時代の風が吹いた。いや吹かせた。「使わなきゃ始まらない。僕たちがそこを恐れていたらダメなんだ」。人生には転機がある。そこを逃すか、つかむか。こう話した与田監督の人生が大きく開けたきっかけも、同じ東京ドームだった。
平成元(1989)年5月29日。キューバ代表を迎えた日本代表の一員に、初めて名を連ねたのが与田だった。親善試合とは銘打っていても、世界最強の「赤い稲妻」との試合は真剣勝負そのものだった。当時の代表監督だった山中正竹は、大事な第1戦の先発に与田を指名した。
「僕にとっては初めていろんな人に見てもらえるマウンドだった。キューバも今以上に強いチーム。ものすごく緊張したよ」
すでに秋のドラフトでの1位指名が確実視されていた野茂英雄、潮崎哲也に比べ、まだ粗削りの投手と見られていた。周囲が驚く抜てきだったが3イニングを1安打、2奪三振で無失点。潮崎、野茂とつなぎ、キューバを倒す原動力となった。当時の4番はオマール・リナレス。この試合のことは覚えていたが「与田さんが投げていたのか? 野茂なら記憶しているけど」と言った。
「そうだと思うよ。みんなが野茂を見に来ていた試合だったから。全てが大事であり、つながっているんだけど、あの試合で何とか結果を出せたことは僕の中で非常に大きな出来事だった」
指名リストの中盤に載る程度だった「与田剛」の名が、この試合で自信をつかみ一気に1位候補へと上昇した。平成が始まった年に与えられたチャンスをつかみ、人生を切り開いたのだ。
「伊藤を使いましょうと言ったコーチの声がある。そして、そう言わせる選手がいたからね」。平成が終わる年にチャンスを与える側になった与田監督は、目を細めた。本人は言えないから僕が書く。推薦の声、選手の覇気も、決断するトップがいなければ実を結ぶことはない。