好きの定義、とは一体どのようなことを指すのだろうか。もっともそんなことは人によって違う訳であるから、明確に定義できるものではないとは分かっているけれど、何故だか僕はそんなことを考えてしまう。
例えば僕は『その人がいないと寂しい』とか『その人が悲しいと自分も悲しい』と思うことが好きということだろうな、と漠然に考えているけれど、それが全てという訳ではないし、「なぜそう思うのか?」と問われても「なんとなく…」と曖昧なことしか答えられない。だけど僕にとっては、それが人を好きと思う定義なのだと知っている。というよりも、それ以外に人を好きになる方法を知らないだけなのかもしれないが。
もちろん僕の考えを否定する人がおわしますことは知っている。常軌を逸した愛し方も確かに存在していることは歴史が証明している通りだ。我々人類は何十億とも存在しており、尚且つ個々人が『豊かな想像力』を有している。そこにあって生まれた時代が違う、場所が違う、環境が違う、そして、遺伝子が違う。そんな中にあってたった一つでも同じ考えが存在するなどということは、天文学的な確率でありえないのだ。
ともあれ、そんな人の数だけ存在する愛し方をたった僅かばかりしか知らなかった僕は時折、戸惑うような愛を受けることがあった。
「わたしのこと、好き?」
人類有史、男と女の間で聞かれなかったことがないであろうセリフだ。こいつはかつて、僕が愛した女性も吐いた言の葉である。
「もちろん好きだよ」
様式美のようなそのやりとりに、心が温かくなるのを感じた。好きな人に好きと伝える行為は、どうしてこんなにも嬉しくなるのだろう。僕らは付き合っている訳なのだから、好きかどうかなんて質問は、相手から好きという言葉を聞きたいだけの、いわば確認行事なのだ。彼女は好きと言われて嬉しくなる。僕は好きと伝えて嬉しくなる。約束された幸せが、そこには確かに存在した。
「じゃあ、わたしのおしっこ飲んでよ」
突然になるが、これもかつて僕が愛した女性の口から紡がれた言葉だ。
君が「好き?」と聞いたから、僕は「好き」と答えた。それはとても当たり前のことなのだけど、そんな当たり前のことが当たり前であることが、一体どれだけ幸せなことなのか、果たして君は知っているのだろうか。君は好きかと聞いた。僕は好きだと答えた。そこには、確かに愛があった。それこそが愛なのだと僕は知っていた。じゃあ、その先は?愛を確かめ合った、その次は…?
「じゃあ、おしっこ飲んでよ」
あいや待たれい!!一体何が「じゃあ」なんだ?!イントロから始まるクライマックス。そいつを間近で聞いた時、僕は言葉と思考を失う。愛とは何か。そんな面倒なことを考える生き物が人間以外に存在するだろうか。否だ。では何故人間はそんなことを考えるのか。それは人間が『考えることが出来る生き物』だからだ。そこにあって、思考と言葉を失った僕は、一体何か。
「な、なんで…?」
なんで?そう言わずにはいられなかった。いや、そうとしか言えなかった。だってそうだろ。この世に生を受けて四半世紀。その中で一度だって『おしっこを飲みましょう』なんて教えてくれた人はいなかった。むしろおしっこは飲んじゃダメだと教えられたんだ。
「な、なんでおしっこを飲むの…?」
『分からない事があったら、ちゃんと聞きなさい』幼い頃に母が教えてくれた言葉を思い出す。『分からないことを分からないままにしてはいけませんよ。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。なんですからね』優しく微笑むお母さんの顔。そこには確かに、愛があった。お母さん、元気ですか。僕は元気です。そっちはどうですか?僕は、おしっこを飲まされそうです。
「だって好きなんでしょ?じゃあ飲んでよ」
人の愛し方。そいつをたった僅かばかりしか知らなかった僕は、酷く狭い世界にいた。異なる教義は相容れない。おしっこは飲んではいけない。好きな人のおしっこは飲まなければならない。脳裏を走るおしっこパラドックス。
「い、いやだ…」
何が正義で何が悪なのか。それは誰にも分からない。誰かが言っていた。『正義の反対は悪なんかじゃない。正義の反対は、また別の正義なんだ』確かにそうなのかもしれない。物事は観測する立ち位置で容易に反転するものだ。人の愛し方は一つではなく、人の数だけ存在する。あなたは正しい。僕も正しい。みんな正しいんだ。
「なんで飲んでくれないの…?」
悲しそうに言う彼女。なんで?それは奇しくも、先程僕が発した言葉と同じ言であった。確かに、おしっこを飲んではいけない理由を、果たして僕は考えたことがあっただろうか…何故人はおしっこを飲んではいけないのかを、僕はちゃんと考えたことがあったか?おしっこを、あいつのことをちゃんと見てあげたことがあっただろうか。いや…認めよう。僕は今まで何故おしっこを飲んではダメなのかなんて、考えたこともなかった…いや、だってそうだろ?!おしっこは飲み物ではないし、僕は便器でもないんだ。
月日は流れ、恋が思い出に変わる頃、僕はふと彼女のことを思い出す。そして彼女を偲び、思う。僕はちゃんと彼女のことを愛せていたのかな…と。結局僕は最後まで彼女のおしっこを飲むことはなかった。僕は彼女を愛していた。愛していたはずだ。今はもうそうではないけれど、愛していたんだ。と思う反面、おしっこを飲まなかった僕に愛していたなんて言う資格があるのだろうか。とも思う。僕が飲尿を断った時、彼女は僕から愛されていないと思ったのかもしれない。彼女にとってはおしっこを飲むということが愛の形だったのかもしれない。だけど、僕にはもうそれを知る術はない。
ただ、僕がおしっこを飲まないと言った時の彼女の顔は、とても寂しそうで、思わず僕も、寂しくなった。それは愛だと、僕は知っている。