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2017/01/26 13:15
年末年始という事もあり前回の記事より少々時間が空いてしまいました。避難当時の状況を書こうと思います。
避難当時はパニック状態の方々、また避難のスピーカーを聞く事の無かった方は、そんなに大変な事が起きてるとは夢にも思っておらず、津波で家が流される事の無かった方は、家の片付けをやっていた事でしょう。
私達は、車2台に家族9人が分乗し、津波の後の道を走り、川俣方面へと昔ましたが途中から渋滞になり、川俣へ到着した時にはすでに夜。通常1時間の道のりに3時間もかかってしまいました。それを「30分以内で退去!」とはいかに無謀な事をスピーカーしていったのかと、話をしながら、でも、子供たちも乗って居るのであんまり不安を感じさせない様にと言葉にも気をつけながらの会話が続きました。
避難に向かった「川俣地区」には知り合いも、身を寄せる場所もない為に、私達は更に川俣から37km先の、私達もち処木乃幡の福島店に行く事にしました。渋滞は続いています。到着したのも夜の10時を回っていました。その日は地震の影響で電気の付かない店舗の休憩室に、毛布2枚を子供たちとおばあちゃんにあづけ、私達は椅子でジャンバーを着たまま仮眠をとりました。暖房の無い3月の寒さが、今でも身にしみております。
翌日、避難指示を仰ぎに福島市役所に向かいましたが、市役所は避難で来た方々でごった返しておりました。とりあえず近くの公民館に行く事になり、3月13日は少しは暖かい所で寝れそうだとホッとした所でした。
避難先は仮説で設営された為に、公民館員の方々はまだ連絡も受けていない状態で、慌てふためいておりました。そして、私達は背に腹は変えられないと、毛布と食べ物を分けて頂けないかと、子供たちを連れて家を一軒一軒頭を下げて歩いた覚えがあります。いただいた厚手のジャンバーが、今でも手元に残っています。感謝しても感謝しきれない人の温かさを感じました。
そして、翌日3月13日は避難場所変更の指示。その公民館から近くの体育館へ移動する事になりました。体育館では1家族にダンボールと畳2枚を配布していましたが、家族9人分として畳4枚をもらいなんとか場所の確保をした所でした。日中も食料とガソリンの確保に走り回り、緊急の事態に備えて居ました。その備えが役に立つ時がその日の夜中に起こりました。
続きは次回。
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