母校の思い出 (私の青春時代、昔話) | HER2タイプ乳癌ステージ3C 経過観察中シングルマザー

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ご訪問ありがとうございます。

長野県民は郷土愛に溢れる人が多く、
「信濃の国」をみんな歌えるし、
故郷を離れても県民会も多かろうし

私もご他分に漏れず、故郷は大好きです。

母校も、同窓生は皆、母校愛に溢れている
と思います。

青春を謳歌できる、素晴らしい母校の
思い出。

5ch掲示板で、今書き込まれている
ようなことを書くような人々は
皆無であろうし…。

5ch掲示板で、
出身地を晒した上での、
学歴などへの誹謗中傷、名誉毀損、
も延々と続き、
止まないので、
先日、母校の名前を明記しました。


さらなる誹謗中傷も延々と続いたので
母校のことを書いておきたいと
思います。

※多分、珍しく貴重な、本当に良い学校
  だったなぁ。
  今は、だいぶ、変わってきてしまっている
  みたいではありますが…。


ー◆ー◆ー◆ー


私が高校生の頃は、
長野県では、長野、松本、諏訪が
三大地域であり、

長野、松本深志、諏訪清陵が三大進学校、
並んでいる感じだったと思います。

※松本深志への越境が認められるように
  なってから、偏差値、大学進学という点
  では、だいぶ凋落したと聞いていますが…。

※5ch掲示板の偏差値でしか学校を
  見れない方々の、あり得ない、
  長野高校が一番で、諏訪から通えばいい
  じゃん、みたいな失礼な書き込み、苦笑。

  当時、学区は厳格に守られていたし、
  そもそも山がちで交通の便の悪い県、
  特に偏差値云々の教育でも無かったし。
  偏差値的なことで言えば、
  長野地方だったら長野高校が一番、
  松本地方だったら松本深志が一番、
  諏訪地方だったら諏訪清陵が一番、
  その程度の話であり、立ち位置の似た学校
  多分、校風は似ていて、親近感はありつつ
  皆、自分の母校が一番(偏差値とか進路とか
  じゃなくてね)だと思っていると思います。


⚫諏訪清陵高等学校の思い出

【時代背景】

私の時代は、
男子校的な校風が色濃かった時代
女子が、まさに増え始めたハシリの頃。
2つ上の学年までは長い間、
1クラスの女子が5名/全部45名 程度が
続いていました。

※偏差値的な順で言えば、
  諏訪清陵➡諏訪双葉(女子校)
  ➡岡谷南(男子校)➡岡谷東(女子校)➡・・
  まだ、女子校や男子校が残っていた時代、
  清陵だけは早くから少しだけ女子がいた
  よい教育県だったんじゃないかな、
  と思います。

  一番の進学校だから、当時から、女子も
  ほぽ全員4年制の大学に進学しました。
  稀に短大もいたかな、私の年って感じ。

  因みに、今はどうか知りませんが
  東大、京大 旧帝大 で20~30人くらい
  だったかなぁ、もっといたかな?
  意識したことなんてないから正確じゃ
  ないですが…。

私の年は倍増、女子10名強/全45名。
ちょうど、女子の大学、短大進学が
増える流れのハシリだったのかな。
大学進学よりは短大進学、高卒が
圧倒的に多い時代ではありました。


諏訪清陵高等学校

偏差値云々、大学云々より
校風がよくて、行事も活発で
青春を謳歌できる学校でした。

まさに自由な、生徒が自立した学校でした。


⚫質実剛健、自主自立、の男子校的校風。
   校則なし、制服なし

 (トレーナーやTシャツにGパンって感じ。
  男子が多いから色的にも全体的に
  地味~な感じだったかな。
  学ランに下駄で通っている人も中にはいた、
  好きずき)

 ※偏差値的に上の学校は制服がなかった。

・山がちな地域柄、バイク通学も可
  (自転車で通えない山の中の僻地の生徒に
   許可された、許可制)
        ※自転車で通えないかどうかを、
          ママチャリを直立不動の姿勢でどんな坂でも
          スイスイ登る私の担任~若手~が、
          ママチャリで生徒の家まで確認に来て
          許可する許可制。
  
  私はバイクで通っていました。

  ※因みに教育実習の時、実習生は、車じゃなく、
    出来るだけ電車などで、生徒の様子をみましょう、
    と指導されたのだけど、
    在校時から知っている先生の
    「彼女の家は無理」の一言で簡単に許されました。
    レーシング仕様の2ストだったので、全校での
    音楽観賞会の移動時に、
    教員は自分の車で生徒の集団を通り越していく
    (直帰、現地解散だから。生徒はバイクも自転車も
     OK。自分の通学手段に応じて自由) ので
    禁止されたくらいだったかな。

⚫校訓
   (という言葉で合っているのかは
    分からないが)

校則はないけれど、
校訓として引き継がれているのが孟子の

自反而縮 雖千萬人 吾往矣

自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、
千万人と雖も、吾往かん。

⚫『民』

高校に合格すると、地方会(出身中学の会、
私の所属した会は黎明会。同窓生には、
そう言えば、どの中学出身か分かる)の
先輩達が、合格者それぞれの家まで行って、
『民』をして祝福してくれました。
我が家は僻地なので、「校庭でいい?」と
中学の校庭でしてもらった記憶が。

『民』というのは、
スクラム組んで(肩を組んで輪になって)
「金色の民、いざやいざ、
    戦わんかな、時来たる、
    戦わんかな、時来たる、
    フレッ(フレーを短く) フレッ清陵
    フレッ フレッ 清陵」
と雄叫びをあげながら回るもの。

色んな時にしたけれど、初めて接するのは
合格時。真ん中に合格者を入れて
祝ってくれる時。


⚫日本一長い校歌

校歌第一8番ある
校歌第二10番+前後 (漢文調)
を、連続で歌う

楽譜、伴奏などなく、手拍子で歌う。
歌い始めは「せーの」の掛け声。

第一の8番
「それサクセンの林中に  獨逸の國の力あり
   ・・・
  ああ信山の健児等の 
  やがて咲くべき春や何時 (リピート)」

は足を踏み鳴らして早口で歌う

そのまま第二に入り、ゆっくりの
「ああ博浪(ばくろう)の槌(つい)とりて 
  打破せむ腐鼠(ふそ)の奴原が
  彌生半ばのこの夢を」
が入って

1番の「おしてる難波の群葦の 
世は昏々と華に眠り・・・」に続く

10番の
「山をも抜かむ意氣をもて
    海をも呑まむ慨をもて
   鉄槌三度(みたび)かざしては
   吾等(あら)が手ぶりに靡(なび)けとや
   雄叫べ友よ 茜さす」
の後、
「朱曦八荒(しゅぎはっこう)を照らすとき
 芙蓉峰頭一點(ふようほうとういってん)
    理想の花の咲かむまで(リピート)」
最後はさらにリダルダンド。

地方会の先輩から歌詞のプリントを渡され
~今はネットで簡単に検索できますね
入学前に(中学校の校庭に集まって)
校歌指導があり、伝承されていた。

※因みに歌詞が、訳がないと難解な部分も
  あったりする。時代ものの校歌。
  「煤煙続く 製糸場」

※伝承なので、時代時代で微妙な差が
  あったりし。

⚫木造の「ボロボロ校舎」
  ※ボロボロ校舎は誹謗中傷でなく
    歌詞にもなっていた、笑

  (私の教育実習の時が最後で
    新校舎になりました。
    数学は旧校舎だったけれど
    英語や社会は新校舎だったかな。)

⚫職員室なし、移動教室

学科毎の研究室はあって、
その近くにその学科の教室があって
教員が使う教室が決まっていて、
時間毎に全教科生徒が移動する。

例えば私の担任は数学3番教室。
で、1限と2限の間のホームルームや
昼休みは数学3番教室に集まる。
※朝1番だと皆来ないから、間になっていた。

ホームルームは3年間変わらず、
2年、3年の授業はそれとは別の
講座制だから、3年間で顔見知りや
話したりする人が自然に増える。

他人に迷惑をかけなければ、すなわち、
静かにさえしていれば、早弁も
内職もとがめられることはない
自己責任で勉強すればよいだけ。

全員進学する、地方では一番の学校
だったから、
生徒指導もなし、進路指導もほぼなかった。

教員は楽チンだったはず。
空き時間は中庭でテニスしていたり。


⚫行事の盛り上がり
   青春だったなぁ、、。

清陵祭

何といっても最後の夜の
ファイアーストームかな。

その周りを肩を組んで走り、
(放水してるから、泥だらけになり)

一休みして
校歌、清陵祭の歌、清陵賛歌などなど
歌い

また走り。

その前か合間に騎馬戦もしたかな。
3年の時、女子の騎馬戦は大将騎の上に
乗らせてもらった、笑。

端艇大会
  (諏訪湖でのボートのクラスマッチ)もあり、
  これは、男子とは別の女子の艇もあり。
  漕ぎましたね。

諏訪湖一周マラソン
  湖周の平らな道でなく、up  downのある
  旧道を走る。
  女子は30分前に出る。
  途中で梨か林檎のどちらかを貰える
  早いもの勝ちで遅くなると林檎のみになる

  夏秋の体育は毎時間4mか6mのマラソン。
  帰ってきた人からバレーとか、バスケとか
  好きなことをしていたかな。
  11kmを年2回は走ったかな。
  で、その後に湖周マラソンがあった。

  体育と言えば、女子が少ないから
  男女一緒で、
  バレーはネットが高くてスパイクは
  打てないし、後衛では狙い撃ちされるし。
  バスケは守っても上からシュートを
  打たれちゃうから、守らなくていいよ
  の、速攻要員。
  サッカーは怖くて入れず、遠巻きに
  こぼれ球を蹴り。

  校庭とかバレーコートに蛇が
  出てくることもあった。

ーーー

文才がないから、
書くと陳腐になっちゃって、
上手く伝えられていないかも、ですが、

青春を謳歌した、
楽しい学校生活でした。

女子は少ないし、そもそも隣の女子校でなく
女子の少ない学校を選んで入学してくる
似たような女子の集まりだし、少ないしで
仲の良さの度合いに違いはあれど、
全員で仲良かったよ。
ありがちな女子の世界の面倒なことに
煩わされることのなかった、

ほんと、楽しい学校生活でした。



ー◆ー◆ー◆ー


以下は、とても悲しい出来事、
お亡くなりになった方の話なので、

お読みになりたくない方は
ここで終わりにまでで。


余談: バイクのこと

私の再従兄弟は清陵に通っている時に、
バイク事故~砂利道で転倒したところを
トラックに跳ねられた、だったかな~
で亡くなりました。

私が小1だったかな、その頃。
直前にお宅に遊びに行った、
すぐ後の出来事で、
初めて人の死に接したのがその時でした。

その時の
おばちゃん~母親~が悲しみに暮れていた
(取り乱していた)のと、
再従兄弟のその時の姿が残像として
私の記憶に残っています。

私は泣いちゃいけないと思ったんだろうな
必死で涙をこらえていた、と親戚の人々の
後の話で聞いています。
その時の自分についての記憶までは、
あまりないけれど…。


余談2:  中学の時の、同級生の交通事故死

小学校の時の同級生で
実家が近く、

僻地だから通常は自転車で
登る人は滅多にいないのだけど、

中2だったか、中3だったかの時、
野球部の彼は、自転車で通学していたの
だったか、

対向車線を猛スピードで暴走した
県外車(大阪ナンバーだった)が、
カーブをコントロール出来ず
崖に激突し、跳ね返ったところに

ちょうど自転車で登ってきた彼の
自転車がいてしまい、
跳ねられて命を奪われました。

車は逆側のガードレールも超えて
崖下の川まで落ちていったのだけど、

車の運転手は、たいした怪我もなく
自転車を跳ねたことも気付かず
ヘラヘラ照れくさそうに自力で
上がってきたとか。

人家もなく人通りの少ない山道で
目撃情報があったのは、

偶々、バス(1時間に1本程度しかない)
も登ってきていて、

バスに乗っていた人々(基本的に同じ
僻地の人々)が目撃したから、だったかな。


車が疎らにしか走っていない道、

ほんの一瞬ずれていれば、
車が崖に跳ね返される角度が
少し違えば、
跳ねられることもなかっただろうに。


自分自身も多感な中学の頃、

僻地で小中学校からバス通学、
バスに乗っているのは、その僻地の
人々くらいだから、
皆顔馴染み(ご家族も分かる)、
小学校の同級生、

の、

何とも言えない理不尽な突然の出来事で
命、将来が奪われてしまった同級生の
命の儚さ、


私たちには
彼のことを、いつまでも覚えていること

しか出来なかった、出来ない。

青春時代と、その先の、もっともっと
たくさんの楽しみ、幸せ
を一瞬にして奪われた
彼らは

天の国で、安らかな、幸せを
得られていると

思いたい、信じたいです。

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