明治十年、文部省は東京開成学校と東京医学校を合併して、法・理・文・医の四学部制の東京大学を設け、工部省は工部学校を母胎として工部大学校を置き、それぞれ多数の外人教師、外人技術者を招き、両者を中心として近代化学と技術が急速に移植・育成された。十九年、「帝国大学令」を公布し、帝国大学は、「国家ノ須要ニ応ズル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スル」ものとし、学術の中枢機関としての使命を明確化した。東京大学は法・医・工(工部大学校を合併)・文・理の五分科大学および大学院より成る帝国大学に発展し、二十三年、農科大学(農商務省所管東京農林学校を合併)が加わった。
明治二十年、「学位令」を制定し、学位に博士、大博士(実際には授与はなかった。)の二種を規定し、その種類は、法学・医学・工学・文学・理学の五種とした。明治三十一年、学位令を改正し、学位は、博士の一種となり、1)帝国大学大学院にはいり試験を経た者または論文を提出して帝国大学分科大学教授会がこれと同等以上の学力ありと認めた者、2)博士会が学位を授くべき学力ありと認めた者に文部大臣が授けることとし、新たに薬学・農学・林学・獣医学の四種類を加えた。
明治三十年に、京都帝国大学理工科大学、明治四十四年には東北帝国大学理科大学、九州帝国大学工科大学を開設し、明治末年には、四帝国大学に、計一五分科大学を設置するに至った。
以上のような帝国大学の拡充は、指導的な科学者・技術者の養成に対する国家社会の強い要請にこたえるものであったが、またそれ自身、わが国の中心的な研究機関の発展の過程を示すものである。特に、帝国大学に産業に直結した工科大学、農科大学が置かれたことは、当時欧州の古典的大学にはみられぬことで、帝国大学の社会的使命は、欧州の大学に比べて、むしろ大であったと称することができよう。
大正時代にはいると、帝国大学にいくつかの研究所を附置・設立した。すなわち東京帝国大学には、大正五年伝染病研究所、十年航空研究所、十年改組された東京天文台、十四年地震研究所、東北帝国大学には十一年金属材料研究所、京都帝国大学には十五年化学研究所等を附置した。伝染病研究所は、北里柴三郎が明治二十五年創立した大日本私立衛生会伝染病研究所であってその後内務省所管の国立研究所となり、さらに文部省に移管される等のうよ曲折を経たのである。「伝染病ノ他病原ノ検索、予防治療方法ノ研究、予防消毒治療材料ノ検査、伝染病研究方法ノ講習並痘苗血清其ノ他細菌学的予防治療品ノ装置及検定ニ関スル事項」を掌ることとし、一大学の研究所というよりは、国の衛生行政に関する試験研究機関ともいうべき使命を有していたのである。
航空研究所は第一次世界大戦における航空機の活躍が起因となって生まれた。同研究所は「航空機ノ基礎的学理ノ研究」を目的としていたが、その研究成果の実用化を図るため、陸海軍からも所員に補せられるという措置を講じていた。また、航空研究所の創立と同時に、文部省に航空評議会を設け、創始期にあったわが国の航空に関する用語記号・材料規格の選定等について基準となるべき見解をとりまとめる等、多くの業績を残した。この評議会は、他面同研究所を中心とする陸海軍はじめ、官民の航空研究に関する連絡機関としての機能をもそなえていた。
東京天文台も特異な性格を有する。明治二十一年、海軍省の観象台が行なっていた天象の事業と内務省天象部の行なっていた暦書調製の事業が文部省に移管され、これを帝国大学の天象台で行なっていた天文学の研究と合わせてすでに東京天文台が成立して理科大学の附属となっていた。これをさらに拡充して大学に附置し、「天文学ニ関スル事項ヲ攻究シ天象観測、暦書編製、時ノ測定、報時及時計ノ検定ニ関スル事務ヲ掌ル」ものとした。すなわち、東京天文台は、大学の研究のみならず、天文観測を基礎とする国の事業を実施する機関でもあった。
地震研究所も大正十二年の関東大震災の経験によって、十三年、帝国議会において行なわれた「地震研究ノ特殊機関設立ニ関スル建議」に基づいて東京帝国大学に附置された国家的機関である。したがって、その目的は、地震の学理のみならず震災予防に関する研究をも行なうものとし、その所員は帝国大学の教授、助教授以外に関係各省庁の職員から文部大臣が補することになっていた。なお、明治二十四年の濃尾地震の翌年、文部省に震災予防調査会が設けられ、わが国の地震学は、この組織を中心として発展し、すでに明治年間大森房吉の初期微動の研究をはじめ、国際的にも高い評価を受ける業績をあげた。これは地震研究所の設置と同時に、震災予防評議会と改称され、震災予防に関し、前記航空評議会と同様な役割を果たすものとなった。
東北帝国大学の金属材料研究所は、物理冶(や)金学に関する本多光太郎のすぐれた業績を中心に大正八年設立された附属鉄鋼研究所を改組・拡充したものである。京都帝国大学の化学研究所はサルバルサン類の研究および製造を行なうため大正四年設けてあった理科大学附属化学特別研究所を移管して、化学に関する特殊事項を研究するため設置したものである。
このように、大正時代に設立した大学附置研究所は、特定の一大学に附置してあるとはいえ、全国的な立場から設けられた研究機関であり、なかには特定の国家業務そのものを実施する使命を有するものも含まれていたのである。
その後、昭和年代にはいると、各省所管の試験研究機関がしだいに整備され、大学附置研究所も国家社会からの要請以外に、各大学において生まれた学問的にすぐれた研究業績をさらに発展させる純学術上の目的のもとに設立するものも増加した。さらに戦時体制の進展につれ、戦力増強に役だつと認められた研究所も数多く増設された。その設置数は、昭和六年一、九年二、十四年六、十七年四、十八年九、十九年一〇、二十年三であって、終戦時は総数四七に及んだ。これを学問分野別に分類すると、人文二、経済二、理学一二、工学一七、農学三、医学一一であった。医学のうちには特に結核に関する研究所が五を数えたことは、結核対策がいかに重要であったかを示すものである。
文部省直轄の研究所としては、国際的な共同観測所の一つとして明治三十二年、岩手県水沢に臨時緯度観測所が設けられたが、その後、緯度観測に関する条約の期限が切れ、大正九年、臨時緯度観測所を緯度観測所と改称し、「緯度変化ノ観測、計算及之カ研究ニ関スル事務ヲ掌ル」ものとし、恒久的な施設とした。さらに、所長木村栄の業績と水沢の観測は国際的に高く評価されて、大正十一年から国際緯度観測事業の中央局はドイツから水沢に移され、昭和十一年までその業務を行なった。
気象官署も一時中央気象台時代特殊の研究機関として文部省の所管であった。わが国の気象業務は、明治八年、内務省地理寮構内で東京気象台の名のもとで一日三回の定時観測を行なったことにはじまる。二十年、東京気象台を中央気象台と改称し、地理局直轄の測候所は各府県の所轄となり、さらに農林、鉄道、陸・海軍各省それぞれ気象観測を行なった。二十三年、中央気象台官制を公布し、気象業務以外に地震、地磁気、空中電気等の観測を行なうことを規定し、さらに二十八年、中央気象台の管理は、内務省から文部省に移された。これは気象業務の遂行に地球物理学的研究が不可欠であり、気象台は研究機関的な色彩が強かったためであろう。その後、しだいに業務内容を拡充し、大正九年、神戸に海洋気象台、茨城県館野に高層気象台を創設した。また、のちの国際地球観測年の行事の前身ともいうべき第二回国際極年(第一回極年観測は明治十五年に行なわれ、わが国は参加しなかった。)の国際共同観測が昭和七年八月から十三か月間実施されるや、わが国もこれに参加し、これを契機として富士山測候所が建設されるに至った。
さらに、日華事変後、気象業務の一元化と敏速化が要請され、企画院に気象協議会が設けられ、その結論により、昭和十四年、気象官署官制が制定され、全国の気象機関の国営移管が行なわれて全国の気象事業が一元化された。これにより気象官署は、中央気象台をはじめ管区気象台、地方気象台、測候所、海洋気象台、高層気象台、柿岡地磁気観測所、その他一五六官署となった。太平洋戦争勃(ぼつ)発後は、軍事行動のための気象業務の整備がさらに必要となり、航空および通信の便宜上、気象官署は文部省から運輸通信省に移管され、その業務形態もおのずから変化し、研究機関的性格よりも現業官庁的な色彩を強めるに至った。
以上のほか、文部省直轄研究所として戦時中資源科学研究所(十六年)、電波物理研究所(十七年)、民族研究所(十八年)、統計数理研究所(十九年)を設置した。これらの研究所は、必ずしも戦力増強を直接の目的としたものではなかったが、わが国の海外進出を背景としたり、あるいは科学戦といわれた情勢下に特に必要性の高い特定の専門分野の研究を促進することを目的として設立したものである。
大正年間にはいると、有力な民間企業がみずから試験研究所を設けて、その成果を工業化する事例が増加したが、財団法人組織の有力な研究所も出現した。その最大のものは、六年発足した理化学研究所である。同研究所は、第一次世界大戦が勃発してドイツからの染料医薬品の輸入が途絶し、わが国の化学工業が危機にひんしたのを直接の動機として渋沢栄一、桜井錠二等の奔走により、「理化学ヲ研究スル公益法人ノ国庫補助ニ関スル法律」に基づく政府補助金および民間の寄附金をもって設立された。この研究所は「物理学及化学ニ関スル独創的研究ヲ為シ又之ヲ奨励シ以テ工業其他一般産業ノ発達ニ資セムコト」を目的とし、弾力的な運営のもと、わが国の基礎科学および応用研究の面で著しい業績をあげ幾多の人材を輩出したので有名である。その他これと前後して、大原農業研究所、塩見理化学研究所、青柳研究所、北里研究所等自然科学関係の特色ある研究所が創立された。十一年に社会科学についても大原社会問題研究所が設立され、昭和にはいるとさらに、各分野の民間研究所が多数設置されたのである。
なお、明治二十年代わが国の代表的な自然科学関係の学会が成立したことは前述したが、明治年間その数は四七を数え、人文科学部内でも統計協会(十二年)、斯文会(十三年)、哲学会(十七年)、国家学会(二十年)、史学会(二十二年)、保険学会(二十七年)、社会政策学会(三十年)、丁酉倫理会(三十年)等一〇余を数えることができる。大正時代にはいってからは学問の専門分化に伴って、各分野の学会がさらに整備されるようになった。
学制百年史編集委員会
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