冬の厚い雲が晴れ、暖かい春の日差しがエ・レエブルを包む。
その穏やかな陽気の中、レエブル邸内に設けられた簡易神殿ではこの式の主役である二人は神官の前で粛々と佇む。多くの参列者もそれに倣い会場は静かだ。
結婚式の大詰め、二人が結婚証書に署名をする。
美しい筆跡で書かれた二人の署名を神官が受け取り、日が出てから始まった式は終わった。
参列者が簡易神殿を出て庭園に戻ると、そこには豪華な料理が用意されていた。
それは侯爵の財力を見せつけるかの様に豪華で煌びやかで、招待された人々の舌を満足させた。
美味しい食事のあとで話題にのぼるのはやはり式が始まる前の大魔術とそれを行った魔法詠唱者についてだ。
侯爵が最近一人の魔法詠唱者にかかりっきりだと言うのは、少しでもレエブン侯爵家と関わりのあるものならば知っている事だ。
その情報元は侯爵家の使用人である。今は式の給仕に携わる者として皆澄まし顔で、使用人への教育が行き届いてるのがわかる。
しかし、そんな完璧に見える使用人達にも思いびとはいるのだ。
恋人同士の甘い囁きの時に交わされる“二人だけの秘密”という文句は二人の絆を強くさせる。
そんな綻びから漏れ出た噂は忽ちに広がる。会場に来ている王国民の殆どは、レエブン侯爵の叔父であるイエレミアスとも懇意にしている事や、帝国への外遊の時にも側に居た事を知っている。
となれば自ずとその重要性も伺える。そして何故そこまで贔屓するのかは、今日のあの魔法を見れば一目瞭然だ。
自分も是非その魔法詠唱者と懇意になりたい。
少しでもレエブン侯爵に、そしてその先の魔法詠唱者に取り入る為、式の出席者はつての確保に奔走する。
人類というか弱い種族は強者を求めるものだ。余りにも弱く脆い人類は、この大陸での立場も低い。一歩人類の生存圏の外に出ると奴隷以下の扱いがまっている。
その強者を求める本能に従うように、未だ姿を見せた事のない魔法詠唱者の話題は途切れる事なく続いた。
そんな会話を聞きながら、法国からの使者であるクレマンティーヌとニグンは青ざめていた。
とんでもない。とんでもない化け物がいる。
王国は魔法詠唱者の地位が低いとは聞いていたが、あれだけ圧倒的な力を見せつけられたのにそんな感想しかないなんて呑気な事だ。クレマンティーヌはギチリと歯を噛みしめる。
天候を操れる魔法はあるという話は聞いたことがある。しかし、風花聖典からの情報ではナインズ・オウン・ゴールは死霊系の魔力系魔法詠唱者という話だ。帝国のフールーダという例外はあるが、基本的に何か一つの技術に特化した魔法詠唱者が他の分野を極めるのは難しい。
だから天候操作なんていう死霊系と関係のない分野の魔法をこんなレベルでただの人が極められる訳がない!
だから────。
「さっさと国に戻らないとまずいよねぇ」
天候を操作できる魔力系魔法詠唱者なんて聞いたことがない。そんなとんでもない人物が! こんな王国で燻っていていいはずがない!
ニグンも頷く。魔法詠唱者としての格の違いは、戦士のクレマンティーヌよりも強く感じているのだろう。
いや、ニグンは一度あの化け物と敵対したと言っていた。その時は気がついたら死んでいたという話だから、改めて目の前で圧倒的な力を再び見せつけられて混乱しているのかもしれない。
それにしても、こんなデタラメな報告を持ち帰ったら、神官長はあの魔法詠唱者にどんな結論をだすだろうか?
新たなる神人の血を引くものだと思うのか?
それとも神人自身か?
発見されていなかった魔神かもしれない。
それだけの隔絶した強さを持った存在が、一貴族の手に負える訳がない。
だから早く、早く法国に帰らなければ。
感じているのは命の危険だ。
圧倒的強者であるはずの自分の命が他人の手のひらの上にある。その居心地の悪さに身じろぎしながらクレマンティーヌはジリジリとその時を待つ。
護衛対象の予定ではこの後の晩餐会にも呼ばれている。だからここで帰れない。
そもそも、一番の仕事はそこでニグンに確かめさせる事なのだ。
そう。確かめなければならない。ニグンが森であったという仮面の男は、本当にナインズ・オウン・ゴールなのかという事を。
もし、本当にニグンがあった男がナインズ・オウン・ゴールであったならば、法国は苦境に立たされるだろう。知らない事とはいえ、神のように強い存在と敵対してしまったのだから。
晩餐の時間までは遠い。クレマンティーヌは未だ高い位置にある太陽を睨んだ。
王国の六大貴族に相応しい大きさを誇るレエブン侯爵の本邸。その中でも一番大きな舞踏会室。そこは今日だけ普段と様相を変え、食事の準備がされている。
中央に置かれた巨大な円卓。巨大すぎる故に反対側の人物と話をするには声を張り上げなければならないほどだ。その上には人数分の前菜が並べられている。既に食事は始まっており、朗らかな声で料理に対する舌鼓や新郎新婦への祝いの言葉がひっきりなしに交わされる。
「なんだ? 昼間の大魔術を使った魔術師は来ないのか」
そんな空気の中発言をしたのは小太りな少年だ。
新郎新婦に負けず劣らず上等な服に身を包んでいる彼は、リ・エスティーゼ王国の第二王子。この中で一番身分が高い存在だ。
その地位に相応しい態度で、選ばれた貴賓の中でも一握りの者しか招待されない晩餐会に招かれている。席順も主役であるはずの二人を押しのけて上座に座っている。
最も晩餐の席は円卓では主役との距離以外は序列と言ったものはない。上座というのも扉から一番遠いというだけだ。
「彼は人の多いところが苦手なのですよ殿下。それに昼間は無茶をさせてしまいましたのでゆっくり休息を取ってもらっています」
「ほう。無茶をさせた程度であの奇跡を起こせるものなのか?」
「そう簡単なものではございません。あの魔法を発動する為に領民から魔力を貰ってようやくです」
レエブン侯爵と王子の会話が続く。他の者たちはしっかりと聞き耳を立てながらも表面上は優雅に食事を続ける。
「そんなものか。よくわからんな。…………で、そのナインズとやらにはもう決まった相手はいるのか?」
ニヤリと、意地の悪い顔で王子はレエブン侯爵を見上げる。それに貴族的な感情の読めない笑みでレエブン侯爵は答える。
「今はまだ空席ですが、候補は既に何人もおります。近々帝国でナインズ自身が見初めた令嬢が側仕えとしてくる予定です」
「帝国か。ナインズは帝国の貴族という訳ではないのだな?」
「はい。ヘルヘイムという国にあるギルドに所属していたという話です」
「ギルド? それは商会のようなものか?」
「どちらかといえば冒険者組合に近いものだったようです。そこで魔法詠唱者としての己を極めたと」
「ほおう。しかし今日魔法詠唱者としての奴を見たが、かなりの腕の様だな。そんな人材をみすみすその国が手放すとは思えない。まさか国を揺るがす大罪人ではないだろうな?」
「そんなまさか! なんでも国が無くなって他に行く宛が無かったとの事です。そこで自分に流れる血の縁を辿って私の元に」
「ふん。成る程。亡命者か。本来であれば王都で然るべき保護をするべきだと思うのだがな。レエブン侯爵の縁者という事はその国でもかなり高い地位の家の出の筈だ。すでに身の振り方は決まっているのか?」
「とりあえずは我が領の魔術師顧問として席を置いて貰う事になっております」
「しかし奴は一貴族が持つには些か以上に大きな力ではないか?」
暗に反逆の意志があるという事だろうとの問いかけに、レエブン侯爵は些かの焦りも見せず王子を見返す。
「そんな恐ろしい事など考えておりません。ただ、ナインズの持つ力に対する懸念は尤もかとも思います。ここに集まって頂いております諸侯にも誤解なき様言わせていただきたい」
レエブン侯爵はそういうと立ち上がり胸の前で拳を握る。
「我がレエブン領はながく木材の輸出をしておりました。しかし、それは人外の領土であるトブの大森林に足を踏み入れるという事。その地の開拓、開墾は容易ではなく、経済も頭うちになっております。それを打開する為には人類の領土を拡げる必要がある。そう思っておりました」
一同を見回し、ゆっくり語りかける様な堂々とした声に皆の視線がレエブン侯爵へと集まる。
その視線一つ一つを見つめ返しながら、一つの宣言をする。
「ナインズの存在は確かに予想外でした。しかし、今だからこそできる事があります。停滞しつつある王国の経済を我が領土から動かして行きます。領主になったばかりの、未だ未熟な私ではありますが、是非皆様のご協力のもと果たしていきたいと思っております」
締めくくる様に礼をする。
それに、王子から拍手が送られた。それに続くように他の貴族も拍手を送る。
もう一度頭を下げ、椅子に座った頃には王子直々に反逆の疑いをかけられていた緊張感は無くなり、今話題に上ったレエブン領の新しい展望の話が交わされる。
「うまくあしらったものだな」
視線を合わさず、料理を咀嚼しながら隣にいるレエブン侯爵にギリギリ聞こえる声量で王子は呟く。
それに応えることなく笑みを深くして、レエブン侯爵も食事を再開した。
「そういえば最近の帝国の様子はどうだったのだ? 父上が心配していたぞ。領主になった最初の外遊が帝国で、しかも帰ってきても顔も見せない。体調でも崩しているのではないか、とな」
晩餐も終わりに差し掛かった頃、レエブン侯爵に王子が再び水を向ける。
「それはご心配をおかけしました。先代が亡くなった引き継ぎと今日の式の準備をしておりましたもので、陛下には随分とご心配をおかけした様子。……お心遣いにも感謝いたします」
「うむ受け取っておこう。帝国の事については王都に来た時にでもじっくり聞きたいと父上もおっしゃられていた。それで、いつ頃に王都に来るのだ?」
「春の式典までには必ず参ります。今はもう暫くお時間を頂きたく思います」
「成る程。国王陛下にはその旨を伝えておこう。先ほどの話もな。開墾が進めば木材が手に入りやすくなる。そうすれば今の季節寒さに震える民も減るだろう」
「ありがとうございます。よろしくお伝えください」
後二月もすれば寒さも和らぐ。
その時の再会を約束したところでこの晩餐会は終わりになった。
「アルシェ様、起きられましたか?」
レイブン侯爵邸の一室。今日予定していた最後の大仕事である晩餐会も終わり、邸は解けた緊張で浮き足立った空気が流れている。
その元同僚たちを横目に、正式にナインズ付きの侍従となったアランは倒れたナインズの一番弟子であるアルシェの看病をしていた。
身じろぎしたアルシェに起きたのかと声をかけたのだが、ただ寝返りしただけのようで起きる気配がない。顔は倒れた時のまま青ざめていて、眉間には深い皺がよっている。
アルシェが倒れたのは昼間、時計塔の鐘の合図と共に主人であるナインズが魔法を使った時だった。
今思い返しても胸が踊る。
キラキラと可視化された魔力を集めた主人が、巨大な魔法陣を使って天気を変えたのだ。冬用のお仕着せに厚手のコートを着て綺麗なドレスを着たアルシェのエスコート役をつとめたアランだったが、あの時のアルシェは本当に綺麗だった。
そんな妖精の様なアルシェは、主人が巨大な魔法陣を展開したところで顔色を変えた。そして寒気を感じているのかガタガタと震え出したところで異変に気付いた主人の命で駆け寄り、気を失ったところを受け止めた。
それからはこんこんと眠り続けている。
主人とその友人であるイエレミアスが楽しみにしていた夕食会でのお披露目も出来ずに、合間を縫ってレエブン侯爵や夫人、イエレミアスやナインズが様子を見に来ている。
アランとしても元主人であるレエブン侯爵の晴れ舞台である。常に側に侍るような地位をもった使用人では無かったが、ナインズ付きの侍従としてもう少し近くでその晴れ姿を見れると思っていた。
残念な気持ちが強いが、仕方がない。
損な役回りにはなってしまたったが、今はこの帝国からやってきた小さな魔法詠唱者の親しいものの一人として起きるまでの間側にいよう。
昼間、ナインズの魔法で晴れた空は今はすっかり元に戻り厚い雪雲からしんしんと雪を降らせている。
その芯から凍る様な寒さに身を震わせて、アランは窓にかかるカーテンを引いた。