ほとほとと、白い寒さが上空から舞い落ち続ける。その光景に魅入られたように、薪さんの瞳は先ほどからガラス窓の外を見つめたままだ。
「はい、どうぞ」
声をかけると、ようやく首の向きを戻してくれた。俺が向かいから差し出しているものを受け取り、ひとふさ千切ると口に含む。
「そのみかん、甘いでしょう?」
数回の咀嚼だけで飲み込んだあと、軽い頷きが返された。
「ああ、美味いな」
答えながら、次々と千切っては口の中に放り込んでいく。偏食大王の異名をとる彼のお気に召したようで何よりだと、俺は安堵して口元を緩めた。
「もひとつ、剥きましょうか?」
こくりと頷かれて、卓上の竹編み籠へと手を伸ばす。籠の中から小ぶりなみかんをひとつ掴み取り、いそいそと皮を剥きながら話を続ける。
「雪、珍しいですか? 東京ではほとんど降りませんもんね」
「……そうだな」
心ここにあらずといった声色が返され、ふと手元から顔を上げると、琥珀色の瞳は再び窓の外に向けられていた。
「外は寒そうですねえ」
暖められた部屋の中、こたつにもぐらせた足はぬくぬくと温かく、雪の匂いすら感じることもない。
さすがの薪さんもこたつの魔力に魅入られてしまったようで、心もち背を丸め、両腕まで突っ込み暖をとっている。
「薪さんも、ご自宅にこたつ置かれたらいいのに」
「だから何度も言ってるだろ。マンションは密閉性が高いから、そこまで冷えない。僕ひとりならエアコンで充分だ」
「えー、俺が薪さんちにお邪魔した時、一緒にこたつに入れたらあったかいのに」
「おまえ。よからぬこと考えてるだろ」
「えっ」
「やけに購入を薦めると思ってたが、どうせ暖をとる以外のことが目的だろ」
「お……もってませんよ、そんなこと。やだなぁ心外です」
否定したものの、目が泳いでいるのが自分でもわかる。やはりこの人の前で隠し事はできない。
「いや、でも、恋人とこたつでイチャイチャしたいと思って何が悪いんですか」
「とにかく買わないからな」
ついブツブツとひとりごちる俺の未練を、薪さんの冷たい声が両断する。胡乱げに細められた視線は、音もなく降り続く雪をしばし眺めた後、またこちらへ戻ってきた。
「青木。やっぱり積もらないうちに帰、」
「どうぞ剥けましたっ」
不穏な申し出を遮るように、ずいと目の前にみかんを差し出す。
「この程度なら積もりませんよ。大丈夫」
にこりと微笑んで見せると、薪さんはそれ以上何も言わずに俺の手からみかんを受け取った。その表情は若干複雑そうではあったけれど。
「夕飯、うちで食べてってくださる約束でしょう?」
滅多とない、薪さんの福岡出張。かれこれ半年ぶりだ。しかも翌日は二人とも公休、と条件が揃えば黙っていられるわけがない。この機を逃してなるものかと半ば強引に夕食の約束を取りつけた。
そうして指折り数えて迎えた今日。火急の事態が発生することもなく全てが順調に運び、俺も薪さんも定時を少し回った頃には退所が叶った。所長を空港へ送迎するという名目のもと、薪さんを私用車の助手席に乗せて向かった先は俺の自宅。到着と同時に予報外れの雪が降り始めた。
冷え切った居間を急いで暖め、手早く夕食の準備を済ませて薪さんの待つこたつに潜りこんだ。家族の帰宅を待つ間の、二人だけの貴重な時間。色艶めいた言葉を並べるわけでも、触れ合うわけでもない。それでも俺の家に、傍に、目の前に薪さんがいてくれる現実に、ただ胸が満たされる。とりあえずは、お茶うけがわりに出したみかんが好評で嬉しいかぎりだ。
「黄色いな」
「え?」
「おまえの指」
「ああ、みかんの剥きすぎと食べすぎですかね」
先週、俺の母が商店街の福引大会で特賞を見事引き当てた。賞品はダンボール一箱分の和歌山みかん。
めでたく嬉しい話ではあるが、三人家族――うち二人は高齢女性と幼児だ、なかなか期限内に消費できるものでもない。隣近所にも配ったものの、まだ相当な数が残っている。
最初は喜んでいた母も、さすがに連日続けば食べ飽きたようで「実はそんなに好きじゃないのよねぇ。一行と舞は若いんだからどんどん食べなさい」などと息子と孫娘にていよく押しつけ、今では気が向いた時に一個つまむ程度。仕方なく、もっぱら俺ひとりが引き受けている形だ。
指摘されて初めて気づいたが、よく見れば確かに親指と人差し指の先端から爪にかけて少し黄色みがかっている。
「薪さん、よかったら幾つか持って帰られませんか?」
「いや……折角だが」
まあ当然の返答だ。荷物になるし、多忙な彼のこと、食べる暇もないだろうし。苦笑して引き下がり、また新たなみかんをひとつ手にとる。
「せいぜい、一日に五個程度しか食べてませんけど。舞のぶんも剥いてやってますからね。指先にみかんの味が染みこんでたりして」
いくら好物とはいえ、そろそろ舞も食指が動かないようになってきたが、俺が剥いてやるとなんとか食べてくれる。
今だって、自分と彼の分とをあわせて既に五個目だ。指が黄色くなるのもやむなしかも知れない。
「そんなに食べると夕飯前に腹がふくれるぞ」
「俺は大丈夫です」
笑って答えると、こたつから出された右手の人差し指が曲げられ、俺に向けてちょいちょいと招くように動く。
「はい?」
「ひとつ寄越せ」
剥き終えたみかんを丸ごと手渡そうとすると、「ひとつでいい」と言う。
つまり、ひとふさだけ寄越せという意味か。
ご要望どおり、ひとかけらだけを千切って薪さんの顔の前へ運ぶ。
すると俄かに薪さんの首が伸びてきて、ぱくりと指先に食いつかれた。
生温かい舌は器用に動いてみかんを奪い去ったあと、残された指をゆっくりと食みはじめる。
人差し指の第二関節から先は薪さんの柔らかい口腔に包まれ、まるで何かを味わうように丁寧に舌を這わされ舐めとられていく。伏せられた長い睫毛の下の瞳は、俺の手の甲だけを見つめている。瞬きもせず、心のうちが読み取れない眼差しで。
完全に不意をつかれ、声は喉にひっかかったまま、眼前で粛々と行われる行為をただ黙って見守るしか術がない。
時間にして十秒足らずのその行為を終え、俺の指を解放した唇は、ぽつりとつまらなさそうな声色を吐いた。
「別に甘くないな」
濡れた唇を舐め上げて、何事もなかったかのように涼しい顔で肩をすくめている。
「っ、薪さ」
「ただいまーっ!!」
突如響いた大声と引き戸を開け放つ音に、俺の声がかき消された。目まぐるしく変転する状況に頭が追いつかず、動きを止めた俺の前で薪さんが立ち上がる。
「あ。ま、薪さ」
呼び止める暇もなく襖を開けて玄関の方向へ向かった彼は、慌てて後を追おうと膝を立てた俺を振り返ると素っ気なく言い渡した。
「そのベトベトの指で、そこらへん触るなよ」
言われて見下ろした自分の指先は、唾液に濡れたままだ。ベトベトにしたのは薪さんでしょうに、もう。
「マキちゃん!」
「おかえり、舞ちゃん」
「わあ、ほんとにマキちゃん来てくれたんだ」
玄関から届く声だけで、頬を紅潮させて喜んでいる舞の顔が想像できる。
指を拭き終えて玄関を覗くと、母と挨拶を交わしている薪さんの背中が見えた。
「おかえりなさい」
俺のかけた声に振り向いた二人は、「ただいま」と返事を返すとまたすぐ薪さんに向き直る。
「雪のせいかしら、急に冷えてきたわねえ」
「あのねマキちゃん」
「ん?」
頬を薔薇色に染めた舞が、きらきらと瞳を輝かせて薪さんのスーツの裾を握る。まるで何か伝えたいことがあるような仕草に、薪さんが膝を曲げて顔を近づける。その耳元にそっと小さな手と口を寄せて、小鳥がさえずるように愛らしい声で舞が告げた。
「お誕生日おめでとう!」
満開の笑顔と対照的に、薪さんの表情が止まった。
「……、……え?」
「薪さん、今日お誕生日でしょう」
こちらを向いた薪さんの瞳は丸く見開かれ、なるほど鳩が豆鉄砲を食らったような顔というのはこういうものか。
もしかしなくても、また忘れてたな、この人。
相手の反応にはおかまいなしに、舞が手に提げた紙箱を見せながら弾んだ声をあげる。
「だからホラ、ケーキ買ってきたの。あとで一緒に食べようね!」
「一行、所長さんのお帰りの時間もあるんでしょう? 早く夕飯にしましょ。舞、ケーキ冷蔵庫に入れて」
「はぁい」
二人の姿が襖の向こうへ消えた途端に、すごい勢いで胸ぐらを掴まれた。
「何ですか?」
「おかしいだろう。家族の上司の誕生日を祝う家がどこにある!?」
「ここにあります。痛っ、なんで蹴るんですかっ」
してやったりな顔が腹が立つ、と言われた。そんな顔をしていたつもりは毛頭ないのだが。
奇しくも、一年前の今日も彼は福岡に来ていた。その事実を当日知れたのは全くの偶然で、黙って発とうとする薪さんを空港まで追いかけ、どうにか短い時間だけでも会うことが叶ったのだ。
けれど今回は、すべて事前にわかっている。去年のようなドタバタ追走劇を繰り広げる必要もない。
どこかで二人きりでディナーを、なんて甘い考えもよぎったが、それよりも俺の家で、俺の家族と一緒に過ごしてもらいたいと思った。日頃お世話になっている上司だからと、母の了承も得た。
とはいえ、そんなのは全て俺個人の願望だ。薪さんの性格からして、頑なに固辞される可能性は高い。ところが数回の押し問答の末、存外に早く承服してもらうことができた。やはり舞の名を出すと効果抜群だ。あわよくばウチに泊まってもらって……とも思ったが、当日中に東京へ戻ることだけは彼が譲らなかったため、夕食後に俺が空港へ送り届けると約束した。
条件付きとはいえ首を縦に振ってくれた時点で、また自分の誕生日を忘れているのではと薄々思っていたけど。
「ケーキはささやかなお祝いですから、大げさに考えないでください。夕飯は普通の鍋ですし、今日はあくまでウチの夕食に薪さんをお招きする形ですから」
玄関の磨りガラスに、はらりと降り落ちる雪の影が映る。どうせならもっとひどく吹雪いて、この人を朝までこの地に留めてくれればいいのに。
「舞が、薪さんのために選んだケーキ。せめて一口でも召し上がっていってくださいね」
この言い方は卑怯かもしれないが、効果はあった。「……わかってる」と小さな声が返ってきた。
薪さんは男の人だし、できるだけ生クリームがごてごて盛り付けられてないシンプルなケーキがいいよ――と言い含めておいたが、さて、一体どんなのをチョイスしてきたのか気になるところだ。
「鍋は弱火で煮始めてあるんです。そろそろ出来上がる頃ですから」
手を洗いたいと言う薪さんに洗面所の場所を教えて、足早に台所へ入る。くつくつと音をたてる鍋の蓋をとると、湯気とともに甘い香りがたちのぼる。ちょうどいい頃合いだ。薪さんが以前興味を示していたトマト鍋。福岡名物もつ鍋より、こちらの方が我が家の女性二人にもウケがいい。
台所と居間を往復して配膳を整え、そういや薪さんの戻りが遅いなと思いつつ振り向くと。
「? 薪さん?」
開け放した襖の向こうに、薪さんが佇んでいた。明かりの届かない隣の和室は仄暗く、陰になった表情は伺えない。
「そこ寒いですから、こっちの部屋に……」
話しかけながら傍に近づくと、誰もいない居間を眺めていた顔がこちらを向き、どこか途方にくれたような表情で俺を見た。
「……薪さん?」
俺より十以上も年上なのに、時折どこか少年のようなあどけない面影を見せる、この人は。
こんな表情を見れるのなら。やはり今夜、誘って良かった。
「わーい、トマト鍋だー」
奥の部屋から、着替えをすませた母と舞が戻ってきた。二人とも早速こたつに入り、すっかり支度の整った食卓につく。
「マキちゃんも、早く」
舞が笑顔で手招きする。
母が四人分の湯呑を並べ、急須で緑茶をつぎはじめる。
それでも薪さんは踏み出さない。明かりのともる居間の、敷居の前で足を止めたまま。その輪の中に入ることを躊躇うように、恐れるように。
彼が、こういった場をあまり好まないことは知っている。
でも。
でも俺にとっては、あなたも大切な家族なんです。
そう言えば、余計にこの人を困らせてしまうだろうか。
「去年も、雪が降ってましたよね」
隣の人にしか聞こえない声で囁いた。重なった視線の先で揺れた瞳に、笑みを返す。
「今年は、こうして一緒に過ごせてよかったです」
「……ああ」
まるで吐息のように洩らされた呟きは、とても微かなものだったけれど。思わず抱きしめたくなるのをかろうじて堪え、その背に手を添える。
「こーちゃんも、早くー。おなべ冷めちゃうよ」
「うん、今行く」
急かす舞に応えて、薪さんの横顔を斜め上から覗き込む。流れる前髪の下から、ちらと向けられた視線はすぐ逸らされた。
「さ、行きましょう」
小さく上下した旋毛を見下ろして、愛おしい人のあたたかな背中をそっと押した。
願わくば。一年後の今日もまた、この人とともに過ごせますように――
終
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青木&薪(秘密-the top secret-)
pixiv投稿した、薪さんのお誕生日に寄せたSSです。
昨年の薪誕SS「
タイムリミット」の一年後な設定です。
前回と同じく福岡で迎える誕生日。
コタツで青木にみかんの皮を剥いてもらってる薪さんが見たくて、
でも薪さん宅にはコタツなさそうなので青木宅が舞台になりました。