
吉田清治の証言について、偽証とする論難がなお存在し、謝罪碑を慰霊碑として交替し、蛮行を隠そうとしても、日本が私たち民族を強制徴用し蛮行を犯した行為は変わらない事実である。
2017年4月 無断毀損となった謝罪碑を復旧しつつ
国立望郷の丘管理院〉
予想通りと言うべきか。吉田清治氏の証言が虚偽とわかろうが、朝日新聞が記事18本を撤回して誤りを認めようが、韓国ではまったく関係ないのだ。また、朝鮮半島で強制徴用が行われたのは1944年9月からだが、それもまったく無視である。
韓国では依然として「吉田清治」は生きているのである。
週刊新潮WEB取材班
2019年4月30日 掲載
外部リンク
平成の間に「キムタク」が出演したドラマは27本 ファンが選んだベスト5を発表
テレビドラマの平成史は、すなわち木村拓哉(46)の歴史である――。なぜ、そう言えるのか? それは彼の出演した作品の視聴率が、極めて高いからだ。
***
まずは「平成の連続テレビドラマにおける、最高視聴率のベスト15」を表にしてみた。ご覧いただきたい。
15本の作品中、木村拓哉の主演作は4本も入っている。こんな俳優は誰もいない。
ちなみに16位は「渡る世間は鬼ばかり」(TBS系列:平成2~23年)の34.2%。こちらは泉ピン子が主演。ベスト“16”をOKとするなら、彼女は「おんなは度胸」と併せて2本の作品で、平成のドラマ史に残る視聴率を叩きだしたことになる。
だが、そうであったとしても、キムタクは倍の4本だ。比べようがないほどズバ抜けているのは論を俟たない。
特別ドラマや1話完結型を除くと、木村拓哉は平成の31年間で27本の連続ドラマに出演した。平成4年の「その時、ハートは盗まれた」(フジテレビ系列)が「本格的なドラマデビュー」と位置づけられ、30年の「BG~身辺警護人~」(テレビ朝日系列)が平成最後の作品となった。
27本の平均視聴率を計算すると12.7%。率のベスト5とワースト3を集計して表にまとめてみた。
ファンが選んだ「傑作ベスト5」
木村が工藤静香(49)と結婚したのは平成12年。少々意外だが、平均視聴率をベースにすると、所帯を持ってからの方が高い数字を出している。
そして平成の終盤が迫っていくにつれ、視聴率も下がっていく。ただし、ワースト1位である「その時、ハートは盗まれた」でさえ視聴率は2ケタをキープしている。このあたりも、木村が“平成のドラマ王”と言われる理由かもしれない。
何よりも、表を眺めるうちに、オンエア当時の思い出が脳裏に蘇った方も、かなりいるはずだ。「あの時は大学生だった」、「新入社員の時に見ていた」、「別れた彼女と一緒にレンタルビデオを借りた」――。やはりキムタクは、ある意味“平成のシンボル”と言えよう。
最後に、SMAPのデビュー時から常に追いかけ続けてきた、妙齢のファン女性に「キムタクドラマのベスト5」を選んでもらった。まとめた表と、“選評”を5位から順に掲載する。
◆第5位「ラブジェネレーション」
「“カッコいいキムタク”という木村くんの演技において、最終完成型にして頂点だと思います。まだ独身でしたから、ストレートな恋愛ドラマという題材も、とても似合っていました。あと男性の持つ“エッチ”な側面を、とても上品に演じていたのも、印象に残っています。キムタクドラマの王道と言えるのではないでしょうか」
◆第4位「華麗なる一族」
「TBSの55周年記念という大作でした。木村くんがプレッシャーを感じているのが演技からも伝わってきて、そういう面でも画面に引きこまれましたね(笑)。私は木村くんのキーワードは『頑固』だと思っているんです。確かラストシーンを巡って、演出担当と相当な議論をしたという報道が当時、話題になったはずです。そういう木村くんの頑固さというか一徹さが、あのドラマではプラスに働いていたと思います」
◆第3位「ビューティフルライフ」
「『ラブジェネレーション』の木村くんが最もカッコいいキムタクなら、こちらの沖島柊二という役は、最高の“はまり役”でしょう。美容師という設定が完璧で、『いそうでいない、超リアルな夢の王子さま』でした。また彼の持つ頑固さが、職人気質とかプロ意識と通じる部分があって、美容師役に説得力を与えていたと思います。大好きで繰り返し見ているうちに、『やっぱりストーリーはベタだね』と我に返るんですけど(笑)木村くんが常盤貴子さん(46)が演じる町田杏子に惹かれていく姿がとても丁寧に描かれています。だからベタな展開だと気づいても、最後まで面白く見られるんです。ラストシーンも珠玉という表現がぴったりで、本当に傑作だと思います」
◆第2位「CHANGE」
「『ええっ、CHANGE!?』と怒る人もいるかもしれないですね。役は内閣総理大臣。これほどリアリティがゼロの役はないでしょう。でも、ファンとして声を大にして言いたいのは、“史上最年少”の首相なんていう滅茶苦茶な役を演じられるのは木村くんだけということです。実際、もし木村くんが政界に進出すれば、首相になるのは間違いない(笑)。この作品はキムタク演技の“力業”が、ぎりぎりでドラマを成立させている。それが面白い。多分、多くの人は『HERO』を1位か2位にすると思いますが、木村くんの演じる久利生公平という検事はあまりにも完成しすぎて、隙のなさが好きになれません。対して『CHANGE』の朝倉啓太首相は隙だらけですけれど、キムタクのドラマ史上屈指の愛すべきキャラクターだと思います」
◆第1位「ロングバケーション」
「俳優としての木村拓哉は、この作品で花開きました。“キムタク演技”の原点と言える、記念碑的なドラマだと思います。オンエア当時、SMAPファンの心がわしづかみにされたのは、木村くんの演じる瀬名秀俊も、山口智子さん(54)の葉山南も、共に人生最悪の状況で、それを慰め合うというストーリーだったからです。ご存知の通り、SMAPは遅咲きのアイドルとして、芸能界で苦労を重ねてきました。そうしたグループの持つ不遇の歴史が、瀬名秀明という役にフィットしていました。当時は若手だった竹野内豊さん(48)、稲森いずみさん(47)、松たか子さん(41)、広末涼子さん(38)が注目されたドラマでもあります。共演の人たちの知名度も高めながら、木村くんは『ロンバケ』で日本一のスターに駆けあがっていきます」
木村拓哉は11月に47歳になる。つまり今年、元号は令和に代わり、キムタクの“アラフィフ”が現実のものになっていく。今後、テレビドラマや映画で、彼はどんな演技を見せるのだろうか?
週刊新潮WEB取材班
2019年4月30日 掲載
外部リンク
東京五輪で最もメダルが期待できる競技「競歩」で日本新記録
東京五輪クイズです。
陸上競技で最もメダルが期待できるのは何でしょう。
マラソン? 400メートルリレー? いえいえ、答えは“競歩”。あの、ちょっぴりユーモラスな動きでスタスタ歩くやつです。
競歩には20キロと50キロがあるのをご存知ですか。素人目には単に距離が違うだけに思えますが、
「実は、まったく違う種目と言っても過言ではありません」(大手紙陸上記者)
なるほど。短距離走では100メートルと200メートルを同時エントリーする選手は珍しくありませんし、ハーフマラソンとマラソンも然りです。でも、競歩の20キロと50キロはそうはいかないようなんです。
「20キロは、短距離走のようにスピードを競う競技。一方、50キロは駆け引きやスタミナ、最後は根性で勝負が決まる。極端な話、100メートル走とマラソンくらい違います」
ところが、そんな競歩界に激震が走ったのです。
日本選手権50キロ競歩が14日行われ、鈴木雄介(31)が3時間39分07秒の日本新記録で初優勝しました。この鈴木、実は20キロで1時間16分36秒の世界記録保持者なのです。ボルトが東京マラソンで優勝したようなもの、と言ってはさすがに言い過ぎでしょうか。
そりゃあ、相手がド素人ならありうるかもしれませんよ。でも、日本は50キロも強いんです。エースの荒井広宙(ひろおき)(30)は17年世界選手権で銀メダル、16年リオ五輪で銅メダルを獲得しています。
今回、鈴木は荒井ら国内三傑をも破ったのです。
「荒井はゴール後、“50キロの常識が覆された”とショックを受けていました」
さて、優勝した鈴木は、今秋開催される世界選手権ドーハ大会の出場権を獲得しました。ところが、
「“出ないかも”と言うんです。理由は、レースが行われる時間帯です」
東京五輪の競歩50キロは朝5時半スタートに決まりましたが、それより暑いドーハでは夜11時半にスタートするのです。海外では時差を調整するだけでも大変なのに、更に“夜に歩く”というギャップ。
「鈴木が言うには“夜中に4時間近く歩くなんて人間のリズムには絶対にそぐわない。凄いダメージが残る。夜中でもドーハは暑いし、日差しなど東京五輪の想定にはならないレース。なので、ドーハでの経験は東京には生きない”と」
とにもかくにも鈴木選手、東京五輪金メダル目指して突っ走れ、もとい歩け歩け。
「週刊新潮」2019年4月25日号 掲載
外部リンク
平成の31年間で「ワイドショー」はどう変わったか 有田芳生と東国原英夫の違い
「新潮45」「週刊新潮」で「見ずにすませるワイドショー」を連載していたコラムニストの林操氏が「平成」のワイドショーを振り返る。なんでも連載が終わった今は、自ら見ずにすませているのだとか、その心とは?
***
年度替わり、元号替わりで、世の中がドタバタしてるときに、統一地方選だ衆院補選だと選挙がまたうるさいわけですが、こういう政治の季節になるたびに思い出す番組があって、それは昔、日テレ系の平日午後にやってた「ザ・ワイド」。
「スーパーひとしくん」こと草野仁が司会で1993年から2007年まで14年半続いたワイドショーで、ここで長らく(12年半)メインのコメンテーターを務め、草野に次ぐ番組の顔になっていた有田芳生は今、立憲民主所属の参議院議員。縁あって彼のツイッターをフォローしてるゆえ、あちこちで選挙があるたび立民系候補の応援に飛び回ってる様子が飛び込んできて、それでいちいち「ザ・ワイド」が頭に浮かんでくるわけです。
実はワタシ、「見ずにすませるワイドショー」なるコラムを、今は亡き「新潮45」にて2000年から、今なお健在の「週刊新潮」にて02年から09年まで続けさせてもらってまして、足掛け9年、朝も昼も午後も各局のワイドショーを見続けてました。これはなかなかにキツい仕事で、連載の途中、30日間の1日3食をマクドナルドだけで摂り続けると人間はさてどうなるかという恐怖のドキュメンタリー映画「スーパーサイズ・ミー」を観て、まったく他人事に思えず、「ワイドショーはファストフード」だと知り合いに吹聴しまくってたくらい。
そういう情報ファストフードの山に囲まれ、渦に呑まれて脳が胃もたれする中で、「ザ・ワイド」で聞ける有田の的確なコメントは、干天の慈雨にして、マックのグリーンサラダにして、吉野家の生ビール。当時、「週刊新潮」からワイドショーのコメンテーターの採点を頼まれた折には、「ブロードキャスター」(TBS系)のジョージ・フィールズと平田オリザ、「情報プレゼンター とくダネ!」(フジ系)のピーコ、「ザ・ワイド」のデーブ・スペクターたちと並ぶ最高得点をつけた記憶もある。
で、ツィッターで有田の東奔西走を横目に、現在ただいまのワイドショーを眺めててガックリ脱力する、というより、それをきっかけにチャンネル変えるのは、東国原英夫元知事こと元そのまんま東がコメンテーターをやってるのに出くわしたとき。だって、あまりにもデカすぎてさ、元コメンテーターで現政治家の有田と、元政治家で現コメンテーターの東国原の落差が。
いや、彼の政治コメンテーターとしての能力にケチつけてるわけじゃないんです。勉強してるし、話はうまいし、政権批判も政権擁護も是々非々でできる。だけど、昼の「バイキング」(フジ系)や午後の「ゴゴスマ」(TBS系)で見かけると胃酸が上がってきちゃう感じなのは、あの無駄なギラギラ、無意味なギスギスゆえなのかなぁ。かつて自民党総裁の椅子まで求めたギラギラ、理念の追求より現実の受容を語りたがるギスギス。安心して話を聞いてられないんだよ、有田のときみたいには。
髪は薄いまま、ジャケットはヨレたままで、長年、草野仁の隣に控えて、草野の投げた球を草野がちゃんと受け止められるように、でも球筋は膨らませて打ち返し、そこに柔らかなユーモアも添える。「雨ニモマケズ」の「サウイフモノ」みたいなコメンテーターだったからね、有田は。
減った反政権系コメンテーター
もちろん、東国原ひとりを責めてるわけでもありません。たとえば、同じくワイドショーでよく見かける政治系のコメンテーターなら、「ひるおび!」(TBS系)のスシローこと田崎史郎だって、ワタシの耳には「官邸のほうから来ました」と言ってアベノミクスやらアベガイコーやらを売り歩く政権のセールスマンにしか聞こえないから、話聞く時間がもったいない相手。似たようなことは、同じ番組のサブ司会の八代英輝も言えて、ネットには「スシロー&ヤシロー」なんて揶揄もある。
ただ考えてみりゃ、スシローもヤシローもかわいそうと言えばかわいそうで、昔っから党派性丸出しの政治コメンテーターはフツーにいた。ただ、野党の力が今よりあったから反政権系のコメンテーターがもっといたし、自民党が派閥で割れてたから同じ与党系でも竹下派出入りのコメンテーターと森派出入りのコメンテーターは対立していたしで、バランスはなんとか取れてて、誰かが仲間褒めと敵貶しに熱中してても、ひどく偏って見えたり、ひどくポチに見えたりすることはなかった。
安倍一強が続いてワイドショーの政治の扱いも歪んじゃって、反安倍・非安倍のコメンテーターを起用させることがめっきり減り、それでスシローやヤシローが浮いて見えるわけでね。また有田の話で恐縮ながら、「ザ・ワイド」も番組として安倍贔屓で、彼が小泉政権で自民党の幹事長に引き立てられたときもゲストに呼んで、草野が「行列のできる幹事長」なんてヨイショしてたとき、脇の有田はそれこそ「雨ニモマケズ」式に「決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル」という具合で、距離を置き、バランスを取ってた。「サウイフこめんてーたーヲ/ワタシハミタイ」。
安倍一強を生きるスシロー&ヤシローにしたって、本音のオベンチャラは減らして建前の政権批判でも混ぜときゃ悪目立ちしないのに、とは思う。でも、失われた30年の平成も終わる今、ニッポンだって勝った奴は徹底的に勝つ、勝者総取りの国になりつつあって、そういう平衡感覚は制作側にも出演側にも相当薄い。
ワイドショーのコメンテーター批評ってのは、やってて虚しいことも多くて、それは結局のところ、ツッコミどころはコメンテーター個人より、彼・彼女を起用する制作側にこそあったりするから。ショーンKの経歴詐称騒ぎだって、あの中に多少なりとも罪があるのだとすれば、そのかなりの部分は、コメンテーターに引っ張ってきた「とくダネ!」が負うべきだと思う。
あの番組で、経歴詐称祭り以前からコメンテーターを続けていた人は、複雑だよね。だって、アナタはショーンKと同じくらいテキトーに選ばれた逸材なんですねって話だもの。ショーンKが夜ニュースのキャスターに起用されて騒動になったとき、フジ方面の知り合いに「ワタシもコーカソイド(白人)系に整形してキャスター目指すよ、『ショーンBen』って芸名で」と冗談言ったら不機嫌になられたけれど、その知り合いも認めてはいたもんね、「ワイドショー(の制作者)が意識低いのは昔っから。それが報道にまで拡がってきてるから怖い」って。
死んだはずだよTBS
思い返してみればワイドショーの平成史は、1989年の10月にTBS系の「3時にあいましょう」のスタッフが、坂本堤弁護士のオウム真理教批判インタビューを教団側に見せたところから始まったという言い方もできます。これが発覚したのはオウムに強制捜査が入った95年で、局側がようやく認めて謝罪したのが翌96年のことでした。
このとき自局の「NEWS23」の筑紫哲也に「死んだに等しい」とまで言われたTBSは、朝と午後のワイドショーを打ち切ったわけですが、あれから20年。筑紫は亡くなり、オウムの幹部は死刑に処され、TBSは朝が「ビビット」、昼が「ひるおび!」、午後が「ゴゴスマ」とワイドショー尽くし。アンタだけ、死んでまへんな、TBS。
一方、時計をTBSオウムビデオ問題のころまで戻して、カメラを赤坂から六本木に切り替えると、1997年にテレ朝系で平日夕方のニュース「スーパーJチャンネル」が始まってまして、これは今でもフツーの報道番組のように続いてるからみなさん結構お忘れですが、番組スタート時のキャスターは、月~木曜が石田、金曜が田代というメンツでした。
念押ししておくと、石田ってのは石田純一、田代ってのは田代まさし。さっき紹介した「ワイドショーが意識低いのは昔っから。それが報道にまで拡がってきてるから怖い」っていうフジ方面のコメントを思い出すと、この点でテレ朝はフジより20年進んでたとも言えるし、フジはテレ朝より20年遅れてたとも言えるとして、「zero」って名前の平日夜のニュースに嵐の櫻井翔や長嶋一茂、桐谷美玲あたりを2006年から起用して、引き続き櫻井は続投させてる日テレという局は、さてどこより何年進んでて、何年遅れてるんだか。
この局が午後のワイドショー(「ザ・ワイド」)の自社制作から撤退して、系列の読売テレビ制作の「ミヤネ屋」を流すようになったのは2008年。個人的には大阪制作の番組には好物が多いのに、「ミヤネ屋」だけは東京進出前から苦手で、「見ずにすませるワイドショー」という連載が09年に終わったとき、もうあの番組を毎日チェックする義務が雲散霧消したので嬉しかった記憶があるくらい。
突き詰めれば、司会の宮根誠司を長時間正視していられないという、TVウォッチャーとして致命的な欠陥があるため、フジ系日曜夜の「Mr.サンデー」も仕事以外ではまず見ないんだけれど、考えてみたらワタシにとって宮根は、東国原と共通する苦手物件なんだな。ギラギラ&ギスギス。
御代が代わって恩赦さえ行われそうな今日このごろ、下半身スキャンダルの蒸し返しは避けますが、かつて宮根に一騒動(いや二騒動?)持ち上がったとき、事前に噂が耳に入っていたとかそんなことは一切なかったのに、まったく驚きがなかったもんなぁ。「朝ズバッ!」(TBS系)のみのもんたや「とくダネ!」の菊川怜もまた、自身にワイドショーネタが降り掛かったワイドショー司会者で、結局2人とも降板してますが、宮根様におかれましてはますますご盛業。見る気もますます衰退するよ。
ワイドショーはオワコンか?
なぜか生きてるTBSも、「ゴゴスマ」は自社ではなく系列のCBC(中部日本放送)制作。司会の石井亮次アナは、見疲れ・聞き疲れのしない正統局アナ系ワイドショーMCとして、「ザ・ワイド」の草野の再来、あるいは「ワイド!スクランブル」(テレ朝系)の大下容子アナの男版で、ワタシ、嫌いじゃありません。「宮根と一緒くたに並べるな!」というファンからの抗議がすでに空耳で聞こえてくるけれど、司会はともかく、番組の作りのユルさは「ミヤネヤ」と「ゴゴスマ」の共通点。
大阪と名古屋の準キー局とはいえ、番組の体裁を整えるクオリティーとなると東京キー局には及ばない部分はまだあるわけで、そんなところで追いつけ追い越せなんてことは求めません。コンプライアンス過剰・忖度過剰の東京キー局では自主規制にひっかかるような企画やキャスティングを、シレっと通して全国に流す。それが地方局制作の番組に対する最大の期待なんですが、「ミヤネ屋」も「ゴゴスマ」も、そのあたりは薄味。東京の連中(特に与党とか芸能プロとか)は見ちゃいないというつもりで番組を作っちゃもらえませんかね、ここはひとつ。さもないと、東京キー局の制作コスト削減のための番組だと見透かされますぜ。
そもそもワイドショーってのは報道でも芸能でもスポーツでもない、TVの世界では終焉、じゃない周縁のような存在。東京以外の局が制作したり、偉そうなオッサンじゃない若手や女性が司会したりと、中心で作られる番組とは違うあり方があってあたりまえで、面白さはそこからも生まれるはず。なのに「ミヤネ屋」も「ゴゴスマ」も、東京の偉そうなオッサンが前世紀の1999年から仕切り続けてる「とくダネ!」と特に変わったところがない。
ここまで触れてない「羽鳥慎一モーニングショー」(テレ朝系)や「スッキリ」(日テレ系)にも飛び抜けた特色があるわけでもなく、ただ「モーニングショー」は一茂の使い方がうまいなとか、玉川徹とか青木理とかの反政権系コメンテーターの起用が他にはないなとか、感心することが多めだというくらい(だから毎日欠かさず見てます……ということにはならない)。
正直なところ、TBSがワイドショーから手を引き、日テレが「ザ・ワイド」を打ち切りという流れが10年周期で起きるたび、ワイドショーはオワコンかなと感じてきました。だがしかし、制作が東京から離れてコストが下がったとか、司会者のケツ持ちがエラいので打ち切りにはならないとか、たぶんそういう理由で、平成が終わる今なお、ワイドショーは続いてます。
そこにはジョージ・フィールズ(故人)も平田オリザもピーコも有田芳生もおらず、ショーンKでもショーンBenでもないコメンテーターたちが並んで相槌を打ち、デーブ・スペクターの秀逸なギャグと玉川徹の秀逸な怒り、古市憲寿(「とくダネ!」)の秀逸な全方位キックが上滑りする、ヌルい朝、ヌルい昼、ヌルい午後の繰り返し。そんな中に、さぁ令和の世がやってきました。
引き続きワイドショーのある新時代。
「見ずにすませるワイドショー」という連載がもはや続いておらず、ワイドショーの定点観測が仕事ではなくなっていること、あらためて本当にありがたいかぎりです。
林操(はやし・みさお)
コラムニスト。1999~2009年に「新潮45」で、2000年から「週刊新潮」で、テレビ評「見ずにすませるワイドショー」を連載。テレビの凋落や芸能界の実態についての認知度上昇により使命は果たしたとしてセミリタイア中。
2019年4月29日 掲載
外部リンク
迷宮入りの「悪魔の詩」訳者殺人、問題にされた2つのポイント【平成の怪事件簿】
ひとけのない夏休みのキャンパスで発見されたのは、喉を切られた死体だった。それはイスラム式の「処刑」だった。「悪魔の詩訳者殺人事件」は、平成を代表する迷宮入り事件のひとつである。(駒村吉重 ノンフィクション・ライター)
***
イランの最高指導者ホメイニ師が、イスラムを冒涜したとして英国人著者に死刑を宣告した話題の小説『悪魔の詩』の日本語版出版は、その滑り出しから波乱含みとなった。
翻訳者である五十嵐一筑波大学助教授、イタリア人の出版者パルマ・ジャンニ氏らが、東京都内の日本外国特派員協会で開かれた出版記念記者会見に臨んだのは、平成2年2月だった。会場には、在日パキスタン協会のライース・スィビキ会長はじめ、出版に抗議するイスラム教徒の姿もあった。そんななか突如、1人のパキスタン人男性が、マイクを振りかざして会見席に飛び込んでいったのである。
男が取り押さえられるとパルマ氏はすかさず、言論と表現活動の自由を対決的な口調で主張した。すると今度は、ライース会長が、パルマ氏に堂々と「死刑宣告」を突きつけ「会場の空気は緊迫の度を深めたのだった。この異様な展開に「違和感を覚え」た五十嵐助教授は、同年4月号の「中央公論」に「私はなぜ『悪魔の詩』を訳したか」を寄稿し、その真意をあらためて語っている。
「一読者として興味を覚え、かつ一イスラーム研究者としても、同宗教に対する冒涜の書ではないと判断したからこそ、翻訳を引きうけたのであって、何も言論出版の自由、表現の自由のためにひと肌脱いだわけではないのである」
混乱の渦中にありながら、冷静さを見失わなかった44歳の五十嵐助教授が、刺殺体で発見されたのは、会見から1年半ほどが過ぎた平成3年7月12日朝のことだ。五十嵐助教授が倒れていたのは、筑波大学人文社会学系A棟7階のエレベーター前の踊り場だった。左に2カ所、右に1カ所あった首の傷は、ともに頸動脈を切断するほどの深さで、右側の胸や腹など3カ所に及んだ刺し傷は、一部肝臓にまで達していた。当時、中東問題に詳しい評論家の平島祥男氏は、犯人像についてこんな推察をしていた。
「“処刑”であることは殺され方を見れば歴然ですよ。日本人なら短刀でひと突きという方法をとるのに、この場合はノド首を切られてるでしょ。イスラム式の殺し方ですね」(同年7月28日号の「週刊読売」)
ほかに怨恨、右翼犯行説などの可能性も考えられたが、しかしエレベーターの使用を避け、階段で3階まで降り、非常階段から逃走した犯人の消息は、そこできれいにかき消えてしまっていた。
劇団の代表、バンドのボーカルも務めた五十嵐助教授は、執筆や演劇活動を通じて持論を積極的に発信していく行動派として知られ、その講義は、常時300人近い学生が詰めかけるほどの人気を集めていた。「死刑宣告されて危ないんだ」などと冗談を交えつつ、『悪魔の詩』を講義テキストに使うこともあったようだ。
つくば中央署が身辺警護を打診した際には、「本を読んでもらえば、誤解されるようなことはないから心配ない」(「週刊文春」平成3年7月25日号)と、申し出を断っていた。同じ時期、出版者のパルマ氏が、中東風の男に尾行されるなどして、危機感を募らせていたのとは対照的な態度を通したのは、イステム世界に傾けた真摯な研究姿勢への自信があってこそだったと思われる。
死刑宣告を招いた記述
イギリスの大手出版社ペンギンブックス社から『悪魔の詩』が出版されたのは、1988年9月だった。著者のサルマン・ラシュディ氏は、インドの大都市ボンベイのイスラム家庭に生まれ、ケンブリッジ大学に学んだインド系英国人だ。
間もなく、『悪魔の詩』の出版禁止を求めた欧米のイスラム教徒によって、大規模なデモ行動が引き起こされた。殺気だった抗議活動をさらに燃え広がらせたのは、出版の翌89年2月、イランの最高指導者ホメイニ師が、著者に下した「死刑判決」だった。全世界のムスリムに向けて昂然と判決の履行を呼びかけたに等しい宗教判断に対し、ラシュディ氏を完全保護下に置いた英国政府は、イランとの国交断絶に踏み切るのである。
そんな騒動の最中に、パルマ氏は、五十嵐助教授に『悪魔の詩』日本語版の翻訳依頼を持ち込んでいた。すでに、何人かの候補者に依頼を断わられた後であった。東京大学理学部数学科を卒業した五十嵐助教授は、同大学院では人文科学研究科の美学芸術学博士課程を専攻、修了後にはイラン王立哲学アカデミーに研究員として招かれていた。理数畑から研究領域を大胆に広げた特異な経歴は、助教授の旺盛な探究心を窺わせる。
この問題の書『悪魔の詩』とはいかなる小説であったのだろうか。主人公は、ボンベイの貧困家庭と裕福な家に生まれた2人のインド人青年だ。英国に出てつかず離れずの日々を送る2人が、ひとりの女性をめぐって争い、やがてそれぞれの明暗を胸に、インドへ戻ってゆくというのが、かなり大ざっぱな粗筋である。
「要約してしまえば、一種のメロドラマにすぎない。そんな小説がなぜイスラム教徒を刺激する作品になったかといえば、偶数章のすべてを占める、夢もしくは幻想場面の内容にある」と、五十嵐助教授は「月刊Asahi」平成元年6月号で語っている。「一部のイスラーム教徒が『悪魔の詩』を糾弾するポイントは、二つに絞られよう。教義上の問題と品性上の問題である」(前出「中央公論」)と考察する教授は、小説中の2場面を論点に取り上げている。ひとつは、イスラムの預言者ムハンマドを彷彿させる人物が、大神アッラーに帰依する3女神の存在を認めた場面だ。これを、純正なる一神教を冒涜した比喩と、一部イスラム教徒は解釈したらしかった。もうひとつは、預言者の2番目の妻が、娼婦としてハーレムにいたという設定である。
五十嵐助教授は、前出2題の寄稿で、問題部分をイスラムの規範に照らしつつ詳細に検証した上で、ホメイニ判決に便乗する一部イスラム教徒に向けて、こんなメッセージを送った。
「ホメイニー師の死刑宣告は勇み足であった。(中略)イスラームこそ元来は、もっともっと大きくて健康的な宗教ではなかったか」(同「中央公論」)
容疑者
事件から7年後、惨劇が風化しはじめた平成10年4月30日号の「週刊文春」に、突如次のような見出しが掲載された。
「『悪魔の詩』五十嵐助教授殺人に『容疑者』浮上」
同誌が入手した「治安当局が『容疑者』を特定していた極秘報告書」とは、事件当時、外国人の出入国記録を徹底的に洗っていた東京入国管理局が作成した文書だった。記事によれば、その人物は筑波大学に短期留学していたバングラディシュ人学生。五十嵐助教授が遺体で発見された7月12日の昼過ぎに、彼は成田を発って母国に戻っていた。報告書には推定殺害時刻「7月11日深夜から翌12日未明にかけて」という解剖結果も記されていた。だとすれば、彼の行動は、極めて意味深いものになる。
一方、元CIA(米中央情報局)のケネス・ポラック氏の著書『ザ・パージァン・パズル』には、別の見解が登場する。五十嵐助教授を手にかけたのは、イラン軍部のひとつ「イラン革命防衛隊」との記述があるのだ。しかし真相は、依然霧に包まれたままである。ひとけのない夏休み中のキャンパスに有力な目撃情報はなく、当初から苦戦を強いられた捜査は、次第に歳月のなかに埋没していった。そして事件発生からまる15年を経た平成18年7月11日、ついに公訴時効の日を迎えることとなったのである。
その3日後、五十嵐助教授の研究者仲間や教え子ら150人ほどが集い、恒例の「しのぶ会」が東京都内で開かれた。時効の1カ月前、雅子夫人は、年1度の会を続けるひとつの意義をこう語っている。「仮に時効が成立しても、(事件を風化させなければ)その後からだって、犯人特定につながるような話が出てくるかもしれませんし」(同年6月11日付「読売新聞」、括弧内筆者)
さて、英国人著者ラシュディ氏である。死刑宣告から9年後の98年、ホメイニ師亡きあとのイラン政府は事実上、ラシュディ氏に対する死刑宣告を破棄して、イギリスとの関係改善に乗り出した。これに反発した革命防衛隊などが「宣告は撤回せず」との声明を発しているが、ラシュディ氏はいまも健在で、文筆、言論活動を続けている。
駒村吉重
週刊新潮WEB取材班
2019年4月29日 掲載
外部リンク
松田聖子、神田沙也加に愛人・ジェフ君を「パパ」と呼ばせ…今も残る母子のシコリ
「貴乃花」家族和解でひもとく有名人「骨肉の争い」――松田聖子
さる3月4日、松田聖子(57)の姿は、故郷の福岡県久留米市の市民ホールにあった。デビュー直後を除けば実に38年ぶりの凱旋公演。地元のファンに向けて「今日は久留米弁で話すね」と語りかけたという。
蒲池法子が松田聖子を名乗り始めて40年の月日が流れようとしている。そのキャリアの中で、聖子はヒット曲を通じ、時代を画してきた。他方、少なくない男たちと浮名を流し、それが母や娘との相克を生んだのも事実だろう。
85年、郷ひろみと破局した際に飛びだしたのが、
「生まれ変わったら、一緒になろうねと話し合った」
という“名言”だが、後に郷はこれが彼女の創作だったと明かしている。
郷との破局を涙ながらに公表してからわずか3カ月後、神田正輝との婚約を発表した際には、
「この人なら一生ついていけると思いました。私が仕事をすることにも理解を持ってくれていますが、当分は、主婦業に専念したい」
と一転、笑顔で話した。“聖輝の結婚”などと話題をさらったものだ。
翌年に娘の沙也加(32)を出産。しかし、その結婚は干支ひと回りして破綻する。
「私が女性、妻として正輝さんに、きちんとしてあげられなかった。至らなかった」
とは離婚会見での言葉だが、芸能デスクによると、
「仮面の期間が長かった夫婦でした。たとえば彼女は、NYから“ジェフ君”と呼ばれる愛人を呼び寄せて、人目も憚らず、自宅に近いフランス料理店などで逢瀬を重ねていました。小学校に上がる前の沙也加をデートの場に同席させて、ジェフを“パパ”とまで呼ばせたほど。仕事と恋愛で忙しかった彼女に代わり、沙也加を実際に育てたのは、聖子の実母。この時期の彼女の振る舞いが、後に、娘との関係に亀裂を生じさせることになります」
五輪で国家独唱を
破局原因の一つと目された“ジェフ君”だったが、その後、彼と結ばれたわけではない。別の白人ダンサーとの“二股不倫疑惑”が持ち上がり、彼とも長くは続かなかった。結局、彼女が再婚相手に選んだのは歯科医の波多野浩之で、
「会った瞬間、ビビビときた」
というコメントを、神田との離婚から1年4カ月後に公表。“ビビビ婚”の流行語も生んだものの、00年に2度目の離婚に至っている。
「波多野さんとの離婚後、ミュージシャン・原田真二との熱愛が報じられましたが、元スポーツトレーナーの男性を見初め、マネージャーに据えるようになります。一方で04年、沙也加に12歳年上の男性との交際が発覚すると聖子は交際に猛反対。母娘関係が決定的にこじれてしまった。沙也加からすれば、“お母さんばっかり自由に恋愛できてズルい”となるのも当然。結局、沙也加は芸能活動の休止を余儀なくされ、生活費の仕送りも止められてしまうほどの事態になりました」(前出デスク)
長く断絶が続いたが、11年には紅白で母娘デュエットを実現し、和解を演出した。とはいえ、17年に沙也加が俳優の村田充と結婚した際には、結婚式及び披露宴に聖子は不参加。
「今に至るまで、彼女は娘の結婚にきちんとコメントをしておらず、母娘のシコリは残っているはず」(同)
もっとも、彼女が抱える葛藤は一つではない。実の母との間にも……。
「聖子は歯科医で慶応大学准教授の男と3度目の結婚をしています。12年、50歳の節目ですね。一方でその後もかねてから噂になっていたマネージャーの男性とのただならぬ関係がささやかれました。実際、14年には母親と二人三脚で運営してきた個人事務所を退所し、そのマネージャーの男性と新事務所を立ち上げています。その頃、母親が娘の家を出たこともありました」(同)
傘寿を過ぎた母親が家出とは穏当には聞こえないが、昨年になって両者は和解。差し当たって、彼女のそばには実母が付き人のように寄り添っているという。そこには、さる芸能事務所幹部が言うように、
「聖子は“東京五輪で国歌独唱をしたい”と話している。その目的のために少なくとも、聖子夫婦と母は一致団結しているんです」
といった共通の目標があるようだ。
(文中一部敬称略)
「週刊新潮」2019年4月25日号 掲載
外部リンク
キャッシュレス決済はそんなにいいか 還元キャンペーンで浮き彫りになったリスク
そのバスに乗らないと待ち合わせ時間に間に合わない、というなら、乗り遅れないほうがいいに決まっているが、「バスに乗り遅れるな」という掛け声は、往々にして行き先さえ告げていないから要注意だ。
たとえば、1940年の日独伊三国同盟への参加を煽った掛け声も「バスに乗り遅れるな」だったが、駆け乗ったバスは対米戦争に突き進み、終点は日本の破滅であった。
最近でいえば、「バスに乗れ」とうるさいのが、キャッシュレスである。
「日本では、キャッシュレスの利用率は20%ほど。海外では韓国が90%、中国が60%、アメリカが45%などで、日本は圧倒的に現金派が多いのです」
と、消費生活ジャーナリストの岩田昭男氏は言うが、政府はいま、2025年までにキャッシュレス決済を40%にまで高め、将来は8割にすると、壮大な目標を掲げている。これでは現金派が、自分は2割の少数派になってしまうのか、と焦るのは無理もない。
そのうえ、10月の消費税率引き上げから9カ月限定で、中小店舗でキャッシュレス決済した場合は5%を、コンビニなどフランチャイズの店舗では2%を、消費者に還元すると決まっている。むろん、これも経済産業省のキャッシュレス推進策の一環で、それに合わせて、キャッシュレス決済事業者が100社以上も経産省に仮登録を申請、なんてニュースも流れるものだから、自分もキャッシュレスにしなきゃ大損する、時代から取り残される――。そうやって焦燥に駆られる人も急増しているのだ。
では、実際のところ、キャッシュレスに乗り遅れないほうがいいのか。焦る人を前に結論を先延ばしするのも無粋なので、ひとまず先に述べておくが、バスに乗る必要はまったくない。
さて、ひと口にキャッシュレスといっても、
「大きく分けてクレジットカード、電子マネー、スマートフォンを使ったQRコード決済の三つがある。最近乱立しているのが、ソフトバンクとヤフーが運営し、昨年12月、“100億円キャンペーン”を行った“ペイペイ”、続いて“20%還元キャンペーン”を行っている“LINEペイ”などのQRコード決済です」
と岩田氏。これは、四角いモザイク状のQRコードをスマホで読み取ったりして決済する方式で、今後のキャッシュレス決済の中核をなすと見られている。今回は、主にスマホを使ったこの決済の“善し悪し”を検証する。
ところで、いまキャンペーンについて話に挙がったので、どんなものであったか確認しておくと、
「“100億円キャンペーン”はペイペイで決済した消費者に、決済額の20%のポイントを還元し、さらに抽選で決済額を全額無料にするというもの。還元額が100億円に達したら終了する予定でしたが、実際にはテレビやSNSで話題になって、わずか10日で終了してしまいました」(同)
ペイペイにとって大きな宣伝になり、現在、第2弾を実施中だが、岩田氏は、
「効果は絶大でしたが、必ずしも成功とはいえない」
と言って、続ける。
「4カ月と謳いながら10日で終了したことで、消費者に不信感を与えたのではないでしょうか。100億円をばら撒くというやり方は、ギャンブル的な臭いもし、不愉快に感じた人も多かったと思います」
しかも昨年末、キャンペーンが終わるやいなや、ペイペイの不正使用の報告が相次ぎ、「100万円利用された」という人も出現。闇サイトでクレジットカード番号などを入手されてしまうと、簡単に不正使用されるというリスクが浮き彫りになったのである。
業者のためのもの
いきなり危険な香りがプンプンだが、わかりにくいQRコード決済の仕組みについて、もう少し説明しておきたい。
たとえば同じキャッシュレスでも、Suicaなど交通系の電子マネーの場合、店が電子データを読み取る専用端末を導入する必要があり、その数万円の費用が中小店舗には負担になっていた。一方、QRコードなどを読み取るスマホ決済なら、レジに備わるバーコード読み取り機が使え、それがなくても、QRコードが印刷された紙さえあれば、客にスマホで読み取ってもらって決済できる。
だから、中小や零細の小売店でも導入しやすいというのだが、それは消費者には関係ない話である。
「誤解してはいけないのは、キャッシュレス決済は顧客のためのものではなく、ビッグデータの収集や人件費の節約など、あくまでもお店や、サービスを提供する側のためのものだ、ということです」
と言うのは、消費経済ジャーナリストの松崎のり子さん。経済産業省消費・流通政策課のキャッシュレス推進担当に聞いても、
「推進する目的は、店舗の現金管理コストをカットすることと、客が現金を出す手間を省くことです」
という返答だ。実際、みずほフィナンシャルグループは、日本では現在、現金を取り扱うためのコストが年間8兆円におよび、キャッシュレス化でそれを半減できると試算するが、べつに消費者の利便性が増すという話ではない。松崎さんが再び言うには、
「日本は“キャッシュレス後進国”だとネガティブに表現されますが、だから日本が遅れているとは思いません。現金を使う人が多いのは、裏返せば、現金を持ち歩いても襲われる心配が少ない治安のよさ、レジで瞬時に計算ができる能力の高さを示しています」
前出の岩田氏も、いまQRコード決済が乱立している理由をこう説明する。
「背景には、サービスを提供する企業にとって“宝の山”である顧客情報の存在があります。そもそもQRコード決済のサービスを提供するのは、膨大な顧客情報をもつ企業ばかり。それがお得な自社ポイント還元で顧客を囲い込むと同時に、年齢、性別、職業、購買履歴などを記録し、自社のマーケティング戦略に利用しようというのです。将来的には顧客から収集した個人情報のビッグデータが、企業間で共有されることもないとは言い切れません。情報漏洩のリスクも考えると、現金にくらべてキャッシュレスは圧倒的にデメリットが大きいです」
情報がオレオレ詐欺に流れる危険性だって、否定できないのだ。
人情味も失われる
東京の下町、墨田区の商店街連合会は、昨年12月からペイペイと共同で、「キャッシュレス実証実験プロジェクト」を行った。向島橘銀座商店街協同組合の大和和道事務局長は、
「“こんな下町の商店街がキャッシュレス決済を導入した”と注目され、マスコミの取材がたくさん来た」
と語るが、肝心のペイペイについては、
「約75軒ある店のうち、25軒で導入し、利用を取りやめた店はありませんが、導入して売り上げが増えたという話は聞きません」
とのこと。焼き鳥と惣菜を売る店の店主は、
「紙のQRコードを店の前に置くだけだし、キャンペーン中なのでわれわれ店には手数料もかからず、よいことばかり」
と言いつつ、わからないことをペイペイの担当者に尋ねるうちに、
「お客さんが600円の買い物をするとして、“500円はペイペイであとは現金”といわれても、現金との併用はできないと教えてもらいました」
と不便さも学習しつつある。また和菓子店では、
「この前、注文を受けてお菓子を包んでいる間に、お客さんがペイペイで勝手に決済しちゃって。“もう払った”と言われても、お客さんのスマホの画面を見ても支払ったかわからなくて、不安に思っていたら、お客さんが怒っちゃってね」
中小店舗も導入しやすいのがウリでも、現実には店舗も戸惑っていたのだ。
とまれ、さすがに国を挙げて「キャッシュレス」と大合唱されれば、バスに乗り遅れないかと不安になる人は多いようで、評論家の大宅映子さん(78)も、
「やっとスマホに慣れてきたけど、急に動かなくなったりするし、失くしたりもするので、財布の機能までついたら、使いこなせる気がしません。詳しい人に手取り足取り教えてもらえば、使えるようになるのかもしれないけど、そんなわけにいきませんよね」
と不安を漏らす。だが、読者はもうおわかりかと思うが、教わる必要もないのである。元サッカー選手の釜本邦茂氏(75)は、
「僕は昔人間なので、いまもガラケーですよ。そういう人にQRコード決済とか言われても無理。僕が生まれ育った関西には値切る文化があって、会話ができるんです。古い市場で“おっさん、あれなに?”と聞いたりして買い物をするのが僕は好き。キャッシュレスだと、そういう人情味もますますなくなりますよね」
そう言いながら、
「キャッシュレスを勉強しなきゃいけないのかな」
と不安も漏らすが、いやいや、勉強する必要などさらさらない。現金なら使えない場所はなく、情報が流出する心配もなく、災害が起きようが停電になろうが、有事には現金が強く、問題ない。堂々と使い続けても、使う本人が困ることはなにもないのである。
「週刊新潮」2019年4月25日号 掲載
外部リンク
「食べてはいけないレトルト食品」ランキング カレー、パスタソースに注意!?
食べてはいけない「レトルト食品」「お菓子」実名リスト(1/2)
「超加工食品」の摂取量が増えるとがんリスクも上昇する――衝撃的なデータが書かれた論文を元に、本誌(「週刊新潮」)は食べてはいけない商品の徹底調査を敢行した。今回は身近な「レトルト食品」と「お菓子」をチェック。買い物に必携の実名リストをお届けしよう。(以下は「週刊新潮」2019年2月7日号掲載時点の情報です)
***
日本人の2人に1人がなるがんから逃れるにはどうしたらいいのか。誰もが抱く不安に応えようと、世には膨大な情報が氾濫している。その選択肢は千差万別で戸惑う人も多いだろう。
そこで週刊新潮では、誰もが手軽にがんのリスクを低減できる術を紹介した。その方法はいたって簡単、パンやインスタント食品などの「超加工食品」をできるだけ食べないこと。これらの摂取量が増えると、がんの罹患率が上昇するという衝撃的なデータがあるからだ。
ここで簡単におさらいしておこう。参考にした研究論文は昨年、フランスのパリ第13大学の研究者たちが、世界四大医学雑誌の一つに数えられるBMJ(ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル)誌に発表したもの。食事における超加工食品(ultra-processed food)の摂取割合が10%増加すると、がんリスクが12%有意に上昇したという内容で、乳がんリスクも11%増加した。
大腸がん、前立腺がんとの関連は認められなかったが、調査対象者は、18歳以上の10万4980人(年齢中央値42・8歳)で、追跡調査の期間は2009年から17年までの8年間。対象者は食事記録を継続してつけ、がんなどの病を患った場合は必ず報告が上がる仕組みの下で実施されたという。
特筆されるのは、巷に溢れる食品を仕分けするために、この論文が使った「NOVA分類」という概念だ。掲載の表をご覧いただくと明解だが、注目すべきはグループ4の超加工食品だ。これらに特徴的な化学調味料や香料をはじめとする食品添加物など(以下、「超加工用添加物」)は、〈グループ1の食品や家庭料理の風味を模倣したり、最終加工品の不快な食感を隠したりする目的〉などで使用され、〈それぞれの食品における成分は健康被害が起きないように当局が管理をしているが、それらの蓄積による影響や混合による影響の多くは分かっていない〉とある。すなわち、がんの罹患リスクが増大するという研究結果の背景には、超加工食品の多くに複数の添加物などが含まれていることが影響している可能性がある、と示唆しているのだ。
食べてはいけない「超加工レトルト食品」リスト
そこで本誌はスーパーの売り場で実際に確認した商品で、「超加工用添加物」が多い順にワーストランキングの形式でまとめた。これまでに取り上げたパン、冷凍食品に続き紹介するのは、食卓でもお馴染みのレトルト食品だ。さっそく掲載のリストをご覧いただこう。消費量が多く、今や国民食となったレトルトカレーが目立つが、1位は日清フーズの「マ・マー クリーミーカルボナーラ」で、添加物等の数は12もある。2位はハインツ製のパスタソースが続くが、これらには共通して発色剤、いわゆる亜硝酸ナトリウムが用いられている。件の論文では〈亜硝酸ナトリウムを含む肉を焦がしたり煮すぎたりすると発がん性のあるニトロソアミンが生成される〉と、その安全性に疑問が呈されている添加物だ。
もうひとつ特に注意すべきは、上位にランクしたレトルト食品に使用されている「乳化剤」である。成分表示で何気なく目にしている方も多かろうが、その実態はほとんど知られていない。
『なにを食べたらいいの?』(新潮文庫)の著者で「加工食品診断士協会」代表理事の安部司氏が解説する。
「乳化剤は水と油など、性質の違う二つのものを混ぜ合わせる働きをします。クリームソースなどがメインの乳製品系のレトルト食品は、クリームだけではコストがかかるため、一部を植物性油脂でおぎなう。その過程で乳脂肪と混ぜ合わせるために、乳化剤は欠かせません」
確かにリストにあるパスタソースの多くに乳化剤が入っており、「クリーム」を謳う商品名が目立つ。
「乳化剤といっても、既存添加物の植物レシチンなど数十種類が存在します」
そう話すのは、厚生労働省第8版食品添加物公定書検討会構成員で元鈴鹿医療科学大学薬学部客員教授の中村幹雄氏である。
「添加物の具体的な表示が義務付けられていないため、消費者は何が入っているか分からないのが問題です。長年使われてきた既存添加物の中には、安全性チェックが不十分な物も少なくない。毒性試験を行えば、かなりの数で発がん性が指摘されると危惧しています」
どういうことか。その実態を中村氏が続けて明かす。
「既存添加物の安全性試験は開発企業が行うので、1%に満たない低濃度のサンプルを出す場合があるのです。私たちの研究チームが、既存添加物であるアカネ色素の毒性試験を高濃度のサンプルで再度行った結果、腎臓への発がん性と遺伝毒性が判明して、使用禁止となったこともありました」
EUの安全性評価は添加物の最大濃度で実施、最低でも20〜30%で行うことが義務付けられていると聞けば、一層不安が募る。
「低糖質」が毒に…
さらに、である。上位の商品では「低糖質」を商品名に掲げたものがある。一見ヘルシーな印象を抱くが、4位のはごろもフーズ「カーボフ低糖質ミートソース」は、甘味料としてスクラロース、アセスルファムKを含んでいる。
これらはカロリーゼロの人工甘味料として重宝されているが、件の論文は〈動物モデルではアスパルテームなどの人工甘味料の安全性は確かめられているが、ヒトへの影響は疑問が残っている。特に長期的な発がん性である〉と述べて、安易な使用に警鐘を鳴らしている。
ベストセラー『医師が教える食事術 最強の教科書』の著者で、AGE牧田クリニック院長の牧田善二氏はこうも言う。
「人工甘味料を摂り続けると腸内細菌のバランスが崩れ、インスリンがブドウ糖を処理する能力が低下し糖尿病になりやすいとの論文もあります。積極的に摂取すべきではありません」
健康のため糖質を抑えたと謳う「低糖質」食品なのに、身体にとって害となるのでは本末転倒だ。
リストに掲載された商品を出している会社に、添加物の問題点について見解を問い合わせたところ、以下のような回答が寄せられた。
「当社製品への食品添加物の使用にあたっては、食品衛生法を遵守しております。貴社ご指摘の健康への影響について問題ないと考えております」(日清フーズ)
(2)へつづく
「週刊新潮」2019年2月7日号初出/2019年4月29日 掲載
外部リンク
オリンピックを復活に導いた独創的なプレゼンの仕掛けとは
男爵の再挑戦
私たちが知っている「オリンピック」はどのようにして生まれたか。前回に続き『歴史を動かしたプレゼン』(林 寧彦・著)を抜粋、引用しながら見てみよう。
前回見たのは、クーベルタン男爵がぶちあげた「オリンピック復活」のプレゼンが失敗に終わったところまでだ。
古代で開かれたスポーツの祭典を現代によみがえらせる――このアイディアが新しすぎたことを失敗の原因として、クーベルタンは回想しているが、実は少しそこには誇張があって、実はアイディアそのものは別の人もすでに提唱していたらしい。「俺がオリジナルだ」と言いたいので、話を少し盛ったようなのだ。
もっとも、プレゼンが失敗したのは事実。その理由として著者の林氏は「観たことがないオリンピックを(プレゼンの)聴衆はリアルに想像できなかった」「根回しゼロだった」「いつどこでどうやるか、といった具体性がなかった」ことなどを挙げている。
しかし、このあとクーベルタンは2度めのプレゼンの機会を得た。というか自分で機会を作ってしまった。
当時、スポーツ関係者の間では「アマチュア」と「プロ」の線引きが問題となり、論争の対象となっていた。そこで1894年、彼はこの問題を話し合う国際会議を開くことにする。彼の腹積もりでは、会議の裏テーマは「オリンピック復活」である。
そして、欧米の名士やスポーツ関係者に会議の案内状を送った。「気が遠くなるほど」の量の手紙を送ったという。
プレゼンの仕掛けで大成功
さらに前回の反省を生かして、プレゼンに独創的なアイディアを盛り込んだ。具体的には以下の通りだ。
「(1)祝典とレセプションを、初日に持ってきた
ふつうなら会議の最終日に催されるそれらの儀式を、会期の冒頭に置いた。初日に参加者の心をつかみ、その後の会議をスムーズに進めるのが狙い。マスコミの関心も、スタートで一気に惹きつけたい。
(2)委員会をふたつに分けた
アマチュア問題を討議する委員会と、オリンピック復活をテーマにする委員会に分けた。つまり、議論百出が予想されるアマチュア問題を一委員会のテーマに押し込めて、オリンピックから切り離した。
(3)開会式の入場券に印刷したのは、『オリンピック大会復活会議』
祝典とレセプションを、あたかもオリンピック復活を祝うような印象を与えるものにする。会議はまだ始まってもいないが、クーベルタンは『オリンピック大会復活検討会議』とはネーミングしない。
(4)会場はソルボンヌ大学大講堂
今回も大学総長に頼みこんで会場を貸してもらった。不当に軽く見られている『スポーツ』の真価を認めさせるには、理性よりも情に訴えるほうが効果的だ。『オリンピック会議+ソルボンヌ大学大講堂』という組み合わせが、オリンピックのイメージを押し上げる効果を十分に計算していた。
(5)ギリシャ国王から感謝の電報
復活の賛否を問う投票が行なわれる2日前(まだ会議が行なわれている最中)に、ギリシャ国王から届いた電報が披露された。復活が決まったことに対して、クーベルタンや会議参加者に感謝するという内容。もちろん、クーベルタンの画策だ。
こうして挙げていくと、プレゼンテーションを始める前の『場』の作り方の巧みさと強引さに舌を巻く。確信犯的なフライングもおりまぜて、オリンピックの復活決議が既成事実であるかのような導き方である」
さらにこのプレゼンをドラマチックにするため、クーベルタンは音楽も利用した。古代ギリシャで演奏されたと考えられる「デルポイのアポロン賛歌」を会議の冒頭、生演奏で披露させたのだ。ハープと大編成の合唱をバックに、オペラ座出演の歌手が歌いあげた。
こうした仕掛けによって、出席者の気分は盛り上がり、オリンピックを復活させて国際大会として開催しよう、ということが一気にその場で決まってしまった。あまりに盛り上りすぎたので、本来は1900年に開催するはずが、「6年も待てない」という声が高まり、結局1896年、アテネで第1回を開催することになったほどだ。
クーベルタンのプレゼンは、冷静に見ればかなり山師っぽいところもある。しかし、そのおかげで近代スポーツが普及し、「平和の祭典」が実現したのは事実だ。
「いだてん」で取り上げたストックホルム大会は、それから16年後、第5回大会である。
(※参考資料『オリンピックと近代――評伝クーベルタン』〔ジョン・J・マカルーン著 柴田元幸/菅原克也訳〕)
デイリー新潮編集部
2019年4月29日 掲載
外部リンク
芸大生の不思議な「職業病」喫茶店の壁を叩く! 食器の素材でテンション変動!!左肩だけムキムキ!?
傘を手に駅でゴルフのスイング、料理しながらハミング、知らず知らずやってしまうあれやこれや……「なくて七癖」とはよくいったもので、ひとの内面はふとした瞬間に表に出るものだ。
上野の森の奥深く、東京藝術大学に棲息する学生もまた、例外ではない。ただ、ひがな一日芸術と向き合い、頭から足の先まで芸術に浸りきっている彼らの癖は、一般的なそれとは少々異なる。全学科の現役学生に話を聞いて『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』を書き上げた二宮敦人さんに、本には書ききれなかった逸話を聞いてみた。
まわりの視線は気にしない
「飲み会などで食器をひっくり返すそうですよ。こんな風に」
実際に湯呑を返して裏を覗いてみせながら、工芸科陶芸専攻の学生について二宮さんは言う。「裏側はどういう風に処理しているのか、土は何か、などが気になってしまうそうなんです」
これはまだ序の口。同じ外食中の振る舞いでも、彫金専攻の学生ではまた少し違う。
「食器の素材によって、テンションが上がるそうです。『このスプーン、本物の銀だ!』とか。普段から貴金属を扱っているので、違いがわかるんですね。『本物はやっぱり、重みがあるんです』と、嬉しそうに教えてくれました」
ふむふむ、やはり普段から扱っている素材について関心を持つ人は多いようだ。そして、建築科の学生になると癖はやや“不審者”っぽくなる。
「壁を叩くというんです」
実際に喫茶店の壁を叩いてみせようとする二宮さんを止めつつ、詳しい説明を聞く。
「材質を調べているんですね。壁や床の材質が何なのか、どれくらいの厚みなのか、叩いたり触ったり撫でたりすると。もちろん迷惑になるような場所ではやらないそうですが、普段から関心を持っているんでしょうね」
音楽環境創造科のとある学生の場合、“不審者”の度合いはさらに上がる。前触れもなく「いきなり手を叩く」からだ。
「こう、パンと。ホールとかで手を叩くと。その残響を耳で確認して、ホールの音響の具合を確認しないと、気が済まないようでした」
ほかにも、演奏会の客席で奇妙な動きをしている人がいたら藝大生かもしれない。
「打楽器専攻の方ですが、オーケストラを鑑賞する際、オペラグラスを構えて、ぐいぐい身を乗り出して見ると言うんです。何を見ているのかというと、打楽器奏者の手元なんですよ。手さばきはもちろんですが、どのメーカーのどのバチを使っているか、まで確かめると聞いて驚きました」
芸術への、飽くなき探求心の表れなのだろう。もしかしたら、周りからは怪しい人だと思われているかもしれないが……。
楽器に合わせて体が進化する
東京藝大は音楽と美術の学部をあわせもつ日本で唯一の大学だ。音楽学部の学生に話を聞くと、癖が自身の体を変えることに驚かされるという。
「背が伸びたそうですよ。指揮科の方に聞いたお話ですが、指揮者は首とか肩とか、腰とかを痛めてしまいがちだそうです。それを防ぐために姿勢に気をつかっていたところ、いつの間にか背が伸びたと」
二宮さんは他にも、音楽によって体が変化してしまう事例を聞いたという。器楽科弦楽器コントラバス専攻の学生は……。
「着られる服が限られてしまうそうです。というのも、コントラバスを支える左肩の筋肉がもう、ムキムキになるんですって。肩が目立つような服だと、はっきり違和感が出てしまうくらいに」
邦楽科長唄三味線専攻の学生は……。
「足のくるぶしに正座ダコができると。邦楽をやっている方はみんなあると思う、とのことでした。普段から正座で演奏することに慣れているんですね。1時間くらいの正座なら全然平気だそうです」
必要な筋肉が発達し、本来の人間の形からは離れていくのだ。
「三味線の撥を持つ方の手を、腕まくりして見せていただいたのですが、絶句しました。可憐な女性の方だったのですが、試しに力を入れてみてもらうと……腕から指先まで、凄まじいまでの筋肉が浮かび上がるんです。まるで肉食動物のようでしたね」
楽器に合わせて体が進化する。音楽家は、アスリートのように己を鍛え上げて演奏に臨むのだ。一見奇抜だが、真摯な芸術への取り組みがそこにある。興味を持った方はいちど東京藝大のキャンパスを覗いてみてはいかが?
デイリー新潮編集部
2019年4月29日 掲載