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【社会】

<平成という時代>自衛隊の海外派遣 戦死ゼロ 運が良かった

2001年、インド洋に向けて出航する海上自衛隊の護衛艦「くらま」(手前)と「きりさめ」=長崎県の佐世保湾沖で、本社ヘリ「まなづる」から

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 「これは集団的自衛権の行使そのものだ」

 米中枢同時テロ直後の二〇〇一(平成十三)年秋、海上自衛隊が米軍支援のためにインド洋へ向かう際、自民党国防族の理論派は筆者に言い切った。海自は米国の対テロ戦争に必要な物資を補給する「兵站(へいたん)」を担うことになっていたからだ。

 テロから一カ月半で成立したテロ対策特別措置法に基づく海自の任務は、主に米艦艇への給油だった。戦闘には参加せず、敵の姿すら見なかっただろう。だとしても、任務が戦争の一部だったことに疑いの余地はない。平成日本は戦争をしなかった-。そう胸を張っていいかどうかは微妙だ。

 当時の小泉政権は米軍支援を戦争参加とは位置付けなかった。「非戦闘地域」で行う「後方支援」にとどまると説明した。前出の国防族議員は後に防衛相を経験し、冒頭の持論は今に至るまで封印している。

 平成は冷戦の終結とともに始まった。最終戦争につながりかねない米ソの対立が緩んだ結果、地域紛争が相次いだ。米国と国連は国際秩序の再構築を図った。すでに経済大国だった日本は米国から軍事面でも国際貢献を求められた。平成は自衛隊の海外派遣を巡る葛藤の時代になった。

 最初の難題は一九九〇年夏、イラクのクウェート侵攻だった。日本政府は米国をはじめとする多国籍軍の軍事介入を見越し、後方支援を可能にする国連平和協力法案を国会に提出した。だが、法案は平和憲法に反すると批判を浴び、廃案に追い込まれる。

 湾岸戦争後、解放されたクウェートは多国籍軍の参加国に謝意を表す広告を米紙に出し、巨額の資金協力をした日本には言及しなかった。「カネだけでは駄目だ」。この一件は、政府が自衛隊を次々と海外に派遣していく口実になった。

 〇三年のイラク戦争の際には、テロ特措法の「陸上版」を新たにつくり、自衛隊の任務に復興支援を加えた。戦時の陸地に安全な場所はない。「非戦闘地域」だったはずの陸自の宿営地にロケット弾が着弾した。派遣を主導した自民党幹部は後に、自衛隊に死者が出なかったのは「運が良かった」と筆者に漏らした。

 「大義なき戦争」に対する支援は、いよいよ憲法との整合性を繕えなくなった。名古屋高裁は〇八年四月の判決で、空自による武装米兵の輸送を違憲と断じた。イラク派遣は日本の平和主義に汚点を残した。

 かろうじて踏みとどまった点を挙げるとすれば、平成の自衛隊は一人も直接は殺さず、殺されなかったことだ。危険な場面はあったが、幸運に救われた。国際紛争の度に新法制定を繰り返し、国民的な議論を重ねたことが、部隊運用の歯止めになった側面もある。

 今後、海外派遣の根拠は安全保障関連法になる。自衛隊が「あらゆる事態」に対処できるようにあらかじめ規定し、より危険な任務も解禁した。令和の自衛隊は「殺さず、殺されない」ままでいることができるだろうか。 (竹内洋一)

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