全面拡大表示 第21回歴史講演会 松本清張生誕百年を記念しての講演会は興味をもたれた初参加の方も大勢おられ、清張さん自身の履歴が関門海峡を跨いでいることもあり、充実した2時間と講演後の懇親共々深夜まで余韻に浸った一日でした。 |
【はじめに】 清張さんは明治42年12月21日企救郡板櫃 村に生まれた。今年は生誕100周年の節目である。 前半生を小倉で過す。板櫃尋常高等小学校を卒業後 職業紹介所を通じて川北電気出張所の給仕に就職、 月給11円、15歳。文芸書に親しむ。出張所閉鎖 により失職、親の「手に職を」により広告版下を勉 強。小倉に進出した朝日新聞西部本社の嘱託として 入り、出征前に正社員となる。 昭和25年週刊朝 日の応募作「西郷札」が3等に入賞、賞金10万円 を得る。 昭和28年1月、「或る『小倉日記』伝」 が芥川賞受賞、44歳。前年三田文学に載り当初直 木賞候補(だった。12月東京本社に転勤。以後数 々の分野の作品を発表、国民的作家となる。平成4 年8月4日肝臓癌で死去、享年84歳。 【松本清張記念館】 記念館は7回忌の平成10年8月4日開館、城内 の一郭にあり昨年12月で来館者は90万人、年間 6万人だが本年は何とか100万人を目指す。博物 館法により北九州市教育委員会所管。館員は8名。 昨年、清張さんも受賞された「菊池寛賞」を受賞。 藤井康栄館長は文芸春秋から週刊文春編集者として 昭和38年から清張没年迄30年間「清張番」を努 め代表作「昭和史発掘」では資料収集、取材協力。 松本清張全集全66巻の編集担当。清張さんの思い を理解した第一人者でしょう。記念館建設の企画段 階より関与。著書に「松本清張残像」がある。 【記念館のコンセプト】 ①どういう仕事をしたか ②どういう風に時代と 関わり人生を全うしたか ③どういう環境で仕事 をしたか ④どういう発想で仕事をしたか。 展示室1(松本清張の世界) 700冊のパネル→量で圧倒。東大寺礎石→本物、 昭和30年代古代史ブームの頃購入。 作品系統図→推理、古代史・現代史の「空白を埋 めて謎を解く」が清張の一貫した姿勢。 清張とその時代→推理劇場、清張全仕事、 系譜を22メートルのパネルに。 展示室2(思索と創作の城) 再現家屋(玄関・応接室・書斎・書庫)は清張さ んの戦場、独立した静かな場所の観点よりドーム 構造に納める。斜面台を載せた机、3万冊の蔵書。 | 【記念館の運営】 作家松本清張らしく運営する事。清張さんは勤勉 で、お休みが大嫌い。「自分は努力だけはしてきた」 と書き遺し、最後まで知的向上心を持ち仕事を続け た。記念館も年末の三日間の大掃除(燻蒸)を除い て年間362日無休。そして新しい研究テーマで研 究誌を発行、あるいは企画展を続けている。 研究誌は毎年、現在10号2009まで発行。手作り の企画展は、①清張文学の羽ばたき ②清張と鴎外 ③時間と習俗 ④清張文学の土壌 ⑤新たなる飛翔 ―点と線のこころ などである。 企画展は資料を含め新しい発見がなければ意味が ない(藤井館長)。これこそ清張魂であろう。 清張自身常に第一級資料を求め、且つ手垢のつい ていない新鮮な資料を渉猟した。 【自伝的作品と清張略年普】 ①「半生の記」貧乏をテーマに父峯太郎を追想。 父峯太郎は鳥取県矢戸村の田中家の長男として 生まれ、米子の松本米吉、カネ夫妻の養子となる。 1962年東京で死亡、89歳。 ②「雑草の実」母、タニの回想 母、タニ 旧姓岡田、廣島生まれ。峯太郎が廣島 にいた頃結婚。1955年東京で死亡、77歳。 ③「骨壷の風景」祖母、カネの回想 祖母カネ 1931年小倉で死亡、83歳。 生後2ヶ月くらいの縫いぐるみの写真の裏に父の 文字で「清治」とあり撮影者小早川圭風 廣島京橋 とある。姉が二人いたが共に嬰児のうちに死亡。清 張生誕、廣島説の根拠であろうか。 =この後 記念館を訪れた作家阿刀田高、森村誠一、 古川薫らと清張さんとのエピソード披露と「砂の器」 の亀嵩と矢戸の地理的説明がなされ質疑応答。 清張ファンの一人として、藤井館長さんのご高話 を伺う機会を切に願う次第である。 以上 <出席者名はP11に掲載> |
かんもん北九州ファンクラブ/会報/ 第77号/07頁
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