
今からちょうど30年前の10月。 個人で宝石商を営む金光(仮名)は、ある商談をすすめていた。 実は、自称実業家である岡崎(仮名)の知り合いの資産家の息子を騙して、大金を巻き上げようとしていたのである。
その手口は…まず、男性と知り合いの岡崎が仲介役となり、宝石の商談を持ちかける。 次に宝石商の金光が原価1000万円のサファイアを用意。 さらに、宝石の持ち主役を探偵の谷川(仮名)が演じ、宝石には3000万円以上の価値があると言って、同額の融資を引き出す。 そうすれば、そのあと金を返さなくても、原価との差額 2000万円が3人のものになる。

そして、資産家の息子の希望で湖畔の別荘で商談が行なわれた。 谷川が宝石商の金光から預かったサファイアを、資産家の息子の佐々木(仮名)に見せ、このサファイアを担保に3000万円の融資を打診。 佐々木が融資を渋ると、宝石商の金光がこの宝石を4000万円で譲ってくれないかと言い出した。 手付金にこの場で500万円支払うと言う。
すると突然、宝石の持ち主役の谷川が「もう芝居は止めだ」と言い出した。 そして、宝石商の金光の首を締め、殺害!!

そう、佐々木が資産家だと言うのは真っ赤な嘘! この商談は始めから、宝石商・金光の現金や貴金属を強奪するため3人が仕掛けた罠だった! 彼らは金光がアタッシュケースの鍵を開けるのを虎視眈々と狙っていたのだ! こうして、金光から奪った現金や宝石類は1500万円以上にのぼった。 そして、実際は不動産業をしていた佐々木が所有している別荘の床下に遺体を埋めた。

被害者の金光も含め、裏社会の男達による周到な犯罪に思われたこの事件。 だが…実はこの事件の主犯、探偵の谷川は…元警視庁の警部だったのである。
しかも、長年所属していたのは…デモや暴動が多発していた1960〜1970年代、最も危険な部署と呼ばれた機動隊だった!! さらに、その正義感や面倒見の良さから周囲の仲間達から絶大な信頼を寄せられていた。 しかし、そんな男がなぜ恐ろしい凶行におよんだのか?
後に死刑判決を受けることになる谷川は、手記で心情をこう綴っている。
「人が人を殺すということは当然ながら正気の沙汰ではない。しかし 残念ながら人は、その正気の沙汰でないことを平気でやることがある。私だけでなく…」
時は事件から25年前に遡る。 当時、警察官になったばかりの谷川には、沙織(仮名)という恋人がいた。

実は当時、彼の名字は「谷川」ではなく「柴田」だった。
そして2年後。
警察官という安定した職業についていたこともあり、両親はまだ二十歳を過ぎて間もない2人の結婚を承諾。
だが、結婚から4年が過ぎたころ、柴田は東京の郊外に70坪の一戸建てを購入。 年収の15倍近いローンを組んだ。 自分には分不相応な物件だということは分かっていた。 だが、見栄っ張りな性格と、妻の両親を安心させたいという思いが、柴田に半ば無謀な買い物をさせた。

しかしその一方で、警察官としては順調にキャリアを重ねた。 交番勤務を勤める傍ら、猛勉強に励んだ結果、30歳の時、合格率3%という昇任試験を突破し、巡査部長となった。
その後、交番勤務から機動隊に移動して最前線で果敢に闘った。 過激さを極めるデモ隊を鎮圧するためには、武力に訴えないと行けない場面も多かった。 しかし、デモ隊との衝突が起こるたびに、マスコミの多くは機動隊の方を批判した。
それに不満を持つ仲間をいつもなだめていたのは、柴田だった。 そんな柴田の正義感と面倒見の良さは仲間達の間で評判となり、やがて多くの同僚達から絶大な信頼を集めるようになっていった。 面倒見の良さが高じて、部下のローンを一時的に自分の名義に変更してあげたことまであった。

そして時は流れ…警視庁に在籍してから20年余り。 その頃、手塩にかけて育てた長男も自分と同じ警察官となり、また柴田自身も警部補に昇進、何不自由なく生活していた。
そんなある日のことだった。 柴田は警察を「もう少ししたら、辞めようと思う」と言い出した。 警察官であることに誇りを持っている男が突然なぜ退職を決意したのか? 実は柴田には、長年心にひっかかり続けていたある思いがあった。
それは、警察官になって4年目のこと。 当時、柴田は留置所の看守として勤務していた。 ある日、交代で当直にあたっていた上司が風邪を引いたため、規定の時間を過ぎても交代せず、翌朝まで1人で留置所の監視を続けた。

ところが、この行動が問題となったのである。
勝手な勤務変更は地方公務員法に抵触するとして取り調べを受けたのだ。 処分は最も軽い、戒告だったのだが…柴田はこの処分に納得がいかなかった。 この時、警察組織の矛盾と汚さ、情けなさを感じたという。
それでも、首都の治安を守るというプライドだけを胸に、その後も警察官としての人生を歩んできた。 だが、警察は20年を一区切りにしようと考えていたという。

そして事件の4年前にあたる1月。 柴田は22年間勤めた警察を退職。 だが、この決断が彼の運命を大きく狂わせることになる!
その後、柴田が第二の人生として選んだのは、大衆割烹店の経営だった。 しかも…全60席、宴会場もある中規模店で、飲食店経営の経験などない柴田にとって無謀とも思える挑戦。 柴田は、今でも現場で奮闘しているかつての仲間達のために、くつろぎの場所を提供したかったのだ。

その後 柴田は、金融機関から開店資金として4000万円の融資を受けることにも成功。 しかし、飲食店は全くの未経験だった柴田がなぜいきなりそんな大金を借りることができたのか? 実は…5人の警察官が連帯保証人になってくれていたのだ。 現職の警察官が保証人になっている…その信頼があるからこそ、複数の金融機関が総額4000万円にも上る資金を決断したのだ。
とはいえ、警察を辞めてからわずか3か月での開店。 しかも、経営の見通しなど全く立っていなかった。 不安があったが、柴田にはもうあとには引けない理由があった。
実は、柴田の再出発を祝うパーティーになんと400人の警察官が駆けつけてくれたのだ。 その誰もが、店のオープンを心待ちにしてくれていた。 応援してくれる仲間を裏切ることはできない。

そのためにも、店を成功させるしかなかった。
こうして準備不足のまま、柴田の大衆割烹「しば長」は開店の日を迎えた。 だが、開店初日から警察関係者が押し寄せ、連日満員の大盛況となったのである。 それは柴田の予想を越える繁盛ぶりだった。
だが、柴田は仲間達に格安の値段で飲み食いさせた。 良心的といえば聞こえは良いが、この世話好きで見栄っ張りな一面こそが、のちに柴田の首を絞めることになる。

それは、オープンしてから半年が経った頃のこと。 金融機関から借りた開店資金 4000万円は、最初の半年間、支払いを猶予してもらっていたのだが、ついに本格的な借金の返済が始まったのだ。 すると、瞬く間に経営は悪化。 徐々に食材や酒を仕入れる金にも困るようになっていった。
頼れるのは警察関係者しかいなかった。 だが、仲間に借金をお願いするのにも限度がある。

ついに柴田が手を出したのが、当時 高額な利息で社会問題となっていた消費者金融だった。 そして…やがて借金取りが店にまで押し寄せるようになると、その噂で客足はさらに遠のいた。
最早、金を貸してくれる相手なら誰でも良かった。 この頃、違法な高利貸しですら、柴田の名義では金を貸してくれず、工藤(仮名)という高利貸しから息子名義で金を借りてしまった。
だが、そんな奔走も空しく、大衆割烹「しば長」はついに倒産。 残ったのは、1億5000万円という莫大な借金だった。

柴田は家族に借金取りの手が及ばないようにするため、妻と協議離婚し、身を潜めながらの生活を始めた。 だが、これはあくまでも表向きで、実際は妻と息子が暮らすマンションに時折 帰っていた。 さらに、谷川という性に改名。 別の名前になったところで、銀行からの借金は消えないが、少なくとも違法な金融業者からは逃れることができる。 そう考えてのことだった。
その後、谷川となった彼は、元警察官という肩書きを利用して千葉に探偵事務所を開設。 そこで寝起きすることで、何とか借金取りから身を隠すことに成功した。

だが…保証人になってくれたかつての同僚がお金を返して欲しいと、谷川を訪ねてきた。 谷川は彼らにだけ、自分の居場所を知らせる連絡をしていたのだ。 銀行から借りた借金の返済は保証人が負う。 当然、彼らからの そしりを受けることは分かっていた。
しかし、名前を変えてまで借金取りから逃れようとした男が、なぜ仲間達からは身を隠そうとしなかったのか? そもそも谷川には、自己破産をして全ての借金を帳消しにする方法もあったのだ。 しかし…そうすれば、保証人になってくれた仲間達に有無を言わせず取り立てが転嫁されていく。 そのことを知っていたため、破産宣告の申請ができなかったのだ。
だが、逃げなかったというだけで、返せるあてもなく。 保証人になってくれた仲間達の財産は次々と差し押さえられていった。

ある同僚は、教育費として貯めていた貯金を使い果たし、子供の大学進学を諦めざる得なくなった。 中には、わざわざ信用組合から借りて、大金を用立ててくれた部下もいた。
さらに悲劇はこれに留まらない。 息子名義で借りてしまった工藤からのえげつない取り立ては、ついに家族にまで及んでいた。 工藤は、最初から仮に谷川が逃亡したとしても、家族から金を取り立てることができるように、借金を息子の名義にさせていたのだ。
情けなさと、悔しさで発狂寸前の日々。 そんなある日、元同僚の妻から手紙が送られてきた。 そこには、現在の辛い心情が綴られいた。

谷川は、たとえ犯罪を犯してでも何とかしなくてはいけない…そう思ったという。 その後、谷川は、元警察官の肩書きを利用しようと考えている暴力団関係者など、裏社会の人間と付き合うようになっていった。
そんな中、ある人物と出会う。 それが岡崎だった。 岡崎に紹介されたのが、宝石商の金光だった。 金光は、いつも1000万円近い現金を入れたアタッシュケースを持ち歩き、全身に高価な宝石を身に着けていた。

そして、宝石商の金光を騙す資産家役を演じた佐々木もまた岡崎の知り合いだった。 こうして、谷川、岡崎、佐々木の3人は共謀して金光から金品を奪い取る計画を練り始めた。 だが…岡崎と佐々木の2人は金光を殺すことには反対していた。 しかし、元警察官の佐々木は、警察の捜査の手が伸びるのを恐れ、顔を知られている金光を殺すしかないと強く主張した。
そして、運命の歯車は動き始めた。 人望の厚い、元警視庁の刑事の姿はどこにもなかった。 追いつめられた一匹の野獣がそこにいた。
そして、金光殺害から数日後。 犯行の痕跡を消すために、谷川と佐々木が別荘を訪れると… 谷川は何故か突然、金光の遺体が埋まるそばに、新たな穴を掘り始めた。 そう、実はこの時 彼は、さらならる殺人計画を実行に移そうとしていたのである。

谷川は、土地を担保に2000万円の融資を受けたがっている資産家がいるとの話をでっち上げ、ある人物を呼び出した。 資産家役は、金光殺しの時と同じく佐々木だった。 そして、呼び出した人物とは…あの高利貸し工藤だった。
2人は、人気のない場所で彼女の首を絞め、殺害。 2000万円を奪い、別荘の床下に遺体を埋めたのである。 そして谷川は、奪った金のほとんどを借金の返済に回した。
数日後、女性が失踪したというニュースが流れた。 だが、遺体が見つからない限り、足はつかない…谷川はそう確信していた。 しかし、事態は予想外の展開を迎える。

その日、谷川は千葉の探偵事務所で熟睡していた。 そこにいたのは…かつて機動隊にいた仲間達だった。 こうして谷川は、2件の殺人の容疑者として逮捕された。
しかし、なぜ警察は谷川の犯行を突き止めたのか? 実は…宝石商の金光には懇意にしている女性がいた。 金光が連絡もなく、家に戻らないことを不審に思った彼女は、殺害された翌日、警察に捜索願を出すと共に金光が持っていた谷川の名刺を提出した。 だが 谷川の推測通り、警察もこの時点では、年に数万件ある捜索願の一件としか捉えていなかった。
ところが数日後、暴力団関係者から警察にたれ込みがあったのだ。 実は 谷川らは、強奪した貴金属を暴力団関係者を通じて、闇のルートで売りさばこうとしていた。 だが、依頼を受けた暴力団関係者には、谷川の知らない顔があった。 それは…彼には日頃から世話になっていた刑事がいたのだ。

金に困窮していた谷川がいきなり持ってきた大量の貴金属。 不審に感じた暴力団関係者は、警察に恩を売った方が今後の利益につながると、この情報を横流ししたのだ。
後日、これらの貴金属を見せられた女性は、金光のものだと証言。 彼女の証言で、警察は谷川が金光の失踪と関係していると確信するに至ったのである。 そして、谷川が逮捕された日の午後、共犯者の岡崎も潜伏先で逮捕。

逮捕後の谷川は犯行を素直に認め、ようやく事件は終息に向かう…はずだった。 しかし、別荘の床下をどれだけ探しても、そこから遺体が出てくることはなかった。 一体どういうことなのか?
谷川と岡崎の逮捕を報じた新聞記事…これを見て、1人恐怖におののく男がいた。 そう、この時点でまだ1人、逮捕されていなかった佐々木である。 佐々木は都内の友人宅に身を潜めていたのだが、近いうちに自分にも捜査の手が及ぶに違いない…そう思った。
「遺体さえ出てこなければ警察は動かない」…という谷川の言葉が脳裏をよぎった。 もし2人が自白したとしても、遺体さえ発見されなければ、事件はなかったことになるのではないか?

そこで佐々木は、かつての会社の部下と共謀。 現場から40キロ離れた山の中に、2つの遺体を移し替えたのである。 しかし、その後も連日大きく報道されるニュースに、もはや逃げ切れないと観念。 自ら警察に出頭したのだ。
そして、それから5日後。
神奈川県内の森の中で、2人の遺体が発見された。

元警察官と、2人の男による連続殺人事件。 その後 行なわれた裁判で、岡崎は金光の殺害に関わったとして、事件から11年後、無期懲役刑が確定。
谷川と佐々木に関しては、2件の殺人に関わったとして、一審、二審共に死刑判決が下された。 2人とも上告したものの、最高裁はいずれも棄却。 後日、死刑が確定した。
警視庁の元警察官が逮捕されるいう、前代未聞の殺人事件はこうして幕を閉じたのである。

殺人鬼と化した谷川を、中には信じがたい想いで見つめる人々がいた。 元上司は、情状酌量を求め、弁護側の証人として法廷に立った。 そして…警察を辞職せざるを得なかった長男は、「お父さんも色々あって辛いだろうが、その辛さに耐えて生きていくことが1つの罪の償いでもあると思う」と、拘置所に手紙を送った。
殺人鬼に落ちた元警察官の谷川は、事件から24年後の2008年、死刑執行を前に獄中で病死している。