草本利枝

部落差別に抵抗した人々 その歴史が刻まれた京都のまちを行く

4/23(火) 9:47 配信

トンネルを抜けて、東京からの新幹線が京都駅へと減速していく。鴨川を渡ると、車窓から金網に囲まれた空き地と、古い団地が見える。京都は今、観光客であふれ、京都駅周辺はホテル建設ラッシュに沸く。観光地へ急ぐ人たちは通り過ぎてしまうが、京都には部落差別に抵抗した人たちの歴史も刻まれている。部落差別は、地名を明記して地区の現状や未来を語ることさえ、抑圧してきた。再開発の波にさらされ立ち退きが迫る京都駅前のまちで、出身地を隠すことを強いられてきた人たちに、まちへの思いを聞いた。(京都新聞社・岡本晃明/Yahoo!ニュース 特集編集部)

迫る「改良住宅」からの退去

京都の人気観光スポット「三十三間堂」は、JR京都駅から東へ歩いて行ける。その途中、鴨川に架かる橋の手前には、フェンスに囲まれた更地と工事現場が目立つ。ここ「崇仁(すうじん)」と呼ばれる地域では、再開発が進む。

その一角に淡いグリーンの古い洋風の建物が見える。「柳原銀行記念資料館」という。明治時代、被差別部落の人たちが地域振興のために自ら設立した銀行の遺構だ。

崇仁地域は大正時代、被差別部落の人たちが誇りを取り戻そうと、差別撤廃に団結した「水平社運動」の拠点で、全国仮本部が置かれた。「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と呼び掛けた日本初の人権宣言「水平社宣言」は1922年、京都市内で採択されている。そうした運動の関連資料は、柳原銀行記念資料館で保管されている。

資料館のそばに5階建ての団地がある。戦後、部落差別をなくすための同和行政で建設された「改良住宅」だ。世帯向けで広さ35平方メートル。エレベーターも風呂もない。住民は、「市ブロ」と呼ばれる同和対策事業で建てられた市営浴場に通う。

空き室が多い改良住宅の「崇仁市営住宅」。京都市内の改良住宅は約4500戸、75%に浴室がない(撮影:草本利枝)

築50年になる棟で一人住まいする高橋のぶ子さん(83)は、夫とともに、ここで子ども2人を育ててきた。勉強机を置くスペースはなく、こたつに家族全員は入れない。

改良住宅の建設前を高橋さんが振り返る。

「路地の8軒長屋で共同便所、共同ポンプの水場が一つ。子どもがどこの家も多かったから、朝はトイレの順番待ちで、『早よ出え』ってけんかになるし、雨の日はぬかるみの路地で傘をさして水汲みをしたもんです」

1960年代、自宅前の高橋のぶ子さん=右端(高橋さん提供)

部落解放運動は1950年代に高揚し、住環境の改善を行政に求めた。高橋さんは生活と子育てに追われる中、解放運動と出合った。

「路地裏集会へ行くと、夫が怒ってな。部落差別では『寝た子を起こすな』という風潮があったから。集会や識字教室に行くときは、夫に『お風呂行ってくる』とうそをついて、洗面器持って出たもんや。改良住宅ができるのが、そら楽しみやった。工事を毎日見に行った。家ごとに蛇口があって、トイレもあって。極楽やなあいうて」

1950年代の崇仁地域(柳原銀行記念資料館提供)

京都市は、郊外にある京都市立芸術大キャンパスを2023年に崇仁地域に全面移転する計画を進行中だ。駅東部を「文化芸術都市」のシンボルゾーンに、と掲げる。芸大移転に伴い、高橋さんたちが暮らす改良住宅の古い七つの棟や「市ブロ」は取り壊される。崇仁地域内に新設される市営住宅へ転居する日が迫る。

「納得できん、と言うてん、最初は。一人やったらここで十分や。思い出もあるしな。建てるまでの運動を思ったら離れたくない。でも崇仁の人口も減っているし、しゃあないなとも思う」

脚が不自由な高橋さんは、団地の階段がつらい(撮影:岡本晃明)

高橋さんは2年前、転倒して脚に障害が残り、階段の上り下りがつらい。新築の市営住宅にはエレベーターや風呂も完備される。それでも「納得できない」というのは、行政にほんろうされたまちづくりへの思いがあるからだ。

京都駅東側に密集していた劣悪な家屋やバラックを、京都市は1960年代から本格的に撤去してきた。指定した全域を市が買い上げ、同じ地区内に新設する改良住宅に、賃貸で入居してもらう「クリアランス」方式を取った。指定区域が広い崇仁地域では買い上げが難航、バブル期に地上げ業者が暗躍したあおりも受け、先行取得した市有地が更地のまま、虫食い状態で放置されている。

それが人口流出の一因となった。崇仁地域には改良住宅が計22棟、約1000戸。空き室が目立つ。かつて9000人だった人口は激減し、1400人に。半数近くは高齢者だ。

78歳の女性は「ここでは顔見知りがいるけど、立ち退き後の市営住宅ではどこに入居するか抽選だから、誰が隣にくるのか分からん。この年齢だと不安やねえ」と話した。

退去が相次ぐ崇仁地域の改良住宅(撮影:草本利枝)

片岡親樹さん(72)は3年前に脳梗塞で倒れ、右脚が不自由だ。「新しい市営住宅に移ったら、家族が独立し、今は単身なので、入居要件で狭い部屋になるかもしれん。家族分の家具があるのにどうしたらええんや」と言う。「でも、今のままでは街は高齢者ばかりになる。芸大移転で若者が来てにぎやかになることを期待している」

芸大移転に伴う改良住宅立ち退きに、簡単に○か×の賛否で割り切れない思いがある。

一代限りのまち

2006年までに国土交通省は、公営住宅の家賃について「応能応益負担」や入居基準見直しを打ち出した。改良住宅を公営住宅と同じ扱いにできるよう変え、これが旧同和地区の改良住宅に暮らす人たちを揺さぶった。

公営住宅制度は低所得者層への住宅対策だ。何世代も定住する想定ではなく、住み替えを促すよう制度設計されている。事実上「一代限り」の施策だ。

一方、改良住宅は「住宅地区改良法」に基づく。公営住宅とは別の法律だ。同和地区などの劣悪な家々を街並みごと行政が取り壊し、代わりの住居を提供する制度で、入居資格には収入制限も同居親族要件もなかった。

高橋さんは改良住宅に入居したころ、こんなまちになるとは想像していなかった。

エレベーターがない改良住宅(撮影:草本利枝)

「ずっと住み続けられると思っていた。孫たち世代、子ども世代も、地域の人たちが住み続ける街や、と思っていた。今は家賃が応能応益負担で、所得があるほど高い家賃になった。お風呂もないこんな狭いとこやで。若い世代が住めん。そりゃ出て行かはるわな」

子どもたちが成人していったん地区外で暮らすと、低収入世帯という入居要件が、Uターンしたくても壁になる。入居者が亡くなった際、改良住宅では親族が引き継げたが、京都市は国に従い、「同居1年以上」などと厳格化した。同居して親を看取ったものの、同居期間がわずかに1年に足りず、退去を迫られた人もいる。

根強い部落差別と重なって、子育て世帯の減少が止まらない。

高橋さんは言う。

「応能応益にしたのはおかしい。ここは改良住宅で、差別から取り戻したんや。いつの間にか一般公営住宅になった。京都市は全戸にチラシ配って説明したというけど、字が読めへんとこにチラシ入れたところで、丁寧に目通す人いうのは少ない。今でもそうや」

高橋さん(撮影:草本利枝)

改良住宅の建設ラッシュだった1960年代の被差別部落では、読み書きができず、入居契約書を読めない人も多かった。差別による貧困で学校に満足に通えなかった人たち。子どもが学校で渡されたプリントが読めない人、目的地の地名が読めずに駅の自動券売機を使えない人……。バスの行き先案内が分からず、無理をしてタクシーに乗る人が今もいる。

読み書きは「識字教室」で学んだ

崇仁地域では今も毎週土曜日、「識字教室」が開かれている。通うのは70代以上の高齢女性5、6人。何十年と通い、達筆な人がほとんどで、今は習字や手芸を楽しむ憩いの場だ。

高橋さんは30代だった1972年、子育てや箱にマッチを詰める内職に追われながら、地域の女性たちと「崇仁識字学級」を立ち上げた。

「最初に習った字は、なぜか『うま』という字やった。馬の絵を先生が見せたんや。ひらがなから一つずつ(教わった)。ぜんぜん書けへんかったから」

崇仁地域で1970年代から続く識字教室(撮影:草本利枝)

高橋さんは当時の作文にこう綴っている。

私は識字学級に通って、一字一字勉強しても、十文字ならっても三文字しか覚えられません

字をしらないことは、話すこともひかえめで、これも言っておけばよかったとあとでこうかいすることが多くあります。自分の子供だけは、こんな悲しみをさせたくないと思う気持ちが、何か私をさみしくしていく。なせ、こんな差別が出来たのだろう

差別で奪われたものと誇りを取り戻すため、文字を刻み、この地でひたむきに歩んできた歴史がこもる。

各地の識字教室は1970年代半ばから、行政が同和地区の隣保館(現コミュニティセンター)で運営するようになった。当時の教材を京都部落問題研究資料センターが所蔵している。

ひらがなの書き順から始まり、「府庁前(ふちょうまえ)」「祇園(ぎおん)」といったバス停の読み方を学んだことが分かる。作文のテーマ例には「しごと・楽しい・失対・苦しい」とある。失対とは失業対策事業の略語。日雇い労働する意味で使われた。被差別部落の暮らしに密着した言葉を教材にしたことがうかがえる。識字教室で学んだ人たちは、運転免許や調理士の資格を取り、就職につなげた。

芸大移転に伴う新しい市営住宅の建設工事(撮影:草本利枝)

識字教室に通い始めて3年目。高橋さんの作文には、京都市内の別の被差別部落のお年寄りから聞き取った内容が綴られている。

どろんこによごれてお風呂に行くと、外の風呂場は入れてくれない。「きたない人は、みんな部落民だけや」とののしられてきた。このように、きたながられてきたが、ようやく地区の中に風呂が建てられた。そのときのうれしさは、口では言いあらわすことができないほどだったそうです

わしらが子どものころは、子守りが仕事で、雨のふる日はお寺の門が、もりの集まる場所になっていた。せなかの子が泣くと、やかましいといって、門を追い出されるので、せなかの子と、もりとがいっしょに泣くことも多かった。みんなが苦しく悲しい中で、ふと出たことばから子守り唄をつくってうとうたもんや

おばあちゃんたちは、目をしょぼしょぼさせながら、たくさんの話をしてくれます。その顔のしわや、手の先まで、部落差別の長い長い苦しみがしみこんでいるのです

この作文の終わりには、高橋さんが採録した「盆がきたとて なにうれしかろ」の子守唄がある。フォークグループ『赤い鳥』などがアレンジし、『竹田の子守唄』としてヒット曲になった。

京都市立芸大の移転予定地(ドローン撮影:安達雅文)

いま、全国の「旧同和地区」で人口減が起きている。

高橋さんは言う。

「追い出せば、出て行けば差別問題がなくなるという考え方は誤っている。生まれ育ったまちの名を、なんで隠さなあかんのや」

父の「すいろう」

崇仁地域に育った藤尾まさよさん(62)は4年前、「崇仁発信実行委員会」を立ち上げた。キャンパス移転を控えた市立芸大生らと一緒にフリーペーパー「崇仁~ひと・まち・れきし~」を発行。「ちょぼ焼き」といった崇仁で親しまれてきた料理、さまざまな商店の紹介だけでなく、人々が部落差別の中で生き抜いてきた歴史を伝えている。

そのフリーペーパーには、実名で、笑顔で、地域の人たちが登場する。藤尾さんは「ふるさとの名前を声に出したい。差別の中で出せなかった声を記録に残したい」と話す。

藤尾まさよさん。母校の崇仁小学校は児童数減で閉校した。校舎は芸大移転に伴い、解体される(撮影:草本利枝)

藤尾さんは実名で差別体験を語り、崇仁まち歩きの案内人を務める。小学生の頃の思い出。それはこんな内容だ。

両親は文字も書けないので就職ができず、日雇いの肉体労働で、顔を日焼けで真っ黒にして働いてました。懸命に働いて、やがて父は水道配管の仕方を覚えました。ある日家に帰ると、電話がひいてありました。貧乏な家に立派な電話なんて! 電話脇の壁に大きなカレンダーが貼ってありました。水道配管の仕事が入ったのでしょう、カレンダーに「すいろう」と書いてありました

わたしも姉も学校に通わせてもらってるので文字を知っています。私たちは「すいろう」の字を指してゲラゲラ笑ったのです。「あほちゃう、ホンマは、すいどう、やで! そんなことも知らんの?」。父は恥ずかしそうにして、わたしたちの前からいなくなりました

本当は「すいどう」です。でも父は、自分の耳に入ってくる音の中で、自分の知っている文字を並べて書くのです。小さい時から働いて働いて、やっと結婚できて、そして働いて、子どもが生まれ、かわいいわが子から、文字を書けないことをばかにされる。その「すいろう」という字は、その時の父の精一杯の文字でした。わたしはそんな親の痛みを知ろうともしませんでした

更地が広がる崇仁地域(撮影:草本利枝)

藤尾さんは、講演会でも語っている。

母は口癖のように、「まちの人は怖い」と言ってました。まちの人とは、同和地区外の人のことを言います。私は自分の出身を隠すため地元から遠いデパートの高級服売り場で働き始めたんです。
ある日、崇仁在住の顔見知りのおばちゃんが来店しました。「ええとこに就職したんやな、よう頑張ったな」と、わがことのようにうれしそうにおばちゃんが話しかけてくる。でも心の中で「ここはあんたらの来るとこやない。私が同和地区出身ってばれるやん。もう帰って」と考えていました。生まれた町から逃げ、家族から逃げ、自分自身からも逃げていた

藤尾さんはかつて、長く交際していた男性から結婚を申し込まれた。だが、男性の母は「地区外の女性と結婚させたい」と反対。藤尾さんは絶望し、自殺を図ったという。

その後、別の男性と結婚しましたが、差別のこともあって離婚し、9カ月の子どもを連れ崇仁に帰りました。仕事も結婚もうまくいかず、「こんなとこに産みやがって! お前らのせいや!」と親を責めたこともあります。(自分の)子どもが中学生になりPTA活動をしていたとき、差別にあった中学生が「どんなにがんばってもあかん。どうせ僕らを認めてくれへん」と叫ぶのを聞いて、鳥肌が立ちました

柳原銀行記念資料館について、人権研修参加者に説明する藤尾さん。右手奥に京都タワーが見える(撮影:草本利枝)

たった15歳なのに部落差別で人生をあきらめる。いや、あきらめさせられる……生徒たちの姿が自分の人生に重なり、部落差別への怒りがこみ上げて。やっと47歳から人権学習を始めました。「同和地区出身だから差別されても仕方ない」との偏見をそのまま受け入れ、私が私自身を差別してきたことに気付かされた。すり込まれた考え方に縛られ、社会の中に差別を生み出していたのは、知ろうとしてこなかった私自身だったのです

「知らない」ということは本当に残酷です。そして「知ろうとしない」ということは、結果的に人間に残酷なことをさせるんだなと思います

ネット時代の部落差別

差別の実態を伝えるのに「差別語」や、向けられた罵倒の言葉を記事にしていいのかどうか。部落解放運動は戦前からメディアの差別表現を告発してきた。1951年、雑誌の小説が、崇仁地域を含む駅周辺の地名や実名を明記して、暮らしぶりや特定職業などを「暴露小説」と銘打って描写。今のマスメディアは使わない「差別表現」を繰り返し用いた。雑誌名から「オール・ロマンス事件」と呼ばれる。怒りの声は大きなうねりになり、行政責任も糾弾して戦後社会運動の転換点になった。

1950年代の崇仁の祭り。一時途絶えたが90年代に復活させた。崇仁のお囃子は、差別で他地域の祭礼から排除された歴史と抵抗の象徴だ(住民提供)

被差別部落の地名が拡散される恐れは今、高まっている。情報化の進展を踏まえて2016年、「部落差別解消推進法」が制定された。

メディアが被差別部落の地名を特定し報じると、「○○さんは部落の人」といった差別を助長し、再生産する恐れがある。逆に報じないと、今もある差別や同和対策事業終了後の課題が、解決済みの過去として忘れさられてしまう。

インターネット上に繰り返される差別的な書き込み。京都駅東部エリアで、新聞紙面に実名で出たことがある人たちからも、こんな胸中を聞いた。

「ネットに写真が出るのは怖い」
「名前を伏せて」

この記事では地名や匿名扱いについて悩み、検討を重ねた。京都駅東部には他府県から移り住んだ人たちも、在日コリアンの人も多く暮らしてきた。同和問題の面だけ語ると、地名に刻まれたさまざまな人の足跡を消し去る危うさも伴う。

1990年前後から崇仁地域では、歴史を語り継ぐ住民運動が立ち上がった。それが被差別部落の歴史を隠さず、藤尾さんたちが誇りを持って語れる土壌となっている。柳原銀行遺構も解体計画から保存運動が守った。

京都市立芸術大などの移転完了後のイメージ。左側がJR東海道線=「京都市立芸術大学及び京都市立銅駝美術工芸高等学校移転整備基本設計」より

「市ブロ」、市営崇仁第三浴場に行ってみた。

かつては同和対策事業で民間の銭湯より格安だったが、同対事業が打ち切られた今は京都市内の銭湯と一律の430円。男湯の扉を開けると服を入れた脱衣籠が三つ。お年寄りが「兄ちゃん、石けん持ってんのか? シャンプーは?」と声を掛けてくる。湯気でけむる風呂場に、顔なじみ同士の世間話がこだまする。「なじみの飲食店も市ブロも、芸大移転でなくなるそうや」。市営住宅への転居を待たずに地区外へ去った人のうわさ。高い天井に反響してよく聞き取れない。こだまするのが楽しいのか、女湯から子どもたちがオオカミの遠吠えをまねる声がする。

「昔の市ブロはぎょうさんの子どもで、そらぁにぎやかやったで」

(肩書、年齢などは取材時のものです)


京都新聞社
1879(明治12)年に創刊。京都府と滋賀県全域をカバーしている地元紙。https://www.kyoto-np.co.jp

〔記事〕
京都新聞・岡本晃明
〔写真〕
撮影:写真家・草本利枝
ドローン撮影:京都新聞・安達雅文
提供:高橋のぶ子さんほか


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