アゴラで

インターネットはアグレッシブな性善説なのだという。
アメリカから遙々やってきて、挨拶と、おお元気かや、のハグもそこそこにいきなり、どうやら話したくて仕方がなかったらしいことをまくしたてはじめる。

だいたい、プライバシーが必要だとか、考えが間違ってるだろ?
邪悪な人間だけがプライバシーを必要とするので、善意をもって暮らしていれば隠すものがある個人なんて、そうそうないはずだ。
インターネットは基本的なデザインがプライバシーを前提としていない。
あんな20世紀的な理屈をもちこまれては、やれることもやれなくなってしまう。
おれはもうジジイやババアの古くさい頭に付き合うのは、うんざりだ。

この人は贅沢な人なので他のまともな旅行客のようにコンベアの前でスーツケースが出てくるのを待つ必要はない。
一緒にわしのクルマまで歩くが、そのあいだもずっと、育ちがよいので口角に泡をためたりはしないが、すごい勢いで話しています。

あんたはMG42か。

グーグルが中国政府に買収される日、という有名な冗談がある。
純粋にマーケティング用のビッグデータだから大丈夫、グーグルにストアレジや検索や、というふうにどんどん頼っていくのは、なんとなくよくないのは判ってるが、便利だし安いからドロップボックスから移行するか、と言っているうちに、よく見てみると朝起きてから夜寝るまで、どこにいてなにをしていて、もっと悪いことには何を考えているかまで全部グーグルに判ってしまうようになって、オンラインで把握された状態になっているところで、グーグルがポンッと中国政府に事業全体を売ってしまう。

でも、普通の人間は中国政府に把握されて困るプライバシーなんてもってないだろう?
と、言う。
あるいは、21世紀の後半は、プライバシーに価値がある0.1%以下の人間と、「その他」に分かれていくだろう。

ラウンドアバウトで左側から進入してくる、おっそろしい運転のインド人風のおばちゃんがいるのでクラクションを鳴らして、あーびっくりした、と述べているあいだも、こちらの動揺には一向にかまわず、インターネットがいかに本来の革命性を発揮できないでいるかを滔滔と述べ立てる。

性善説は長いあいだパッシブな立場に立たされる考えだったが、インターネットによって性悪説を圧倒するちからを持つようになった。

アナーキズムは建設性をもたない政治思想にすぎなかったがインターネットの登場で、国権主義はもちろん、政府そのものを否定しうる道が出来てきた。

高速道路に入ったので、返答する余裕が生まれている。

話は、いつのまにかブロックチェーン理論で変わる社会に寄り道している。

銀行はなくなるのがたしかなわけだけど、他にはどんなものがあるかな、ガメ、きみなら想像力がCGみたいなやつ(←どういう意味だ)だから、クリアなビジョンが頭にあるんでないの?

銀行や不動産会社というものが存在できなくなるのは、まことに祝着の至りだが、ITと組み合わせて個々の人間がブロックチェーン理論による評価の紐付きになるのは、なんとなく滑稽で可笑しい。

日本の人相手にね、そのうち頭の上に偏差値の小旗をつけて歩くようになるのではないかと軽口を利いたことがあるが、あの国とかは、AR的に実現してしまいそうだよね。

ぴんぽーん。

ガメ。
35歳。

年収5円

思想的に素行不良

なんちゃって人の顔をみるたびに、その人の思想傾向や年収や最近起こした主な不祥事および不穏な言動について表示される。

そうするとさ、「前科」みたいな情報というのは、情報量が小さい時代の区分になって、もっと詳細で連続的な評価になるのだろう。
横断歩道でないところを先週は5回渡っているとかね。

ビッグデータを始点とするテクノロジーが発達していくと、かなりあっというまに、そのデータを人間が見るかどうかは問題でなくなってくるわけだよね。

人間の頭脳の処理能力では、いずれにしても処理できない量の大量のデータが個々の人間について瞬間的に、例えば、航空機搭乗券取得の優先順位をつけるために処理されて、あなたはいま乗れます、あなたは来月まで待つべきだ、というふうになってゆくだろう。

AIとデータテクノロジーが結びつくと民主制のようなものは無効になっていくことが予想される。

高速をおりて、オークランド名物のばかばかしさ、都心に直通の高速道路が存在しないのでエプソンの町並を通り抜けるころになると、民主制が情報テクノロジー革命を生き残れるかどうかや、技術革命がパラダイムシフト化したことによって近代哲学が再検討を余儀なくされるだろう予測に話が移行している。

途中では、ある朝、紙の新聞をカフェで広げてみたら自分の父親が労働者の敵として盛大に攻撃されていた、という笑い話をしたりして、ひっきりなしに話をしながら笑いこけたりしているうちにわし家に着いた。

ニュージーランドに主にいて、ときどきメルボルンの家に出向く程度の生活をしばらく送ることにしたのは、子供と朝から晩までべったり一緒にいて、犬さんの父親なみというか、ほっぺたを鼻でくちゅくちゅしたりして、子供がいつも親に抱っこされている日常をおくりたかったからだが、ひとつには揃いも揃って議論が大好きで、ひとの顔をみると議論したがって、見えない尻尾が激しくふられていそうなお友達に、日常、恐れをなしているからでもある。

自分では、頭の回転がのおんびりなせいもあって、あんまり議論を好んでいるとはおもえないが、どうも向こうから見ると、よっぽど議論をしかけたくなる体質であるらしい。

いまはちょうど世界が音を立てて変化しているときで、しかも加速がついて、ついていけない国や社会、あるいは個人ですら、どんどん後ろに置き去りにしている。
中国に焦点をおいてみると、その遠くに見えている理由が「やがて絶対的に不足する資源」にあることは、はっきりしている。

どういうわけか昔から文明的に最も遠くまで見る能力をもつ中国のエリートたちにとっては、資源が将来において絶対的に不足すること、不足が明らかになってくるにつれて、というのは不足が現実になるだいぶん前の時点で、世界は生存競争の時代に入ること、そのときに西洋人が過小な人口の時代を通じてつくった民主制に基づく自由主義や個人主義は、たわごとに過ぎなくなること、というようなことどもは自明のことに属しているらしい。

そして、まだ若々しい国で国権主義が血が通ったものとして生きている国家である中国の人々は、「近い将来、資源が枯渇したときに死ぬのが中国人であっては困るのだ。われわれには、それを防ぐ義務がある」と、よく口にする。

考えてみれば西洋文明が根源的な価値について挑戦をうけるのは16世紀のオスマン帝国以来のことで、イスラム文明の挑戦と並んで中国文明の挑戦は、例えば日本の西洋文明の模倣による国家社会主義経済の繁栄による脅威とは本質的に異なっている。

天安門事件の頃とは、かなり様子が変わって、最近の若い中国のエリートたちは自由主義の有効性を信じない傾向がある。
もちろん、アメリカのほうが気楽でいいやで、中国政府の期待を裏切ってアメリカに定住してしまう人も多いが、どうも真面目な人ほど西洋の民主主義に懐疑を抱いて、中国人の手で新しい文明価値を生みだすべきだと思い詰めているように見えます。

自由主義側と新全体主義側に共通しているのは「パラダイムシフトとしてのIT革命」だが、だんだん現実のなかで相貌を明らかにしはじめた情報技術革命を見ていると、予測されたよりもより本質的で、人間性の定義のようなものまで変更を迫られかねない、いままでに人間が見たことがない変化を世界に起こそうとしているように見える。

しかも(バイオテクノロジーや核エネルギー技術の歴史をおもいだせば判るが)技術である以上、例えば倫理の側から来る禁止要請などとは無関係に、いわば勝手に手が動いて自己をアップグレードしてしまうので、人間がいままで築き上げてきた認識論を含む哲学は軒並みに向こうになっていく可能性がある。

いわば押しまくられて息も絶え絶えな西洋側としては議論が最も必要とされるシチュエーションに陥っているわけで、甲論乙駁、あーでもないこーでもない、若いひとたちも、町のあちこちで議論が展開されて、どこかに開いているはずのドアを探し求めることに明け暮れている。

アゴラでは政治が議論されるようになったときは、もうギリシャ都市国家が滅びる運命は決まってたんだけどね、と皮肉を述べそうなるのを思いとどまって、せめて自分よりも若い人の議論には、耳を傾けて付き合っていかなければ、とおもっています。

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