とりわけ戊辰戦争以降には、戦争の形態が爆発物などの火器に変わり、爆風によって手足を失ったり、視力を奪われる、耳が聞こえなくなるなどの戦傷者が増加しました。
諸外国が、戦傷者に、傷の治癒後は割と冷淡であったのに対し、我が国では戦傷者にむしろ積極的に訓練を施して特殊技術等で社会復帰を促進する方針が採られました。
我が国における訓練は、いまの時代では考えられないほど厳しいものでした。
しかし、もともと徴兵で甲種合格するほどの優秀な青年たちです。
強く社会復帰を願う彼らは、病院の厳しい訓練によく耐え、東京オリンピックの頃には、障害者スポーツの分野で他国の追従を許さないほどの技量を身に着けていたのです。
恩給の面でも、戦傷者に対しては、終戦時までは、一定の生活を保護するに足る戦傷者恩給が支払われていたのですが、戦後に日本にはいってきたGHQは、これを打ち切りにしました。
GHQは、日本の軍の存在そのものを認めないという立場であったため、退役軍人という存在もないことになり、結果として、障害の有無に関わりなく、軍人恩給の支払いがすべて停止されたためです。
五体満足な人ならば、まだ働き口もあったことでしょう。
すでに訓練を終えた戦傷者であれば、鍼灸医等で、それなりの自活の道もあったかもしれません。
しかしまだ社会復帰途上にあって、特殊技術訓練が十分でなかった人たちは、たちまち生活に困るようになりました。
医師たちにもできることには限りがあります。
ある傷痍軍人さんは「まるで地獄のような日々であった」と当時を述懐されています。
恩給が復活したのは、終戦から6年9ヶ月経った昭和27年(1952)のことです。
サンフランシスコ講和条約で主権を取り戻した日本政府は、このときいの一番に傷痍軍人さんたちに対する特別恩給の復活を行っています。
ようやく生活が安定した傷痍軍人さんたちは、日々の仕事だけでなく、私設の医師たちの指導のもと、傷痍軍人さん同士で仲間をつくって、障害者スポーツに取り組みました。
そして気がつけば、昭和39年の東京オリンピックの頃には、他の国の選手を寄せ付けないほど、日本人の障害者選手たちの技量が勝るものとなっていました。
東京五輪においてパラリンピックを同時開催することは、かなり初期の段階から決まっていましたが、五輪の開催委員の人たちが頭を悩ませたのが、まさにこの「日本の選手と各国の選手たちの技量格差」でした。
このためあえて、パラリンピックを二部構成にして、世界各国の選手たちが参加する一部と、日本人選手たちだけの二部に分かれて五輪が開催されることになったのです。
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世界中、どこの国においても、戦傷に限らず、生まれつきであったり、事故や病気などによって身体に障害を持つ人はおいでになります。
そうした人たちに対しては、西欧では修道院などが私設で保護私設に収容したりするケースはありましたが、それ以外のほとんどの国においては、放置、野放し・・・つまりいなかったことにされてきたというのが、悲しいかな人類の歴史です。
そうした世界の趨勢にあって、我が国では上古の昔から、障害を持つ人にむしろ積極的に技能を与えて、彼らが自活できる道を得ることができるようにしてきました。
たとえば、目の見えない人であれば、按摩師(あんまし)、鍼灸医(しんきゅうい)、琵琶法師(びわほうし)、三味線師、琴師など、耳が聞こえなかったり手足が不自由な人であっても、人形師、細工師、彫金師などの職人としてなど、幼い頃から修行を重ねて、自立できるようにし、社会全体としても、積極的にこれらの職の人たちを活用していく文化が熟成されていました。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」で有名な平家物語も、もともと目の見えない琵琶法師たちが、全国を回りながら弾き語りをしていた物語です。
近世になると、怪談話に登場する江戸の按摩(あんま)の宗悦(そうえつ)や、有名なところでは勝海舟の祖父の男谷平蔵がいます。
男谷平蔵は、もともと越後の盲人でしたが、修行を重ねて江戸に出て按摩業をはじめ、ネズミが巣をつくるようにコツコツと貯めたお金で、金貸しを始めて財を成し、御家人の男谷家の株を買って士分となりました。
その子が41石取りの御家人である勝甚三郎のもとに養子入りして勝小吉となるのですが、小吉は有名な暴れん坊で、その暴れんから、まるで「鳶が鷹を生んだ」ように生まれた英才が勝海舟であったというわけです。
私なども子供の頃には、目の見えない按摩さんがピーヒョローと笛を吹きながらやってきて、祖母など、よく按摩さんを呼んでマッサージをしてもらったり、もぐさを使ったお灸(きゅう)や、針を打ってもらっていたことを、よく覚えています。
生まれつき目が見えないというだけでなく、疾病や戦いによって目が見えなくなったり、身体に障害を負った人も同じです。
「家の人達の荷物になりたくない」と、障害を負った人が、人一倍努力して、健常者以上の実力を身に着け、働き、歴史を刻んできたのが日本です。
有名な津軽三味線が、目の見えない演奏家たちによって護られ、伝えられてきたことも、みなさまよくご存知のとおりです。
そして実はそれだけではなくて、まったく体が動かない障害者であっても、親戚一同みんなでこれを支え、面倒を見てきたのが日本です。
ではなぜ、我が国では障害を持つ人を周囲の人達が大切にしてきたのでしょうか。
また、障害を持つ人がなぜ自立しようと努力してきたのでしょうか。
その答えは、上古の昔(個人的には縄文の昔からと思っていますが)から、日本に続くある文化性が関係しています。
またその文化性は、ほんの半世紀前までは、我が国において誰もが一般常識としていたものです。
それが何かと言うと、日本人の魂観です。
我が国では古い昔から「肉体は魂の乗り物にすぎない」という考え方がなされてきました。
「死ねば誰もが仏様」という考え方も、まさにそこから来ています。
魂が本体、肉体はその乗り物にすぎず、その魂がより神に近づくために、成長のために、あえて意図して肉体という重みを背負った人として人間界に生まれてきていると考えられてきたのです。
なかでも障害を持つ人は、もっとも崇高な魂として、神様になるための最後の試練として、重度の障害を持って生まれてくる。
あるいは、生まれたときには健常者でも、以後に障害を負うことになる人も、やはり同様に、その障害に耐え抜き、克服することでより次元の高い神様になろうとして、そのような姿になっているのだと考えられてきたのです。
ということは、その人は、お亡くなりになれば神様になられる方なのですから、生前に粗末にしてはいけない。
同時に、障害があるからと、甘やかしてもいけない。
障害を持っていればこそ、健常者以上に努力するし、周囲も努力をさせる。
その根幹には、相互の深い愛もあるわけです。
こうした文化を持つ日本では、ですから障害を負った人にも、楽をさせるということをしません。
むしろそういう人であるからこそ、一層のたゆまぬ努力をし続けてきたのが日本です。
たとえば乃木大将として有名な乃木希典は、西南戦争等で左目を失い、また片腕、片足に銃創を負い、不自由な体になっていました。
けれど乃木大将は、日露戦争(1904~1905)のあと、
「私は、片手、片足が
残っているからまだ良い。
食事もできるし、
タバコも吸える。
けれど戦争で両手を失った者は、
一服の清涼剤としての
タバコも吸えぬ。
それではあまりに可愛そうだ」
と、ご自身の年金を担保にしてお金を借りて、試行錯誤の上、ついに「乃木式義手」を完成させています。
実はこの「乃木式義手」というのはたいへんなシロモノで、この義手を付けると付けたその瞬間から、腕のない人がモノを掴んだり、持ち上げたり、食事やタバコまで吸うことができ、字や絵も描けるという、素晴らしい機能を持った義手です。
これは今日でもそうなのですが、義手も義足も「見た目が健常者に見えるようにする」というのが世界の趨勢です。
もちろん最新の医学では、筋電義手(きんでんぎしゅ)といって、生身の腕手と同じような動きをする義手も開発されています。
ただし、コンピューター制御による筋電義手においても、卵を持つ、あるいは握手をするといった動作をするのが精一杯で、文字を書いたり、たとえば「タバコを吸ったり」といった、微細な動きを可能とするものは、今の最新技術においても、困難とされているのが実情です。
ところが乃木大将は、ご自分の年金を担保に借りたお金で、そんなことが実際に可能になる夢のような義手を、完成させ、これをなんと無償で、戦傷を負った部下たちに配っています。
乃木式義手
このようなことを申し上げると、現代の最先端の医学でさえ困難なのに、そのような大昔に、そんなすごい義手などできるわけがない、とみなさんは思われると思います。
私も、話を聞いたときは、そのように思いました。
ところが、そのレプリカがあるという。
そして、「では、本当かウソか、ご自分で実際にやって試して御覧なさい」と言われ、その「乃木式義手」を実際に装着させていただきました。
するとどうでしょう。
豆はつまめる。モノは持てる。
そしてなんと、字や絵まで、付けた直後から、もう書けてしまうのです。
これには驚きました。
古い昔のものですから、もちろんマイコン制御なんてありません。
では、どうしてそのようなことができるのかというと、よく観光地などで売られている、竹でできた「へびのおもちゃ」の要領なのです。
へびのおもちゃ
このおもちゃのへびは、左右にはクネクネと動きますが、上下には動きません。
これを応用することで、上腕を体から離すと、先が開き、体に近づけると先が閉じるように、義手は造られています。
そしてその長さが絶妙で、タバコを吸ったり、お匙を持って食事をしたりといった行動も、自在にできるように工夫されているのです。
乃木式義手(レプリカ)を操作しているところ
上の写真は、私が自分で実際に「乃木式義手」をつけて操作しているところの写真です。
このあと、実際に字や絵を書いたのですが、それは下手なので内緒です。
内緒ですが、始めて使って、その場で小さな物をつかんだり、文字を書けたりしたことには仰天しました。
乃木大将は、ご自身も障害者であられたことから、両手を亡くした兵隊さんを心から不憫に思い、なんとかしてあげようと、この義手を制作しました。
まさに乃木大将の愛情から生まれた義手という感じがします。
もし自分が、あるいは家族の誰かが事故等で腕を失い不自由な生活を余儀なくされているとき、目の前で、この義手を使って字が書けるようになり、自分で食事もできる姿を目の前で見たら、きっと感謝の思いで胸がいっぱいになり、涙で目が霞んでしまうに違いないと感じました。
それほどまでに、愛のこもった暖かさを感じる義手でした。
ところがこの「乃木式義手」、ある学者の先生の1本の論文によって、
「乃木希典の制作した義手は、
当時の世界の水準に
遥かに及ばないものであった」
「この義手は1911年に
ドレスデンで開かれた
万国衛生博覧会に
日本陸軍から出品されたが、
この頃の欧米の水準からは
著しく遅れたものであり、
また医学と無縁の将軍が
義手を考たことに
当時の医師達も
興味を示さなかった。
このことは当時の日本の
四肢切断者への社会の対応が
未熟だったことを物語っており、
この乃木式義手も
ほとんど用いられていない」
などと書かれて貶められ、最近ではその存在すら、知る人が少なくなってしまいました。
その学者の先生(あえて名前は伏せます)が、どのような意図でこのような文章を書いたのかは知りませんが、当時の世界の義手への取り組みが、「いかに腕があるように見せかけるか」だけに焦点が絞られ、結果、それを付けて生活する人の利便性や機能性に関してまったく顧みられることがなかったのに対し、「乃木式義手」は、むしろ機能面に特化した性能を持つ義手として、世界を先取りしたものでした。
このことは言い換えると、世界の趨勢が「腕をなくした人に会った人が不快感を感じないようにする」という、つまり健常者を対象として造られていたのに対し、「乃木式義手」は、むしろ障害者の立場に立って、障害者自身が生活の便を得るようにと開発された義手であるわけです。
実に画期的なものであったということができます。
みなさまはパラリンピックなどにおいて、弾力があり素早く走ることができる義足をご存知だと思います。
その義足は、見た目は素足とはまったく異なるものです。
しかし機能は、見た目が素足に似ている義足よりも、はるかにすぐれています。
パラリンピックで使われる義足
要するに、義足や義手などに、ようやくコンピューターが発達した現代になって、機能性が求められるようになってきたのです。
それまでは義手義足に機能を求めるだけの技術力が世界に伴わず、そのために、いかに本物の手足に似ているかだけしか世界では問題にされませんでした。
もっというなら、乃木将軍がこの乃木式義手を造った頃、それはつまりいまから100年前のことですけれど、その頃の義手は、単に見た目を補うという趣旨のものでしかなかったわけです。
けれど、実際に義手等のお世話になることになったとき、とりわけ手は、日常生活の様々な場で活用されるものであるだけに、モノがつかめて、タバコも吸え、字や絵も書けるという機能を持った義手が、両腕をなくした方々にとって、どれだけありがたいものであったか。
そういう意味では、ご自身が障害者であられた乃木大将の、
「俺は片腕があるから、
自分で飯も食える。
だが戦(いくさ)で
両腕を失った者は、
タバコも吸えぬ」
と、戦傷者への同情を寄せ、自らの年金を担保にして、創意工夫し機能性義手を創りあげた乃木大将は、世界の最先端を走っていたといえます。
もっというなら、障害者の側に立った義手がこうして日本で生まれ、いまなお「乃木式義手」を上回る性能の義手が世界のメーカーから発売されていないという事実は、むしろ世界の趨勢を100年以上先取りしたものであったといえるのみにとどまらず、我が国が、もともと障害を持つ人を差別することなく、むしろ尊敬の心をもって、社会の中に受け入れてきたことを示します。
ところが残念なことは、これだけにとどまりません。
「乃木式義手」は、戦争で腕手を失った人向けに開発されたものですが、そうした義手の機能面での研究が戦後の日本で大幅に遅れたのみならず、実は戦傷の分野でも、日本は世界から大幅に遅れをとるようになったのです。
もともと戦傷病に関する研究は、日本は世界の最先端でした。
その研究のなかには、外地となる戦地にて、いかに衛生的な水を確保するかにはじまる細菌の研究なども含まれます。
満洲では、水のろ過技術と細菌対策で世界的な特許技術をいくつも獲得した関東軍防疫給水部本部が、いつの間にか魔の731部隊などと呼ばれているのは、みなさまご存知の通りです。
しかしこうした貶めだけでなく、現実の医療において、日本は、世界の最先端研究保持国から世界の最後進どころか、まったく研究さえされない国へと退化しています。
たとえば銃弾が体内を貫通したときにできる貫通銃創は、平時の医学では単に「割創(かっそう)」や「切傷(せっそう)」に分類されます。
しかし銃弾は、体内に入るときにできる入り口傷は、小さな穴にすぎませんが、体内で上下左右にグルグルと回転しながら跳ね回り、体内の組織を大きく損傷させて体外に飛び出します。
入り口と出口が小さな穴にすぎなくても、体内が猛烈に破損されるのです。
つまり、傷口を塞ぐだけで、
「はい、治療終了」にしてはならないのです。
嫡出弾の変形の様子(しょうけい館資料より)
砲弾創や、寒冷地での凍傷、火炎放射器や落雷などによる熱傷、あるいは外創に起因する神経麻痺や感染症、精神疾患との関係など、戦場は戦場特有の様々な外傷を伴います。
たとえばかつての日本海軍には、圧抵傷(あっていしょう)という独特の戦傷名がありました。
これは艦船が魚雷等で爆発する瞬間に、応力が甲板に働いて、甲板上にいる人間が空中に跳ね上げられ、着地する際に足底部を粉砕骨折してできる傷です。
そしてこうした症例が確認されると、そのことは万一魚雷等を受けても甲板に応力が働かないように艦船設計に工夫が凝らされ、また万一空中に跳ね上げられても、着地時に足底部等を保護する特殊なデッキシューズの考案が奨められていくのです。
もちろん戦闘などないにこしたことはありません。
しかし万一の際の平時からの備えは絶対に必要なものです。
国会でもりそばにするのか、かけうどんにするのかを議論しているヒマがあるのなら、その時間を、国家国民の安全と安心、そして障害者が困らない社会つくりを促進していただきたいのです。
日本の技術力をもってすれば、野戦病院に移動用CTスキャンを設営することもできることでしょう。
かつての日本には、下の写真のような手術自動車も野戦用に配備されていました。
日本は、戦傷病に関して、ソフトもハードも、そして民意そのものも、世界最先端だったのです。
手術自動車(自動車を二台並べて間に無菌の手術室を設置した)資料・同上
もっとも戦後の日本において、唯一、救いともいえる出来事もあります。
それは、重度の脳障害を負って産まれてきた人が、実は、きわめて思索的で高度な知性を持っていることが、日本の大学で証明されたことです。
それは平成24年(2012)のことです。
國學院大学の柴田保之教授は、新生児のときに黄疸に罹(かか)って脳に酸素がいかなくなり、そのまま寝たきりの重度の脳障害者として寝たきりとなった、みぞろぎ梨穂さんと出会いました。
通常、こうした症例の場合、患者さんである障害者は、外界とのコミュニケーションが取れないという理由だけで、言葉も思考もないとされています。
ところが柴田教授は、パソコンを利用することで、彼女との会話を試みたのです。
すると梨穂さんは、パソコンに文字を打ち込んだのです。
そこには次のように書かれていました。
「ずっと
私は
人間とは
何なのか
ということを
考えてきました」
そして梨穂さんは、幼いころから周囲の会話を聞きながら、ちゃんと言葉を覚え、そして言葉を通じて思索を重ね続けてきていたことを、詩にして、綴り出したのです。
その詩が先般、本になって出版されました。
次の本です。
この本のまえがきに、東大医学部名誉教授の矢作直樹先生が次のように書いています。
「それはまるで
幾多の試練を経験した魂が
今生で
さらなるチャレンジのために
操縦困難な肉体を選んで
生まれてきたようです。」
その通りと思います。
そしてみぞろぎ梨穂さんの本を読むと、意識や思考というものは、単に脳の機能というだけではなくて、実は、魂そのものに備わる思考というものがある、ということに気付かされます。
なぜなら現代医学では、重度脳障害者に思考力があるなどということは、およそ考えられないことだからです。
私の小学校のときの恩師は、いくつかの校長を経験したあと、いまは引退されて、聾唖学校のすぐ近くに住んでおられます。
同じ校長同士ということで、恩師は聾唖学校の校長とも親しく、時折、その聾唖学校を訪問されます。
そこで気付いたそうです。
健常者の子供であれば、学校で学ぶのは普通の日本語だけです。
しかし障害を持った児童たちは、そこで手話、点字、読唇術などを学びます。
つまり、通常の日本語だけでなく、複数の言語を、小学生くらいのうちに、完璧に身につけるのです。
恩師は、
「障害児たちの側からみると、
私たち健常者の方が
むしろ障害者に
見えてしまっているかもしれない」
と語ってくれました。
みぞろぎ梨穂さんの本を読むと、障害者を持って生まれて来られた方が、実は、私たち健常者が見失いがちな深い思索を得ていることに、あらためて気付かされます。
逆にみれば、健常者と思っている私たちのほうが、魂のレベルでは障害者であるのかもしれません。
古い昔からあった「障害者は高度な魂の持ち主である」という日本人固有の思想は、実は、いまなお日本に残る、世界最先端の思考であるのかもしれません。
<参考資料>
◆しょうけい館
http://www.shokeikan.go.jp/◆「約束の大地」みぞろぎ梨穂著
お読みいただき、ありがとうございました。
※この記事は2018年3月の記事の再掲です。
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実に簡素な造りで完成度が素晴らしく、とても驚きました。
障害者用車両の開発に従事した初期の頃、先輩に聞きました。
「障碍者の意見を聴取しないのですか?」
答は一言!
『聴いても役に立たない!』
弟は障碍者で施設にいます。
独りで出来ることは少ないですけど、口と頭は達者ですから、文句ばっかり…それこそ言いたい放題です。
可哀想…同情だけでは、障碍者は自立しません。
「障碍者を気取って甘えるな!」
大怪我をした最初から突き放してきましたが、長生きしてほしい…そう思っています。