継体天皇は、多くの謎があるとされます。特に大王だったのかどうかとういところが大きな
問題箇所です。この継体天皇で、王朝が変わったともされます。
今回はこの継体天皇の謎を考えてみます。継体天皇の問題は凄く難問ですよね。
継体天皇で、王朝が変わったと、蘇我馬子が編纂した天皇記・国記時に改竄されたと思うの
ですが・・・?古代の歴史を変えたのは蘇我馬子と竹田皇子です。
継体天皇は、この時、古代の王家が断裂したとするための人物にほかならないと思う。
ヤマト王権内に、大王になる候補が誰もおらず、外部から王を迎えなければならない状況だ
とは考えづらく不思議な話ですよね。
では、何故継体は王に即位したとされるのでしょうか?
それは、蘇我氏と関係する欽明天皇が新たな王権のいわば始祖であるとするために、本来の
ヤマト王権外の人物を王とする必要があったからです。
そう、天皇記・国記に記述されていたのです。天皇記・国記は蘇我氏の歴史書です。
本来は、継体天皇は即位はしていないと思いますが、ここで、前の王朝を断裂させるため即
位したとしているわけです。この前の王朝とは、蘇我氏が対立していた物部系の王朝です。
継体の皇子たちとされる、安閑、宣化は、もとろん継体の王子ではないということです。
問題は欽明なのですが・・・?
継体天皇、彼は越前地方や近江地方の畿内北部の王だったかもしれませんが、本来の大和王
朝の大王ではなかったということ。古代から繋がる本来の王家、つまり、物部系の王たちを
ここでたちきっている。つまり前王家を断裂させるための人物。
それは、前王家とは物部だからです。蘇我氏の台頭により、蘇我氏に関係する欽明が、天皇
として即位し、いわば天皇家の祖となったいうこと。
そう、天皇記・国記において、蘇我馬子と聖徳太子(竹田皇子)によって、改竄されたとい
うこと。天皇記・国記というのは蘇我氏の歴史書であり、蘇我の天皇たちは古代から繋がる
正当な王だと改竄したもの。天皇とは本体は蘇我の王のこと。
継体天皇の皇子の欽明が即位したとされるのは、蘇我稲目宿の堅塩媛や小姉君を后にし、蘇
我氏と大きく関係したからです。蘇我氏の力によって、欽明を天皇に即位させたため、おと
うさんである継体も王に即位したとしているわけです。
継体天皇の皇子で王に即位したとされる人物は3名います。欽明と兄の安閑、宣化です
しかし彼らは蘇我氏とは関係しません。この欽明の兄たちとされる、安閑、宣化は、継体の
王子たちではないのかもしれないと推測できるように思います。
前述べしましたが、雄略天皇と武烈天皇は、同一人物です。つまり、この武烈天皇の後、大
王となったのは、清寧天皇なのではないでしょうか?継体天皇の位置にあるのが、清寧天皇
です。
*垂仁天皇の皇子の誉津別命は、言葉を発することがなく后がなく皇子たちもない。
*雄略天皇の皇子の清寧天皇は后がなく、従って皇子たちがない。
*武烈天皇は残忍な天皇で、子供がなく後継がいない。
本来の王家である、物部系の王たちからの後胤がけされている。
このように記紀において、不思議な話が語られて、後胤を消し去られているのが重要な人物
です。そうここが改竄箇所であるということでもあります。
雄略天皇と武烈天皇は同一人物だとすると、この武烈天皇崩御後の、王はこの清寧天皇であ
り、後胤を消し去っているのは改ざん箇所がここだということ。いつもの常套手段です。
継体は、古代の大和王朝とはなんら関係ない人物です。
つまり、欽明は、古代からの王家からの血脈を、男系からも女系からも受け継がない人物で
す。古代からの王家の血脈は、宣化天皇皇女からしか繋がっていない。
この宣化天皇皇女から繋がるのが、天武系の王たちです。
敏達天皇は欽明の后の宣化天皇皇女の石姫の皇子であるということ。つまり、蘇我の娘たち
より、宣化天皇皇女からの方が王位継承は優先であるということです。
継体の王子たちとされる、尾張氏の目子媛から繋がる、安閑天皇―宣化天皇は、蘇我氏とは
関わりのない天武系の王たちです。蘇我氏だけでなく、天武と対立した、天智系の天皇や、
藤原氏にとっても、彼らを本来の王家の人物だとしたくない力が働いていて、継体を王だと
しています。そして、尾張氏の娘を継体天皇に繋げている。
本当は、継体の皇子たちとされる、尾張氏の目子姫から繋がる、安閑天皇―宣化天皇は、
雄略天皇の皇子たちであり、天武に繋がる物部系の王たちなのでは?
上宮記は、天皇記・国記を正当化するためのもの。継体は王ではないし、古代の王にも繋が
らない。物部氏が古代の王家だとしたくないために、この物部王家を消し去っている。
つまり、継体天皇で断絶しているとしたかったわけです。
そして、蘇我氏が関係していた、欽明天皇を古代の葛城系の王家につなげている。
この継体天皇の謎は難問なのですが・・・
ウイッキペディアに問題点がしめされていますので、そのまま引用します。
*『百済本記』の辛亥の年の記事は「日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨」
*『上宮聖徳法王帝説』・『元興寺伽藍縁起』では欽明天皇の即位した年が辛亥の年(531年)
とされ、あたかも継体天皇の次が欽明天皇であったように解される。
*『古事記』では継体天皇が丁未の年(527年)に崩御したことになっている。
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この問題点から、継体天皇の謎が解けるかな・・・?
古事記の記述が正しいとすると、継体天皇がなくなったのは527年であるとすると、つま
り、百済本記の辛亥の年(531年)の記事の、天皇とは継体天皇ではないということですよ
ね。この古事記の記述は天皇記・国記にあった記述を移していると思うのですが?
継体天皇の、崩御年が、531年とされるのは、この百済本記の記述によるものなのですが、
この天皇とは継体天皇とは記述されていない。そしてこの百済本記の記述は天皇記・国記を
参照している。継体天皇の次が欽明天皇であったように記述されていたのは天皇記・国記に
おいてです。
継体天皇は、527年に崩御。そして、『百済本記』の辛亥の年531年の記事は「日本の天皇
及び太子・皇子倶に崩薨」とは、清寧天皇と皇子たちなのでは。
辛亥の変とも言われますが、この記述が正しいとすると、この時、蘇我に関係ない、雄略の
皇子である清寧天皇と皇子たちが、蘇我稲目によって暗殺されたという可能性があるので
は?蘇我氏に関係する、欽明のおとうさんである継体が暗殺されたとは考えづらい。
百済本記の云う記述が本当のことなら、あくまで真実を語っているとするなら、この時期に
台頭してきた蘇我氏、蘇我稲目によって暗殺された?後に、蘇我の王に立てられたのが欽明。
継体天皇が即位したとされるのは、この大王殺害を隠すためともいえます。
安閑は、66歳にして即位。宣化も69歳に即位したとされます。これも、清寧天皇や皇子たち
が暗殺されたため、高齢での即位となったわけです。
継体天皇の崩御後に即位した、安閑、宣化が高齢での即位はこれが理由。
雄略天皇の和風諡号は、日本書紀は大泊瀬幼武尊、古事記には大長谷若建命、とされます。
この雄略天皇の王子である、清寧天皇の和風諡号は、日本書紀では白髪武広国押稚日本根子天皇
とされます。
そして、安閑、宣化の和風諡号に関してですが、・・・
安閑天皇の和風諡号は、古事記では広国押建金日命、日本書紀には広国押武金日天皇。
宣化天皇の和風諡号は、古事記では建小広国押楯命、日本書紀には武小広国押盾天皇とされます。
ともに、雄略天皇こと倭王武からは、タケル「武」「建」の文字、そして安閑、宣化は雄略の王子
たちだとすると、「広国押」という言葉が清寧天皇と共通することになります。
このことからも安閑、宣化は雄略の王子たちなのではないでしょうか?
継体天皇の生年、没年は古事記にいうとおり生年が485年ころであり、没年が527年でい
いのでは?日本書紀にいう生年が450年頃とされるのは、安閑、宣化を継体の皇子として
取り込むためです。古事記にいうように485年頃の生まれでは、安閑、宣化を皇子とする
には不自然だからです。ただ、本来の大王たちなので、継体の皇子として取り込む必要が
あったのです。つまり、安閑、宣化は継体天皇の皇子ではないということです。
息長真手王の娘が、継体と敏達に嫁いだとされることも、この継体の生年が古事記のほうが
正確に伝えてるともいえると思います。
継体天皇の后とされる尾張連草香の女の目子媛は、実は雄略天皇の后だということ。
つまり、本来の王家である物部系から繋がるということ。
天皇記・国記においてそう記述されていたのを、記紀編纂時に変更された。
ただこの、百済本記は蘇我馬子が編纂した天皇記・国記の記述を参照しています。
欽明は531年に即位したのは、蘇我の王である天皇です。大王であはありません。
そう天皇記・国記編纂時に記述されたということです。蘇我馬子の時代になり、物部氏が滅
ぼされ歴史が改竄されたということです。
欽明天皇は、この531年に天皇に即位したともされます。ですが大王ではない。
これは天皇記・国記編纂時の後づけ。継体天皇も王ではない。
蘇我馬子が編纂した、天皇記・国記編纂時に、欽明が王にふさわしいとするために、お父さん
である、継体を古代の王である、垂仁天皇からつながる、傍系の皇子である、誉津別命に繋げて
いたのです。天皇記・国記とは蘇我氏の歴史書であり、蘇我氏にとって都合の悪い箇所は当然の
ごとく改竄されている。
前述してきましたが、雄略天皇と武烈天皇は同一人物です。
継体は、この雄略天皇からの後胤を消し去ったために、組み入れなければならない人物です。
そして、この雄略天皇から繋がるのが本来の王家であり、天武系の王たちであるということ。
記紀においては、天武系の王を雄略天皇に繋げたくないため、記紀において安閑、宣化を継
体天皇の皇子としている。
葛城系の王・・・つまり蘇我の王たち。
武内宿禰(神武天皇)―平群木菟宿禰―履中天皇「讃」・反正天皇「珍」―磐坂市辺押磐皇
子―顕宗天皇―仁賢天皇―継体天皇―欽明天皇―用明天皇―崇峻天皇―推古天皇
葛城系の王において、履中天皇「讃」・反正天皇「珍」以外で、天皇とされている人物は全
員、王ではない。蘇我馬子によって編纂された、天皇記・国記において、蘇我の王である
天皇とされた人物。彼らは本来の大王ではない。
蘇我氏が王家と関わるのが欽明天皇なのですが、継体天皇で、前の王朝が断絶したとしています。
ただ彼は蘇我の王である天皇ですが、大王ではない。
それで、本来の王家と繋げるための操作がここでもなされている。
継体天皇問題、そして蘇我馬子が改竄したかったのはここです。
欽明天皇を、本来の王家に繋げている。
次の王である、敏達天皇 は欽明の皇子ではないのでは?
つまり、欽明天皇の皇后や后である宣化天皇 の皇女とされる、石姫皇女 や、稚綾姫皇女、日影皇女
は本来は欽明天皇の后たちではないのでは?
欽明天皇の后は、蘇我 稲目 の娘の堅塩媛 と小姉君 だけです。
これはこの後の歴史を見れば明らかです。そして蘇我 稲目 の娘たちに本来の王家の人物たち
を繋げている。
ウイッキベディア・・・
敏達天皇4年1月9日(575年2月4日?)に息長真手王の女、広姫を皇后としたが、同年11月に崩御。
翌同5年3月10日(576年4月23日?)、16歳年下と言われる異母妹の額田部皇女を改めて皇后に立てた。
尚、欽明天皇32年(571年?)に額田部皇女を既に妃としており、皇女であるにもかかわらず何故そう
でない広姫が当初皇后となったのかは不明。
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これは勿論、もともと、広姫が皇后であり、額田部皇女こと推古は、欽明と蘇我稲目の女の堅塩媛
の子供であり、王家とは何ら血のつながりのない蘇我の人物だからです。
ウイッキペディアから・・・
継体天皇と手白香皇女との間に生まれた欽明天皇が、今日まで長く続く皇室の祖となった。
皇統の危機を救い、男系ではないものの、直系の血筋を後世に受け継がせた手白香皇女の存
在は非常に大きかったといえる。
天皇記・国記・・・
皇太子・嶋大臣共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、
臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す。
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こうなるように系譜が改竄されている。本来は王家と全く関係がなかった欽明を(もちろん継体も)
王家とつなげるには、本来の王である敏達を、欽明の皇子にする以外ありません。安閑、宣化 は
継体の王子ではない。
これは、蘇我馬子と、聖徳太子によって編纂されたとされる天皇記・国記において改竄されていた。
この天皇記・国記とは蘇我氏の歴史書です。
蘇我氏の王たちは欽明から繋がります。その蘇我の王たちは古代から繋がる王たちであるとした改竄
が行われている。
そして、その欽明天皇が、今日まで長く続く皇室の祖となるようにするには、・・・
本来は大王ではなかった欽明を王とするためには、・・・
そう本来の王家と繫がなければなりません。それは、敏達 を欽明の皇子にすることです。
写真は、今城塚古墳公園です。
継体天皇の陵は、三嶋藍野陵に治定されています。考古学名は太田茶臼山古墳といわれる前方後円墳です。
しかしながら、築造時期があわないために、 近くにあるが今城塚古墳有力であるされます。治定されている
古墳の築造時期が合わないために、近くにある古墳を有力とするのも、おかしな話ですよね。
いかにいい加減な治定かわかりますよね。というか、継体は王ではありません。
今城塚古墳は、おそらくこの時代の有力者、候補者は二人、物部尾輿か大伴金村のお墓だと思うのですが?
たぶん、・・・大伴金村のお墓であり、太田茶臼山古墳 は父?の大伴室屋のお墓かな???
継体天皇のお墓は、生誕の地とされる高島市にある、鴨稲荷山古墳です。 継体天皇は本来の大王ではありません。