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 音楽を聴く。さりげない転調の一節に心動かされ、余韻が続いた、としよう。立ち止まる。何だろうと考えてみる。言葉を尽くし、誰かに伝えたくなる。

 そんな一人ひとりの幸福な体験が、起点になっているのかもしれない。ネット上には、様々な「評」があふれている。応援歌もあれば、一刀両断もある。豊富な知識をもって、鋭く論理展開する例も少なくない。

 一方で、世間の人気がそのまま作品評価につながっている傾向もみられる。1月に亡くなった作家の橋本治さんは、近年の日本社会に「みんなの中の一人」という意識が強まったと書き、批評的に物事を見る姿勢が後退したことを危ぶんだ。

 批評とは何か。作品の良しあしを論ずること、という一般的な理解を一歩前に進めて、こんなふうに問題提起してみたい。新たな価値を発見すること。さらにいえば、作品に横たわる、無意識まで探り当てることではないか、と。

 前提になるのは、対象から距離をおき、自由な解釈を認め合う、作家との対等で成熟した関係性である。その好循環が文化の質を高め、ひいては言論空間の厚みを増し、対話のある社会をつくり出していくと考える。

 もっとも、いま文芸・思想・演劇・映画・音楽といった文化の各分野で、プロの手になる批評作品への関心は下火になるばかりだ。柄谷行人さん、蓮実重彦さんらがスター的な批評家になった1980年代から90年代前半を頂点に、話題作は少なくなり、有力雑誌は休刊。新人賞など登竜門も減った。

 多数派に届く情報を提供したい主催者などの戦略も大きい。読者の志向の変化もある。だが急速に複雑さを増す時代と正面から向き合い、見取り図を示し、一方では普通に暮らす人々の生活実感から離れない、などの工夫が、やや欠けていた面も否めないのではないだろうか。

 ここ数年、危機感をもつ中堅・若手を中心に、再生の試みが始まっている。デジタルを駆使して書籍と雑誌を発行し、イベントを開き、次世代の批評家養成講座を用意する。批評が成立しにくいとされたファッションの批評誌が創刊されるなど、東京以外でも拠点作りが進む。

 多くの人に向けて開く姿勢に期待したい。その上で、手っ取り早い回答を求めがちな時代にあらがう気概を、もっと伝えてほしい。時間をかけて考え、着地が鮮やかに変わっていく過程は面白いのだ、と。読者はそれを待っている。

 そうした挑戦はまた、様々な危機に直面する社会の状況を遠くから見晴らし、深部から思考する一歩になるはずだ。

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