漂流する日本に

トルドー首相が安倍首相を迎えて二度も日本と中国を取り違えて「チャイナ」を連発したのは象徴的な出来事だと捉える人がおおかった。
日本では、この椿事どころではない外交上の大失礼を安倍首相の責に帰する人がおおかったが、それはいくらなんでも酷で、当然、カナダでは「トルドーのボンボンは、なにを考えとるんや」と自分達の首相が相手国をかつてはその国のライバル国であった国と取り違える外交上の失態を嘆く声がおおかったように見えます。

一方では、安倍首相が軽んじられて、各国の首脳の失礼な冗談のタネになっているのは、まさか表通りのマスメィアでは伝えられはしないが、誰でもが知っていることで、侮辱されても侮辱されても、まるでいじめにあっているのに、いじめそのものに気が付かないふりで「ぼく、クラスのみんなの人気者なんだよ」と母親に報告する健気な子供のように、安倍首相はあきらめずにあちこちの国にでかけて、ネグレクトされ続けている。

初めに英語世界でおおきな話題になったのは、トランプが大統領の座に着いたばかりのときの安部夫妻のアメリカ訪問で、いったいどうものを考えたらそういうことをしようとおもうのか、驚天動地というか、メラニアは安倍昭恵に付き添ってDC市内を案内するという例外があったことのない慣行を無視して、首相の夫人を、ひとりで半日ほったらかしにする、という公然たる侮辱を与えるという行動に出た。

各国の外交雀たちは、大喜びでした。
元外交官や、性格が悪いある種のひとびとが出入りするコミュニティに属する「外交通」たちは、なにしろ、なによりゴシップが好きなので、メラニアの破天荒なデタラメぶりと、屈辱を必死に我慢して、まるで主人のもとに出張してきた夫についてきて、誰もめんどうを見てくれないので、途方にくれながらひとりで見知らぬ町をほっつき歩いて時間をつぶす会社員の妻のような日本の首相の妻の姿を同情を持って眺めていた。

あるいはトランプが経営するリゾートでのパーティで、当時はマーサーファミリーの後ろ盾でホワイトハウス入りして、ぶいぶい言わせていたスティーブン・バノンに、西洋人の目にはどう見ても清朝の宦官の小走りにしか見えない走り方で、慌てたように歩み寄って、やはりこれも西洋人の目には卑屈にしか見えない恭しい態度で自己紹介をしていた。
いま、こうやって書いていて、どう思い出してみても安倍首相がぺこぺことお辞儀をしながら名刺を渡していた映像がたしかな記憶として頭のなかに浮かぶのは、しかし、現実にはなにしろ一国の首相なのだから、そんなはずはなくて、日本の出張会社員の姿と重なるマナーで、逆に動作を記憶が捏造しているのでしょう。

気位が高い国民性を考えれば無理もなくて、日本では報道されないが、そのあとの数多の外国訪問でも卑屈であるか威丈高であるかで、まるで風刺漫画に出てくる誇張された日本人そのままの像をみせて世界中を楽しませることに成功した安倍首相は、だんだん回数が重なるにつれて、見ている人間に、「いったい、この人の内面はどういう仕組みになっているのだろう?」と訝らせるくらい、ほとんど当たり前のように無視(例:G7)されたり、ある場合には、露骨に相手が格下の国であることをデモンストレーションとして演じてみせた習近平のように、いっそ見ているほうがハラハラするくらい失礼な態度に出られても、どこふく風というか、むっとした顔もみせずにニコニコと応じて、帰国すると、架空な「外交成果」を国民に報告していた。

日本の首相なのだから、ほんとうの実績ならともかく、あれほど空想的な「外交成果」を国内に向かって述べてしまえば、ますます各国の政府から失笑と、この場合は不幸なことに安倍首相個人に限らず、それを称賛する日本国民全体に対してまで見ている人間たちが軽蔑の気持が起きるのは当然わかっているはずで、見ていて、国内向けの配慮はしても、外交の話であるのに外国から軽侮されるほうへばかり行動するのは不思議に感じられた。

そのうちに安倍首相が用もないのにやってきた場合の対策マニュアルのようなものが、無言のうちに納得されていって、とにかく日本のマスメディア用に歓待を見せる席をつくってやる。
対等に扱っているシーンを、これも日本の記者たち用にお膳立てする。

つまりは安倍首相の訪問は国内で「外交をかっこよくすすめている国際派首相」というイメージを確立するためにやってくるので、その需要をみたしてやれば、見返りのない、案外莫大な金額のオカネをおいて、日本にとっては極めて不利な約束(例:オーストラリアの投資会社による日本人個人資産へのアクセス権、ロシアに対する「北方領土」四島主権の事実上の放棄の約束)を、ほとんど交渉の手間さえかけずに置き土産としておいていってくれることが判ってくると、各国とも安倍首相の訪問を歓迎するようになっていった。

下品な言い方をすれば鴨が円を背負ってやってきてくれるのだから、当たり前といえば当たり前です。
労せずして日本人が営々と築いてきた国富が我が手に入る。

こちらから見返りをだす必要は、ゼロ。
「顔をたてて」やればいいだけのことで、不思議なことに、どうやら安倍首相の側は、それでも日本に帰って国民の猛然たる非難にあう、ということはないらしい。

なんだか狐につままれたような、英語なら
Too good to be true.
と言うしかない話だが、これが現実の話なので、俄には信じがたくても、信じた方が自分の利益になるとなれば、とにかく毟り取れるあいだは毟ったほうの勝ちというか、どうせばらまくオカネならば、自分の国にばらまいてもらうに如くはない。

日本もハッピー、当該国もハッピー。

また「ハッピー・シンゾー」と渾名がつかないでいるのが不思議なくらいであるとおもわれる。

(閑話休題)

最もわかりやすそうな例だと考えて外交をもちだしたが、この頃、日本は国を挙げて、どうやら21世紀の世界とは異なる文脈を歩き出したようです。

世界で焦眉の急であると考えられていることが日本では中心の話題になっているのを見たことがない。

パッと見た第一印象は、この変化が激しすぎて参加者全員がうんざりしている世界で、日本だけが20世紀を生きていることで、問題の立て方自体が20世紀的で、この記事も日本語で書いているとおり、自分では日本語が一応使えるので、日本の人とツイッタなどで話してみると、なんだか自分の祖父と話しているような気がしてくる。

どうかすると、世界のものごとを「親日」「反日」という分類をあてはめて考える端緒にしようと企てる人までいる。
記事を見る限りそういうことが大好きであったらしい戦前の1930年代くらいの朝日新聞記者が墓から蘇ってときどきミイラ化した指がとれたりするのに顔をしかめながら書いているのかとおもったら、20代の若い人です。

東アジアの他の国なら「親日」という言葉は、1945年以前の大日本帝国の協力者のことで、親ナチとおなじで、ちょうどいまでも90歳代に達した元ナチ幹部をモサドが追究して告発するように、国家として告発して、罰を受けさせようとするのとおなじことで判りやすいが、日本の側で「親日」「反日」と述べるところが、もう、よく判らないというか、文脈が異なっているわけで、
つまりはおおもとは、日本は戦前からひとつづきの大日本帝国の延長で、「国体」として同一で、その戦前の「焦慮する大アジア主義」とでもいうべき性急で暴力的なアジア征服の夢をもって、アジア中で無辜の市民を殺しまくり強姦しまくり、機嫌が悪ければ誰彼なく通りで言いがかりをつけてなぐりつけていた大日本帝国と同意するかどうか、と言っているのでしょう。

どうも日本人にとっては個人としての自分の存在と日本という自分が市民権をもっている国とは一体で、いわば日本という身体のいちぶのような存在で、したがって、日本に対して「でも、あなたはそういうが私の祖母は兄弟を日本兵に皆殺された」と述べると、日本の一部と感じている右腕国民がなぐりかかり、口(くち)国民が「嘘をつくな」と罵り出す。

国という観念と自分の肉体のあいだになんの疎隔もなくて、悪くいえば個人といえどもただの社会の部品だが、日本人は日本語で思考して生活しているのが普通で、英語のような態度が悪い言語とは異なって、間柄(あいだがら)言語とでも呼びたくなる、個人の判断そのものが他人との関係でくだされる、いわば相対性のなかでその都度うまれる価値が思考を支配する言語で出来た考えにおいては、自分が他者との関係によって規定されるのは自明と感じられている思考そのものの前提で、特に意識しなくても、日本という国と自分は一体であると感じるものであるらしい。

幸福といえば幸福な状態ではあるまいか。

細部に目を移すと、ドライブウェイを歩いて新聞を取りに行くゲートの前で近所のおっちゃんと会う、立ち話の短いあいだでさえ、「なあ、ガメ、アーダーン首相がスカーフを頭にまいて演説するってのは、ムスリムに媚びすぎだとおもわないか?」
「いや、おもわないよー。だってムスリムの特に女のひとたちは、スカーフをまいて町を歩くこと自体に恐怖心があるんだよ。
このあいだ、ほら、ニュージーランドヘラルドに、イスラムに改宗して顔をすっぽり覆うブルカを着てケンブリッジで暮らしている白い女の人のインタビューが出てたじゃない。棚で、野菜を手に取って眺めていると、女の人が横にすっと寄ってきて、同じように野菜を見ているふりをしながら低い声で『ここはおまえたちが来る国じゃない。出て行け』と言われたりするって。

だから、日常、毎日の生活で怖いおもいをしているのを、なんとかしようとおもってやってるんだよ」
というような政治の話題に始まって、森羅万象、ことごとく、「こう思わない?」「思わない」を繰り返して、しかもありがたいことに英語は相手に反駁することが感情の軋轢をうまないように工夫されている言語なので、
「酒の飲み過ぎなんじゃないかい?」
「新しいクルマ、かっこいいけど、色はあれでいいのか」
くらいのことは普通に述べあうように出来ていて、日本語とはちょうど逆で、なんでも同意する人間は「この人、不誠実な人間なのではないか?」とおもわれる習俗を英語人は持っている。

意見が異ならないような人間は信用ができない。

いろいろな人が述べているので、わざわざここでまた持ち出すのは気が引けるが、いっぽう、日本語では、「相手にうなずいてみせる」ことが重要な社交の基本なので、いったん社会が奇妙な方向に動き始めると、とめどなく、途轍もなく奇妙な方向に走っていってしまうことがある。

いまの日本がそうで、しかも、多分マスメディアに欠陥があるせいで、依拠している「現実」がそもそも架空なので、どんどん空想的な「現実」が出来てしまう。

最近、見ていて、「これはおもしろいなあ」と思うのは、そのうえに日本文明のもうひとつの特徴がくわわって、いままで自分が見聞きした範囲から少しでも逸脱するものは「嘘にきまってる」と考える民族集団になっている。

このブログを始めた頃、妹が4カ国語を話すと話しのなりゆきで説明の必要上書いたら、はてなという会社が運営しているコミュニティから「嘘にきまってる」「4カ国語も話す人間がいるわけがない」
「こんな、すぐばれる嘘を書く人間がいるなんてw」
と怒濤のような数でやってきて、日本社会の性格がちゃんとのみ込めていなかった頃で、言われたこっちがぶっくらこいてしまったが、いまはそもそもツイッタの日本人の友達自体にも欧州で暮らしていた人を中心に4カ国語と言わず、必要に応じていろいろな言語で話す人が複数存在するので、さすがに、こういうヘンテコリンなひとたちは来なくなったが、同じようなことは、日本語世界を眺めていると、あちこちに散見される。

自分の経験の内側にある、ごく狭い見聞以外の(自分にとっての)新奇な現実はことごとく嘘であると考えるのは、考えてみればなまけものの老人の特徴で、いまの日本社会は、実年齢とは関係なく社会全体として老人化しているのだと仮定すると、ほんの少し日本語がおかしいだけでレジの中国人店員を怒鳴りつけたり、赤ん坊をのせたストローラー(ベビーカー)に腹を立てておもいきり蹴飛ばしてみたり、テレビばかり観ていて、政治の話題だろうがなんだろうが「マツコがこう言っていた。ウーマン村本の意見はこうだった」と、あのタレントの意見が良い悪いと述べあうのが好きな世界の一大奇観とでもいうべき姿も、日本では異常ではなくて、ふつうのことと受け取られているのも、日本という国がまるごとおおきな老人ホームで、若い世代は、介護に一生を捧げるために国に残っているのだと考えれば、だいたい説明がつく。

それはそれで、老人を介護するために中国本土を再び侵略しだす、というような展開は考えにくいので、いいのではないかとおもうが、困るのは世界の一角に「架空な世界を信じ込んでしまった一億人の集団」が生まれてしまったことで、民族や国に「カルト」というような言葉を使うのは下品なのでいやだが、構造的には、たとえばかつてのオウム真理教に、やはり似ていると言わないわけにはいかない。

オウム真理教がなぜ攻撃的になっていったかという経過を考えると、根底的には「自分達が信じている世界を、自分達のコミュノイティの外の世間は信じるどころか嘲笑している」という事実に対する苛立ちが原因で、世間に自分達が信じる世界を現実感をもってうけとめさせるためには、当たり前だが、世間そのものが痛みや恐怖を感じる攻撃をはじめるのがゆいいつの残された道だった。

毒ガスによって殺されたり、蓄積した兵器によって政府の中枢を攻撃して昨日までの取り澄ました(彼らにとっての)偽善の官衙をひとびとの阿鼻叫喚の地獄に変えることは、とりもなおさず、彼らが「現実」であることを、それを認めようとしないひとびとに思い知らせることである。

そのことに思いあたると、いまの日本の不思議な自己の架空化を面白がってばかりはいられないのかも知れなくて、世界中の人間が安倍政権による日本の相対的な経済地位の低下や、主に投資家を中心とした「政府保証付き株式市場」による濡れ手で粟の大盤振る舞いを歓迎しているが、無理に無理を重ねた空母の保持やF35の大量購入をみて、「そろそろ、やばいかな」と考え出している。

このあいだオーストラリアの外交専門家のおっちゃんが「日本のトンチンカンぶりをおもしろがってばかりはいられない」と述べていたが、たしかにそうで、中国に続いて日本という巨大な全体主義国家が「外」に問題の解決をみいだそうとする事態になれば、世界はもうひとつ難題を抱え込むことになって、あーあ、またややこしいことが増えるのかあ、とタメイキがもれてしまう。

救いは、日本の場合は中国とは異なって、あきらかに世界の変化についていけなくなっていることで、外に出てくる力はないのではないかと観測されている。

このごろアメリカはおろか昔からローテクへの偏愛の傾向を持つ欧州から日本を再訪してさえ、日本のあまりの「20世紀村」ぶりに、ぶっくらこいている人のツイートが散見されて、そのたびにリプライをみると「出羽守、ご苦労様」というようないつもの混ぜっ返しがついているが、コンピュータを買うのに現金で払っている皮肉な奇観や、高速道路の料金所にも駐車場にも人間がオンラインシステムの代わりをしていて、成田空港でバスに乗るといきなり6人くらいもおっちゃんたちが料金所に屯していて、日本の友達の解説をおもいだして、あのひとつひとつの料金所のリーダーが最低年収600万円で無料のアコモデーション付きなんてすごい、とあらためて思い返したり、ダメなガイジンになると、銀座の街角で「なんでeスクーターがないんだ。これじゃ歩かなくちゃならないじゃないか!」とキレていたりして、ハイテクに甘やかされた人間のバカッぷりを余す所なく見せているが、最近、東京を訪問した複数の友人たちは、どの人も日本の大ファンになって帰ってきて、なにしろ食べ物はおいしくてやすい、ホテルのレセプションがロボットのチョーへんてこなホテルに泊まってきた、おいらは歌舞伎町でゴジラが屋根から顔をのぞかせているカッコイイホテルに泊まったが、女ひとりでも、ぜんぜん安全だったぞで、日本を訪問先として推薦したわしとモニは鼻高々だが、どうも忍者村や江戸村と区別がついていないらしくて、なかには、「楽しみにしていたのに、セーラー服を着てスキップしながら通勤するサラリーマンを見たかったのに背広を着ていてがっかりした」などと述べている人までいる。

平たく言えば日本全体が「あさって」のほうへ行き始めているので、願わくは、このまま、またぞろ戦前の軍艦マーチに乗って強姦しまくり殺しまくる頭のいかれたビンボ帝国の道ではなくて、「なんだかヘンだけど面白い国」のまま成仏してほしいと願っている。

成仏できれば、そのあとに、きっと再生が待っている。
それは、50年後というような早い機会では起きそうもなくなってしまったが、再生されると信じることには根拠があって、日本には焚書坑儒さえ起きなければ、書いていておもったが坑儒のほうはやったほうがいいのか、とおもわなくもないが、文化大革命をやってしまわなければ、例えば自分が溺愛するものを並べただけでも能楽、芭蕉、源俊頼、和泉式部、近代に至っても北村透谷、戦後では鮎川信夫たち、頸筋がぴんとのびた文化があるからで、文化が一定の観念の高みにとどいた文明は、殆どの場合、再生している。

いまは、道に迷っているだけだ、とおもう。
自分が生きているあいだには到底無理だが、例えば百年後に再生したとして、そのときには、世界中、思想のチェーン店のようになってしまって、グローバリズムという名前の斉一化が進みきってしまっている世界では、「異なる」ということが極めて重要で、いまはヘンテコをもってなる日本の文明が世界を救うことになるのではないか。

いや、きっとそうだろう、と生まれつきお気楽なわしは考えています。
もっとはっきり言ってしまえば「考えている」のではなくて確信なので、このサーバーの隅にそっと、書き残しておく。

なんだか聞いたこともない財団が延々と支払いを続けているサーバーを覗きにきたきみの、びっくりした顔を楽しみにして。

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