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【社説】

週のはじめに考える 威信と抗議の天安門

 中国で民主化運動が武力弾圧された天安門事件から三十年です。明清代に皇城の正門だった天安門は、統治者の威信誇示と民衆の抗議の場でありました。

 「中華人民共和国が今日、成立した」-。人民服に身を包んだ毛沢東が天安門楼上から、広場に集まった百万人余の民衆に向け、そう宣言したのは一九四九年十月一日のことでした。

 それ以来、中国では十月一日を建国を祝う「国慶節」と定めました。出稼ぎ農民が一年ぶりの家族との再会に胸躍らせて帰郷する「春節(旧正月)」と並び、国民的な祝日とされてきました。

 毛沢東による「建国の大典」は、天安門が目撃した新中国の歴史の第一ページであるといえます。

◆「100年の国辱すすいだ」

 それから半世紀ほど時代を下った九七年六月三十日深夜。天安門広場で開かれた「香港の祖国復帰を祝う市民の夕べ」には十万人余が集まりました。

 英国から香港が返還される七月一日午前零時の十秒前からは「十、九、八…」とカウントダウン。群衆が声をそろえて「世紀の瞬間」を祝いました。

 香港での返還式典から北京にとんぼ返りした当時の江沢民国家主席は一日夜、広場近くの体育館で「中国が国際的地位を高めたことを示す」と演説し、中国メディアは「百年の国辱をすすいだ」と高揚した筆致で報じました。

 天安門と天安門広場は、中国共産党や政府が国威を発揚し、最高指導者が威信を示すため、華々しく慶祝の式典を開く舞台として機能してきたといえます。

 清代には、皇帝の命令を民に伝える「頒詔(はんしょう)」が天安門から行われました。天安門が為政者の統治に資するのは伝統ともいえます。

◆80年代末の政治風波

 一方で、血塗られた悲劇の舞台ともなりました。中国だけでなく国際社会を驚愕(きょうがく)させ、人々の記憶に鮮明なのは、八九年六月四日の天安門事件です。

 天安門広場を拠点に民主化を求めた学生らのデモ隊に人民解放軍が発砲し、武力鎮圧しました。中国当局は死者数を三百十九人としていますが、香港紙は二〇一七年、機密解除された英公文書をもとに、英政府が犠牲者を最大三千人と推計していたと報じました。

 中国政府は事件を「八〇年代末の政治風波(もめごと)」と呼びます。あえて軽い表現を使い、事件を矮小(わいしょう)化しているように映ります。人民日報系の「環球時報」は数年前、「(事件の記憶を)薄れさせるのは、中国社会が前向きに進む哲学的な一つの選択」と主張する評論すら掲げました。

 事件の総括や真相の究明に踏み込まず、不都合な歴史を葬り去ろうとするのは、誠実な態度とはいえないでしょう。

 事件を振り返ると、民主化運動を盛り上げようと、学生たちは米国の「自由の女神」を模した高さ約十メートルの「民主の女神像」を共同制作し、運動の象徴として広場に設置しました。

 女神は当局によって無残に破壊されました。学生の一人は「軍隊が女神を倒すのは簡単だ。でも、心の中に残った『民主の像』は倒せない」と演説しました。

 一向に政治改革に踏みだそうとしない党や政府に対し、民主を希求する学生たちの強靱(きょうじん)な意思が伝わる言葉であると思います。そして、中国の民衆の心から事件を消し去ることなど不可能だということを、改めて思いしらせてくれるような気がします。

 事件から三十年の節目を迎えるのを前に、当局はさらに神経をとがらせているようです。

 四川省で今月、「八酒六四」と名づけた「白酒(バイジュウ)」を製造した四人に「騒乱挑発罪」で有罪判決が言い渡されました。中国語で「ジュウ」という「酒」の発音は「九」と同じです。ラベルに戦車と民衆の図柄もある酒は、一九八九年六月四日の事件を連想させます。

 庶民による事件風刺のような行為を「騒乱挑発」として有罪判決を下す苛烈さは、息苦しいまでの社会管理の実態を物語るようです。

 時間を巻き戻せば、「抗日」と「反帝国主義」を掲げて、一九年五月四日に発生した「五・四運動」でも、天安門広場がデモ行進の舞台となりました。

 民衆の視点に立って歴史をひもとけば、天安門と広場は「抗議の舞台」であったといえます。

◆「1強」で強まる独裁色

 反腐敗闘争を通じて政敵を次々と失脚させ「一強」となった習近平国家主席は、毛沢東にならうかのように独裁色を強めています。

 流血の惨事を再び目にするのは願い下げですが、民衆が民主政治の実現を求める限り、天安門はいつでも「抗議の舞台」となる可能性をはらんでいるのです。

 

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