第2話 義妹は秘密を抱えている
翌日、篤は学校を休んだ。
目覚まし時計のおかげで定刻に起きたが登校する気になれない。
ぼうっと天井を眺めながらベッドに寝転がっていた。
何も考えたくなかった。
今までの習性でついスマホを手に取り、ロックを解除してソシャゲ『IDEA77』を立ち上げる。巷ではイデアとか77などと略されて呼ばれるこのソシャゲは全世界ダウンロード数、四千万をほこる超ヒットアプリだ。
見慣れた題名をタップしてホーム画面に飛ぶと、自分のアバターが両手でハートを抱えている姿が映し出された。このハートがプレイヤーのイデアであり、特質が七十七個ある。その中から十個好きな組み合わせを作ってハンターorサバイバーとなってプレイする、という設定になっている。
ハンターはイデアを奪って過去の恨みをはらす。サバイバーは他サバイバー四人とイデアを守りながらマップ内の宝箱を見つけて解除し、出口の鍵を見つけて脱出する。大まかに言うと鬼ごっこのようなものだ。
篤はハンターもサバイバーも全世界累計ポイント一位という驚異のプレイヤーだ。
ちょっとふざけたプレイヤー名“和食カレー”の名前はIDEA77をプレイする人間であれば誰しもが知っており、プレイを参考にされたり、篤とマッチングしたプレイヤーがプレイを動画に収め、『和食カレーさん凄腕プレイ動画集(カレーを作っているわけではない)シリーズ』に提供して、無料動画に投稿することが暗黙のルールとなっているほどだ。
(……妙子)
そんなキラ星のごとく目立つトッププレイヤーは、嫁に逃げられたおっさんのように萎びていた。
(…………妙子ぉ)
端から見れば完全に嫁に夜逃げされた旦那だ。
篤は緩慢な動きでハンターの選択画面を押して、深いため息をついた。
妙子の姿はなかった。
宙に浮いて微笑を浮かべる和服の少女は、どこにもいない。
使用禁止というより登録抹消に近い。サイト内のチャットも妙子が消えていることで大炎上していた。
母親が死んだとき、父親が再婚すると言ったとき、つらいときも苦しいときも、彼女がいたからこうして今の自分があると言っても過言ではなかった。
妙子を好きになったきっかけは、サバイバーを探している最中は微笑を浮かべ、追いかけると鬼の形相になる姿が、あのとき悲しみを隠していた自分とダブって見えたからだ。もちろんキャラのフレーバーテキストにはそんな文言は書かれていない。しかし、妙子に救われた部分が大いにあった。他人に見せられない気持ちを、妙子が代わりに体現してくれているように思えた。
思い入れは人の倍どころではなく万倍にもある。
(妙子……いない……)
そこからの記憶はほとんどなかった。
篤は度々プレイに招待され、運営からグッズを多くもらっている。部屋には妙子の人形やポスター、IDEA77のレアな置物などが所狭しと飾られていた。部屋の中を義妹の初美に見られて、冷めた目で見られたこともある。
すべて売った。
怒りや悲しみ、様々な感情が篤の中にあふれ、IDEA77の外部掲示板で「オークションに出す」と呼びかけた。アカウントもセットでだ。
三年間使ってきた自身のアカウントはとんでもないポイント数とトロフィーの数になっている。
チームを組んでいる連中から、メールや電話が鳴り響いていた気もするが、何も考えられなかった。妙子を失った。それだけが篤の中の真実であってそれ以上でもそれ以下でもない。
ものの二時間ですべて売れた。
買い手は一人だったため、グッズ類をひとまとめにし、郵便局にふらふらと出向いて発送した。
アカウントも買い手に引き継いだ。
もう、篤のスマホにIDEA77のデータは存在しない。
「……」
通帳には見たことのない桁の数字が記載されていた気がする。どうでもよかった。
またしばらくベッドに寝転がってぼうっとした。
時計の針は昼の二時をさしている。
昼過ぎのゆるやかな日差しがカーテン越しに差し込んで、ぼんやりと自分のベッドと腕を照らしている。
ぐうと腹が鳴った。
ショックを受けても人間は腹が減ることを思い出した。苦笑いがこぼれる。部屋を出てリビングに向かおうと階段を下りていく。
すると、聞き慣れた声がリビングから響いた。
「まだダメなの?」
『ごめんね初美……。もう少しだけ待ってほしいの』
義妹の大きな声と、義母の申し訳なさそうな声。
どうやら、初美は学校を休んで実母の紗理奈とスカイプ通信をしているようだ。
篤の父と、初美の母は、二年前に篤たちを連れて結婚した。現在は洋服のセレクトショップを海外で立ち上げるため、日本にはいない。たまに近況報告としてスカイプ通信をするが、初美が母親である紗理奈に抗議する姿は初めて見た。
篤はリビングをのぞいた。
可憐な初美の声がしびれた脳に響く。
「今年中にはってお母さん言ってたよね? 信彦さんはなんて言ってるの……?」
切迫した様子の初美はマスクをつけた顔で、両手を胸に当てている。こんな所作も様になるから不思議だ。
『信彦さんは使っていいって言っているわ。でもね、このお金があれば有名デザイナーと追加で取引ができるの。そんな大事なお金を使うなんてできないわ』
「お母さんは私なんかどうだっていいって思ってるの?」
『初美……。そんなこと思っていないわ。大好きよ。早く会いたいわ』
「あ……お母さん。あの…………ごめんなさい……無理言ってしまって……」
『何言ってるの……謝るのはお母さんのほうよ』
「……私…………もう少しだけ、待つから…………」
『ごめんね初美……本当にダメなお母さんでごめんね……』
初美と紗理奈は泣いていた。
笑顔を絶やさない大和撫子のような義母と、気の強い義妹が泣くとは、ただならぬ事情があるようだ。この二人はちょっとやそっとで泣いたりはしない。篤は驚いた。
これでも兄として、初美にはそれとなく気をつかってやっている。
父の信彦に、家族だから大切にしてやれと言われ、了承した意地があった。
初美がどう思おうと家族はかけがえのないものだ。
初美の帰りが遅いときは迎えに行くし、料理も当番制で交代でやっている。初美が過ごしやすいよう家の掃除はするし、それとなく好きなお菓子を買ってきて補充したりもしている。見返りなど別にいらない。ただ、家族だから。理由はそれだけで十分だった。
何を言っても冷たい返答しかない初美が泣いている。
それだけで胸が締め付けられた。
なぜか、初美とハンター妙子が重なって見える。二人とも黒髪で美少女だからかもしれない。
このまま初美が妙子のように消えてしまいそうに思えた。
PCに映る義母の紗理奈が、ハンカチでおしとやかに目元を拭いて、ゆっくりと口を開いた。
『初美…………お金ができたら、必ず“脱毛”に行かせてあげるからね……』
「……うん」
(ホワッツ?)
『……あとちょっとだけ待ってね?』
「……もう、お金がないのに“脱毛”したいなんて無理言ったりしないから……心配しないで」
「は?」
脱毛。
たしかに脱毛と二人は言っている。脱ぐに毛と書いて脱毛だ。
(脱毛? 脱毛に行けなくて泣くの?)
そのとき、初美が黒髪をひるがえして振り返った。
まずいと思ったときには遅い。
リビングの入口にいる篤を見つけ、思い切り眉間に皺を寄せた。
マスクで顔の八割が隠れていても、その怒り具合がわかる。小刻みに震えて両手を握りしめ、涙目になっていた。
「今の話……聞いていたんですか?」