幕間 一
さて、当面の方針は定まった。準備もできたところで、そろそろ行ってくるかな。
うん?やけに落ち着いているって?いや、取り乱しても何も解決しないだろう。これしか方法がないんだし、慌てても仕方がない。
ああ、そのあたりはきっちり頼むよ。そうだな、こういうのは加州清光や次郎太刀なんかが得意だろう?乱藤四郎もかな。そのあたりにも少し協力してもらうことになりそうだ。全く以て気に食わないけど、仕方ない。こうするしかなかったのだから。
ここで虚偽を申告する方が事態が悪化するから言うけど、本音を言うとね、こう見えて、結構無理してるんだよ。涼しい顔してるように見えるかもしれないけれど、正直かなり堪えてる。騙しだまし現状を維持してるようなものさ。だからこそ冷静になって、できることを確実にしなければね。
……不思議そうな顔をしているね。
非常に不本意だが言いたいことは分かる。でも、今はそれは胸の内に仕舞っておいてくれないかな。
こればかりは、仕方がない。仕方がないんだよ。例えあれが何を言っても、どう変わっても、何を選んでも、俺はこうする。するしかない。選択肢なんてないんだよ。それをあれが分かってないのが心底腹立たしいけれど。まあ、分かってもらいたくもないけれどね。せめて自分のことくらいは把握してもらいたいものだよ。本当に、好き勝手するよ、こいつは。
さて、これ以上は無駄な問答だ。行ってくる。……ふふ。指揮官がそんな顔をするものじゃないよ。
でも、その寄せてくれる心は、ありがたく貰っておくよ。
その想いこそが、俺たちになったのだから。
壱
ぱちり、と国広が目を覚ますと手入れ部屋だった。多分。恐らく。辺りに満ちたこの慣れた審神者の霊力と、中戸で繋がった医務室から漂う薬品や消毒液の香りは、確かに己の本丸の手入れ部屋の筈である。また目を瞬く。ぱち、ぱちり。
不意にからり、と障子が開いた。
「お、切国の旦那。目ぇ覚ましたか」
「薬研?」
「おう。あんた札使って手入れしたのに一晩目ぇ覚まさなかったんだぞ。とりあえず意識が戻って良かった」
昨晩の出陣のことは覚えてるか?と尋ねられ、国広は未だばらけている記憶の糸を手繰り寄せ纏めてゆく。
「……苦無が、出た」
「ああ、これまで確認されてない場所でな。それで隊長のあんたが一発重傷になって、その場で帰還したんだよ」
「そうか……」
確かに、江戸の、主が長距離と呼んでいる戦場で、本陣でもないのに突然現れたやたら早くて強くて重いイレギュラーな敵に体を貫かれた激痛と宙に投げ出されたような感触は覚えている。そこで意識を失ったのだろう、その先の記憶は途切れていた。
「他の奴らは?」
「あんた以外は全員無事だ。これまでにねえ事例だから、とりあえず政府に連絡を取って今後の方針を決めてる。あんたは大丈夫か?何か不具合は?」
「さっきから妙に視界が悪い。見えない訳じゃないが、輪郭が少しぼやけてる」
薬研は(恐らく)真顔になって、国広の傍に寄った。顔を近づけ、断ってから上下の瞼を引っ張り国広の目を診る。しかしながら至近距離にまで近づかれても薬研の顔はややぼやけたままだった。
「微妙に目の焦点があってなかったのはそれか……できれば早めに言ってほしかったんだが」
「すまない、寝起きで目が霞んでるだけかと」
「診た感じだと特に異常はねえんだがな。他に気づいたことは?」
「そうだな、あとは手入れ部屋がいつの間にかモノトーンに模様替えされてるくらいだな」
「色も分からねえ、と。だからそれもっと早く言ってくれや。普通に話すから驚いたじゃねえか」
「や、だから寝ぼけてるのかと思ったんだ。薬研は普通だったから」
「水墨画並みに色みのねえ刀剣男士で悪かったな」
歌仙や蜂須賀ならすぐ気づいたと思う、と言った山姥切の頭を薬研がスパーンと気持ちのいい音をたてて叩く。
「痛い…」
「そんだけ減らず口が叩けるんなら目以外は健康だな。とりあえず主呼んでもういっちょ手入れして貰おうや。ほれ手ぇ出せ」
「そして対応が雑だ…」
そうして差し出した手にうっすらと傷をつけられ、ホットタオルで目を休ませながら再度手入れを受けたが結局目は直らなかった。政府の術師も派遣して貰ったが、どうやら呪術の類らしく、残念ながらその場で解くことはできないとのことだった。
「敵の新たな攻撃……罠だった可能性が高いですね。ひとまず他の本丸でもこのような事例がないか確認してて、事態が把握できるまで出陣は控えるようにとのお達しです」
「まあ、当然だろうな」
「戦えないのか……」
「例え通達が無くてもあんたは目が直るまでは無理だろうよ」
「そうですね。幸いそこまで高度な術ではないらしく、時間が経てば自然と元に戻るだろうとのことです。最近切国さんは出陣続きでしたし、休暇だと思って直るまでは本丸でお過ごしください!」
大事を取って、万屋など本丸の外に出ることは許可できないんですけど…。そう申し訳なさそうに告げる審神者に気にするなと返して、山姥切は手入れ部屋を辞した。
ぐるりと見渡せば確かに、世界を薄い薄い曇りガラスを通して見ているようだった。しかしながらもう四年近く過ごす本丸であるので、それこそ戦闘でもない限り特に不自由はしなさそうである。
「兄弟!目が覚めてよかった!」
「兄弟」
「主さんから聞いたよ。目に影響が残ってるんだって?」
「ああ。でも少し見えにくいだけだ。普通に過ごす分には問題ない」
本当に?と堀川が心配そうに眉をハの字にしている様子も分かるのだ。ただ、そこに鮮やかな青が無く、ほんの少し輪郭が融けているだけで。
「そっか。よくはないけど、よかったよ。昨日途中で帰還してきたときは本当に驚いたんだからね」
「心配かけてすまない」
「別に兄弟が謝る必要はないでしょ?あ、兄弟が着てた戦装束は勝手に洗濯しちゃったからね」
「分かった、ありがとう」
「ああそれと、」
堀川はくるりと振り返って笑った。
「切長さんに会ったら、お礼を言っておきなよ。兄弟を江戸から運んできてくれたのはあの人だったからね」
「……ああ」
この本丸では、山姥切国広を切国、山姥切長義を切長と呼んでいる。彼はできれば山姥切と呼んでほしそうだったが、国広が山姥切と認識されているわけではないのでそこまで精神的な負担にはなっていないようだ。既知の刀など一部の仲間は普通に山姥切と呼んでいることもあり、彼自身も本丸側としても存外穏やかに彼の受け入れは完了していた。
何せ監査官の時のあの高圧的な態度で彼がしていたことといえば、元主の生存ルート(※可能性の話でも死亡前の正史でもなく実際に改変に成功した世界)で生きてる姿をひたすらに眺め続けながら再び死亡ルートへと突き進めさせる程度のお仕事だった。辛い。更に言うならそれは同時に山姥切国広の生まれる歴史の肯定と守護である。この時点で彼への不信や不満といった負の感情を抱く理由はほぼ無くなった。歴史を守ることを第一の使命として顕現される刀剣男士にとって彼が見せた行動それ自体が大きな意味を持っていたし、何にも勝る国広への情の現れというかぶっちゃけデレ以外の何物でもなかったし、なんなら自分に置き換えて胃痛を発症し医務室の世話になる刀たちが続出した。
これが政府の狙いかと考えれば、どつくべきか采配を讃えるべきか非常に判断に迷うところである。とりあえず聚楽第への調査期間中は審神者専用通販での胃薬や頭痛薬の類いの売り上げがうなぎ登りになったことは事実だった。審神者と刀剣男士どちら用だろうか。多分どっちもだろう。そんな彼が本丸に来た瞬間、尾張徳川の刀とか、長船の刀とか、小田原に縁ある刀とかにもみくちゃにされたのもまあ、無理からぬことであった。
彼も件の江戸へ共に出陣していたのだが、まさか重症になった自分を運んでくれていたとは。
「……あいつ、そういうところあるよな」
「うん。この間の出陣のときも、僕が『兄弟の様子はどうでした?』って聞いたら『なんで俺が偽物くんのことを見てないといけないのかな?』ってにっこり笑顔で返されたんだけどさ、」
「物凄く想像がつく」
「そのあと薬研くんが『おう、切長の旦那。今日の出陣で変わったこととかなかったかい』って聞いたら細々と部隊の皆の様子を報告してくれて、『あと偽物くんが三回目の白刃戦で奇妙に足首を捻っていたね。多分急激に下がった練度と上がった衝力が未だうまく噛み合わずにバランスを崩したんだろう。ダメージにはなってないが足を挫いている可能性があるから様子を見に行くといい。このままでは次の出陣に差し支える』ってスラスラと」
「この間何も言ってないのに問答無用で医務室に引きずり込まれたのはそれか……!!」
「薬研くんが『そういうところだよな~~~~~~』って」
「そういうところだよな……」
「ああいうところだよね~~~~」
まあ、そういうところである。彼がすんなり受け入れられた理由のひとつは。
前述の通り過酷すぎる責務を完璧に全うできる彼は、自身の感情と使命の切り離しが抜群に上手く、それがやるべきことだと判断したら国広相手だろうと変わらず適用される。私事を優先して全体の不利益を生む失態を誰よりも彼自身が許さないのである。
それを見て皆が言うのだ、そういうとこだよね、と。
「それであいつは今どこに?」
「伝説の梅の木を探しに行くとかなんとか言って兄弟と山籠もりに行ってるよ?」
「なんで????」
普通に彼も休暇中かと思いきや、謎の理由で己の兄弟とまさかのチキチキ☆山伏修行を断行しているという事実に国広は驚愕した。ついでに一応兄弟と部隊長がイレギュラーな敵に襲われ意識不明となっていたのに普通に修行を決行されていたことにも驚愕した。
「よく分からないんだけど、厨で燭台切さんと話していた切長さんの前で、つまみ食いしに来た主さんがうっかり『そろそろ日向正宗お迎えできないかなあ』って零したみたいで」
その時点で国広は色々と察した。
堀川が言うには、それから「彼は梅干しが好きなんだよね?」と大根を切りながら燭台切が言い、「それなら自分で梅干しを作ったら願掛けになるんじゃないかい?」と鍋をかき混ぜる歌仙が返し、「ああ!そういえば、本丸の裏々山では真冬に生るという季節外れの伝説の梅の木があると聞いたことがありますぞ!」と油揚げのおこぼれを貰いに来たお供の狐がどこから仕入れたのか分からぬ裏の情報を提供し、「うむ、裏々山といえば拙僧もよく利用する山!案内がてら共に行こうぞ!!」と畑から野菜を運んできた山伏が全く関係ないのに一番やる気を見せ、そのまま彼を引きずるようにして山に向かったのだという。
「なあそれ兄弟は単に山に行く理由が欲しかっただけなんじゃないか」
「まるで人攫いのようだったって歌仙さんがぼやいてたなあ」
「目的は山籠もりじゃないってちゃんと分かってるよな兄弟は?籠られたら下手すれば数日は帰して貰えなくなるんだが?」
「まあそう言わないであげてよ、兄弟も兄弟が心配だから籠りたかったんだろうし」
精神安定の方法が些かアグレッシブ過ぎる山伏であるが、その言葉に「なるほど、そうなのか」とすんなり納得してしまう国広も行動指針が筋肉的思考に染まっている紛れもない彼の兄弟である。
己の兄弟と山姥切がそこまで仲が良くなっていたことは素直に嬉しい。けれど、国広にはある悩みがあった。
「……なあ兄弟。兄弟と山姥切が戻ってきたら、お礼がてらに今度こそあいつと二人で話せないだろうか」
ひとつは、肝心の国広自身は全然全くこれっぽっちも山姥切と距離を縮められていないことで、
「うーん、多分無理だと思うよ!」
もうひとつは、面倒見のいい筈の堀川を始め本丸の全ての仲間たちが、二振りの仲の進展に全く応援どころか期待もしてくれないことである。
結局、その後うっかり前田と平野を間違えるという超初級の失敗を犯してしまったり、色の無い食事が全く美味しそうに見えなくて半ば目を閉じるようにして食べることにしたり、そのせいで緑茶と緑の野菜ジュースを誤飲して盛大に噎せたりといった事件はあったが、その日は山姥切に会えなかった。
やはり籠ってしまったのかもしれない。
弐
昨日に引き続き非番となっている国広だが、早速暇を持て余していた。視界にやや難がある状況では普通に過ごす分の問題はないが翻って言えば特別なことはしにくいのである。なにか手伝おうか、と声をかけてもいえいえ休んでてくださいと言われるし。
実際厨を手伝おうにも塩と砂糖も醤油とソースもすぐに分からないし、洗濯を手伝おうにも折り目が見えないし特に粟田口の内番着などは全く見分けがつかないし、なら掃除でもしようかと思えば埃や汚れの場所が分からない。本もテレビも絶妙にぼやけて見えることは見えるが気晴らしどころか却ってフラストレーションが溜まりそうである。詰んだ、と国広は途方に暮れた。
軽く絶望顔で立ち尽くした国広の傍をたまたま通りがかった明石国行が「することもできることもないなら折角ですしごろごろすればええんやないですか?」と親切心から提案してくれたが、いやいやそれはだらしないと国広は首を振った。
「そうだ、お前の眼鏡を貸してくれないか」
「なんやのん急に」
「目が悪くなったのなら矯正すればいいじゃないか。薬研か亀甲か篭手切か、駄目なら巴形でもいい。片目だけだけど」
「あんさんの目って近視とか遠視とか乱視とかやなくて近かろうが遠かろうが全部が微妙にぼやけてるんやろ?それ多分眼鏡でなんとかなる奴とちゃうで」
「そうなのか?」
「せやで。あと残念ながら眼鏡作るには眼医者さんに診察してもらって処方箋出して貰ってそれを眼鏡屋さんに提出してレンズ用意して貰ってフレーム決めんとあかんから、人の借りてもよく見えへんよ」
「なん、だと……!?」
「もしかしなくても眼鏡は全部一緒やと思ってたん???あと下手に眼鏡を作るとなあ、それに目が合わせようとすることがあるんや。慣れてまうんよ」
「??」
「簡単に言えばあれ見えてるやん急いで直さなくてもええやーんって目がそのまま直ることをサボってまうかもしれんってことですわ」
「俺の目が明石に……!?!??」
「いや自分ちゃいますけど?????」
己の目が明石節を唱える事態になるのを回避すべく、国広は名案かと思われた視力矯正案を泣く泣く却下した。明石は大変微妙な顔をしながらもそれがいいと思うでと頷いた。
仕方がないので稽古場へと足を運ぶ。もうできることといえばひたすら体を動かすことしかない。多分もっと文化的嗜好を持ち合わせる刀剣男士ならばあれやこれやと有意義な時間の使い方を見いだせるのかもしれないが、国広は主のためにひたすらに己と刃ひとつを研ぎ澄ませたタイプの刀剣であったので、たまにはあまり交流しない仲間たちとゆっくりとお喋りにでも興じようという思考より、一心不乱に素振りでもしようそうしようという発想しか出てこなかった。
本日手合せに指定されている刀剣に頼んで少し使わせてもらおう。そう思って辿り着いた先では、兜割りの実戦刀と突くことに存在を懸ける槍と怪しげな物言いの中に戦刀としての本能が隠し切れない霊刀が乱戦を繰り広げていた。既に一振り途中参加の先客が居たらしい。殺意濃度がこの場所だけ三倍くらい凝縮されてそうな戦ガチ勢の集いである。
「おや?どうしたんだい切国くん」
「んあ?切国?」
「なにやってんだよこんなとこで」
青江の声にピタリと静止した三振りに状況を説明すれば、ああなるほどと頷いて邪魔にならないところならば使ってよいとの返事をくれた。ちなみに聞けば主に頼んで三振りでの手合せ当番だったらしい。端から作法無用の実戦式だったことが分かりうずうずと国広の体が疼いた。
「できれば俺も混ざりたい」
「何言ってんだよお前目え悪いんだろ?」
「そうだけど一緒に鍛練したい。それにもし直らなかった時のために、このままの状況でも戦えるように備えておくべきだろう」
ふと思いついた理由を口にすれば恐らく青江は眉を顰めたようだった。
「不測の事態に備えようとする姿勢は素晴らしけれど、滅多なことは言うものじゃないよ。主も君の眼を直すためにできることを必死にやっている。その努力を無下にするつもりかい?言葉が大きな力を持つことを、君は知っているだろう」
殊の外厳しい口調と声音で言われた国広は確かにと反省したが、「まあ確かにずっと一人で体を熱くさせるのもつまらないよねえ……素振りのことだよ?」という青江の言葉で時折順番に一対一で国広とも手合せをしてくれることになった。とってつけたような理由だったが、これはこれで視界不良の時の鍛錬になりそうである。現状では夜戦以外では主に霧深き里の落とし穴に引っ掛からないようにするくらいしか機会が無いし、それも無駄な努力に終わる予感がしないでもないが。
「お、なんだよ思ったより動けてるじゃねえか」
「ああ。なんだか今日は調子がいい」
常備されている木刀を強く握って同田貫の剣を弾いた国広はすかさず畳みかける。本体は経過観察のために昨日から審神者に預けられていたので。
最終的に腹を強かに打たれて呻きながら壁に凭れて休憩に入った国広の隣に、同じく休んでいた御手杵が水筒を持ってやってきた。
「切国楽しそうだなあ」
「ありがとう。……目が悪いかわりに、今日は体が思ったように動くんだ」
ぐ、と国広は水筒の中身を煽る。何せ修行から帰ってきてからここ最近、満足のいく動きができることは滅多になかった。
何かが居ると感じ取れる気配は多くなったが、その具体的な配置や種類などの実態は分からない。以前より勢いよく振りかぶることはできても、それを上手く腕に、自身に乗せることができない。潜在能力が格段に跳ね上がったことは分かるのだが、それを十分に活かしきれないもどかしさを、修行を経てから国弘はずっと感じていた。むしろ修行前よりもぎこちなくなったようなその感覚は、他の極となった、特に脇差以上の仲間たちも同様だろう。
大きな力はそう簡単に使いこなせるものではないと自分を納得させ、今は少しずつ少しずつ、経験を積んで得た力を体に馴染ませている最中である。けれど本日はそれがうまく噛み合ってるようで、先ほどまでのやけくそ気味な気分から一転、国広は大層楽しんでいた。相手の姿がはっきりと見えないためか、いつもより少し出力は落ちている気はするものの、出せるはずの力が出せないというもどかしさはほとんどない。
「嬉しそうにするなあ。あいつと同じだ」
「あいつ?」
「切長だよ。あいつも強くになるにつれてすげえ嬉しそうにしてたからな。特にお前から一本取った日は桜舞わせながら報告してきたぞ」
思わぬ名前に国広は盛大に噎せた。「おいおい大丈夫かあ?」と御手杵が大きな手で背中を擦るが原因はどう考えても彼である。
そういえばこの場の三振りは、山姥切が練度一からカンスト間近まで驚異の勢いで力を付けた原因……もとい立役者の一部であった。
その日、国広は少し呆然とこの場に膝を着いて山姥切を見上げた。彼を見上げる、というのが酷く新鮮だった。
『……ここらでやめておこうか。あくまでも訓練だからね』
そう言う彼の顔は実に輝いていた。
その時の国広の練度は未だ40台、一方山姥切は90を超えていた。既に極だからといって優位を取れる段階ではなく、彼が勝つ可能性は確かに十分にあった。
それでも国広は慢心などせず臨んだが、彼はそれよりも更に念を入れて用心に用心を重ね、国広の動きをほぼ正確に読んでいた。国広はこれまでの手合せで彼の放った台詞が負け惜しみでも見栄でも無く、徹底的に国広の動きを観察し戦い方を分析するための、本当に有意義な時間だったのだと知る。
山姥切はにっこりと笑ってそのまま稽古場をあとにしようとしたので、ハッとした国広は慌てて『山姥切、』と呼び留めた。
一本取られたのは確かに悔しい、悔しいが、それ以上に高揚が勝った。一方的な勝負ではなく、これからはほぼ互角に打ち合えると思うと心が躍った。勿論このまま終わるつもりはなく、国広も練度を上げていくが修行を終えた仲間は多いし、極の力は大器晩成だ。もう暫くは戦力は横這いだろうし、例え国広がどれだけ強くなろうが彼ならば怯むどころか虎視眈々と急所を狙い続けるだろうという心地よい緊張感と確信があった。
『なあ、話をしよう。最近ずっと出陣と稽古ばかりで、結局あの日から話す機会が無かっただろう。俺はお前と話したい』
ぴたりと稽古場の入り口で止まった山姥切の背中に、国広は意気揚々と言ってもいいくらい明るい声でそう言った。
けれども振り返った彼の眼に、その高揚と期待は一瞬で凍り付いた。
『――話すことなど、何もないよ』
先ほどの上機嫌の笑顔がまるで夢か幻だったかのように完全な無表情になった山姥切の瞳には、何の感情も見えなかったのだから。
国広は目の前で五度目の大乱闘を繰り広げる三振りに目を向けた。あの初陣での会話からその日まで、山姥切は只管に出陣した。主に頼んでそりゃあもうほとんど休まず戦った。手合せで叩きのめされながら国広の観察を続け、いい加減休んでください!と主命で部隊から外されても一心に剣を振るい続け、その姿に声をかけたのが彼らだった。戦場にこそ己の意味を見出す彼らにとって、彼の殺意増し増しの剣筋ととにかく敵はぶった斬るものという思考は、諫めるより好ましいものだったのだろう。普通に笑い合いながら四振りで食事を摂っている光景を見たときは二度見した。
鍛錬に付き合い彼の姿勢を肯定し国広に一矢報いるのに協力した彼らは、彼と結構、わりと、仲がいい。少なくとも桜舞わせて嬉しそうに報告に行くくらいには。今でも時折個人的に手合せを頼む姿を見るくらいには。
「……なあ、にっかり、同田貫、御手杵」
声を掛ければ、彼らは再びピタリと止まって国広を見た。
その大乱闘に銀糸も混じって生き生きと踊る様を、もう何度も国広は目にしていた。
「どうすれば、お前たちみたいに山姥切と笑って話せるようになるだろうか」
三振りはお互いの顔を見合わせて目を瞬いた。
「無理じゃねえか?」
「無理だよなあ」
「無理なんじゃないかな?」
口を揃えての断言に国広はがっくりと肩を落とした。そんな国広の肩を青江がポンポンと軽く叩く。
「……言葉は言霊、言の葉は言の刃、だよ」
「え?」
「僕に言えるのはこのくらいかな」
ふふ、と意味深な笑顔を浮かべる大脇差に、国広は首を傾げた。
それから、昼食も挟んでほとんど彼らと稽古場で過ごした。
この日も山姥切の姿は無かった。
参
パチ、パチリと目の前で打たれていく白と黒の石を国広は眺めていた。昨日は日中ほぼずっと剣を振るっていたことが主にばれて、本調子じゃないんですから無茶しちゃ駄目です!と本体どころか木刀も握らせて貰えなくなったので、とりあえずすることもないので部屋を片付けてみたり、戦装束がいつの間にか一着少なくなっていたので注文したり、他にも足りなくなったものはないか確認したり、布団を虫干ししてみたら座る場所が無くなった。さて次は何をしようかと本丸を練り歩き、たまたま源氏の重宝が縁側で碁を打っているところに出くわして、なんとなくそれを観戦することにした次第である。二振りとも快く迎えてくれたし、これなら色の区別がつかずとも場所が分かるし。
あまりこういった遊戯は嗜まない国広だが、ルールくらいは分かる。今は、ふふふといつもの一見柔和な笑顔を浮かべている髭切がやや優勢のようだった。それをどこかのんびりとした気持ちで国広は眺める。昨日は少しはしゃぎすぎたようで、十分睡眠はとった筈なのに少し体に疲労感が残っているので、たまにはこうしてあまり動かず時間を過ごすのもいいかもしれない。
「……投了だ、兄者」
「おや、もういいのかい?」
「これ以上打っても勝ち筋はない……分かっておられるくせに」
「ふふふ、どうだろう。まあ、お前がそういうなら、僕の勝ちということになるのかな」
僅かに張り詰めていた空気が、二振りのふう、というため息で弛緩した。そのまま「それにしても流石は兄者だ……追いつめられていると気づいたときには手遅れだった」「そうかな。僕が思ったよりも気づくのは早かったと思うよ?…ええと……」「膝丸!!膝丸だ、兄者!」「うんうん、囲碁丸もよく頑張ったと思うよ」「俺が斬ったのは膝であって碁盤ではないのだぞ兄者あああああ」といつもの会話を繰り広げる兄弟刀を、国広は盤面から目を離して見比べた。
僅かにぼやけた輪郭で、色の別なく改めてこの二振りを眺めてみると、本当によく似ている。髪型とか、眉の形、纏う雰囲気などは違うのだが、それでも、同じ形から分けられたような、別たれたような、確かに別の刀である筈なのに、まるで二振りで初めて本当の形になれるような、
そんな、とても近い、形。
二振りの仲睦まじい様子を、どこか羨望の思いを伴って見る日が来るなんて思ってもみなかった。刃生とは本当に驚きばかりだし、命と心の織り成す変化とはまこと予測がつかない。
(……俺も、)
自分たちもいつの日か、彼らのように親しくなれる日が来るだろうか?
「え、それは難しいと思うぞ」
「うん、無理だよねえ」
「口に出てたのは分かったがせめてもう少し優しく指摘して欲しかった」
きょとりとしたそっくりな顔で即答された国広は力尽きたようにごろりと縁側に転がった。連日の全否定に既に結構心は中傷気味だ。ほんとにこの本丸の仲間たちは容赦がない。そこまで望み薄か、そうか。
「ええと、なんだったっけ彼、山切くん?」
「兄者、山姥切長義だ。切長だ。それでは山ごと真っ二つにしたようではないか。どんな神話の中の剣なのだ」
「ああそうそう、山姥長くん、彼、凄くいじらしいよねえ」
「うむ、名前が妙な具合に略されているのはともかく、それは俺も思う」
いじらしい、という彼には全く似合わない単語が耳に飛び込んできた国広はがばりと起き上がって二振りを凝視したが、当の髭切は自身の発言に全く迷いなど感じさせぬ笑顔だし、膝丸も大真面目に頷いている。
「え、いじらし……え?」
「しかし兄者、言いたいことは分かるが、いじらしいとは弱いものやいたいけなものに使う言葉ではなかったか?」
「じゃあちょっと違うかな?なんだろう、健気?」
「無垢というか、よくもここまで、とは少し思うな」
「真っ直ぐというか、馬鹿真面目というか、いっそ愚かなくらい甘いというか、」
「兄者。もはや悪口にしか聞こえぬぞ兄者。言いたいことは分かるが。兄者とは別の意味でおおらかすぎるとは思うが」
「とにかくあれだね、かわいいよね、あの刀は」
「そうだな、かわいいな」
予想外な山姥切評に、国広は目を白黒とさせた。確かに彼らも山姥切と仲がいい……というか、あまり平安刀特有の好々爺然とした様子を見せない二振りが、彼にはよく孫でも見るかのような優しい目で構っているのをたまに見るが。そこに大包平と鶯丸が微妙に張り合ってる姿も目にするが。
「不思議そうな顔だね?ばば国くん」
「兄者、山姥切国広だ。切国だ。それでは老嫗の住む国のようではないか」
「そうそう、切広くん、君もあの演練のとき一緒にいたよね?あれ、多分一緒の部隊だったよね?」
その言葉に、国広の脳裏に『あの演練』の出来事がまざまざと蘇ってきた。
国広のいる本丸では、政府から課せられた演練のノルマは午前中に極短刀中心の部隊で完了させ、午後の演練はあまり戦力は気にせず希望する刀剣の中から組むという習慣になっている。他の本丸の審神者や刀剣との交流や、刀剣男士同士での戦闘、万屋とは違う出店やお土産目的など、思い思いの理由で演練に参加したがる刀剣は一定数居た。
国広はここのところほぼ毎日希望を出していて、その日も演練場に顔を出していた。試合開始までまだ時間あるから時間になったらブース前の待合室に集合!と言われて暫し自由時間になる。偶然にも山姥切も同じ部隊だったが、一緒に回らないかと声をかける前に、彼は顔見知りらしい職員を見つけて話しかけに行ってしまった。本日も空振りである。親し気に談笑する彼らを微妙に物寂しい思いで見つめたのち、国広も目的の場所へと向かう。
歩きながら周囲を見渡せば、ちらほらと煌めく銀糸が目に飛び込んでくる。審神者と何やら資料を見ながら話し込んでいるもの、短刀たちに手を引かれて苦笑しながら土産屋に向かうもの、出店の店員と「あらあら山姥切さんお久しぶり~」「ああ、久しいね。それにしてもよく俺だって分かったね?」「ここに居た頃からの常連さんを忘れたりしませんよ~」と世間話に興じるもの。国広の本丸のように、職員や警備員と妙に馴染んだ様子で近況報告だったり愚痴を聞いてあげたりといった交流をしている個体も多かった。監査官をしていた名残だろうか、彼ら政府の人間が山姥切に向ける目は、敬意と感謝と、そして皆一様に、優しかった。
山姥切の戦争への投入は、当初は山姥切国広を初期刀に選んだ審神者たちだったり、特にまだ極になっていなかった本丸など一部で色々と物議を醸したらしいが、聚楽第調査期間の中盤で彼の情報と共にかの世界についての調査結果も詳しく開示されたことによって、その騒ぎはほぼ完全に鎮火した。偽物くん、と嫌みをぶつける口で国広の居る世界を守っていたのである。ツンデレかよ、ということで大方の審神者たちも彼を受け入れることができたようだった。実態はその百倍くらい複雑怪奇且つ拗れに捻れた入り組みようなのだが、まあ、不条理に負の感情を寄せられなくなったのなら何よりだ。
そんなこんなでだいぶ落ち着いてきた彼の受け入れだが、それに比例するようにして山姥切国広の間ではひとつ、深刻な問題が横たわっていた。
『お、いたいた。もう始まってるか』
『お疲れ。いやこれからだ』
『あれ、またあいつは来てないのか』
『ほぼ毎日の勢いで来てたのにな』
『…まさか、解決したのか……!?』
『どうだろうな。いい加減他のやつに部隊を譲れと怒られたのかもしれない』
『なあ、お前ら。もしかしてあのことについて相談してるのか』
『もしかしなくてもお前もか』
『まあこっちに来い。話を聞くくらいならできる。というか話を聞くくらいしかできん』
ぞろぞろと談話室の隅に固まって内緒話のようにこしょこしょと話しているのは、全て修行済みの山姥切国広である。以前はちらちらと物珍し気な視線を寄こされたが、今となってはああまたか、という慣れた一瞥でスルーである。急に来なくなったり新しく来たり、そもそも演練部隊にならないと始まらないのでメンバーは安定しないが、それくらい回数は重ねているし、更に言うならここだけでなくほぼ全ての演練場で、ここ最近結構な頻度で見られる光景だった。つまりは、そのくらい山姥切国広極という個体全体にまたがる事例であった。
その話題は常に同じだ。
『山姥切と、全然交流できない』
『というか、話もできない』
『というか、二人になること自体が出来ない』
はあああ、と金の頭を突き合わせて一斉にため息を吐く山姥切国広極の数、本日は七振り。ちょっと少ないかな?と周りや本刃たちが思ってしまうあたりに事態の深刻さが伺える。
仲間としての話し合いは普通にできる。
仕事の話はむしろ弾む。
連絡事項も恙なく進む。
しかしながら、それ以外、それ以上に話したい、とか親睦を深めたい、とか一歩でも関係性を先に進めようとした瞬間に、彼の眼からあらゆる色が抜け落ちるのである。
『嫌みを言われたり怒られたりならまだよかったんだがな……』
『まっっったくの無反応なんだよな……』
『無機質…?無機物…??』
『一瞬で無表情になられると、もうそれ以上言えないんだよな……』
拒絶なら、まだ、仕方がないかと思えた。
嫌がる様子を見せるなら、まだ親密度が足りないのだと頑張れた。
しかしながら、その負の感情すら見つからないのだ。少し踏み込んだ途端、彼の眼からはあらゆる感情が掻き消える。反応して、声を聴いてくれる、意識すらそこに居ないみたいに。
なんだか、まるで意味のないことをしているような、全くの見当違いのことをしているような、そんな虚しさに似た気持ちにさせられる。梨の礫、音無しの構え、泥に灸でも据えてるよう。
そもそも山姥切という刀は国広とのファーストコンタクトで誤解されがちだが、呼び方が(山姥切ではないという意味の)偽物くんで手合わせの時など否応なく対峙しなければならない時に多少物言いが挑発的もしくは挑戦的になるだけで、彼から国広へ何か能動的に働きかけること自体が滅多なことでもない限りほぼ皆無なのだ。だって彼の目的は自身の確立であって、国広に絡むことでも突っかかることでも追い落とすことでもないのだから。絡む暇があるなら素振りをしたり新しいことに挑戦してできることを増やし、嫌みを考えるより戦略や戦い方を練る。全ては己の力で己を証明するために。何せ名前の記録が失われ写しの名前として認知されること数百年、時間遡行軍との戦争が始まってからはその認識がより爆発的に広まり、更には国広の極まで実装済みというえげつない戦力差。おまけに無条件で元主の正規(死亡)ルート攻略を経験済みというメンタルアタック。参戦時から背水ここに極まれりといった具合のもはやトチ狂ってるレベルの──それこそ、呪われているのではないかと思えるほどに──逆境に置かれている彼はしかし、鬱屈するどころかいいぞやってやるよと言わんばかりの気合と根性とつよいこころの持ち主だった。その不屈さたるや鋼どころかダイヤモンドである。その身が折れようが決して折れない強靭且つ頑丈な不撓の魂だ。
苦境を真っ向から乗り越えるべく、今日も彼は凛と背筋を伸ばして修練に励む。一言で言えば絡む暇などないのである。弱る暇も悲しむ暇も嘆く暇すら投げ捨てた刀なのだから。それに加えて、この状況。
当初は諍いが懸念された二振りだが、正直、喧嘩にすらならない、というのが現状だった。何せ私的な意思の疎通自体ができないのだ。
そしてもう一つの謎は、この事態は極となった国広にのみ起こっているということだった。
『修行前の俺と何振りか話をしたが、棘々しかったり硬かったりはするがなんだかんだで話すくらいは普通にしてるらしいぞ』
『少なくとも、個刃的に話しかけた瞬間全くの能面になることはないらしい』
『俺なんかこの間万屋通りのちょっと敷居の高い喫茶店でお茶してる二振りを見たぞ……もう一度言う、二 振 り で、だ』
『なん、だと…!?』
『え、………え?』
『見間違いではなく?そっくりさんでもなく???』
『ああ、間違いなく修行前の俺と山姥切だった。まあ俺は緊張でガチガチ、あいつはなんだか遠い目をしてたけどな。経緯が凄まじく謎だった。でもとりあえず注文して、運ばれた料理を食べたら二振りとも目をキラキラさせて、』
『そんなに美味しかったのか……』
『それでその料理の話ばかりになって何故か途中でそれぞれの皿を入れ替えて食べ始めて』
『半分こか??仲良しか???』
『そして食べ終わった二振りがデザートをつまみながら広げたいかにも手作りと思しき冊子の表紙には「山姥切と山姥切国広のためのぶらり万屋二人旅のしおり」』
『遠足か???修学旅行か????というか作ったの絶対小竜だろそして長船が一枚噛んでる気配を察知』
『半分こするくらい料理のおいしい店だもんな』
『食後のデザートも欠かさず頼むくらいだもんな』
『料理男士とすいーつ男士の監修も入ってると見た』
『おまけに山姥切はカジュアル過ぎずフォーマル過ぎずしかし絶妙にあいつの造形を引き立てるようなフルコーディネートだった』
『にゃーさんの本気確定じゃないか』
『前情報を裏切って実は滅多に出さない本気だな』
『祖も絶対口だして……ああいやもう長船五振り全員でああでもないこうでもないと話し合ってる図しか浮かばない』
『店を出て、最終的に二振りで顔を突き合わせて旅のしおりを覗き込んで普通に楽しそうにあれでもないこちらはどうかと万屋通りを散策する二振りにほぼ全ての通行人が二度見してた。特に同位体が』
『完全に二人旅じゃないか。普通に仲の良い二人で一緒に来た観光旅行じゃないか』
『そりゃ二度見するだろう。何なら俺たちは五度見くらいするだろう』
『残念、山姥切国広極の平均二度見回数は9.6回です』
『それもはや二度見じゃない』
『ぶんっぶん首振り回してるな』
『もはや完全に不審者通り越して危ない人じゃないか』
『俺たちの極は挙動不審の極みじゃないぞ』
『というかカウントしてたのか暇なのか???』
『気になりすぎてつい追っかけたんだよ察しろ。まあ耐えられなくなって暫くしたら離脱したがな……』
『まあ、うん、精神的ダメージがな……』
『むしろよく追っかけるまでできたなお前。俺なら店でそのまま重傷放置だ』
『何か突破口でもないかと思ったけどほんとに普通に話してて普通過ぎて何の成果も得られませんでした』
『ん、頑張った頑張った』
お疲れ、お前はよくやった。そう口々に労う国広極たちの声は労わりと慈愛に満ちていた。
山姥切と山姥切国広が仲良くできているのはいいことだ、いいことなのだが、同時に酷く物悲しくしょっぱい気持ちになる。自分たちとのあまりの差異に。
『どうして俺たちじゃ駄目なんだろうな……』
結局今日も、そんなどこぞの長谷部のような台詞を最後に解散となった。全く以て現状の解決にはならないが、それでも同じ境遇の相手と本音を吐き出せるだけでだいぶ気分が軽くなる。
そうして集合場所となっていた待合室に戻れば、何やら主たちが騒いでいた。
『ふふふ、大丈夫だよ、心配には及ばないさ』
『いやでもですね?ちょっと大事を取ってお休みしましょう?ね、ね?』
『この俺の太刀筋が、このくらいで鈍るわけがないよ。むしろちょっと気分がいい』
『だからそれが問題なんですってば───!!』
『……何事だ?』
『あ、切国さん!!』
近づいてみれば、申し訳なさそうに慌てたように山姥切を説得しようとする審神者と、それをあちゃ~という顔で見守る本日の演練部隊、後藤、日本号、膝丸、髭切と、ほんのり頬を紅くしていつもより二割増しくらいで笑顔が眩く輝く山姥切。
うん、
『山姥切、お前酔ってるのか??』
『主がジュースと間違えて酒を出してしまったのだ』
『酒が苦手な主でも飲みやすい~っつってな、次郎太刀がこないだ買ってきた奴だったんだよ』
『驚かせようとして黙って冷蔵庫に入れてたのを、主がそのままクーラーボックスに入れて持ってきちゃったんだよねえ』
『山姥切が一番に戻ってきたから、とりあえず飲んで待っててねってコップに注いでそれで』
『ごめんなさい……!!ごめんなさい……!!』
『何を謝ってるんだい?とても美味しかったよ?』
『ウッ』
『うわ~、凄く純粋ないい笑顔』
『主が重傷なんだが帰還させた方がいいか??』
『というか切長そこまで酒に弱くなかったよな?どんだけ強い酒だったんだこれ』
『主が飲んでたら倒れてたかもしれないねえ』
『ううん、むしろ山姥切が飲んで良かったというべきなのかどうなのか』
『……なんで山姥切はここまで気づかなかったんだ?普通飲んだら酒だとわからないか?』
『何々……「お酒の苦み、風味が苦手な人でも安心!味も香りもジュースそのもの!美味しく楽しくほろ酔いの気分が楽しめます!! 政府直轄開発部万屋出荷部門」』
『おい危ねえ奴じゃねえだろうなそれ』
『えーとね、「※使用者がほろ酔いレベルなるとそれ以降は普通のジュースになる安心保証付きです!!」』
『ちっっっっっとも安心できないんだが???』
『むしろ不審度が跳ね上がったんだが……』
『これ、酒じゃなくて霊力に作用する術式の一種なんじゃ……』
色々と不安なところはあるが、まあ次郎太刀が酒判定したのなら酒なのだろう、という結論を出してさて本題はここからだ。この酔っ払いをどうするか。
『まあいいんじゃない?本番じゃなくて訓練なんだし』
『全力でぶつからねば訓練にはならんが……まあ、前後不覚になってるわけでもないしな』
『これから本丸に帰って入れ替えるのも面倒だしなあ。これも本調子でないときに戦う訓練ってことで』
『おうおう、俺が酔ってるときの戦い方を教えてやるぜ~』
『おや、ありがとう』
『皆さんが予想以上にノリノリで大変困惑してるんですがいいんでしょうか…?いいんでしょうか……!?』
『いいのか…?それでいいのか……???』
ふたりして顔を見合わせた審神者と国広だったが、まあ日本号とか次郎太刀とか修行前の不動とか端から酔っ払い組もいるしセーフだろうという結論を下してそのまま続行することにした。万が一注意されたらそのとき止めさせよう、うん。
そんなこんなでブースに入り仮想戦場へと転送され相手部隊と向かい合っているときに、『ああそうそう、』と山姥切が唐突に声を上げた。まさか自分に向けられているとは思わず反応が遅れた国広は、『おい、』と今度は間近で囁かれた声に一瞬おいてぎょっと振り返った。同時に極めた刀にあるまじき反応の鈍さだと猛省した。
『お前に言っておきたいことが山ほどあったんだよ、偽物くん』
据わった目でぼそりと呟かれて国広は冷や汗を垂らした。まずい、嫌な予感しかしない。より具体的に言うなら酔っ払いの奇行がまさに今ここで繰り広げられる予感がひしひしとする。そんな国広に構わず山姥切は話し続ける。
『そもそもね、俺が持つものは、俺を愛した人が持たせてくれたものなんだよ。名も逸話も美しさも切れ味も辿ってきた途も全て。そう、全てだ。長義が俺を美しく鋭く作り上げ、人が俺を以て化け物退治を為し、山姥切の名をくれた。俺こそをと伝えて贈って選んで求めて受け継ぎ大切にしてくれた。それが俺なんだから、俺になったのだから。だから俺は俺を俺の全てを以て誇るし知らしめる。何ひとつ、取り零してなるものか……!紡がれた物語を譲り渡してなるものか!!!』
ぼそぼそとした呟きは最後には怒号の如き大声になり彼は激昂した。あああ、と審神者が崩れ落ちた。演練場で叫び出す刀剣男士など物凄く目立つし視線が集中する。あちゃ~、と後藤たちは走りながら再び苦笑したし、審神者はもう穴があるなら入りたい、布があるなら被りたいといった様子でブース前で一人縮こまった。
しかし山姥切は止まらない。もはや雄叫びのような怒声を上げながら斬り込んでいく。国広も少し遠い目になりながら敵陣へと乗り込んだ。
『お前は言ったな!名は物語の一つでしかない!!もっと大切なことがある!!ああそうかそれがお前の出した答えなら大いに結構だ!!だがな!!その名がお前のものとして認識され広まっている事実を自覚しろ!!今俺たちの置かれているこの現状を今一度よく理解しろ!!それがお前の意思でないことも俺が居なかったからだとも知っているが!!!だから気にするなと??よりにもよって!!その名に居座る!!!お ま え が 言 う な !!!!』
その瞬間、演練場の全ての山姥切長義が深く強く頷いた。あまりのシンクロ具合に思わず録画する審神者が続出し、後日さにちゃん界隈で大量に出回ったとかなんとか。
ガキィン!!!と殺意増し増しで斬りかかられた相手の刀剣男士はうぉお!?と思わず呻いた。完全なるとばっちりである。
ぎりぎりと鍔迫り合いのちに一度引いた山姥切はなおも叫び足りないと言わんばかりに剣を構えたまま吼えた。
『物語のひとつ?その一つをどうして手放せる!!預け残し託されたものをどうして放り出せる!!一つだろうが欠片だろうが捨てていいものなど何一つない!!!一つでも欠ければ俺は俺たり得なかった!!!俺を形作るあらゆるものが俺への情だ!!!!』
まるで血でも吐き出すかのような叫びに、同じく一時後退した国広は思わず横目で彼を見た。
息が止まった。
山姥切の眼差しが、真っすぐに国広の目を射貫いていた。
『もっと大切だと、お前は言ったな』
にっこりと、彼はわらう。
『その優劣を、お前が決めるな』
ぞっとするほど青い藍い目を見開いて。
『俺の名の価値を、お前が決めるな』
その中に、炎のように燃える凄絶な憤怒を閉じ込めて。
『お前が、俺を決めるな』
ガツン、と頭を殴られたかと思った。
怒りに満ちたその瞳はしかし決して濁ることなく、その激情によって却って深く鮮やかに、冴え冴えと、凄艶なまでの輝きを放っていた。
『っはは、まあ、分からないならそれでもいい。俺のすることは何一つ変わらない。お前が知ったような口を利くたびに俺は俺のすべきことを再確認できる。お前がお前の御託を並べれば並べるほどに俺はこのままではいられないと、止まるわけにはいかないと思い知る』
そのまま彼は駆け出した。
怒りに身を任せているとは思えぬほど鋭く隙の無い身のこなしで、日本号が切り開き髭切と膝丸が露を払った活路に、後藤と共に相手の隊長の元へと突き進む。
『臆するは込められた魂を物の数に入らぬと辱しめるものと知れ!!口を噤むは彼らの想いを取るに足らぬと貶めるものと知れ!!!諦めるは寄せられた心に背を向け投げ出すことと知れ!!!!お前が決めたことならお前はお前で勝手にしろ!!だが俺にはできない相談だ!!今この現状でそれに頷いたその瞬間、諦め手放したことになる!!!捨てることで得る強さなど要らない!!!それはもはや俺じゃない!!!俺でなければ意味がない!!!!』
後藤が飛び込んだそのすぐ後ろに彼が迫る。一分の無駄もない構えでただ一点の急所を狙う。その剣捌きは、ただただ力強く、美しかった。
鈍るわけがない。曇るわけがない。陰るわけがない。
その身に満ちる怒りこそが、彼を彼たらしめる誇りに他ならなかった。
『俺は俺だ!!!俺は俺のままで俺の全てを証明する!!!!!』
ズバン!!!という重く鋭い音と共に、相手の隊長が斬り伏せられた。
試合は国広たちの勝利となり、ブースから戻れば演練場は国広極が山姥切に土下座してたり審神者が土下座してたり逆に縋りついてたり山姥切が仲間たちにもみくちゃにされてたり職員に拝まれてたりと大変カオスな状況に陥っていた。さもありなん。
ふん、とどこかスッキリした様子で腕を組んでいる山姥切に、国広はぐっと拳を握って近づいた。
『山姥切』
『……なんのつもりかな、偽物くん』
急に深く頭を下げた国広に、彼はつまらなそうな声を上げた。
『……俺は、お前の大切を軽んじた』
彼の叫びで、国広は彼の心の一端を垣間見た。
国広が、名も逸話もこの鋼の身への付属であり服飾でしかないとして、それを取っ払って研ぎ澄ませたのとは逆に。
彼は、己の辿った歴史の全てに意味と価値をおき、全き己こそを己として誇っていた。誇らぬことこそを恥とし侮辱とした。
そもそもの、互いの考える『己』自体が違ったのだ。そこに優劣も尊卑も正誤もない。
国広の発言は、彼と自分の置かれる状況への理解も足りぬまま、彼が誇り大切にしているものを、取るに足らぬと軽視するものだったのではないか。彼の「偽物」呼ばわりは、「お前は山姥切じゃない」という当然の主張であり、国広の存在や価値を否定するものではなかったのに。いや、それでも偽物呼びはやめてほしいけれど。
『……お前が怒るのも尤もだった。話そうともしないのも道理だ。でも、それでも俺はお前と話したいし、お前のことを知りたいし、俺のことも知ってほしい。許してくれとは言えないが、せめて、言葉を交わすことは許してくれないか』
頭を下げたまま、国広はそう言った。猛省と、そして彼のことをひとつ知れたという微かな喜びもあった。彼の態度の理由が分かったのなら、この手詰まりな状況を打破するきっかけになるかもしれない。
そう、思っていた。
『──お前は、何を言ってるんだ?』
え、と思わず顔を上げて。
国広が僅かに持った希望は霧散した。
国広を見下ろす彼の青い目には、先ほどの苛烈なまでに渦巻いていた激情も爛々と輝く怒りも何一つ浮かんでいなかった。
同じだ。同じ。
今までと全く同じ、何も見えない、瞳。何ひとつ響かない眼。
国広は混乱した。
だって、彼が国広と全然話してくれなかったのは、自分とだけは交流しようとしなかったのは、距離が全く縮まらないのは、
『それに、怒ってたからじゃ、ないのか……?』
棒立ちになった国広の横を、彼はするりとすり抜けた。
もう、一瞥すら寄こさずに。
『──話せることなど、何もないよ』
そんな、何の起伏もない微かな声だけを残して。
「ああ、うん……、俺も居たぞ、あの日は……」
その日のことを思い出した国広は遠い目をした。衝撃と混乱と落胆とで体よりも精神的に色々と疲れて帰ってきた日だった。あと本丸に帰ってから酔いの醒めた山姥切が四半刻ほど監査官時代のマントを被って体育座りするという事態が発生したが、すぐに「いや別に言って後悔するようなことは言ってないしいいじゃないか」と開き直っていつもの調子に戻っていた。さすが山姥切。自己肯定力が半端なものではない。極前の国広なら丸一日は引き籠る。布の中に。
ちなみに国広たちは、その後騒ぎを聞きつけてやってきた役人にあまりに大きい怒号は戦略としてはありかもしれませんが特に新人審神者たちを怖がらせてしまうかもしれないのでほどほどに、と口頭で注意を受けた。しかしながら山姥切に向ける目はとても優しかったのであまり説得力がないのだった。
何故かと思っていたら、その日のうちに審神者同士のネットワークに一連の映像が一気に拡散され、さらに後日、主と山姥切の承諾を得て山姥切長義に関する情報として開示できる資料に一連の映像が正式に登録される流れになり、また山姥切への理解を広める一助となったというのだから、中断させずに敢えて全て終わるまで出てこなかった役人に一体どこまで計算されていたのか非常に気になるところである。
やはり政府職員は山姥切に甘いのかもしれない。
「? それは、そうだろう」
そう言うと、膝丸は不思議そうに首を傾げた。
「あれほど人に振り回されていながら、欠片も人を疎むことなくむしろ与えたがり協力していたのだ。それに彼の言う通り、我等の名前は人がつけたものだ。それを大切にするのはつまり、人からの贈り物に価値を見出だし、大切にしているのと同義だろう」
それほどまでに想われていて、嬉しく思わぬ人が居るのか?
居るなら、それは我等付喪神を呼び出させる政府に相応しい人間ではないな。そう言う膝丸に、国広は目を見開いた。
政府の人間が山姥切に向けていた、親しみと感謝と敬意の目。
てっきり、向こうで働いていた名残とばかり思っていたのに。
「うんうん、そうだよね。前々からね、凄いなあとは思ってたんだよ。あんなに名前を大切に思えるなんて」
「むしろ兄者はもう少し彼を見習ってはくれないか……」
「うーん、でも僕はね、どうしてもどうでもいいって思ってしまうもの。持ち主の都合で、持ち主の思い入れのための呼び名を、あそこまで大切にはできないよ。大事にしようとは思えないよ。僕の寄す処は別にあるから、尚更そう思うのかもしれないけれど」
本当に、凄いよねえ。彼も結構長い時間刀やってると思うんだけど。心から感心したように、髭切は呟いた。ここまで傷つけられて、よくもまあ、あそこまで。
「彼、本当に人が好きなんだねえ」
その言葉に、国広は何も言えなかった。
ただ、無性に彼の顔が見たかった。初陣で、国広がその想いを些事だと片付けてしまった彼の姿を。話せなくても、会いたかった。
不意に、カンカンと何かを打つ音がした。国広はきょろと首を振る。しかし周囲にはどこにも音の源と思しきものは見当たらなかった。首を傾げ、再び前を向く。源氏のそっくりな重宝たちは、既に第二局を始めていた。
今日も山姥切は帰らなかった。兄弟もだ。どんな秘境に探しに行ったんだろうか。
幕間 二
ううん、なかなか見つからないね。そう簡単にいくとは思ってなかったけれど、こうも成果が出ないと些か面白くないね。まあ、逃すつもりはないけどさ。
それにしても、偽物くんは暇つぶしの方法が少し武骨すぎないかな。丸一日素振りと手合せってどうなんだ。君たちも止めてくれないかな。まあ、確かに頑なに断る方が不自然ではあるけどね、君たちの場合は。
あと君たちはなんで微妙ににこにこしてるんだ。俺が居ない間に偽物くんに何か妙なことでも吹き込んだりしてないだろうな。……はあ、うん、いいよ。膝丸が居たならそこまで変なことにはなってないだろうし。……ないよな?
さて、山籠もりは終わってしまったことだし、この手はずで頼むよ。……いいんだよ、下手に誤魔化すより事実を言った方がいい。え?事実だろ?これ。
じゃあ、また行くね。
肆
「兄弟、山姥切は一緒じゃないのか?」
「はて、山姥切殿は確かに昨日の夜更けに拙僧と共に帰ってきたぞ?」
「しかし、朝食にも来なかったし部屋にも居ないんだが……」
「ふ~む。もしや拙僧の山籠もりでは物足りずにまた山に向かったのでは!?こうしてはおれん、拙僧も再び山籠もりを……!!」
「兄弟。多分それは絶対ないと思うから落ち着いてくれ兄弟」
「ううむ、駄目か?……しかし兄弟、何やら顔色が悪くないか?」
「……そうか?」
廊下でばったりと山伏と鉢合わせた国広は首を傾げる。今朝も顔を洗う時に鏡は見たが、常時白黒映画の中に居るようなこの視界では、顔色が悪いか否かの判断を下すのは非常に困難である。そもそも国広には鏡をまじまじと見る習慣がない。むしろ嫌いだったくらいだ。今は、そこまでではないけれど。
「でも確かに体の調子は少し悪いかもな。なんだろう、妙に疲れが残っているというか、節々が痛いというか……」
「むうん…。拙僧らの体は手入れをすれば疲労は消えるし、ましてや筋肉痛や関節痛などとは無縁の筈なのだがな……」
「ハッ!まさか、成長痛……!?!?」
「カッカッカ!!そうならば拙僧も胸が躍るが、可能性としてはもっと低いな!!」
とりあえずそれも不具合かもしれぬから主に報告した方がよいぞ?と提案され国広は素直に主の執務室に向かった。結局伝説の梅の木の存在は確認できたのかどうなのか聞くのを忘れたことに国広が気付いたのは、執務室の障子の外から主に声をかけて返事が返ってきた時だった。
「ふむ、ふむふむなるほど、体調不良ですか……」
「不調というほどではないし、普段ならこのくらい気にしないんだがな。一応報告した方がいいと兄弟が」
「はい!知らせてくれてありがとうございます!政府にそれも追加で報告して、何かしら分かればいいんですが……あ、そうだ、」
審神者は、部屋の隅の戸棚から白くて小さくて丸い物体を取り出した。物凄く甘くて疲れが一瞬でぶっ飛ぶ便利で危ないお団子である。
「とりあえず、これ食べれば疲労は回復すると思います!対症療法でしかないですが」
「いいのか?今は万屋で買うしか入手経路が無いはずだが」
「構いませんよ!有事にお団子買い占めるくらいの甲斐性も給金もあるんです!」
「買い占められたら他の審神者のご迷惑になりますし、そもそも食べきれませんよ、主」
審神者の文机の右隣の壁に据えられた机で書類を捌いていた長谷部が、苦笑しながら振り向く。国広もそれに同意して団子を受け取ったが、差し出してくる審神者の目の下に些か隈ができてるように見えて、国広は僅かに眉をひそめた。
「主、これは主が食べた方がいいんじゃないか?」
「え、何故です急に!?」
「隈ができてる。昨日遅くまで起きてたのか?夜更かしは良くないぞ」
「あ~、あはは……」
「これは主のせいではない。急な仕事が入ったのだ」
長谷部が主を擁護するように言った。
「仕事?」
「ああ。全くこれまで任されたことのない類の業務でな。暗中模索な状態だ。いくらやっても終わらんし目途すら立たん」
「……俺も手伝おうか?」
「お前は体調を直すことに集中しろ。それが仕事だ。主ももう少ししたら仮眠を取られるから、心配も無用だ」
ばっさり切って、長谷部は書き上げた書類をパサリと隣に置いた。長谷部の隣にはもうひとつ真新しい文机があるのだが、その持ち主が数日前から不在なためにただの処理済み書類の置き場所と化していた。
「…あんたらふたりだけだと、少し寂しいな」
「そうですねえ。切長さんもすっかりここに馴染んでましたから」
「やっと来たここの仕事を任せられる刀ですからね……あいつが居ないと少し堪えるな」
しみじみと言いながら肩をバキバキ鳴らす長谷部は、政府所属だったという切長を馴染みの刀剣とはまた違うベクトルで大いに歓迎した刀剣だった。予想以上に事務仕事をこなして主の期待に応えてくれた彼に、嫉妬どころか諸手を上げて是非ともこれからよろしく頼むと頼んだくらいだ。彼がやってきたのはつい数か月前のことなのに、ふたりしかいない執務室に違和感を覚えてしまうくらいには、彼はこの場所に馴染んでいたらしい。
「ふふふ、そうですね。切長さんが切国さんの手紙を読んで切国さんが変な声を上げたこともありましたね」
「そしていつものように親密度を上げようとして玉砕してましたね」
「妙なことを思い出させないでくれ……」
国広は呻きながら執務室を後にしたが、その脳裏には彼らの言った光景がありありと浮かんでいた。
『おおおおお前何見てるんだ!?』
『はあ?見て分からないのかな偽物くん』
国広は執務室の障子を開けた格好のまま盛大に固まった。視線の先には大きめの上品な細工の施された桐箱とその周囲に広がる大量の白い書簡、そして奇麗に背筋をぴんと伸ばした姿勢でそのうちのひとつを広げ、盛大に顔を顰めて振り返る山姥切。
それはいい。それはいいが彼の持っているその書簡から見える文字はどう考えても見覚えがありすぎるというかよく知っているというか、うん、
『それ俺の手紙だろ!?何勝手に見てるんだ!」
『あ、僕がお願いしたんですよ~。皆さんがくれたお手紙がだんだん使ってた文箱に収まらなくなってきちゃったんで、新しく買ってきたんですよ~綺麗でしょう?」
『あ、ああ、確かに歌仙に見せても笑顔でゴーサインを出してくれそうな箱だとは思うがそうじゃなくてだな、なんで山姥切が手紙を…!!』
『何を言ってるんだお前は。手紙なんて送った時点で本丸中に広まること前提だろう。それにお前の手紙は新しい俺の決意を見てくれ!ってむしろ自分から閲覧自由にしてなかったか?』
『そうだった…!!』
『俺はただ手紙の入れ替えを頼まれただけだよ。その途中で仲間の手紙を読んでも別におかしなことではないだろう』
顔色一つ変えずに読み切ったのちにさっさと閉じて箱の中に仕舞う山姥切を、国広は意外な気持ちで目をかっ開いて凝視した。
『……だから何なのかな。視線がうるさいんだけど』
『い、いや、だって俺が書いたのは、山姥切の……』
『化け物斬りの伝説の実態だろ。別に知ってるけど』
『えっ』
ぽかんと呆けたように口を開ける国広を呆れたように彼が見上げる。
『むしろなんで知らないと思ったんだ?というか俺の前の仕事をなんだと思ってたんだ。監査官だぞ。本丸の戦力の査定だぞ』
『あっ』
『そもそもの監査対象の情報がないとそれを活かしきれているかも分からないし判定どころじゃないだろう。政府に所属してた時点で現在確認されている刀剣男士の情報と、その修行先及びそこで至った結論は能力値と共に把握済みだ。というかそうでなくても普通に全部経験してるし言われてきたし、むしろ知ってるからこんなに憤ってるんだろうが。何がお前が山姥切だから俺も山姥切にしたーだ、山姥切ったのは俺だけど!?』
山姥切が突っ伏して掌でばんばん机を叩きだしたので、置いてあった湯呑みがその弾みで天板から滑り落ちた。あわや熱い茶を撒き散らしながら床に激突するというところで、長谷部が畳の上を盛大にスライディンクしながら一滴も中身を溢すことなくキャッチして、「おいこら危ないだろう!!」と叫ぶがその口から彼の発言を諌める言葉は出なかった。自分の身に置き換えてみればいい。へし切だろうと燭台切だろうと蜻蛉切だろうと、多少逸話に思うところがあったとしても他の刀を指差して『こいつにも○○切った逸話あるしこいつが○○切なんじゃね?』なんて言われれば、数少ない例外を除いて皆等しく「○○切は俺ですけど!?」と叫ぶしかないのである。ちなみに数少ない例外が誰かは言うまでもないだろう。むしろ本刃ではなく弟が叫ぶか、もしくは無言で斬りかかる。
なので山姥切の主張は基本的に無碍にはされない。されないが迷惑をかければ普通に怒られるので「そんなことを言うものではないよ」とか「気にしちゃ駄目だよ」ではなく「こんなところで暴れるな茶が溢れれば主に火傷を負わせてたかもしれないし書類が駄目になるところだっただろうお前にもかかってはないか」と滾々とお説教が始まった。山姥切もそれもそうだと粛々とそれを受け入れていた。通常運転である。
『あ、うん、そうか……そうだな……』
『だからこの事実を知って俺がどうこうとかそんな心配は全くの見当違いだよ。ただ自分だけじゃなくてひとの逸話までケチつけてくる誰かさんの態度に少しばかり物申したいだけで』
『アッハイ、すまん』
説教が終わってまた机に向き直った山姥切に国広は奇麗に90度頭を下げた。本音を言うなら人の手紙を勝手に見ておいてキレないでくれと思わない訳でも無かったが、本刃の居ないところで相手の逸話を疑い笑い飛ばすのはやはり器物として普通にぶちギレ案件だったので、国広は沈黙を貫いた。
『そういえば切国は何の用事でここに来てたんだ』
『あ、ああ、小豆がおやつを作ったから、皆に知らせて来るようにって、それで』
『ああ、もうそんな時間か。じゃあ皆の分も持ってくるよ』
さっと立ち上がって部屋を出ようとする山姥切を、国広は慌てて『なあ、』と呼び留めた。
面倒臭そうに、彼は振り返る。
『何かな、偽物くん』
『あー、ええと、一緒に食べないか』
『何を』
『え、だから、小豆のおやつを。どのみち休憩入れるんだろう』
『なんでわざわざここを出て君と居なくちゃいけないのかな』
『……共に食べたいと、それくらい思ってはいけないか。だって、俺とあんたは、』
その瞬間、彼の目からあらゆる温度が消え去った。
氷点下どころではない。冷たさすらない無そのものである。
まるで、何も感じないし動じない人形のよう。
『今のは、聞かなかったことにしてあげる。仕事の邪魔をするなら出ていってくれ』
そのままひらりとフードを揺らして出て行ってしまった銀の頭を見送って、国広はぽつりと言った。
『……どうすればあいつと二人で菓子を食うくらいの仲になれるだろうか…』
『いや、無理だろう』
にべもなくずばんとヘし切る勢いで言い切った長谷部を恨みがまし気に見て、国広は主に目をやった。
『なあ主、何か良いアイデアはないか?あいつずっとあんな感じなんだ。俺の言葉に、全く反応すらしてくれない』
暖簾に腕押し、いや暖簾の方がまだ触ったという感触があるくらいだ。そう言っても、主は困ったように苦笑するばかりだった。この苦笑は、知っている。国広が山姥切に戦果ゼロの特攻を仕掛けて始めてから、本丸でよく見られるようになった表情だ。
ひとつ解せないのは、その苦笑が国広を避け続ける山姥切ではなく、避けられ続ける国広に対して向けられているところだ。
『よせ、主が口出しすることではない。というか、こればかりは主だけは口を挟むことはできん』
不思議なことを言う長谷部に首を傾げるが、そんな国広に長谷部もまた同じ苦笑を漏らした。とんとんと彼の机の上を勝手知ったるとばかりに整理する彼はそういえば、彼が来てからまだ間もないころの宴会で、何やら彼と楽しそうに熱心に話し込んでいたことがあった。酔いで呂律が少し怪しかったが、「よみちに」とか「ついていって」とかそんな感じの言葉が聞こえてきたので、はて夜戦の奇襲の作戦か、こんな酒の席でも熱心だなと感心したものだ。しかし、国広も混ぜて貰おうとしたのだが、その直後に日本号と南泉にそれぞれスパーンと素晴らしい音を立てて強制的に意識を飛ばされ運ばれていったので、結局実際は何の話だったのかはわからずじまいである。ちなみにその運んだ二振りもその日から奇妙な仲間意識があるらしく、たまに二振りで飲んでたり何やら頭を抱えて話してたりする。何で共感したのかまこと謎である。
そんな感じで、事務仕事仲間であり、名前に思うところのある同士だったり、なにやら謎の共通の話題もあったりして、長谷部は本丸の中でも割に、いや随分と、彼と仲が良いほうだ。距離も多分、なかなか近い。
『俺とあいつはな、多分、近いところがある。結構、気も合うし』
『ああ』
『俺は、お前の心構えに賛同するし、歓迎する』
『? ああ、』
『だから、あいつの肩を持つ』
謎かけだろうか。長谷部が何を言っているのかさっぱり分からない。さらに疑問符を飛ばし続ける国広の剥き出しになった金糸を、長谷部はポンと叩いた
『考えろ。ただそれしか言えん。俺たちが何を言うわけにもいかん。ただ、あいつの行動には全て明確な理由がある。勿論、お前への態度にも。なにせあれほどの矜持の高さだ、自らの価値を下げるような、無意味なばかりのことはしないさ。それに思い至ることができれば、あいつの思いも知ることができる。多分な』
それで何が変わるとまでは言えんがな。そう言い置いて、長谷部は国広を部屋から追いやった。そろそろ彼が帰ってくる頃合だったからだ。
「──切国くん?どうかしたのかい?」
「っ、!?」
声を掛けられて、国広は我に返った。気付けば厨に居て、小豆長光が揚げたてのドーナツを器に分けているところだった。いつの間に。どうやら、思い出しながら、ぼんやりと歩いていたらしい。厨だったのは、無意識にあの日をなぞっていたのだろうか。
「だいじょうぶかい?」
「ああ、すまない、大丈夫だ。……これは?」
「あんどーなつだよ。あんこがあげものにもあうなんて、あたらしいはっけんだったな」
おひとつどうぞ、と言われたので、串に刺さったまあるい揚げ菓子に遠慮なく齧り付く。相変わらず灰色の視界ではあるけれど、口の中はアツアツの香ばしい生地に、油の風味に、甘い餡子。思わず綻んだ顔に、小豆も目元を和らげた。
「おいしいかい?」
「ああ、とても。……あいつも残念だな。こんなにおいしいすいーつが食べられないなんて」
「? ああ、そうか。そうだね。あのこのぶんものこしておこうか。けっこうながびきそうだしな」
「小豆はあいつが何処にいるのか知ってるのか?山籠もりからは戻ってきた筈なのに、会えないんだ」
「たしか、ひったくりをつかまえにいってるんじゃなかったかな?」
「なんだそれは」
寝耳に水どころではないまさかの情報に、緩んでいた表情筋がうっかりスンッと真顔に固まる。
「あれ、ちがったかな?おいはぎ?ごうとう…?とにかく、はんにんをさがしにでずっぱりなんだ」
「一体どこでひったくりに……というかあいつ相手に強盗とか強者すぎるだろうどこの命知らずだ」
「たいせつなのに、めのまえでうばわれたから、たとえちのはてだろうとおいつづけてとりもどすいきおいだぞ」
「怖すぎないか??殺意高すぎないか???というか一体何を盗られたんだ????」
「だいじょうぶ、後藤がつきそってるから、むちゃはしないだろう」
「ああ、うん、後藤がついてるなら……」
「それでもむりはしてるから、やっぱりしんぱいなんだ。はやくみつかってくれればいいんだが」
そう言って目を伏せるこの刀は、山姥切を構い倒す長船派の中でも、一際彼を気にかけているようだった。今も、どういう状況かさっぱり分からないがひったくり犯を捕まえるべく駆けずり回っているらしい彼への心配を紛らわせるためだろう、会話の間もえげつない量の餡ドーナツを量産していた。この調子でいくと昼食がドーナツのみになるかもしれない。
「なあ、小豆」
「なんだい?」
「なんで、あいつは俺と話してくれないんだろう」
話しながらでも全く止まらずドーナツを揚げ続けていた手が、ピタリと止まった。
そのまま火を止め菜箸を置き、もう一本新しい竹串を手に取ってまた新しいドーナツに突き刺して、
「……わたしからなにかいうことはできないが、」
「モガッ!?」
突っ立っている国広の口に押し付けた。そのまま持つように促すので、国広は目を白黒させながらも串を受け取った。それを見て、満足そうに小豆は頷いた。
「それを、あのこになんでとつめよることだけは、しないでやってくれ。それじゃ、あのこが、あんまりふびんだ。きみがうまれてくるのを、そばでずっとみつづけていた、あのこには」
そう言って笑う彼の顔はぼやけていてもとても優しいと分かるのに、何故かとても寂しそうで、国広はモグモグと突っ込まれたドーナツを無言で食べることしかできなかった。
また、遠くでカンカンと音が鳴った。
彼の分のドーナツを片手に彼の帰りを待っていたけれど、山姥切は戻ってこなかった。
幕間 三
ああもう、あれは本当に逃げ足が速いな。何度探してもあと一歩のところで姿をくらましてしまう。よりにもよってこの俺の前で、よくもあんなことができたものだよ。大人しく捕まれば一瞬で楽にしてやれたのに、こうも苛立たせられると死だけじゃ生ぬるく思えてしまうよね、ふふふ。……うん、冗談だよ?ほんとほんと。邪念が入ると却って非効率だからね。ただ殺すことだけを考えなければね。…なんでそんな変な顔するのかな。ねえ長谷部。俺間違ったことは言ってないよね?ほら、長谷部もこう言ってるじゃないか。
…あ、小豆殿。……うん、いつもありがとう。こうして俺の分まで取っておいてくれて。お陰で今日も頑張れそうだ。少しズルしてる気がしないわけではないけれど、味わうのは今が初めてだし、その分働きどおしだからいいよね。
ん?何々?
…………ふーん。偽物くんが、ねえ。それを言われてどう反応すればいいのかな。喜ぶべき?嫌がるべき?いやそれよりも困惑の方が勝ってるんだけど。なんだか偽物くんの様子おかしくないかな。俺の話をしすぎじゃないか?なんでここまで俺に拘るんだ?
……これは、早く済ませてしまった方がいいな。
ありがとう、小豆殿。美味しかったよ。…明日も、楽しみにしてる。
それじゃ、行ってくるよ。
伍
視界不良も五日目ともなると、流石に慣れて来る。寝間着からジャージに着替えるのも、ぼやける鏡で身だしなみを整えるのも、緑茶と野菜ジュースの判別も、前田と平野の区別もお手の物である。初日に土下座で謝った彼らは笑って許してくれたどころか、毎日「どっちでしょう!」と挑戦状を叩きつけて来るくらい元気だ。でも平野が前田のマントを着けたり、鶯丸の膝に前田が乗ってたりするのは反則だと思う。先ほどは言い過ぎた。この二振りの判別だけはいつも冷や冷やしている。
「……前田か!?」
「残念、平野だ」
「平野でした!」
「平野だったか…!!!」
古備前の部屋で鶯丸の湯呑にお茶を注いでいる短刀は今日は普通に平野だった。ガックリと膝をつく国広に鶯丸が「細かいことは気にするな、ほらお前も茶を飲め飲め」と誘ってくれるがそこは気にしなくてはいけないところだと思う。
一期一振に呼ばれた平野が「気にしないでくださいね~」と笑ってその場を辞したと思ったら、今度は外からドスドスと重い足音が響いてきた。
「おいこら鶯丸!!お前今日は畑当番だろうが何をサボっている!!!」
「大包平の声は相変わらず大きいなあ」
「何故大きいか分かるか?怒ってるからだぞ??仕事をサボって堂々と茶をしばいてる奴にどうやって優しい声をかけろと???」
「よければ俺も手伝おうか?体を動かすのは好きだし、土いじりは嫌いじゃない」
「お前に鶯丸の仕事を押し付けるわけにはいかん。それに畑は小さな雑草がないか確認したり葉の様子を観察したり実の色を確認したり土の種類と植える野菜を合わせたりしなければならないが、今のお前にそれができるのか?」
「すまん無理かもしれない」
未だに稽古場へは立ち入り禁止、本体も審神者が定期的に手入れしてみたりまた術者を呼んで見て貰ったりしてるので駄目です、と言われて返してもらえてないので、やっぱり今日も国広は暇だった。だから時間はあるぞ、と国広が手を上げて出した提案は、豪放な見た目を裏切って地味な作業を堅実にこなしていくことに定評のある大包平の至極真っ当な指摘により却下された。国広としては、もう桑でも鋤でもいいから合法的に握って振りかぶりたかったのだが。
「それにお前は、体の方も本調子ではないと聞いたぞ。大人しく休んでいた方がいいだろう」
「別に、働けないほどじゃない。ただいつもより体が重くて、動きが鈍いだけだ」
「既にいつもとは違う状況なのだから油断は大敵だ。団子は貰ったのか?」
「ああ。今朝食べた」
とはいえ、疲労感は抜けても体そのものの不調はあまり変わらないのだが。でも怪我でもないから、手入れも無用。睡眠の質が悪いのだろうか。
「昨日はむしろいつもより早く寝たんだがな」
「なんだ、お前は常に早寝じゃないか。それより更に早く床に就いたのか」
「なんだか最近眠くなるのが早くてな。本当はもう少し起きていたかったんだが」
「むしろ寝すぎなんじゃないか?眠りすぎは却って体に悪いと薬研が言っていたぞ」
「そうなのか。じゃあ今日はいつも通りに寝る……」
と、いいながらゆらゆらと頭を揺らす国広に、大包平は「おい!!」と叫び鶯丸は「本当に眠いんだな」と笑って茶のお代わりを注いだ。
「切国。寝すぎは良くないと言ったばかりだ。茶でも飲めば眠気も醒める。ほれ」
「お前は茶を勧めれば何でも解決すると思ってないか……」
「何か口に入れておけ。ものを食べている間は寝たりしないだろう」
「こいつは小動物か何かか?」
「ほら、口をあけろ、あーん」
「こいつは二歳児か何かか??」
「モゴ、ふごふご」
「そして素直に口を開けるお前は雛鳥か何かか????」
湯呑を持たされ、口に一口大に切った羊羹を押し込まれた鶯雛鳥国広はもごもごを口を動かす。灰色に見えたそれは芋餡かと思いきやずんだ餡の水羊羹だった。誰が作ったのか一発で分かる。熱々の茶で満たされた湯呑を握らされてしまえば、迂闊にうとうともできないので自然と意識は覚醒する。この太刀、なかなかに抜け目ない。
そうして、ごくり、と呑み込んだ。呑み込んでから、そういえば、とふと思って尋ねた。
「あんたら、山姥切がどこほっつき歩いてるか知らないか。ひったくり犯を捜索していると聞いたのだが、今朝もあいつは見当たらなかった」
「鶯丸、ひったくりが捕まったという話は聞いたか」
「いや、知らないな」
芳しくない反応に、国広は少し肩を落とす。いくら避けられているとはいえ、ここまで全く姿を見ない日が続くのは初めてだった。一応、彼の部屋に置いておいたドーナツは朝見たら無くなっていたので、また夜更けに帰ってきてはいたようなのだが。
その肩を、鶯丸がぽんぽんと叩く。
「まあ、気長に待つと良い。あいつはな、土産を探してるのさ」
「土産?」
またしても予想外の言葉に、国広は首を傾げた。
ひったくりと土産。関連性が欠片も見えてこない。
「主にどうしても届けたいものでな。しかしなかなか見つからない。血眼になって探してるから、今日もあいつは居ないんだろう」
「主に?」
「ああ、主に、そして俺たちに。それから、あいつ自身にとってもな。どうしても、この本丸に持ち帰らなければならないものなんだ。帰ってこないということは、まだ見つからないということだ。見つかれば、自然と戻ってくる」
だから心配することはないさ、物吉も着いて行ってるしな、と言われても、正直気になって仕方がない。その土産というのは、そのひったくりにひったくられたものなのだろうか。その盗られたものは、彼にとってだけでなく、この本丸にとっても大切なものだったのだろうか。
血眼になって、一日中ずっと探し続けるほどのもの。
ハッと国広は顔を上げた。
「……伝説の梅の実か…!?」
三日間も山に籠ってようやく手に入れた日向正宗を迎えるための供物を、目の前で掻っ攫われてしまった山姥切。その無念さは如何ばかりか。彼の中に諦めるという文字はない。ましてや盗人に自分の持ち物を奪われるなんて絶対に許さない。何としてでも取り戻そうとするだろう。地の果てまでも追いかけるだろう。
なるほど、それなら仕方がない。頑張ってくれ山姥切。突然梅の実と呟いてすっきりとした顔で茶を啜り始めた国広に、今度は古備前の太刀二振りが首を傾げた。
「まあ、確かにあいつなら心配いらんだろう。なかなか見所があるやつだからな!」
「大包平はあいつに稽古をつけるとき生き生きとしてたな」
「ああ!あの気概と心がけは大したものだ!同じ備前物として鼻が高い!!」
そう豪快に笑う大包平と微笑む鶯丸も、彼の面倒をよく見ている。長船として主流だろうと傍流だろうと、彼らくらい遡れば、皆等しく類縁であるらしい。現在の本丸ではその末っ子になるし。彼ら三振りで茶を飲んでいる光景も、ここ最近の本丸でよく見られるようになっていた。
特に大包平は、戦好き三振りの他に彼をかなり鍛えてくれた一振りである。抱えているものとか、目的とかが少し近い彼らは、実はかなり意気投合したようだった。「よし、いいぞ!その調子だ!!この勢いで倒すべき相手をぶっ飛ばせ!!!」と激励されながら彼がメキメキと力をつけていく様は、正直結構怖かった。打倒天下五剣をスローガンとして掲げ、白昼堂々仲間ぶっ飛ばす宣言をしておきながら全く禍根を残さぬのは、竹を割ったようなどころか向きなど気にせず丸ごと粉砕するような本刃の気質によるものだろうか。
そんな調子で実に健やかに逞しく山姥切は成長した。しかしながらただでさえ正面突破だった彼の姿勢が、正面爆撃とまで言えるほどにド直球に振りきれてしまったのは果たして喜ぶべきことなのか、とても迷う。例の演練での大爆発などその最たるものだ。
山姥切の着々と進む猪化が、国広は密かに心配だった。そんな国広の本丸での異名は、猛突進する金の猪である。
「あんたらも、山姥切とは仲がいいな」
思わずぽつり、呟けば、二振りは目を瞬いて国広を見た。
「……そうだな、孫の孫の孫のようなものだし、気も合うし、それにあの姿勢はそれを抜きにしても素直に好ましい」
うむ、と頷く大包平と彼は、多分、似ているのだと国広は思う。大切にされ、愛されていたことを理解して、自覚して、それを自負と誇りにして、自らの価値を疑うことなく堂々と胸を張る姿勢は、特に。彼を知れば知るほどに、とてもよく似ていた。
まるで隔世遺伝のようだと、時々思う。数百年の隔たりが在ってなお表れる共通点と彼らの近さは、自分と彼との距離を思うと、少し泣きたくなるくらい。
「あれはなあ、大包平とは別の意味で馬鹿やってるからなあ」
「馬鹿と言う方が馬鹿なんだ!!」
穏やかな声で言った鶯丸は、カッカと怒る大包平をついと指さした。
「こいつは声はでかいし態度もでかいし矜持もでかいだろう?そして真正面から突っ込んでいくタイプだ。そして認められないと盛大に悔しがるし、こんなの間違ってる!!とぶすくれていじけるんだ。見てて飽きないな」
「おいこら聞こえてるぞ鶯丸。目の前に居るのによくそこまで言えるな」
「でもなあ、あいつはいじけることすらできん」
茶の揺れる水面に落とした視線が、髪で隠れる。国広からは見えなくなる。
「周りも、世の中も、疎むことすらできんのさ。なんでこんなことになってるんだと、こんなのはおかしい、間違ってると周りを責めれば、責められれば、きっと、随分楽だろうに。あいつにはその権利があるだろうに。なのにあいつときたら、自分が居なかったのだから仕方がないときた。馬鹿だなあ。大包平は馬鹿やってるが、あいつは馬鹿だ。何かを嫌いになるというのが、大層下手なんだろうなあ。諦めるのも、切り捨てるのも、見限るのも、恨むのも下手だ。澄ました顔で、下手なことばっかりだ。下手くそなんだよ、あれは。人の身はきっと、あれには酷だ。人と紛うほどに激しい情で身を焦がすくせに、頑丈すぎる心でゆるしすぎるあいつには、きっと、酷く苦しい」
国広も、静かに目を伏せた。知っている。知っているとも。周囲に向かない分、怒りの矛先を向ける国広にさえ、その実、お前のせいだと詰ることも、価値も切れ味も力も存在も、全く貶めることもしない彼を、国広自身がよく知っている。そんなこと考えつきもしない、嫌味なんだか無垢なんだかわからない、奇妙に澄んだ一面を知っている。誰一人恨めず、何一つ損なわせようとせず、その在り方ひとつで凛と立つ姿を知っている。
それを、きっと本丸の皆が知っている。
「だから、俺はあいつと茶を飲むんだ。あれは気を張りすぎだ。幸か不幸か、もうあいつも心と体を得たのだから、得てしまったからには、俺はそれを少しでも幸に寄せてやりたいのさ。折角会えたのに、苦しいばかりなんて寂しいし、悔しいだろう。大包平が気合を入れて、俺がほぐしてやるくらいがちょうどいいのさ」
「お前はもう少しそのゆるっゆるの気を張り詰めた方がいいがな。あいつの話で誤魔化しても内番は誤魔化せん。ほら行くぞ」
「ははは、大包平は細かいことを気にするなあ」
「細かくない!!!」
大包平はむんずと鶯丸の首根っこを掴んだと思ったら、軽々と肩に担いでそのまま畑へと行ってしまった。担がれながら、ああ茶器はそのままでいいからな~という鶯丸の声が届く。
山姥切を気に入り、気にかける彼ら。共に鍛練に励む刀に、可愛がる刀に、気が合い頼りにする刀。
顕現時に彼をもみくちゃに歓迎した刀たちを筆頭に、山姥切は色んな仲間たちと順調に交流を深め、本丸にすっかり馴染んでいた。
順調でないのは、国広との距離だけだ。
「あれ、お前飲んでんの?」
「いや、流石に酒は駄目だって言われた。これはのん歩き分というらしい」
「うーん、間違ってないけど盛大に間違ってる予感」
その晩、夕餉の流れで宴会へと雪崩れ込んだ広間の隅で、国広はぼんやりと庭を眺めていた。悪い視界では、外はもはや闇でしかない。空に浮かぶ月だけが唯一の変化だった。本当はもう眠かったが、寝すぎるのも悪いと言われたので、寝ないために居残ってるようなものだ。兄弟たちに少しひとりにしてほしいと頼んだら、酒でない酒を渡された。矛盾の塊のような存在である。文明の神秘だ。そして微妙に古傷が疼く。
柱に背を預け、ちびちびと酒()を飲んでいた国広の顔を覗き込んできた大和守の手には、形状からして、洋酒と日本酒が一瓶ずつ。
「加州と飲むのか」
「あー、やっぱり分かる?あいつ僕の飲んでるの必ずねだってくるんだよね。そうなるとさあ、買う時に自然とあいつもこれ好きだよな~って思うんだよねえ」
何か癪だけどさあ。そう苦笑する大和守と、手に持った酒瓶を、国広はじっと見る。
「? 何?」
「……いや。俺もあいつと、そんな風に酒を酌み交わせたらな、と」
「できるわけないでしょ」
何言ってんだこいつと言わんばかりの胡乱な目を向けられ、国広はごんと柱に頭を打つ。
「……言うだろ、諦めたらそこで試合終了だって」
「もう終了してるんだよなあ」
「なんたる無慈悲な……!!」
こいつ実は酔ってるんじゃないか?そんなことを言いたげな目で見られてるような気がするが、もはや取り繕う力もなかった。精神的にも、体調的にも。ぐぬぬぬと唸る国広に、大和守はひとつ、ため息を吐く。
「とにかく、無理なものは無理だよ。そんな日は来ない。……来ちゃ、いけないじゃないか」
最後の囁きは小さすぎて、国広の耳には届かなかったけれど、それを聞き返す前に大和守は「あまり夜更かしするなよ~」と言い置いて新選組刀の集まる場所へと戻って行った。それを目だけで見送って、国広もゆっくりと立ち上がる。空になった缶を指に引っ掛けるようにして持ち上げ、傍にあった塵袋に放り投げた。そのまま自室へと廊下を歩く。いつもより少し、のろのろと。
ガヤガヤと響く酒の喧騒。笑い声。大和守に言われるまでもなく、既に何度も断られていた。ざわめきに重なるようにして、またカンカンと何かを叩く音がした。頭の中で反響するような、遠くまで響き渡るような、そんな音。
『……なあ、うまい酒があるんだ。一緒に飲まないか』
ああ、これはいつのことだっただろう。多分、彼が来てから一月ほど経っていたように思う。今日こそはという期待と不安が、これがもう何度目かになる誘いだと伝えて来る。
『……君は、新刃とサシで飲む習慣でもあるのかな?』
彼の顰められた眉と皮肉気に僅かに吊り上がった唇に、国広はかぶりを振って言った。
『違う、お前だからだ。俺はお前と一緒に飲みたいんだ』
(……ああ、まただ)
目の前で光の消えていく彼の瞳を、国広はぼんやりと見つめる。
国広が本丸の仲間という枠組みを超えて彼と個刃的に交流を持とうとした瞬間、彼の眼からは、何も見えなくなる。見せなくなる。
『──飲まないよ、偽物くん』
何もない、何も。冷たさも、翳りも、哀しみさえも、読み取れない。全てが抜け落ちた虚ろな目。そう、虚ろだ。『嫌だ』、という拒絶の色さえ見つからない。なんにもない。そんな眼が現れる度に、国広の肺はひしゃげたように動きを止めて、そんな眼を向けられる毎に、国広の心臓は潰れるように痛みを訴えた。いや、向けてすらいないかもしれない。ただ在るだけ。そこに在るだけ。その、在ることすら、疑いたくなるほどに、何も見えない眸。影そのもののような眼。
なんの温度も、色も、感情もない。
それは、まるで器物のようだった。
そう、思った自分に苦笑した。
(……いつから、俺はもので無くなったのだろう)
理由は分からない。
何故かは分からない。
ただ、そんな眼をさせているのは己なのだと、それだけが理解できていた。
「──兄弟?」
「…、え、」
「兄弟、大丈夫?そんなところで立ち止まって、どうしたの?」
ふと我に帰れば、自室に酒器を取りに行っていたらしい堀川が、心配そうに国広の顔を覗き込んでいた。
「……だ、いじょうぶだ。少し、ぼうっとしていた」
「そう?酔ってる…わけじゃないんだよね?部屋まで送ろうか?」
「いや、大丈夫だ」
なんだか、妙に重い脚を動かして、部屋へと戻った。
布団を敷いて横になる前に、目にかかる前髪を払う。
その月明かりに照らされた白く光る前髪が一瞬、まるであいつのような銀髪に見えて、少し笑った。
今日も山姥切には会えなかった。
幕間 四
……ふむ。なるほどね。廊下の真ん中で意識を飛ばしていたと。やっぱりね。変だとは思ってたんだ。
本来ならありえない状況だからね。その影響だろう。やたら俺について聞いてくるのも恐らくそれだ。やはり不安定になってるんだろう。……何妙な顔してるんだ。
眠気が酷くなってるのもそのせいだろう。体の負荷も日に日に大きくなっている。早急に方を付ける必要があるな。
……ところで、そこふたりはどうして少し誇らし気にしてるのかな。なんでちょっと達成感のある顔してるのかな。やっぱり俺が居ない間にあること無いこと吹き込んでないか?…まあ、ふたりとも悪意のあることはしないだろうけど。
……うん。そうだね。これが終わったら、また稽古とお茶をお願いするよ。
そろそろ、けりを付けなければね。
陸
何故だろう。今日も、体が重い。日に日に、少しずつ重量が増しているように。寝る度に、回復するどころか、逆に疲労が溜まっていくように。手を動かして、足を動かして、首を動かすのが、なんだか妙に億劫だった。
今日も主に報告して、団子を貰った。そのとき、今朝も姿の見えない彼のことを聞いてみた。そうしたら、強盗の居場所は大方分かったものの、未だ捕まえることができないそうだ。相当難航しているらしい。夜更けに帰り、また出ていくの繰り返しだ。鯰尾と南泉も付き添って、今日も捜索を続けている。諦めて帰ってくればいいのに。そう零せば、そういうわけにもいきませんから、と主は言った。
主の隈は更に濃くなっているように見えた。こちらの仕事も、だいぶ立て込んでいるらしい。ダメ元でもう一度何か手伝えることはないかと尋ねたが、やはり、やんわりと断られた。不甲斐ない気持ちになりながら部屋を出る。閉めた障子の向こうから、仮眠のためだろう、布団を敷く音が聞こえた。夜に起きて日中に寝てしまうようでは、体に悪いし効率も下がるだろうに、それを長谷部が忠言しないのが少し意外だった。
歩きながら団子を齧り、けれど一向に改善しない疲労感に、国広は困惑する。歯がゆさもだが、戸惑いが勝った。気のせいやただの不調で片付けるには、些か度を超えている。どうしたのだろう。俺の体は、どうしたのだろう。
手の平を空にかざす。灰色の視界。曖昧な輪郭。不自然な、体。不意に、ぞろりと妙な悪寒が擡げてきた。慌てて、手を引っ込めて、胸の前で拳を握って、深呼吸する。は、はあ、すー、はー。奇妙に騒ぐ鼓動を、抑え込むように。
「……どうかしましたか?」
廊下の真ん中でうずくまっていたら、頭上から湖面のように静かな、涼やかな声が降ってきた。答えられないでいると、隣にその誰かが膝をついた気配がした。そのまま背中を擦られる。ゆっくり、ゆっくりと。時々とんとんと、あやすように叩かれて、少しずつ、嫌なざわめきが遠のいていく。氷のように冷たくなった指先に、僅かに熱が戻っていくのを感じた。
「……ありがとう、江雪」
「…もう、大丈夫なのですか?」
「ああ、だいぶ落ち着いた」
もう一度、深呼吸する。荒々しく暴れていた心臓も、ほとんど常と変わらぬ速さに戻っていた。だから落ち着いたのは本音だったのに、江雪はひとつ息を吐いたあと、徐に国広の腕を引き、自分に体を預けさせて、抱え込んだ。そのまま立ち上がって少し歩き、日当たりのいい縁側に連れてきて、そこの壁に背を凭せ掛ける。
「……なんだ、これ」
「ここなら、温かいです。庭も空もよく見えます」
「……?」
「それに、人がよく通ります。なので、誰かが通るたびに貴方に気付いて、声を掛けます。また先ほどのようになっても、誰かが必ず気づきます」
「……そうか」
ありがとう、と呟いて、ふう、とまた息を吐く。額に、ひんやりとした手の平が触れた。それが気持ちよくて、自然と眉間に寄っていたらしい皺も消える。そのままゆっくりと撫ぜられて、国広はほうと目を閉じた。この刀は、時々、ほんのたまに、こうして国広を幼子のように扱う。思い出したように与えられるそれがむずがゆくも、恥ずかしくも思ったことがあったけれど、今は酷く安心した。
「……江雪」
「なんでしょう」
「なんで、あいつは居ないんだ」
「盗人を、追いかけているからです」
「こんなに長い間本丸を空けてか」
「そうですね。それくらい、大事なものですから」
「俺には、何も話してくれないのに」
「……」
「俺は、何度声をかけても、何度誘っても、何度近づいても、取り合って貰えないのに。ほんの少しも、反応もしてくれないのに」
「……切国」
「なんで。俺は相手にすらして貰えないのに、俺は駄目なのに、そんな、あいつのものを盗んだ、盗人の方が相手して貰えるなんて、こんなに、あいつの時間を費やして、力を尽くして、心を傾けてもらえるなんて、そんなの、」
ずるい、とか、ひどい、とか、いやだ、とか。色んな感情が渦巻いて、轟々と頭の中でかき混ぜられて、声に出すこともできなかった。ぐるぐるとした頭の奥で、またあの音が響く。カン、カン、とぶつかる音がする。何かがぶつかる音がする。
「……最近の貴方は、彼のことばかりですね。にっかり殿や、長谷部殿たちから聞きました」
「……わ、からないんだ。最近、頭に妙な音が鳴る。カンカンと、何か、叩く音が。あいつを考えて、それが聞こえるし、それが聞こえて、あいつを思い出す。変なんだ、最近。目だけじゃない、なんだか、変だ」
う、と頭を押さえて俯く国広に、江雪は落ち着かせるように額から頭へと手を滑らせ、一定の間隔で叩き始めた。ぽん、ぽん。とん、とん。
「……彼は、あなたとの縁を、とても大切にされていますよ」
「……」
「信じられませんか」
「わ、からない。俺を、否定しないでくれてることも、生まれたことを、肯定してくれてることも、分かってるけど」
そうでなければ、あの世界で、山姥切が、ただ一振りの山姥切として存在できる歴史の中に投げ込まれて、それでも揺るがず正史を守ろうとはしない。胸中がどうであれ、彼の行動は、国広に、生まれてきて良かったのだと雄弁に語るものだった。
ただ、そこに、もう少し。ほんの少しでいいから、柔らかさとか、近さとか、親しみのような、ものが欲しい。承認、容認、肯定。それだけじゃない、もう少しだけ、たった一匙分でいいから、彼からの何かが欲しい。只の同じ本丸に所属する仲間としてではない、他の誰でもない、彼から、国広への。自分たちだけの。
彼からの、特別が欲しい。
「我儘、か?」
「……」
江雪は答えない。ただ、国広の頭を叩き続けた。叩きながら、その唇から囁くような、呟くような声が漏れた。
「大切だから、彼は、貴方に会いません。大事だから、彼は貴方に姿を見せません」
「江雪?」
「もう、終わってしまいましたから。彼が来る前に、全て。彼にも、貴方にも、もう決して変えられません。全部、終わったことです」
そう言って、江雪は徐に作務衣の懐から何かを取り出し、国広が頭を押さえている手首に巻き付けた。
「……これは?」
「万屋で、糸を見つけました。とても、奇麗な糸を。それを使って組みました」
「江雪が、作ったのか?」
「ええ。これくらいなら、私にもできましたから」
それは、組紐だった。濃い色と薄い色が複雑に、しかし丁寧に撚り合わさっていた。国広は、手を頭から離して、それを空にかざす。日の光を浴びて、薄い色がきらりと輝いた。
「終わってしまいましたけど、もう、変えられませんけれど、それでも、彼にとっては、大事なものですから。だから、お守りです」
「お守り……」
「ええ」
江雪は、最後にとん、と国広の頭を撫でて、その手を離した。
常に憂いに沈んだ顔が、ともすれば気づけないくらい微かに、ほんの少しだけ柔らかく、微笑んでいた。
「彼は、必ず戻ってきますよ。だって、彼は、手放せませんから。大事なものを、大事に思って、ずっとずっと、呆れてしまうくらいずっと、抱え続けてしまえるひとですから」
江雪が去ったあとも、なるほど彼の言う通り、たくさんの仲間たちがその道を通った。彼らが通るたびに、どうしたんだ。おお、日向ぼっこか、気持ちよさそうだなあ。調子悪い?大丈夫?ほれ、腹は空いてないか?これをやろう。切国さん、見てください、今日はこんなに大きなお芋がとれましたよ!国広が目を瞑っていても全く構わず、むしろ叩き起こさんばかりに元気な声で。少しうるさいなあとか、静かにしてくれ、と思ったりもしたけれど、沢山の声をかけられて、言葉を貰って、心を貰って、国広の心は、少し楽になった。
「カッカッカ!兄弟は今日は休息日であるな!」
「……兄弟」
「兄弟は強くなった故、このところ、ずっと歩き通しであった。たまには立ち止まることも必要である」
「……俺は、強くなったと思うか?」
「当然である!兄弟のこれまでの道、修行で見てきた道、そうして選んだ道、それを拙僧は知っているのである」
「……」
「兄弟は、間違いなく、強くなったのである。そして、それをゆっくり見つめる時が来たのである」
「見つめる?」
「左様。拙僧たちは未だ修行中の身。強さとは、果てが無いものだ。何者にも犯されぬ、折れぬ、曲がらぬ強さを目指して、日々精進を重ね、進み続けねばならん」
「……」
「進み続けるとは、即ち選択し続けるということである。選ぶとは、それ以外を選ばなかったということであり、決めるとは、他の道を取らなかったということである。
だから、進むために、一度立ち止まるのだ。過去ではない、自らを振り返り、踏みしめるのである。己の選んだ強さとは何か。己がどこに立っているのか。何を選び、何を捨てたのか」
「……」
「兄弟」
山伏は、色を失ってもなお色褪せぬ、太陽のような笑顔をニッと浮かべて言った。
「自分を今一度見つめ直すのだ。兄弟の求める答えは、もうとっくに兄弟の中にあるのである。それをもう、兄弟は知っているはずである」
ワシワシと豪快に国広の髪を掻き乱して、カッカッカと山伏は去って行った。
その言葉を、頭の中で反芻する。自分を。俺を。俺が、選んだ強さを。──カン、と音がした。カン、カン、カン。響く、響く、反響する。耳の奥に、目の奥に、頭の奥から、胸の奥へ。体の中で、響き渡る。その金属音が、全く不快でないのが、国広は一番不思議だった。
国広は庭へと視線を移す。雪に覆われていたはずの庭に、一面の花が咲き誇っていた。最近よく、思い出す。彼のことを。それも、白昼夢のように鮮明に。まるで、意識が飛んでいるみたいだ。意識ごと記憶の中に飛ばしているみたいだ。国広は驚きもせずに、目の前に広がる過去の映像を眺めていた。
この本丸の主は、結構、自らの気分でころころと景趣を替えるタイプだ。畑や、あとから個別に作った花壇や菜園などは審神者の霊力によって成長が促されるので、実は本丸の季節とは、あまり関係がない。そうでなければ、替える度に駄目になってしまう。
例え夏でも大根は太るし、冬になってもスイカは生る。でもできる時期は自由でも食べたい時期は大方決まってるので、スイカは暑いときに食べたいから夏にしよう、そういう主だった。
だから、暦の上では数か月前、秋の中ごろにこの本丸にやって来た彼にも、目にも鮮やかな向日葵畑に囲まれる機会があった。畑当番だったらしい彼は、そのままの格好で、短刀たちと共に向日葵に埋もれていた。目に眩しい黄色の中で、なにやら話し込んでいた。
彼には月が似合うと誰かが言った。確かに、彼にあの清澄な青白い光は映える。しかし国広からすれば、目も覚めるような青空の下、照りつける陽光をきらきらと反射する銀髪も、とてもしっくりくるものだった。そこに、珍しく少しはしゃぐような、心から楽しいと感じている笑顔が咲けば、猶の事だった。
畑に使った鎌で、彼は向日葵を摘んでいく。何輪か刈り取っては、短刀たちに渡していった。最後に、自分も二、三輪、腕に抱く。彼らが庭から長屋へと戻ってくる。歌仙さーん、声がする。きっと、玄関とか、通路とか、各部屋に飾り付けるのだろう。彼も秋田に手を引かれて、彼らと共に向日葵を運んでいた。
『……山姥切』
それを、廊下でたまたま見ていた国広は、声をかけた。彼が止まる。首を傾げた秋田に、先に行っておいで、と優しく微笑んで、ではまたあとで!と駆けていく彼らを見送った。見送ったまま、横を向いたままで、彼は口を開く。
『…なんだい、偽物くん』
『その花、飾るのか』
『ああ。歌仙兼定が、どうせすぐに変えてしまうのだから、せめて花を摘んで生けようと。彼らはいい子たちだね。真っ先に手伝いを申し出た』
『楽しそうだったな』
『そうだね』
『お前がだ、山姥切。畑は嫌がるが、花は好きなのか』
『……そうだね。花は好きだよ』
黒い手袋をしたままで、彼は大輪の花に顔を寄せた。ふふ、と手袋越しに花弁を撫で、口づけるようにして香りを嗅ぐ。本当に、ご機嫌のようだった。
『なあ、』
『なにかな』
『俺も、兄弟たちに誘われて、庭の隅に花壇を作ってるんだ』
『ああ、謙信たちが教えてくれたよ。ここの本丸では、個別で花を育ててる刀も多いみたいだね。いくつか案内してくれたよ。こっそり植えてる刀も居て、全部は見れなかったけれど』
『見に来ないか』
ぴたり、花を撫でる指が止まった。国広も、少し、息を止める。
……多分。新刃にはこっそり見せてるんだと、恒例だと言ってしまえば、彼は応じるだろう。彼が応えるときと、応えないときの区別くらい、国広ももう分かっていた。
分かっていたけれど、嘘をつきたくなかった。それでは、全然、意味が無かった。
『見て、欲しい。お前に。お前に、俺の花を見てほしい。いくらか、摘んでいってもいい。ちょうどこの間咲いたんだ。きっと、向日葵にも合う……と、思う』
たどたどしくも、精一杯言葉を重ねる国広を、彼はゆっくりと振り向いた。
抜けるような真っ青な空。燦々と降り注ぐ真夏の陽。目にも鮮やかな緑の葉。燦然と光る、太陽の花々の黄。
きらきらと眩しく、鮮やかに生命に満ちる景色の中で、彼の目だけががらんどうだった。
陰さえ落ちない、からっぽだった。まるで硝子のようで、けれど硬ささえない、何も映ることすらない、全くのからっぽ。彼の居る場所だけ、ぽっかりと穴が空いたようだった。一瞬前までの喜色も笑顔も、全部全部、消えてしまった。
(……また、)
また、俺は。
彼を。
『……行かないよ。偽物くん』
唇が動くことに驚きを感じるくらい、全てが抜け落ちた表情で。彼はそう言って、国広の前を通り過ぎた。
大輪の太陽に隠れて、その横顔はもう見えなかった。
幕間 五
……うん、これはどういう状況かな。こいつはなんでこんなところで寝てるんだ。しかもまだ日も高いじゃないか。とうとうぶっ倒れたのかな。
……ふうん、なるほどね。確かに医務室や自室で寝かせるよりこれが最善だ。君が居てくれて助かったよ、江雪。
うん、そうだね。どうやらかなり状況は深刻だね。意識を保てる時間がだいぶ短くなっている。……そろそろ、本格的に時間がないな。体もかなりガタが来てるし。……ふふ、こら、そんな顔をしないでくれ。むしろ君の方が心配だよ。この状況は人の身には堪えるだろう。ひとのことよりも自分の体を心配して……うん、まあ、言い返せないかな。ふふ、じゃあ、お相子ってことで、今日も頑張ろうか。
この俺がこのままやられっぱなしで終わるわけがないからね。俺は長義の打った本歌、山姥切だよ。異形相手に後れを取ったままなんて許されない。この名に懸けて、必ず成し遂げてみせる。どうか、俺を信じてほしい。
……ところで江雪、これは一体?……そうか。気を遣わせてしまってすまない。…………ありがとう。
さあ、もういい加減飽きてきた。鬼ごっこももうすぐ終いだ。
そろそろだ。きっと、そろそろだ。
さあ、行こうか。
漆
目が覚めた時、国広は軽く混乱した。昨日縁側で座り込んで、そこから戻った記憶がない。堀川が、おはようと様子を見に部屋にやってきた。どうやら昨日、あのまま眠ってしまったらしい。ぐっすりだったよ~と笑う堀川に、国広はばつが悪くなって再び布団にボスっと頭を埋めた。
今日は体を起こすのにも難儀した。畳むのも着替えるのものろのろと時間がかかって、堀川が手伝ってくれなければもっと遅くなっていた。体のあちこちが、ぎしりと嫌な音をたてている。頭痛が鈍く断続的に襲ってくる。調子が良いとさえ思っていた体は、もはや違和感しか感じられなくなっていた。上手く動かない。思うように動かせない。噛み合わない。夕餉も食べてないはずの体はしかし、朝食を目の前にしても全く腹が空かなかった。無理矢理押し込もうとしたのが山伏にバレて、聞いた燭台切が慌ててゼリー食品を持ってきてくれた。国広の朝食は、向かいに居た同田貫と御手杵が奇麗に平らげた。
そんなこんなで、今日は流石に部屋で休もうと思う、と主に言えば、馬当番にしたので駄目です、といい笑顔で断られた。
「主、今思い切り馬当番に『した』って聞こえたんだが」
「はい!切国さんが具合が悪いとのことだったので馬当番にたった今変更しました!」
「主。俺は何かあんたを怒らせたのだろうか。それならこういう仕返しではなくてちゃんと教えてほしい。俺も反省する」
「嫌ですね、僕が切国さんを嫌うわけがないじゃないですか!元気がないからこそ動物と触れ合った方がいいですよ!アニマルセラピーってやつです!!」
「なるほど、あにまるせらぴーか。主にもきちんと考えがあったんだな。分かった」
長谷部が顔を覆っていたが、またしても忠言はしないし主が決めたことなら従うまでである。元々馬当番だった加州と大和守と、国広の補助として一緒にソハヤも投入されたが、急な変更にも拘わらず笑って引き受けてくれた彼は本当に気のいい刀である。
そうして始まった馬当番だが、色彩と正視に難のある状態で、松風も青海波も祝三号も碌に分からないままに懸命に目を凝らして世話をすることになったので、却って眼が疲れたし頭が痛くなったような気がした。それに途中五虎退と鳴狐と浦島と獅子王が馬小屋の前を通ったので、別に馬当番じゃなくても彼らのお供と戯れるほうがよほど立派なアニマルセラピーになったのではないかという残酷な事実に気付いてしまった国広は崩れ落ちそうになったが、ソハヤたちに励まされてなんとか耐えた。大丈夫、俺は強い刀。主の決定にもケチをつけたりはしない、うん。国広はもはや無になって黙々と作業に徹することにした。
「なあ、切国」
「なんだ?」
「前々から思ってたんだけどさ、お前ってなんで山姥切と話してえんだ?」
加州が厩舎で寝藁を取り換えている間、厩舎の外で馬を洗っていた国広は、同じく隣でブラシを動かしていたソハヤからの問いに、え、と固まった。
「……なんで?」
「おう。なんで?」
「ええと、なんでって、なんだ?」
「んん?つまりよ、お前があいつとそこまで仲良くしようとしてんのはなんで?って」
手に持った、ブラシが止まる。ぱちり、国広は瞬いた。「……なんで?」首を傾げて、また目を瞬く。そんな国広に、ソハヤは苦笑した。
「お前が何を思ってあいつに近づこうとしてんのか、どうにも分かんねえんだよ、俺」
「…え、おかしいか?」
「おかしい、っつーか分からん」
「分からんって……」
「お前はさ、あいつに優しくしてほしいのか?」
「……やさ、しく」
「よくやった、流石だなって褒めてほしいのか?自分を認めてほしいのか?」
「……」
「認めてほしい、ってんなら違うよな。あいつが怒ってんのは名前のことだけだし。むしろ、お前のことは無視してねえだろ。無視しねえ言い方が、あの『偽物』だろ。お前は俺じゃないって、自分と同一視しねえ呼び方だろ」
「……」
「難しいよなあ」
はあ、とソハヤは白い息を吐いて笑う。
「お前さ、なんて言われてえの。分かんねえよ。俺たちはさ、きっと、どう言われても素直に受け止めらんねえよ。『あの刀の写しだから凄い』って言われたら、俺は見てくんねえのかよって思う。だからさ、例えばあいつがお前を満面の笑顔で、『流石俺の写しだね!』とか『自分のことのように誇らしいよ!』とか『俺も鼻が高いよ!』とか言って褒めても、お前はきっと嫌がるよ。俺が強くなれたのはお前の写しだからじゃない、俺が積み上げてきたんだ、俺の力なんだ。それをまるでお前のお陰のように言うな、我が物顔をするな、俺を、お前にするなって。ふざけるなって、お前はきっと、すげえ怒る。いや、もう、怒ることすらせずに、切り捨てるかもな。お前は関係ないって」
国広は、ゆっくりと目を見開いた。はく、と唇を震わせる。白い息が口から出て、すぐに冷えた空気に溶けて消えた。
「俺も、きっとそうだ。偽物って言葉は嫌がる癖に、流石俺のって言葉も、素直に肯定できる気がしねえ。多分怒りとか、虚しさとか、悔しさとか、そんな気持ちで一杯になる。……俺たちはきっと、自分だけの自分が欲しい」
でも。
だから。
ソハヤノツルキはそう呟いて、ゆっくりと国広に向き直った。その瞳は逸らすことを許さぬように、真っ直ぐに国広を見つめていた。
「お前はさ、お前の物語を掴んだんだろ」
「……ああ」
「じゃあ、今、あいつに近づくのはなんでだ?」
「……なん、で」
「また話をしようって、一体何を思って言った?いつもお前があいつに話しかけるとき、何を考えてた?」
「なに、を」
「なあ、よく考えてくれよ。そこんとこ、もうはっきりさせようぜ。そうじゃねえと、見てらんねえよ。あいつも、お前もだ。もう一度言うぞ。山姥切国広が山姥切と話したいのはなんでだ?」
ブラシを持っていた手が、ぱたりと馬の背から滑り落ちた。わんわんと、ソハヤの言葉が木霊する。何故。どうして。何を、思って。カンカンカン、頭に響く。カンカンカンカン、反響する。体を、覆いつくさんばかりに。硬く鋭い音が鳴り響く中、国広の思考がやっと、鈍く回り出す。なんで。どうして。
髭切と膝丸の近さは、兄弟だから。
大包平と鶯丸の結びは、同じ古備前の身内だから。
加州と大和守の縁は、同じ主の元に居たから。
じゃあ。
俺たちの、俺と彼の、特別は。繋がりは。
「……本歌と、写し、だから」
その答えに、ソハヤが口を開いた時だった。
「……それ、本気で言ってるの?」
ガラン、と重い音がして、国広とソハヤは振り向いた。厨に馬の餌を貰いに行った、大和守が立ち尽くしていた。本丸の馬は霊馬であるため、基本的になんでも食べる。だから馬当番になったものは、厨にくず野菜を取りに行くのが恒例で、それを入れた金盥が、今は中身を零して地に落ちていた。
「…大和、守?」
「ねえ、切国。お前、自分で何言ってるか分かってる?」
震える声で一歩、また一歩と近づいてくる大和守に国広は困惑し、ソハヤは少し焦ったように目を見開いた。
「おい、大和守」
「お前さ、修行に行ってきたんだろ。そこで色々見てきたんだろ。長い間見つめ続けて、そして、選んだんだろ。決めたんだろ。なら、なんでそんなこと言うんだよ。なんで、」
「大和守!!」
「なんで、ねえ、なんで分からないんだよ。なんで切長がお前の声に応えないのか、なんでお前が分かってないんだよ。あいつは分かってるのに、分かってるからああしてるのに、ああするしかないのに、ああさせてるお前がなんで!」
大和守は激昂した様に国広に詰め寄った。「おい!!」と焦ったようなソハヤの声は大和守にも、そして国広にも届かない。
大和守は震える手で国広の肩を掴んだ。ぎゅうと、痛いくらいに力を込める指は血の気が引いて、紙のように白かった。ソハヤの声を聞いた加州が「どうしたの!?」と厩舎から出てきたのと、大和守の口から慟哭のような叫びが溢れたのは、同時だった。
「っ、僕は!!!あの人を忘れたよ!!大切だったから!!大好きだったから!!!抱えたままじゃ前に進めないくらい、大好きだったから!!!前を見るために、前を向くために、僕は、あの人を忘れるって決めたんだ!!!!」
血を吐くような悲痛な声に硬直する国広の眼に映る大和守の顔は、今にも泣きだしそうに歪んでいた。
「じゃあお前は!!!山姥切をどうしたよ?!?!!」
ひゅ、と息を呑んで。
その直後、何処かに引きずり込まれるような感覚と共に、国広は目の前が真っ暗になった。
山姥切は地を蹴っていた。目にも留まらぬ速さで、というのは些か誇張しすぎだが、それでももしこの場に人が居ても何が横切ったのか分からぬほどには、全く迷いなく淀みなく彼は、彼らは城内を駆け抜けた。
「流石に慣れてきたな。もう目を瞑ってても走れるぜ!」
ザシュ、と宙返りしながら脇差の首を掻っ切る後藤。
「もう何十回と回りましたからね~」
にこやかに笑って短刀の顎を斬って砕く物吉。
「五振りだと、敵から一太刀受けなきゃいけねえのが面倒だけど、にゃ!!」」
俊敏な動きで一気に間合いに入り、打刀の腹を掻っ捌く南泉。
「そこはほら、ちゃあんと跳ね返してやるよ、っと!!」
敵からの反撃を弾き飛ばし、そのまま頭蓋を貫き通す鯰尾。
「きちんと家に帰るまでが出陣だからね、仕方ないよ」
切結ぶ間もなく一瞬で敵を切って捨てた山姥切が言えば、四振りは決して脚を止めないまま、仕方がないなあ、と苦笑した。
「ま、そーだなぁ。せっかく見つけても帰れませんじゃ、目も当てられねえにゃ」
「……悪いね、君たちまで巻き込んで」
「何言ってんだよ、むしろ俺たち以外に任せられる方が心外だぜ」
「そうだそうだー!水臭いこと言わずに手伝わせろ!」
「決して迷惑だなんて思ってませんよ、僕たちは。むしろあなたからの頼みごとなんて、とても嬉しかったくらいです」
口々に言う彼らに、山姥切はほんの少し目を瞠って、それから綻ぶように笑った。
「……ありがとう」
「お前に振り回されんのなんてもう今さらにゃ。むしろしおらしくされる方が鳥肌立つぜ」
「ふふ、おかしいなあ?猫殺しくんは鳥の呪いも受けてるのかな?今からでも鳥殺しくんと呼ぼうかな?」
「勝手に呪いを付け足すな、にゃ!!つーかその語呂だとほんとにとり殺すみたいで縁起でもねえにゃ!!!」
ぎにゃー!!と叫ぶ南泉にくすくす笑う山姥切だが、南泉ははあああ、とため息を吐いて彼の腕を掴んだ。そのまま引っ張るようにして走り続ける。
「? 何かな?」
「お前もう立ってるのもやっとだろうが。さっきからふらふらふらふらうざってえんだよ。引いてやるから、お前はあれを探すのに専念しとけ、にゃ」
山姥切は薄く目を見開いて、うっすらと血の気の引いた顔で笑みを浮かべた。
分かっていた。もう自分の体が限界に近いことも、戦闘で彼らが自分を支えるように援護してくれていることも。支えられる、庇われるというのは己の力不足であり恥じるべきことなのに、彼らの場合はすんなりと受け入れられる自分が居る。それは、彼らが自分を侮ることも見下すこともなく、ただ純粋に、大切に思ってくれていると、そう信じられるから。自分が彼らを思うのと同じように。
いつもならそれでも彼に一言二言言い返すのだが、もうその力すらないくらいには、自分たちには余裕がなかった。
けれど。
「……大丈夫。今日で最後だ」
「……近えのか」
「ああ。近い。今までで一番。すぐ其処に居る」
「やっとか」
「やっとだ。……止まれ!!!」
山姥切の指示でピタリと止まる五振り。
シン、と静まり返った夜闇の中、その奥に潜む淀みと穢れの気配に、五振りの間に緊張が走る。南泉の手から腕を抜いた山姥切が、鋭くその源を睨みつける。
そして、その中に馴染みの気配を見つけた山姥切の眼が、ぎらりと光った。
「見つけた」
その言葉が合図となったように、双方臨戦態勢に入る。息も詰まるほどの穢れは先ほどまでの敵の比ではなかった。明らかに、通常のこの戦場に送り込まれる強さではない。そもそもここは敵陣が展開される場所からも僅かに外れていた。しかし、それでも負ける気など微塵もしなかった。この場には本来居るはずのないイレギュラーな敵を、山姥切はそれこそ刺し殺すほどに睨め付けた。
ああ、やっとだ。やっと。散々逃げ回ってくれたが、ようやくだ。
本当に、俺の目の前で、よくもまあ。
今にも爆発しそうな怒りを全て冷たい殺気へと変えて、静まり返った表情で山姥切は刃を向けた。
「──俺の写しを、返して貰うぞ」
なあ、一緒に万屋に行かないか。色々と買うものもあるだろう。
──行かないよ、偽物くん。
花見をしよう。特に裏の桜が見事なんだ。
──しないよ、偽物くん。
池で釣りをしてみないか。なかなか変わったものがいて面白いぞ。
──やらないよ、偽物くん。
…山姥切。
真っ暗な闇の中、国広は彼を探していた。上も下も左右も前後も分からない。ただ、たったひとりを探していた。探さなければと、それだけを考えていた。
山姥切。
不意に、目の前にぼんやりと白い影が見える。
白い肩掛け。澄んだ銀糸。何日ぶりに見たその後ろ姿に、国広は目を見開いた。唇がむずむずと緩み、口角が上がるのを抑えられなかった。
やっと、
やっと会えた。
「山姥切!」
思わず、叫んだ。自分で思うよりずっと明るく、嬉しさを隠せてない声だった。
叫んで、走って、その腕を掴んだ。もう目の前から消えないように。
「山姥切、話をしよう。沢山話したいことがあるんだ。お前の話も聞きたいんだ。話をしよう、山姥切」
早口で捲し立てる。もう、放してやるものかと思った。かれこれ一週間は会えなかったのだ。話したいことも聞きたいことも、たくさんあった。
彼は、国広に腕を掴まれても全く動かなかった。ピクリともしなかった。国広の声が止んで一拍してから、彼は静かに振り返った。
「……な、んで」
……ああ、また、またその眼だ。
底の見えない湖のような、ぞっとするほど青い瞳。
そこには何も見えない。何も浮かばない。何も滲まない。
何も映らない。何も映さない。
まるで、作り物のような、人形のような、影のような、硝子のような、器物のような、闇のような、無そのもののような、怒りも悲しみも哀しみも憎しみも恨みも嘆きも絶望も、陰すら落ちない、何の反応も示さない、何も応えない、何も響かない何も届かない、ただそこに居るだけのような、そこに居るのに、そこに居ないみたいな、そこにお前が居ないみたいな、まるで、
まるで、
「なんで、」
まるで、死んでいる、ような
──だって、
唇が動くことに違和感を覚えるほどに全てが抜け落ちた表情で、彼は言った。
──お前が、ころしたんだろう。
唐突に、彼の腕を掴んだ手から感触が消えた。
硝子のように粉々に。泥のようにドロリと崩れて。砂のようにさらさらと。霧のように跡形もなく。
彼の姿は、呆気なく消え去った。
「……山姥切?」
震える声で、国広は言った。
「山姥切?」
何も掴まない手の平を、揺れる目で見つめた。
「や、まんばぎり」
ふらり、足を踏み出して、首を動かす。
顔を、目を落ち着きなく動かして、消えてしまった姿を探す。
「山姥切」
いない。
「山姥切、山姥、切?」
どこにもいない、どこにも。
彼が、居ない。
「山姥切!!山姥切!!山姥切!!!!」
……ああ、
だって、彼は
彼は。
「──山姥切!!!!!!」
まるで迷子になった幼子のように、国広は慟哭した。
「────……!!!!!」
────本当に、しょうがないやつだなあ、お前は。
ぱちり、と国広が目を覚ますと手入れ部屋だった。辺りに満ちたこの慣れた審神者の霊力と、中戸で繋がった医務室から漂う薬品や消毒液の香り。見慣れた天井と間取り
のこの部屋は、確かに己の本丸の手入れ部屋だった。また目を瞬く。ぱち、ぱちり。
不意にからり、と障子が開いた。
「っ、切国の旦那!目ぇ覚めたのか!」
「……薬研」
「ああ。良かった。あんた二日間も目ぇ覚まさなかったんだ。……意識が戻って、本当に良かった」
菖蒲色の目元を安堵したように緩め息を吐く薬研に、国広は口を開いた。
「薬研」
「おう。なんだ?」
「山姥切と主は何処にいる」
問いの形をしていながら、それは確認だった。薬研はすっと真面目な顔になり、ふむ、と頷いた。
「隣の手入れ部屋に居る。だがちょっと待て。先に主に来てもらう。あんたの状態を見てもらわねえとな」
そう言って薬研が出て行って数泊ののちに凄まじい勢いで入室してきた主は、盛大に国広に抱き着いた。
「……ッ、………っ!!!」
「…主」
「はは、大将。気持ちは分かるが、いつまでもそうしてちゃ切国が困るだろ」
「は、はい、分かってます、分かってるんですけどお…!!」
よかった、切国さん、本当に、帰ってきてくれて、よかった。泣きじゃくる主の頭を苦笑しながら撫でて、温かい重みを感じながら、国広は己の輪郭を確認する。
眠り続けていた怠さは多少あるものの、体は動く。思うように動く。鈍さも重さも違和感もない。そして、世界は鮮やかに色づいていた。
しゃくりあげる主をなんとか落ち着かせて国広の体を見てもらい、ほっと安心した様に笑った主に、国広は言った。
「主」
「はい」
「俺を、返して貰えるか」
もう、いいか。そういえば、主は観念したように笑って、明日また政府の検査を受けなきゃですよ、と釘を刺しながらも、傍らに掛けられた国広を渡してくれた。
それを携えて、薬研に投げた問いをもう一度口にする。
「……山姥切は」
主は静かに目を伏せて、ゆっくりと立ち上がった。国広も、薬研もあとに続いた。
「……山姥切」
青白い顔で布団に横たわる、一週間ぶりに、実際には十日ほど空けて目にした彼の手首には、青と緑と銀と金を組み上げた美しい紐が巻かれていた。
おかしいと思った個所は、数えてみれば、結構あった。
視界が悪い、としか薬研に言ってなかったのに、ただ目が悪くなったわけではないと、国広自身も知らなかった視界の差異を把握していた明石。
修行を終えて間もなく、未だに力を活かしきれていないはずだったのに、妙に能力値を最大に引き出せていた体。
何故か消えた国広の戦装束。
何故か医務室ではなく人通りの多い通路に国広を運んだ江雪。
不調にもかかわらず急に馬当番を宛てがった審神者。
帰還してから一度も自分の手に戻ってこない、見ることすら叶わなかった本体。
同時期に増えた審神者の隈。
夜に起きて、日中に寝ていた状況。そうするしかない仕事。
……夜にしか、できない仕事。
日を経るごとに疲労が溜まり、どんどん調子の崩れていく体。
夜に帰ってくるという、全く姿の見えない山姥切。
決定的だったのは、
「江雪が、こいつが戻ってくるようにって、俺に組紐を巻いたんだ。うまくいくように祈るなら、無事に帰るよう願うなら、それは、こいつに渡すべきだろう。夜更けに一度帰ってきてるなら、その時に渡せばよかった筈だ」
なのに、江雪は山姥切に渡すべきお守りを国広に渡した。
そして。
いくら目を凝らしても輪郭がはっきりせず、尚且つ色のなかった視界。
……鏡を見ても、国広と山姥切の顔の区別が、付けられない視界。
「……俺は、」
国広は。
「俺は、こいつの中に居たんだな、主」
本丸に居なかったのは、国広の方だった。
あの晩、国広の体と本体だけが、本丸に戻らなかった。
突如現れた異質な敵に体を貫かれた国広は、そのまま糸が切れたように動かなくなり、敵に連れ去られてしまったらしい。
──心だけ、切り離されて。
「それにたったひとり気づいて、無理矢理体と本体から引き剥がされてすぐにでも消滅するはずだった切国さんの心を繋ぎとめたのが、切長さんだったんです」
部隊の全員が、国広を攫った敵の姿を追おうとした。その場から離れようとした。そんななか、山姥切だけが、見えていた。その場に取り残された、『国広』に気付いた。
それが今にも消えそうになっていること。消えてしまえば、例え体を取り戻しても、もう『国広』は戻ってこないこと。連れ去る体は囮であり、それこそが敵の狙いであり戦力を削るための罠なのだと、彼は一瞬で把握した。
躊躇っている暇などなかった。考えている暇などなかった。
いや、そもそも何も考えなかったのだという。
彼は、それに気付いたその瞬間に。
「切長さんは、自分の中に切国さんを保護したんです。放り出された切国さんの心を、自分の中に押し込んで、呑み込んだ」
空気に溶けかけ消えかけた国広を、山姥切は自分の体と霊力で包み込んだ。
一歩間違えれば、国広だけじゃない、受け入れた彼の体も心も衝突してズタズタになり壊れてしまうかもしれない、危険極まりない行為。
二振りの、共通点どころか名前も逸話さえも共有するような極めて異質な在り方だからこそできた賭け。その場でできる、唯一の応急処置だった。
「それでも一つの体に二つの心なんて、本来あり得ない状態です。認識は付喪神だけでなく、神だろうと妖だろうと存在の核。初めからそう生まれたわけでもないのに違う認識を持つ魂が一つの器に押し込められれば、遠からず器ごと破綻し壊れてしまうのは明らかでした」
だから、ただただ時間との勝負だった。日中は国広が目覚め、国広が眠りに就けば山姥切が表層に出て動く。故に出陣できるのは夜だけだった。国広を呑み込んだ山姥切は、その器たる国広の気配をうっすらとだが感知することができたのだという。国広が攫われたその時に絞って時間遡行を繰り返し、山姥切は毎晩、只管に江戸城へと乗り込んだ。国広を連れて帰らなければならないので、常に五振りの編成で。その部隊は夜戦に適応できるのは勿論のこと、不均衡且つ不安定な状態の彼を山姥切だと疑うことなく思える、特にその認識が強い刀である必要があり、故に付き合いの長い馴染みの刀剣男士が好ましかった。
二つの魂を抱えた体は、例え手入れを受けてもその想像を絶する負担は変わらず、徐々に疲弊し蝕まれていった。日に日に体が重く、体調が崩れていったのはそのせいだ。団子を食べても手入れを受けても回復しないのは当たり前だ。食べてる瞬間も負荷は絶えず続いていたのだから。非常に繊細で危ういバランスでなんとかふたつの存在を保っている状態だったので、主も術者も下手に力添えすることができなかったのだ。その状態で全く休むことなく24時間稼働し続ける彼の体は、日を追うごとにボロボロになっていった。
何が起こるが全く分からない、前例のない事態。自分の中に別の存在が居座る違和感、嫌悪感、恐怖。
外からではない、今度は、内側から体を食い荒らされているようなものだった。
それでも、山姥切は体がどれだけ悲鳴を上げても、そのせいで自分まで消滅の危機にさらされても、決して弱音も吐かず探し続けたのだという。国広を攫った敵を。目の前で掻っ攫われてしまった国広を。血眼になって、例え地の果てだろうと追い求めんと、鬼気迫る様子で。国広を諦めるなんて、そんな選択肢は欠片も考えつきもせず。
国広の心が消滅するのが先か、彼の心が異物に耐えられなくなるのが先か、彼の体が限界を迎えるのが先か、その前に敵の手に落ちた国広の体が壊されるか。そんな、デスマーチ兼デスレースもいいところの、ギリギリの作戦だったのだ。
「だから本丸の皆さんにも情報を共有し、協力を仰ぎました。切長さんの顔が切国さんに見えるように髪型を調整して貰ったり、切国さんが起きているときの口裏合わせを頼んだり……」
明石が国広よりも国広の視界を把握していたのは、あらかじめ審神者に知らされていたから。山姥切の体になっていることを悟らせないように、主が政府の術者と協力して国広の目に術をかけたから。
本体を断固として手元に返さず見せなかったのは、いくら視界が悪くとも、依代たる刀身を目の前にすればそれが己でないと一発でバレてしまうから。
最初に体がよく動いたのは、山姥切の体はカンストしていたから。体の持つ能力値を最大限に活かせる練度だったから。本来の自分の能力値との差に気付かなかったのは、ちょうど練度の差によって二振りの実力がほぼ拮抗していたから。けれどだんだんと負荷に耐えられなくなり、それを上回るほど違和感と心との噛み合わなさが強くなった。
戦装束が一着無くなっていたのは、体と本体と共に江戸城に置き去りになっていたから。堀川が洗ったと言っていたのは、辻褄合わせのために国広の部屋から持ち出したまだ汚れていない衣裳。普段衣装に頓着しない国広がそれに気づいたのは、誤算だったらしい。
江雪や主が国広を大人しく休ませなかったのは、
「切国さんの意識を、少しでも長続きさせるようにと、政府からも切長さんからも言われていたんです。切国さんが切国さんとして自分を認識する時間を、できるだけ確保するようにと。あまり長い間意識が無くなると、ただでさえ依代から離れて不安定な心が、そのまま存在を保てず消えてしまう危険性が高まるから、と」
何故、山姥切として日中も出陣しなかったのか。国広の意識をずっと中に沈めておかなかったのか。
わざわざ毎日国広として過ごさせていたのは、国広の存在を維持するためだった。
眠そうにしていても全く憚ることなく皆国広に声をかけていたのは、内番で無理矢理体を動かすように仕組んだのは、そういうことだったのだ。
全てが繋がった。全て。
やっと、分かった。
「……主」
「はい」
「世話をかけた。毎晩ずっと起きて出陣先を確認して、指示を出して、そのせいで酷い隈も作って」
「あはは……、バレバレでしたね」
「長谷部が注意しないのも変だったしな。あいつも大概仕事中毒だが、主が無茶しようとすれば一番に止めるだろ。そうしなかったのは、無茶するしかなかったからだ。それしか方法が無かったからだ」
「……」
「……目が悪くても気付くほどなんて、相当だ。どれだけ心労をかけたのか、測ることもできない。……ありがとう、主。俺を諦めないでくれて」
そう、深く深く頭を下げれば、主は震える声で「……いいえ、」とだけ言った。
きっと、笑うのに失敗した、くしゃくしゃになった顔で涙を浮かべているのだろうなと、容易に想像できた。
山姥切は、本来有り得べからざる状態を一週間も続けていた無茶が祟って、肉体時間的には切り離されてすぐに取り戻した体と心を再び定着させるだけだった国広に比べ(それでも十分異常事態であり心配をかけたようだったが)、快復するまでもう暫く時間が必要とのことだった。
暫くここにひとりで居ていいかと尋ねれば、こくこくと何度も頷いて、主は薬研に連れられて手入れ部屋を辞した。
「…………」
国広は、臥す彼に駆け寄ることもできないまま、ぼんやりとその場に立ち尽くした。
閉じた障子から洩れるのは暮れ日。夕焼けが通り過ぎ、宵の青さと陽の赤さの入り混じる光。薄暮の明かりに、彼のぞっとするほど白く美しい顔が仄かに浮かび上がる。
日暮れの直後。
黄昏色の部屋の中で。
国広は、部屋に入ったときから彼の枕許に座する人影に声を掛けた。
「……投げ出された俺を、お前が呑み込んだのか」
「なんだか今度は俺がお前を食ったような感じだったな。面白い体験だった」
そんな間違ってスイカの種飲み込んじゃったみたいな感じで言わないでほしい。国広はもう痛くないはずの頭を抑えた。
「なんて無茶をしたんだ」
「依代と肉体と心。本来なら三位一体の筈が、心だけが切り離されたんだ。ああするしかなかっただろう」
「なんで、教えてくれなかった」
「ひとつになるなんて、俺たちにとっては鬼門だろう。状況も何も知らぬまま、ただその事実だけを差し出されてみろ。錯乱して暴れ狂って一気に不安定になって、互いに耐え切れずに共倒れになるのが目に見えてる。現に何も言わなくても一週間で勝手にショックで意識飛ばすくらいガッタガタになってたじゃないか」
「それはそうだが!一歩間違えればお前も壊れていた!俺の失態だったのに、俺を取り込んだばかりにお前まで巻き添えになるところだった!!」
「はあ?つまりお前が俺を中から食い破るとでも??お前に掻き消されるほど俺は軟弱だと言いたいのか??お前が俺を消せるわけがないだろう馬鹿か???喧嘩なら買うぞよし表出ろ久しぶりに叩っ斬ってやる」
「な ん で そ う な る」
病的に白い顔で通常運転すぎる猪理論に国広は呻いた。ちがう、そんな話がしたかったんじゃない。
国広はすー、はーと深呼吸し、頭から手を離して、再び『彼』に向き合った。
「…お前は、山姥切か」
「そう思ったから、お前は此処に残ったんだろう」
「切り離された俺にお前が気づいたように、体から離れているお前を俺が見ているのか」
「そうだと言えるし、そうでないとも言える。『俺』はちゃんとこの体に収まってるよ。じゃなければ、主が気づかないわけがないだろう。でも、確かに、俺は山姥切の心だよ」
国広は口をへの字に曲げた。
「……なんだ、それ。じゃあ、お前は、なんだ」
「だから言っただろう。山姥切の心だと。本当は、残すつもりなんて無かったんだけど」
「……?」
「……お前が、」
一度言葉を切って、そして、『彼』は僅かに表情を緩めた。
まるで、仕方がないなあ、と苦笑するように。
「だって、お前が、あんまり情けなく叫ぶものだから。つい、残してしまったじゃないか」
心残り、っていうのかな。穏やかな、歌うような声。
「ひとかけら、『お前』の中に、残してしまったから。残ってしまったから。だから、それをお前は見てるんだろうね。お前の中のほんの一匙の残滓を、お前はその目を通してこの景色の中に見てるんだろう」
実際に座ってるわけではないけれど、幻覚でも妄想でもなく、確かに居る。見かけの場所とは違えど、其処に居る。
それが分かっただけで、十分だった。
「……山姥切」
本題に入ろうとしているのを、『彼』も分かっているようだった。
じっと、見つめる。瑠璃色の瞳が国広を射貫く。
「……答え合わせだ、偽物くん」
にっこりと笑う『彼』に、国広は、ぐっと拳を握りしめた。
全部、繋がった。
全て分かった。
国広がずっと探していた答えも、全て。
歯を、砕けんばかりに食いしばる。
喉から、ひう、と声になり損なった息が鳴る。
握った指先が、氷のように凍えていく。震えそうになるのを耐えるためにさらに強く握り込んだ。
山姥切が、国広の声に決して応えなかったのは。
相手にすら、しなかったのは。
……彼が、国広の相手に、ならなかったのは。
「俺が、望んだから」
絞り出すような、掠れた声で、国広は言った。
「俺が、お前を殺したからだ」
正解、と『彼』は笑った。
『彼』は、答え合わせが終わってなお、微笑んだままで其処に居た。それに戸惑って、たじろいで、きょろきょろと忙しなく視線を動かす国広を、彼は面白そうに見つめていた。
国広は、恐る恐る、と言っていい様子で『彼』を呼んだ。
「……山姥切」
「何かな、偽物くん」
その目は、まだ国広を映している。それに一瞬息を止めて、国広は再び挙動不審になった。うろうろ、と視線だけでなく足も動かして、布団の横を行ったり来たりしたあと、国広は意を決して『彼』に近づき、その正面に向かい合って座った。
はく、と口を動かして。目をぎゅっと瞑って、開いて。
まるで、断罪を待つような震える声で、国広は、『彼』を呼んだ。
「……本歌」
ずっと。
ずっと、気付かなくて、気付かないまま殺しておきながら、気付かないまま求めていた。けれど、きっとどこかで気付いていて、分かっていて、だから決して呼ぶことのなかった、できなかった、その呼び名に。
「……なに、偽物くん」
彼は、微笑みを浮かべたままで、苦笑したように目を細めて、国広を見ていた。
その眼からは、何も抜け落ちてはいなかった。ちゃんと光があり色があり温度があった。そこには確かな意識と情があった。
山姥切が、そこに居た。
「っ、本歌」
「なに」
「本歌、本歌。……本歌」
「もう、なんだよ。おかしな奴だなあ」
震える手で、白い手を握る。そっと肩に手を置く。掴む。それでも消えない。掻き消えない。硝子でも影でも人形でも虚ろでもない彼の眼が、確かに国広を映していた。其処に居る。此処に居る。山姥切が、国広の目の前に居た。
国広はやっと、初めて、山姥切に会うことができた。
──カン、カン、カン。
遠くで、鋼を叩く音がする。
彼に触れた指から染み込んでくる。ビリビリと広がってゆく。槌に打たれる音がする。何度も、何度も。この身を鍛える音がする。
それは、命を吹き込む音。
それは、命を形作る音。
それは、心の臓を打つ脈動。
それは、全身を脈打つ心音。
耳の奥で、頭の奥で。胸の奥から指先まで、四肢に広がる命の音。カンカンと鳴り響く、俺の生まれる、始まりの音。
それは鼓動。それは呼吸。それは胎動。
この七日間、国広はゆりかごの中に居た。
「……いい、のか」
「ん?」
「話しても、いいのか。お前を殺した俺と、話をしてくれるのか」
「……そうだね、話せないよ、俺は。例え俺が消えようと、お前が折れようと、決して会うこともできないよ」
「じゃあ、」
「でもね、これは、夢みたいなものだから」
「…夢」
「そう、夢。現とは違う、本来在る筈のない時間。現世と顕世の隙間の時間。本当なら夢でも甘えるなと言いたいところだけど、仕方がない。誰だって、夢を見るくらいは自由だ。だって、夢だもの」
くすくすと笑って、彼は国広に手を伸ばした。白い指先が、国広の金糸をくしゃりと乱す。国広は黙って受け入れた。自分が殺した白い手が好き勝手に髪を掻き回すのを、ただ静かに甘受した。
「……お前にとって、『俺の写しである』ことは、『お前』にはならなかったね」
──誰よりも強くなれば、俺は山姥切の写しとしての評価じゃなく、俺としての評価で独り立ちできる。
「それを、強さだと思えなかったんだね。誇り、胸を張り、堂々と立てる価値を、お前はそこに見つけられなかったんだね」
──写しがどうの、山姥斬りの伝説がどうので悩んでいたのが、馬鹿馬鹿しくなった。
「俺から生まれたというお前のもうひとつの根元は、お前にとって、どうでもいいことになってしまったね」
──俺は堀川国広が打った傑作で、今はあんたに見出されてここにいる。本当に大事なことなんて、それくらいなんだな。
「お前にとっての誇りは、大切なことは、『国広の傑作である』ことだけだったんだね。それだけを、お前は『お前』に選んだんだね」
何も、返せない。何も。彼の言葉に、国広は何一つ返す言葉を持たなかった。
全部全部、その通りだったからだ。
ひたすらに比較され続け傷つき続けた国広にとって、拠り所は、柱にしたのは、他の何物にも左右されない『国広の傑作』という事実で。
比べられる起因となる『山姥切の写し』という事実は、国広にとってどこまでも乗り越えるべきもので、克服すべきもので、立ち塞がる、試練のようなもので。
『写し』を誇り、自信とし、己の支柱にすることは、どうしてもできなかったのだ。最後まで。
そう、最後まで。
その結果が、今だった。
国広は、大切なものから、自分を支える寄す処から、『本歌山姥切』を追いやった。
それは俺じゃない、と言いきった。俺の価値はそこにない、と答えを出した。
大切だから忘れると決めた大和守とは、似ているようで、全くの逆。
憎くて排するより、恐くて拒絶するより、愛するが故に忘れるより、ずっとずっと、残酷に。
──黙殺。
心を動かす価値すらないものとして、問題にすらならないとして、その存在を無みしたのだ。
関係も、影響も、意義も意味すらも。
写しを作る、その根源を。
山姥切への敬意を。
山姥切への欽慕を。
山姥切への祈りを。
彼への、愛を。
国広は、『そんなの関係ない』として背を向けた。
関係ない己を、己と定めた。そうするべきだと、己を選んだ。
ないものとして、扱った。
それは、自分が彼から生まれたことさえ忘れるような、彼が居たことすら自分の中で無かったことにするような。彼の存在を、徹底的に無視することだと、知らぬまま。
……当然だった。
彼が、国広に応えなかったのは、当然だった。
だって、殺したから。
国広が殺したから。
俺にお前は要らないと、国広が言ったから。いてもいなくても同じだと、どうでもいいと切って捨てたから。
山姥切が国広を相手にしなかったんじゃない。国広が山姥切の存在の意味を殺したのだ。
(……何度も、話しかけた。殺しておきながら、殺した相手を求めてた)
自分で殺した死体に話しかけているようなものだった。
話しかける度に、一切の温度の消えていく瞳。冷たさすらも通り越して、ただただ何もかもの温度も色も生気も抜け落ちていく眼。応えようとしなかったのではない。そもそも、応えられる相手はもうどこにも居なかったのだ。
死者はなにも感じない。死者には何も届かない。
死人に、口なし。
国広は、目の前の彼を見る。彼の手を握る手に、力が籠る。
……これも、死人にすがり付いているようなものなのだろうか。
「勝手に死体にするなよ、本当に失礼なやつだな」
ぺしり、と頭を叩かれた。もう一度叩かれる。ぺしり。
「お前のなかで、俺は死んだね。居る意味すら無くなったね。でも俺は普通に居るし生きてるよ。ただ、お前の前には決して現れないし、向かい合うことは永遠にないだけで。俺が死んだのはお前の中だけだ。俺が死んでるんじゃない、お前が殺してるんだ。そこを履き違えるんじゃないよ、全く。死人扱いは流石にキレるぞ?」
「……もう、キレてるんじゃないか」
「どうだろうね。俺が来たときには、もう全部全部終わっていたから。怒る機会すら無かったよ。だって、怒る写しはもう居ないし、怒るべき本歌はお前に会えないもの」
ぺし、ぺしりと国広の頭を叩き続ける本歌に、国広は何も言わずにぐいと頭を押し付けた。彼もそのまま、全然痛くない平手を押し付ける。
何度も、何度も。
「……泣くくらいなら、殺すなよ」
本当に、どうしようもない奴だな。
微かに彼が笑う気配がしたが、残念なことにその顔は見れそうもない。正常に戻ったはずの国広の目からは視界を塗り潰さんばかりの水が滴り落ちているので、そもそも前すらまともに見えていなかった。そんな国広の頭を、彼は叩き続ける。
ぺしりぺしりと叩いてるのか、ぽんぽん、と撫でているのか。国広にも、多分彼にも分からなかった。
「……ご、めん」
ぴたり、彼の手が止まった。
「ごめん、本歌。……ごめん」
「……それは、どういう意味のごめんかな」
彼の声が、初めてひんやりと冷える。
それに、国広は未だぼろぼろと涙が零れる不具合が継続したまま言った。
「後悔、できなくてごめん」
例え、もう一度やり直せると言われても。もし、修行に行く前に、それが彼を殺すことだと知っていても。国広は何度でも今の結論を出すだろう。同じ道を選ぶだろう。
この身の誇りは国広の傑作。この身の在り方は主の刀。大切なのは、この身ひとつの切れ味と主。
それを、間違ってたとは思えなかった。そう決めたことを悔いる気持ちは持てなかった。
殺した彼を目の前にしても、欠片も、後悔の念を抱けなかった。
「……良かった」
ひんやりと凍った彼の雰囲気が、氷が融けるように和らいだ。
「殺してごめんなんて、後悔してるなんて言われたら、その瞬間にぶっ斬ってあげなくちゃいけないところだった」
「……苛烈だな」
「だって、それじゃあ何のために殺されたのかも分からないじゃないか。間違ってたなんて、口が裂けても言うんじゃないよ。少しでもそんなことを溢してみろ。俺たちに残る本丸の同志としての繋がりすら塵も残らず消え去って、二度と戻らないと思えよ」
くすくすと笑って物騒なことを言う彼に、国広も笑う。涙をぽろぽろと流しながら、下手くそな顔で笑う。いい加減泣き止めよ。そう言って目元を拭う彼の指に、胸の痛みは和らぐどころか増すばかりで、更にぽろぽろと溢れてきた。呆れたような彼の顔が、いっそこの一週間よりも酷くなった視界の向こうで、ぐんにゃりと揺れた。
…こうして、言葉を交わす間もなく殺してしまった。
話もせずに殺してしまった。
会うことすらせずに殺してしまった。
顔も、直接見ることなく。顔も合わせる前に。国広が知っているのは、彼でありながら彼では無い、自分の顔だけだったのに。
お前の顔も知らずに、殺してしまった。
何一つ始まらないまま。何もないまま、終わってしまった。もう、全て終わってしまった。
それが、悲しかった。
後悔ではなく、ただただ悲しかった。
「……本歌」
「なに」
「お前、いつから政府に居たんだ」
「さあね」
「いつから俺のことを知ってたんだ」
「いつだったかな」
「いつから俺の言葉を聞いていた。散々拒絶して卑下して俺から切り離そうとして、最終的に関心の対象からすらも追いやった」
国広の傑作は、この身を奮い立たせる誇りに。
山姥切の写しは、自らを卑下する劣等に。
その言動は、どれほど彼の心をズタズタに傷つけただろう。
どうしてと、なんでと泣きたいのは、嘆きたいのは、叫びたいのは、彼も同じだっただろう。
誇るどころか、疎んじて、遠ざけて。そしてついには気にすることすらやめた。称することすらしなくなった。そうするべきだと結論付けた。
「それを、」
それを、一体どれほどの時間眺め続けてたんだ。
どれだけ俺の言葉に傷ついてきたんだ。
俺は。
どれだけお前を傷つけた。
「……情けない顔をするなよ」
彼は苦笑して、涙腺の壊れた国広の目頭をぐりぐりと押した。
「仕方がない。お前は生まれたときのことを覚えていないのだから。まだ『お前』は産まれてなかったのだから。あのときを知らなかったのだから。だから、仕方がない。俺が山姥切と呼ばれなくなったように、お前も言われ続けたんだろう。写しを誇りとすることができないくらい、心無い言葉を受け続けたんだろう。なら、仕方ない。写しを、大切にできなくても。それ以外を自分として、そしてそれを貫き通してしまっても、仕方ない」
だって、俺たちは似てるから。その言葉に、国広は意外な気持ちで彼を見た。
「……似てる、」
「俺たちはね、我が儘なんだ。自分勝手なんだよ。頑固で強情で絶対に自分を譲らない。何よりも自分を求めてる。自分を確固たるものにしたい。揺らぐことのない己で居たい。どれだけの辛酸を嘗めようと、それは決して変わらない」
散々傷つき振り回されて、それでも折れることを良しとしない。いいや折れない。何があっても。何を言われてもどんな状況でも、「それでも俺は」を繰り返す。下は向いても膝は着かず、激昂しても撤回しない。呆れるくらいに自分本位で自分勝手で自己中心。我が儘に、己が儘に、自身の芯は決して歪めない。芯が強いどころではない、極太の鉄筋コンクリートでも刺さってるレベルの驚異の強靭さと頑強さ。
もはや意地とも信念とも取れる絶対に曲げない己の意志。誇り。在り方。例えこの身が砕けようと、貫いて貫いて貫き通す。そんなところばかりが似てしまった。その方向が真逆な癖に。どうしようもなく噛み合わないのに。だからここまで来てしまった。
「俺たちは、何処までも突き進める。自分で主張して自分で奮い立って自分で誇って、自分を曲げずに歩き続ける。ただ、見てるものが違ったんだ。目的も求めるものも同じくせに、その中身が違ったんだ。俺にとっての『自分』と、お前にとっての『自分』は違った。お前の決めた道は、お前の強さだ。そして俺は、お前と同じにはなれないし、ならない。だって、捨てられない。持たせて、与えてくれたものを、何一つ無碍にできない。全部俺だ。全て背負って俺なんだ。お前の強さと、俺の強さは違う。多分、それだけのことだよ。それだけなんだ」
それだけだよ。そう言って、彼は国広の目尻をなぞる。いつの間にか涙は止まっていた。最後の一滴を親指で拭うと、彼は満足そうに頷いた。
「俺の写し」
ぴん、と奇麗に背筋を伸ばして座す彼の青い青い瞳には、泣きすぎて目元がパンパンに腫れた国広の顔がばっちりと映っていた。彼の眼に映る最初で最後の姿があまりにも情けなくてさらに泣きそうになったが、これ以上の無様は晒すまいと国広は丹田に力を込め表情筋を引き締め目元に神経を集中して彼を見つめ返した。何睨んでるんだよとデコピンされて呻いた。本当に最後まで締まらない。
「お前、これからも、俺の写しを名乗るなよ。写しとして、俺に何かしようとするな。俺のことを、本歌と呼ぶな。俺も決して、お前を写しと呼ばない。一度決めたのなら、それを貫き通せ。自分で手を放したなら、選ばなかったものに手を伸ばすな。甘えるな。より大切でも、一番大切でもない、大切なのはそれだけだと言の葉にして誓ったなら、その盟いを違えるな。それ以外は要らないとまで思えるほどに大事なものができたのなら、この俺を殺してまで選んだのなら、最後までそれを守り通せ」
その代わりというわけではないが、と山姥切は、囁くように、ささめくように、語りかけるように、親が幼子を見つめるように、ほんの微かに微笑んだ。
「俺は、本歌だと名乗り続ける。お前がどう変わろうと、疎もうと、忘れようと。お前が手放しても、俺が持っている。覚えてる。きっと、ずっと。いつまでも。お前の大切は、俺の大切と違う。そしてお前が大切じゃないと選ばなかったものは、俺にとっては、どうしても捨てられない、大切なものだから。『俺』を遺そうとしてくれた、大切な証だから」
障子の外はすっかり暗くなっていた。陽はとっくに落ちきって、部屋はほとんど真っ暗だった。夜もなんとか戦える打刀の眼からすれば、室内の輪郭が分かる程度。此処にある人影は、自分と、目の前に横たわる刀だけだった。
国広は座ったまま虚空を見つめ続けていたが、やがてゆっくりと、すぐそばの白く目を閉じた顔を見下ろした。
(──山姥切)
……気付かなかった。
聞いていたのに、知っていたのに、気付かなかった。
最初から、彼は『本歌』だと名乗っていた。
片割れがあって初めて生まれる呼称。それは有無を言わせず自分以外の存在を浮かび上がらせ、必ずそちらにも目が向かう。比べられる。並べられる。そう呼ばれ認識される限り、ただの一振りと思われることは絶対にない。
それが苦痛で、国広は『山姥切の写し』であることを、否が応でも他を思い起こさせる肩書きを、卑屈に、恥じるように付け加えていたのに。
彼は、『山姥切国広の本歌』だと、国広との縁を、堂々と己として名乗っていた。
それも自分だと、胸を張って誇っていた。
(……お、前は、どこまで)
名や逸話や美しさや切れ味だけではなく、その傷さえも。
そのせいで、山姥切の写しから山姥切国広の本歌へと、認識の始まりが逆転しても。
逸話の境界すらも融けだしても。
どれだけ比較されても。
どれだけ苦しんでも。
どれだけ自分を傷つけるものでも。どれだけ人に傷つけられても。
彼は、人から貰った愛を手放せない。
『──彼は、あなたとの縁を、とても大切にされていますよ』
ああ。その通りだ。その通り。
よりにもよって、彼がいっとう大切にする名前より先に、その名乗りを上げるなんて。彼からの情の、何よりの表れだったじゃないか。
(──本歌、)
思う、想う、けれど言えない。はく、と音にならない息だけが漏れる。決して声に出すことはできない。許されない。
夢は終わった。
今は現世。国広の立つ世界。生きて、息をする浮き世の中。
本来あり得るはずのない、奇跡のような時間は過ぎ去った。
もう、二度と、口にすることは叶わない。その機会は永遠に失われた。それが国広の選んだ強さだった。国広の決めた道だった。
山姥切国広には、嘗てふたつの親が在った。ひとつは刀工堀川国広、ひとつは本歌山姥切。
その片親を選び、片親を殺し、そうして新たなひとつの柱を立てることで、山姥切国広は己を確立した。それを、間違ってたとは思わない。後悔しない。そんなことをすれば、殺した意味すら、無くなってしまう。それこそ、彼の存在を、彼を形作る想いの全てを、本当の意味で全部全部無意味にしてしまう。
この俺を殺したのならその分生きろと、殺された彼に言われてしまっては、もう悔いることすらできやしない。
ほとほと、彼の誇り高さには眩暈がする。
(……山姥切)
精巧に作られた美術品のような、寸分の狂いなく整えられた人形のような貌。こうして血の気の引いた真っ白な肌で、静かに目を閉じてしまっては、ますますその人の身でありながら器物じみた美貌が目を引いた。
彼もきっと、いつか答えを出すだろう。そのとき、例え『山姥切国広が居ようが居まいがどうでもいい。俺は俺だ』と彼が言っても、国広は笑ってそれを受け入れるだろう。だって、国広がしたことだから。国広も同じことをしたから。
(……でも、)
でもきっと、彼は国広を殺さないだろう。国広とは違う答えを出すだろう。彼はきっと変わらない。変わらないまま、捨てないままで、彼は彼を決めるだろう。何一つ取り零すことなく背負ったまま、彼は己を選ぶだろう。どれだけ苦しくても、国広の居る正史を当然のように選んだ彼だから。どれほど傷ついても、国広との縁を、国広が散々疎み遂に手放したものを、当たり前のようにその身に誇る彼だから。
国広の美しさも切れ味も価値も実力もそして存在も、何も何も否定しない刀。お前のせいだと罵ることも、彼との縁に背を向けた自分を、その結論を責めることすらしない刀。その手は国広を虐げたことはなく、その口は国広を貶しめたことはない。ずれた認識を共有する人間を恨むことも、世を疎むことすらせず、力を貸して、与えて、悲しみに沈むことも鬱屈に塞ぎ込むこともなく、仕方ないなと受け入れて、誰も責めず、人を怨めず写しを憎めず、世界に悪意を向けず、見切りもつけられず、敵意すら持てず、敵とすら思えずに、刃を向けることさえせずに、ただ譲れないと凛と立ち、周りに理由を求めずたったひとり叫び、吠え、吼えて、己ひとつの在り方と武勲を以て戦うことを選んだ刀。
いじらしい、かわいい、たいした気概の、愚かしいほどに甘い、馬鹿なくらい下手くそな、どこまでも強い、美しい、刀。彼。もう、山姥切か、お前か、あいつか、彼としか呼べなくなってしまった、俺の。俺の、とは、もう、言えない。
手を、伸ばす。その白い指に触れる、その寸前で手を止める。彼の手の上に手を重ねる。紙一枚を挟むような距離を空けて。決して触れることのない右手をそのままに、国広は膝を抱えて目を閉じた。彼に知られればきっと怒られる。でも、今日だけ。夢現な、今だけだから。
国広はもう、彼の写しを名乗れない。
彼を本歌と呼ぶこともできない。
彼も写しと呼びかけることはない。
ただ、彼の名乗りだけが、彼と国広を繋いでいる。
山姥切(長義)
国広の居る世界を守るし人間の付けた名前をめっちゃ大切にするしこの拗れに拗れまくった状況の原点であり国広を想起させる本歌を名前より先に名乗っちゃう系刀剣男士。第一印象とやってることの差異が凄まじすぎて全国の審神者を混乱と底なし沼へと叩き落す。山姥切国広極の居る本丸に配属されると、押されるどころかむしろなにくそ根性で脳筋化もしくは戦闘狂化あるいは猪化が進むという統計結果あり。大包平と仲良くなったらさらに一本気具合が加速する。
国広極が仲良くなろうとする度に目が死んでいたのは、国広極が話しかけるのは『自分の本歌だから』という彼が手放した筈の縁が根底にあったから。いやそれは駄目だろう無理だろう許されないだろうというけじめだった。本丸のみんなもそれを分かってたので山姥切の態度を諫めることなく、山姥切が何も言わなかったので静かに穏やかに時にハラハラしながら見守っていた。
本刃が絶対に居ないところで稀に「写し」と指すことはあれど、山姥切国広極当刃に対して「写し」と呼びかけることは今後も決してない。彼が写しと名乗ることも自分を本歌と呼ぶことも本歌として見ることも許さない。大切だから。二言なんて決して認められないくらい、生半可な覚悟で決めるなんて絶対に許せないくらい、その繋がりは、とても大切なものだから。『夢』の中でも、国広極が本歌と呼びかけることは許しても、自分が彼を写しと呼ぶことはなかった。
ただ、山姥切自身は彼が自分の写しであることも自分が彼の本歌であることも、人が己を愛した証そのものであり己を形作るものとして大切にしているので、今後も彼を写しと思い続けるし、その縁を堂々と胸を張って誇っていく(彼がその縁を大切にする経緯は[[jumpuri:前回>https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=10407693]]参照)。彼の中に恥じるべき歴史など何一つない。
(山姥切)国広極
自分のアイデンティティに国広第一の傑作であることと審神者の刀であることの二つを掲げた主のための傑作。故に山姥切の写しという事実は変わらずとも山姥切と『写しと本歌』という意味で仲良くなる日は永遠にこない。二振りとも拗らせてると見せかけて本丸一二を争う頑固もの且つ剛のものであり脳筋回路による自己認識で何が在ろうと「俺は俺だ!!!」を主張しまくるところは同じだが、その内容と考え方が見事に真逆だったために正反対の場所に帰結した。
とりあえず本丸の皆の苦笑の意味に気付いて今後一週間は布に籠ろうとしたら何やってるんだ見苦しい真似してないでとっとと出てこいと復活した山姥切に四日目ぐらいで引きずり出された。ちなみに演練には当分の間行かない(行けない)と思われる。
小田原組
国広が生まれたときとそのときの山姥切を知っているので、どっちも少しずつメンタル擦れ合ってる現状に実はかなりやきもきハラハラしていた。山姥切の写しを作ることになった経緯を知るものとしては、国広極のことは「こんなところにいてられるか!俺は俺の道を行く!!」と微妙に家出する形で逞しく独り立ちした末っ子のように思っている。
無用+青江
鍛練仲間。南北朝の実戦刀として波長が合った戦ガチ勢。あまり深く考えずに戦いたいときによく手合せを頼む。青江とは元(大)太刀且つ『女の形をしたモノ』を斬った霊刀という点でも気が合う様子。彼らと居ると刀意識が研ぎ澄まされるため、鍛練が終わったあとは長船か徳美がそれを何気なくゆるませるまでがワンセットだったりする。ちなみに本刃は気づいていない。
源氏兄弟
髭切とは名前に対するスタンスとか写しへの対応とか色々真逆だからこそ、逆に互いに「凄いなあ」と思っている。膝丸とは「名前は大事だよな!呼んでもらえないと悲しいよな!」と純粋に意気投合している。千年刀をしている身としては、山姥切の人への許容と慈愛が過ぎて「え、この子ほんとに古刀?こんなに人をゆるしすぎて大丈夫??」と可愛さ余って心配二割眩しさ一割くらいの割合の胸中でよく構っている。
長谷部
事務仕事仲間兼名前に胸中複雑仲間兼ついていく仲間。最後一つは泥酔したときのみ発動するがその度に腐れ縁二振りが回収する。そして彼らが額を抑えながら呑む。プライベートでもちょくちょく交流がある癖に本刃たちはビジネスライクだと思ってる系仲良し。
古備前
備前の(現在)末の打刀を熱量100:3くらいの比でそれぞれ構う曾曾祖父たち。大包平は備前のおじいちゃんで日本刀の最高傑作で(口にはしないが)剣の師匠みたいなもので自らの来歴への向き合い方も近くて実は山姥切はかなり懐いてる。大包平もかなり可愛がっている。山姥切の真っ向気質が大幅にグレードアップしたのは八割方彼のせい。鶯丸はそんな猪二振りを観察しながらほどよい加減で肩の力を抜いてやるのが役目だと自認している。ちなみに一緒にお茶すると毎回茶菓子を勧められるが祖や小豆のおやつもあるのでどうしよう……というのが最近の山姥切の悩みだったりする。
大和守(極)
山姥切と特別仲が良いわけでも肩入れしているわけでもなかったが、彼からすれば国広極と山姥切は自分と沖田のようなもので、修行で前に進むために『自分』から切り捨て蓋をすることを決めた存在が目の前に表れたようなものだった。だから普通に交流し話しかけようとする国広極の行動が理解できず我慢できずに爆発した。「お前自分が出した結論の意味をほんとに分かってるのか!?」 のちに二振りにそれぞれ切腹する勢いで謝りに来たが、国広極は土下座饅頭になり山姥切も随分気を揉ませてしまったと謝り返した。
ここからは後書きというかただひたすらに自己解釈と自己見解と私得でしかない考察を書き出したものになります。途中からかなり荒ぶってますしただただ脳内思考の垂れ流しです。
要らぬ!という方、読んでてあ、解釈違い…とかあ、無理だわ…となった方はすぐさまそっ閉じお願いします!!それでもいいぜ付き合ってやるな方だけお願いします!!!
前回の本丸のまんばは修行前だったので今回は極まんばとの関係性について考察しようと思ったら、それと同時に山姥切の寛容さの極致へと到達して五体投地で突っ伏す羽目になりました。うん、相変わらず自分の思考回路の方向性が謎です。
最初の予定では物理でひたすら殴りあってなんだかんだ認め合うような脳筋山姥切コンビを書く筈だったのですが、どうにもピンと来なくて途中で思考が行き詰まりました。
そもそも私の中で、極まんばと山姥切が特別に仲良くしてるイメージというのが全く湧かなかったからです。さらに言うなら極まんばの方が成長してて優勢みたいな雰囲気へも凄まじく違和感を覚えてました。
まんばの修行はそもそもの目的自体が『写しとしてではなく俺自身の価値を確立したい』というもので、つまり最初から『写し』であることを『なりたい自分』、『強い自分』に入れてないんですよね。あの手紙の内容は。
『写しとしての評価だけではなく』じゃなくて、『写しとしての評価じゃなく』ってはっきり書いてるので。俺と、写しを、切り離してしまっているので。自分の価値に、写しであることを含んでいないんです。含めなかったんです。思えなかったんです。比べられ続け傷つき続けたまんばは、それも自分だと思えなかったんです。そもそもの自らの根本であり原点であり起源だったはずのそれを、その縁を、彼は己だと思えなかった。誇れなかった。
まんばの「俺は俺だ」の『俺』に、『山姥切の写し』は入っていなかった。
そうして、最終的に彼はそれを誇るのではなく自信を持つのでもなく胸を張るようになるわけでもなく、気にしなくなりました。考える意味も、気にする意味もないものとすることで、彼は彼を確立しました。そこに写しであることをプラスに捉える意図は一切ありません。特別視する要素すら欠片もありません。否定もしません。掲げるわけでも捨てるわけでもない。其処に在っても、どうもしない。
気にする必要がない。『そんなことは関係ない』自分を、彼は彼として定めたんです。
あの手紙は最初から結論までまんばの成長の記録であり独り立ちの過程であり、
そして、本歌山姥切の明確な度外視であり訣別だったわけです。
そんな極まんばが山姥切を『本歌』と呼ぶ図も、山姥切が極まんばに『写しくん』と呼び掛ける図も全くイメージできなかったんです。写しだから、本歌だからと特別な対応をするイメージが一切湧かない。できない。違和感が凄い。モヤモヤが半端ない。むしろ少しでもそんな素振りを見せたら、山姥切の方が即座に蹴り飛ばしそうな印象があります。『山姥切に縁らない』自分を自分と決めたのなら甘えるな、縋るなって。
だって山姥切は、他の極めた刀剣男士たちのなかで唯一、今現在もそこにいる『吹っ切られた張本刃』ですからね。まんばの修行の何が特殊だったって、他の男士たちが受け入れるにしろ乗り越えるにしろ今に活かすにしろ忘れるにしろ、何かしらの帰結に辿り着くために修行先に選んで見つめた対象が須らくもう去ってしまったもう居ないもう終わった過去の存在なのに対して、まんばだけは同じ刀であり今も尚いきている存在を吹っ切ったことですよね(そしてまんばは直接山姥切を見つめたり向き合ったりはしてないですね。あくまで『山姥切』の逸話の曖昧さを実感したという意味で)。つまり山姥切は、貴方よりも大切なものができたのだと、貴方との縁とは違うものを取ったのだと、ただひとり真正面から告げられている存在なんですよね。
そんな山姥切が其処にいる限り、彼は極まんばに振り返ることを許さないでしょう。自分を特別に想うことすら許さないでしょう。むしろそんなことをすれば怒り狂うでしょう。自分で手放しておいて、何のつもりだと憤るでしょう。選んだなら最後まで貫けと、喝を入れ発破をかけるでしょう。ただ考えただけでも思わず言ったわけでもなく、修行に行ってまで見つけて決めた答えなら、それをはっきりと口にして審神者に対して誓ったのなら、それを違える失態を彼は決して認めないでしょう。
なんか、極まんばの結論を改めて考えれば考えるほど、そんな風にしか思えなかったんですね。自分の選択へのけじめです。だからきっと、同じ本丸の仲間や戦友という意味ならともかく、まんばが極になった時点で、彼らが写しだから本歌だからという意味で仲良くする道は断たれたものだと私は思っています。少なくとも、極まんばの方からのそういう意味でのアクションは決してゆるされないだろうなあと。切ないけど。だってはっきりと極まんばは『自分の価値』からも『大切なこと』からも、写しであることを選ばなかったから。重視するべきではない、気に留めるほどのことではないと定めたから。今も尚考え続けていたとしても、もうそうすることを選んだから。
そこまで極まんばにとっての『写し』を考えていると、果たして山姥切にとっての『本歌』とはなんぞや?となったんですよね。
山姥切という一振りの刀ではなく、国広ありきの『本歌』として認識されている。そういう声をよく耳にしますし、コメントも頂きましたし、実際私もそれを見てそう言われてみればそうか…!!としんどくなったりしたのですが、
ふとそういえばここ最近物凄く使うようになった『本歌』って呼び方をそもそも私はどこで最初に認識したんだっけ?と振り返り、
戦慄しました。
驚愕しました。
冗談抜きで息が止まるかと思いました。
──俺こそが長義が打った本歌、山姥切。
彼、だった。
彼自身だった。本刃だった。
刀帳は勿論、入手台詞で彼は名前より先に、『本歌』って言ってるじゃないか!!!!あの!!山姥切が!!!!名前を自分のものとして認めさせることを何よりも求めている山姥切が!!!!
人々の認識という途方もないものを相手にする彼にとって、初めて口にして第一印象として認識される口上は、とてつもなく大きな意味を持ってる筈なのに!!!!
なのに写しが在るからこその呼び名である『本歌』を、疎むことも自嘲することも忌避することもなく!!!
堂々と、誇らしげに、名乗ってるじゃないか!!!!!!!
それはまんばとは真逆で、山姥切にとって、名前や逸話に引けを取らないくらい、その肩書きに、山姥切国広の本歌であることに、誇りと価値を置いていることの何よりの証じゃないか!!!!自分として、自分という存在を形作るものとして、大切にしていることの現れじゃないか!!!!!
そこに気づいてしまったらもう駄目でした。本当にどこまで正反対なんだこの二振りは。もはや拝むしかない。二振りの間にある縁は例えどんなことがあっても切れることも変わることもないけれど、その縁への向き合いかたと扱い方が本当の意味で鏡映しだった。
どうしようもなく否応なく自分以外を想起させるその呼び名と関係に対して、
山姥切国広は自嘲し鬱屈しそれに関係ない自分を見つけ、
山姥切はそれも含めて全て自分だと堂々と誇っている。
どちらが間違ってるとか悪いとか未熟とかそんな次元じゃない。ただ違う。何もかもが真逆。どこまでも対極。
山姥切は、初期刀の一振りであり最初から登場し活躍する刀剣男士であり多くの審神者に愛されて祝われてひとつの成長の形として確立された山姥切国広という存在の原点であると同時に、山姥切国広の物語が一つの終着を見せたまさにその時に投入された究極のアンチテーゼじゃないか!!!!!
ああああもうほんと好き。もうなんなん君ら。似てないと思いきや造形が同じに見せかけて重視するところも大切なものもいっそ清々しいくらいにばっきり別れてるくせにとにかく自分本位で自分を求めて自分を確立するところに力を注いでて最終的に敵をぶった斬ることに活動意欲が全振りされてるところが全く同じで笑うしかない。世界で一番近くてでも確かに違う存在で性質は酷似してるけどそもそもの『自分』の定義からしてどこまでも正反対。トチ狂いすぎてて最高。愛してる。
それを念頭に置いて極まんばとの回想をもう一度見直してみると、初見の印象と実際やってることは実は真逆なんですよね。一見歩み寄ろうとしてるように見える写しはもう既にその縁から自分から手を放していて、一見疎んでいるように見える本歌が実ははっきりとその縁を表明して自分として大切にしてるのがほんと素晴らしい。だって愛だったから。紛れもなく愛だったから。刀として人から与えられた、これ以上ないほどの愛だったから。だからどんなに傷ついても傷つけられても、彼は写しを蔑めないし切り捨てられない。このどうやっても噛み合えない感じ最っ高。切なさが過ぎて逆に爽快なのは何故だろう。
私はあまり二振りの関係に鏡のようだというイメージは持ってなかったのですが(あまり彼らを同じとは思わなかったので)、今となってはこれ以上ないほど彼らを表す言葉だったと思いました。同じ姿に見せかけて、その実決して重ならない真逆の在り方。これからは、どちらかと言えば『対極』という意味合いで、彼らを鏡のようだと思うことにします。
そうして彼ら二振りの関係については一応の思考の終結を迎えた私ですが、それ以上に山姥切本刃の在り方に本気で爆発するかと思いました。それだけあの堂々とした本歌名乗りの破壊力がすごすぎた。
ねえ、どれだけ誇らしげに言ってるの。なんでそんなに嬉しそうなの。だってその肩書きのせいでここまで貴方は傷ついたのに。なのに貴方はその呼び名をそんなに嬉しそうに名乗るのか。どんだけだよ。ほんとなんなの。『名前奪われかけて逸話も取り込まれかけてるけど、それでも人が愛して惜しんで祈って写しを作ってくれたのが俺なんだよ!!』って開口一番全力で誇らしげに主張してくれる山姥切に審神者の心はしんどみと尊みで破壊一歩手前です。後光が見えるわ。神か。神様だった。いっそ女神かよ。物凄く人間くさいと思わせといてなに、この、信じられないくらいの情の深さ…?慈悲深さ…?いや慈愛かな?包容力…?これがバブみ……???あかん語彙力融けるわ。とにかくまさに神様の寛容さとも言うべき赦しというか寛大さというか懐の深さの極みがすぎて無理。山姥切じゃないという意味で偽物とは言うけどまんばを責めたり貶めたりは一切しないしそもそもそういう認識をしてる人間を恨んだり世を疎んだりも全然してないしむしろ与えたがりだしくそ、くそくそくそなんなんだよ人らしさと神らしさのバランス素晴らしすぎかよあんたはどこまでゆるすんだよ!!!!!!(床ダン)
もう、本歌名乗りに気づいた瞬間から、彼にとっての『持てるもの』も『自分』も『自信』も『他に臆さない』というのも、どんなに自分を傷つけるものでも人が持たせてくれたものを全て大切に受け止めて背負って誇ってそれに相応しく在ろうとする姿勢だという解釈で完全に落ち着きました。性格違うけどイメージは暁〇ヨナの白龍。だって、それはまさしく愛だろう。これほどまでに傷つきながらも人から受けた愛を胸を張って誇ってくれる彼の在り方は、愛を愛として受け取って大切にしてくれる彼の行動は、人への愛以外の何物でもないだろう。ただでさえ彼の苦しみは人間の認識のせいなのに審神者に対して全然棘が無いって意見を見ただけでしんどかったのに、もう駄目だ。完膚なきまでの駄目押しだ。あなたはどこまで人が好きなんだ。好きでいてくれるんだ。尊い。好き。大好き。愛してるって言うよりお慕い申し上げておりますって御尊顔を目に焼き付けた後に深く深く拝みたくなる感じ。本当に、本当に大好きです。
前々回の後書きで書きました、もしも彼の極が来たのなら彼は『山姥切』を大切にしてほしい。その思いがより一層募りました。これほどまでに自分を苦しめるその縁さえも嬉しそうに抱えてしまう彼だから、どこまでも人を嫌いになれない彼だから、好きでいてくれる彼だから。自分を自分にしてくれた名前と逸話は、付喪神だからということを差し引いても、いっとう大事なものの筈なんだよ。いや、大事にしてくれてるんだよ。だって、刀の、彼らの名前は、人がつけたものじゃないか。それを彼は大切なものだと言ってるんだよ。人が託したその想いを。人がくれたものを。ずっとずっと大切にしてくれてるんだよ。それはどれほどありがたく尊いものだろう。なんでそんな単純なことに今の今まで気づかなかったんだろう。彼が、名前を大切にしている。その事実が、どれほど彼が人を想ってくれてるかを意味していることに、どうして気づかなかったんだろう。それを割り切って捨てて手放してくれなんてどの口が言える。人がこんなに傷つけておきながら、それでも人を好きでいてくれる彼に、諦めてくれなんてどの面下げて言える。これ以上彼に何を。最初から求めていたものを掴み取ったまんばと、持っていた筈のものが手から零れ落ちている彼は全く違う。願いは一見同じだけど状況も環境もそもそもの『俺』の定義からして全然違う。だからまんばの答えを彼の答えにしなくていい。むしろする方が不自然だ。何も捨てなくていい。諦めなくていい。諦めてまで審神者の刀になってくれなんて絶対に言えない。言いたくない。彼は彼のままでいい。そのままでいい。これ以上溢れ落ちることなく手のひらから取り零すことなく貴方は貴方のままでどうか幸せに健やかに穏やかに居て欲しい。何一つ手放すことなく貴方は貴方の答えを見つけて欲しい。
もう、ただただ感謝の気持ちで胸がいっぱいです。彼という刀を生み出した備前長船長義に、北条氏政に、長尾顕長に、最高の写しを打った堀川国広に、彼を買い取った徳川綱誠に、彼を数百年大事に大事に受け継いだ尾張徳川の方々に、彼を今尚大切にしてくれている徳川美術館の皆様に。彼の歴史を紡いで作って今の世まで残してくれた全ての人に、感謝したい。
山姥切。うちの本丸に来てくれて、顕現してくれてありがとう。
この世に生まれてきてくれて、本当にありがとう。