第3話 義妹の秘密を聞く
常におしとやかで丁寧な初美から、かつてない敵意を向けられて篤は動揺した。
普段は冷たいだけで、敵対しているわけではない。
絹のような黒髪を揺らして初美が睨みつけている。
「いや……」
返事に困って頭をかいた。
その態度が気に入らなかったのか、初美はより肩を怒らせてふうと熱い息を漏らした。可愛らしいため息ではなく、怒りを抑えきれない吐息だ。
「なんでこんな時間に家にいるんですか? 学校はどうしたんです?」
初美が潤んだ瞳を向けてくる。
観念してリビングに入り、「その……すまん。聞いてしまった」と告白した。
「……」
初美が両手で顔を覆った。
『篤さん? 篤さんもそこにいるの?』
紗理奈の声が聞こえ、救われた気持ちで自分の身体をPCに映り込ませた。
一ヶ月ぶりに見る義母の紗理奈は艶のある黒髪をかきあげ、驚いた表情を作った。三十代後半には見えない若々しい美貌の持ち主だ。紗理奈はひたすらに困惑する篤の顔を見て納得したのかほほ笑み、初美も画面に映るように呼ぶ。
普段一メートル以内に近づかない初美が、篤の隣に来た。
義妹とは家でもほとんど交流がない。同じ学校に通っているが一緒に登校するなどもってのほかだ。学校ですれ違っても挨拶一つよこさない。むしろ遠ざかるぐらいだ。
(……それでも)
久々に間近で見る義妹はやはり美しかった。
華奢なくせに部屋着の上からでもわかる凹凸のあるスタイル。神々が織り機で編んだような艶のある黒髪。大粒の瞳は涙で赤いにもかかわらず蠱惑的だ。
初美は篤と目が合うと、露骨にそらしてPCに映る母を見つめた。いつものことなのでショックも受けず、篤もそれに倣う。
『篤さん、その、心配をかけてごめんなさいね。初美、篤さんにお話してもいいかしら?』
「お母さん?」
紗理奈の提案に初美は顔を伏せた。
初美からはありありと拒絶の意思が見える。
「紗理奈さん。初美がいやがっていますよ」
『いいんです。これは家族の問題ですから、篤さんにもお話をしておかなければなりません』
きっぱりとした物言いと、家族だからというフレーズに、篤はそれならばと心持ち腹に力を込めて聞く姿勢を作った。
「……脱毛、ですよね?」
そんな篤を見て、紗理奈はふふっと微笑んだ。
死んだ母と似た優しい笑みに篤はどきりとする。
『事の経緯からお話しいたします』
「お母さん」
初美が大きな声で制止した。
篤と紗理奈を交互に見て目をうるうるとさせている。
嫌われているとわかっているのに抗えない魅力のようなものが備わっているのか、初美の目を見て吸い込まれそうになった。
(大事な話だろ。ちゃんと聞け)
気持ちを切り替えてPCを見ると、映っている紗理奈がわずかに身じろぎをして話を中断し、大丈夫だからと初美をなだめて続きを話しはじめた。
『初美は中学に上がる頃から、体毛が濃くなり始めました。最初のうちは私と一緒で大したことはない、毎日処理すれば大丈夫だろうと思っていたんです。ですが思いのほか伸びるのが早くて、昼過ぎには至近距離まで近づくとわかるくらい伸びてしまうんです。下校時には、その……』
「いやっ! いやぁっ!」
初美は聞くに耐えないのか、両手で自分を抱いて座り込んでしまった。
それだけで合点がいった。
(そうか、だからマスクをつけて分厚いタイツを穿いて、セーターで手の甲まで隠していたのか……。初美はずっと、毎日それを悩み続けていたのか)
篤は今まで初美と生活してきて、おかしいな、と思った点が浮かんでくる。
病的なほど風呂場に近寄らせない、自室のゴミは絶対に手出しさせない、何があろうとマスクを外さない、普段着であろうが部屋着であろうが露出は一切しない。定期的にポーチを持って洗面台に行くのは、マスクで隠れていない目元の毛を処理していたからかもしれなかった。
(……初美)
今までの冷たい態度が帳消しになる思いだった。
もし、自分が女で、初美と同じ状況だったらと考えると胸が詰まる。
泣いている初美を無性に抱きしめてやりたい気分になった。だがそんなことをしたら二度と口を聞いてもらえなくなる。見守るにとどめておいた。
『どうにかしてあげたくて友人の美容外科へ相談に行ったのですが、初美は特別な体質のようで最新の脱毛機材と薬を使わないと改善は難しいというのが彼女の見解でした。それで……その費用が友人価格の原価提供で……三百万円です』
「高額ですね」
『普通に受ければ倍はかかると言っていました。信用できる友人の話なので間違いはありません』
「そうでしたか……それで、先ほど費用のことを」
うっ、ううっ、となりふり構わず泣いている初美の綺麗な黒髪を見下ろし、また紗理奈へ視線を戻す。
『幸いなことに一度施術をすれば半永久的に生えてこなくなり、若いので跡も残らず綺麗になるそうです。最近発見された医療法で実績もあるそうです。信彦さんが色々と調べてくれたので、そこも間違いありません』
「ああ、父さんがね」
顔の広い父が調べてきたなら間違いはないだろう。
ただ、タイミングが悪かった。紗理奈と父が再婚したのがちょうど二年前で、その頃、父はかなりの資金を新事業に投資していると言っていた。しばらく節約でと頭を下げられたのは記憶に新しい。
篤は食べさせてもらっている身なので、逆に頭が下がる思いだった。こうして一軒家に何不自由なく初美と住んでいられるのも父のおかげだ。
(もっと早く紗理奈さんと父さんが出逢っていたらな……。あのときの父さんなら三百万ぐらいぽんと支払っただろ)
いくら考えても過ぎたことは変えられない。
ずっと泣いている初美がいたたまれなくなってきた。
「初美、大丈夫か? 紅茶でも淹れるか?」
「……いりません」
初美は鼻声で顔を膝に埋めたまま言った。
『初美、その態度はなにかしら』
「いいんですよ。初美の気持ちは……理解したつもりです」
『篤さんは本当に信彦さんに似ていますね。あとで初美には言って聞かせますから、ご安心ください』
「家族ですから別に気にしませんよ」
『家族だからです』
紗理奈がにっこりと、しかし有無を言わせない眼力でうなずいた。
「……わかりました」
『お話しを戻しますがそういった経緯です。こちらの事業が落ち着きましたら、初美を美容外科に行かせるつもりです。篤さんにご理解いただいたことで、初美が一つ安心できる材料が増えればと思っております……篤さん、ごめんなさいね、またあなたに頼ってしまって』
紗理奈は海外に行ったことと、初美の面倒を見ること、その二つを謝っているようだった。
だが、篤はまったく別のことを考えていた。
しゃがんで泣いている初美を見ていると、ハンター妙子のことばかり浮かんでくる。
もう、彼女はいない。
アカウントも売り払った。
アプリを起動しても彼女には会えない。
初美はここにいて、悩みを抱えている。
手の届く場所にいる。
家族であり大切な義妹――
「ちょっと待ってください。すぐ戻ります」
階段を駆け上がって自室に戻り、先ほど郵便局で記帳した通帳を開いた。残高は325万円。医療代に足りる。
ハンター妙子のポスター、IDEA77のレアグッズ、タオル、フィギュア、イラスト集など百数十点、あれだけあった宝物は部屋にない。殺風景な男子高校生らしいと言えばらしい部屋を見て、篤は苦楽を共にしてきた、ハンター妙子の微笑みと、ふわふわと和服姿で浮かぶ可愛らしい姿を思い出して、ふっと笑みがこぼれた。
「ありがとな、妙子」
通帳と印鑑を握りしめて部屋を出て、リビングへ駆け下りた。
落ち着いている篤の様子を怪訝に思ったのか、初美が涙目で見上げ、PCに映る紗理奈が篤を見て首をかしげた。
「金ならあります。これで、初美を美容外科に連れて行ってもいいですか?」
篤は通帳を広げて金額を見せた。
紗理奈は言っている意味が理解できず条件反射的に画面に顔を寄せる。篤がPCのインカメラに通帳を近づけると、紗理奈が声を上げた。
『篤さん! このお金はどうしたんですか?!』
「その……俺、やっていたソシャゲ、やめたんです。グッズとか売ったらこんな金額になってて」
『やめた? あんなに好きだったゲームですよね? どうして…………あっ』
どアップで画面に映る紗理奈がお上品に両手で口を押さえて、両目を見開いた。
まさか、と震えている。
『篤さん……信彦さんから聞いたんですね?』
「え?」
『初美のこと、聞いたんですね? 金額もちょうど三百万円に足ります。でなければこんな高額な……そんな、どうしてそこまでして……』
「あの、ちょっと?」
『なんてあなたは優しい子なんですか……。家族のためだから……そうですね? そうなんですね? 信彦さんから私、お聞きしました。篤さんはお母様がお亡くなりになってから家族という言葉に敏感になったと。再婚して妹ができることを喜んでいたと。だから……あんなに好きだった………毎晩一生懸命プレイされていた…………ゲームをやめて………初美のためにお金を…………ぐすっ』
何か盛大な勘違いをされている気がしないでもない。いや、勘違いされている。
ハンカチを押し当てて泣きはじめた紗理奈さんに声をかけれない。そういやこういう性格の人だったと思い出した。
篤は頭をかくしかなかった。
いよいよ紗理奈が「ありがどう……あづじざん……ありがどう……」と本気泣きに移行しだし、あとで説明すればいいかと割り切って見守ることにした。
義母の号泣感謝に戸惑いもするが、嬉しくもあった。
横からくいっと袖を引かれた。
振り向くと、初美がマスク越しにもわかるほど顔面を蒼白にしていた。こぼれそうな瞳には驚きと困惑と様々な感情がうずまいている。
「なんで?」
初美はぽつりとつぶやいて、リビングを飛び出した。
「――おい」
危うさを感じて後を追う。
運動神経のいい初美は軽やかに階段を上り、篤の部屋のドアを躊躇なく開いた。
そして、一時停止のごとく止まった。部屋の中を見て絶句している。
「……うそ」
「うそ、ではないな」
追いつた篤が初美の後ろから声をかけた。
艶のある黒髪の向こうに、殺風景な部屋が広がっていた。
「やめたんだよ、IDEA77。さっきも言っただろ?」
「……たん……ですか?」
「ん?」
「……全部、売ったんですか? あれだけ大切にしていた物を?」
「ああ、まあな」
「私が……病院に行けるように?」
「うん、まあ結果的に」
「……アカウントも?」
「まあな」
順序はどうあれ、ソシャゲのすべてを売り払って初美の医療費を出すことに変わりはない。
篤がうなずくと、初美は口を手で押さえて後ずさりした。
「いつもやっていた……あの……なんで……」
ソシャゲのことを大して知らない初美にとっても、篤がいかにイデアにめり込んでいたかぐらいは知っている。リビングにいるときの大半はイデアに時間を使っていた。義兄が大会らしきものに出場している、と友人からも聞いたことがある。
初美の瞳から大粒の涙がこぼれた。
水滴はきっちり閉じられたマスクへと吸い込まれていく。
「……なんで……」
彼女は部屋を見たままつぶやいて、篤を押しのけて廊下に戻った。
「初美」
篤の呼び止めも聞かず、義妹は隣の自室へと消えた。
さらりとなびいて部屋に消えていった黒髪が、ある一種の幻想のように見えた。