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【社説】

天皇と憲法(3) 国民と歩むことの重み

 君主に権力が集中した絶対君主制は今日の民主主義社会とはもちろん、共存できない。欧州で主流の立憲君主制を見つつ、日本の天皇制を考えてみよう。

 第二次大戦でのドイツ降伏後、ベルリン近郊で開かれたポツダム会議で、英国のアーネスト・ベビン外相は、第一次大戦後に、カイザー(ドイツ皇帝)制度を崩壊させなかったほうがよかったと述べ、出席者を驚かせた。

 ドイツから皇帝というシンボルを奪い去ってしまったため、「ヒトラーのような男をのさばらせる心理的門戸を開いてしまった」からだという。

◆ヒトラー台頭の道開く

 一八七一年、小国分立のドイツを統一したプロイセン。その国王とドイツ皇帝を兼ねていたウィルヘルム二世は九〇年、「鉄血宰相」ビスマルクを退任させた。

 ビスマルクは二十七年にわたりプロイセン首相に在任、「鉄と血」つまり兵器と兵士による軍事力で問題解決すると主張する一方、同盟外交で戦争を回避してきた老練政治家だった。だが、新皇帝には目の上のたんこぶだった。

 政治の実権を握ったウィルヘルム二世は、自ら海軍増強など帝国外交を繰り広げる。これが英仏など周辺諸国の警戒を招き、第一次大戦へとつながった。

 ドイツ敗戦後には、当然ながら責任を問われた。連合国側は体制一新を要求、国内では各地で革命が起き、追い詰められた。政府に迫られて退位しオランダに亡命。ワイマール共和国発足に伴い、皇帝制は廃止された。

 共和国では、連立の組み合わせが目まぐるしく変わって政治は安定せず、共和国打倒を訴えるナチスの台頭につながった。

 ナチスは当初、権威を利用しようと皇帝一族に接近したが、党勢拡大に伴って次第に冷淡になり、首相となったヒトラーは、君主制を復活させないと断言した。自らが総統となり、君主に取って代わったのだ。

 ベビン英外相の後悔どおりの結末だった。

 ドイツの皇帝制は日本にも大きな影響を与えている。

◆民主主義との共存

 明治政府は伊藤博文らを欧州に派遣、強い君主を規定したプロイセン憲法をモデルに大日本帝国憲法を制定した。

 プロイセンと同様に、軍隊の最高指揮権、統帥権を天皇の大権と定めた。これに基づく帷幄(いあく)上奏も、プロイセン軍に取り入れられていた仕組みだ。

 帷幄とは野戦用のテントを指す。参謀総長らが内閣を通さず、天皇に作戦などについて直接説明することができる。

 昭和になってこれを軍部が乱用、軍を批判する者を統帥権干犯と批判し、時に暴力で黙らせた。結果、無責任体制を招き、暴走の果て第二次大戦を引き起こし、日本は焦土と化した。

 ベビン英外相の言葉のように、戦後、天皇制存続のため念頭に置かれたのが、軍国日本につながったプロイセン流ではない、民主主義と共存する立憲君主制だった。

 英国には現在も成文憲法はないが、一六八八年、流血なき「名誉革命」で国王ジェームズ二世を追放後、即位したウィリアム三世、メアリ二世は「権利宣言」に同意した。議会を王権に優越させ、絶対君主制とは全く性格の異なる君主制となった。

 君主制と共存する成熟した民主制が定着している国は北欧やベネルクスにも多い。国王は国民の精神的なよりどころでもある。

 ノルウェーは一九四〇年、ナチスの侵攻を受けた。当時のホーコン国王は抗戦し、英国に亡命後は抵抗組織を作り、ラジオで国民に呼び掛け続けた。生きざまは「ヒトラーに屈しなかった国王」と題して映画化された。その子オーラブ五世はしばしば街に出て、市民に声を掛けた。自分には国民四百万人がついているとして、護衛を嫌ったという。

◆君臨するが統治せず

 やはり、ナチスに侵略されたオランダでも、ウィルヘルミナ女王がロンドンで亡命政府を樹立し、徹底抗戦を呼び掛けた。ドイツ敗戦が濃厚となり帰国した女王は、歓声で迎えられた。

 デンマークでは、戦後制定された新憲法で初めて女性への王位継承を認めた。その最初が現在の女王マルグレーテ二世である。男性王位継承高位者に、デンマークを占領していたナチス寄りの親族がいたことに対し国民の反発が強かったことも理由だったという。

 欧州の国王の役割は国によってさまざまだが、共通するのが、政治には直接介入しないが、国家を代表し、国民に寄り添い、勇気付ける姿である。よく言われることだが、政治権力に対するある種の権威といってもいいだろう。国民と歩むことの重みでもある。

 

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