2月末の第2回米朝首脳会談は、北朝鮮の非核化と経済制裁の解除をめぐって物別れに終わった。
REUTERS/Leah Millis
2月にスペイン・マドリードの北朝鮮大使館を襲撃した反北朝鮮団体「自由朝鮮」のメンバーの1人が4月18日、アメリカ捜査当局によって米カリフォルニア州ロサンゼルスで逮捕された。この事件をめぐる実行犯の逮捕は初めてだ。
しかし、自由朝鮮はそもそも3月26日に自らの公式サイトで、事件時に北朝鮮大使館から持ち出した「甚大な潜在価値を持つ特定情報」を米連邦捜査局(FBI)と共有したことを認めていた。
また、北朝鮮の金正恩体制の打倒を一貫して掲げる自由朝鮮の背後には、かねてから米中央情報局(CIA)の影が色濃く垣間見れてきたが、自由朝鮮と米当局の間では今、いったい何が起きているのか。
北朝鮮の非核化と経済制裁の解除をめぐって、物別れに終わった2月末の第2回米朝首脳会談以後、米朝間では第3回の首脳会談開催に向けて丁々発止のやり取りが続くなか、米当局は「厄介者」と化した自由朝鮮とのつながりを完全に切ったということなのか。
また、自由朝鮮のリーダーのエイドリアン・ホン氏(35)は2019年2月、自由朝鮮の前身として知られる亡命政府団体の「千里馬(チョンリマ)民防衛」の代表として来日し、東京で脱北者を支援する人権団体の代表と会っていた事実も明らかになった。
この代表は筆者の取材に対し、ホン氏と会っていた事実を認めた上で、「メディアは北朝鮮大使館員の話を前提に、自由朝鮮の暴力行為を書いているが、大使館員はそう言わないと自らの命が危ない。彼らは大使館の暗号PCを奪われ、アリバイづくりをしなければならないからだ」と述べた。
ロサンゼルスで元海兵隊員を逮捕
「自由朝鮮」の代表、エイドリアン・ホン・チャン氏。
出典:「朝鮮インスティチュート」ホームページ
ワシントンポスト紙やAP通信などの報道によると、今回逮捕されたのは、韓国系アメリカ人で米海兵隊出身のクリストファー・アン容疑者。4月18日にロサンゼルスで逮捕され、翌19日に罪状認否のためにロサンゼルスの連邦地裁に出廷した。
米捜査当局は18日にホン氏の自宅を強制捜査したが、ホン氏は不在で逮捕できなかった、とロイター通信は報じた。
少しこの事件をおさらいしよう。2月末にハノイで開かれた米朝首脳会談の5日前の2月22日午後、スペイン・マドリードの北朝鮮大使館が10人の集団に襲われた。大使館員らを拘束している間、集団はコンピューター2台やハードディスク・ドライブ2個などを奪った後、スペインから脱出、その後米連邦捜査局(FBI)と接触し、事件の情報提供に加え、大使館で得たとされる資料を差し出したと報じられている。
その後、3月末、北朝鮮の金正恩政権の打倒を掲げる「自由朝鮮」という組織が、大使館襲撃に関与しているという声明を出していた。
西海岸に多い反軍事独裁の韓国人
1987年に韓国で起きた、全斗煥大統領の軍事政権に反対するデモ。
REUTERS/Tony Chung (SOUTH KOREA)
逮捕されたアン容疑者と、リーダー・ホン氏の容疑は明らかになっていない。しかし、犯罪の捜査権限を持つスペイン高等裁判所の予審判事は3月、事件実行犯10人のうち、ホン氏と韓国系アメリカ人のサム・リュウ氏の2人に対し、不法監禁、強盗、脅迫、窃盗など6つの容疑で国際逮捕状を出していた。
アン容疑者の名前はこの時、挙げられていなかったが、AP通信によると、スペイン当局はその後の捜査でアン容疑者の身元も特定し、同氏に対しても国際逮捕状を出したという。
アン容疑者はロサンゼルスで逮捕され、ロサンゼルスの連邦地裁に出廷。リーダーのホン氏は同じカリフォルニア州サンディエゴの出身だと動画などで自ら語っている。このため、自由朝鮮メンバーの主な活動拠点は、在米韓国人2世らが多いアメリカ西海岸だと筆者はみている。
サンディエゴやロサンゼルスにはもともと、韓国から移住してきた在米韓国人が大勢いる。韓国は1987年の民主化まで軍事政権が続いていたが、その民主化運動に参加して韓国を追われたり、韓国が嫌になったりしてアメリカに移住した韓国人も少なくない。軍事独裁や人権弾圧を心の底から嫌う人々だ。
クリストファー・アン氏とは何者か
今回逮捕された、クリストファー・アン容疑者。
Linkedinの本人プロフィール写真より
今回逮捕されたクリストファー・アン容疑者は、エイドリアン・ホン氏と同様、まだ若い。SNS上でも数多くの「痕跡」を残している。
ビジネス向けSNSのリンクトインに掲載されているアン氏のプロフィールによると、アン容疑者は州立大のカリフォルニア大学アーバイン校で政治学を専攻。その後、同じ州立大で名門、バージニア大学ダーデンビジネススクールで経営学修士(MBA)を取得している。
興味深いのが2000年から2006年の6年間、米海兵隊に就役した経験があることだ。特に2005年から2006年まではイラク中部の激戦地ファルージャで収容施設のチーフアナリストや、キャンプ・ファルージャの情報分析官を務めていた。
北朝鮮大使館事件は当初から、実行犯の手際の良さから軍部もしくはプロ集団によるものではないかという見方が根強かったが、アン容疑者のような海兵隊で訓練を受けた人物が襲撃に加わっていたとなれば納得がいく。
リンクトインによると、アン容疑者は海兵隊勤務後は石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェルにも勤務。能力として韓国語を挙げている。
Q&AサイトであるQuora(クオーラ)にも2014年6月に投稿。バージニア大学ダーデンビジネススクールに行くべきか、ニューヨーク大学スターンビジネススクールに行くべきかをめぐって悩んでいる人に対し、相談に乗っている。ここでのプロフィール写真では、ロサンゼルス・ドジャースの野球帽を被り、ゴールドチェーンを首に着用したどこにでもいる東洋系の若者だ。
代理人は北朝鮮への引き渡しを懸念
北朝鮮に拘束されたアメリカの大学生・オットー・ワームビア氏。昏睡状態でアメリカに帰国し、その後息を引き取った。
REUTERS/KCNA
自由朝鮮は4月19日、初の逮捕者が出たことについて公式サイトで、代理人弁護士を務めているリー・ウォロスキー氏の声明を掲載した。ウォロスキー氏はハーバード大学ロースクール卒で、米大手法律事務所ボーイズ・シラー・アンド・フレクスナーに所属する。クリントン大統領時代とブッシュ大統領時代には米国家安全保障会議(NSC)で局長を務め、テロ対策を担った。
ワシントンポスト紙は、ウォロスキー氏がホン氏の代理人弁護士であると報じている。その声明では、
「米司法省が、北朝鮮政権の刑事告発をもとに導き出されたアメリカ人たちに対し、令状を執行する決断をしたことに失望している。金(正恩)政権の管理下に置かれた最後のアメリカ市民は、拷問で重傷を負って昏睡(こんすい)状態になって帰国し、生き延びることができなかった。
米政府が今標的にするアメリカ国民の安全と無事について、我々は米政府から何らの保障を受けていない」
と述べられている。
声明では、アメリカ人たち(US persons) に対し、逮捕令状が執行されたと述べていることから、逮捕者はアン氏以外にも複数に及んでいるとみられる。また「金政権の管理下に置かれた最後のアメリカ人」とは、北朝鮮に拘束され、意識不明の状態で2017年に戻った後、死亡した大学生オットー・ワームビア氏のことだ。
つまり声明は、自由朝鮮メンバーがワームビア氏のように命を失う懸念を示している。
これに対し、米司法省の報道官はワシントンポスト紙の取材に対し、犯罪者引渡条約は一般的に、当事国間において犯罪人の引き渡しを義務として課すものであり、第3国への引き渡しは、アメリカという当事国の同意なしには行えない旨を回答している。つまりスペイン当局にアン氏らは引き渡されることはあっても、北朝鮮には引き渡さないから安心せよ、ということだ。
事件の主犯格のホン氏は事件後、アメリカに移動し、2月27日にFBIと接触し、事件の情報提供に加え、大使館で得たとされるオーディオ(視聴覚)資料を差し出したとされる。北朝鮮メディアは事件から1カ月以上経った3月31日、外務省報道官のコメントとして大使館襲撃を「重大なテロ事件だ」と非難、「FBIと反体制派が関与している説もあり、注視している」と述べ、スペイン当局に徹底的な捜査を要求した。
しかし、アメリカへの配慮からかアメリカに対する直接的な糾弾はなかった。
なぜ2月に逮捕しなかったのか
FBIは自由朝鮮から情報や資料の提供を受けていた。
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今回の事件をめぐり、実は当初から不可解なことがあった。
自由朝鮮の関与をどのメディアにも先駆けて報じたのはワシントンポスト紙の3月15日の記事だったが、その中で、FBIの報道官は自由朝鮮との接触について問われ、「捜査の存在について肯定も否定もしないのが我々の標準的な慣行だ」と回答した。そのうえで、「FBIは、スペインの法執行機関と強力な提携関係を有している」と述べていた。
しかし、「スペインの法執行機関と強力な提携関係」を強調するのであれば、なぜFBIは2月27日のホン氏との接触時に同氏を逮捕しなかったのか。それどころか、FBIは自由朝鮮から情報や資料の提供を受けた。さらにFBIがスペイン当局にホン氏との接触を報告したのは、その数日後だったとされる。
今回のアン容疑者の逮捕には、アメリカの2つの姿勢が感じられる。一つはアメリカの北大西洋条約機構(NATO)同盟国の一員、スペインとの関係維持を重要視したこと、もう一つ、北朝鮮に対しては米政府が自由朝鮮とは関係なく、北朝鮮との対話続行を求めていることだ。
ロイター通信は4月16日、FBIは自由朝鮮から受け取ったスペイン駐在北朝鮮大使館の物品を、スペインの裁判所を通じて北朝鮮大使館に返還した、と報じている。
ホン氏の逮捕はあるのか
金正男氏がマレーシアで殺害された事件で、殺人罪に問われていたベトナム人のドアン・ティ・フォン被告。
REUTERS/Lai Seng Sin
しかし、自由朝鮮とアメリカ当局との関係は色濃く見える。自由朝鮮の前身として知られる亡命政府団体の「千里馬(チョンリマ)民防衛」は、2017年2月にマレーシアで金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄、金正男氏が殺害された後、正男氏の息子のハンソル氏とその母親、妹の3人をマカオから安全な場所に移動させた。
ワシントンポスト紙によると、その際、アン容疑者も千里馬民防衛の一員として、ハンソル氏一家の救出劇に関与していたことを、代理人のウォロスキー氏が認めている。
3月28日付の韓国の東亜日報は、そのハンソル氏が米情報機関の保護の下、今もアメリカに滞在していると報じた。マカオからの脱出時、当初はアメリカではなく、別の「第三国」に向かう予定だったが、経由地の台湾の台北空港での手続きが1日以上遅れる中、CIAが介入し、アメリカに連れて行ったという。
さらに、自由朝鮮リーダーのホン氏は、「アラブの春は北朝鮮にとってのリハーサル」との考えの下、2011年にリビアを訪問。カダフィ大佐追放後のリビア暫定政府の樹立を手助けするため、米政府とコンサルティングの契約を結んだ。そして、ホン氏のコンサルティング業務にはしばしばCIAが絡んできたとされる。
自由朝鮮は襲撃事件犯行を認める3月26日の声明で、ワシントンポスト紙の報道を示唆しながら、「情報がメディアにリークされていることは信頼の重大な裏切りだ」と米当局を非難している。
北朝鮮大使館襲撃事件など大胆な行動で世界の注目を集めてきた自由朝鮮だが、米当局との関係悪化を機にその活動はいったいどうなるのか。
米捜査当局がホン氏の逮捕にまで踏み切るのかどうか。あるいは逮捕に至らず、今後もCIAの外部コントラクターこと「傭兵」として温存されるのかどうか。これによって、足元の米政府の北朝鮮に対する姿勢も如実になるだろう。
高橋 浩祐:国際ジャーナリスト。英国の軍事専門誌「ジェーンズ・ディフェンス・ウィークリー」東京特派員。ハフィントンポスト日本版編集長や日経CNBCコメンテーターを歴任。