CAUTION
ここを読まないと混乱する可能性があります
■登場人物が死傷したり、その際の欠損をほんのり示唆する描写が含まれます
■リヴァ←モブ(♀)・ジャンアニ・ミケナナあり。特にリヴァ←モブ(♀)とジャンアニはたまにリヴァエレを押し退けて主人公っぽいです
■ジャンアニ小説を検索したら16件。ジャンを見る原作のアニの目がまるで汚物を見るようなものなので大変すばらしいコンビだとわたしは思います
■わたしには軍事とか航空機の知識はありません。英語も無理です。すべては妄想とGo○gle翻訳とWikipe○dia先生のおかげですありがとうございます
設定
■舞台はニホンではなく周辺国も実在の国ではないです。地形や地名、施設などはほぼ現実の日本と同じです
■日本海を西海、太平洋を東海と呼んでいます
■実際の羽田空港の位置に基地があります。空港は東京湾をさらに埋め立てて造ってます
■国防軍(空軍)ですがほとんど自衛隊(空自)です。基地の名前と場所、能力、指揮系統、階級、法律、戦闘機、ほとんどパクらせていただきました
航空無線について
■電話みたいに1対1ではなく同じ周波数を聞いている人が大勢いるので、話す前に『誰が誰に送信しているのか』を言う必要があります
■最初に呼び出したい相手の名前(コールサイン)、次に自分が名乗ります
■AがBに話しかけたい場合は『B、A』と言ったあと用件になります
■場合により相手の名前だけ呼んだりどちらも省いたり色々ありますが、基本はこんな感じです
■軍のパイロットはフライト中TACネームで呼び合います。小説内ではビックリするほど呼ばれません
コールサイン
■無線で使われる呼び出し符号です。機体や編隊、飛行隊、指揮所、航空会社などが固有のものを持っています
■現実だとANAが『オールニッポン』、JALが『ジャパンエアー』とか使ってます
■管制官との交信の際は『航空会社名+便名』がその機のコールサインになります
■『トウキョウコントロール』は東京航空交通管制部のコールサインです
■作品中の軍用機のコールサインは『編隊名+番号』で統一してます
青い空の下に海が広がっている。
その上を二羽の鷲が泳いでいる。
遮るものがない空はどこまでも続き、
ゆらゆら揺れる海は彼らを祝福して。
世界はこんなに自由で。
ほらね『おめでとう』。
耳をすませて、彼女は笑った。
プロローグ
『Skyblue1044,Tokyo control.Going right of course.Fly heading 270,change your course immediately.』
『―――――』
『I say again.Skyblue1044,going right of course.Fly heading 270 .From there on,there is a prohibited area.』
『―――――』
『Skyblue1044,can you hear me?』
『―――――』
『―――スカイブルー・ワン・ゼロ・フォー・フォー、トウキョウ・コントロール。応答して下さい。コースが右にずれています。直ちに機首方位270度に修正して下さい。その先は飛行禁止区域です』
『―――――』
*
ブリーフィング・ルームには最後の一組しか残っていなかった。男が二人、女が二人。それぞれ三等空佐と二等空尉、二等空尉と三等空尉の階級章を付けていた。全員オリーブグリーンの飛行服を着ている。左胸にある黒いワッペンには金色で一人ひとりの名前が刺繍され、その上に白と青の翼のマークがある。背中にはさらに大きくその翼が広がっていた。
金髪の男が手元の資料から目を離して全員を見る。
「今回は時間の関係によりツー・バイ・ツーで行う。この新型ミサイル『15式空対空誘導弾』だが、我が軍では初となる『LOAL式』を採用している。発射後のロックオンが可能になったことで戦い方もまた変わるだろう。早ければ一か月後にはスクランブル装備となる。今回の訓練で感じを掴んでおいて欲しい」
「無茶言うぜ」
黒髪の男がつまらなさそうに答えた。
「またまた~そんなこと言ってすぐ使いこなしちゃうんでしょ~?」
黒髪の女がからかうように手を顔の横へ持っていき開いた。黒髪の男は不快そうに顔を歪めた。
「では質問がなければこれでブリーフィングを終了する。コールサインは俺たちが『スカイリー』、おまえたちが『ブルーフル』だ」
金髪の男がそう言うと他の三人は了承の意思を示して黙り込む。確認した男が席を立つとそれに黒髪の女が続いた。二人が部屋を出てから黒髪の男がようやく立ち上がる。部屋を出ようとするが席に着いたままのもう一人を振り返った。
「おい何をしている。行くぞ」
「ねえ先輩」女は何もない宙を見ながら思い出したように言った。
「15式が機体に直撃したらパイロットはどうなると思います?」
男は思った。下衆な質問だ。
新型短距離ミサイルは弾頭の炸薬が従来のものに比べて二倍近くに増やされている。運よく掠めただけだとしても機体はまず墜落する。コックピットに被害が及ぶまでに時間があればパイロットの脱出は間に合うかもしれないが、前提として『直撃』というなら、マッハ3で突っ込んでくるミサイルによって機体は空中でバラバラになるだろう。とても助かるとは思えない。パイロットが機体を放棄して到達前に脱出していれば話は別だが。
「趣味が悪いぞ」
「だって、私たちが使う武器は人を殺すかもしれないものですよ?結果としてどうなるのかくらい知っておく義務があると思います」
言っていることは正しいのだがその声色は新しいおもちゃを見つけた子どものそれだ。
男は呆れて女を呼んだ。自分の名前が彼の口から出た瞬間、女は飛び上がって入口まで駆けた。その顔は好物を目の前に出された食いしん坊みたいだった。
「先輩、見て。空がきれい」
Gスーツを装着してヘルメットを手に
駐機場まで向かう途中、彼女は楽しそうに天を指差した。子どもが自分の家を示すようにニコニコと笑う。その半歩後ろを歩く男はやっぱり呆れていた。人懐っこいこの後輩は軍人には向いていないんじゃないかと思う。
「楽しそうだな」
これから人を殺すための武器を使う訓練に出るというのに。言外にそう言っていた。
「はい、だって今日は編隊長だし、それに先輩と一緒に組めたから」
女は男を振り返る。その顔は本当に幸せそうに見えて、男にはそれがよくわからなかった。わからなかったからこそ知りたくなった。
「なあ、人を好きになるってどんな感じだ?」
からかうわけでもなく真面目に問い掛けた。まだ少女の面影が残る女は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる。
「どんな?」
「…楽しいとか苦しいとか、嬉しいとか悲しいとか…何かあるんだろ」
我ながら酷いことを訊いていると、男は言いづらそうに間を置いた。しかし女はそんなことは気にしていないようでいつもと変わらない明るい声で言う。
「すごい難しい質問ですね。言葉にはできません」
男は何だそれ、と思った。言葉にできない感情なんかこの世にあるものか。
「それは恋をした人にしかわからないことです。知りたいなら恋をして下さい」
後輩は一際明るく笑うとそう言い切った。どうやら彼女の経験を彼に教えてやることはできないようだ。恋というものを知らない男は無言で彼女を見つめたあと諦めたように言った。「それなら自分には一生わからない」と。
女は一瞬寂しそうな顔をした。すぐに柔らかい微笑みに変わったが、その目は女のものから母のものへと変わっていた。これから様々なことを知っていくであろう我が子へ向ける母のあたたかい眼差し。一歳年上の男に対してそんなものを向けていた。すべてを認めすべてを許す手を搭乗ラダーに掛け、本日の乗機を見上げる。一段目に足を掛けてもう一度真後ろを振り返った。もう一機の機体越しに男が見える。
これから一時間の間、彼の顔は昆虫にしか見えない。ヘルメットを被る前に顔を確認するのはいつもの癖だった。風になびく黒髪と涼しげな目元を目に焼き付ける。二十代も半ばに差し掛かっている男だがその風貌は少年のようだ。
「先輩」
コックピットに入る前に名前を呼んで大丈夫と笑った。
「きっといつか好きな人ができますよ」
29.5
だだっ広い海の真ん中で、御年六十歳になる漁師は自分の船の柱に捕まって必死にその身を支えていた。隕石でも落下したかのような轟音のあと目の前に突然上がった水柱による衝撃で船は揺れ、大量の海水が船に降り注いだ。穏やかだった海が突然その顔を変えたのだ。彼には何が起こったのかがわからなかった。
それも無理はない。四十年以上海の上で生きてきた彼が、耳どころか体全体を震わせるような轟音が超音速を突破した時に出る衝撃波の減衰した音、ソニックブームだなんてわかるわけはないし、彼の船のすぐ近くで発生した水の壁が約150メートル上空を金属の塊が超音速で通過した所為だなんて気付くわけもなかった。彼が空を見上げた時にはすでにその戦闘機は空の彼方へと消えていたのだ。
1903年、ライト兄弟が人類初の飛行機による有人動力飛行に成功した。彼らは世界初の飛行機のパイロットでもある。最初の飛行は僅か12秒ほどだったとされているが、それは航空史にとって大きな進歩だった。
彼らの功績から四十四年後の1947年、空軍パイロットだったチャック・イェーガーが人類ではじめて音速の壁を突破した。歴史での登場は自動車の方が早かったのだが、航空機は自動車よりも三十年近く前に音速を突破しているのだ。その二十二年後の1969年にはアポロ11号が月面着陸に成功、ライト兄弟の記録からちょうど百年後、2003年には民間機でも音速を突破している。
航空機で空を飛び始めてから百年の間に、人類は高度100000メートル以上の宇宙にまで到達した。昔は一般人が乗れるようなものではなかったが、現在の航空機は人々の暮らしに身近な存在となっており、世界中の空を様々な飛行機が飛び交っている。昔の人たちが憧れていた空は手に届くところにあるのだ。
ところではじめて音速で空を翔けたチャック・イェーガーだが、記録を達成する二日前に肋骨を骨折していた。にも拘らず周囲にそれを隠しテストパイロットとして搭乗、音の壁を突破したのだ。どうしてそこまでして空を飛びたかったのか。それはわかる人にしかわからないだろう。
航空機が上空で音速を超えると衝撃波が発生し、その衝撃波が減衰されたソニックブームという衝撃音が地上を襲う。実際にこのソニックブームで民家の窓ガラスが割れたというデータもある。このこともあり航空機の超音速飛行には多く制限が設けられている。通常、軍の機体が陸上で音速を出すことはまずないし、海上でも特定の空域以外では例外を除き原則禁止されている国が主だ。
そして。
チャック・イェーガーが音速の世界を知ってから半世紀以上経つ今、同じようにボロボロの体で音速の機体を操るもう一人のイェーガーが大海原の上を翔けていた。
「リヴァイ兵長!これ本当に大丈夫なんですか!」
視界はゼロ、真っ暗な闇の中を飛ぶエレン・イェーガーは無線に向けて言った。音速を突破したことにより機体を伝わってくるエンジン音が大きくなったので、負けないように全力で叫んだ。
『500フィートでスーパーソニックくらいビビるな!』
「ごっ…!航学だったら教官から飛び蹴りものですよ!!」
イヤホンから聞こえてきた上官の声に引っくり返りそうになったが、今そうなったら天地がわからなくなり海面に突っ込む恐れがあるので必死に耐えた。500フィート…上空約150メートル。そんな低高度を超音速で飛ぶなんて航空学生時代にやっていたら教官にぶっ飛ばされること必至だ。飛び蹴りの一発や二発は貰うだろう。こんな飛び方をしたことは一度もないので想像もつかない。視界が悪いせいで代わりに敏感になっている聴覚がいつもなら捉えない音に気付いた。遠くで聞こえる何かがぶつかるような音。
本当に大丈夫なのだろうか。自分の命は操縦桿を掴む手が握っているが、その手を操っている脳みそに指示を出すのは一緒に飛んでいる上官だ。彼の言葉で自分の運命が決まる。
アフターバーナーを切ると速度は落ちていき、代わりに大きな音がするようになった。この音はわかる。自分の乗機と同じ機種のエンジン音。上官の機体がすぐ近くを飛んでいる。何だか安心した。そして次の瞬間その気持ちは裏切られる。ゴンッという大きな音と共に機体全体が揺れた。衝撃で体が吹っ飛びそうになるのをハーネスが止めてくれる。機首を上げろとの指示に操縦桿を引いた。すると再び機体が大きく揺れる。何回目かで思わず短い呻き声を上げてしまった。
小さい頃、いや、大きくなってからも自分は医者になるものだと思っていた。それが一体どうしてこんな目に遭っているんだろう。真っ暗闇の中でエレンは考えた。
思えば普段から散々な扱いだ。殴るし蹴るし、この上官は自分に何か恨みでもあるんじゃないかと思う。他の部下をこんな乱暴に扱うところなんて見たことは、あんまりない。あれはいつのことだったか、歯を折られたこともあったような気がする。
考えたらムカムカしてきた。エレンの仕事は理不尽に耐えることであったが、それは彼が最も苦手としていることの一つでもあった。
一日の疲れがどっと出てきて、心の中へ子どもみたいに現状への不満をぶちまける。
ちくしょう、恨んでやる。何故自分が苦しい思いをしなければいけないのか。何で、どうして。エレンは記憶をたどる。原因を探っていくとやがて戦闘機に乗ると決めた日のことを思い出した。自分にとってはすべてのはじまりだった。
あれはそう、四年前のことだ。
01
左から右へ金髪を軽く流した男は入り口に背を向けカウンターに座り、ロックグラスに入ったウイスキーを舐めるように飲んでいる。カウンター越しでドリンクを作りながら、エレンはその男を観察していた。
週に三、四日だけこのバーでバイトをしているが、少なくとも一回はこの男がやってくる。たいていは一人だが頭皮の寒そうな白髭の老人や、眼鏡を掛けた長身の女性と一緒に来ることもある。店長の話では数年前から週に一、二度飲みに来るようになったらしい。とても感じのいい人で、注文の際も口元を柔らかく曲げて軽く笑いながら頼んでくる。
艶のある金髪に空色の瞳、立てば190センチはあるのではないかというくらいの長身に、服の上からでもわかる引き締まった体、そして彫刻のように整った顔立ちの彼が笑いかければ、どんな女の人でも落ちてしまうのではないかと思った。恋愛に興味などないが、ネクタイを外して黒いスーツをラフに羽織ったこの人がモテるのだということは理解できる。空になったグラスを手に微笑まれた時には心臓が跳ねた。
「今日はお一人なんですね」
新しいグラスにウイスキーを注ぎながら言うと男は穏やかに連れを待っているんだと笑った。
「いつもの方ですか」
いつもの方とはもちろん白髭の老人と眼鏡の女性のことだ。エレンの知るこの男の連れはその二人しかいない。
「いや、今日は新顔だよ。仕事の都合でこっちに来た奴なんだが、予定が合ってようやく飲めることになった」
「それは楽しみですね」
空色の瞳を持った男は高そうな時計を覗き込んでから携帯を確認している。他の客に頼まれたドリンクを作りながら、エレンは一つ一つの動作すら油断のない男を観察した。
ファッションに興味がない自分が見ても立派なものを身に着けているとわかる。スーツにはシワ一つないし、ワイシャツは真っ白でアイロン掛けもばっちりだ。しっかりした奥さんがいるんだろうなと思う。そしていい会社に勤めているんだろう。自分とは大違いだ。
エレンは医学部を目指して二浪中の浪人生だ。志望学部がこうなので浪人は珍しいことではないが、三年目にして本人のやる気は底まで落ちている。
医者の父親譲りで頭の造りは悪くないはずなのだが、試験ではある一定のラインを越えられなかった。それは努力が足りないからよと母親は言ったが、エレンにはどうにもそうは思えない。たぶん子どもの頃から敷いてあったレールの上を深く考えずそのまま走って来たからなんだろう。
誰にそうしろと言われたわけではないが、エレンはずっと自分が医者になるものだと思っていた。なりたかったわけではなく、空が青いようにそうであることが当然だったのだ。
どうせ他にやりたいこともなかったし別にいいかとこの道に決めたのだったが、試験に二回落ちていよいよ自分の人生に疑問を持ち始めた。これでいいのかと悩んでいる時に知り合いから紹介されてこのバーでバイトをすることに決めた。今は何でもいいから医者になる以外の道も見てみるべきだと思ったからだ。
結果としてエレンにとってプラスにはなったが、将来についての考えはますます混乱してきた。客としてやってくる様々な年齢・職種の人と話して勉強になることが多かったおかげで選択肢が無限に広がってしまった。短大や二年制の専門学校へ進んだ同級生は普通に行けば来年には社会人なのに、自分は一体何をしているんだろうと背中が丸くなる。
と、ここまでが最近のエレンだった。
「その右腕はどうしたんだい」
金髪の男はエレンの着ているワイシャツの袖から少しだけ見えた白い包帯に気付いた。
「ちょっと怪我しちゃって」
エレンは左手で右腕をさすりながら情けないですよねと笑ったが、男は眉尻を下げてその手を取った。右腕を男の両手に挟まれる形になって固まってしまう。まるで恋人同士のような距離で痛かっただろうと囁かれ心臓が跳ねてしまった。男相手にどうして。中年男性の色気は侮れないと思った。
「あ、え、う」
何を言うべきかわからずに餌を待つ鯉みたいに口をぱくぱくと開くエレンは、早く手を離してくれと願った。自分から言うのは気が引ける。そしてその願いが通じたかのように、いつの間にか金髪の男の真後ろに立っていたもう一人の男が声を掛けてきた。
「誰彼構わず発情してんじゃねえぞ」
「やあ、遅かったな」
後ろから聞こえた声にエレンの手を握ったまま振り向いた金髪の男は、そこに立っている黒髪の男にまあ座れと促した。ようやく待ち合わせ相手がやってきたらしい。
黒髪の男はスーツを着ている金髪の男とは違い、黒のパンツに白のTシャツを着てオリーブグリーンのMA-1を適当に羽織っていた。引き出しの一番上のものを着てきました感が否めない何ともやる気のない格好だった。それとも今はこういうファッションが流行っているのか、トレンドに疎いことに定評のあるエレンにはわからなかった。
「お前がめんどくせえ仕事よこすからだろうが。おい、コイツと同じやつダブルで」
「あ、はい。ありがとうございます」
エレンはとっさに金髪の男の手を振り払うと空のグラスとボトルを取った。
「三年ぶりのこっちは?」
「別に何も変わっちゃいねえよ。それに巡教で全国を回った時にここにも来てる」
「散々にやってくれたらしいな」
たぶん仕事の話をしているのだろう。エレンには何のことだかわからなかったが、それがかっこよくも思えた。
あとからやって来た黒髪の男は金髪の男に比べ身長がかなり低く、目付きが百倍くらい悪かった。何となく金髪の方が上司のような気がするのだが、それにしては態度のでかい部下だ。敬語のけの字もありはしない。よく見ると二人とも目の下にクマができていて、いい会社というものは忙しいのだろうと思った。それは一晩でできたようなものではなく、長年彼らと共にあったようにその顔に馴染んでいた。
「結婚はしねえのか」
「相手がいなくてね」
「見合いでも何でもいいだろ。お前みたいなタイプは一人だと無茶しやがる。家族がいた方がいい」
「俺は一人が楽なんだ。家族なんか作ってもろくに構ってやれないだろうし、可哀想なだけだろう」
独身だと言う男はまだ見ぬ妻や子供の姿を想像して哀れむように言った。男のエレンから見ても魅力的な人だが、本人に結婚する気がないのでは仕方がない。もったいないなと思いながら、黒髪の男にウイスキーを入れたグラスを渡した。
二人が横に並んでいる光景は合わないピースを無理やりはめ込んだパズルみたいで違和感があった。髪の色から体格まで全部が対照的過ぎて目立つのだ。職場の同僚だと言うが、いい凸凹コンビだと思った。よく刑事ドラマなんかで相棒同士を描いた作品があるが、この二人はまさにその主人公たちにぴったりだ。よく光る鋭い瞳がますますそう見せている。エレンはドリンクを作る頭の片隅でそんなことを思った。
黒髪の男が来てから何杯か飲んだあと、突然エレンに話が振られた。凸凹コンビの凹の方がおまえは何歳だと訊いてきたのだ。
「早生まれなんでまだ十九です」
「若いな」
「そうですかね」
実際エレンの周りではもう二十歳だよーと嘆く声がよく聞こえる。その大半は女子なのだが、ある一定の年齢を過ぎると彼女たちにとって歳が増えるということがめでたくはなくなるらしい。確かに街で制服を着た高校生などとすれ違い、あれを着ることはもうないのかと思った瞬間などは一気に老けた気になる。まだ誕生日が来てないのでお酒とタバコに手は出せないが、これからは年金だの何だのいろいろ大変になるんだなぁとため息を吐くものだ。
そうか、自分はまだ若かったのか。二浪して今さら何かやり直すことに対して不安を抱いていたが、その言葉に安心した。
「私たちくらいになると慢性疲労が当たり前だし、体力もね」
「俺は現役だが」
「そうだな、すまん」
ははは、と笑う金髪の男は体力がないんだと言うが、スーツの膨らみが立派な体躯を物語っている。正直その辺のひょろひょろした大学生よりずっと強そうだ。
「お二人ともお仕事はどんなことをされてるんですか?」
何となく今までは避けてきたが、今日の空気だと大丈夫じゃないかと思ったので訊いてみた。エレンがそう言った瞬間、二人の動きはDVDを一時停止した時のようにぴたりと止まった。そして互いに顔を見合わせる。やはりまずいことを訊いてしまったのだろうか。心配するエレンだったが、すぐに金髪の男が答える。
「そうだな。例えばこんな風に仕事のあとにお酒を飲んだりする…みんなのその当たり前を護るために働いているんだ」
横に座る彼の同僚は上手く誤魔化したなとでも言いそうな目で彼を見た。
当たり前に酒を飲めるために働いている…酒造メーカーか、流通業者か、何にしろ頑張ってくれているんだなと思った。
「どうして今の仕事に就こうと思ったんですか」
「んー私の場合は父の影響かな」
金髪の男の答えにエレンは驚いた。誰かの影響で仕事を決めるような人には見えなかったからだ。こんなに立派な人でさえ自身の父親の背中を追うのなら、凡人の自分がそうなってしまうのも仕方なく思えた。
「おまえはどうしてだったかな」
金髪の男が責めるようなからかうような声で黒髪の男を見る。
「…ここしか来る所がなかった」
ウイスキーを飲み干した黒髪の男はつまらなさそうに答えたが、その眼はギラついていた。
夢を持ってその道を真っ直ぐ進むとか、当たり前だがそういう人ばかりじゃないんだなと思った。生きるためにはどんな形でもいいから社会の歯車の一つとして回らなくてはならないのだ。特別な理由なんかなくてもきっと、それが普通なんだ。エレンはまるで自分が肯定された気分になりホッとした。
「お前は何してるんだ。学生か」
黒髪の男が訊く。
「俺は浪人生です」
「浪人生ってのはこんな所でバイトする暇があるんだな」
初対面なのに何だこの言われようはと思ったが、金髪の男がすかさず社会勉強の方も怠らずに立派じゃないかと言ってくれた。そんな大層なものではなかったが、そう言ってもらえて嬉しかった。
「実家暮らしか」
「はい」
「浪人生ってことは、これから大学に入れば楽しい生活が待ってるんだろうな。出会いもあるだろうし、より専門的なことも学べるし、趣味の時間だってたくさん持てるだろう」
金髪の男は笑ったが、エレンの想像する学生生活はそんなものではなかった。日々、勉強・勉強・勉強である。出会いなんかあったとしても付き合うだけの余裕が持てるのかどうかわからない。
もっとも、もうすべて自分には関係のない話となるのだが。
「お二人は大学はどちらに?」
当たり前のように大卒前提で話しかけるが、その瞬間にまた二人は一時停止する。
「大学か…世間一般で言う大学には行ってないな」
金髪の男は意味あり気に言ってグラスに口を付けた。
「俺は田舎の高校を出てすぐに今の会社に入った」
黒髪の男は空のグラスをエレンに手渡す。もう一杯という意味だ。
エレンは驚きつつも安心してしまった。立派に働いている人だって学歴がすべてではないのだ。大学を出て働くことがすべてではないのだ。今まで思い描いてきた道からは逸れてしまうがほとんど不安はなくなった。
エレンにはもう別の夢がある。新たな夢を見つけた時の興奮からすれば、医者になるというのは夢ですらなかったのかもしれないとさえ思えた。
「私たちのことより君の方は?」
「一応医学部を目指してたんですけど、別の目標ができました」
別の目標という単語はハッキリと声に出した。金髪の男は青年を見て少しだけ笑った。それは何か懐かしいものでも見ているような、純粋に夢を追う過去の無知な自分を見ているようだった。
「何かきっかけがあったのかな」
エレンはその言葉を待ってましたとばかりに拭いていたグラスを置いて『一昨日の旅客機緊急着陸事故ってご存知ですか?』と迫った。
*
「うわぁ見て、もうあんなに空港が小さいよ。早いね」
「ああ、あと一時間弱でもうトウキョウだろ。飛行機ってすごいよな」
エレンは窓の外を見下ろしながら言った。小さい頃から何度か飛行機に乗る機会はあったが、空からの景色は他では味わえないものだと思う。上空から見渡す自分の住む街、そびえ立つ山に、そのさらに上を流れる雲。生まれた国のすべてを見下ろしていると鳥肌が立つ。それだけでもう十分素晴らしい景色だったが、この先にまだ見たことのない何かがあるような気がした。眺めているこの青よりももっとすごい光景が待っているような気がするのだ。
空酔いだろうか。体の中から何かが吐き出そうだ。
幼なじみのアルミンと旅行に行った帰りだった。およそ一時間十分のフライト予定。現地の天候は晴れで、到着予定時刻にズレはない。少し残念に思った。もっと長い時間空にいられたら楽しいのに。飛行機が安定してからは窓の外に見える景色に大きな変化はないが、それでもこれをずっと見ていたい。エレンは空を飛ぶのが地味に好きだった。
ドオンという大きな音がしたのは、離陸してから二十分くらい経った頃だ。
機体が大きく揺れる。突然の爆音と異常な動きに乗客からは悲鳴が上がり、飲み物やひざ掛けを配っていた乗務員の女性たちは一斉に床へ倒れた。機内は一斉に慌ただしくなる。
「何だ」
「爆発か」
「おい、この飛行機大丈夫かよ」
「うわあああん!ママァ」
「まさか落ちるんじゃないでしょうね」
静かだった機内は一気にざわついた。まるでドラマのワンシーンのようだ。
「いってぇ…」
エレンの右腕からは血が出ていた。衝撃時に前の座席の後ろ側に付いている簡易テーブルと自分の体の間に挟んでしまい、そのまま皮膚を裂いてしまったのだ。命に関わるような怪我ではないことはわかるのだが傷の大きさしてはやけに血が出る。こういう怪我は痛くて嫌いだった。
「ちょっとエレン、大丈夫?」
「ああ。まぁ死にはしねえよ…いてえけどな」
エレンは仕方なく羽織っていた茶色のシャツを脱いで右腕の肘辺りをきつく縛った。
出血をした時は、傷口から一番近い心臓側の関節を押さえろと父に教わったことがある。手の先まで痺れるが仕方がない。そんなことよりも一体何が起こったのだろうか。
窓の外を見てみると青い空と白い雲、そして緑の大地が上下に揺れている。客室乗務員たちは真剣な顔を見合わせると、乗客たちに落ち着いてシートベルトをして下さいと呼びかけたり機内の電話で連絡を取ったりしている。
「ねぇ、この飛行機大丈夫かな?高度が落ちてる気がする」
「俺も左右に揺れてるように感じるよ」
周りから怒声や悲鳴が飛ぶ中、エレンとアルミンは冷静に自分たちの状況を分析していた。
「すごい音だったけど、もしかしたら何か爆発したんじゃないかな」
「爆発って、エンジンとかか?故障したのかよ」
「それはわからないけど…だけどまだ離陸してから30分も経ってない。無事にトウキョウに着けるだろうか…」
「おいおい、縁起でもないこと言うなよ」
そうは言ったが、客室乗務員の顔がこの事態の深刻さを物語っていた。誰もみんな落ち着いてシートベルトを着用して下さいと必死に叫んでいる。さっきまでお飲み物はいかがですかと笑っていた女性たちだ。
ベルト着用サインが点灯し、乗務員たちは耳元で囁きあうように何かを連絡している。爆音から五分くらいだろうか。相変わらず上下左右に揺れる機体の中では、困惑と絶望が漂っていた。通路を挟んでアルミンの横に座っていたサラリーマン風の男性は、小さなメモに必死な形相で何かを書き込んでいる。この状況だと覗かなくても遺書だとわかる。
地上とは違う。空でのトラブルは即、イコール命の危機だ。飛行機のシステムや燃料のことなんて何もわからない素人だってそれくらいは知っている。機長からは未だに放送の一つもかからず不安は増す一方だ。
俺、死ぬのかな。
エレンもそう考えた。何となく目を向けた窓の外は大きく揺れている。きっとこの機体はコントロールできていないのだ。そしてこのまま燃料が切れるまで飛び続け、最後は海面に激突して機体は大破し海に沈む。乗客乗員全員が魚のえさになる。現在思い描ける最悪のストーリーだ。
腹の下が疼いた。鳥肌が立つ。怖いからだろうか。それにしてはやけに冷静な自分の頭に驚く。この状況で、一乗客の一人に過ぎない自分に何かできることはないかと考える。正義感だとか使命感だとかそんなものではない。ただ、どうにもならない状況だからと頭を抱えて死を待つ人間にはなれなかった。
「エレン」
次第に姿勢が良くなり前のめりになる友人を心配して名前を呼んだアルミンだったが、エレンは宙を見たまま考え事をしている。機内は時間の経過とともに騒がしくなっていく。青年がもう一度返事のない友人の名前を呼ぼうとした時だ。エレンの視界の端に何かが映った。虫のような黒い物体が突然現れた。
「何だあれ…?」
真横を見たエレンは、窓の外に奇妙な形をした飛行物体を見つける。全体は濃いグレーと薄いグレーで塗装されていて、主翼の他に大きな垂直尾翼を持っている。機体の下に膨らんだアーモンドのような何かも確認できた。そのアーモンドの正体は実際には外付けの燃料容器だったが、形からしてミサイルに見える。結果としてそんな間抜けな勘違いが謎の飛行物体の正体を当てる決め手になった。
「おい、あれって戦闘機じゃねえか」
「え?」
エレンがそう言うと、アルミンもベルトで満足に動かせない体を捻って、エレンの頭の向こうに広がる景色の中にそれを見つける。
「本当だ。国防空軍のマークが付いてる」
アルミンの声に他の乗客たちも反応した。
「国防軍だ」
「どういうことだ?まさかハイジャックじゃないだろうな」
「戦闘機…F‐55だ!すげえ、初めて見る!」
国防軍の誇る世界最強と名高い戦闘機を目の前に、ある者は更に絶望の中へ落ち、ある者は興奮と共に希望を取り戻した。エレンは後者だった。
「すげえ…本物だ」
今まで軍隊などに興味を持ったことはなかった。しかし同級生が男なら鉄道かロボットのどちらかに一度はハマるもんだと言い張る中、それをすっ飛ばし飛行機に興味があったエレンは、はじめて新幹線を見た時よりも人気のロボットアニメがテレビでやっていた時よりも、空を駆けていく巨大な金属の塊を見た時の方が何万倍も興奮した。
軍人に憧れたことはないが、戦闘機のパイロットとなると話は別だ。今はじめて生で見る無駄のない洗練された機体と、四本の手足だけでそれを操る操縦者に釘付けになった。コックピットの中には小さく人影が見えている。バイザーも下ろしているので顔はよく見えないが、ヘルメットには『HAWK』の文字があった。
「ホーク…鷹…?」
体中を電気が走りゾクゾクした。
戦闘機のコックピットを覆う透明のカバーの中でパイロットがハンドシグナルを送っている。誰に宛てたものかはわからないがとりあえず手を振ってみる。するとこちらに気付いたのか向こうも親指を立ててくれた。戦闘機は腹を見せながらこちらの機体後方へ離れていき、入れ替わって別の戦闘機が真横に来た。
エレンが口を開けたまま平行に飛ぶ独特のシルエットに夢中になっている内に機長からはようやく放送が入る。
『機長の……です。当機は離陸直後エンジンにトラブルが発生致しました。予定通りハネダ空港へ向かいますと安全な着陸が困難だと判断し、これより行先を変更してカンサイ空港へ緊急着陸致します。途中、機体が大きく揺れることも想定されますが、どうか落ち着いて乗務員の指示に従って下さい。乗客の皆様にはご迷惑をお掛け致しまして大変申し訳ございません』
その声は冷静だった。無事に外とは連絡が取れたのだ。国防軍が付いているなら怖くない。どうにかなるに違いない。エレンは窓の外のグレーを見つめ続ける。やがて機体前方の方へ消えていく戦闘機に囚われたままだ。心臓が高鳴ってどうしようもない。
その間も機体は大きく揺れた。子どもの泣く声はあちこちから聞こえたし、祈るように両手を合わせる人や呪文のように何かを唱える人もいる。カンサイ空港ならもう目と鼻の先だろう。離陸してからの時間と予定にあったハネダ到着時刻を考えれば、むしろ過ぎているのではないかとさえ思った。放送から五分十分くらい経って、少し海面が近くなったように感じると再び連絡が入る。
『当機は間もなく着陸態勢に入ります』
その放送からすぐに機体が大きく右に傾く。それからはあっという間だった。
「見えた。カンサイ空港だ」
アルミンが耳元でそう叫ぶ。前方下の方に、海に浮かぶ孤島が見える。海上に構えるそれこそ、目指すカンサイ空港だった。本州から糸のように細い道で繋がっている。姿を現してからはもっと早かった。どんどん高度は下がり、孤島を繋ぐ道路を走る車の上を通過した。いつの間にか真横を飛んでいたはずの戦闘機の姿は見えない。機内には緊張が走る。
滑走路がどんどん近くなる。もう着く。あと少し。
近付くアスファルトに心臓はさらに高鳴る。着陸の衝撃を今か今かと待った。エレンは下唇を噛んだまま窓の外を流れる緑の芝生と遠くに見える本州を見つめる。
ガッと衝撃が走る。大丈夫だ。いつもの着陸と何の変わりもない。車輪は着いたが飛行機はとんでもないスピードで走っていく。だけど少しずつ減速していった。窓の外には消防車や救急車、空港警察にその他よくわからない車両も待機している。速度がゼロに近付くにつれ、乗客の間に安堵の空気が広がっていく。もう大丈夫だ。自分たちは地上に戻って来たのだ。エレンも大きく息を吐いた。
飛行機が完全に止まってもベルト着用サインは点いたままだった。
『これより三か所の脱出用シューターで避難して頂きます。右側のシューターはご利用できませんので、乗客の皆様は乗務員の指示に従って落ち着いて行動して頂くようお願い申し上げます。地上に降りましたら、空港職員が移動用のバスにご案内させて頂きます』
離陸してからまだ一時間も経っていないのにもう何十時間も空にいた気分だ。機体の左側から脱出したエレンとアルミンは、地上に降りて空港職員の案内に従ってバスに乗り込もうとした時、ようやく自分たちがどんな状況に陥っていたのかを理解した。
「うわっ、何だあれ」
機体の右側のエンジンから黒煙が上がっている。小さくオレンジ色の炎も見える。
「エンジンが燃えてる…あんな状態で飛んでたの?」
アルミンは絶句した。それもそうだ。もちろん爆発は想像の範囲内だったが、あまりにもスムーズに着陸できたので、機体の状態は思ったより安定していたのかと安堵した直後なのだ。
乗り込んだバスが空港ターミナルに着いて降りるまでは、完全に助かったとは思えなかった。バスから降りて息を吐き、とんだ災難だったねとエレンに話しかけると、彼は右翼に向けて放水をする消防車の向こうに広がる空を眺めながら返事もしない。まるで憑りつかれてしまったようだ。
何かから護るように張り付いていた戦闘機の姿はもうなかった。
*
「へえ、あの飛行機に乗っていたのか。怖かっただろう」
「まぁ、死ぬかと思いました。でもそれよりやっと自分の夢を見つけられたことが嬉しいんです」
「夢?ジャンボ機のパイロットにでもなりたいのかい」
「半分当たりです」
エレンはまるでおもちゃを見つけた子供のように興奮して叫んだ。
「俺、戦闘機のパイロットになりたいんです」
「「は?」」
目の前の凸凹コンビは、目を見開いて驚いてみせた。
「今何て?」
金髪の男は言う。
「だから、戦闘機を操縦したいんです」
「冗談だろ?」
黒髪の男は口に運ぶ途中で止まったままのグラスをそのままに呆れた声を出した。
何をそんなに驚くのか。もしかしたらこの人たちは軍隊とか軍人が苦手なのかもしれない。そういう人種の人もいるということは知っている。
「冗談じゃないです。実際に戦闘機見てわかったんですよ。空が、あそこが俺の生きる場所なんです」
「何かっこつけてやがる。憧れだけでどうにかなる世界じゃねえぞ」
黒髪の男はもともと不機嫌な顔だったのがさらに酷くなった。エレンもムッとして眉間にシワを寄せた。
あんたに戦闘機パイロットの何がわかる。別にかっこなんかつけてない。かっこいいから戦闘機に乗りたいわけではない。ただ、自分の中の何かがあそこに立てと言っている。あの景色を求めているのだ。そんな自分の中だけの話を他の人間にしたってわかるわけはなかった。しょうがないことだ。
「医者なんて人から感謝されるすばらしい職業だと思うけどね」
「別に他人から感謝されたくて医者を目指していたわけじゃないですし。それに色々大変なんですよ。大陸で新しいウイルスが発見されて、バイオセーフティレベル…って言ってもわからないと思いますが、そのウイルスを扱うために要求される施設のランクが最高値の4に設定されたんです。レベル4の実験室を持つ施設は国内にも二か所ありますが、どちらも周辺住民の反対で運用されていません。WHOによれば対策を打たないと四年後には死者一万人を超えるかもしれないって話ですが、そういうの聞いても他人事にしか思えないんです。やっぱり俺は医者には向いてないんですよ」
他人を納得させるためだけの言い訳をすべて口に出してから目の前の二人が呆れていることに気付いたエレンは、それを誤魔化すように大きく咳払いをした。
「いいですよわかってくれなくても。でも俺本気なんです。昨日調べたんですけど、戦闘機のパイロットになるためには二通りの方法があって、一つは航空学生になって四年かけて資格を取る道で、もう一つは」
「国防大学校を卒業後、半年の教育課程と部隊勤務ののち国防空軍に入隊、パイロットコースへ進む方法だね」
金髪の男はにやりと笑った。
「で、お前はどっちに行くつもりなんだ」
黒髪の男はグラスに入ったウイスキーを揺らしながら訊いてくる。
「俺は国防大に進もうかと思っているんですけど」
「なるほど。出世したいならその方が賢明だよ」
「出世なんてどうでもいいんですけど…俺は一秒でも早く、長く空を飛べればそれでいいんです」
真剣な目で訴えると黒髪の男はため息を吐いた。その顔は完全に子どもの遊びに付き合ってやる大人のものになっている。
「空を飛びたいだけなら民間機のパイロットでいいだろ。どうしてわざわざ軍人になんかなる」
「民間のパイロットは戦闘機に乗れません」
エレンは真顔で言った。さっきの言葉には語弊があったかもしれない。正しくは空を飛びたいわけではなく、戦闘機で飛びたいのだ。クールなシルエットとその姿を見た時の引力は忘れようとしても無理だ。少年たちがかっこいいからと憧れる気持ちとはまた違う。何かに憑りつかれたように鮮明に思い出せる。
「呆れた男だ」
黒髪の男は残ったウイスキーを一気に飲み干すと空のグラスをエレンに渡した。
「そりゃあいい会社に勤めてらっしゃる方からしたら、くだらないと思うかもしれませんが」
エレンがそう言うと、凸凹コンビはまた顔を合わせて一瞬固まり、すぐに向き直った。
「まぁ、くだらないと言われれば否定はできない」
「政治家に利用され警察から敵視され国民からは嫌われ、他国の軍からはバカにされるクソみてえな仕事だしな」
「何ですか二人して、そこまで言わなくたって…」
あまりの言われようにエレンが抗議しようとすると、金髪の男は笑った。
「いやすまない。別に君のことや、国防軍をバカにしてるわけじゃないんだ。嫌っているのは一部のみで、大半はむしろ好意的に見ている」
嘘を言っているようには見えなかった。
「おまえ、名前は何だ」
黒髪の男にそう訊かれて『エレン・イェーガーです』と、まるで面接に来た就活生のようにハキハキと答えた。
「視力は」
「裸眼で両目とも1.5です」
「持病は」
「そんなものないです」
「虫歯は」
「一本もありません」
「それは残念だ。身体検査はパスしそうだな」
「残念って何ですか」
エレンには軍人を嫌う感覚が理解できない。彼らが国を守っているから、こんな風にのんびり酒を飲んでいられるんじゃないかと思う。涙を流して敬えなんて言わないが、命を懸けて戦っている人たちに感謝の気持ちくらい持ったっていいだろう。
エレンが先ほど受け取った空のグラスの代わりに何杯目かもわからないウイスキーを渡すと、おまえも飲めと言われた。
「俺は無理です」
「上官に飲めって言われてもそんな舐めた口利くつもりか」
バカな大学生じゃないんだから今時軍隊で無理やり飲ますなんてあるのだろうかとは思ったが、本気で国防軍を目指すと言った以上こんなことでバカにされるのはごめんだった。
「自分はまだ未成年なので、こちらのクソマズい炭酸水を頂戴します」
にらむように黒髪の男を見てやると、男は意外そうに眉を動かした。自分から訊いてきたくせに、どうやらエレンが未成年ということを忘れていたらしい。横でそのやりとりを聞いていた金髪の男もグラスを取る。
「まぁ君はまだ若いんだから、色々な可能性を見るのは悪いことではない。ただこのまま本当に国防軍のパイロットになるつもりなら、しっかり覚悟はしておくことだ」
「はい、ありがとうございます」
男の言う具体的な意味はまったくわからなかったが、わかったことにした。
「やめておけばいいのによ」
「放っておいて下さいよ。あなたには関係ないでしょう」
エレンがムッとして言ってやると、男は何か言いたそうに口を半開きにしたままこっちを見る。何だ、文句でもあるのか。にらみ合うような二人を見ていた金髪の男は杯を掲げた。
「まあまあ。そういえばエレン、今更になるがまだ名前を言っていなかったな。私はエルヴィン・スミスだ。こっちはリヴァイ」
「スミスさんとリヴァイさんですね」
優しい紳士がスミスさんで、クソムカつくチビ男がリヴァイさんだ。完璧に覚えた。
エレンは相変わらず何かを言いたそうな男をよく見てみる。何とも目つきの悪い人だ。きっと営業は向いてないなと思った。どこかで見たことのあるような、懐かしい感じがするのは気のせいだと忘れることにした。
エルヴィンが言う。
「それじゃあ、未来のファイター・パイロットに乾杯といこうか」
その言葉に頷いた何も知らないエレンと、全てを知る二人の男はグラスの中身を一気に流し込んだ。
02
「ホーク、撃墜成功。3対0、三回目終了です」
「何分だ」
「5分です」
モニターで動き回る二つの三角形を見ていた長身の男――エルヴィン・スミスは真剣な眼差しのまま腕時計を見た。
「あいつの腕は相変わらずだな。最前線に戻って来たのがもったいないくらいだ」
苦笑交じりに言ったエルヴィンは、北部・中部・西部・南西混成の四つに分けられた防空エリアの中で首都を含む中部を指揮する団長であり、国内一の大型空港・トウキョウ国際空港に隣接するハネダ基地に勤めている。そこにあるオペレーション・ルームで数年ぶりに戻って来たベテランパイロットと彼の後輩との
空中戦闘機動訓練を見学していた。
リヴァイ・アッカーマン、TACネーム『ホーク』とオルオ・ボザド、TACネーム『オウル』は優秀なファイター・パイロットだ。
圧倒的なセンスを持つリヴァイは空軍一のエリート部隊・教育飛行隊に引き抜かれ、過去には戦闘競技会でも歴代最高得点を獲得したという輝かしい経歴を持つ。
そのリヴァイが教育飛行隊で各地を回っていた時にボコボコに負かしたパイロットの一人がオルオである。努力家の彼は国防大出身のキャリアだが航空学生出身のノンキャリアであるリヴァイを神の如く崇めており、操縦技術や戦略の真似に止まらずよく同じ服を買ったりしているがリヴァイ本人は地味に嫌がっている。
そんな二人も空ではいいコンビだ。同期の中では目立ちたがるオルオもリヴァイの僚機(ウイングマン)として上がった時は大人しく指示に従っていいサポートを見せる。
「しかしやはりモニターで見ているだけでは上空で何が起こっているのかすべてはわからないな」
確実なのはオルオが五分の間に三回、3マイル以内の距離からロックオンされたということだ。もっと細かく上での動きがわかるシステムがあればいいんだがと考え込んだ時、ちょうど連絡が入る。
「団長、DCから緊急連絡です。トットリ発ハネダ行き、スカイブルー・ワン・ゼロ・フォー・フォーで機体トラブルが発生したとトウキョウ・コントロールより連絡がありました。シガ上空で針路を逆転させ、現在はキョウト方面に向かっているそうです」
「嫌なコールサインだな。この二人か?」
「ええ。現在1044便と同じワカサセクターを運良く飛行中のF-55が二機、偶然にもおりまして。機長からの連絡によると後方から爆発音がしたのちコントロールが困難になったそうです」
「わかった。すぐに向かわせよう」
『ブルーフル・エレメント、ヤマト・ゼロワン。
訓練は中止だ。トットリ発ハネダ行きの旅客機にトラブルが発生した。当該機は針路を転換し航路から外れキョウト方面へ飛行中。ただちに追って状況を確認しろ』
三回目の撃墜判定を得た直後にハネダの防空指令所(DC/Direction Center)…コールサイン『ヤマト』から入った通信にリヴァイは目を細めた。旅客機が急に針路を変えるなんて最悪の想定としてハイジャックが過る。
「ブルーフル・ゼロワン、ラジャー」
『ツー』
僚機であるオルオの返事も確認して操縦桿にかけた手に集中した。
「ヤマト・ゼロワン、ブルーフル・ゼロワン。リクエスト・フォー・ベクター(誘導を求める)」
『レフトターン・ヘディング270、クライム・エンジェル29。コンタクト・トウキョウ・コントロール、ツー・エイト・セブン・デシマル・シックス(左へ旋回して方位270度、高度29000フィートへ。287.6MHzでトウキョウ・コントロールと交信せよ)』
「レフトターン・ヘディング270、クライム・エンジェル29、コンタクト・トウキョウ・コントロール、ツー・エイト・セブン・デシマル・シックス」
ハネダ基地所属ブルーフル飛行編隊はただちに1044便を追った。
『うわ、あれヤバくないですか』
目視で確認できる距離まで来た時、とても良好とは言えない視界の中で目標はすぐに見つかった。
「トウキョウ・コントロール、ブルーフル・ゼロワン。現在目標の後方約15マイル。オレンジの光と黒煙を確認。更に接近する」
何らかのトラブルが発生したらしいというのは見て取れた。翼を大きく広げた鳥にも見える金属の塊は、右翼側から黒い煙を吐き出しながらグラグラと揺れている。
「距離0.5マイル。右翼側のエンジン一発から黒い煙が出ている。奥にオレンジ色の炎も見える」
『他の三発はどうですか』
「異常は見て取れない。機体は不安定に上下している」
ブルーフル・ゼロワンからの報告を受けたトウキョウ・コントロールではすぐに最寄りの空港への緊急着陸の手配を進めた。近隣を飛行中の航空機の航路はすでに変更させている。
「現在地から一番近い空港はどこだ」
「イタミです、およそ7分で到着します。ですが近隣が市街地なのでコントロールが不自由な旅客機を着陸させるのは危険です。カンクウに回しましょう」
「どれくらいで着く?」
「およそ10分弱ですが、現地は厚い雲が張っていてビジュアル・アプローチは困難です。計器類がほぼ使えなくなった1044便が着陸するためには…」
海上空港に着陸させた方が二次被害の可能性が減る。機体の状況と両空港までの到着時間、現地の天候や風向きを考慮し、1044便はカンサイ国際空港に緊急着陸させることに決まった。
『ブルーフル・エレメント、ヤマト・ゼロワン。これより1044便をカンサイ空港に緊急着陸させる。現在空港周辺には厚い雲が張っていて目視での進入は困難だ。当該機は電気系統にも異常が生じておりクリアーな通信が不可能でレーダー誘導もできない。カンサイ国際空港までエスコートしコマキにダイバードせよ』
「ブルーフル・ゼロワン、ラジャー」
『ツー』
指令所から指示を受けた二機はすぐに任務に移った。
1044便の右側後方上にリヴァイ、左側後方上にオルオが着くが、リヴァイはちょっと待てと言うと左翼側に回り込み確認する。
『どうしましたか』
「問題ない、お前は左翼側に着け。翼の真後ろを通るなよ。後方乱気流に巻き込まれたらひっくり返るぞ」
『了解。俺、民間の旅客機のエスコートなんて初めてですよ』
「安心しろ、俺も初めてだ」
いやそれは安心できないだろうとハネダDCでは呆れた空気が漂っていたが、リヴァイ教の信者であるオルオに何を言っても無駄だ。リヴァイが黒だと言えば白だって黒になる。
そのリヴァイが右翼側に移動しようとした時だ。
旅客機の窓から視線を感じた。爆発音のあとに揺れ始めた機体、そして戦闘機の登場となれば乗客はさぞびっくりしていることだろう。ふと中の一人と目が合った気がした。自分の方を見ている。その男はこちらに向かって手をかざしてきた。
驚いて固まったがすぐに親指を立てた。自分たちが来たからには何が何でも無事に着陸させてみせる。
カンサイ空港の滑走路に進入しようかという時、何故か機首が急激に下がりアスファルトに叩きつけられた機体が真っ二つに折れた。ああこれは死んだなと思った瞬間、後頭部に衝撃が走った。
痛む頭にゆっくり目を開くと見覚えのある天井が見える。高さ30センチのベッドからフローリングへ墜落していたのだ。最悪の目覚めだった。
リヴァイは頭を押さえながら起き上がり、電気ケトルでお湯を沸かす。セミダブルのベッドに黒のソファーとガラスのテーブル、32型の液晶テレビくらいしかない殺風景なリビングのフローリングに座り軽くストレッチをした。どうも身体が重い。変な夢を見たせいかもしれない。今朝はずいぶん早くから呼び出されているので日課のランニングをしている暇もない。
だから昇進なんて嫌だと言ったのだ。一緒に空へ上がった僚機の面倒なら見るが、基地に所属するファイター・パイロット全員を預かるなんて自分の柄ではない。
そんなことは上司ならわかっていると思っていたが、理解した上でこの仕事を押し付けてきた。もちろん嫌がらせではないことは承知しているが、飛行兵長なんて面倒くさい響きの役職にはげんなりする。
『ニュータバルでF‐55の機種転換操縦課程を修了した新人が明日挨拶にやって来る。おまえも直属の上司として付き合え』
本当なら非番だったのに突然そう言われたのはつい昨日のことだった。
ハネダ基地の指揮官は中部方面隊の団長であるエルヴィンが兼任しているが、要撃飛行隊のパイロットたちの面倒を直接見ているのは飛行兵長であるリヴァイだった。
国防大を首席で卒業したのち国防空軍に入隊、パイロットコースを進み現場を十分に経験したあと順調に出世していったエルヴィンに言わせれば、上のやることに文句をつけたいならある程度の不自由とそれなりの地位が必要だという。身体が許す限り空を飛んでいられればそれで良かったリヴァイだが、上層部のやり方に反吐が出るほどの嫌悪を感じているのは確かだった。
異例の二佐昇進と同時に飛行兵長に任命されてから、ただの天才パイロットだった頃は呼ばれたこともない席に同行させられることも増えた。それは反吐が出るようなやりとりを傍で見る機会が増えたということだが、同時に中央の肥えた豚共に直接嫌味を言える機会も得たということでもあった。
リヴァイは迷った挙句ネイビーの制服ではなく背中に翼が刺繍されたオリーブグリーンの飛行服の袖に腕を通すと、インスタントの紅茶を淹れて一気に飲み干した。飛行服の左胸には黒いワッペンに金色で『L.Ackerman』の文字と、その上に国防空軍のパイロットであることを示すウイングマーク――ホワイトとブルーの双翼である――通称『自由の翼』があった。
何が自由だと笑いそうになる。
生まれてこの方他人の前どころか自分の意識下でも笑ったことがないリヴァイはもちろん笑わないのだが、この国の軍人がこのシンボルを背負うことはあまりにも滑稽だ。
顔を洗ってニュースを見ながら歯を磨いていた時、テレビの横の床で充電器に繋がれたまま放置されたスマホが震えだした。もともと人付き合いは苦手な上に登録したアドレス以外からの受信を完全に拒否しているので、そう頻繁にメールが来ることはない。おまけに時計はまだ朝の七時前を指す。くだらない内容ではないと思い歯ブラシを咥えたまま液晶を覗き込むと、自分の休日をぶっ潰した張本人からの連絡がきたと通知されていた。
『今、お前の家の前にいる』
鳥肌が立った腕を押さえストーカーかよとツッコミたくなった。しかしエルヴィンが他人からすると異常とも言える行動をとることは珍しくなく、本人も自分の頭のネジは何本か外れているのだということを知っているので、リヴァイは彼のことを気持ち悪いと思っても五回に一回くらいしか口に出さない。
「おはよう。今日は休日なのにすまなかったな」
「本当にすまないと思ってる奴の顔には見えねえ」
助手席に乗り込んだリヴァイは運転席でスマホをいじっていた上司を睨みつけた。家を出る支度はほぼ済んでいたとはいえ、迎えに来るならもっと前に連絡をよこせと思う。
「いや、確かにタイミングは悪かったと思っている。だがおまえだって彼に会いたいだろうなと考えてのことなんだ」
彼というのは今日やってくるという新人のことだろう。リヴァイはどういうことだと訊く。その新人の初出勤は明日で、今日は基地の案内と説明だけのはずだ。直属の上司となるリヴァイの同席は当然だが、会いたかったとは聞き捨てならない。別に好きでやってるわけじゃないのだ。
「これを見ろ。その新人君についての資料だ」
リヴァイが受け取った厚手の白い紙は、一般的な履歴書と似ていた。右上にはバストアップの写真が貼られている。濃紺の制服に身を包んだ青年は緑色の瞳でまっすぐにこっちを見ている。前髪は昔より短くなったが、その顔にはよく見覚えがあった。
「そうか、あいつ本当に戦闘機のパイロットになりやがったのか」
写真の左横に書かれた『Eren Yeager』の文字に目を細める。今朝、青年とはじめて会った時の夢を見た。会ったと言っても向こうは旅客機の客席から、こっちは戦闘機のコックピットから互いの乗る機体を確認した程度だ。
しっかりと顔を見て話したのはそれから二日後のことだった。
当時浪人生だったその青年に『戦闘機のパイロットになりたい』と言われた時は驚いたものだ。
何せ自分はついさっきまでその戦闘機に乗っていたのだ。彼がその夢を抱いたきっかけとなった事故の現場にもいた。青年が見た戦闘機はたぶん…いや絶対に、自分が操縦していたものだったのだろうと思う。
国防軍が抱える問題については嫌になるほど知っているエルヴィンと共に、空を飛びたいだけならやめておけと忠告もした。かっこいいだとかそんな理由だけでやっていけるような甘い世界ではない。国を護るという漠然とした使命の具体的な形を見出せないまま命を落としてしまうことだってある。無念としか言いようのない最期を迎える、そういう人間を何人も見てきた。
しかし、民間人だと勘違いしていたとはいえ、国防軍のパイロット二人に真っ向から反対されても青年の意志は変わらなかった。昨日の今日で急にファイター・パイロットになりたいだなんて一過性の熱に浮かされただけだと思っていたのだが、それから半年後、彼は本当に試験に合格して航空学生になってしまったので最早何も言えなくなってしまった。
四年かけて全国の基地をグルグルと回り最後に戦闘機の操縦課程を修了した彼は、これから国家予算をつぎ込んだ機体に乗って任務に就くのだ。
「もちろんまだアラート任務には就かせられないが、おまえが鍛えてやってくれ」
リヴァイはゴミでも見るような目で白い紙に書かれた青年の情報に目を通しながら返事をしたが、別にエレンのことをゴミだと思っているわけではなくこれが彼の平均的な常の表情なのである。この顔と着飾らない素直な物言い、乱暴な言葉遣いに遠慮のなさのせいで上下関係や礼儀・規律を重んじる軍隊では嫌われている。
と言っても上からの話で、実は部下や後輩の面倒見はいい方なのでリヴァイを尊敬する仲間も一人や二人ではない。
「エレンは今年で何歳だ」
「四年前に十九歳だったから、今は二十三、四じゃないかな」
「クソガキだな」
「高卒ですぐ入隊する奴は十代だっているんだぞ。まあ、ここでは実年齢よりも階級と入隊してからの時間の方が重要だから強ち間違いでもないんだが」
話に夢中になっているとグレーのフェンスに囲まれた基地が見えてくる。
空軍に限らず、国防軍の基地はその大部分が都市部ではなく郊外や地方にある。
全国の基地を総括し国防空軍全体を指揮する総隊司令部もあるハネダは国内有数の大型空港と隣接し都市部へのアクセスも良い場所にあるのにチトセ、ミサワ、コマツ、ヒャクリ、ツイキ、ニュータバル、ナハと合わせて全国に八つしかない戦闘機の
緊急発進を行う基地でもある。その巨大な基地のゲートを通って飛行隊の庁舎へ向かった。
エレンと会うのは実に四年ぶりになる。航空学生の渡り歩く基地の中にハネダは含まれなかった。
四年前に青年がバイトをしていたバーには今でもたまに顔を出す。店長は自分たちの正体が国防軍の人間だと気付いていたが、戦闘機パイロットを目指すエレンには最後までそのことを言わなかったらしい。
別に隠さなくてはならない理由があったわけではないが、エルヴィンとリヴァイは自分たちと同じ道を目指す青年に最後まで正体を明かすことなく航空学生になるまでの半年を過ごした。エレンの中では二人はまだ"民間の"いい企業に勤めるサラリーマンであるはずだ。まさか自分の直属の上司と、基地の司令官だなんて想像もしてないだろう。
『四年後、立派に戦闘機パイロットになったら挨拶に来ますから』――そう言って去って行った姿を思い出す。
戦闘機パイロットへの道は狭き門だ。やる気だけで何とかなるものではなく、適性という壁がある。ある者は視力が足りず、ある者は空酔いが克服できず、ある者は血圧が基準を満たさず、ある者は試験に合格できずパイロットコースを脱していく。
果たしてエレンにこの国を背負って空を飛ぶ資格があるのかどうか、それは当時のエルヴィンにもリヴァイにもわからなかった。
*
「うわあ、でっけえ」
ハネダ基地の守衛室で入場証を貰ったエレンは、海からの風が吹き付ける滑走路を見ていた。その向こうには小さく、民間の航空機が今にも離陸しようとしている滑走路も見える。
よくこんな場所に国防軍の基地なんて作れたものだと感心してしまう。ハネダ空港の飛行機の発着数は一日に千を超える。まるで空のスクランブル交差点だと思った。それほど混み合っている中を空軍機も飛ぶなんて、周辺住民からの大反対があったのも納得だ。
周辺住民といえば彼らもこの辺に住んでいると言っていた。
四年前にアルバイトをしていたバーの常連だった、エルヴィン・スミスとリヴァイ・アッカーマンは鋭い目つきが印象的なコンビだったと思い出す。無事にパイロットになったら挨拶に行くとは言ったが、配属される基地によってはそれも難しいと知ったのは入隊してからだった。まさかハネダに決まるとは思ってもみなかったので、エレンはびっくりし過ぎて連絡するのも忘れてしまっていた。二人とは一応、トウキョウを離れる時にアドレスだけ交換したのだ。
「えーと、飛行隊の庁舎は…あっちか」
都市部にあるだけはあり、面積はそこまで大きくないと思っていたのだが、基地の周りまでごちゃごちゃと建物があるので、広いのか狭いのかよくわからなくなってしまう。ぎこちなく歩きながら庁舎にたどり着くと、女の人が立っていた。
「ああ、あなたがエレン?今守衛さんから連絡貰ったのよ」
肩までの金髪に大きなブラウンの瞳の女性はエレンより年上に見えるが、まだ三十にはいってないだろう。金髪が映えるオリーブグリーンの飛行服には『Ral.P』と書いてある。左胸に羽ばたくブルーとホワイトの翼が、彼女もパイロットだということを示していた。
「はじめまして。明日から配属になります、エレン・イェーガー三等空尉です」
「どうもはじめまして。ペトラ・ラル二等空尉よ。あなたの先輩になるわね」
メイクはしてないと思うのだが、そのわりには透明感のある白い肌が太陽の光を反射して眩しい。思わず目を細めると彼女は不思議そうに首を傾げ、さっそくだけど団長の所へ案内するねと歩き出した。
中部方面隊の団長ということはこの基地の司令官だ。エレンのような末端のパイロットからすると普段は会う機会なんてないだろう。少なくともここに来るまではそう思っていた。直属の上司となるのは別の幹部隊員なのだ。
「団長は戦闘機のパイロット経験もあって、今も月に一回は飛んで資格を保っているのよ。現場の苦労はわかってくれてるから、私たちパイロットのこともとても気にかけてくれてね。忙しい人だから中々会えないとは思うけど、着隊の挨拶はしっかりね」
短い説明の中に元ファイター・パイロット(資格は現在でも持ってるらしい)という情報を見つけて、エレンの中での団長の印象が急激に良くなった。上から数えた方が圧倒的に早い地位にいる人に親近感なんて湧かないと思っていたが、ウイングマークを身に着けているのなら話は別だ。
階段を上って滑走路を見渡せる広い部屋に案内された。部屋の中には誰もいなかったが、代わりに入り口とは違う扉がもう一つある。ペトラと名乗った女性はその扉をノックする。
「団長、連れてきました」
「入ってくれ」
中からは低い声がする。こもっていて良く聞こえなかったがそう歳もいってない気がする。四十…いや、まだ三十代でも通るかもしれない。さすがにその年齢で団長だなんてとんでもない出世なので、勝手に四十五歳くらいだろうと決めて、ペトラが扉を開くのを待つ。
その向こうには、中部方面隊の団長でハネダ基地の指揮官も務める、ウイングマークを背負った四十五歳の厳ついオッサンが待っている――つもりで部屋の中に足を踏み入れた。
「やあエレン。久しぶりだな」
「え、あ」
扉の奥に待っていた金髪長身の男に、エレンは目を見開いてマヌケな一言を投げかけた。
「エルヴィンさん…?」
「ああ。会えて嬉しいよ。こいつもいるぞ」
四年前にバイトをしていたバーの常連だった感じのいい紳士の横を見ると、同じく常連だった黒髪の男も立っている。
「とうとう本当に来やがって」
「リヴァイさんも。どうしてこんな所に!?」
エレンの頭は悪くはないのだが、この状況を理解するのは不可能だった。
今まで、ただの一度もこの二人に軍人らしい何かを感じたことはなかった。只者ではないとは思っていたのだが、そもそも入隊するまで国防軍の人間だという人に会ったことがなかったので、彼らが持つ独特の雰囲気もわからなかったのだ。
その記憶の所為か、厳しいチェックが入り部外者の立ち入りは一切禁じられているこのハネダ基地の中で会ったとしても、そして二人が国防軍の制服を着ていたとしても、彼らを軍の関係者だと認識することができなかった。
「第一声がそれか?『明日からお世話になりますエレン・イェーガー三等空尉であります。まだまだ自分でケツも拭けない未熟なクソガキですがどうかよろしくお願い致します』――くらいは言えねえのか」
「えっえっえ」
餌を待つ鯉のように口をパクパクと開く姿を懐かしいなと思いながら、エルヴィンはそう虐めてやるなと助け舟を出した。期待通りの反応を見せてくれたが、驚くのも無理はないだろうと考える。目の前の青年の頭の中ではエルヴィンとリヴァイは民間企業に勤めるサラリーマンという設定のままなはずだ。
「驚かせてすまない。私は中部方面隊の団長でこの基地の指揮官でもある、エルヴィン・スミス一等空佐だ」
「はい?」間抜けな声が上がる。
「俺は不本意ながら飛行兵長だ。名前は知ってるよな」
「はぁ?」何だこれは。何が起こっているんだ。
エレンは自己紹介されてもまだ頭が着いて行かなかった。四十五歳の厳ついオッサンはどこにもいない。影も形もないとはどういうことだ。
「隠していたのは悪かったと思っているよ。でも冗談ではない。私たちは国防空軍の幹部だ」
「えっ」
「俺はお前の直属の上司にあたる。忠告を無視してパイロットになりやがったんだ。明日から鍛えてやるから覚悟しとけよ」
「ええっ」
嘘だ、信じられない。
そう思うエレンだったが、濃紺の制服に身を包んだエルヴィンのその肩にはシルバーの二本線に星が三つある。間違いなく一等空佐である。オリーブグリーンの飛行服を着たリヴァイの襟にもシルバーの二本線に星が二つ、二等空佐であることがわかる。
「じょ…冗談とかじゃないんですか」
「国防軍の冗談はこんなに面白くはないぞ」
「こんなバカな」
「上官を嘘吐き呼ばわりとは、もう一回ニュータバルに戻るかてめえ」
真剣な顔付きの二人にエレンもようやく状況を認識し始めた。
そうか。自分がずっと民間の人間だと思っていた男たちは、どちらも国防軍の人間だったのだ。自分の進む道のずっと先を歩いている人たちだったのだ。
信じられないが事実だ。四年間、満足に遊ぶ暇もなかった辛い日々の中で、無事にF-55のパイロットになれたら会いに行こうと思っていた二人は今、自分の上司として目の前に立っている。
「で」
にらみつけられてつい腰が引ける。何でしょうかと問う自分の声は、航空学生の時にデブリーフィングで教官に『てめえみてえな能無しに空を飛ぶ資格はねえから今すぐ失せろボケ』と言われた時より震えている。
「俺たちは名乗ったんだが。何か言うことはないのか」
二等空佐殿は下から見下ろしてきた。おかしな言葉だがそう表現するより他になかった。
「すみません申し遅れました!戦闘機操縦課程を修了し、明日付けでハネダ基地第845飛行隊に配属になります、エレン・イェーガー三等空尉です。まだまだ自分のケツも拭けない未熟者ですが、どうぞよろしくお願い致します!」
四年ぶりに見るその顔は相変わらず不機嫌そうに『どうして俺がてめえのケツを拭かなくちゃならねえんだ』と理不尽を口にしたが、エレンは軍隊生活で身に付いた『とにかく上官には逆らうな』という教えによって反射的に敬礼をして声を裏返すしかなかった。
03
真後ろを取られる瞬間、ヤバいと思った。機関砲で狙われたら敵パイロットが寝ていても撃墜される距離だった。
ヤツが格闘戦を得意としているのは知っている。だけどまだ撃墜判定を取られたわけではない。ヤバいと感じてから一秒も経たずに機体を180度回転させ、一瞬背面飛行にすると頭の上に海が広がる。ここまではほとんど脊髄反射だった。
エレンは今世界を逆さまに見ているのだ。
180度のロールが完了するまで待ってから間髪を入れず操縦桿を引いて機首を上げると、後ろに着いた敵機にほんの一瞬無防備な背を見せて半宙返りをすることになる。こうすれば針路を180度変更することができる。この縦機動が俗にスプリットSと呼ばれるターンだ。二機はこの空戦が始まった時のようにすれ違うことになるので、当然お互い180度向きを変えて相手のバックを取るための機動に移る。高度は失ったが代わりに速度を得たエレンはまず相手と距離を取ろうとした。
しかしその時だ。
『フォックス・スリー、ユー・アー・キルド』
艶のある落ち着いた声で機関砲発射のサインが響く。一般的には『フォックス・ワン』がレーダー誘導ミサイル、『フォックス・ツー』が赤外線誘導ミサイル、『フォックス・スリー』が機関砲の発射を知らせるコールだが、国防空軍では順に
中距離ミサイル、
短距離ミサイル、
バルカン砲の発射合図となっている。
シューという呼吸の音がしたあとに女が喋った。
『アフターバーナーでも焚けば良かったのに…そうしたら短距離ミサイルをお見舞いしてやったけど』
「ぐっ」
これが実戦だったらエレンの機体は距離にして10メートルも離れていない所から毎分6000発の速度で発射される20mmバルカン砲をぶち込まれていた。
*
「バット、撃墜成功。3対0です」
「ストレート負けか」
壁に寄りかかって腕を組みながら、リヴァイは前面の巨大モニターで追いかけっこをしていた二つの三角形を見ている。
『EAGLE』と書かれた三角形が『BAT』と書かれた三角形に後ろを取られたと思ったら突然180度向きを変えた。恐らくインメルマンターンかスプリットSを行ったのだろう。数値を見ると『EAGLE』の機体の高度が急激に下がったので下向き半宙返りのスプリットSの方だとわかる。二機は画面上で二秒くらいかけて交差したが、上空では一秒にも満たない、瞬きする暇もない一瞬だっただろう。
すれ違うと同時に『BAT』と書かれた三角形は突然パッと方向を変えた。別に魔法でも何でもない。『EAGLE』が先ほどやったのと同じように縦方向のターンをしたのだ。しかしロールしてから宙返りする下向きの機動ではなく、宙返りしてからロールする上向きの機動を選んだ。その証拠に高度を示す数値が瞬間的に上昇する。上方向の半宙返り――インメルマンターンだ。速度は減少するが、高度が上がり位置エネルギーが得られる。下降し加速した『EAGLE』の機体は遥か遠くの下方に見えるだろうが、高度を利用してこちらも加速しつつ距離を詰める。
まだイーグルはターンをしていない。何をモタモタしている。
リヴァイが舌打ちをするのと『フォックス・スリー』という声が頭上から聞こえてくるのは同時だった。
「やっぱり強いですね、バットは」
「1対1ならな」
「兵長ご贔屓のイーグルは弱いというわけではないんですけど、彼女には勝ったことないんですよね」
贔屓という言葉はあえて否定しなかった。入隊前からの知り合いだから甘くしてやってるなんてことはないが、技術が追いついていないくせに熱血で、やけに手がかかるのは事実だった。必然的に他の部下より接する機会も多くなる。
航空学生の二年先輩であるアニ・レオンハートにボコボコにされたエレンが地上に戻って来るまでの間に溜まっていたデスクワークを少しは進めようと、リヴァイはオペレーション・ルームを出た。つまらないやられ方をしたなとしか言えないが仕方ない。
アニは努力家なのか天才なのかはわからないがとにかく強い。エレンが弱いわけではなく、アニが強いのだ。
しかし国防軍のパイロットという奴は総じて負けず嫌いなので、圧倒的な実力差があればあるほど燃えてしまう。躾のなっていない犬のように噛みつくエレンをうざったそうにあしらうアニの姿はよく見られた。
「戻ったか」
汗まみれの飛行服のまま自分の元へやってきた二人の部下をリヴァイは汚物でも見るような目で見たが、彼にとって部下とは家族のようなもので決して汚いものだと思っているわけではない。その顔が不愉快そうなのはいつものことなので、彼の部下は誰もそのことを気にしない。
「ご覧になってたんですか」
アニが感情を感じさせない声色で尋ねるとリヴァイはまあなと答えた。
「アニ、お前は戻っていいぞ」
一瞬怪訝そうな顔をした女は、それでも早く帰れるなら上官の気が変わらないうちに帰ってしまおうと足早に部屋を後にした。タイミングが良かったのかブリーフィング・ルームにはリヴァイとエレンの二人しかいない。
この時エレンよりもリヴァイの方が周りを気にしていた。
パイロットも大勢いれば当然繊細な人間もいるわけで、そういうヤツを人前で怒鳴ったりなどすると目に見えて傷付いているのがわかる。それくらいで潰れる軟弱者なら空を飛ぶ資格なんてないというのがリヴァイの考えだが、逆に威勢がよくなるヤツだってそれはそれでどうかと思う。フライトについて話し合うパイロットたちで埋まったブリーフィング・ルームでリヴァイに噛みついてくる新人なんて今まで一人もいなかったのだが、エレンだけは違った。
「俺、また何かマズいことしましたか」
一人残されたくらいではまだ怒っていないエレンは、どちらかと言えば怯えているように見える。今日のフライトの結果によっては実働待機(Operation Readiness)資格…通称OR資格を得て、無事に戦闘要員としてアラート任務に就けるはずなのだから、その結果を握る上官の言動に緊張するのは当たり前かもしれない。この資格を取得するまではまだ半々人前だ。OR資格を得ればようやく半人前、そのあとに長機(リーダー機)で飛ぶことを許される二機編隊長資格を取って一人前のファイター・パイロットだ。
憧れの戦闘機に乗り始めて二か月。エレンはまだ半人前ですらなかった。
「機体から回収した映像を見てねえから何とも言えねえが、一つだけわかっていることがある」
「何でしょうか」
「おまえは上空での決断が早い。それは良いことだ。コンマ一秒の差で死ぬ世界だからな。ただ、」
珍しく褒められたエレンはここからが重要な内容だという所で一生懸命耳を澄ませている。
「おまえは決断力と行動力はあるのに考えることができない。頭が悪いわけじゃねえだろうに。おまえが本能で二択を選んでいるのより早く、アニは理屈で三択から最善を選ぶ。だからおまえはヤツに敵わない」
腕を組んだリヴァイはエレンよりも背が低いのに、青年にとっては威圧感の塊だ。恐怖で麻痺しそうな頭で何とか言われたことを整理しているのがわかる。
「つまり頭を使えってことですか」
「そうとも言う」
「わかりました…俺はまだ戦力にはならないってことですよね」
「そうだ」
即答した。
今のエレンでは国防軍のパイロットとして戦闘機に乗せて任務に就かせることは難しい。そこまでハッキリ言ってやればエレンが怒り出すと思った。
しかし実際にはいつもみたいに『どうして俺だけ厳しくされてるんですか』と怒鳴ることもしないで、眉を寄せたまま礼を言うと部屋を出て行ってしまった。
エレンは決して操縦が下手なわけでも、判断が悪いわけでも、センスがないわけでもない。そこそこの素質と類まれなる向上心の塊だ。今はただのひよっこパイロットだが、これからの訓練や経験次第では将来化ける可能性がある。それは彼を注意深く見ているリヴァイ自身が一番わかっている。
だけどよく知っているからこそ簡単に空を飛ばせるわけにはいかない。エレンの持つパイロットとして決定的な弱点は、瞬間沸騰するほどの熱血だということだ。
「それは逆贔屓とでも言えばいいのか」
リヴァイは口に運ぼうとしていたグラスを止めると横に座っている金髪の男を見た。
一週間ぶりにいつものバーに来ている。いつもと同じ酒を頼み、いつもと同じ話をする。最近はもっぱら『兵長のお気に入りサンドバッグ』の話だ。
サンドバッグと言っても本物のサンドバッグではなく、まるでサンドバッグのように一方的に殴られている人間のことである。その名もエレン・イェーガー。上官であるリヴァイに凄まれても、怖がるくせになかなか引き下がらない強者だ。
陸軍の特殊部隊なんかとは違って、空軍では上官に怒鳴られたりビンタされることはあっても本気で蹴られたり殴られたりすることはまずない。だがそれも絶対ではなく、中には罵声だけに止まらず分厚いガラスをも砕くキックまで食らう隊員がいるのだ。
「別に贔屓なんかしてねえ」
「しかしな、俺から見てもエレンより…と思う者もとっくにORになっているんだ。周りがそう言うのだって無理はない。エレンが怒るのももっともだ。その上暴力なんておまえなぁ」
「口の利き方を知らねえヤツを一発殴っただけだろ」
「蹴りも」
「懲りずに生意気を言うからだ」
はぁ、と先にため息を吐いたのはエルヴィンの方だった。続いてリヴァイもフーと息を吐く。一週間前も同じやり取りをした。
「まぁ、怪我だけはさせるなよ。政府や反国防軍団体は隊内の"指導"もすぐに暴力事件にするからな」
「わかってる。それより前から話してる件だが――、」
そう言いかけた時、リヴァイの右側に一人の男がドカッと腰を下ろした。
「失礼します」
聞き覚えのあるその声に反応し、リヴァイは視線を変えず視界の端で見慣れた黒髪を捉えた。
「上官の横に座るなんて失礼なヤツだ」
「だから失礼しますって言いましたけど?」
エレンもリヴァイの方を見ずに、カウンターの向こう側でドリンクを作っている元雇い主にウィスキーを注文した。四年前は苦手だった酒も、今では少しずつ美味しく感じられるようになったらしい。
リヴァイはわざわざ振り向かなくても気配や話し声で店内の客数や位置がわかる。空いてる席なら他にいくらだってあるのにエレンは隣に来た。知り合いがいたらそうするだろうがこっちは仮にも上司だ。
生意気な奴だと思っていると、横からエルヴィンが庇うように口を挟んできた。どうやらここにエレンを呼んだ張本人は彼らしい。そういうことなら早く言っておけと、イラつきの矛先は金髪の上司へと変更される。
「いや、職務中は私情を挟むわけにはいかないが、俺だって一人の人間として可愛い後輩のことが気になるんだ。こうやってプライベートで調子を訊いたり相談にのるのは自由だろう」
エルヴィンがそう言うとエレンは素直にありがとうございますと言って笑う。リヴァイはグラスに残ったウィスキーを一気に飲み込んだ。
昼間にブリーフィング・ルームで自分に見せた不機嫌な表情とは真逆だ。十も下のクソガキ相手に大人げないと思いつつ腹が立つ。
「今日は格闘戦の訓練だったんだろう。どうだったんだ」
「負けましたよ、3対0です」
「相手は」
「アニです」
「ああ、あの子か」
エルヴィンは何やら難しい表情になるが、すぐに顔の力を抜いて笑った。
「あれは強い。典型的なマニュアル人間だが、技術が同期の中では群を抜いている。上からの評価は高いんだ」
「マニュアル人間?」
「規則を絶対に守るってことだ。おまえとは逆だな」
エルヴィンの手前で自分を見ずにそう言ってきたリヴァイに、エレンは昼間の怒りを思い出す。頭を使えって…別に何も考えてないわけじゃないのにそんなことを言われたら面白くない。自分よりずっとスカスカのスポンジみたいな脳みそで既に実働待機の資格を取った同期だっている。リヴァイの行動はどうも自分に対する嫌がらせなんじゃないかと思えて仕方がない。
二か月前、四年ぶりに再会した直後はあんなに嬉しかったのに。
航空学生だった間は全国の基地を飛び回ったが、その最後の地となった南方の基地は国防軍最強のエリート集団と言われる教育飛行隊…通称『アグレッサー』の本拠地だった。直接の関わりはなかったが顔くらい見たことはある。
ある日同期がその教育飛行隊の隊長に訊いたことがあった。
『アグレッサーが国内最強の飛行集団なら、その隊長のあなたが一番強いんですか?』
『いや、前にいた隊員が一番強い。あれは化け物だ。戦闘競技会の時にヤツの戦いを見ていた当時の大将が、一人で一個飛行師団並みの戦力になるとまで評価されたくらいだからな』
飛行師団並みとまで言われたら少なくとも自分の所属している845飛行隊よりも強いことになる。
当時はまさかその最強のパイロットが自分のバイトしていたバーの常連客だったとは思いもせず、卒業してハネダに配属になった時だって再会したその人が空軍のパイロットだという事実を認めるだけで精一杯だった。
エレンがリヴァイの立ち位置を知ったのは他の基地に配属になった同期とのメールだ。ハネダは一人師団がいるから気楽だよな~なんて送ってきた悪友に訊けば、最強のパイロットはハネダ基地で要撃飛行隊をまとめる兵長をやっているらしい。そんなバカなと思った。エレンの知る飛行兵長はこの世のすべてが面倒くさそうな顔をしたオッサンだった。
「リヴァイ兵長が…嘘だろ」
しかしその疑念もすぐに晴れた。航空機の操縦が上手いか下手かは着陸を見ればすぐにわかる。
エレンが滑走路を見渡せる待機所で見守る中、着陸可能な最低気象条件のギリギリという状況でリヴァイの操縦するF-55は、豪雨も暴風も落雷もすべてお構いなしとでも言いたげに滑らかに着陸してみせた。共に見ていたベテランの先輩も感嘆の声を漏らすほどだった。
後続の二番機は先に進入した一番機で光る赤色の衝突防止灯を頼りに滑走路に入ったが、あの悪天候だと機体を持っていかれまいと必死に操縦桿を握っていたことだろう。防弾ガラスに雨風が吹き付ける待機所からコックピットの中なんか見えないが、ぎこちない動きを見ていればすぐにわかる。クリーンな着陸とは言えなかったが、二番機のパイロットが下手なわけでなく(むしろ無事に着陸させたのだから腕が良いとさえ言える)、リヴァイの方が異常なのだ。
エレンは頭を抱えた。現役世代最強…教育飛行隊の隊長が言うには歴代最強のパイロットが、まさか自分が軽口を叩いていた男だったとは。戦闘機乗りだというだけでもびっくりだったのにまたリヴァイのイメージが変わってしまった。
しかし最高の技術を持つパイロットが近くにいるというのはファイター・パイロットとして嬉しかった。一緒に飛んでみたいと思うし、訓練で戦ってみたい。できればその技を盗めたらとも思う。
複雑な気持ちの中、まずはF-55の操縦に慣れてOR資格を取得することだけ考えようと日々のフライトに集中した。
「何ですか、俺が規則を守ってないみたいに」
エレンは『アニはマニュアル人間だから手がかからなくていいこだ』とでも言いたげなリヴァイへ拗ねるように噛みついた。酒が入って怒りの方は落ち着いてきていた。
「守ってないだろう。先日の訓練中、許可もなしに増槽を投棄したのは誰だ」
「うっ」
アルコールの影響で赤らんでいた顔が一瞬にして青くなったように見える。
増槽とは外部に取り付けられた追加用の燃料タンクのことで、エレンはすっかり忘れているが四年前に入隊を決意するきっかけとなったF-55と遭遇した際、機体の下部に装着されていてミサイルと勘違いしたものだ。飛行中は必要に応じて投棄し、機体を軽くすることもできる。
国防軍では増槽の投棄に条件を付けており、陸上は禁止、海上で下に船舶がいないことを確認した上、指揮官から許可を受けてはじめて実行できる。
この規則にもしっかりとした理由があり、まず第一として落下した増槽により被害が出ることがあってはいけないということ、そして増槽内部の燃料はもちろん、容器そのものだって大切な資源なのだから無駄にはできないということだ。もったいないからできれば持って帰ってきて欲しいというのが上層部の本音だった。
「あれはすぐにでも速度を上げる必要があったからで、許可を取っている暇なんて…」
「上の連中の岩より固い頭がそんな事情くみ取るわけねえだろ」
リヴァイの言うとおりだ。国防軍においては上の命令が絶対。現場で機転を利かせるなんてことは求められていない。規則を守れないパイロットはいくら技術が高かろうが要らないと言われてしまう。この二か月でそれをよく理解することができた。
大人しく命令に従いそうにないリヴァイでさえ、毛嫌いしている上層部からの指示は守っている。一人で一個飛行師団並みとまで言われた男が、文句を言いながらしかし従順な犬のようだ。はじめは違和感を覚えたが、今ではこれが国防軍のあり方なのだとわかっている。
「そう虐めてやるなリヴァイ。それよりエレン、まだOR資格を取っていないみたいじゃないか」
エルヴィンが横目で青年を見ると、悔しそうに唇を噛みしめていた。
「どっかの誰かさんに嫌われているみたいなんで」
本気で怒っているというよりは子どもが拗ねているいるような声で言う。エレンが様子を窺うようにどっかの誰かさんを見ると、感情の感じられない目で自分を見ていた。
リヴァイの他人に媚びない態度は言い方を変えれば威圧的ということであり、同期から『怖いもの知らずの死に急ぎ野郎』とまで言われたエレンでさえ、恐ろしくて鳥肌が立つことがある。四年前からずっとそうなのだが、それを考えたら国防軍最強のファイター・パイロットというのも納得できそうだ。確かに民間人が持っていい雰囲気じゃない。横に座っていると息苦しさすら感じてしまう。
「それは気の毒なことだ」
いつもより若干声が低いのは酒のせいだろうか。リヴァイの顔は可哀想だと言っているようには見えなかった。
何で俺はこんな人に――。
そう思わずにはいられなかった。どんなに嫌がらせをされようと酷いことを言われようと、彼がこの国で一番強いパイロットであることは揺るがない。それだけは唯一輝いて見える事実だ。
空に夢を見た男として憧れないはずがない。
悔しいけどエレンの目標はアグレッサーの隊長の話を聞いたあの日からずっと、名前も顔も知らないと思っていた最強のパイロットなのだ。誰よりもこの人に認めてもらいたい。
空のグラスをカウンターに置くとリヴァイが席を立つ。エルヴィンが帰るのかと問うと、クソしてくるなんてマナーの欠片もないセリフを残して店の奥へと消えていった。真ん中に座っていた彼の空間だけぽっかり空いて、エレンとエルヴィンは沈黙を誤魔化すようにアルコールを入れる。先に喉を鳴らしたエルヴィンは、部下であり友人でもある不器用な男を庇うように言う。
「ああは言ってるが、あいつ本当は君のことが心配で仕方ないんだ。アラート任務に就けばスクランブルで出ることになる。領空侵犯に対してこの国の国防軍法は不完全で欠陥だらけだから、他国のファイター・パイロットよりも君たちが背負う危険の方がずっと大きい。戦う前から不利なんだ。だから君をその任務に就けるようにすることに抵抗があるのかもしれない」
「何ですかそれ。公私混同ですよ。俺をどう思ってるかなんか関係ないから、戦力として使えるのか使えないのかだけ見てほしいんです」
軍隊で鍛えられ四年前よりもずっと精悍な顔付きになった青年は悔しそうにグラスを握る。
「君の気持ちはよくわかった。私からリヴァイに伝えておくよ。だけど、あれはそういうことには人一倍厳しいんだ。君の将来には期待しているが、今すぐ空に上げて戦力になるかと訊かれたら、私はリヴァイの判断を信じるよ」
エルヴィンの言葉にエレンはわかりましたと呟くしかなかった。
*
「待たせたなイーグル」
ブリーフィング・ルームで先輩の到着を待っていたエレンの背中に、その先輩のものと思しき声が投げかけられた。首だけ振り向くとドヤ顔でモデル立ちをしているオルオ・ボザド一尉の姿が目に入る。すぐに立ち上がって敬礼をした。
「おはようございます、オルオさん」
「オルオじゃねえ、オウルと呼べ」
「はい、オルオさん」
「だからオウルだって言ってんだろなめてんのか」
眉間にシワを寄せて睨みつけてくる先輩に、エレンは『なめていませんオルオさん』ともう一度敬礼をするのでオルオはブチギレそうになったが、堪忍袋の緒が弾け飛ぶ前にサイレンが鳴った。
「来ましたね」
「スクランブルか…どっかのバカが来やがったらしい。今日の待機はリヴァイ兵長とスワローだから安心だ」
国防軍は防衛上、三つの仮想の壁を建てている。
防空識別圏のラインから海上に真っ直ぐ下ろしたものをウォール・マリア、領海線からその上に続く領空線まで伸びるウォール・ローゼ、最後の砦であるウォール・シーナは領土の海岸線から上空に伸び、領海との境目となっている。
ウォール・マリアより内側は、全国28か所にある国防軍のレーダーサイトと早期警戒機によりほぼ完璧に監視されているので、フライトプランに該当しない
識別不明機が接近すればわかる。空軍の幹部が常駐し、国内すべての基地を指揮下に置くCOC(航空総隊作戦指揮所)はハネダ基地の中にあり、中部方面隊の指揮所である中空SOC(Sector Operation Center/航空方面隊作戦指揮所)指揮下のハネダDC(Direction Center/防空指令所)も存在しているので、中部方面隊の管区内の基地に対し状況に応じてスクランブルを発令する。
スクランブルとは、領空侵犯(無断で他国の領空に侵入すること)の危険がある飛行物体に対して戦闘機を緊急発進させることである。
しかしこのスクランブルにも三段階あり、パイロットが搭乗してエンジンを掛けた状態で待機する『コックピット・スタンバイ』、アラートハンガーと呼ばれるスクランブル用の格納庫から出て滑走路上で待機する『バトル・ステーション』、最後の『ホット・スクランブル』が発令されれば機関砲と短距離ミサイルを装備した戦闘機が二機、識別不明機の元へ向かい発進する。
これがこの国のスクランブルであり、これに備えて待機する任務をアラート任務と言う。アラート任務に就くためには実働待機の資格を取得する必要があり、エレンは一日も早くそれを得るために今日も奮闘する予定である。
「B/Sってことは、こっち側だな」
基地内の緊急放送を聞いたオルオが呟いた。
「こっち側ってどういう意味ですか」
首を傾げてエレンが訊く。わざとではないのだろうが、時々今年度二十四歳を迎えるとは思えないほどに行動が幼くなる後輩に呆れてオルオは息を吐いた。
「そのまんまだろう。識別不明機は西海側じゃなくて東海側に現れたんだ」
「どうしてわかるんですか」
「おまえな…まぁいい。ここは大・先・輩としてこの俺が直々に教えてやろう。ウォール・マリアにアンノウンが近付くと全国四つのSOCでは警戒態勢に入る。場合によってはこの時点でコックピット・スタンバイが発令されることもある。そしてどこかの基地にスクランブルのいずれかが発令された場合、他の七つの基地も近ければバトル・ステーション、どんなに遠くてもコックピット・スタンバイが出る仕組みになっているんだ。もし俺たちの反対側、つまり西海側に出現した場合はバトル・ステーションの前にまずコックピット・スタンバイが出るはずだろ」
「へえ、そうだったんですね」
「むしろこんな常識なんで知らねえんだよ…」
「操縦のことばっかりで、国防システムには無関心でした」
エレンの言葉に怒りを通り越して呆れたらしいオルオは、お前は本当に手のかかる後輩だとため息吐いた。戦闘機のパイロットになるということは、イコール机の上で学ぶことも多いということだ。操縦技術だけ磨いていればいいわけではない。
もしかしたら、リヴァイの言う『頭を使え』とはこういうことなんだろうか。空で戦うために自分に足りないものは技術なんかじゃなくて、空を飛ぶということに対する理解なんじゃないか。そう思えてきた。
実際に任務で空を飛んだ時、自分がどうなるのかエレンにはわからない。
「もしホットが来たら今日はリヴァイ兵長が出るんですね」
「本当はエルドのヤツが出るはずだったんだが、風邪引きやがってな。代わりにこの俺が出ても良かったんだが、あの人がいれば安心だ。指令所だって待機が兵長だとわかれば、たとえアンノウンが西側に出ようがハネダから上げるはずだ」
それはさすがにないだろうと心の中で思ったエレンだったが、そのくらいリヴァイの実力が突出しているということだ。
「オルオさん。今俺がアラート任務に就いてスクランブルで上がったらどうなると思いますか」
「あぁ?別にどうにもならねえだろう」
オルオは歯に詰まったトウモロコシでも取るように舌を動かしながら言った。
「スクランブル機がやることって言ったら、音声での警告と信号弾の発射がほとんどだ。大体どこの国の偵察機でも、十回警告するまでには針路を変更して離れていく。俺たちはウォール・マリアの外にそいつが出て行くまで見張ってるだけだ。別に戦ったりはしねえからなぁ」
それはエレンも知っている。
教科書によれば、この国は百年もの間戦争をしたことがない。架空の壁を作りその内側へと逃げ、『我々はどこの国とも争うつもりないし、どんな戦争にも加担しない。唯一武器を取るのは、壁内が侵され我が国民の命や財産が脅かされようという時である』と宣言した。
「でも俺にはそんな単純な任務に就く能力すらないってことなんですよね」
「……いや」
オルオは口をもごもごと動かしていたのを止めると、エレンの言葉を否定した。
「俺が見た感じ、任務に就く能力は既に得ている。ただその能力って言うのは、遂行する力という意味で、遂行する気があるのかどうかとはまた別の話になる。お前は兵長に『技術はあるが命令通り行動をするかわからない』とでも思われてるんじゃないか」
遠慮がちなブロッコリーみたいな頭をした先輩の口から飛び出た言葉は、エレンの今までの疑問に対する答えを埋めるピースになった。
「それって俺が信用されてないってことですか」
「少なくとも上から出た命令を完璧に守るとは思われてないんだろうな」
ああなるほどと納得した。
確かに日頃からリヴァイは自分のことを熱血過ぎるとか、自己主張が激しいなんて注意してくる。あれは上からの指示に逆らうなという意味だったのかもしれない。頭を使えというのは冷静になれということか。
「オルオさん、ちょっとトイレ行ってきます」
「ったくしょうがねえな」
ブリーフィング・ルームを出て左側に二十メートルくらい行った所にあるトイレで顔を洗ったエレンは気合いを入れ直した。
今日は短距離ミサイルの訓練だ。もちろん安全ピンは抜かず火器管制システムはOFF、マスターアーム・スイッチはSAFEにして本当に発射なんてしないが、これが本番だと思って臨む。せっかく冷水で冷やした頭がまた熱くなりそうなのを必死に抑えた。冷静にならなくてはいつまで経ってもOR資格なんて取れない。
男子トイレを出たエレンがオルオの元へ戻ろうと歩き出し、ブリーフィング・ルームから見て手前にある女子トイレの前を通った時、ちょうどその扉が開いて中から出てきた女の人とぶつかった。前も見ずに早足で歩いていたその女と頭を冷やすことに集中していたエレンは互いにその場でしりもちをついた。
「いってえ…」
「それはこっちのセリフだよ」
「ああ、アニか」
エレンが尻を押さえて横を見ると、鷲鼻が特徴的な金髪美女が同じように尻を押さえていた。
「悪い、周囲に気を配ってなかった。でもこれはおあいこだと思うぜ」
「そうだね。私も前を見てなかったから」
一足先に立ち上がったアニ・レオンハートはそそくさとその場を去ろうとする。すると飛行服のポケットから黒いカバーの携帯が落ちた。エレンは床に激突する前にそれをキャッチしてアニに返そうとするが、液晶画面を上にした時、彼女の携帯にはつぶらな瞳のネコの写メが映っていた。
「何だ、彼氏にメールか」
別にからかうつもりはなく、単純にそうなのかと思ったことを口にしただけだったが、アニには『ありえないから』と冷たくあしらわれてしまった。何かマズいことを訊いただろうか。
「ありがとう。私、急ぐから」
そっけなく言うと小柄な女はその場から去ってしまった。エレンも起き上がって尻を叩き、大先輩の待つブリーフィング・ルームへと戻っていく。
「腹でも下したのか?」
「違いますよ。そこでアニと会ってちょっと」
「女にデレデレしてんじゃねえぞ」
エレンが呆れた声で否定すると同時に、他のパイロットが何人か部屋に入ってくる。彼らも今日のフライトのブリーフィングのために来たのだろう。何やら話の途中だ。
「結局解除になっちまったな」
「相手にしたらラッキーだろ。兵長は武器を使わないで敵機を墜とすらしいじゃないか」
「泣きべそかいて逃げるなんて情けないもんな」
「こっちとしては国防空軍の怖さを教えてやるためにももう少し入ってきて、ホットを出してもらった方が良かったかもしれないけどなぁ」
四人のパイロットの会話を聞く限りどうやらバトル・ステーションは解除されたらしい。リヴァイたちも機をハンガーに戻して待機室に帰っただろう。エレンの横で同じように彼らの話を聞いていたオルオは固まったままパイロットたちを見て言った。
「また帰っていったか」
「またってどういう意味ですか?」
「ん、リヴァイ兵長がアラート任務の日は、アンノウンが現れることが少ないんだよな。偶然にしてはその回数が多すぎる。やっぱりあの人はこの国の守護神なんじゃないかと思うんだが…」
「へえ~」
最後の件には同意できかねたが、思い返せばこの基地に配属になってからリヴァイがスクランブル発進したところをまともに見たことがない。守護神とまでは思わないが、あの人は何か持っているのかもしれない。超常的なものは信じないエレンだが何らかの力が働いているような気はした。
「じゃあブリーフィング始めましょう。訓練空域の天気は良さそうですね」
*
「今日も逃げられたな」
五分待機から三十分待機に変更となったリヴァイはアラートハンガー(スクランブル用格納庫)の横にある待機所のソファーに座って考え事をしていた。
そこにやって来たのはエルヴィンだった。横に座っていたペトラは直立不動で敬礼をするがリヴァイは椅子に座ったまま動かない。
男はよく自分の前に現れるがいつ仕事をしているのだろうと思う。器用なので手抜きはせずに効率良く進めているんだろうが、真面目に見えて自由人なところに感心してしまう。
多くの者はエルヴィンの仕事は早くて完璧だと絶賛するが、実際には報告書なんて事実を上が求めている内容へ近付くように上手く表現を変えて書き余計な追及をさせないようにしているだけだし、他人に任せられる仕事は遠慮なく回す。特に飛行兵長使いの荒さと言ったら酷いことこの上ない。
「逃げたのか最初から向かってくる気がなかったのかはわからねえだろう」
「そうだな。ほら」
そう言うとエルヴィンはリヴァイに向けて缶の紅茶を投げてきた。
「俺は待機中だぞ」
「三十分だろう。トイレに行く暇くらいあるさ」
エルヴィンはお構いなしといった表情で自分の缶を開けて口を付けた。
スクランブルに備えるアラート任務には主に、発令から五分以内に発進する五分待機と三十分以内に発進する三十分待機がある。
スクランブルが発令されるとまず五分待機組が行動に移る。この五分待機組が動くと、三十分待機組が五分待機に変更になる。さらに非常事態が発生したらこの二組四人の他にも一、二時間待機組が控えることになっている。こうして国防軍は二十四時間態勢でこの国の空を護っているわけだ。
リヴァイは五分待機の時には不要な水分は摂らないようにしている。もしトイレに行ったとしてもスクランブルが発令されればすぐに飛び出して行かなければならない。それはもう、考えただけでもおぞましい。そんな事態になる前に自己管理をしておくのがプロというものだ。
まぁ三十分ならいいかと思い、結局リヴァイも続くように缶を開けて口を付けた。
「ペトラ、君にはココアを買ってきたから飲んでくれ。それと少しだけリヴァイを借りてもいいかな。今話しておきたいことがあるんだ」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
ペトラに断りを入れたエルヴィンはリヴァイを廊下に連れ出した。柔らかい表情から一転、真面目な顔になる。
「それで何か異変はあったのか」
「いや…俺の方は特に」
「そうか。今回は偶然だったのかもしれないな」
「ああ。だけど念のために他のヤツらにも探りは入れるぞ」
「そうしてくれ」
リヴァイが待機してる日だけアンノウンが現れないことが多いという噂は本人やエルヴィンの耳にも届いている。偶然として片付けるには確率が高すぎる。噂話はエルヴィンで止められこれ以上上の人間がこの事実を知ることはないが、それは二人がある人間の存在を心配しているからだった。
「あと、昨日エレンと話したんだが」
突然出たエレンという単語にリヴァイは飲もうとしていた缶を止める。
「おまえ、本当に私情は挟まずに評価してるんだな」
「……当たり前だろ」
呆れているのかリヴァイはホットドッグでも食べる時のように口を開いたまま答えた。
「そんなことを今さら疑われるなんて思ってなかったぜ。ずいぶんと信用されてるみたいだな」
「いや、違うなら良いんだ。おまえの判断を信じよう。任務中なのに悪かったな、頑張ってくれ」
エルヴィンは空になった缶を持ってその場を離れていった。
〈ハネダ基地地下・防空指令所〉
「何だコイツは!?」
ハネダ基地の地下にあるDCで当直の要撃管制官はいきなり声を上げた。カントウ東セクターの担当だ。
「どうした」
声を掛けたのは有事の際には一つ下の階にあるCOCで空軍を指揮することが決まっている航空総隊司令官であるドット・ピクシスである。
「ピクシス司令、ご覧下さい。アンノウンが急にウォール・マリアの内側に現れたんです。速度は1500ノットを超え…1520ノット!この速度のままだとローゼからシーナまでおよそ30秒で到着します!」
管制官は喉が切れそうなほどに叫んだ。前面のモニターにカントウ東セクターの空域が映される。
1520ノットは約マッハ2.3だ。音速の二倍以上の速さで領空に接近している謎の識別不明機の赤いシンボルはレーダーサイトで捉えられているはずのウォール・マリア周辺ではなく、いきなり壁の中…防空識別圏の内側に現れたのである。
防空識別圏は領空外に設定されていて、国際法において当該国の主権が及ぶ範囲外とされているが、国防上なくてはならないラインだ。たいていの国はアンノウンが防空識別圏の内側に入る前に警告をする。防空識別圏とは、その国の領空を侵す危険のある範囲内であり、またスクランブル機が領空侵犯をされる前に会敵できる安全ラインでもある。
この国の領海は基線から12海里…およそ14マイルまでだが、この領海線の上空にある領空線から領土上空に到着するまで、マッハ2.3だと三十秒もかからない。アンノウンはまだ領空線を越えてはいないが、それも時間の問題だ。
「むう…間に合うかはわからんがハネダにホットを出せ。ヒャクリはバトルじゃ」
「了解」
すぐにハネダへホット・スクランブルが発令されるが果たして間に合うのか。そもそもなぜレーダーサイトの監視を潜りマリアの中に侵入できたのだ。ピクシスは顎に手をあて前面スクリーンの赤いシンボルをにらみつける。飛行計画の提出されている民間機のシンボルは青、国防軍機は緑、識別不明機は赤の光点で示されるのだ。
「ん…?おい、あれは何じゃ」
ピクシスは赤いシンボルの進行方向に一瞬だけ映った緑のシンボルを見つけた。
「調べます。―――出ました、あれは訓練で上がっているハネダ所属のF-55二機編隊です。コールサインは『イエローブーズ』――」
04
「フォックス・ツー!」
エレンは5マイル前方に捉えた標的機に向けてサイドワインダー発射のコールを叫んだ。実際にマッハ3で飛んでいく短距離ミサイルは発射されないのだが、訓練上撃ったことにはなる。
しかし間髪を入れず無線から自信に満ち溢れた声が聞こえてきた。
『フレア!残念だったな。今回の訓練は3マイル以内からの発射じゃないと命中とは認められないって条件忘れたのか』
エレンはそういえばロックオンすることに夢中でルールを忘れていたと思い出した。装備している短距離ミサイルの射程は21マイルだが、今回の訓練では3マイル以内から発射しないとフレア(高熱を発して赤外線誘導ミサイルを引きつけるダミー)で逃げられてしまうのだ。
ヘッド・アップ・ディスプレイに目標がミサイルの射程圏内に入ったことを示す『IN RNG』の文字が表示されたので、ロックオンしてからすぐに発射をコールしてしまった。逃げられてしまいそうで気持ちが焦っていたのだ。
「くそ、もう一回お願いします」
『バカ言え。お前はもう二発撃って見事に外しただろうが。実戦に"もう一回"なんてないんだよ。わかったか?』
「お、仰るとおりです」
『OK、じゃあ二回戦だ』
「は?」
『は、じゃねえよ。一回戦が終わったんだから次は二回戦だろう』
今さっきもう一回はないって言ったばっかじゃねーか、と思っても口には出せない。何にしろまだ演習が続けられるならありがたいことだった。
二機が訓練空域の端まで飛ぼうとターンをした時だ。DCから交信が入る。
『イエローブーズ・エレメント、ヤマト・ゼロスリー』
『ヤマト・ゼロスリー、ゴーアヘッド』
『アンノウンがウォール・マリア内に出現した。スクランブル機は間に合わない。当該機の元へ向かい対領空侵犯措置を実行せよ』
エレンは耳を疑った。
アンノウンが現れること自体は珍しくない。国防軍は年間八百回以上もスクランブル発進をしている。一日に二機以上現れる計算になるのだから、さっき帰った識別不明機とは別のヤツが出現したのだろう。
しかしスクランブル機が間に合わないとはどういうことだ。そういうことがないようにウォール・マリアを設定したはずなのに。まさか地上レーダーサイトと早期警戒機の監視の目を潜って壁内に侵入したとでも言うのか。
『イエローブーズ・ゼロワン、ラジャー』
リーダー機であるオルオのコールを聞いて、エレンもとっさに返事をする。しかし大変なことを思い出した。自分はまだOR資格を持っていない。スクランブルで上がる資格がないのだ。
「ちょっと待って下さい、オル――」
『イエローブーズ・エレメント、ベクター・トゥ・ボギー。ヘディング245、クライム・エンジェル30、バイバスター。フォロー・データリンク。リードバック(イエローブーズ編隊、目標へ誘導する。機首を245度へ向け、高度30000フィートへアフターバーナー全開。データリンクに従え。復唱せよ)』
『イエローブーズ・ゼロワン、ヘディング245、クライム・エンジェル30、バイバスター。フォロー・データリンク』
「ちょっと!」
『イーグル、黙って返事をしろ』
「…ツー!」
エレンは勢いに押され返事をして、自分には資格がないのだと伝えるタイミングを逃してしまった。
手が震える。訓練だって命懸けでやっているが、本番の緊張感は想像を絶している。自分が何をすればいいのかわからない。とにかく早くオルオと合流できるように祈る。80度バンク、強烈なプラスGがかかる。何かが下半身へ向かおうとするのを感じた。
『イーグル、レーダは切れ。以降はデータリンクに従い飛行する』
「く、ラジャー。今…どこにいますか」
血液が下がるのを食い止めようと、耐Gスーツが下半身に圧力をかける。ヘルメットの中では自分の呼吸の音がうるさくて余計に息苦しい。
『データリンクの通りに飛べ。俺の方が後方にいるがすぐに追いつく』
「ラジャー」
エレンはスロットルレバーを全開まで押してアフターバーナーを点火させると一気に機首を上げた。推力で機体が震えているのを背中に感じる。前には誰もいない。リーダー機は後方にいる。何マイルくらい離れているのだろう。今日は幸い天候に恵まれて視界も良いからすぐに見つけてくれるはずだ。そう信じるしかない。シューという自分の呼吸音がうるさかった。
『ヤマト・ゼロスリー、増槽を投棄したい』
無線から聞こえてきたのはオルオの声だ。
「了解。増槽投棄を許可する」
そういえば増槽を持ったままだった。こいつを捨てればマッハ2.5は出る。後方のどこかでオルオも捨てただろう。下に船舶がいるのかどうか――そんなのわかるわけない。コックピット前面の窓…風防の向こうに見えるのは太陽と真っ白な空だ。バックミラーの景色は変わらず自分が今どれくらいの速度で上昇しているのかという感覚が掴めない。一呼吸おいてエレンも増槽を捨てた。
シューシューと音がする。呼吸音がこんなによく聞こえるほど静かなのか。外気の温度はどれくらいだろう。
高度は30000フィートへ達したので水平飛行に移行した。ヘッド・アップ・ディスプレイには防空指令所から送られてきたデータが表示されている。目標までの距離は50マイル…約80キロメートル。会敵までおよそ一分三十秒。心臓が跳ねる。エレンは二番機だから本来は一番機の後方上空を飛んで援護する立場なのだが、これでは先に会ってしまう。
そんなことをぐちゃぐちゃと考えているとバックミラーに黒い影が映った。
こんな所を鳥が飛んでいるとも思えず真横に目をやると、左側にF-55がピッタリと着けている。コックピットの中でオルオが首を振りスロットルを引く真似をして見せる。アフターバーナーを切れという意味だろう。対領空侵犯措置の場合、敵に傍受される可能性があるので無線交信は極力控えるのが常識だ。理解したエレンはすぐにバーナーをオフにして、一番機の右側後方に着くように位置を取り少しずつ距離を空けていく。
*
「リヴァイ兵長、エルヴィン団長がDCでお待ちです」
交代の時間になったので待機室を出たリヴァイは休む暇もなく呼び出された。面倒だと思ったがスクランブルが発令されたのは知っているから行くしかない。いくら防空指令所には気に入らないオヤジ共が来ることもあるからといって仕事をサボることはできないのだ。仕方なくオペレーション・ルームの地下、COCの上にあるDCに向かう。
「イエローブーズ・エレメント、会敵までおよそ30秒」
「目標は確認できたのか?」
「視認できないまますれ違うなよ…」
到着したDCは緊張感に満ちていた。リヴァイはモニターを見たまま無表情のエルヴィンを見つけると横に行って一緒に三つのシンボルを見上げた。赤色の『UNKNOWN』と緑色の『YLB01』、『YLB02』だ。巨大なモニターの中で今まさに赤の三角形と緑の三角形が重なり合おうとしている。
『
目標発見!』
天井に設置されたスピーカーからパイロット…恐らく『YLB01』のコールが響いた。声でわかる。一番機はオルオだろう。目標を確認したらしい。モニターの上で重なろうとしていた三つの三角形だが、『YLB01』が急に針路を180度転換した。次の瞬間には一呼吸遅れて赤のシンボルの後ろを同じ方向へ飛んでいる。『YLB01』より少し遅れてターンをした『YLB02』はほとんど並んで飛んでいる二機の後方3マイルくらいにいる。
「もう会敵したのか。スクランブルが出てからまだそんなに経ってねえだろう」
リヴァイは画面を見上げたまま横にいる男に訊いた。
「いや、あれはスクランブルで上がった編隊じゃない。もともと訓練空域で飛んでいた二機を緊急で向かわせたんだ。ここからじゃ領空に入られる前に間に合わないからな」
「そりゃあ大問題だ…何のためのアラート任務かわからねえ。いきなり壁の中に現れたって言うんじゃねえだろうな」
「そのまさかだ」
エルヴィンのセリフにリヴァイは目を見開き、改めてスクリーンのアンノウンをにらんだ。今回はどうやって監視の目をかいくぐったのか。
「ついでにもう一つ驚かせてしまうかもしれないが、あそこで飛んでる編隊はオルオとエレンだ」
「あ…?」
リヴァイは先ほど見開いた目を今度は細める。
「おい、あいつにそんな資格を与えた覚えはないが」
「緊急事態だったんだ。仕方がない」
「てめえ」
「そう怒るな。私だっていきなりホットが出たと聞いて飛んできたんだ。ピクシス司令が現場のパイロットの事情を知っているわけないだろう」
そう言われたリヴァイは、前面のスクリーンを自分たちと同じ位置まで下りてきて見ている坊主頭の老人をにらみつけた。
「ようじいさん」
ピクシスの横まで歩いていき横目で見ながら話しかけると、横にいた国防軍幹部の四十過ぎくらいの男が目をひん剥いて驚いている。
「貴様!司令に失礼な口を」
「よい、こやつは特別じゃ」
沸騰する直前の水のように震えている部下を宥めると、ピクシスはリヴァイに向き直った。
「おぬしも来たのじゃな」
「あそこで飛んでるのは俺の部下…しかも戦闘要員じゃねえクソガキだからな」
「む?どういうことじゃ」
「イエローブーズ・ゼロツーのパイロットは戦闘機乗りとしてここに来てからまだ二か月なんです。OR資格は取得していません」
「なんと」
エルヴィンが後ろから説明すると、ピクシスはもう一度スクリーンに顔を戻した。
「そうじゃったのか。――しかし今は緊急事態。国防軍の戦士ならばさまざまな状況に臨機応変に対応せねばならぬ。あの編隊はこのままアンノウンにつかせるぞ。スクランブル機が追いついたら二機とも帰還させる」
「ああ。そうしてくれ」
「それで、後続の編隊は今どこに」
エルヴィンの言葉に担当する要撃管制官は、まだ上がってないみたいですとスクリーンを見た。が、次の瞬間にはスクリーンの右下に新たなシンボルが二つ現れた。緑色の三角形の上に小さく『GRN01』、『GRN02』とある。
「出ました。グリーニル・ゼロワン、ゼロツー、マッハ2.5で飛んでいます。あと30秒で追いつきます」
「よし、後続編隊が追いついたらイエローブーズは帰投じゃ」
「了解」
「それで、アンノウンはどこのヤツじゃ。機種は、国籍はまだ確認できんのか」
ピクシスがそう尋ねると同時に天井のスピーカーから若い男の声が聞こえてくる。
『アンノウンは一機、MiG-92"ファルクラム"だ。国籍マークは付けていない』
「付けていない?」
『そうだ。国籍マークは確認できない』
「ラジャー。警告を実施せよ」
『ラジャー』
今度はイエローブーズ・ゼロワンのパイロットがアンノウンに警告する声が流れてくる。
聞き慣れた定型文よりもDCに集まった幹部たちの気を引いたのは、国籍を示す標識を付けていないということだった。それでは識別不明機というより国籍不明機だ。
「ふざけた野郎だ」
「ああ、異常だ。戦闘機が国籍マークを付けないで空を飛ぶなんて」
リヴァイとエルヴィンの言葉を聞きながらピクシスは顎を撫でる。
この国では毎日のように戦闘機が発進して仮想敵国からの偵察機や戦闘機を追い払っているが、どんな機体だろうと国籍マークや識別番号がある。今回のアンノウンはどういうことかそれを表示していない。自動車がナンバープレートを付けずに公道を走っているようなものだ。これが他国だったら警告を無視して領空線を越えた時点で撃墜されてもおかしくはない。
「他国での話じゃがな」
司令官の口から出てきた言葉を聞いた管制官は振り返って確認を取ろうとする。
「いや、何でもないわい。それよりアンノウンがいくら名前を名乗らないテロリストのようなヤツでも、ワシらは国防軍法に則って対領空侵犯措置内でこの件を片付けなければならぬ」
司令官の言葉に全員の目付きが変わる。現場のパイロットがいかに優秀でも、彼らに指示を出すのは他ならぬ自分たちなのだ。仲間を生かすも殺すも、この国を守れるかどうかも自分たちの腕にかかっている。パイロットが考えるようにこの場の者たちもそう思っているのだ。
*
『アテンション、アテンション!フライング・エアクラフト、フライング・エアクラフト、フライング・オーバー・イースト・シー。ディス・イズ・ディフェンス・エアフォース。ユー・アー・アプローチング・アワー・エア・ドメイン。テイク・リバース・コース・イミーディアトリー!――東海上空を飛行中の航空機に告ぐ。こちらは国防空軍。貴機は我が国の領空へ接近している。ただちに逆方位へ変針せよ。繰り返す、貴機は我が国の領空へ接近している』
一番機が翼を上下に振る『我に従え』というサインを送りながら通告する。二番機のエレンは前を飛ぶF-55とミグの後方3マイルを維持していた。装備している短距離ミサイルの最少射程ギリギリだった。本当はここにいる資格なんて持っていないが命令なのだから仕方がない。緊張して手のひらに汗をかいているのがわかる。気持ち悪かった。
だけど無事に帰れる。オルオも十回警告すればどんなヤツでも帰っていくと言っていた。今日だってもう針路を変更するだろう。自分はそれまでここで一番機のサポートをしていればいい。
『目標の行動に変化なし。通告を続行する』
『ラジャー。イエローブーズ・エレメント、後続のスクランブル機がまもなく到着する。合流したら帰投せよ』
「えっ」
指令所からの命令にエレンは思わず声を上げた。もう帰れるのか?
自分が戦闘要員ではないことがわかってしまったのかもしれない。
スクランブルが発令されたらDC内でモニターを監視している当直の先任司令官が要撃管制官を通じて自分たちに指示を出すはずだが、場合によっては団長や司令も下りてくるらしい。そうなれば指揮を執るのは彼らだろう。もしかしたらエルヴィンが下りてきたのかもしれないと思った。
『イエローブーズ・ゼロワン、ラジャー』
「ゼロツー」
返事をしながらエレンは前方に浮かぶ雲を見る。訓練空域は見晴らしもよく飛びやすかったが、こっちは領空に近付くにつれて雲が増えてくる。あんな中には突っ込みたくないと思う。
『あー、繰り返す。こちらは国防空軍。貴機は我が国の領空へ接近している。ただちに針路を変更せよ』
オルオのだるそうな声に、おいおいもう十回くらい言ったんじゃないか、と思わず呟いてしまった。空軍の使う定型文は全部で五か国語用意されている。国籍がわからないのでオルオは片っ端から試していた。
アンノウンはこの通告を聞いていないのか。彼らの使う言語ではないのか。
しかし音声警告が伝わらなくとも横に国防軍のF-55がピッタリと着いてくるのだ。戦闘機パイロットなら警告が実施されているのだとわかる。こんなこと空の世界では常識だ。
「ったくいい加減に…あ!」
エレンの目の前でアンノウンは灰色の雲の中に突っ込んでいった。
「アイツ何を」
『おいイーグル!お前は高度を上げて見ていろ。俺はヤツを追う』
「ラジャー」
突然逸れたアンノウンを追ってオルオも雲の中に消える。エレンは高度を上げてわたあめみたいな雲の上に着く。
後続機はまだだろうか。スクランブルってのはいつもこうなのか。すぐに出て行くんじゃないのか。レーダーに映る二つの三角形を見ながら操縦桿をいじる。赤と緑はもう重なっている。雲の中なんて視界はゼロに等しいのにさすがはオルオだと思いホッとした。
まさにその瞬間だった。
*
「えっ?」
要撃管制官が上げた声はその場に揃った空軍の幹部たちの心を代弁していた。
今、アンノウンが出現したセクターを映していた前面のモニターで、並行していた二機のうち一機のシンボルが突然消えた。緑色の『YLB01』だ。
「イエローブーズ・ゼロワンがレーダーから消えました!」
「馬鹿な」
「ロストしただと」
モニターには四機映っている。一番前を飛ぶ『UNKNOWN』、わずか後ろを着いていく『YLB02』、その後方を並んで飛ぶ『GRN01』と『GRN02』だ。
「どういうことじゃ…レーダーのトラブルか?」
「他の機は映っています。考えられるのはイエローブーズ・ゼロワンに何らかのトラブルが発生したか…」
「アンノウンの高度が一瞬で上昇したな」
リヴァイの言葉に要撃管制官は目を見開いた。アンノウンが高度を上げたのはほんの一瞬で、後続の編隊がまだアンノウンを確認できないのかと、モニターでグリーニル編隊に注目した瞬間のことだった。
それって――そう言いかけた時、天井のスピーカから叫び声が聞こえた。
『ヤマト・ゼロスリー、イエローブーズ・ゼロツー!一番機がレーダーから消えた!』
エレンの声にリヴァイは舌打ちをする。
エルヴィンの横を離れてカントウ東セクターを担当する要撃管制官の若い男の肩を掴みマイクに向けて問い掛ける。
「レーダーからってのはどういうことだ。目視では確認できねえのか。お前は一番機のわずか2マイル後方を飛んでいたんだぞ」
『えっ…リヴァイ兵長…?』
要撃管制官が話すものだと思っていたらしいエレンは、聞こえてきた声に驚きの声を上げた。
「答えろ。ロストしたのか」
『はい。アンノウンは雲中に逃げ、一番機もそれを追って…俺はオルオさんの指示で雲の上から追っていました』
「そうか」
リヴァイの後ろで連絡を聞いていたエルヴィンは俯いて考え込むような表情になり、すぐに顔を上げた。
「ピクシス司令、これはイエローブーズ・ゼロワンが撃墜されたと考えるべきです。すぐに救難ヘリを回しましょう」
「うむ…確認が取れぬ以上やむを得ん。おい、すぐに救難隊に要請を出すのじゃ」
「は、はい」
DCにはさらに緊張感が走る。
訓練中の事故でパイロットが
緊急脱出したことはあるが、敵機により被弾した戦闘機から脱出だなんて聞いたことがない。この国は百年間、他国との武力による衝突を経験していないのだ。
団長と司令の話を確認した兵長は掴んだままのマイクに向き直る。
「エレン、おまえはもういいから戻ってこい。あとは後続の編隊が引」
引き受ける――と言おうとしたのだがそれは叶わなかった。
「アッカーマン二佐、何を勝手に帰投させようと言うのか」
寒気のするようなねっとりした声にリヴァイはゆっくりと振り向く。そこには空軍の幹部が五人ほどと、スーツ姿の男がさらに五人ほど揃っている。その中にはテレビでよく見る、自分たちにもなじみのある顔もあった。
「勝手も何もこいつは俺の部下だ」
「貴様の部下だがこの国の兵だ。国防軍の兵は一人残らず全て、ここにおられる国防大臣の命で動くのだ」
最高指揮官は内閣総理大臣だろうがと思ったが口には出さなかった。もっと面倒なことになるのは目に見えている。代わりに口を開いたのはエルヴィンだった。
「お言葉ですが、現場で対処している三機のうち一機のパイロットはまだOR資格を持っていないので、帰投させるべきではないでしょうか。長機はさきほどレーダーから消え、我々では攻撃を受け墜落したものと考えております。二か月の新人に対応できる相手ではない」
「それを決めるのは貴様らではない。ここには空将もおられるのだぞ」
「はあ…それで、なぜ国防大臣に空将まで…イチガヤにおられるものかと」
「今日は新型戦闘機試験飛行の視察に来たのだ。ついでに貴様らの仕事ぶりも見てやろうとな。そうしたら何だ、いきなりホット・スクランブルが出たと聞き、大臣自ら指揮をとられるとのことで…」
リヴァイは、たぶん自分たちと同じ言語なのだろうが何を言っているのかよくわからない言葉を聞きながら黙っていた。
だからキャリアは嫌いだ。国防軍が国民の命や財産を護るため武力を行使する時、それは現場だけの判断ではできないのだ。必ず国民の意思という名の政治家の許可がいる。現場の状況も苦労も何も知らないヤツがそんな大事な判断を下すことに未だ納得できないでいる。この目の上のたんこぶ共のせいで何度死にかけたことか数えきれない。統計を取ったわけじゃないが現場のパイロットはほぼ全員が、棺桶に片脚突っ込んでいる白髪の大臣を始めとする上層部に嫌気がさしていると断言できる。
DCの中に重たい空気が漂い始める中、忘れられていたスピーカーから再び声が聞こえた。
『こちらグリーニル・ゼロワン、アンノウンを発見!』
「ラジャー、警告を実施せよ。気を付けるんだ。先ほどまで着いていたイエローブーズ・ゼロワンがレーダーから消えた」
『ラジャー。アンノウンは雲の中から出てきた。おそらく誘い込まれ視界を奪われたんだろう。細心の注意を払っていく』
グリーニル・ゼロワンが通信を切ると、前面モニターの『GRN01』が『UNKNOWN』に重なるようになる。上空では数百メートルの間隔で飛んでいるはずだ。緑色のシンボル『GRN01』に追いすがるように『YLB02』が飛んでいる。高度は先行機より1000フィートばかり高い。そしてその左斜め後ろ下を飛んでいるのが『GRN02』だった。
「やはりイエローブーズ・ゼロツーは帰投させるべきです。これではグリーニル・ゼロツーがやりにくい」
「エルヴィン、それを決めるのは貴様ではないと何度言えば」
真夏のセミの方がまだうるさくないし可愛げがあると思えるような声をこれ以上聞くのはごめんだと思ったリヴァイは、舌打ちをしてから再び管制官の肩を叩いた。
「おい、イエローブーズを一度ブレイクさせろ」
「了解。イエローブーズ・ゼロツー、ヤマト・ゼロスリー。ブレイク・ライト」
『ラジャー。ブレイク・ライト』
モニターの上で『GRN02』の右斜め前にいた『YLB02』が右側へ逸れた。
「おい、何を勝手に」
「別に帰投させるわけじゃねえ。グリーニル・ゼロワンの僚機はゼロツーのあいつだ。他のヤツが編隊に割り込むように飛んでいたら邪魔だろう」
言い切ったリヴァイはモニターを食い入るように見つめる。最早呆れて舌打ちもできやしない。ウイングマークも持たないヤツが指令所を荒らしてくれていた間に、赤い三角形はいよいよモニターの中の空色のゾーンに入ってしまった。
「アンノウンが領空に侵入しましたっ」
*
『ウォーニング・ウォーニング!フライング・エアクラフト!ユー・ハブ・バイオレイテッド・アワー・エア・ドメイン!フォロー・マイ・ガイダンス!――貴機は我が国の領空を侵犯している!誘導に従え!』
マスクから供給される高濃度の酸素で口の中はカラカラだろうに声を張り上げている。あとからやってきた編隊のリーダーは誰だろう。声は若い男だが自分よりは年上だろう…考えながらエレンは兵装セレクターでAAM-2(Air-to-Air Missile/空対空ミサイル)からガンに変更する。どっちにしろ弾は出ないが一応決まり通りにバルカン砲を準備しておこうと思った。
全然冷静になれない。
レーダーからリーダーが消えた。リヴァイが戻ってこいと言おうとしていた。それがどんな可能性を示唆するのかはわかる。
オルオは脱出できたのだろうか。パラシュートは開いたのか。DCは救難隊を派遣してくれただろうか。自分が考えるべきじゃないことばかりが頭の中をグルグル回る。
これはリヴァイの言う頭を使えとは別のことなんだろう。自分がここでいくら考えたって無駄だ。今は無意味な心配をしている場合じゃない。そんなことはわかってるのだ。
ブレイクしてから機首をもう一度270度に向けて三機を追う。エレンには自分がこの場にいる意味がわからない。地上では何が起こっているんだろうと不安になる。
『グリーニル・ゼロワン、目標機の行動に変化はあるか』
『変化は見られない』
『了解。――引き続き警告を実施せよ』
『グリーニル・ゼロワン、ラジャー』
DCとスクランブル編隊一番機の会話を聞きながら手のひらに汗を握った。領空に入られたのに、まだ警告射撃の一発も撃たないのかと焦る。雲から出てきてからやけに速度が遅い。アンノウンは一体何をしようとしているのだろうか。
『繰り返す、貴機は我が国の領空を侵犯している。ただちに針路を変更せよ!これは警告である』
F-55のレーダーには寄り添うように並んで飛ぶ二機とその少し後ろを着いて行く一機が映っていた。もう肉眼で本土が確認できる。仲良く散歩してる暇なんかない。
*
『あの、もう領空に入られてますが。このままずっと横に着いたまま領土上空まで行かせてやるつもりですか』
正気ですかというニュアンスで天井から響いた声に、国防大臣と空将以下八名ほどの男たちは目ん玉が飛び出るんじゃないかというほどのオーバーリアクションで驚いてくれた。内容は不慣れと無知を晒すまさに新人といった感じのものだが、クソジジイ共の間抜けな表情を見られるのは悪くないとリヴァイは思った。
同時に髪の毛の薄い空将が管制官の肩を思いっきり引いてマイクを奪う。
「貴様、それでも国防軍の一員か!不用意に武器を使用するなど言語道断!我らはこの国を愛し、国民を愛し、平和を愛する軍隊なのだぞ!」
『その愛する国を護るための軍じゃないですか。こいつが機体ごと首都の主要施設に突っ込んだらどうするんですか。石油コンビナートに機関砲をぶち込んだらどうするんですか』
「ぶ、はははは!」
エレンの切り返しに思わず吹き出したのは司令官だった。
「ピクシス、貴様何がおかしいっ」
「いやこれは失礼。しかし彼の話はあまりに非現実で、まるでドラマのようですぞ。笑わずにはいられない。聞けばこのパイロットは二か月の新人…まだ国防軍の何たるかを知らないのでしょう。あるいは初めての対領空侵犯措置で大臣殿のお目にかかって緊張しているのやもしれませんぞ。可愛いものではないですかの。ワシも先月ちょうど孫が二十歳の誕生日じゃったのですが――」
「貴様の孫の話などどうでもいい!それよりもあのパイロットに間違っても手を出さないようにと伝えろ!ほら早くしないか!」
空将に急かされた管制官は上擦った声でマイクに向かってその旨を伝える。するとラジャーという返事のあとにとんでもない言葉が返ってきた。
『自分は手出ししません。先行編隊が撃ってくれるということで良いでしょうか』
「ああ?!!おい、このバカは何を言ってるんだ!?」
「イ、イエローブーズ・ゼロツー。とりあえず自分は指示通りに後方から全体の様子を見ていればいい。何か変化があったら報告をしろ」
両腕を90度に開き何かを訴えるようなポーズで怒っている空将に、まるでミュージカルでも観ている気分になった管制官は焦って指示を出した。これ以上この人たちを怒らせないでくれ――二か月の新人だというイエローブーズ・ゼロツーのパイロットの言動に頭が痛くなる。DCの空気は重くなる一方だ。
「しかたあるまい。大臣、ここはハネダに強制着陸させるしかないでしょう」
「ここに?バカを言えピクシス!ここは都市部だぞ?何千万の人間を危険に晒す気だ。他の基地に回せ!」
「バカ言ってんのはてめえだろ」
「ああ?!」
「よせリヴァイ。ハネダは周辺を飛ぶ民間機が多すぎて退避が間に合わないだろう。ヒャクリに誘導させましょう。パイロットに指示を。向こうの基地にも受け入れ態勢を整えさせろ」
*
『ウォーニング、ウォーニング!こちらは国防空軍。貴機は我が国の領空を侵している。我の誘導に従え』
ヒャクリ基地へのエスコートを指示された編隊はミグを挟むように斜めに位置した。イエローブーズ・ゼロツーはその後方3マイルを飛んでいる。
マイクから聞こえてくるグリーニル・ゼロワンの声と前方を飛ぶ三機の影を見ながら、エレンは本当にミグは従うのだろうかと思った。再三の警告を無視して領空に押入ったヤツだ。大人しく着いて行くとは考えにくい。それにどうしてハネダじゃなくてヒャクリへ向かうんだろうか。今日は要撃管制官だけではなくリヴァイや、謎の中年男がスピーカーの向こうで登場する。DCも大変そうだ。
オルオは本当に大丈夫だろうか。何もかもがいつもと違って不安だった。
「スー…スー…」
自分の呼吸の音、エンジンの音がうるさい。音速を超えたらこれよりもっとうるさくなるなんて信じられない。今はまだマッハ0.7だ。
いつまでここにいればいいのだろう。エスコートは二機で十分なはずだ。自分は何のためにここにいるのだろう。
どうせなら一番機のシンボルが消えた地点に戻らせてほしい。オルオは自分のリーダーだ。もしも本当に墜ちたというのなら拾い上げることはできなくても探したかった。このまま金魚のフンみたいに着いて行くよりずっと意味のあることのように思える。今は壮絶な格闘戦をしているわけでもなく、亜音速で前に続き飛んでいるだけなのだ。
ヘルメットの中はいつも通り汗で蒸れている。額を滴が伝うのを感じる。このままヒャクリに行ったら今日は向こうの基地で世話になることになるだろうか。航空学生時代の同期が何人かいるから久しぶりに会えるかもしれない。
緊迫した非常事態だというのにエレンの頭は必死に日常を探していた。レーダーから味方の、リーダーのシンボルが消えるというのはそれほどまでに恐ろしいことだった。
「スー…スー…」
前方にまた嫌な雲が出てきた。
『ピピピピピッ』
『!?…な――』
ドオン、という大きな音が聞こえた。ヘルメットの外…自機ではない、キャノピーの外からだ。煙が出ている。失速したF-55は高度を落とす。前を飛ぶ二機とエレンの操縦する機体が黒煙を出すグリーニル・ゼロワンの横を通り過ぎるのはあっという間のことだった。
「………っ!!」
今度は雲の中じゃない。しっかりと見た。間違いない、ヤツだ、ミグが撃った。この国の領空で、この国の戦闘機を撃ち落しやがった。
「あの野郎!」
『ヤマト・ゼロスリー!グリーニル・ゼロワンが被弾した!一瞬だがコックピット内に灰色のスモークが発生しているのが見えた。パイロットのベイルアウトは確認できていない』
グリーニル・ゼロツーのパイロットがはじめて喋った。声は低いが女の人だった。長機が墜とされたというのにその声色は冷静だ。
いや、そう聞こえるだけかもしれない。仲間が墜とされても平気だなんて言うヤツは見たことない。軍人というものは、指揮官とファイター・パイロットは特に、冷静でなければいけないからそうあろうと演じるのだ。
『グリーニル・ゼロツー、状況を報告せよ』
『……ッ』
「……う、」
DCからの問いかけに彼女は返事をすることができない。エレンにも代わりに答えてやることはできなかった。
ミグを含む三機は80度近い
傾きでの急旋回に入っていた。脳から血液が下がるのを防ごうとGスーツが下半身を締め付ける。パイロットには7G以上かかっている。息苦しい。肺が押し潰されそうだ。視界から鮮やかさが消えていく。世界の彩度がゼロに近付いているのを確かに感じる。
このままだとグレーアウトになる。脳へ十分な血液が回らなくなり、視界が薄暗くなる危険な症状だ。
訓練だとグレーアウトになった時点でパイロットには申告の義務があり、フライトが中止になる場合もある。それだけですぐに墜ちるわけではないが、脳に血液が足りないと思考力が鈍って危険だ。
グレーアウトで更に高Gをかけ続けると次はブラックアウトが待っている。徐々に世界が狭まり最後は視界が真っ暗になる。完全なる視野の喪失だ。こうなればもうまともな操縦はできない。そして極めつけはG-LOC。Gによる意識の喪失だ。失神すれば操縦ができないことは言うまでもない。
戦闘機パイロットには最大で体重の9倍、9Gがかかると言われているが、いくら耐性があるプロだからと言ってそう何秒も耐えられるものではない。
それでもグリーニル・ゼロツーもイエローブーズ・ゼロツーも安易に旋回から離脱することはしない。このミグは『撃てるヤツ』だということがわかったからだ。
グリーニル・ゼロワンは対領空侵犯措置に則って、無防備にもミグの斜め前に位置取って警告を実施した。その結果、簡単にロックオンされ撃墜された。同じことを繰り返すわけにはいかなかった。何が何でも相手のバックを維持するしかないのだ。
「く…っ」
『グリーニル・ゼロツー、状況を報告せよ』
うるせえ。無線が邪魔だ。
ただでさえはじめてのことばかりで余裕がないのに勘弁してくれ。DCのモニターでも三機が旋回していることはわかっているはずだ。
一瞬の隙をついてミグが旋回から離脱する。グリーニル・ゼロツーも後を追う。エレンは高度をさらに上げて全体が良く見える位置を取る。互いの長機はやられてしまったから、今は自分があのF-55をサポートするしかない。心筋は爆発しそうなくらい伸縮を繰り返していたが、旋回している間に頭の方は多少この状況に慣れてきた。どんな時でも冷静に…それはパイロットに求められる最も重要なことの一つだ。
『ヤマト・ゼロスリー、グリーニル・ゼロツー。ゼロワンは撃墜された。これは正当防衛だ。ヤツを攻撃する』
*
「正当防衛…?」
天井のスピーカーから聞こえてきたパイロットの声に国防大臣は明らかに顔をしかめた。
「ラジャー、攻撃を…」「ならん!!」
要撃管制官が許可を出そうとしたが、その声を遮る。先ほどまで不機嫌そうな青白い顔をしていたのに、今は顔を真っ赤にして怒っているようだ。国防大臣より瞬間湯沸かし器と言った方がこの者の本質をよく表しているだろう。
「正当防衛は『自分が攻撃をされたから』反撃をする権利を与えるものだ!一番機が撃墜されたからと言って、二番機に敵機を攻撃させるものではない!貴様らがそのように野蛮な考えだから国防軍全体が暴力集団などと言われるのだ!恥を知れ!!」
マイクを手にしているわけでもなく、パイロットに届くかもわからないが大臣は声を張り上げて激昂した。フーフーと荒い息はスピーカー越しに届くパイロットたちの呼吸音よりずっとうるさく感じさせる。大臣を取り巻く十人ほどの空軍幹部と側近たちはそうだそうだと口を揃えたが、ピクシス、エルヴィン、リヴァイの三人は無表情でその姿を見つめ、決して口には出さなかったが心底呆れていた。
「ではどうしましょうか。このままだと本土の上空まで侵入を許してしまいます。そこまで来られたら下には我が国の民が暮らしている。撃墜しようとしてももうできない。やるなら海上にいる今です。取り返しのつかないことになる前に、どうかご英断を」
「だまれエルヴィン!大臣に向かって何という失礼な物言いだ!」
「しかし彼の言うことは正しいですぞ。もはや正当防衛ではなく、防衛行動をとらせるべき事態…」
大臣がもしこの状況に『我が国に対する外国からの武力攻撃が発生した事態、または武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態』でありかつ『緊急を必要とする相当の場合』との判断を下せば、国会の承認を得なくとも国防軍に自衛の範囲内で一時的に武器の使用を許可することができる。
これが法で定められた防衛行動でありそして、三つの壁を作ってからの百年間でただの一度も発令されたことはない。この国の政治家に責任を負える者がいないからだ。
「貴様っ、ぼ、防衛行動などと…私に判断しろと!?ふざけるな!武器の使用は断じて認めん!"武力を行使せず"あの不法侵入機を追い払え!」
「バカかてめえ。できることとできないことの区別もつかねえのか」
リヴァイは呆れて物も言えない状態から一周回って嫌味を言えるまでに回復した。いくら何でも武器を使用せずあのアンノウンを追い出すのは難しいだろう。躊躇なく国防軍の戦闘機を墜としたあたり、相手は戦争になろうが国際社会から非難されようが構わないらしい。
国防軍はこの国に深刻な被害が出て政治家からゴーサインが出ない限り何もできない。いつも後出しだ。ジャンケンなら勝てるが撃ち合いなら圧倒的に不利だった。
「この無礼なヤツめ!」
普段はペコペコ頭を下げられることしかないだろう大臣は、航空学生出身のたかが二等空佐ごときにバカと言われた状況を理解できないようで白目を大きくした。その一瞬で指令所の空気が凍り付いたのは誰もが感じた。大臣の気を損ねないようにと、取り巻きたちは一斉にリヴァイに食ってかかる。
それに気を良くしたのか、あるいは生意気な二等空佐に一番ダメージを与えられる行動に気付いたのか、大臣は要撃管制官に近付くと肩を叩いた。
*
前を行く鷲…F-55『イーグル』と、その先を行く燕…MiG-92『ファルクラム』を確実に視界に捉えながら、エレンは再び頭が熱くなるのを感じた。グリーニル・ゼロツーのパイロットは正当防衛で攻撃すると言った。
そうだ。敵の攻撃により自らの命が危機に晒された時、自衛の権利が生まれる。自分たちが唯一現場の判断で武器を使用できる方法、それが正当防衛だ。実弾を装填していない自分には無理だが彼女は撃つだろう。リーダーがやられたのだ。おまけにこのままだと本土の上を悠悠自適に飛ばせてやることになる。躊躇う理由も迷っている暇もない。
しかしその報告を受けたDCからは予想外の答えが返ってきた。
『ネガティブ。グリーニル・ゼロツー、アンド・イエローブーズ・ゼロツー。正当防衛は認められない。武器の使用は禁止だ』
『あ?』
「は?」
二人の口からは意表を突かれたと言うに相応しい声が漏れた。幻聴を聞いたのかと混乱する。
『アイ・セイ・アゲイン。正当防衛は認められない。"武力を行使せず"アンノウンを追い払え』
『………』
「そんな」
エレンからは見えないが、グリーニル・ゼロツーの女性パイロットも絶望に顔を歪めているだろう。武器を使うな、だがアンノウンは追い払え、そんな命令は無茶だ。警告なら耳にタコができるほど行われたが、それでもミグは領空に入ってきたのだ。
グリーニル編隊による誘導にも従わなかった。こいつを止めるならあとはもう撃墜するしかない。撃墜するしかないのだが、その手段がない。
リヴァイはまだDCにいるのだろうかと考える。あの人がいてもこんな指示が出るのか。国防軍とは到底達成できないめちゃくちゃな命令を出す組織なのか。それでいいと、これが正しいと思っているのか。味方のそれより明確な敵であるミグのパイロットの生命を尊重する命令を出す意味が理解できないし、何よりこのままだと民間人に被害が出る可能性もあるのだ。この命令を出した人間は本当にこの国を護るつもりなのか?
戦闘機に乗った時からファイター・パイロットはみんな、いつか空で死ぬのかもしれないと考える。その覚悟を持って、しかし決してそんな未来は来させないという決意の下で空を飛ぶ。
だけどこのまま後を着いて行ってろくに攻撃もできず撃墜されたらどうだ。ただの無駄死にじゃないか。
自分たちだけじゃない。このファルクラムが機体ごとどこかに突っ込むかもしれないし、機関砲を乱射するかもしれない。そうしたら何の罪も覚悟もない民間人の血が流れるだろう。そんなことはあってはならない。それを防ぐための国防軍であるはずだ。
開いた口が塞がらない。絶句という表現がこれほど相応しい状況もないだろう。受け入れがたい指示に困惑するエレンだが、しばらく黙ったままだったグリーニル・ゼロツーが口を開いた。
『ラジャー、武器は使用しない。アウト』
スーッという息を吐く音と共に彼女は交信を終了した。
信じられなかった。武器を使わずにどうやってこの偉そうなミグを追い出すつもりなんだ。エレンにはわからない。心臓の動きがますます速くなるのを感じる。
ミグはF-55をお尻に張り付けたままマッハ0.5までスピードを落としてのんびりと飛んでいる。他国の上空を我が物顔で。それも全部、国防軍に交戦規定がないからだ。たとえ自分の国の領域だろうと、他国籍のものに対して攻撃することができない。撃たれないと知っているから簡単にバックを取らせる。
屈辱だ。正々堂々と勝負して負けるよりもあるいは悔しい。あのミグのパイロットはきっと自分たちのことをトリガーも引けない腰抜け野郎だと笑っているんだろう。
『グリーニル・ゼロツー、応答せよ。グリーニル・ゼロツー』
彼女はもう管制官の呼びかけに答える気はないらしい。DCからの交信には黙ったまま
国際緊急周波数で前を行くミグに呼びかける。
『領空侵犯中のミグに警告する。貴機を機関砲でロックオンした。このまま飛び続けるなら撃ち落す』
エレンは息を呑んだ。
一瞬、彼女がミグを本気で撃ち落す気かと勘違いしそうになった。
違う。彼女はロックオンすることで追い払おうとしたのだ。機関砲で捉えることは明らかな威嚇行為だが、果たして武力を行使したことになるのかはわからない。結局こちらは撃てないのだから。ビビって逃げてくれれば良いのだが、エレンはきっと逃げはしないだろうと思った。そしてそのとおり不気味なほど静かにミグは飛び続ける。
『撃たないってわかってるわけね』
吹っ切れたような女の声だ。
『ねえ、後ろ飛んでる…イエローブーズ・ゼロツーだっけ。名前は?』
「エレン・イェーガー三尉です」
『そっちじゃなくてTACネームの方』
「イーグルです」
『イーグル。私の名前はテディだ』
「テディ…」
さすが女性パイロットだけはあって可愛らしい名前だ。
『髪の毛の色が実家にあるクマのぬいぐるみに似てる、って教官が付けてくれたんだけどまあまあ気に入っている。自分の方がクマみたいな図体してるくせにさ、笑えるよね』
適当に相槌を打つエレンには突然世間話を始める彼女が何をしようとしているのか全くわからない。
自分が新人だと気付いて緊張を解そうとしてくれているのだろうか。それなら効果はバツグンだが、代わりに気が抜けすぎた。危うく前方下を飛ぶミグから目を逸らしそうになった。
『私には今付き合っている人がいて、結婚の話もある。今後のことについても話し合っていて、籍を入れたらパイロットを辞めることになった。私がこうして空を飛べるのはあと一年もない。だけどだからと言って仕事に手を抜くつもりも一切ない』
「はい」
だから何が言いたのかがわからないのだが、と言いそうになった。
『戻ったら彼にありがとうと伝えてほしい。こんな状況じゃ君にしか頼めない』
「そんなの自分で――」と言いかけてハッとした。
『あと、両親にもありがとうと、親不孝な娘でごめんって。それから隊のみんなにもお世話になったお礼を。ああ、友達にも残したいけど、駄目だ。頭が回らない。とにかくありがとうって。私は今ここでみんなが暮らすこの国のために戦えて本当に幸せだから。そうだ、ゲルガーのヤツが生きていたら護ってやれなくてゴメンって言っておいて』
ゲルガーとはグリーニル・ゼロワンのパイロットのことだろう。
「そんなにいっぱい覚えられませんよ…やめて下さい」
『うん。だから忘れないうちに君は基地に帰りな。こいつは私が必ず止めるから』
「俺だけ帰るなんてできません」
『ここにいたって意味がない。帰るんだ』
そんなことできるわけがない。そう言う前に彼女の方が口を開いた。
『グリーニル・ゼロツー、バーナー・オン』
エレンのすぐ前を飛んでいたグリーニル・ゼロツーの二発のエンジンがオレンジを吐き出す。ドオンという爆音と共にF-55はアフターバーナーを点火した。
彼女が何をする気かはわかっている。ミサイルもバルカン砲も使えないとなった今、唯一の武器は多くがチタン合金でできているその機体である。
「ぶつけるつもりだ」
そんなことは絶対に駄目だ。でも他にどうすればいいのかわからない。
エレンは二秒弱遅れてスロットルをA/Bまで押し込んだ。こちらの無線を聞いていたはずはないのだが、爆発も何も起きていない所を見るとミグは間一髪でまだ逃げているらしい。前を行く二機はもう見えないほど遠くだ。
音速を超えたコクピットは強烈なエンジン排気音で不気味だった。目の前には空と雲、海しか見えない。大好きなはずの余計なものがない景色が今は怖かった。ヘッド・アップ・ディスプレイには二つのシンボルが映っている。
――駄目だ。レーダーで捉えても意味がない。目視で確認しなければ。
中距離、短距離ミサイルで決着がつかず機関砲でのドッグファイトに突入した場合、ファイター・パイロットはスケッチブックに白や灰色、青などの絵の具を零したような空の中を高速で飛び回りながら、コンマ一秒でも早く米粒より小さい目標を見付けなければならない。現代の空戦ではめったに見られないが、もしも起きればそれができないと死ぬ。実に簡単なルールだ。
「どこだ、どこにいる」
アフターバーナーの火が見えるはずだ。必死に目を凝らす。
同じ頃、グリーニル・ツーのコックピットではパイロットが今にもミグに喰いかかろうとにらみつけていた。速度は負けてない。だけど追い越してもいけない。確実にぶつけなければ、国防空軍のパイロットは撃てる相手に勝てない。
「スー…スー…」
うるさい。全ての音が追いかけてくる。音の壁を越えたら静かになるというのは空を飛んだことのない者が抱くイメージで、実際には超音速飛行と言えど機体を伝わり音は聞こえる。おまけにエンジンの爆音はさらに酷くなるばかりだ。コックピット内で何か特別な現象が起きるわけではないが、そういえばやけにうるさいと速度計を見て音速を超えたことに気付いた。
「スー…スー…」
超音速で追うF-55に超音速で逃げるミグ。簡単なように思えて、逃げる相手に体当たりするというのは難しい。アフターバーナーを点火した一瞬で追いつけたら良かったのだが目標の反応は早かった。トップスピードなら勝てるが、確実にぶつけられるタイミングでなければならない。僚機はもういないのだから失敗は許されない。自分が一億人以上の暮らすウォール・シーナを護る最後の砦だ。
短くカットしたクマのぬいぐるみのような金髪から汗が垂れて目に入る。瞬きしたその時だった。
「何?!」
突然、視界の真ん中を飛んでいたミグが消えた。
どこだ。どこにいる。
下、違う。右、違う。左、違う。上――?いない。バックミラーにも映っていない。どこにもいない。そんなバカなことあるはずない。
その時、上下左右を慌ただしく見回す彼女の目に懐かしい光景が浮かんだ。
もう何年前になるだろうか。F-55の操縦課程に進級できた時に出会った当時の教官、そして現在の恋人の姿だ。ピンク・カードで赤点を言い渡された時、部隊配置が決まって自分のことみたいに喜んでくれた日、好きだと告げた時の顔。背の高い後ろ姿。
仲間からTACネームで呼ばれることが実はあんまり好きじゃなかった。テディという名前は気に入っているが、どうせなら二人だけの秘密にできればもっと良かった。振り向いた彼が懐かしいぬいぐるみを呼ぶように自分に話しかけてくる。
考えてみると死ぬことよりも、もう声を聞けなくなることの方がずっと怖い。誤魔化すように見渡した空に友軍機はなし、一人ぼっちだった。だけどこの名前があれば自分は一人じゃないと感じられた。
――できるなら最後にもう一度だけ聞かせて欲しかったな。
『テディ!シックス・オクロック・ハイ!』
"真後ろ上方に敵機がいる"――理解したがそこまでだった。背中側からダンプカーがぶつかってきたかのような衝撃が走ったが、脳が痛みを認識するよりも早く彼女の意識は肉体と共に引き裂かれ途切れた。
*
「グリーニル・ゼロツーの…シンボルが消えました」
突然速度を上げた二機に何事だと固唾を呑んで見守っていた防空指令所は静かになった。もともと静かだったのだが空気の温度が下がったからそう感じるのだろう。始めは五つあったシンボルも今や二つにまで減った。
残る一つ、イエローブーズ・ゼロツーのパイロットはOR資格を持たない新人で、訓練中だったので誤射を防ぐためミサイルの安全ピンは抜いていないし、火器管制システムもオフにしたまま、機関砲も撃てないようにしてある。当たり前だがこんな条件じゃ、国防軍ではなく交戦規定のある他国の軍の戦闘機だって勝てる見込みはまずない。
もっとも軍事知識のある人間なら簡単にわかるそのようなことも理解できていない者もいた。
「役立たず共め…!一機に何百億かけてると思っている!おい、最後のヤツに何が何でも止めさせろ。あのアンノウンをどうにかするまで基地への帰投は許さん」
この場にいる誰よりも地位が高く、誰よりも専門知識のない国防大臣だ。
要撃管制官は言葉に困っている。この国のために的確な指示を出すのが自分の役目だと思っているからだ。もし今飛んでいるのが訓練中の機体ではなくスクランブル装備のもので、パイロットがOR資格を持っていたのなら黙ってその命を伝えただろう。上からの命令に逆らえないのは地上でも同じなのだ。
しかし今たった一つ残った『YLB02』に止めろと命令しても、貴重な機体とかけがえのない若い命が無駄に散るだけだとわかる。それは銃口を後頭部に押し付け崖っぷちで『飛び降りろ』と脅す行為に等しい。管制官が言葉を紡げずにいると、彼を助けるかのように天井のスピーカーが咆えた。
『ヤマト・ゼロスリー!グリーニル・ゼロツーが被弾した!』
若い管制官はスイッチが入ったロボットのように俯いていた顔を急に上げた。
「パイロットはベイルアウトできたのか?ミグはどうなった」
『パイロットの脱出は確認できない。機体は後方上空よりバルカン砲の雨を浴びた。燃えたまま墜ちている!』
「了解。すぐに追加の救難隊も派遣する」
『自分は―――』
どうすればいいかと彼が問う前に、マイクは恰幅のいい大臣に奪われていた。
「おい貴様!何としてでもそいつを止めろ!絶対にシーナの中へ入れてはならん!」
黒のマイクに唾が飛び散るのを見て管制官と、その後ろで仁王立ちしていたリヴァイは顔をしかめた。
『何としてでも…?』
「そうだ!それが国防軍に所属する全ての者の義務だ」
『義務…何の意味もなく、虫けらみたいにやられるのが…』
「虫けらか英雄かは貴様次第だ。もし任務を達成できたら大臣命令で昇進させてやろう」
この時上空にいるパイロットははじめて自分が今話している偉そうなオヤジが国防大臣だということを知ったが、だからと言って今さら態度が変わるわけもなく、指令所の方にも当然変化はなかった―――はずだった。
「退け、豚野郎」
耳を疑うような言葉がまさか自分を指しているなどとは思えなかったのだろう、国防大臣は振り向きもしなかった。振り向いたところで結果は変わらなかっただろうが、控えめに言えばふくよかな、率直に言えば肥え果てたその体は醜く宙を舞った。
「ぐあああっ」
床に叩きつけられたボンレスハムのような腕を押さえ、男は悲鳴を上げる。
「き、貴様何をする」
顔を真っ青にした空将以下の空軍幹部たちは信じられないといった表情で、たかが飛行兵長ごときの二等空佐を見た。五つの射るような視線に晒されるリヴァイだったが、覇気もクソもないオヤジににらまれたところでどうにかなるわけはなかった。これでも若い頃の自分からしたらずいぶんまともになったと思うのだが、今日はもう我慢が利かなかった。
ああ不愉快だ、これだから政治家は気に食わない。
心の中でだけ呟き、口々に罵る男たちを一瞥してから要撃管制官の前にあるマイクを奪う。
「エレン、戻ってこい」
『リヴァイ兵長?』
再び現れた自分の声に安心していることがスピーカ―越しでも伝わってくる。知らず知らずのうちにこういう犬みたいなところに絆されていく。
「そうだ俺の命令だ、帰投しろ」
「き、貴様にそんな権利など…ピ、ピクシス!何とかしろ!」
リヴァイに勝手を許すわけにはいかないらしい大臣が吠える。訓練で鍛えている現役パイロットに腕っぷしで敵うとも思えなかった空将は司令官であるピクシスに止めさせようとした。しかし肝心の老兵は自分を哀れなものでも見るような目で見てから困ったように顎を撫でただけだ。
「ふざけるなよ…軍人が国よりも自分の命を選ぶのか」
それは違うと思った。自分が死ねばそれ以上の血は流れないというのなら、若いパイロットも潔く散ることを選ぶだろう。
だけどリヴァイにはここで戦うことがそういう勇ましい行動だとは思えなかった。それは国家予算をつぎ込んで製造した戦闘機を使った大掛かりな自殺行為でしかない。そう感じるのはこの場にいる多くの空軍関係者も同じだった。国にとっても軍にとっても頭の良い選択とは言えなかった。
前面のモニターでは『UNKNOWN』と『YLB02』が追いかけっこをしている。まだイエローブーズ・ゼロツーが追っている状況だが、相手のバックを取っても攻撃できるわけではない。
しかしたとえ攻撃ができなくともベストで、そして絶対的なポジションは敵機の背後である六時方向、シックス・オクロックだ。戦闘機の開発は進み、エンジンの軽量化やステルス性の向上、機体の強度強化に高機能レーダーなど日々進化は絶えないが、未だに自機の背後に向けて攻撃可能な実用性のある武器は生まれていない。
つまりたとえ相手を倒せずともシックス・オクロックを取れてさえいれば撃墜されることもないということになる。もちろん1対1が大前提ではあるのだが。
「隙を見て離脱し、アフターバーナー全開で退避しろ。それができそうにないなら意地でもそのポジションを維持するんだ」
今度は黙って見ていたエルヴィンがマイクを奪った。
お偉いさん方の機嫌はもはや地の底まで落ちた。今さら自分が何をしてもこれ以上悪くなることはないだろうと考えての行動だった。事実床に転がったままの大臣とそれを取り巻く側近たちはエルヴィンたちの方を見向きもしないし、空軍の幹部たちも顎が外れんばかりに口を開いただけだった。
その光景に口元が歪みそうになるのを必死に堪えたのは団長本人以外には知る由もない。
*
ミグとF-55は高度32000フィートを速度460ノットで飛んでいる。エレンは首筋を汗が伝うのが気持ち悪かったが、思えば思うほど汗は流れてきた。
領空に入ったあと、ミグは針路を変更して領土へ直進するわけではなく適当にフラフラと飛んでいるように見える。
そしてたった今、DCから帰投の指示が出た。要撃管制官にリヴァイ、防衛大臣の次に登場したのは団長のエルヴィンだった。
帰っていいのだろうか。目の前を飛ぶミグは国防軍の戦闘機を三機も墜とした。制約があり攻撃が許されない自分にどうにかできるとは思わないし、戦うことは自殺行為以外の何物でもないと思うが、嫌な予感がしてならない。どうしたらいいのか自分でもわからなかった。
『イエローブーズ・ゼロツー、聞こえるか』
「ゼロツー、聞こえている」
『燃料の残量はいくらだ』
「3000」
言われてはじめて燃料が残り少なくなっていることに気付いた。そういえば増槽は投棄していたのだった。基地まで戻らなくてはいけないことを考えるともうアフターバーナーは使えないだろう。
帰るしかない。このままミグの後を着いて飛んでいたらいずれは燃料がなくなる。
「ハネダまでだと燃料がギリギリだ。ヒャクリにダイバードしたい」
『ラジャー。イエローブーズ・ゼロツー、ベクター・トゥ・ヒャクリ・エアベース。レフトターン・ヘディング315、ディセンド160』
「イエローブーズ・ゼロツー、ラジャー。レフトターン・ヘディング315、ディセンド160」
エレンはエアブレーキを作動させ減速し左旋回で機首を315度へ、高度は16000フィートまで下げる。燃料は持つだろうが、アフターバーナーが焚けないのは辛い。このまま進めばミグがターンしたらすぐにバックを取られてしまう。はたして無事に帰れるのだろうか不安は残る。
『ヤマト・ゼロスリー、ライトニング・ゼロワン』
『ライトニング・ゼロワン、ゴーアヘッド』
『ハネダからのダイバード機のために上空待機している。このままだとアンノウンが当該機を背後から襲う可能性がある。燃料はまだ大丈夫だ。ボギーの元へ誘導してほしい』
スピーカーから聞こえる声にエレンはハッとした。
コールサイン『ライトニング』。ヒャクリ所属で訓練に出ていた二機編隊だろう。燃料がギリギリな自分を優先的に着陸させるため上空で待たされているのだ。この国を、あるいは自分の身を案じてミグの元へ向かうと言っている。
確かにヤツはまだ領空内にいるのだから、すぐに代わりのスクランブル機を用意しなくてはいけない。本当ならヒャクリから上がっているはずだが、アンノウンを強制着陸させるための準備で滑走路が使えなかったのだろう。そうなると次はミサワかチトセから出すはずだ。そうすればミグの針路からしても迎え撃つ形になる。
『ライトニング・エレメント、ヤマト・ゼロスリー』
十秒ほど経っただろうか。たぶんDC内で上の者が意見したのだろう。
『アンノウンが針路を変更した。イエローブーズ・ゼロツーを追っている。このままいくとヒャクリ基地上空を通過する。絶対に本土上空に入れるな、シーナは死守せよ』
『ラジャー』
『ベクター・トゥ・ボギー、ヘディング045、クライム・エンジェル30』
『ライトニング・ゼロワン、ヘディング045、クライム・エンジェル30』
『ゼロツー』
交信を聞きながらエレンは背筋に鳥肌が立つのを感じた。あのミグが自分を追ってきている。さっき三機を墜とした時のように攻撃するつもりなんだ。
『イエローブーズ・ゼロツー、アンノウンが貴機を追っている。現在ヒャクリ上空で待機中だった編隊を向かわせている。12時方向だ。ぶつかるなよ』
「イエローブーズ・ゼロツー、ラジャー」
喉から出た自分の声は震えている。対領空侵犯措置を開始してから二十分も経っていないだろうか。はじめてシックス・オクロックを取られそうになっていた。
F-55に搭載されているレーダーは最大で左右前方60度ずつの計120度までしかカバーできない。それでも操縦桿を傾けて軽く機首の方向を変えればかなりの範囲が見えるのだが、後方の物体を探知するには少なくともターンをしなければならない。エレンには後ろを追ってきているらしいミグの位置や距離が全くわからなかった。
ヘッド・アップ・ディスプレイには青のシンボルが二つ映る。IFF(Identification Friend or Foe/敵味方識別装置)の質問に対しシンボルの色が緑色に変化する。予想通りだがあれがライトニング編隊だ。
「スー…」
マッハ1を切ったコックピットにはエンジンの音が響く。それでも自分の呼吸は大きく聞こえた。
『イエローブーズ・ゼロツー、アンノウンが速度を上げた。現在990ノット』
「何だって」
約マッハ1.5に相当する。もともとそんなに距離もなかっただろう。すぐに追いつかれるに決まっている。
『5時方向6マイル。あと1分足らずで追いつかれる』
嘘だろと目を見開いた。どこから飛んで来たのか知らないが、向こうだって帰路を考えたら燃料はギリギリのはずだ。どうして加速して戻って来るんだ。
焦って距離を取ろうと十一時の方向へ向かいそうになるが、操縦桿を動かす前に背中を見せて逃げてどうすると気付いた。燃料さえあればアフターバーナー全開、マッハ2.5で逃げるのだがそれも叶わない。また首筋を汗をが伝うのがわかる。
どうしよう。どうしたらいい。
自分はこのまま死ぬのか?何もできないまま。嫌だ。そんなのは絶対に嫌だ。
死ぬくらいならいっそ――
『おい、ターンしろ。右だ』
ヘッドセットから声が聞こえて潜りかけていた意識が引きずり出される。リヴァイのものだとわかって、操縦桿とスロットルレバーを持ったまま震えていた両手が落ち着きを取り戻す。
何も考えられなかった。体が勝手に右へ曲がるために動き出すと本当に小さな虫みたいな点が空に浮いている。
『エレン、一か八かだ』
「はい」
一か八か何を試すつもりかはわからなかったが返事をした。
『シックスを取らせろ』
「はい」
反射的に返事が飛び出していく。リヴァイが何を考えているのかなんて知らないが、真後ろに着かせたらさっきのグリーニル・ゼロワンみたいに機関砲で撃たれることはわかる。この状況だともう、自分ではどうにもならなかった。脊髄が彼にすべてを委ねると決めた。この国で、それどころかたぶん世界中で一番強いパイロットだ。命を預ける器としては十分すぎる。
すぐに訓練の時のように目標とすれ違った。
『インメルマンだ』
もう返事をする余裕すらない。モニター越しに出される指示なのにやけに的確だ。いつもなら不気味に思うだろうが今は頼もしい。
操縦桿を引いて機首を上げる。そのまま上昇した機体は背面飛行になる。その時を待っていたかのように機体をロールさせる。ループの頂点で水平飛行に戻った機体は進行方向を180度変えている。ミグは――いない。いや。首を思いっきり捻って後ろを向くといた。距離は約1マイルといったところか。
『もう少し引きつけろ』
言われたとおりに黙って待つ。ミグは速度を上げF-55のお尻目がけて飛んでくる。心臓は意外にも落ち着いている。
今朝ブリーフィング・ルームで誰かが話していたことを思い出す。リヴァイは武器を使わないで敵機を墜とすらしい。そんなことできるわけないと思ったが、今こうして彼の指示通りに飛んでいるとやけに安心感がある。
ミグが後方300メートルくらいまで近付いてきた。
『そろそろ準備はいいな』
やはり何の準備かはわからなかったが返事をした。
『じゃあ死なないように祈ってろ』
ミグはもうすぐ後ろにいる。距離は100メートルを切っているだろう。
『操縦桿を倒せ』
言われたとおりに倒すと機首がぐんと下がる。
『もっと…そうだ、そのまま勢いをつけて倒し続けろ』
「……っ」
すごく不愉快な感覚だった。訓練では間違ってもこんな空中戦闘機動なんてとらない。世界中のパイロットがそうだろう。視界が赤くなっていくレッドアウトに陥る。グレーアウト、ブラックアウトとは反対の症状だ。あちらがプラスGで起こるのに対してこちらはマイナスGで起こる。脳から血液が下がるのではなく脳に血液が上る。眼球内の血管が爆発しそうだ。
プラスGはGスーツで負担を軽減できるのに比べ、マイナスGに対しては対策がない。人間も航空機もプラスGにはある程度耐えられるがマイナスGには弱いのだ。ファイター・パイロットは短時間なら+9Gでも耐えられるが、マイナスは-2.5~-3Gが限界と言われている。
コックピット内に警報が鳴り響く。ヘッド・アップ・ディスプレイに何かが表示されているのだが読めない。視界が狭まり頭が熱い。血だけではなく今朝食べたものも内臓もすべて口から出ていきそうだった。
『そのままだ。もう少しで上昇する――意識はあるのか?』
返事をしたかったがハイとは言えず、何とか出たのがうう…という呻き声だった。
『大したヤツだ』
操縦桿を倒し続けると機首を下げて下降してから背面になり、続けて上昇する。いわゆる逆宙だ。ウィングマークを取得してから、そして取得するまでを含めてもこんな機動を取ったのははじめてだった。
宙返りは普通、機体の腹をループの外側にして行う。操縦桿を引き続けて機首を上げ、上昇、背面飛行、下降、となる。機体の背をループの外側にすると高度の-Gがかかってしまうからだ。エレンにはもはや自分がどこをどう飛んでいるのか、どっちが天でどっちが海なのかもわからなかった。完全に
空間識失調に陥っていた。
『操縦桿を引け』
不愉快な感覚の中聞こえた声に力なく反応した手が操縦桿を引いた。スーと何かが下がっていくのがわかる。脳内の血管はまだドクドクと強く脈打ったままで、視界も赤い。だけど目の前の景色は上が空で下が海…たぶんそうだと思えた。
「ハァ…ハァ…」
ミグはどうなったのか気になったがもう首を後ろに捻ることも辛い。荒い息を整えることもせずにエレンは次の指示を待った。
『生きてるか』
「ハァ…ハァ……は…い…」
何とか声を絞り出す。本当はミグがどこにいるのかを聞きたかったがその元気すらなかった。何かあれば向こうから教えてくれるだろうと思った。今エレンの体を動かしているのはエレンの脳ではなく、リヴァイの声だった。
しばらく荒い呼吸を繰り返しているとスピーカーから覚えのある女の声が聞こえた。
『ヤマト・ゼロスリー、ライトニング・ゼロワン』
『ゴーアヘッド』
『イエローブーズ・ゼロツーとアンノウンを発見。アンノウンは機首を下げたまま急降下している』
『そのままどうなるか見てろ』
『このままだと海面に激突して機体はバラバラなる』
『だろうな。パイロットは失神しているだろうから俺たちにはどうにもできねえ』
ヘッドセットから聞こえてくる低い声に言葉が出なかった。一歩間違えば自分もそうなりかけていた。どれくらいのマイナスGがかかっていたのか、ヘッド・アップ・ディスプレイを確認する余裕もなかった。
エレンは気付かなかったが、アンノウンは三機とも十数メートルの超至近距離からバルカン砲で撃っていた。そういうこだわりでもあるのか、あるいは何か別の理由があったのか、ただの偶然か…とにかくエレンを狙う時も距離をつめてギリギリまでは手を出してこないだろうとリヴァイは考えていた。
後ろをべったりと張り付いてくるなら着いてこられない空中機動を取ってやればいい。殻から孵ったばかりのヒナのような操縦技術でも問題はなかった。勝敗を決めるのは機体の強度とパイロットの耐性、そして運だった。
『――ヤマト・ゼロスリー、ライトニング・ゼロワン』
『ライトニング・ゼロワン、ゴーアヘッド』
『アンノウンが墜落、炎上した』
『――――了解』
『イエローブーズ・ゼロツー・アンド・ライトニング・エレメント、ミッション・コンプリート。RTB…ヒャクリへ帰投だ』
05
目が覚めた時、一面は雲だった。
それが白い天井だと気付くのにしばらく時間がかかった。腕にはチューブが刺さっている。薄い布団がかけられ、白いシーツの上に横になっている。独特の匂いですぐにそこが病院だとわかった。
だけど次はどうして病院にいるのかがわからなかった。何をしていたのか思い出せない。頭がボーッとする。
エルヴィンに呼び出されて飲みに行って、次の日はオルオと訓練の予定だった。ブリーフィング・ルームで確かに顔を合わせて――そうだ、ちゃんと飛んだ。飛んで、負けて、そこで無線が入った。アンノウンが現れたと言われた。自分たちはその識別不明機を追って、それから―――。
「あ―――――」
エレンは両目を手のひらで覆いながら指先で前髪を握りしめた。抜けてしまいそうなくらい引っ張った。壊れたようにしばらくそうしていると、声に気付いたのか白衣を身にまとった看護師が現れる。ベッドの上で呻き続ける男を確認して幽霊でも見たような顔になると、すぐに走って担当医を呼びに行った。
エレンは丸一日眠っていた。命に別状はなかったが、毛細血管が切れて全身…特に首より上に赤い斑点がたくさんできていた。目の下は誰かに殴られたようになっている。一日経ったというのに酸素マスクの痕もまだ残っていた。身体もどことなくだるかったが、それは昨日の戦闘の所為というよりは昼、夜、朝、昼、と四食抜いたせいだと思った。点滴は打たれていたが腹は膨らまない。
「今連絡しました。会社の方が来て下さるそうです」
そうですかと抜け殻のように呟く。まるで長い夢を見ていたみたいだ。
いや、案外本当に夢だったのかもしれない。この国の領空に国籍不明の戦闘機が侵入してきて、空軍のスクランブル機を撃墜するなんて、そんなニュースは生まれてこの方聞いたことなどない。マスコミは大騒ぎするだろうし世論も激しく荒れるだろう。政府だって重い腰を上げざるを得ないはずだ。
そういえばここはどこの病院なのだろうか。
昨日は確か、ヒャクリから来てくれた編隊にエスコートされて向こうにダイバードしたはずだ。滑走路に進入するために旋回していた時、普段とは違う景色を見たのを覚えている。着陸してから…駄目だ、思い出せない。自分の足でコックピットから出られたのだろうか。キャノピーを開けた記憶すらない。
病室は怖くなるくらい静かだった。うるさいエンジンの音もしないし、自分の呼吸の音だって聞こえない。背中に感じるのは固い射出座席ではなく柔らかいマットレスだ。目を斜め横に向けると、窓の外は快晴だった。こんな日のフライトは楽でいい。
エレンはゆっくりと、だが確かに自分が生きていることを実感していた。
瞬きをする度に痛む痣が存在を主張している。どれくらいそうして空を眺めていたのか、本人にはわからなかった。やがて病室の扉が開き、細身のデニムと紺色のMA-1に身を包んだ男が入ってくると時が動き出す。その存在に気付いたのは彼がベッドの真横まで歩いてきて話しかけてきてからだった。
「気分はどうだ」
低い声に瞬きをして反応すると、エレンは顔ごと自分を見ているであろう上官へ向けた。陽光の入り込む部屋の中で見上げた姿は少しだけ霞んでいる。端正なその顔はこの世のものではないみたいだった。
「何か…目の下がめっちゃ痛いです」
「鏡を見てみろ。ハロウィンの仮装みたいになってる」
自分の目の下に大きな痣ができているなんて知らないエレンは首を傾げた。
「腹は減ったか」
「すごく」
「体は起こせるのか」
「起こそうと思えば」
「大丈夫なら今日にでも隊舎へ連れて帰ろうと思うが、まだここにいたいか」
「…どっちでも」
声が震えている。それはエレン自身もわかっている。嬉しいのか悲しいのか、安心したのか怖いのか、たぶんどれも正しかった。
「リヴァイ兵長、ありがとうございます」
「何がだ」
「昨日…俺、頭真っ白で何もできなかったから…兵長の指示がなければ死んでいました」
「礼なんて必要ない。俺はおまえを殺そうとした」
エレンの表情筋は瞬間冷凍されたように固まった。
「おまえがG-LOCに陥るかもしれないとわかっててあんな機動を指示した」
「……でもあの状況じゃ、何もしなかったら撃ち落されてました。少しでも生き残る可能性があるなら挑戦するべきです。それがファイター・パイロットです」
無表情で自分を殺そうとしたと告げる男に対して、不思議といつもあるような恐怖は感じなかった。
「そうか」
「はい」
二人の間には沈黙が流れる。
エレンは昨日の朝までは目の前の上司のことをただの嫌なヤツだと思っていた。自分のことが気に入らないからいつまで経っても資格をくれないのだと思っていた。
でもそれは違った。自分にはまだ空に上がっても、仲間はおろか自身の命を護る力すらなかった。リヴァイは正しかった。嫌がらせなんかではなく、ずっと死に急ぎだと言われる自分のことを護ってくれていたのかもしれない。それがようやくわかった気がする。
「すみません――俺ずっと…」「ところで」
謝罪の言葉は一文字も言わせてもらえずに遮られた。リヴァイはベッドの横に用意してあったパイプ椅子へ豪快に腰かける。
「おまえは明日、明後日は大事を取って休みだ。それ以降は体調と相談して決める」
「はい」
「ちなみに俺は二日間の飛行停止処分を食らった。腹が立ったから休みを取ってきてやった」
「はい?」
思わず声がでかくなった。
「海を見たくないか」
*
荷物をそうそうにまとめて準備をしたエレンはとっとと病院を出た。どうするかと訊いてきたわりには勝手に退院手続きを済ませていたあたりがリヴァイらしいと思った。
上司に言われれば白も黒になる、海を見たいかと訊かれればたとえ雪が降っていようと見たいと答える。それが自分たちの勤める会社である。
どこへ向かうのかはわからなかったが、リヴァイは車で来ていたらしいので何も考えず助手席に座っているだけでいい。上官の車に乗るというのは緊張したが、その主な原因は髪の毛一つ落ちていない車内の所為だった。綺麗好きというのは聞いていたが、怖いくらいに片付いている。無駄なものは一切なく、フロントガラスは洗車をしてきたばかりのようにクリアだった。あまりにも整いすぎて息をすることすら躊躇われる。
病院の外は知らない街だった。高いビルはないし、車の通りもそう多くはない。スーツを着たサラリーマンや旅行用のカバンを持ってサングラスを掛けた女の人もいない。信号待ちの主婦は自転車のカゴにスカスカのエコバックを入れている。
いい感じの田舎だ。
正面の青空を鷲が飛んでいる。
「イーグルですね。ここはヒャクリの近くなんですか」
「ああ。おまえ、着陸したはいいがコックピットで気絶したらしくてな。そのまま病院行きだった」
やっぱり気絶をしていたのか。情けなくて何も言えなかった。
病室での沈黙も息苦しかったが、狭い車内でのそれはもっと酷かった。何か喋らなくてはと思うのだが、エレンがリヴァイに訊きたいことは、果たして訊いてもいいことなのかがわからなかった。知りたいと言えば教えてくれるだろう。だけど訊くまでその話が出ないということは自分にとってよくない結果で、相手にとっても言いにくいのではないかと思った。意識が戻って昨日の記憶がだんだんと蘇ってきたが、不自然なくらいにその話題は出なかった。
「兵長…その、飛行停止処分って何かあったんですか。よっぽどのことが…」
「大したことじゃねえ。国防大臣を背負い投げしただけだ」
エレンは耳を疑った。
国防大臣に対して処分を食らうようなことをしたというのが驚きだし、たとえ相手が大臣でなくても背負い投げなんか普通はしない。口は悪いが上の言うことには逆らわないと思っていたが、どうやら勘違いだったらしい。むしろ飛行停止処分程度で済んだことが奇跡のように思える。
「何でそんなこと」
訊いてみたがリヴァイは何も答えなかった。また気まずい空気が流れる。
どうしてこうなるんだろうと思った。
自分がこの道に進む前はもっと冗談を言ったりできたし、決して笑ってはくれなかったが話を聞いてくれたし、居心地が悪くなかったのに。リヴァイが尊敬できるパイロットであることは嬉しかったが、気軽に話すこともできなくなってしまうくらいなら別の基地に行きたかった。
車が高速に入って二回ほどジャンクションを通ったら見慣れた景色が見えてきた。離陸した飛行機が管制官の指示に従って旋回している。トウキョウ国際空港だ。
海とはまさかここのことじゃないだろうなと思った。自分が勤務しているハネダ基地はこの空港の横にあるし、実家も車で二十分ほどの距離にある。特に綺麗でも何でもないこの海との付き合いは長く、もう見飽きてしまった。きっともっと高速を飛ばして有名な海水浴場にでも行くのだろうと思い直したが、反して車は出口へと向かっていく。これじゃあ基地にただ戻るだけじゃないか。そうならそうと、帰るぞと言ってくれればいいのに紛らわしい。別に海へ行きたかったわけではないからどうでもいいが。
ところが、車は基地へ向かうのかと思いきや通り過ぎてしまった。一体どこへ行くんですと訊くと、腹は減ったかと訊き返された。病院でも話したとおりお腹は空っぽで鳴りすらしなかった。するとリヴァイはちょうどよく現れたスーパーマーケットの駐車場へと車を入れる。海へ行くのではなかったのかとツッコミそうになったが、また無視されるのが怖くて黙って車を降りた。
スーパーですることと言えば買い物以外ない。リヴァイはカゴを持つと慣れた手つきで野菜を放り込んでいった。エレンは何も言わずに後ろを着いて回る。思えばこういうスーパーで買い物をしたことはあまりない。基地内の寮に住んでいるエレンは食堂で全てを済ませてしまうことが多いし、自炊はあまりしない。リヴァイは外に自分で部屋を持っているらしいが、料理とかもするのだろうか。想像できないが、レタスだと思って持って行ったものをキャベツだと指摘してくれたあたり自分よりは経験豊富そうだった。
何が食べたいかは訊かれなかったが、何が食べられないのかだけは訊かれた。特にアレルギーも好き嫌いもないと伝えると肉やら調味料やらもどんどん追加されていく。結局Lサイズの買い物袋二つ分にもなる食材を購入した。
大型スーパーを出た車は大きな国道を逸れて海へ向かって行った。片側一車線になったがスムーズに進む。車は真っ直ぐ海岸の方へと向かい、やがてこげ茶色のまだ新しそうなマンションの前に停まった。駐車してくるから待ってろと言われたエレンは、両手にパンパンの買い物袋をぶら下げてエントランスの前で棒立ちするしかなかった。
たぶん…というか絶対、ここがリヴァイの住んでいる所なんだろう。
道路を挟んだ向かい側には有名なパン屋の看板がある。キャラクターもののパンを取り扱っていて女性に大人気だとか…まだ浪人生だった頃にテレビで見たことがある。
エレンはため息を吐いた。どうしてこんなことになったのだろう。上官の家だなんて訪問したくない所ランキング上位の殿堂入りだ。ハネダに来てからは仕事以外で話す機会はめったになかったし、四年前だってバイトの時にしか話したことはない。よく考えてみれば完全なプライベートで会うのは初めてだった。
「行くぞ」
「あっはい」
いつの間にか後ろに立っていたリヴァイに声を掛けられピンと背筋を伸ばした。全く気配が読めなかった。休日だからといって気を抜き過ぎたかもしれない。
エントランスを抜けてすぐ正面のエレベータに乗ると、リヴァイは最上階のボタンを押した。12階に着くまで、緩いプラスGを感じながら二人は黙っていた。
そういえば戦闘機以外の乗り物を操縦するリヴァイをはじめて見た。いい歳なのだから普通だろうが、車も運転できたんだなと思った。
リヴァイの住む場所に入った時、エレンは『海を見たくないか』と言われた意味がよくわかった。
リフォームしたのだろう。二つの部屋の壁を取り払ったような広さのリビングにはセミダブルのベッドが置かれている。部屋の中は恐ろしいほどシンプルだった。黒のソファーの正面には液晶テレビが置かれ、間にはガラスのテーブルがポツンといた。そしてそんな殺風景を絵に描いたような部屋の外、リビングの窓の向こうには穏やかに陽の光を反射する海があった。それこそまるで絵画のように綺麗だと思った。
「家賃高そうっすね」
口に出したあとにしまったと気付いた。歯に衣着せぬ物言いはエレンのいい所でもあり、また悪い所でもある。上司の家に招かれて発した最初の一言が『家賃高そうっすね』はない。ありえない。どうして喉を震わす前に止めなかったのか自分の脳みそが憎い。
また無視されるか文句を言われるだろうなと目線を泳がせていたエレンだったが、リヴァイは野菜を冷蔵庫にしまいながら、独身だと他に使い道がないからなと普通に答えてくれた。
やっぱり独身だったかと納得してしまう。
四年前はしていなかったがその間に結婚していても不思議はなかった。国防軍の男は民間人に比べて婚期が早いので、リヴァイならそれなりの歳の子どもがいてもおかしくない。航空学生だった時も同期の既婚者は珍しくなかった。
だけどエレンにはリヴァイが誰かにプロポーズしたり礼服を着てウェディングケーキを切るところなんて想像できなかった。そもそも女性と付き合ったりするところすら考えられなかった。
「いい眺めだろ」
キッチンのカウンターの下から聞こえてくる声でどこかに飛んでいきそうだった意識が体に戻ってきた。
「はい。兵長って海が好きなんですか」
「どうだかな」
手持無沙汰にうろうろしていると窓の向こう、遠く海の上を二羽の鷲が飛んでいくのが見えた。F-55だ。
「そうか…ここって東海の訓練空域に行くときの通り道なんですね」
「腹は減ってるんだったよな。ここにあるもん適当に使って何か作れ」
丸っきり無視されたエレンが振り向くと、リヴァイはまだカウンターの下で何かをごそごそとしまっていて姿が見えなかった。一瞬聞き間違いかと思ったが、雑音の入る航空無線でも管制官や仲間と正確に情報のやり取りをするパイロットの耳が悪いわけがない。機械を通さないで耳に入ってくる声は今日の青空のようにクリアだった。
「何だこれは」
「パスタ?です」
「パスタ?って何だ」
「スパゲッティです…」
「違う。俺はどうして疑問形になるんだと訊いている」
それはこの皿の上の物体がパスタには見えないから自信がなくてです――ハッキリとそう言えたら良かったのだが、エレンは言葉を濁してしまった。
手順はわかっていたのだ。麺を茹でて、野菜とベーコンを切って、炒めて、ケチャップと砂糖で味付けをする。それでナポリタンができる予定だった。鍋に大量のお湯を沸かすところまではミス一つなく完璧だった。野菜の切り方も間違ってないし、麺の量も計算した。そのあとも麺がやけに柔らかくなった印象は受けたが、大きなミスは犯さなかったはずだ。それなのにどうして今自分の目の前にはミネストローネに小麦粉を混ぜて炒めたような名もなき料理があるのだろう。
「麺を茹ですぎだ。それに油を引かないでいきなり麺から炒め始めただろ。ケチャップは焦げてるし、そのわりにピーマンはまだ半生だ。麺が焦げ付いたからって水を入れて、ホールトマトもぶち込みやがったな。それなのに砂糖の量は増やさなかった」
「仰るとおりです…」
まるで見ていたかのようにズバズバと当てられて、エレンの頭はどんどん下がっていった。料理できるなら自分で作ってくれればいいのにと思わずにはいられない。食べなくても目の前のナポリタンもどきは美味しくないとわかる。
しかし、散々文句をつけたリヴァイ本人はフォークを取るとドロドロになった麺をすくって口へ運び始めた。思わず目を丸くする。
「そんなの食べなくても」
「マズいな」
「うっ」
言われなくてもわかっている。
「おまえも食え」
「…はい」
食べたくはなかったが、自分が失敗した料理を上司が食べているのに自分だけ拒否するなんてできなかった。
恐る恐る麺らしき物体を口へ運ぶ。ねちょねちょしている。酸味が効きすぎて砂糖の存在はどこへやら。吐くほど不味くはないが、天地が引っくり返っても美味しくはない。顔をしかめて食べているとリヴァイはフォークを置いてキッチンへと消える。数秒も経たないで戻ってきた彼はグリーンのボトルを持っていた。
「飲むか」
「いただきます」
あの店ではウィスキーばかり飲んでいたが、どうやらワインも飲むらしい。ピカピカに磨かれたワイングラスに赤ワインが注がれていく。
アルコールを入れたら体がすぐに熱くなった。そこまで弱くもないが、今日は体調が悪いからかもしれない。点滴まで打ったのに飲んでもいいのかなんて今さら疑問に思ったが、フワフワと体が浮くような感覚が空を飛んでいるように感じられてどうでも良くなってしまった。空の男はやはり酒だ。
窓に対して垂直に置かれたソファーには座らず、二人は床で胡坐をかいている。太陽は頂点から少しずつ降り始め、雲一つない空の下で海は穏やかである。
自分たちがいつも飛んでいる空なのにそんな感じはしない。昨日の空とは違う。リヴァイは海が見たくないかと訊いてきたが、そのとおりこの景色でこの部屋を選んだのだろう。空はどこからでも見えるが海は違う。さっきはどうだかなと言ったが、きっと海が好きなんだろうと思った。
酔いが回ってくると自然に口元が緩む。エレンはリヴァイの前ではまともに酔ったことはないが、実は笑い上戸だった。
「ぷっ」
何が面白いわけでもなかったが楽しくてしょうがない。素面の自分が見ていたら上官の家で何酔っ払ってんだバカと顔面パンチを繰り出すだろうが、そんな理性は今のエレンにはなかった。
いきなり吹き出したエレンをスープに浮かんだハエを見るような目で見たリヴァイは、すぐに元の無表情に戻ってグラスに手を伸ばした。
ふふふと笑い続ける部下の声を聞きながら黙って窓の外を見ている。穏やかな海と、その青を映し出した空だ。たぶん綺麗と言われる景色なのだろう。理解できる。だけど理解できることとそう思えるかはまた別の話だった。空や海は与えもするし奪いもする。誰に対しても平等に不公平で、優しさに恐ろしさを孕んでいる。
「そういえば心配してたぞ」
「ふふ、何がですか」
「ジャンだ」
「あーそうなんですかーどうせ偉そうに文句言ってたんでしょお」
「同い年とはいえ向こうは編隊長だからな」
「んー…」
「だが復帰したらおまえもアラート任務に就ける。上からは態度こそ咎められたが、功績は認められたようだ」
「あはは…」
エレンは机に伏せて笑いながら言葉を聞いていたが、だんだんと意識が冴えてくる。普段はこうなったら酔い潰れたまま寝てしまい、頭から水をぶっかけられるまで正気には戻れないが、今日は上司の家ということもありどこかでブレーキがかかっていたのかもしれない。
「俺、スクランブルで上がれるんですか」
「ようやくな」
声色でわかった。それを決めたのはリヴァイではなくてもっと上の人だ。そしてこの人にとっては不本意なことだ。
自分にはまだ戦える力がないのだとこの部屋の空気が教えてくれる。悔しいがもっともだ。エレン自身そう感じていた。自分一人分の命ですら護れないのに国家や仲間が護れるとは思えなかった。
ここにきてやっと決心がついた。目が覚めてからずっと気になっていたが怖くて訊けなかったことがある。考えるだけで体の一番奥が震えて首筋を汗が伝う。まるで戦闘機に乗っているみたいだ。だけど訊かなくてはならない。ここでその事実から目を背けようというのなら、そんな人間にファイター・パイロットをやる資格はない。エレンは唇に食い込んだ歯を離した。
「あの、オルオさんって今はどこにいるんですか」
みっともないほど声が震えているが酔っ払っているせいじゃないということは、リヴァイにもよくわかっただろう。空のコップに伸ばした手までまるで携帯のバイブのように小刻みに揺れている。
「生きてる。全身打撲に右足小指の骨を折ってるが」
構えていたのがバカみたいに躊躇なく言われた。
そうか…ベイルアウトできていたのか…。
それがわかった途端酔いが完全にさめた。ようやく足が地に着いたと思えた。
この部屋から見える穏やかな海のその上空で彼のシンボルが急にレーダーから消えた。その恐怖はエレンには形容しがたいものだった。自分が死ぬのとはまた違う。きっと苦しい訓練を耐え抜いて空に上がった者、そして共に戦う者にしかわからない感覚だろう。
「そうですか。良かった…」
早く会いたい。会って謝りたい。護れなくてすみませんと言わなくては。
「スクランブル編隊のパイロットの一人は遺体で見つかった」
リヴァイは表情を変えずにグラスに手を伸ばした。エレンは今何を言われたのか、理解が追いつかずに一瞬固まった。
「正確には遺体の一部だが」
リヴァイが表情も変えていないことをエレンは知らない。どんな顔でこの話をしているのか知るのが怖くてそっちの方を向けなかった。
死んだ。スクランブルで上がってきたあの二機のうち、どちらかのパイロットは死んだのだ。その事実は温まり始めていたエレンを体の芯から冷やした。半開きの口は言葉を出せずに固まってしまう。数秒のことだがとても長くに感じられた。
「一番機の方ですか二番機の方ですか」
かろうじて出た言葉がこれだ。
「一番機だ」
一番機のパイロット…直接は話していない。だけど指令所との交信はエレンももちろん聞いていた。少し低めの男の声だった。所属する部隊こそ違うが同じ基地に勤め、同じ戦闘機に乗っていた仲間だ。脱出は間に合わなかったのかと訊きたかったがもう言葉にならなかった。何とも言えない顔になってしまったエレンを見ているリヴァイはそれを察したように教えてくれた。
「一番機のパイロットは脱出できなかった。レバーが故障したのかあるいは被弾の衝撃で失神したのかはわからん。機体は海面に激突して大破、何とか引っ張り上げたコックピット部分に操縦桿を握ったままの手首から先だけ残っていた」
手が見つかっただけで死んだと決めつけたのか。エレンの目がそう訴えるとリヴァイはまた淡々と答えた。
「ヘルメットもそのままの形で見つかっている」
はっきりと言わないだけまだ気を遣ってくれているのだろう。それが何を意味することかはわかった。ヘルメットが形を保っているのなら中身も無事だろう。家族にとって辛い結果になるかもしれないことだとしても、エレンは少しだけ安心した。行方不明のまま時が過ぎるのが一番耐え難いはずだ。
「二番機の方は…確かテディって…」
「アイツを知ってるのか。残念だがまだ見つかっていない」
エレンは頭を抱えた。頭を抱えるようにして耳を塞いだ。
この耳が使い物にならないくらいのポンコツなら良かったのに。今ここで聞いたことは全部冗談だと言ってくれと思った。
「彼女から伝言を預かっています。婚約者の方とご両親…ご友人…それから基地の仲間へ向けた…」
「遺言か」
「遺体が発見されればそうなるんでしょか」
きっと自分が直接伝えることになるのだろう。婚約者を、娘を、友人を、仲間を突然奪われた人にどんな顔をして会えばいいのだろう。どういう顔をするのが正しいのだろうか。悲しそうな顔だろうか。だとしたら自分は誰にも会わない方がいい。エレンはそう考えた。
「悲しいなんて顔じゃあねえな」
エレンの表情を見たリヴァイは無表情のまま言った。
その通りだ。悲しくはない。正確には悲しいだけじゃなく、もっと恐ろしくてどす黒い感情も内面から渦巻いて現れている。それは生まれ持った性質であり、エレンを構成するもっとも根幹的な部分であり、もはや青年の存在そのものと言ってもいいくらいだった。
『怒』――エレン・イェーガーを一文字で表すならこれだ。リヴァイははじめて会った時からずっとそう思っている。
エレンはいつも何かに怒っている。怒鳴っている、眉間にシワが寄っている、と目で見てわかるものばかりではないが、青年の中には常に怒りがあり、それが彼の原動力なのだろう。喜んでいても楽しんでいても根底は怒りだ。子どもの頃から、もしくは生まれた時からずっとそうだったに違いない。
リヴァイはエレンに会った時、すぐに彼が抱える感情に気付いた。その感情を発散させる場所を探していることも手に取るように理解できた。自分も似たようなものだったからだ。
きっと生まれた時からずっと何かに対しての怒りを持っていた。長い間その怒りの矛先に気付かず生きてきたが、今の自分はもうこの不愉快な感情の正体と発散方法を知っている。自分の中にある怒りと痛みを解放させるために選んだ道がこっちだった。
国防軍に入隊してから、ずっと勘違いしていた怒りの矛先がわかってきた。それは理不尽に晒される度に、方位磁針のようにピタリとその位置を向いて止まる。
訓練中の接触事故やエンジンの故障、被雷や高度のGによる失神、戦闘機パイロットはいつだって危険と隣り合わせだ。自分たちに失敗は決して許されない。それは誰かが言ったことではなく、人が人であるが故に生まれる戦いの世界がそう言っているのだ。失敗は成功のもとということわざがあるが、戦闘機パイロットの失敗とは死であり二度とやり直しはきかない。
そんな世界で命を懸けても報われることはまずなかった。自分も、そして何より仲間が。今回のパイロットがそうだったように、国防軍の人間はこの国の政治家や国民にとって記号か数字、あるいはゲームのキャラクターのようなものだ。情報として無感情に処理できるような存在でしかない。そしてぶつけられない怒りが生まれる。生まれた怒りのために空を飛ぶとまた怒りが生まれる。その繰り返しだ。
「おまえは俺に似ているな」
そんな言葉が無意識に出るとエレンは血走った眼をこちらに向ける。
「ファイター・パイロットになろうとするヤツは空を飛びたいとか、航空祭で見て憧れたとか、戦闘機マニアだとか、国を護るためだなんて言う。だがおまえはどれも違うだろう。空が飛びたいわけじゃない、飛行機に憧れを抱いたわけでもないし、国防なんて考えたこともなかった。だけどここだとわかった。ここなら自分の望むように振る舞えると思った。俺も同じだ」
エレンは驚いた顔をして何かを言いたげに口を開いたり閉じたりしている。
「俺は――」
「言え」
エレンは自分が今感じているものをどう言葉にしたらいいのか必死に考えていた。生まれてはじめて自分の中にあるこの感情に正面から向き合った気がする。家族にも友人にも誰にも話したことはない。大きく膨れ上がり内側からこの身を焼く衝動の行き場が欲しかった。まるで獣のようだと自嘲する。
仲間が殺されたんだから無理もないだろう。
これは悲しいことだが、悲しめる人は他にたくさんいる。だけど力を持たない人は怒りを表現することさえできない。その誰かの分まで自分の中のあり余るエネルギーで代えて吐き出したい。爆発しそうな心の中でリヴァイから許しを得たエレンは、自分の怒りを肯定した。
「ぶっ殺したいです。俺たちから奪おうとする奴は一匹残らず」
自分たちを襲った識別不明機やこれからやってくるであろうそういった脅威たちは人間ですらない、家畜以下の虫けらだと思った。死ねばいい。
「同感だ」
率直なその言葉でエレンははじめてリヴァイに親近感を抱いた。平和を愛する国防軍とやらの中にも自分のようにネジのぶっ飛んだ化け物が紛れていた。自分の命よりも価値のあるものを知っていて、そのためになら死ねる。
この人は自分のことを理解してくれる唯一の人だ。
奇妙な味のパスタに舌が痺れ出す頃にはすっかり何かに落ちていた。
*
「ん…」
眩しくて目を開けると朝日が窓から差し込んでいた。寮の部屋ではカーテンを閉め切って寝ているのでおかしいと思ったが、寝起きの頭は中々使い物にはならなかった。しばらくしてようやく広すぎる窓の向こうに広がる海に気付いて、そういえば昨日はリヴァイの家でご飯を食べてそのまま泊まってしまったのだと思い出した。頭がガンガン痛むのは酒を飲み過ぎたせいだろう。
「ん…?」
タオルケットの中がやけにスースーするなと自分の体に目を向けると、まるで急旋回で高Gが掛かった時のように頭部から血の気が引いていく。
エレンはセミダブルのベッドの上で全裸で寝ていた。
思わず顎が外れそうなほど口を開いてしまう。理解が追いつかずに必死に昨日の記憶をたどるが、どうしてもパスタを食べ終わる辺りまでしか思い出せない。一体あのあと何があって素っ裸で上司のベッドの上に寝そべる事態に至ったのだろうか。――駄目だ、思い出そうとすると頭が痛む。
「まさかとは思うがヤっちゃいないよな…」
自分にその気はないが向こうがそうだという可能性がある。エレンは恐る恐る自分の下半身に手を伸ばしてみるが異常はなかった。少なくとも男のプライドは保たれているらしい。
「セーフ…。…いや待てよ…もしかしたら俺が兵長を…」
こともあろうに酔った勢いのままこの世で一番恐ろしい人に無体を強いてしまっていたらどうしよう。その可能性を完全には否定できない。もしも本当にそうだったらぶち殺される。骨の一本や二本折るくらいじゃ絶対に済まないだろう。想像して全身に鳥肌が立った。
そういえば肝心のリヴァイはどこだと室内を見渡すがどこにもいない。机の上にあったはずのグラスや食器も全て片付けられていて、シーツの乱れたベッド以外はモデルルームのように綺麗だ。
とりあえず床に落ちていた自分の下着をはく。全裸からパンツ一枚に進化したところで水の音が聞こえてきた。最初は雨かと思ったが外は晴れているので違う。そうなると次はシャワーかなと思った。洗面所へ向かうと扉が閉まっていて水の音は中から聞こえる。リヴァイがシャワーを浴びているのだろう。ここは彼の家なのでそれ自体は別におかしいことでも何でもないのだが、自分が起きた時の状況の所為で勘繰ってしまう。
どうしようかと部屋の中を意味もなくうろつくが、結局何の解決策も見つからなかった。おまけに下着以外の服も見つからない始末だ。このままよれよれのボクサーパンツをはいたまま上司が出てくるのを待つしかないのか。
エレンは仕方なくシーツを正し、ガラスのテーブルの前に正座した。昨夜何があったのか全く覚えていないが、誠意を示すより他はない。
水の音が止む。数秒してバスルームの扉が開かれて閉まる音がする。さらに数秒して洗面所の扉も開く。エレンは正座をしながら太ももの上で握った自分の拳を見つめて唇を噛んで待つ。はたしてリヴァイの口からどんな言葉が飛び出るのか――もしかしたらいきなり飛び蹴りをかまされるかもしれない。
「あれ、そんなところで何してんのリヴァイ」
聞こえてきた女の声にエレンは瞬間的に顔を上げた。
そこには髪の毛をバスタオルで拭きながらこちらを見つめる全裸の女が立っていた。思わず叫び声を上げてしまうと、女はその声はリヴァイじゃないねと言った。声よりもまず顔が違うだろうと思ったが、目を極限まで細めている様子からして目が悪いのだろう。エレンは気まずそうに顔を背けた。全く動じない女にイラつきすら覚える。どうして裸を見られた彼女よりも見てしまった自分の方が動揺しているのだろう。
知らない男に裸体を見られた女は髪の毛を拭きおわるとどこからか持ってきたパンツをはく。エレンはその間中ずっと顔を背けたまま動かなかった。
「君この部屋の住人?もしかして私不法侵入者?」
「俺はこの部屋に住んでるわけじゃないですけど…」
女が不法侵入者かどうかはリヴァイにしかわからないが、聞き間違いでなければ自分のことをリヴァイと呼んだ。きっと知り合いなんだろう。シャワーを借りて全裸のまま出てくるほどに親密な関係にあるはずだ。
エレンは服を着ている女のことをリヴァイの恋人だと思った。ほとんど裸で正座している自分のことを彼女はどう思っているのか不安になる。この状況だと変質者扱いされても仕方がない。こんな格好の自分を置いてリヴァイはどこに消えてしまったのか。
「じゃあリヴァイの恋人?」
耳を疑った。
「は?俺男ですけど…恋人はあなたでしょう」
「私が?何それウケるんですけど!」
何が面白いのか女はケラケラと笑い始めた。ますますイライラする。彼女じゃないならやっぱり変質者じゃないかと言いそうになった。
「で、リヴァイはどこ?いないの?」
「わかりません。俺が起きた時にはあなたがシャワー浴びてたんで」
「あー…ベッドの上でタオルケットにくるまってたのって君だったんだ。てっきりリヴァイかと思ってたわ。――てか何でリヴァイのベッドで寝てんの?やっぱり君、彼の恋人じゃないの。それかセフレとか」
「ありえませんから!」
朝っぱらからよく出るなと自分でもびっくりするくらいの大声で否定した。
「俺はあの人の部下です。上司と部下、それ以上でも以下でもありません」
「部下ってことは国防軍か。所属は?」
「…845飛行隊です」
「へえ、なるほどね」
女の人は何かを納得したようだ。
「こっちを向きなさい、青年」
有無を言わさないその口調に、つい条件反射で顔を向けてしまう。
そこには生乾きでぼさぼさの髪を垂らした眼鏡の女性が立っていた。空軍の制服を身にまとっている。シルバーの二本線に星一つの階級章が光る。三等空佐だ。だが驚いたのはそれだけではない。エレンは彼女の顔にはっきりと見覚えがあったのだ。
「あなたは団長とよく飲みに来られていた…」
バーでバイトをしていたのはもう四年も前になるが、意外に記憶は鮮やかだった。よく見ると悪くない顔立ちなのに男のように豪快に笑う人――それが彼女に対する印象だ。彼女の方は覚えていないみたいで眉間にシワを寄せている。
「覚えていませんか?駅前のビルの地下に入ってるバーでバイトしてたんですけど、よくエルヴィン団長と来てくださってたじゃないですか」
「えっ?!もしかしてあの男の子?!うわああ!国防軍入ったのー!!」
エレンは思わずうるせえと叫びそうになって踏み止まった。朝からよくそこまでテンションが上がるものだと呆れ半分に尊敬してしまう。
「845ってことはF-55乗るんでしょ?ファイター・パイロットじゃないか!クッソすげえ!!」
「どうも…それであなたは」
「私はねぇハン」「人の家に勝手に上がり込んで何してやがる、クソメガネ」
彼女の自己紹介を遮るように登場した声は、ようやく姿を現したこの部屋の主のものだった。エレンが薄暗い廊下の奥へ目を凝らすと、黒いウィンドブレーカーを着てフードを被ったリヴァイが親の仇でも見るような目でこっちを見ていた。
「やあリヴァイ久しぶりだね!そっか、朝のランニングに行ってたのか」
「そのふざけた格好は何だ。今から仕事だとか抜かすなよ」
「仕事だよ。挨拶だけだから別にいいんだ。エルヴィンから今日は休みだって聞いたから顔を見に来たんだけど、何かお邪魔だったみたいで悪かったね」
女が自分の方を見て申し訳なさそうに笑ったのでエレンは何とか誤解を解こうとしたが、リヴァイが口を開いてしまう。
「勝手に風呂まで入ったのか」
「三日間入ってなかったからさあ。また臭いって騒がれると思って」
「もういい。とっとと行けハンジ」
「そうそう私はハンジ・ゾエ三佐だ。コマツにいるんだけど、今日は用があってこっちに来てるんだよ。改めてよろしくね、えーと」
「エレン・イェーガー三尉です。よろしくお願いします」
「エレンね~ハイハイよろしく」
笑いながら玄関に向かう女はすれ違いざまにリヴァイに頭を叩かれていた。結局彼の彼女ではなく同僚ということでいいのだろうか。去っていく後ろ姿に先程見た裸体を思い出しため息を吐く。まるで嵐のような人だなと思った。
06
昼食を食べる人で埋まっている食堂は騒がしかった。大学の学食みたいに広い空間には士から尉官以上の幹部まで階級も年齢も性別もさまざまな者がいるが、彼らの話の内容はどれも大体同じだった。その中の何人かは時折遠慮がちに食堂の端に座る青年へ視線を送っている。腫れ物を扱うみたいに彼の周りに座る人たちは静かだった。
まるで陸の孤島みたいだ。エレンはカツカレーを黙々と口へ運びながらそう思った。
大きな皿に盛られたカレーはいつもなら何てことない量だが、今日は胸焼けしそうだ。ねっとりとした視線に晒されて食べている所為だろうか。味もよくわからなかった。ため息を吐いたエレンがほとんど空になったグラスの水を飲み干すと、ちょうどいいタイミングで『水飲む?』と声が掛かる。天へ突き上げていた顎を下げて正面を見ると、カツカレーと水の入ったグラスを二つ持った女が席へ着こうとしていた。
「アニか」
「はい、あげるよ」
水がたっぷり入ったグラスを受け取るとエレンはすぐそれに口を付ける。喉が渇いて仕方がない。それもこれも朝から続く緊張感と不快感のおかげだろうと思った。
識別不明機が空軍の戦闘機を三機も撃墜した事件から三日経ち、十分とは言えないが休養をとったエレンは今日から再び仕事に復帰していた。またいつもと変わらない空を飛び回る日々が始まるのかと、嬉しくも悲しくもなく制服を着たが、エレンがいなかった二日間に基地内ではとんでもない噂が飛び交っていた。結論から言えば事実無根なのだが、それを証明するのはとても難しいことで、朝一番にその話を耳にした噂の張本人のエレンはどうすることもできなかった。
「ところでリヴァイ兵長と付き合ってるって本当なの?」
思いっきりむせた。危うくにんじんが鼻から飛び出すところだった。
「おまえっ、いきなり何を」
「みんなそう言ってるよ。兵長の家に泊まったのを見た人がいるってさ」
「誰がそんな!」
と言っても一人しかいない。
「コマツから来てた女性幹部の人だよ。あの冷血漢についに本命ができたんですけどマジウケる――ってすごい楽しそうに触れ回ってたけど」
犯人はやはりハンジだった。四年前からわりと遠慮のない人というイメージだったが、まさかここまでとは思わなかった。
昨日あのあと、リヴァイにハンジとの関係を訊いてみた。
付き合っているのかという質問には『否』。好きなのかという質問には『女としてという意味なら否』。仲がいいのかという質問には『腐れ縁』。
結局のところパイロットコースに入った時に同じ訓練クラスだったという縁が、彼女の強引な態度により今まで続いているらしい。しかし押しが強いところは確かに見て取れたが、あのリヴァイが気に入らない人間をそばにいさせるわけがない。文句を言ってはいるが彼女を気に入っているのだということはわかった。何と言っても他に類を見ない魅力(と言っていいのかはわからないが)を持つ女性である。
それはさて置きだ。男女ならいいと言うわけではないが、男同士の社内恋愛を言いふらすとはどういう神経をしているのか、エレンには理解できなかった。しかも自分たちが否定しているのにも関わらずだ。
「で、どうなの?」
誰もが気になって、だけど本人たちには訊けなかったことを小柄な女性幹部はあっさりと問いただしてしまった。いつの間にか食堂は静かになりエレンの答えに注目していた。
「おまえな…本当にそんな噂信じてるのか?男同士だぞ?おまけに相手はあの兵長だ」
「信じられないから訊いてるんじゃないか」
「じゃあ教えてやるよ。兵長の家で飯をご馳走になって泊まったのは本当だけど、別に何もねえよ」
「…そうなんだ」
アニは納得がいかないのか複雑な顔をしていたが、思えばいつもそんな顔だったかもしれしれない。周りで聞き耳を立てていた他の者たちからも『何だ違うのか』『つまんねえの』『まあ普通に考えてそうだよな』…なんて自分勝手な言い分が聞こえてくる。腹が立ったが国を護るための国防軍が色恋沙汰の話一色に染まるなんて、世界が平和な証拠なのかもしれない。
聞いた話では先日の『事故』以来大きな問題は発生していないということだった。
政府と軍の発表では『エンジントラブルを起こした識別不明の戦闘機が領空内で墜落してパイロットが死亡。それとは別に訓練に出ていた空軍の戦闘機も被雷と空中衝突で三機が墜落しパイロット三名のうち一名が死亡、一名が全身打撲と骨折で全治約一か月、残る一名は行方不明。たった一日で不幸な事故が三件も起きたことは非常に残念であり、再発防止に努めたい』となっている。『識別不明機にウォール・ローゼまで突破されたあげく、機関砲の一発も発射せずにただ指をくわえて見ていたばかりで、一機百億円の戦闘機を三機も撃墜され優秀なパイロットを失うという事件が起こった』という事実は空軍内部でも公表はされていなかった。事件の当事者であるエレンにも箝口令が敷かれた。
もちろんハネダ基地の中にそんな虚偽報告を信じる者などいなかったが、上が言うことが表向きには真実になるというのが常である。公の場で『事件』などと口にしないことは暗黙の了解だった。
それにしてもアニがこんな噂に興味を持つとは、エレンからしたら意外だった。たぶん彼だけでなくアニの同期や仲間たちからしてもそうだろう。この女はそもそも他人に興味を持たない。実際に持っていないのかどうかは本人にしかわからないが、少なくとも他人からはそう見える。好きな人や恋人がいるなんて話は聞いたことがないし、それどころか仲の良い友人ですら全くいない様子だった。他人とは深く関わろうとはしない人というのが周囲の抱くアニへの印象である。
そのアニがわざわざ自分の目の前に座ってまで訊きたかったことが、リヴァイと付き合っているのかということというのがエレンにはどうも引っかかった。何か理由があるはずだと思った。
「おまえもしかしてリヴァイ兵長のこと好きなの」
そう言ってやるとアニは口へ運ぼうとしていたスプーンを止めて、何を言ってるんだコイツはとでも言いたそうな目でエレンを見た。エレンの頭で考えられる理由はこれくらいしかなかったのだが、どうやら違ったらしい。
「私、恋愛には興味ないから」
「じゃあ何に興味あるんだよ。おまえっていつもつまらなさそうな顔してるよな」
「そうだね…世界平和とか」
アニの答えが意外だったので今度はエレンがスプーンを止めた。
この女の口から世界平和なんて単語が出てくるとは思わなかった。考えの読めない女だったが、エレンの目から見た彼女は不特定多数の人間の幸せを思うような人ではなかった。誰だって人の命に優先順位をつけるが、アニからは自分の大切な人を護るためなら躊躇なく他者の命を切り捨てそうな鋭さが感じられた。もっとも、他人と積極的に関わろうとしないこの女に大切な人がいるのかはわからないが。
「何その顔。私が世の中の平和を願ったらおかしい?」
「いや、おかしくはないけど…」
「訓練ばかりで本番が来ないことを祈ってるんだ」
アニは付け足すように私は怖がりだからと続ける。エレンはその言葉を聞き逃し、本番という単語に三日前の出来事を思い出していた。あれは訓練じゃなくて実戦だった。弾は一発も撃たなかったがそれでも戦ったのだ。エレンの記憶の中では空軍が他国と交戦したことは過去に一度もない。公式には残らないがあれが国防軍史上初の実戦だったのだろうか。それとも今回のように発表されていないだけで、今までにもこういうことはあったのだろうか。
カレーの味はますますわからなくなった。
空軍に入ってパイロットになると決めた時から命を懸ける仕事だということは理解していたし、その覚悟を持って入隊した。
だけど本当は百年間も壁の中で平和にあった国防軍がまさか戦争をするとは思えなかった。少なくとも自分がいる間にそんな事態に発展するとは考えてもいなかったのだ。もちろん事故で命を落とす者がいることも理解しているが、確率で言えば殉職するよりもパイロット罷免になる可能性の方が圧倒的に高いので、そっちの方がよっぽど心配だった。
だけどあんなことがあったのではもうそんな希望的観測はできない。この一件で国防軍を取り巻く状況が変わってしまったことは誰に言われるまでもなく理解できた。今日からはようやく念願のOR資格も与えられ、アラート任務も許される立場になったので、またあのような目に遭うこともあるかもしれない。次は自分も死ぬかもしれない。
安定していると勘違いして立っていた地面が崖っぷちだったことを知って、死に急ぎ野郎と言われたエレンでさえ動揺した。
「話は戻るけどさ、兵長って自宅に他人を呼ばないらしいよ。だからあんたが泊まったって聞いてみんな驚いてる。たとえ男同士だったとしても二人の間には何かあるって考えてしまうのは仕方ないだろう」
エレンは結局その話かとため息を吐く。ハンジにしろアニにしろ、女ってやつはどうして何でもかんでも恋愛に結び付けたがるんだろうと呆れてしまった。こんな世の中じゃ男同士で飲みにも行きづらい。
そしてエレンは『もし俺が女だったとしても兵長は同じように家に招いて泊めてくれただろうか』と考えた。世間体もあるし無理だろうか。でもリヴァイが周りの目を気にするとは思えない。さすがに酔っ払った女の服を勝手に剥いで洗濯することはしないと思ったが、ベッドを貸すくらいはしそうだ。
もしかしたら本人たち以外知らないだけで部下を家に呼ぶことは珍しくないのではないかと思えてきた。過去に自分と同じようにあのセミダブルのベッドで寝た人間がいるのではないか。たとえばハンジなんてそうじゃないか。ずいぶん親しいみたいだがエルヴィンはどうだろうか。エレンは目の前のアニを置き去りにして、いるかもわからないリヴァイの部屋に入ることを許された誰かの姿を見ていた。
自分だけではない、自分はみんなが言うように特別なわけではない。そう思うと胸に違和感を感じたがそれはまだ小さなものだった。ただの胸焼けだろうと気にすることはしないで続ける。
「そんなんじゃねえよ。あの人って言うことキツイし付き合いも悪いけど実は仲間思いじゃねえか。俺があんな目に遭ったから、心配して話を聞いてくれたんだ…と思う」
最後の方は自信がなくなり喉が枯れた時のように小さな声になった。
アニはじっとエレンの顔を見て何かを考えていたが勝手に納得したらしく、空になった皿を乗せたトレーを持って立ち上がる。
「無理して食べて吐いたりしないでね」
先に食べ始めていたのにエレンの皿にはまだ三分の一くらいご飯が残っていた。いつもはルーの方が余るのに珍しいなと思いながらそれを平らげる。残すなんてありえない。三日ぶりのフライトに向けてエネルギーを補給しなければとの一心だった。
食堂の窓の外は雲一つない快晴だ。
午後にはいきなりだが初のアラート任務が待っている。一緒に組むのはすでに食器を返却して食堂を去っていった女性パイロットだった。
*
待機室には座り心地の良い黒のソファーが置いてある。そこに横になってエレンは目を瞑っていた。
眠ってはいない。イメージしているのだ。
ウォール・マリアの各域を警戒しているSOCが不審な飛行物体を探知しスクランブルの判断をしたら、受話器を取るだけで基地へ連絡が来るようになっている。基地側のアラート待機室にいる担当者がその電話を取り内容を確認するのには三秒も掛からない。警報を鳴らすと同時に大声で叫ぶ。同じ部屋で待機していたパイロットはそれまでリラックスしていたのが嘘のように飛び上がり、すぐ隣のアラートハンガーへ続く扉を体当たりで開ける。一秒のロスもできない。パイロットだけではなく整備士たちも全力で駆ける。ヘルメットを装着している間に後からラダーを上って来た整備士が、パラシュートライザーとハーネス、Gスーツと操縦席から伸びるホースを接続してくれる。スタートはいつも右のエンジンからだ。
コト、という何かを置く音を感じて目を開くと、横にあるもう一つの一人掛けソファーに座っているアニがサイドテーブルに置いた携帯から手を離したところだった。
待機中に携帯をいじってはいけないというルールはないはずだがはじめてのアラート任務に就くエレンにそんな余裕はない。いつスクランブルがかかるのかわからないのに、ベルが鳴れば携帯なんて放り出して一目散に走らなければならないのに、一体何をしているのだろうと思った。
「おまえって意外と携帯とかいじるよな」
「…前から思ってたんだけどさ、あんた歳が同じだからって階級が上の人間にタメ口利くってどういうこと」
おまえもそういうこと気にするのかと言いかけて何とか口を閉じた。
「何してるんだよ」
わざとらしく落ち着いた声で訊いてみる。
「別に…緊張を解すために面白い画像検索してみたりとか」
「へえ、緊張とかするのか」
他意はなかったがエレンは思いっきりにらまれた。今の発言の何がいけなかったのかがわからない。話を変えた方がいいかと思ったが、もともと頭を使って喋るのは得意ではなかった。場の空気を良くするためにどういう話をしたらいいのかわからず、ふと思い出したことをそのまま口から出した。
「もしかして前に持ってたネコの写メも緊張解すためか?」
「そうだよ」
淡々と答えるアニだったが、エレンは彼女が珍しく一瞬目を逸らしたのが引っかかった。
「そうか…俺アラート任務初めてだからどうやって過ごしたらいいかわからなくて」
アニはつまらなさそうに首を伸ばしながら、何も考えないで好きに過ごしたらいいんじゃないのと言った。自分たちがどう過ごそうと来る時は来るし、来ない時は来ない。ただでさえ神経を使うフライト前なのにあれこれ過敏になり過ぎてもしょうがないじゃないかというのが彼女の考えだった。エレンももっともだと思った。
穏やかだ。
心配しているのがバカみたいに何もない。
壁に貼ってある戦闘機や偵察機の写真を見てみる。今までにこの国の領空に接近したり侵したりしてきた近隣諸国の機体だ。ファイター・パイロットはこれらを覚えなくてはならない。アンノウンを視認したら国籍と機種、そして数を報告するからだ。
素人が見たらどれも似たようなものばかりで何が違うのかなんてわからないだろう。しかし空軍の隊員やオタクからすればそれぞれの機体には特徴があり、自分たちの戦闘機とどう違うのかなんて訊かれてもいないのに話したくなってしまい呆れられるまでが一つの流れだ。
いつの間にか街では午後の穏やかなティータイムを過ごす人たちがチーズタルトを食べながらコーヒーを飲んでいるであろう時間になっていた。
もちろん国防軍の隊員にそんなやすらぎの時などあるはずもなく、エレンは鋭い目線でソファーに腰掛け壁に貼られた一枚の戦闘機写真を見つめ続けている。ミグのものだ。この前自分たちを襲ってきた機体。操縦者は死亡したらしいが、遺体の一部しか見つかっていないらしい。
間接的とはいえ自分が殺したことになるのだろうかと思った。
別にそれが嫌なわけじゃなかったが、逆に嫌だと思えないことが問題であるように感じた。前は人の命を救う職業を目指していたはずなのに、いつの間にか奪う側になっている。ただ奪うだけじゃなくて護るためなんだとわかってはいるのに、実際あんな目に遭うと考えてしまう。
待機開始から五時間、ついに電話が鳴った。担当官が受話器を取って内容を確認する。
「ゼロワン・スクランブル!」
そう叫んだ瞬間にエレンとアニはリラックスチェアーから飛び上がり、体当たりしても痛くないようにカバーのされたドアにぶつかっていく。待機室のすぐ横にはアラートハンガーがあり、発令から五分以内には発進できるように戦闘機が準備されている。格納庫のドアの上に付いている三つあるライトのうち滑走路上で待機することを示す『B/S』が点灯している。
エレンは搭乗ラダーを駆け上ってコックピットに滑り込んだ。ヘルメットを被っている間に後ろから来た整備士がGスーツとホースを接続してくれる。機体の下では別の整備士が短距離ミサイルの安全ピンを抜いたところだ。撃とうとすれば撃ててしまう。今日は訓練じゃない。何度もやってきた始動前チェックも緊張してやけに時間がかかってしまった。
整備士から準備が整ったと合図を受け、エレンは右手をコックピットの外に向けて伸ばす。ヘルメットを装着してから先の準備はハンドシグナルでの確認も行われるのだ。人差し指を立ててエンジン始動の合図を送る。機体の前に立つ整備士はパイロットから受けたシグナルをそのまま真似る。いよいよ点火となりエレンが中指を上げるとそれはまるでピースサインだ。楽しくも何ともないこの状況では奇妙な光景である。
着火してからはあっという間だ。ハンガーにはキイイイインという耳障りな、しかし聞く人が聞けば癖になる音が鳴り響く。回転数は爆発的に高まり、右エンジンが安定したところで次は左だ。同じ手順で双発エンジンを始動させるといよいよ準備は整った。真横を見ると既に準備を終えたアニがこちらを見ている。
『ハネダタワー、パープルナム・ゼロワン。リクエスト・タクシー』
女にしては低い声が冷静に滑走路への進入を求めている。次の瞬間、管制塔から再び交信が入った。
『ホット・スクランブル!』
三つのライトのうちついに『S/C』が点灯する。
「えっ」驚いてつい声を上げてしまった。無線は入ったままだったのでその声はもちろんアニのヘッドセットにも届いている。
『騒ぐなバカ』
バカって…と抗議しそうになったがそれこそバカのやることだと気付いて踏み止まった。ホットが発令されたということは今から緊急発進だ。国防の危機に仲間同士で喧嘩している暇なんかない。
バトル・ステーションの時は妙に緊張していたのが、いよいよ飛ぶとなると緊張する暇すらもない。先輩であるアニに置いて行かれないように必死に神経を研ぎ澄ませる。
『オール・ステーション、ハネダ・グラウンド。ホット・スクランブル!』
『オール・ステーション、ハネダ・タワー。ホット・スクランブル!』
冷静ながらも強い口調に緊迫感が一気に広がる。管制塔と交信中だった基地内の航空機及び走行中の車両にも聞こえるようにさまざまな経路で情報が巡っていく。ハネダ基地内のすべての航空機の離着陸は中止になり、移動中の車両も停止した。まるで時が止まったような中を二機のF-55だけが慌ただしく飛び立とうとしている。エレンはアニの一番機に続くように滑走路を目指し動き出す。敬礼をしている整備士たちを残してハンガーを出ると外はいつの間にか夕暮れだった。
『パープルナム・エレメント、ハネダ・タワー。スクランブル・オーダー!レディ・トゥ・コピー?』
『ゴーアヘッド』
『ベクター・トゥ・ボギー。ヘディング045、クライム・エンジェル25、バイバスター。コンタクト・ヤマト、チャンネル2!ウインド300・アット5、ランウェイ04ライト、クリアード・フォー・テイクオフ!(目標まで誘導する。機首を45度、高度25000フィートへアフターバーナ全開。ハネダ防空指令所とチャンネル2で交信せよ。風は300度から5ノット。滑走路04R、離陸を許可する)』
『ヘディング045、クライム・エンジェル25、バイバスター。クリアード・フォー・テイクオフ』
最低限の内容だけ復唱したアニは一気にエンジンの回転数を上げ離陸へ向けて加速していく。レーダーで誘導されるとはいえ置いて行かれないように、15秒の間隔を空けてエレンもブレーキペダルをリリース、スロットルレバーを倒した。緊張を吹き飛ばすようにわざとアフターバーナーを焚いての離陸なんてマニアが見たら喜びそうだなんて考える。
滑走路へ向かう途中、訓練へ向かおうとしていたらしい編隊が左側の滑走路端で待機しているのが見えた。スクランブル機離陸のために待っていたんだろう。エレンもよくああやって待たされたものだ。
今日はOR資格を取得してはじめての任務だが、離陸の時はいつもと変わらず落ち着いていられた。――実際心の中はあれやこれやとせわしなく揺れているのだが、やらなければならないことがハッキリしているので頭の方は冷静に自分の体を動かしている。アニに言わせればきっと、その心という機能も器官としては脳に当たるんじゃないのなんてなりそうだが、今はそんなことどうでも良い。
先に上がったアニを見失わないように、その姿を追って自分もほぼ垂直のハイレートクライムで駆けた。
*
『オール・ステーション、ハネダ・タワー。バトル・ステーション!』
『こちら飛行場管制席。バトル・ステーションがかかっています』
活動中の航空機に対しては航空無線で、それ以外の作業中の隊員や車両に対しては基地内の緊急放送でスクランブルが発令されたことが一斉に伝えられた。訓練のため洋上の空域へ飛び立とうとしていたリヴァイも待機を余儀なくされる。地上管制席からの指示でスクランブル機が使うだろう滑走路の端でホールドすることになった。
『兵長、今日の待機って確か…』
ヘッドセット越しに聞こえてくる二番機パイロット・ペトラの声に思わずため息を吐きたくなった。
「エレンとアニだ」
『ですよね…でも、アニがいるならきっと大丈夫だと思います』
「普通のアンノウンならな」
言ってから普通の識別不明機という言い回しがおかしいことに気付いたが、それだけ他国の軍事機による領空侵犯が当たり前になってしまっているということだろう。
この前のミグは特殊なケースだった。警告を無視するアンノウンもいることにはいるが最終的には自国へと帰って行くし、武器を使用することはまずありえないと言っていい。
空軍が非公式に他国から攻撃を受けたのはリヴァイが入隊してから二回目だ。そのうちの一回がTR(トレーニング・レディネス)、要するに訓練待機の部下を襲ったことは不幸だった。
結果として空軍のF-55を三機も撃墜した敵機を武器を使わずに墜としたことは上から評価され、エレンはOR(オペレーショナル・レディネス)…実働待機資格を取得できることになった。これからは実戦要員としてアラート待機のシフトに組み込まれていくことになる。
それには上司であるリヴァイからしたらほんの少しだが不安があった。いっそのこと下手くそなパイロットだったらクビにできるのにと思う。エレンにはリヴァイが考えるファイター・パイロットとして魅力的な才能が多々あるのだ。
何事もできないと一蹴するばかりではこの仕事は勤まらないし、目が良ければ相手より先に目標を見つけることができ、作戦の成功率と仲間の生存率を上げる。一度や二度叩かれたくらいで折れるような心ではないし、非凡なG耐性が戦闘機による戦闘の可能性を広げると思う。
エレンは天才と呼ぶにはあまりに平凡だが、特別不得手だというものがない。そして操縦技術や戦術の話を抜きにすれば、精神力と身体能力には目を見張るものがある。特に化け物だと感じた彼の意志の強さなどは、めったに他人へ期待などしないリヴァイですら底知れない可能性を感じずにはいられなかった。
『兵長、やっぱりエレンのこと気になります?』
「この前あんなことがあったからな」
そう答えてみたがペトラが訊きたいのはそういうことではないんだろうと思った。ここ二日、疫病神ハンジがハネダに来たあとから妙な噂が隊内を駆け回っている。
ある隊員曰く、エレンがリヴァイのマンションに泊まったのを見た者がいるとのことだった。それは事実でありリヴァイとしても広めたければ勝手に話してろ程度にしか思わないのだが、その事実からある仮定が生まれてしまっているのは大変不本意に他ならない。
その隊員曰く、リヴァイとエレンが付き合っているのではないかとのことだ。
呆れるあまり反論する気力すらなかった。
しかし認めるほど自棄にもなれずにいた。噂を片っ端から否定して回るだけの元気も暇もなく、また人の噂も七十五日などと気にせず過ごせるほど達観してもいなかったリヴァイの機嫌は日を増すごとに悪化していった。
『兵長…あの、』
「それは勤務時間中にするのに相応しい話か?」
『はい後にします!』
二番機のコックピットでペトラの小さな体が跳ね上がり姿勢を正す様子が手に取るようにわかった。
黙って隣の滑走路04Rを見ていると、誘導路から二機のF-55が進入してきた。一番機がアニ、二番機がエレンだ。アニの方が加速してあっという間に飛び立って行ってしまい、それに続くようにエレンもA/Bを吹かして雲の向こうへと消えていく。
見送ってしばらくすると管制塔から通信が入りリヴァイたちも離陸を許可された。天才パイロットと呼ばれた体は風向きと風速さえわかっていればもう目を瞑っていても離陸できそうなくらい慣れたように勝手に動き、先ほど消えた二機を追うように雲の上を目指した。
*
【対領空侵犯措置実施記録】
年月日:2×××年×月×日
時 刻:午後5時24分
識別名:Purplenum
担 当:(01)Annie Leonhart
:(02)Eren Yeager
対 象:一機
国 籍:×××
機 種:Su-69
警 告:音声警告
01『Attention! *** aircraft,This is defence air force.You are approaching our air domain.Take reverse your course immediately.』
Su『…………』
01『I say again.――こちらは国防空軍、貴機は我が国の領空に接近している。ただちに針路を変更して立ち去れ』
Su『…………』
01『ヤマト、パープルナム・ゼロワン。目標の行動に変化なし。警告を繰り返す』
YA『ラジャー』
01『ウォール・マリアを航行中のスホーイに告ぐ。こちらは国防空軍、貴機は我が国の領空を侵そうとしている。ただちに針路を変更せよ』
Su『…………』
02『何も喋らねえのかよ』
01『むしろこちらの呼びかけに答える方が稀だ』
YA『領空線を越えた!警告を開始せよ』
01『Roger.Warning,warning! *** aircraft,This is defence air force.You have violated our air domain,follow my guidance.』
Su『…………』
02『あ』
01『アンノウンが針路を変更した。領空線に沿ってローゼの外側を飛んでいる』
YA『そのまま見張りながら警告を続行せよ』
01『了解。こちらは国防空軍、貴機は我が国の領空を侵そうとしている。針路を変更して立ち去れ。これは警告である』
02『何なんだよコイツ…ケツにミサイルぶち込まれてえのか』
01『…あんたが政治家じゃなくて心底良かったと思うよ』
「お待たせしました」
リヴァイはヘッドフォンを外して振り返った。そこにはオリーブグリーンのジャケットを羽織ったエレンが直立不動で立っている。おそらくシャワーを浴びてきたのだろう、髪の毛がほんのり湿っていた。
「行くか」
「はい」
食事に誘ったのはリヴァイだった。変な噂が流れているがやましいことなどないのだからコソコソする必要もないと堂々と会いに行くと、エレンも迷惑そうな顔一つせずに二つ返事でOKした。その性格からすると作り笑顔でその場を取り繕うことは苦手だと思われるので、少し驚いたあと顔を綻ばせて誘いに乗ったということは、エレン自身リヴァイと食事に行くことは嫌ではないらしい。居合わせたアニがこちらをジッと見てきたが、空気を読んですぐに立ち去ってくれたことは助かった。さすがにその状況が続けばおまえも来るかと口が滑ってしまったかもしれない。
「何か食いたいものでもあるか」
「うーん…鶏肉食いたいです」
エレンの返事を聞くとリヴァイはわかったと言って車のエンジンを始動させた。戦闘機とは違ってキーを置いてボタンを押すだけだ。エンジン音も耳を衝くような爆音ではなく、動いているのかどうかもわからないくらい静かなものだ。
辺りはとっくに暗くなっていて、少し遠くに見えるオフィス街のネオンは綺麗だった。恋人同士で夜景デートをするならここらでオシャレなBGMでも掛けたいところだが、むさ苦しいジャケットを羽織った男二人で乗る車内にはラジオくらいでちょうど良かった。
『――現在は妊娠三か月で、撮影中のドラマがクランクアップしてから産休に入るとのことです。次のニュースです。――により、トウキョウ・ムサシムラヤマの国立感染症調査所にあるバイオセーフティレベル4の実験施設が、来月より六か月間の期限付きで運用されることが決定しました。――次のニュースです。先日我が国の領空内で墜落した国籍不明の戦闘機ですが、近隣諸国は依然として自国との関係を否定しており、国防軍と専門機関による調査でも国籍を示すような手掛かりは未だに見つかっておりません。政府は本日正午会見を開き――』
神経を尖らせるほどではないが気を紛らわせるくらいには興味のあるBGMを聞きながら、二人の間に会話はない。
リヴァイの家で過ごしたあの夜以来、エレンはこの不愛想な上官との沈黙に窮屈を感じなくなった。狭い車内に二人きりでももう会話を必死に探すことはしない。妙な噂には正直困っているが、何も気にせず食事に誘ってきたリヴァイの態度こそ正解だと感じて倣うことにした。中学生じゃあないんだし、周りに多少冷やかされたくらいで顔を真っ赤にして相手を避けるような真似はしない。
そしてこれは本人にはもちろん誰にも言うつもりはないが、再びこうしてプライベートでの誘いを貰えたことが嬉しかった。
「初アラート任務はどうだった」
沈黙は思い出したように破られた。
「そうですね…改めて、この前のミグは特殊なケースだったのだとわかりました。データリンク通りに飛べばスクランブルで上がってからでもローゼを突破される前に間に合いましたし、さんざん無視されましたけど、最終的には警告を聞いて帰っていきましたから」
「そういう輩が多いのは確かだが慣れるなよ。敵はいつどこからどんな風に現れて何をするかわからねえ。その時空軍の防衛機能がどれだけ正確に作動するかもな。これが当たり前だと腰を据えたらいざという時すぐに動けねえ。常に最悪を想定しておけ」
教科書に書いてありそうなくらい当たり前なことを言われても、リヴァイの口から出たものだと思えばエレンにとっては新鮮だった。彼は信頼できる上司であり、命の恩人でもあり、憧れであり目標でもあるパイロットなのだ。
もしかしたらまた家に招待してくれるのかという期待とは裏腹に、車は駅から少しだけ離れたコインパーキングに入っていった。
車を降りて先を行くリヴァイの後に着いて歩くと、小さな、しかし小奇麗な居酒屋の前に着いた。聞いたことのない名前だし、店の感じからして個人経営ではないかと思われる。入り口の引き戸を引いて中に入るとカウンター席と座敷席が少しあった。金土でも祝前でも中日の水曜でもない、むしろ一番空いてそうな月曜日だというのに、広くはない店内はそれなりに混んでいる。BGMも掛かっていないのに賑やかだ。
「あら隊長、お疲れさまです。ずいぶんとお久しぶりですね」
カウンターの中にいた割烹着を着た女性がリヴァイに気付いて笑顔を向けてくる。聞き慣れない隊長という呼び方にエレンは首を傾げた。
「それは止めてくれねえか」
「許して下さいよ。私は今でもあの頃のブルーのファンなんですから」
「結構な話だが、今年も見てやってくれよ」
「もちろん。楽しみにしてますよ」
二人にしかわからない会話に疎外感を感じながら口をへの字に曲げていると、四十代後半か五十代前半くらいに見える女性は笑いながらカウンターから出てきて奥に続く通路へ手を伸ばした。
「タイミングが良かったですね。ちょうど今片付け終わったところです」
「いつも悪いな」
エレンは慣れた調子で女性の後に続くリヴァイの背中をぎこちなく追った。
通されたのは六人ほどでいっぱいになりそうな小さな和室だった。どうやら個室席もあったらしい。リヴァイが奥に座るとエレンは入り口側の下座に着いた。
「今日はまた可愛らしい隊員さんとご一緒なんですね」
「ハネダに配属になった新人だ。操縦の方はまだペーペーだからこっちを先に仕込もうと思ってな。これからよろしく頼む、女将」
リヴァイにそう言われてエレンは急いで女将に向き直り頭を下げた。
「ハネダ基地第845飛行隊所属、エレン・イェーガー三等空尉です。よろしくお願いします」
「まぁまぁ、お若いのに立派ね。こちらこそよろしくお願いしますよ」
リヴァイがビールを二つ注文すると女将はニコニコと笑いながら下がっていった。
襖が閉められたら通路の手前から聞こえていた賑やかな声が嘘みたいにしなくなる。
「この店もよくエルヴィンと来る。主に他人に聞かれたくない話をする時だな」
「確かにこういう個室の方が落ち着きますもんね」
「それを抜きにしてもここの焼き鳥は悪くない。真面目な話をするつもりなんてなかったが、まぁ…この方が落ち着くからいいだろう」
たぶんこの前までのエレンだったら二人きりでこんな静かな個室にいる方が落ち着かなかったが、今はこの他者を感じさせない静けさが気に入る。
リヴァイの方も積極的に話を広げるつもりはないらしく、片脚を立てたところに腕を置き頬杖をつきながらボーッとしている。その気遣いも遠慮もない振舞いがエレンにとってはどうにも居心地が良かった。
リヴァイと二人でいる時の沈黙に苦を感じなくなったのは、リヴァイの態度が変わったからではなく、エレンのリヴァイに対する壁が一枚なくなった所為だ。それは家族と過ごす時にできる心地の良い沈黙と同じ感覚だった。
女将がキンキンに冷えたビールを持ってくると、リヴァイはメニューも見ずにいくつかの料理を注文した。いつも同じものを食べているのだろう。エレンも好きなものを頼んでいいと言われたので、おすすめだと言う串焼きをいくつかと卵焼きを注文した。
話に聞いていた通り串焼きは人生で食べた中で一番美味しかった。
リヴァイはビールを飲み続けるエレンと違い、二杯目以降は焼酎を頼んでいる。喉が焼けるような感覚の中で何かを思い出したように口にした。
「アニはどうだった」
「どうって…落ち着きがあると思いました。俺から見たら誰だってそう見えるんでしょうけど、同じ歳なのにここまで違うもんかなって思っちゃいますね」
「育ちが関係しているのかもな」
「どういうことですか?」
言ってから、本人のいないところで探るようにこういうことを訊くのはズルいような気がしたが、先輩とはいえ同じ歳の彼女に負けたくないエレンにとってはどんな小さな情報だって欲しかった。
「あいつは両親ともいねえ。高校を卒業するまで田舎の施設で育ってる。可哀想だとか実の親がいねえのに立派だとかくだらねえ話は置いといてだ…あいつがどう育ってきたのかは知らねえが、自分一人で立たねえと支えてくれるヤツなんて周りにはいない生活だったんだろう」
言葉が出なかった。
エレンは父も母も生きているし、何なら今からでもすぐに会いに行ける距離だ。教育やしつけにはそれなりに厳しかったかもしれないが、結局医者としての道を外れて軍隊に入った息子を温かく見守ってくれている。ひねくれ者の自分にはもったいないくらいの優しい両親だ。恵まれているはずなのに負けた気分になった。
「それってひどい理屈ですよ。両親がいるから俺がダメってことですか」
「そうは言ってねえよ。事実を述べたまでだ」
そう言うリヴァイのことが気になった。一人で暮らしているようだったが、彼自身家族はいるのだろうか。結婚はしていないと言っていたし、親しげだったハンジが『ついに本命ができた』なんて言っていたのだから好きな人はいないはずだ。
「リヴァイ兵長はどうなんですか?その、ご両親とか」
「親の顔も名前も知らねえ。施設で育ったわけじゃないが似たようなもんだ」
何でもないことのように言うリヴァイに両親とも健在のエレンは勝手に負い目を感じた。たぶんリヴァイは本当に何とも思っていないのだろう。いつもと同じように淡々と話している。
「そうですか…結婚はしてないんですよね」
「そんな面倒なことするか」
エレンとリヴァイは十歳差だが、結婚を面倒と考えるくらいには同じように若いらしい。
「それならお付き合いしている方とかは?」
「いねえ」
「好きな人は?」
「いねえ」
「じゃあ…最後に付き合ってたのってどれくらい前なんですか」
「女みてえなこと訊いてきやがる」
「え!いや、その」
言われてみて確かにそうだと気付いた。友人同士ならともかく上司相手によくここまでしつこく問いただしたものだと自分の行動にびっくりした。気付かないうちにそれくらい気になっていたということだ。
落ち着け、落ち着け自分。何だかあの噂を聞いてから妙な方向に考えてしまってないか。
「付き合うと言えば妙な噂が流行ってるみたいだが」
落ち着こうとして口を付けたビールを勢いよく噴射しそうになる。
「何だそのゴリラみたいな顔は…びっくりするじゃねえか」
びっくりしたのはこっちだばかやろう。そう口走りそうになり口内に溢れているビールに感謝した。
曰くゴリラみたいな顔は吹き出すまいと必死に口を閉じた結果だったが、リヴァイはピクリとも笑わないくせに面白いなと言ってくれた。上を向いて口いっぱいのビールを何とか流し込んでようやく息をすると、エレンは半分裏返ったような声で訊いた。
「噂ってハンジさんのことですよね。今日初めて聞いたんですけど…結構な騒ぎになっちゃってるみたいで…すみません」
「俺は気にしてないが。まぁ、世の中平和ってことだな」
俺は、という言い回しの中におまえはどうなんだという問いかけが含まれていたことにエレンは気付かなかった。代わりにそうですねと笑った。
結局過去に付き合っていた人がいるのかという質問は流されてしまったが、部屋の空気が良くなったのに崩すのも嫌で置いておくことにした。リヴァイが例の噂を気にしていないと言ってくれただけで十分だ。自分の所為で恩人に迷惑が掛かるなんてごめんだった。
「今日のスクランブルだが」
話は再び仕事に戻る。
「交信記録を聞いた。アニはずいぶんとやりづらそうだったじゃねえか」
「そうなんですか?」
アニはいつもと変わらない冷静な対応でアンノンがウォール・マリアの外へ出て行くまで見張っていた。エレンは二番機として後方上空から援護を担当したが、特に出番はなかった。記念すべき公式としてははじめての対領空侵犯措置実施だったというのに呆気ないものだった。国防の最前線なのだから何もないならそれで良いのだが、非公式とはいえ本当の初体験が特異なケースだったので、何とも拍子抜けしてしまったのは事実だ。
「おまえは余計な話が多い。一応公式に記録とってんだ。ガキみてえなこと喋るんじゃねえ」
完全に無意識だった。エレンの記憶では黙って二機の後ろを飛んでいたはずだ。ガキみたいと言われてしまうひとりごとを言っていたなんて、そしてそれがガッツリ録音されて記録に残っているなんて、恥ずかしくて掘ってでも穴に入りたい気分だった。
結局お店には三時間半もいた。
男二人で何をそんなに話すことがあったのかと思うが、思い返せば大した話はしていない。食堂のスイーツはチーズタルトセットが一番美味しいだとか、シャワールームの右から三番目は一年以上前から水の出が悪いだとか、整備士のおじさんが気さくで面白いだとか、アラートハンガーの裏に住み着いた野良ネコの話だとか、しょうもないことばかりだった。
傍から見れば店に入ってきたばかりの時よりさらに打ち解けた様子だっただろう。エレンが敬語でなかったら上司部下というよりは友人同士というのが近かったかもしれない。
車はパーキングに置いたまま帰りはタクシーを呼んだ。
その車内でエレンはリヴァイから一杯だけ飲み直さないかと言われた。もうずいぶん酔いが回っていたが明日はまた非番なので良いかと思った。
何となく予想はしていたがリヴァイの家で飲み直すことになった。前回お邪魔した時に大量のワインが置いてあるのを見たが、こうやって他人を招くことは多いのかもしれない。自分もその中の一人に入れていることを喜ぶべきなのか、数多くのうち一人でしかないことを嘆いても良いのかわからなかった。
海の見えるマンションの最上階も夜だと何がなんだかよく見えず、せっかくの大きな窓も不気味だった。
「底なし沼みたいな景色ですね」
景色と言ってもただ黒いだけなのだが。
「夜の海は苦手だ」
「兵長って海が嫌いなんですか?」
窓に張り付いていたエレンが振り返ってグラスを用意しているリヴァイに問うと、彼はどうだかなと言う。海が好きかと訊いた時も同じ答えが返ってきた。一体どっちなのだろう。それとも両方当てはまるのだろうか。
じゃあ空はどうだ。空は好きかと訊かれても同じように答えるのだろうか。
自分だったら即答で好きと答える。好きだと思い込まなければこんな仕事やってられないというのが本音だが。
「白でいいよな」
グラスに注がれたワインを飲みながら二人で黙って外を眺めている。外は真っ暗なので明るい部屋の中をガラスが映している。並んでその向こうを見つめるお互いの姿も見える。テレビも点けず会話もないと部屋の中は静かで、目の前の暗闇の正体が海だと知っていると波の音が聞こえてきそうだった。
何かに寄り添いたい夜は寂しいかもしれないが、一人で過ごしたい時にはいいかもしれない。何にも邪魔されない自分だけの世界がある。リヴァイはあまり自分のことを語らないが、必要最低限のものしか置かれていないこの殺風景な部屋がその心や生き方を表しているようだ。
ここにいる時エレンは、彼が自分の中に怒りを見つけてくれたようにリヴァイのことをほんの少し理解できた気になれる。夜の海のように怖く、かと思えば昼の海のように眩しく、そして空のように自由だ。まるでここから見える景色のような人だと思った。
「兵長はどうして空を飛ぶんですか」
リヴァイは無言で数秒間エレンを見つめた。答えを考えているというよりはどうしてその質問をされたのか探っているように見える。
「石が坂道を転がるようなもんだ」
返ってきた答えは予想外だった。と言うよりそもそも、エレンにはリヴァイが飛ぶ理由なんて想像もできなかった。
「飛ぶしかないということでしょうか」
「そうだな。今さら辞めるなんて言えねえ。…言いたいと思ったこともないが」
「仕事辞めたいとか思ったことないんですか」
「おまえ辞めたいのか」
「俺はまだ始めたばっかですよ。辞めるなんて考えたこともないです。それにたぶんこれから先も思わないと思いますよ」
「なら俺も同じだ」
そう突き放してくるリヴァイはずるいと思う。他人の領域にはズカズカと土足で踏み込んでくるのに、自分のそれには決して触れさせない。そのくせ突然思いもよらないことを明かしてきて驚かせる。近付いたり離れたり。まるで海に浮かぶくらげだと思った。
結局、上官が軍のパイロットになった理由も空を飛び続ける理由もわからないままだ。自分と同じだと言ったが本当にそうなのか。どうにも信じられなかった。
エレンが空を飛ぶ理由は一つだけだ。
空が自分の居場所だと思うからである。そこには自分の求めている何かが待っている。飛んでいると自分の中の何かがスーッと薄れていくのも感じるのだ。
小さな頃から共にあったそれをリヴァイは怒りと呼んだが、そうなのかもしれない。短気なことは自覚していたが常に火種を心に抱えていることには気付かなかった。自分は怒りたくて怒っているのだとその時はじめて知った。
この世は理不尽だ。
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずなんて言葉があるが、人は人の上に立つし他人を突き落したりすることもある。天ではなく人が人の上に人を造るのだ。そして神の名を借りて驕る。力のない者は奪われるしかない。弱いものは泣くしかない。エレンの世界にとって力とは絶対的な価値を持っていた。その力を得るための原動力が怒りだ。エレンは怒り以外に戦える理由を知らなかった。本当に強く、尊くあれる存在に気付けていなかった。それは国を護る国防軍人としても大事なものだ。
「空を飛んでるとパズルの最後のピースが見つかったような感覚になるんです。元々あそこにいたような…変ですかね。俺には国を護ってやるとかそんな大層な意志があったわけじゃないんです。もちろん仕事ですからやりますし、目の前で苦しんでいる人がいたら助けたいと思います。だから空軍を辞めたくはありません。奪われたくないんです。それにファイター・パイロットって本当に自分に向いてると思いますし。この国が有事の際、最初に動くのは陸軍でも海軍でもなくて俺たちですから。暴れてやりますよ」
もっとも、国防軍が他国籍のものに対して武力を行使した歴史はないのだが。
坂道を転がる石という表現は言い得て妙だ。こんな性質の自分たちはきっともう止まれない。あの無機質な翼をもがれるまで全力で飛び続けるだろう。エレンは本気でそう信じていた。
「近いうちにそれは現実になるかもしれねえ。エルヴィンの野郎に頑張って貰わなくちゃな。俺たちが豚野郎相手にどうとでも出れる軍じゃなけりゃ困るってもんだ」
『おれたち』と未熟な自分を同列に扱ってくれることが嬉しくて誇らしくて、この上官が部下から慕われる理由の一端を見た。
ワインを流し込んだリヴァイは真っ暗な外に目を向けている。いつもと同じ不機嫌そうな顔だったがおそらく今は機嫌がいい。そんな確信が持てた。だって似ていると言われた自分がこんなに楽しいのだから。
「ふふ、ふふふふ…」
「何笑ってんだ、気持ちの悪いヤツめ」
楽しそうに笑い続けるエレンの横でリヴァイは息を吐いた。
青年と出会ってから四年経った。その期間の多くは共に過ごしたわけではないが、エレンが入隊するずっと前から自分たちは同じ方向を見ていたのだとわかった。戦いの中でしか己を表現できないのだ。だから四面楚歌と言われる国防軍にも平気な顔で、むしろ嬉々としてやって来たんだろう。命を懸けるということを真に理解できていなかったのかもしれない。死とは絶対的なものであり、その瞬間はあまりにも呆気なくやってくる。
リヴァイが入隊してからはちょうど十五年経ったがその間に失くしたものは多い。まだ穏やかな心で数えることはできないが、代わりにたくさんのものも得た。例えばこの生意気な部下だってその一つだ。
リヴァイはもう国防軍の一員としてしか生きられないんだと思った。必要に迫られればいつでもこの身を差し出し、この国のために死ねるだろう。その時はもうそこまでやって来ている。過去の自分が見たら何と言うだろうか想像もできない。
百年の沈黙が破られようとしているのを感じながらグラスの中身を流し込んだ。
07
謎の識別不明機の襲来から一月経った。ハネダ基地からは一人の死者、一人の行方不明者、一人の重傷者、一人の軽傷者を出した。
死亡が確認された隊員の葬送式も終わり、基地内も少しずつ元通りになってきている。ベテランパイロットが三人も撃墜された衝撃はとても大きかったのだが、空軍は恐ろしい事態から目を逸らすように、事件の二日後から流れ始めた元教育飛行隊の隊員である二等空佐とアンノウン襲撃事件の当事者である三等空尉のゴシップに飛びついた。
それは殉職した仲間の死を軽視していたからではなく、あまりにも辛くて無理やりにでも理由を付けて盛り上がらないと日常に戻れそうになかったからだ。どんな時でも国防に休みはない。
天気のいい朝だった。
海から吹き付ける風は少し冷たいが、こんな日は日向ぼっこでもしたら気持ちいい。ここに来てからもう何年もそんな穏やかな時間を感じられることはなかったが、記憶の中で大きな腕に抱かれて陽だまりに浸かる自分は幸せそうだ。
「おおアニか。どうした?」
後ろからした声に内心びっくりたが、そんな素振りは微塵も見せず背筋を伸ばした。
「今日は非番なんですけど、ネコが気になって」
「おお、こいつな。ホレ」
振り向くと作業服を着たひげ面の男が太ったネコを抱いていた。
アラートハンガーの近くの草むらを根城にしている野良ネコは、意外と多くの隊員に気にかけてもらっているらしい。ろくにエサもないだろうこんな所で順調にぶくぶくと肥えていっている。もはや事実上ハネダ基地の飼いネコ状態である。
ため息で肩を上下させるアニ・レオンハート二尉もこの雌ネコを構い倒すうちの一人だった。
「ハンネスさん、いつもそのネコに構っているんですか」
「いつもってわけじゃないが…まあ、目に付いた時に抱いてやるくらいかな」
整備員のハンネスは階級で言えば幹部のアニよりも低かったが、年齢で言えば父親くらいだ。人当たりのいい彼は、固すぎると同性の同期からですら距離を置かれがちなアニに対しても他の隊員と同じように接してくる。彼の前には堅固な壁も意味はないようだった。
こんな状況じゃなければ、その遠慮のなさが素直に嬉しかっただろうなと他人事のように考えた。
「私にも抱かせて下さい」
「もちろんだ。ほらよ」
渡された生温かい塊を胸に抱いていると潮風の冷たさも気にならなくなった。ほんの少し、顔の筋肉が緩んでしまうことには気付けなかった。
そんなアニを見てハンネスはもともと緩んでいた顔をさらに緩ませた。
「今日はせっかくの休みだろ?どこかに出掛けたりしないのか?」
まるで新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる日曜日の父親のような口調だ。
「行きたいところもないですし、疲れたので隊舎で休もうかと思っています」
「もったいないなあおまえ。せっかくそんな美人なんだから、デートでもしてくればいいのになぁ」
年上の、それも父親ほどに歳の離れた男は苦手だ。女性の扱いに慣れているその柔らかい物腰がくすぐったいし、褒め言葉にしたって下心は感じられないから反応に困る。鼻の下でも伸ばしていれば罵ってやれるのに。
聞いた話では実際にアニと同じくらいの歳の娘がいるらしい。自分のことも娘みたいで放っておけないのだろう。余計なお世話だと流すようにしたいのだが、アニに仕事の話以外で声を掛けてくる男の多くは、モデルのようだと言われるこの外見に釣られてくるバカばかりで、何も期待せず接してくる者は本当に珍しく、不本意ながら日常的に落ち気味な気持ちが救われる瞬間がある。
要するに、鼻の下を伸ばしてくる他の若い隊員と同じようにキツイ言葉であしらうことができないのだ。結局お礼を言うのも変かと思って黙ってしまった。
「そのネコ、よく見たらおまえに似てるよなぁ」
「……どの辺がですか」
少し不愉快そうな声色が海風に響く。
「気まぐれなところとか?うちの整備士たちは全員引っかかれたことあるんだぞ。エサは喜んで受け取るくせに…」
「野良ネコにエサをあげないでください」
そう言いながら自分もあげていることはどうせバレているのだがもういい。このハンネスという男が娘ほどに歳の離れた若い女隊員に弱いことは知っているのだ。
「まぁそう言うなって。それより、今日は撮らないのか」
「……一瞬だけこの子抱いてもらってもいいですか」
そう言ってハンネスにネコを渡すと、ジャケットのポケットからスマホを取り出した。
「おう、どうせなら俺も一緒に撮ってくれたっていいんだぜ?」
「はいはいわかりました」
言いながら拡大してネコだけを撮る。パシャリと三回ほどシャッター音が鳴るとネコはハンネスの腕を飛び出してどこかへ走っていってしまった。今まで大人しく抱かれていたのが嘘みたいだ。こういうところも気まぐれと言うのだろうか。
「あー行っちまった」
残念そうに頭をかく姿が少しだけ可愛いらしく見えた。口が裂けても言えないが。
「勤務中でしょう。仕事に集中しろって言ってるんじゃないですか」
アニは返事を聞く前に踵を返して隊舎の方へと歩き出した。ここへ来た目的は果たせたのだからこれ以上留まる理由はない。この男と話していると調子が狂うのだ。自分が捨ててきたものが目の前に戻ってきたかのような錯覚に陥る。引き返すことのできない坂道の途中で後ろ髪を引かれてしまう。
「おーい、せめてメシくらいは誰かと食えよ!」
背中に投げかけられた言葉に目を瞑ると故郷の父の姿が見える。吹き飛ばすように海風の冷たさを追った。
*
「おいバット、ここ座ってもいいか?」
「…イーグレット」
大嫌いなTACネームをわざと呼ばれ気分は落ち込んだ。自分も同じように相手の名前を呼んでやったが、彼は自身のTACネームを気に入っているらしいので喜ばせて終わりだろう。
昼時で混んでいる食堂の隅に陣取っていたアニに話しかけてきたのは、同じ歳のジャン・キルシュタインだった。階級も同じ二等空尉だが、驕りではなく自分の方が仕事の出来はいいと思っている。たまに目を見張る判断を下すこともあるが、基本的に評価は中の上から上の下な人間だ。
「私の椅子じゃないし勝手に座れば」
素っ気ない態度はもはやアニの代名詞と化しているので、それなりに付き合いの長いジャンが一々気にすることもない。
「おまえ今日非番だろ。どっか出掛けたりしないのかよ」
ハンネスと同じセリフを言われても同じように受け取ることができないのはアニが悪いのか、ジャンが悪いのか。眉間にシワを寄せたアニがほっといてくれないとそっぽを向くと、視界の端に珍しいコンビを見つけた。固まったアニにその目線の先を追ったジャンはチキン南蛮を飲み込んでから言う。
「あの噂マジかもな。リヴァイ兵長とエレンが付き合ってるってやつ。最近よく一緒に昼飯食ってるし、仕事終わったあとも飲みに行ったりしてるらしいぜ。しかもそのあとは兵長の自宅でお泊りだってよ。あの死に急ぎ野郎がだぜ?」
ジャンにとっては犬猿の仲であるエレンが上官であるリヴァイをたぶらかしたという噂が重大らしいが、アニにとってはあのリヴァイが自分より十も年下の、特別優秀でも落ちこぼれでもない生意気と元気だけが取り柄の死に急ぎ野郎に構っている事実の方が大事だった。
リヴァイのことは入隊以来ずっと見ているが、一人の部下に執着するような人付き合いの仕方はしない人だった。誰に対しても平等に厳しく、不器用ながらたまに優しい上官だった。もっとも優しさの部分はどうにもわかりづらいので、新人隊員相手には誤解を招くことも少なくはなかったのだが。
エレンだってつい最近まではリヴァイと言い争う姿をよく目にしていた。アニからすればリヴァイがいつまでも彼にOR資格を与えなかった理由もよくわかったが、二か月の新人君には嫌がらせとしか取られていなかったようだった。
二人の距離が急に近付いたのはあの事件のあとだ。
アニには詳しいことは知らされてないが、あの日アンノウンと対峙した四機のうち唯一撃墜を免れたエレンはリヴァイの指示で助かったらしい。つまり命の恩人というわけだ。
しかし命を救われたエレンが日頃の態度を改め彼に懐いたとしても、救った側のリヴァイは仕事をこなしただけだろうし、特別な感情を抱く理由がわからない。過剰に距離を狭めることを許すのは何故か。
リヴァイに憧れて彼に近付く者は男女問わず多い。それでもここまでの近距離を認められた人は今までに見たことがない。
それに何より、リヴァイは自分に特別好意を寄せる仲間と必要以上に親しくなることを避けているはずなのだ。どうしてエレンは許されたのか。
「ジャンから見てもさぁ…あの二人の距離感って普通じゃないよね。男同士なのにさ」
アニの口から出た質問にジャンは目を丸くした。
この女が他人に対して積極的な態度を見せるとは。
「うーん、ズバリ、あれは恋愛関係にあるとしか思えねえよ。上官と部下にしては距離が近いだろ。相手はあのリヴァイ兵長だぜ?おまけに死に急ぎ野郎の顔だ。純情そうなフリしやがって、あんなに嬉しそうに笑ってやがる。気持ち悪いったらありぁしねえ」
ジャンに言われてもう一度確認してみると、確かにエレンの顔の綻びは見てる方が恥ずかしくなるほどに幸せそうだった。
それはまるで好きな人と一緒にいる時の少女のような、二十四歳になろうかという男が簡単に作れる表情ではない。
それがどういう意味であるにしろ、エレンはリヴァイのことが好きだ。もう間違いないだろう。あの顔で実は嫌いですなんて言うほど演技の上手い男ではないことは、たった三か月の付き合いのアニにだってわかる。
問題はリヴァイの方なのだ。
何と言ってもあのポーカーフェイス。基本的に機嫌の悪そうな顔をしているので、いつ怒っているのかいつ喜んでいるのか全くわからない。もう少し距離を縮めれば読めるようになるのかもしれないが、目立つことを避けたいアニからすれば、人類最強と謳われるリヴァイと積極的に関わることは謹んで遠慮させて頂きたかった。ハネダに配属されて二年経つ今だって、リヴァイとアラート任務に就く時などは緊張する。
「おまえってエレンのこと好きなの?」
完全に視界からアウトしていたジャンの声が再びアニの視線を馬面との呼び声高いその顔面へと呼び戻した。
「どうしてそうなるの」
明らかに不機嫌そうに返すとジャンは照れてると勘違いしたらしく含みのある引きつった笑いを向けてきた。
「なかなかいい趣味してるな、おまえも」
「そうね。アンタ相手に恋愛するよりはよっぽど趣味がいいでしょうよ」
熱血は面倒くさいが、性格の悪い男はそれよりずっと面倒くさい。どうして自分のTACネームが『コウモリ』でこの男が『シラサギ』なのだろうかと常々不満に思っている。白どころか真っ黒の腹をしているくせに。ジャンのことが個人的に嫌いというわけではないが、恋愛対象としては論外だ。
「おまえ…言っていいことと悪いことがあるだろうが!」
どうやら純情な青年の心を傷つけてしまったらしいが、その前に傷つけられた純情な乙女の心をどうにかしてほしかった。他人との関わりを極力控えているアニは恋愛でからかわれることにも慣れていない。この歳になるまで彼氏の一人だってできたことはなかった。
だけどそれを寂しいと思うことは許されない。アニは一人でも歩かなければならない。周りの仲間が仕事の合間に合コンの話で盛り上がっていても、隊内で新しいカップルができたとしても、吹き抜けていく風の音のように聞き流した。自分には関係ない。自分にはそういう浮ついた話題は似合わない。恋愛に現を抜かせるだけの余裕も資格もない。普通の女の子にはなれやしないのだ。
誰もアニが常にどれだけの恐怖を抱えて空を飛んでいるかなんて知らないし、興味もないだろう。戦場の中で一人、どこまでも孤独だった。
昼食を終えて食堂を出ると真っ直ぐに部屋へ戻った。そのあとは夕食まで自室から一歩も出ない。いつもの休日の過ごし方だった。
*
『ブルーフル・ゼロワン、チェックイン』
『ゼロツー』
『ブルーフル・エレメント、ハネダ・タワー。スクランブルオーダー!レディ・トゥ・コピー?』
『ゴーアヘッド』
『ブルーフル・エレメント、ベクター・トゥ・ボギー。ヘディング315、クライム・エンジェル20、バイバスター!』
『ブルーフル・ゼロワン、ヘディング315、クライム・エンジェル20、バイバスター』
『コレクト。コンタクト・ヤマト、チャンネル1!ウインド45・アット3、ランウェイ04ライト、クリアード・フォー・テイクオフ!』
『コンタクト・ヤマト、チャンネル1。ランウェイ04ライト、クリアード・フォー・テイクオフ』
耳に入ってくる声はいつもと少しだけ違って聞こえる。ヘッドセット越しだからだろうか。
エレンはRW04L(滑走路04レフト)でリーダー機の後ろに控えながら、真横に走るRW04Rの端へと目を向けた。ホット・スクランブルが発令されてから三分ほどだろうか。二機のF-55が姿を現した。今日のアラートは長機がリヴァイで僚機がアニだ。
タイミングが悪いのか、配属三か月目にしてはじめてリヴァイがスクランブル発進するところを見る。噂によればこの上官が待機の日はそれ以外の日に比べてアンノウンの出現率が低いらしい。ある隊員はそんなリヴァイを守護神と呼ぶ。
アフターバーナーを焚いてあっという間に二機は飛び立ってしまった。
その姿を惜しげに見つめたあと、首を振って気合いを入れ直した。まだまだ自分は半人前で、他人のフライトを気にしている余裕なんてない。まずは自分の訓練をしっかり終えることからだ。
この一月、エレンは気持ちいいくらい前向きに空を飛べていた。
OR資格を得たからであり、尊敬してやまないパイロットである上官に認められたからでもある。彼と共に戦ってやりたい一心で牙を磨く日々は悪くない。元よりがむしゃらに駆ける環境が青年の成長には相応しかった。
845飛行隊の華であるペトラとの模擬格闘戦訓練を終えて地上に戻り、デブリーフィングも終えたら待ちに待った一大イベントが待っていた。
場所は駅前の小さな居酒屋。主役は基地から仲間の車に乗せられて到着した。
「えーと、では、みなさんグラスはお持ちでしょうか!」
一人いればうるさい、二人いれば騒がしい、三人いればお祭り騒ぎ。それが空軍、ひいては国防軍だった。貸し切りの店内にうおおおおおという獣の咆哮のような男たちの叫び声が響き渡る。
「うるせえよ」
要撃飛行隊をまとめ上げる兵長が漏らした文句に誰も気付かない。すぐ横にいるエレンも幹事として全体に気を配るので精一杯だった。
「えー、では!オウルことオルオ・ボザド一尉の快気を祝って、かんぱーい!!」
「「かんぱーい!!」」
日頃から鍛え上げている戦闘機パイロットたちはグラスを割りそうな勢いでぶつけ合った。
「オルオてめー!一月も休みやがって羨ましいぜチクショー!」
「ふっ…俺だから一月で退院できたんだ…わかるか?日頃の努力が…いや違うな、俺の才能が、たったの三十日での復帰を実現させたんだぜ…。俺が不在の間、おまえらがどれほど不安だったかは訊かずともわかる…よく頑張ったな。もう安心していいんだ。そう震えるなよ?」
「あーはいはい、すいませーん!生中一つ!」
「ペトラおまえ、そうやって女房面するのはよせよ。俺たちはまだそんな仲じゃないだろう?」
「まだなんて、まるでいつか夫婦になるみたいに表現するのやめてくれない?セクハラで訴えるわよ」
「ふっ…照れ隠しか…悪くねえ」
「ねえ、それまさかとは思うけどリヴァイ兵長の真似?違うよね全然似てないもんね」
また夫婦漫才が始まったぞーと先輩たちがからかう中、エレンは机の状況を見ながら飲み物を頼んだり空いた皿を重ねて端に下げたり空のグラスにお酒を注いだりと急がしかった。注文がしやすいように下座に座ったのだが、トイレに行ったりタバコを買いに行ったりと人の出入りが多くて逆にやりづらかったのは計算外だ。
「リヴァイ兵長、どうぞ」
あれやこれやと忙しい幹事の代わりにジャンが気を利かせてビールを注いだ。真横に座るアニはしれっとした顔で我関せずとウーロン茶を飲んでいる。
主役であるオルオは奥の方に座っており、周りは同期と上官たちで固められている。若手は入り口寄りに集まって若者らしく腹を満たすことに夢中になっているが、一番端のここは異質な空間になっていた。
今日の参加者の中で一番階級が上のリヴァイが何故か入り口付近に陣取っている。ハネダに配置されてから二年経つジャンが参加した飲み会の数は相当なものだが、リヴァイがこんなところに座るなんて見たこともない。
どうして今日に限ってこんな居心地の悪い席に着いたのか。考えてみるとそれらしい理由は一つしかなかった。
「あ、リヴァイ兵長。宴会メニューとは別にハツ頼んでおきましたよ。はいどうぞ」
エレンが当たり前のように頼んだ焼き鳥を当たり前のように受け取るリヴァイ。
その光景を絶対零度の瞳でにらみつけるアニと、その横で生きた心地がしないジャン。この居心地の悪さと言ったら、友人とその恋人と三人でご飯を食べに行った時のそれだ。おまえたちが仲がいいのはわかった。他人に自慢したいくらい幸せなのもわかった。千円やるからもう帰してくれ。胃がキリキリ痛むのを感じながらジャンは耐えた。
エレンに気を遣うことには腹が立つがリヴァイがセットなら仕方がない。下手に目を付けられて困るのはジャンの方だ。
横のアニに目を向けると冷えた目で目の前の机に並ぶ料理を眺めている。こういう賑やかな場所には慣れていないのだろう。何か食べるものを適当に取り分けてやろうかと手を伸ばした瞬間、その薄い口が開いた。
「兵長とエレン、すごく仲がいいですね」
とんでもないタイミングでとんでもない人へ向けてSRMが発射された。ハツを噛んでいたリヴァイと卵焼きを口に運ぼうとしていたエレンは同時に固まった。そのまま数秒間、四人しかいない空間に謎の沈黙が流れる。それを破ったのはリヴァイだった。
「躾がなってないヤツにはしっかり首に縄を掛けておく必要がある」
「縄って俺は犬ですか」
「ああ違う、首輪か」
「何わけわかんないこと言ってるんですか!」
リヴァイにこんな風にツッコめる人間はそういない。文句を垂れてはいるが二人は相当仲がいいのだとわかる。本当にいつの間にこんな風になっていたのだろうか。
「プライベートでも会ってるんですか」
ずいぶんグイグイいくアニに血の気が引く。見た限りウーロン茶しか飲んでないようだが、体内でアルコールでも生成したのだろうか。素面で上官相手にこの態度が取れるなら、アニはジャンが考えるよりずっと恐ろしい女だ。
「…休みが合えば飲みに行ったりしますよね」
「休みが合えばな」
どうやら噂の一部は本当だったらしい。ジャンからすれば仕事のあとまで上官に付き合っていたら気が休まる時がなくて堪ったものではないが、エレンはそうではないみたいだ。
「そんなに仲がいいようだとお互いに彼女とデートする暇もなさそうですね」
おいもういい加減にしろよアニと頭を掴んでやろうかと迷った。エレンははぁ?と不満そうな声を上げ、リヴァイは深刻な表情でしかしどこかホッとしたように『おまえでもそんな話できたのか』と呟く。
「二人ともお付き合いされている方はいないんですか?」
「いねえ」「いねえよ」
声は仲良く同時に響いた。
「じゃあ好きな人は」
「いねえ」「いねえよ」
もうおまえら何なの本当に早く結婚しろ。
ジャンが心の中で必死にツッコんでいることなんて露知らず、エレンとリヴァイはこの話題はここまでと線引きをして料理に手を伸ばした。アニも納得のいく答えを得られたのか黙って席を立った。
そのあと二人の関係についての話が出ることはなかったが、ジャンは極限の緊張状態を強いられ、三時間強の宴会は入隊以来一番辛い飲み会となった。
「隊長さん、今日はありがとうございました。それとイーグルさんもね」
「いえ、こちらこそありがとうございました。騒がしくてすみません」
最後に席を立ったエレンは深々と頭を下げた。女将と会うのは三回目だが、聞き上手な彼女が相手だと決して話すのが得意ではないリヴァイも饒舌になり、エレンもTACネームで呼ばれるくらいの仲になった。
「そういえばバットちゃんは元気ですか?久しぶりに見ましたけど、何だか落ち込んでいるように見えたので」
「アニがか?あいつはいつもあんな顔だが」
「そうかもしれないですけど、女の勘ですかね」
女将はにっこりと笑った。エレンは何も言えずにリヴァイを見る。リヴァイも黙ったままだ。女の勘とやらは侮れない…リヴァイくらいの歳になれば大抵の男は学んでいることなのだろう。
「素晴らしいパイロットだと思いますけど、やっぱり女の子ですから。たまには優しく声でも掛けてあげて下さいよ。あの話を断ってまでこっちに残ったのだって、本当は怖かったからなのかもしれないんですから」
「あの話?」
エレンがリヴァイの後ろから首を突き出して問うと、無表情の上官はうざったそうに片手でその顔を退けた。
「ああ、イーグルさんはご存知ないのね。彼女、ブルーバーズからの誘いを断ってこっちの要撃部隊に残ったのよ」
「ブルーバーズ…えーと…」
窺うようにリヴァイの袖を引っ張ると今度は頭を殴られた。今ので一体何万個の脳細胞が死んだことだろうか。
「制式部隊名『第4航空団機動研究部第8飛行隊』、コールサイン『ブルーバーズ』。国防空軍が誇るアクロバットチームだ」
「ああ、第8飛行隊。聞いたことありますよ!」
「当たり前だバカ」
額に青筋が見えそうなリヴァイの顔はいつものことだがこれは本当に怒っている。エレンにはよくわかった。よくわかったのだが、ブルーバーズのことを知らなかったことでどうして機嫌を損ねてしまったのかがわからなかった。
察したように女将が口を開く。
「ブルーバーズって言えば空軍の顔みたいなものですから。彼らの展示飛行は飛行祭のメインイベントと言っても過言ではないですよ。広報活動が主になりますけど、とてもレベルの高いパイロットが集められているチームです」
「よくご存知ですね…」
「ふふ。昔からの大ファンなんです。特にこの隊長さんが現役の頃の演技は忘れられないですよ」
「リヴァイ兵長って教育飛行隊だけじゃなくてブルーバーズにも入ってたんですか?」
素直に驚きの声を上げる。
「あら、知らなかったのね。隊長さん、教えてあげなかったんですか」
「別にこいつに言う必要はねえからな」
言う必要はなかったかもしれないがエレンとしては聞きたかった。曲技飛行に挑戦したいと思ったことはないけどリヴァイが経験した道なら興味がある。
「兵長がアクロバットチームにいたって…意外ですね」
「あらそうかしら」
女将はそんなことないんじゃないと笑ったが、エレンが会った時リヴァイは既にブルーバーズも
教育飛行隊も経験したあとだったので、戦闘部隊で飛ぶ姿しか見たことはなかったのだ。最前線が一番似合うと思うが、魅せるために飛ぶリヴァイも見てみたかった。
「ブルーに推薦されるってことはそれだけ能力が評価されてるってことなんですけど、配属されたら三年間はマツシマ勤務でアラートにもつけないですからね。戦闘部隊にこだわるパイロットの中には断る人もいるみたいです。隊長が受けて下さって本当によかったわ」
女将が言うとリヴァイは口を半開きにしたまま目を逸らした。はじめて見た照れている姿だ。すぐに何かに気付いたように目を見開いて口も開く。
「礼を言うぜ。おかげで大事なことを思い出した。行くぞエレン」
「はい」
最後に会計を終えた二人が店を出ると、他のメンバーはすでに二次会の会場に移動したあとだった。エレンがみんなを追おうとすると、リヴァイはスマホを取り出して誰かに電話をしようとしていた。
「兵長?」
「ああ、おまえはあいつらと合流しろ。俺は急用ができたから帰る」
*
第4航空団機動研究部第8飛行隊。コールサイン『ブルーバーズ』。マツシマ基地に巣を作る幸せの青い鳥。唯一のアクロバットチームであり、国防空軍の誇る最高の技術を持ち合わせた曲技飛行隊。空軍の表の顔でもある彼らに憧れる者は多い。
「私が…ブルーバーズですか」
「ああ。栄転だぞよかったな」
元ブルーバーズの隊長だった上官はそう言ったが、アニには余計な話だった。
曲技飛行隊が嫌いなわけではないが、戦闘部隊を離れるつもりはなかった。操縦技術を認められたことは喜びに値したが、このありがたい誘いにはお腹が空いている時にグルメ番組を見せられるような苦痛があった。
「私にはもったいない話です。お断り致します」
しばらく考え込むフリをしたあとにしれっとそう伝えた。
「まぁ…おまえがそう言うなら向こうにはそう伝えるが…本当にいいのか」
元教育飛行隊の隊員でもあった上官の鋭い目はまるですべてを見透かしているようで心臓が震えたが、何とか平静を装った。
「構いません。自分はF-55を降りる気はありませんから」
曲技飛行隊の使用機は戦闘機ではなく練習機だ。もちろんアラート任務なんてありはしない。それでは意味がないのだ。最前線に立つことこそ自分の存在意義を確立してくれる。
きっぱり断っても上官…リヴァイはしつこく食い下がってきた。たかが部下の一人にそんな絡んでこなくてもと思ったが、前に『リヴァイ兵長は空軍の仲間のことを家族のように思っているらしい』という話を聞いたことを思い出した。確かに自分たちに向けられる遠慮のなさには家族に対する態度に通じるものがあるのかもしれない。だけど私はアンタの妹じゃない。そう思いながら本当にブルーバーズに興味がないことを伝えるとその話はそこで終わった。どこから漏れたのかアニへ第8飛行隊からの誘いがあったことは噂になっていたが、それもすぐに聞こえなくなった。
「アニってブルーバーズからの誘い蹴ってこっちに残ったんだって?」
自分ですら思い出すことはないものを蒸し返されたのは本当に突然のことだった。
「どこで聞いたのその話」
「昨日の居酒屋で。あそこの女将ってブルーの大ファンなんだぜ。情報網すげえんだ」
「で?だからなに」
明らかに不機嫌なアニの声にエレンは頭をかいた。
「そう怒るなよ…俺はおまえなら知ってるんじゃないかって思って…」
「知ってるって何を」
声はどんどん低く暗くなっていく。触れてほしくないという気持ちがこの鈍感男に伝わっていればいいと思った。
「リヴァイ兵長が隊長だったころのブルーとかさ」
「ああ…」
そっちか。それならこうも機嫌を斜めにする必要もなかった。
「兵長がブルーにいたのって何年前だと思ってるの?私なんてまだ入隊もしてなかった頃だよ。知りたいならもっと上の人に訊いたら」
「おお、そうなんだな」
「むしろ本人に訊けばいいじゃないか。ずいぶんと仲がいいみたいだし」
そう言ってやるとエレンはそうだけどさと言葉を濁した。本人から隠れてコソコソ過去を探るなんて熱血漢の単純バカらしくない行動だ。恥ずかしいとでも言うのか。あんたは恋する乙女か。そうツッコんでやろうかと思った。
「何かさ、リヴァイ兵長って自分のことをあんまり話さないだろ。訊かれるのも嫌かなーって考えたら、やっぱ訊くことができなくてさ。でも気になるし…」
「あんた、今の自分の顔を鏡で見た方がいいんじゃないの」
「は?」
好きな子の話でもしてるみたいに幸せそうな、でも不安も見え隠れするその表情は自分には真似できない。男のくせにと思った。だけどこれがたぶん普通なんだろう。
国防軍に入ってパイロットになりわかったことがある。軍人だって同じこの国の国民なのだ。好きな食べ物があれば音楽だって聴くし、テレビドラマも観る。普通の人と同じように恋をして結婚だってする。子どもができれば抱っこするし休みの日は一緒に出掛けるんだろう。仕事が少しばかり特殊なだけで、ごくごく普通の人間なのだ。
「何だよ。鏡見ろってどういう意味だ」
「別に。右の頬にまつ毛ついてるよ」
廊下で急に引き留められたにしては話し込んでからアニは足を進めた。後ろでまだ後輩が何かを言っているが聞こえていないフリをした。
エレンは不器用で幼い、ちょっと変わった二十四歳の男だ。新人のくせにまるでずっと前からそうだったように当たり前に空を飛ぶ。自分の居場所はここなんだとうるさいくらいに主張してくる。リヴァイの気持ちがほんの少しだけわかった。自由なこの国に生まれて、それでも不自由なこんな所に来た男。エレンは更なる自由を求めているのだ。ここでなら叶うと信じている。それが何を指すのかはわからないが見てみたい気もした。
真っ直ぐ向かう先はアラートハンガー近くの草むらだ。お腹はそんなに空いていないのでお昼は売店で買った栄養食をあそこで食べようと思った。
*
たどり着いた草むらにお目当ての白いネコはいなかった。
代わりにいたのは大きな黒ネコだった。
「こんなところで何してるんですかリヴァイ兵長」
アニは目の前に寝転がる上官を見下ろして責めるように訊いた。苛立ちを隠すことはしなかった。
「どこで寝ようが俺の勝手だろうが」
何なんだあんたたちは。邪魔ばっかりして。
「今日は何ですか」
我ながら知らぬふりが上手くなったと自分を褒めたくなった。リヴァイが休みだということは845飛行隊に与えられた待機室にあるホワイトボードを見たからわかる。ORとTRに分けて一人一人の名前が書いてあるマグネットが貼ってあり、隣にある枠に当日の予定を書くことになっているのだ。朝確認した時、リヴァイの名前の横にはアニと同じ『休日』の文字があった。
「休みだから昼寝をしている。以上」
アニは無表情のままレジャーシートまで持ち出して昼のほんの少しばかり暖かい陽気を堪能してる上官を見下ろした。オリーブグリーンのジャケットが歪に膨らんでいる。Gカップはありそうなくらいの胸部が弾けとびそうだ。モゾモゾと動くそれのせいかリヴァイは眉間にシワを寄せる。瞬間、理解した。目的の物体は一人や二人殺ってそうな凶悪面の上官のジャケットの中に潜んでいる。最悪だ。
「兵長、ネコが可哀想です。出してあげてください」
「言っておくが、こいつが勝手に中へ入って来たんだ」
そんなわけあるか。
「そうですか。でも苦しそうなので出してあげてください」
「おまえ、ネコ好きなのか」
リヴァイの質問にアニも眉間にシワを寄せた。ネコが好きか嫌いかなんてどうでもいい。どうでもいいから早くそのネコを置いてどっかに消えてくれと思った。ここにネコが住み着いているということは整備士の間では知っていて当たり前の話だし、どこから伝わったのかネコ派の女子隊員もたまにエサをやりに来ている。しかしリヴァイも知っているというのは予想外だった。
戦闘機の機種転換訓練を修了したアニが最初に配属されたのはハネダで、二年前のことになる。リヴァイのことは入隊した時からずっと知っていたし個人的に情報を追っていたが直接話したのはその時がはじめてだった。
普段はあまり喋らないがここぞという場面での口数は意外と多い。それも話下手であり、シンジュクからシブヤまで外回りで向かうような回りくどい話し方をするせいだ。リヴァイが言いたいことなんてハンジ・ゾエ三佐などに言わせれば大体ひとことで済んでしまう。そして彼を饒舌にさせてしまう『ここぞという場面』は必ず仕事関係であり、個人もしくは空軍全体にとって芳しくない状況の時である。
「兵長、今日はよく喋りますね。私がネコを好きだったら何か問題でも?」
口に出してから必要以上に角を立ててしまったと後悔した。
「別に問題があるとは言ってねえだろ」
リヴァイは気にしていないようで気にしているだろう。他人から好かれようなんて思っていないことは普段の振舞いからわかるが、意外に自分に対する評価は冷静に見極めようとしている。染みついた癖なんだろう。アニも似たようなものだからよくわかった。
「おまえ時間あるか」
「…今日は約束があります」
嘘を吐いた。ここで時間があるなどと口走ったら貴重な休みがこの上官に奪われてしまうかもしれない。それに何より余計な関わりなんて持ちたくない。
「それは今すぐか?違うよな。こんな所にいるかもわからないネコを見に来る余裕はあるみてえだしな。上官が言うんだ、五分くらい都合つけるのが部下ってヤツじゃねえか?」
勤務時間以外に拘束だなんて冗談じゃない。
とは言えない。
「わかりました物凄く忙しいのですが五分だけお時間差し上げます」
ネイティブでも半分は聞き取れないくらいのスピードで言い放つと、リヴァイは対照的に落ち着いた口調で横に座ることを促した。早く立ち去りたいアニとしては腰を下ろすことは避けたかったが、上官を見下ろしたまま五分も話を続けるのも変なので、失礼しますとレジャーシートの外側に座る。長居するつもりもなかったので薄いパーカー一枚しか着ていない。横でゴソゴソ動く温もりを独占するリヴァイが恨めしかった。
「前に第8飛行隊からスカウトされた時、どうして断った」
重ねた手のひらを後頭部の下に入れたまま青空を見上げるリヴァイはひとりごとみたいに切り出す。
「言ったはずです。戦闘部隊が好きなんです」
「危険な最前線だぞ」
「危険は承知ですが、この前のようなケースは多くはありません。それに、危険が嫌だと言うならそもそも国防軍…しかもパイロットなんかにはなりません」
「それもそうだ」
リヴァイはあっさりと認めた。しかし引き下がらない。
「じゃあどうしてファイター・パイロットになりたいと思った」
「空が好きだからです。それ以上でも以下でもありません」
「空が好きなだけなら第8飛行隊でも問題はないはずだが」
「正しくは『戦闘機で空を飛ぶのが好き』なんです」
「戦闘機で空を飛ぶのが好きだからってのは戦闘部隊で飛び続ける理由だろ。俺が訊いてるのは入隊して戦闘部隊を目指そうと思ったのはどうしてか、というところだ」
じわじわと食らいつかれる。話はわかりづらいが頭の悪い男ではない。
「戦闘機に憧れていたからです」
「いつから」
「子どもの頃からです」
「きっかけは」
「ファイター・パイロットが主人公の映画を観たんです」
空軍のパイロットなら誰もが知っている有名な映画だ。この映画の影響で空の門を叩いたという者も少なくはない。きっかけとしておかしくはないはずだ。
「ほう…悪くない。俺もむかし上官に訊かれた時にはそう答えた」
静かに肯定された。それ以上は何も言わない。悪くないとは志望動機としてはという意味か、あるいはとっさに出た嘘にしてはという意味か。リヴァイには気付かれないように横目で盗み見ると、彼は静かに目を閉じていた。そこにはアニを問い詰めようだとか探ろうなどという気は感じられなかった。
アラートハンガーの裏の草むらに人気はない。今ここでこうやってアニとリヴァイが話をしていることなんて誰も知らないだろう。人目を気にせず横に座れる、めったにない貴重な時間だ。だんだん五分だけと言ったことが惜しく感じられてきた。もう少しだけ話してみてもいいんじゃないか。話してみたい。
アニにはリヴァイに訊いてみたいことがたくさんあった。エレンみたいに色っぽい理由があるわけではないが、今までは避けていた話がたくさんあった。伸びた草へ直に下ろした尻が冷たく、どうしようかと迷うアニの背中を押す。
「兵長はエレンが好きなんですか」
迷った挙句口から飛び出した言葉は自分でも予想外だった。そして口には出せないが心の中で『そんな資格があるとでも思ってるんですか』と罵る。本当はもっと訊いておいた方がいいことがいっぱいあるのに、こんなことを訊いてもこの先のアニの考えや行動に変化が起こるはずもないのに、脳の命令を脊髄が抑え込んだ。
「俺がエレンを好きだったら何か問題があるのか」
返ってきた答えは予想外だった。肯定されることはないと思った。たぶん『そんなわけあるか』くらいの否定が妥当だろうと踏んでいた。どちらに傾くこともせず質問に質問で返されるとは思わなかった。アニには先のリヴァイの問いかけに対する自分の返答をそのまま真似されていることに気付く余裕はない。
何も言えなかった。
長い沈黙が実際にどれくらい続いたのかはわからないが、アニは何時間も無言で問い詰められているような気分だった。リヴァイが再び口を開く。
「おまえ、男を好きになったことはあるか」
「え?」
「ああ…別に女でもいいが…まぁ、そういう意味でだ」
「恋愛経験があるか、という質問ととってもいいでしょうか」
「問題ない」
それなら答えたってこちらとしても問題はない。
「ありませんけど」
「生まれてから一度もか」
「そうですね。生まれてから一度もないです」
妙齢の女がさみしいことを言っている自覚はあった。でもしょうがないじゃないかと、誰に責められたわけでもないのに言い訳してみる。自分の心の中だけでこっそりと。
「そうか。恋をしてみるのも悪くはないぞ」
リヴァイらしくはないセリフだ。昨日の居酒屋では好きな人はいないと答えたくせに。
「兵長は好きな人ってできたことあるんですか。全然噂も聞かないですけど」
エレン以外、と付け加えるとリヴァイの閉じられた目蓋がピクリと動いた。
「俺もねえな。だがきっと幸せなんだってことはわかる。…俺にはずっと放っておけない他人だとか護るべき存在なんてのは煩わしくて邪魔な存在だった。だがな、邪険に扱っても離れないヤツがいる。他人のために自分を捨てられるヤツだっている。ここで生きているうちにそれが幸せだって言うヤツもいることを知った。俺自身こんなぬるま湯みてえな空気に少し絆された。つまりだ。俺には今、煩わしいはずの他人という存在がどうにも必要だという気持ちがある。昔とは違った意味でこの国の軍人としてありたいと思っている。自由ってのは本来誰にも奪う権利はねえはずだ。どう感じてどう行動するか、他人の自由を侵さない範囲ですべて許されるべきなんだ。何を好きになるかなんて誰かに強制できるもんじゃねえ。そういう気持ちを抱くのは個人の自由で、それ自体は何の罪もない。わかるか。好きだ嫌いだという気持ちはこの世で一番身近で手っ取り早く得られる自由なんだよ」
話が長くて回りくどくてつまり何が言いたいのかがわからない。残念ながら通訳のハンジはもうハネダにはいない。でも、リヴァイのひとこと一言は心に響く。
「つまりだアニ」
今日は一人二役で解説も務めてくれるらしい。助かった。
「おまえだって誰かを好きになって、自由に生きたっていいんだ」
リヴァイが目を瞑ってくれていて良かった。目頭が熱い。こんな言葉を望んでいたわけじゃないはずなのに。
あんたが私の何を知っている。そう言ってやることはできない。少なくともリヴァイが進んできた道は自分が進んでいる道と曲りなりにも似ている。
そして改めて理解した。この男はもう道を違えたのだと。それどころか後ろに続くアニを、かつて自分が立った岐路に立たせようとしている。
ふざけるな。ずるい。悔しい。あんたのせいで。私だって。
渦巻く思いは一つだって言葉にならず、代わりに視界が滲んだ。こんな最低の男相手にありえない。目を閉じたリヴァイは静かに落ちたその一粒には気付いていないだろう。そう願う。鼻水をすすって、寒いから帰りますと言って立ち上がった。
「悪いな、五分って言ってたのによ」
何でもないことのように言う。悔しい。でも言い返すことはできなかった。何も言えないのがまた悔しかった。
08
〈ハネダ基地地下・中部方面隊防空指令所>
「アンノウン・ピックアップ、対領空侵犯戦闘配置!」
「バトル・ステーション!」
ハネダ基地の地下にある防空指令所(DC)のモニターでアンノウンが確認された。
全国28か所に設置されたレーダーサイトと早期警戒管制機(
AWACS)により発見されたアンノウンの情報は、ハネダにある航空総隊作戦指揮所(COC)と全国四つにある航空方面隊作戦指揮所(SOC)の該当するセクターにもリアルタイムで報告され、同時にSOCと同じ基地内にあるDCへも行く。そして通常はこのDCがスクランブルを発令する。
ハネダ基地の地下はCOCの一階上のフロアにDCがある。COCに回ってきた情報は同時に真上の階に流されている。場所はイシカワ沖でシンボルの数は二つ。すぐにコマツ基地へバトル・ステーションが発令される。担当の要撃管制官をフォローするためにフリーの管制官がもう一人横へ立った。
二機のアンノウンは突然ウォール・マリアの内側に現れることはなかったが、真っ直ぐにこちらへ向かってくる。針路を変えそうな気配は感じられず、発令されたバトル・ステーションがホット・スクランブルに変更されるまではすぐだった。
西海が映し出されているモニターに赤の『UNKNOWN01』『UNKNOWN02』が浮かんでいる。緑色の『JPT01』『JPT02』が現れるまでにエルヴィンはCOCから上がってきた。彼はスクランブルが発令された時、まるで何かを確認するようにこうしてやってくることがある。
「どこへ出した?」
「コマツです――上がりました。ジュピター・ゼロワン、ゼロツーです」
「ジュピター…今日のアラートは170か」
コマツ基地には二つの戦闘部隊が巣を作っている。一つは獅子をシンボルとした第6航空団第160飛行隊であり、もう一つが六芒星をシンボルとした第6航空団第170飛行隊である。どちらも毎年開かれる戦闘競技会で教育飛行隊相手に優秀な成績を収める頼もしい部隊である。
170といってエルヴィンが最初に思い出すのはハンジだ。
彼女は二年前にコマツに転勤になり今は若くして第170飛行隊の隊長だ。その頭のキレ具合はエルヴィンも認めるほどであり、しかし入隊は航空学生からで現場に拘るのだからもったいないというのが正直な気持ちだった。その頭脳を自分のすぐ横で使ってくれたらどれだけいいだろう。頭の固い保守的な上層部と戦う度にそう思う。
上がったスクランブル機にハンジが乗っている可能性の方が少ないというのはわかっていたが期待せずにはいられなかった。そしてその期待に応えるように、管制官の呼びかけに対して聞き慣れた声が返ってくる。
「ジュピター・ゼロワン、ヤマト・ゼロワン、オフサイドコントロール」
『ヤマト』がハネダDC、『オフサイドコントロール』がそれを指揮する中空SOCのコールサインだ。
『ヤマト・ゼロワン、ジュピター・ゼロワン』
瞬間的に反応したエルヴィンは要撃管制官を退かしてマイクを奪った。
「ジュピター・ゼロワン、要注意だ」
『おお、その声はエルヴィン。下りて…いや、上がってきてくれたのかな。了解!どこの礼儀知らずか知らないが、私たちの庭に入ったことを後悔させてやるよ』
口ではとんでもないことを言うハンジだが、大事な場面では意外と自制心のある人間だということは知っている。
エルヴィンが言った要注意とはアンノウンのことである。突然ウォール・マリアの内側に現れたり国籍マークを付けていなかったりと、普段現れる仮想敵国の航空機とは明らかに違う不審な機体のことだ。その出現の多くは何故かリヴァイが公休かアラート任務から外れている日である。空軍内部に流れる噂では関係性は不明とされているが、しかし実際のところリヴァイにはそのアンノウンたちの出所に心当たりがあり、エルヴィンもそれを知っている。
そもそもの始まりは十年前だった。
当時まだ二十代前半だったリヴァイは後輩と二機編隊を組み、敵役の二機編隊を相手に新型の短距離空対空ミサイルの訓練を行っていた。国防軍の訓練空域には民間機の立ち入りが禁止されているが、その日は何故か一機の旅客機が航路を外れ東海の訓練空域に侵入してきた。
アンノウンとは違いフライトプランの提出された、所属のわかる民間機が相手だったので、当該空域を監視していた要撃管制官もむしろその旅客機にトラブルが発生したのではないかとの心配をした。訓練は当然中止になり、より近かったリヴァイの編隊が警告をしに行くことになった。ここが空軍の訓練空域で立ち入り禁止であることを報せ、針路転換を促す。ただそれだけの、アンノウンに対する対領空侵犯措置に比べたらあくびが出るような仕事だ。そのはずだった。
結論から言えば訓練空域に侵入してきた航空機は旅客機一機ではなく、旅客機とその影に潜んで航行していた国籍不明の戦闘機の計二機だった。大型旅客機の真下にぴったりと張り付くように飛んでいたその戦闘機はレーダーサイトからはまだ距離があり、目標を三次元…方角・高度・距離・速度で捉えるレーダーでも正確には確認できなかったのだ。
民間機の影に隠れて簡単にウォール・マリアの内側に入ってきた識別不明機は、警告にやってきた訓練中の空軍機に対して攻撃をしてきた。二機のうち一番機が被弾し、そのまま墜落してパイロットは死亡した。その後、識別不明機は二番機のパイロットが強制着陸させた。
どうして旅客機は戦闘機を隠すようにして国防軍の訓練空域に侵入してきたのか。その謎を解く機会も、直後に起きたエンジントラブルによる当該機墜落事故により永遠に失われた。その旅客機自体は他国籍のものだったが、乗客の中にはこちらの国民も多くいた。
空軍と政府の公式発表では『同時多発事故』と言われたこの『事件』は、エンジントラブルを起こした旅客機が空軍の訓練空域に侵入し、確認に向かった空軍機が同じように侵入してきた識別不明機と空中接触し二機とも墜落、続くように旅客機も海に落ちた…とされている。
しかし空軍の機体が攻撃を受けたことは、事件当時に国際緊急周波数を聞いていた者には明らかだった。メディアは不自然なくらいこの件については消極的で、旅客機の墜落事故の報道が主だったが、ネットでは空軍が仮想敵国による攻撃を受けたと一瞬だけ盛り上がった。空軍内部でも事実が明かされることはなく、当事者のリヴァイ、DCにいた管制官、同時刻に訓練空域にいたもう一つの編隊及び無線でのやりとりを聞いていた全ての隊員に箝口令が敷かれることとなった。
これが非公式ながら空軍史上初、他国籍の機体から攻撃を受けた事件である。
そしてこの件をきっかけに、エルヴィンを責任者とした極秘の対テロチームである調査兵団『自由の翼』が空軍内部に作られた。上層部からの指示ではなく、エルヴィン自身の独断による決行だった。
メンバーは実力、階級、国防に対する思想、立場などを考え信頼のおけるパイロットや要撃管制官、整備士を中心とした十数名だ。国防軍が育てる『国を護る』という木の根が腐っていることを知っている彼らは少数精鋭でテロリストと戦っていくことを決めた。ハンジももちろんメンバーの一人であり、コマツとハネダで距離こそ離れているが連絡は頻繁に取り合っている。
要注意だと伝えたことにより、ハンジにはリヴァイが公休だということがわかっただろう。エルヴィンはマイクを奪ったことを管制官に詫びてから後ろに下がった。あとはもうスピーカーから聞こえてくる交信とモニターを頼りに見守るしかない。万が一アンノウンが十年前、そして一月前のように攻撃してくるヤツだった場合、自分が防空指令所にいることにより現場のパイロットの行動の幅が広がるかもしれない。おまけにスクランブル機の編隊長がハンジとなれば、ここを離れるなどという選択肢はなかった。
ハンジとその僚機は要撃管制官の指示に従い着実にアンノンの元へ近付いている。モニターの中で距離を縮める『UNKNOWN01』『UNKNOWN02』と『JPT01』『JPT02』に指令所の空気は重くなる。基地司令であるエルヴィンに仕事ぶりを見られているという緊張もあっただろう。
「ジュピター・ゼロワン、会敵までおよそ30秒。目視確認せよ」
『ラジャー!ああ、あれかな』
気になる言葉を言い終わったと同時に二番機からも交信が入る。
『タリホー!二時方向に発見!』
『あっ、モブリット!私が編隊長なんだから私に言わせてよ!』
『それなら自分より早く見つけて下さいよ。国防の一大事なんですから』
『うるさい!目が多少悪いのが私のほぼ唯一の弱点なんだよ!』
「おい、そんなことより目標は」
無線で言い合いを始めた二人に呆れて声も出ない管制官を再び押し退けてエルヴィンが問う。
『目標二機!国籍は……。どうやら今回はテロリストさんじゃあなかったみたいだ』
「追い払え」
国籍マーク確認の報告を聞いたエルヴィンはもう興味は失せたとでも言いたげに放った。残念と言えば不謹慎だが、要注意のアンノウンが出現したということは調査するいい機会になるのだ。
揚収した先のアンノウンのパイロットの遺体は何も語ることはなかった。国籍や所属を示すような持ち物もなく、ほとんど得るものはなかったと言っていい。
今自由の翼が欲しいのは情報だ。そのためのチャンスと思えばアンノウンの出現にだって気分が盛り上がってしまう。お目当てのテロリストではなかったとわかれば盛り上がった分落ち込んでしまうのだってしょうがない。
『アテンション!ディス・イズ・ディフェンス・エアフォース!ユー・アー・アプローチング・アワー・エア・ドメイン!とっとと出てってくれないかな!人の庭に土足で入り込むなんてどこの子だろうね!親の顔が見てみたいよ!』
新人の頃に教育されたはずの領空侵犯機に対する定型文は、長い時間を掛けて中学生の喧嘩のような文句になった。乱暴な物言いがどうして問題にならないかというと、ハンジはこの言葉を母国語で、しかも相当な早口で言っているので相手のパイロットには聞き取れないし、あとで録音内容をチェックされたとしてもやっぱり何を言っているのか意味不明なのである。実際DCで交信を聞いている要撃管制官やエルヴィンも何を言ってるんだこいつはと思っていた。
それでも何の注意も受けないのは、相手側も内容は理解できずとも領空侵犯に対する警告を受けているのだということは理解してくれるからだ。
そして何よりエルヴィンが、ハンジはいざとなったら十年以上前に習ったとおり冷静に対応できる能力があることを知っていて信じているからだった。矢継ぎ早に責め立てるのは、専守防衛を謳う国防軍に所属するハンジなりの抵抗みたいなものなのだろう。
『ハンジさん、またそんな物言いを…』
『どうせ聞こえてない。そんなことよりとっとと追っ払おうじゃないか』
ため息のあとにラジャーという呆れた声が聞こえてくる。
アンノウンは五回ほど警告をした時点で針路を変更してウォール・マリアの外側に戻っていった。それを見送ったあと、二機の空軍機にもコマツへの帰投指示を与えた。油断は禁物だが、常と同じような流れにDCの緊張感も少しは和らいだ。
内心残念がっていたのはエルヴィンだけである。
せっかくハンジが上がったのだからどうせなら例のアンノウンなら良かったと思ってしまう。彼女なら自分の身を護りつつ敵の情報を引き出すことも上手くできるだろう。しかし他の基地のシフトには口を出せないし、ファイター・パイロットとはアラート任務に就くだけが仕事ではない。日頃の訓練だって大事なのだ。
「急に来て済まなかった。いい仕事ぶりだったよ」
「いえ!お疲れさまです!」
要撃管制官に挨拶をしてからエルヴィンはDCを後にした。
最近はリヴァイが休みの日には必ず国籍マークを持たないアンノウンがやってくる。今日はどうしてか現れなかったが、それには何か理由があったはずだ。いつもとは違う何かが。少しずつだが確実に、自由の翼はその正体へ迫りつつあった。
*
自宅に帰ってから携帯の充電が切れていたことに気が付いた。仕事関係で大事な連絡が来ていないとも限らない。充電器に繋いで電源を入れて確認する。着信履歴に並ぶ『Hange Zoe』という文字の羅列は常軌を逸していた。
『あっリヴァイ?もしもーし。私だよ。仕事終わったの?私もさっき家に帰ったところっで今ベッドでゴロゴロしてたんだ。着信履歴見てくれたんだね。どうせまた充電切れたことに気付かないまま放っておいたんでしょ。駄目だなぁ、男はもうちょっとマメな方がモテると思うよ?まぁ人類最強っていう冠被ってれば女には困らないだろうけどさ~!』
渋々折り返した電話に出たハンジは討論番組のコメンテーターのように相槌のタイミングさえ与えずにマシンガントークをかましてくる。深く息を吐きながら聞き流し、ようやく彼女が息をした瞬間に滑り込んだ。
「二分ごとに電話なんてストーカーかと思ったぜ。気持ちの悪いヤツめ」
リヴァイとハンジの会話の始まりはいつもこんな感じだ。これは二人にとっては『おはよう』『はい、おはよう』という会話のようなもので、決してお互いが嫌いなわけではない。それなりに長い付き合いが遠慮のない物言いと態度を許し合える今の距離を作った。
昔、ハンジがハネダにいた頃には仕事終わりに飲みに行ったり食堂で一緒に飯を食べたりもしたものだが、トウキョウとイシカワという距離ではたまに電話で話すのが精一杯だ。適当に文句を言い合ったあとにすぐに本題に入る。
『今日アラートだったんだけどさ、国籍マークのないアンノウンは来なかったよ。会いたかったのに残念だな』
「珍しいな。これは…ほぼ決まったかもしれん」
右頬と肩でスマホを挟みながらスウェットに着替えてセミダブルのベッドに腰掛ける。話は長くなりそうな予感がした。
『そうみたいだね。基地に戻って報告が終わったあとさ、エルヴィンから連絡がきたよ。あなたの読みは当たってるかもしれないらしいじゃないか。おめでとう、って言った方がいいのかな』
「まだ早えよ。だがこれで一歩前進した」
『例のアンノウンの出現頻度さ、前より増えたよね。最近はリヴァイが休みの日はほぼ100パーセントやってくる。私たちの動きは見せられないけど、あなたの公休日を全国の基地に通知できたらパイロットたちも気持ちの準備ができるなぁ』
「そんな連絡はいらねえだろ。軍人なら明日どこかの国が攻めてくるかもしれない、と常に考えておくべきだ」
スピーカーにしてスマホをベッドの上に置くと、オリーブグリーンのジャケットを脱いだ。下に着ていたシャツも全て脱ぐと、鍛え上げられた筋肉が顔を出す。身長のせいで小柄と言われるが、体つきはひょろりと背だけが高いような人間よりずっと立派だ。枕の横にたたんであった黒のTシャツを着て再びベッドに腰を下ろした。
『そうだね。うちの隊員みたいに高い意識を持ってて貰いたいね。近いうちに全面戦争になるだろうから』
スピーカーを切って耳元に当てる。
「そうだな」
リヴァイはそう言いながら窓の外を見た。カーテンを開けっ放しで家を出たので外の景色がいっぱいに広がっているのだが、時刻は午後九時を回っている。外は真っ暗でガラスに映る自分の姿だけが目立っていた。そこにあるはずの海は見えず、落ちていきそうな闇が両手を広げて誘っている。昼の綺麗な海ではなく夜の不気味な海を見ることは、自分自身への戒めだ。
十年前、一緒に訓練へ出ていた後輩がアンノウンの襲撃によって海に墜ちた。仲間の死にぶつかるのがはじめてだったのかと言われれば違うのだが、目の前でああやって死なれたのははじめてだった。
『ねえリヴァイ、今家でしょ』
急に話を逸らしたハンジに眉をひそめてそうだがと答える。
『今日はエレンいないの?』
期待を孕んだ声色にますます眉間が縮まる。
「ここは俺の家だが。あいつは隊舎住まいだ」
『外泊許可を出させればいいじゃないか』
外泊許可を出させてまでエレンを家に呼びたがっていると思われていることが気に食わなかった。そして最近好奇の目に晒されている原因を思い出した。
「…そういえば随分とくだらねえ噂を残していってくれやがったじゃねえか」
『噂?』
「てめえが俺とエレンが付き合ってるなんてほざきやがるから、俺は居心地の悪い食堂でメシを食わなくちゃいけねえんだ」
エレンには気にしてないと言ったが、それはエレンを嫌っているわけではないと伝えなければならなかったからであり、実際に事実と異なる噂を流されれば面白くないのは当たり前である。そのうち落ち着くだろうと思ったが一部の隊員からは探りを入れられる日々だ。
歴史を遡っていけば、男所帯だった軍隊という組織では男性同士の恋愛なんて珍しくなかったという。その流れをどこかで受け継いでいるのか、二人の性別の問題はこの噂話を止める壁にはならなかった。それどころか特殊な嗜好の女子隊員たちには応援される始末だ。十も下の女に余計なお世話だと怒鳴るのも大人げないので放っておいているが、時間と共にその動きはますます過熱してきているらしい。すべて情報屋のペトラによる話である。
『てかさあ、実際どうなの?』
どうとは何だ、そう言ってやるとハンジは黙った。こういう黙り方をする時は大方相手に呆れている時である。クソメガネに呆れられるなんてと考えると緩く下降気味だった気分がジェットコースターのように地の底を目指し始めた。そんなリヴァイの事情など知りませんと、ハンジは他に解釈のしようがないようにハッキリと述べた。
『だから、エレンのことを恋愛対象として好きなのかってこ…』
「そんなわけあるか」
光の速さで脊髄が反射する。自分自身でもびっくりするくらいの反応スピードだった。余計だったかもしれないという判断は今のリヴァイには下せなかった。それだけの余裕がない。目の前に投げかけられた問いに対して全力で戦う姿勢を見せる。三十を過ぎた男の反応にしてはずいぶんと新鮮だ。
『そうやってムキになるところが怪しいんだよね』
「ムキになるのはてめえがしつこいからだ」
『良いじゃんエレン。可愛いと思うよ。リヴァイは女にトラウマがあるんだから、男にしとけば?』
「別にトラウマにはなってねえよ」
『あら、そうなんだ』
ハンジの声は演技ではなく意外そうだった。
『恋に生きる女みたいなのが嫌いなのかと思ってたけど。女って本気で好きな男ができるとその人が一番になっちゃうよね。例外もいるけど私の周りには多いよ。空を飛ぶのが大好きだったくせにさ、好きな男に辞めてほしいって言われたからって退役しちゃう子とかね。あと少しで危険な空とはお別れだったのにさ、どうしてあの子があんなタイミングでって思わずにはいられない』
話はテンポよく逸れて手品みたいに一月前のアンノウン襲来事件へと到達した。
『敵討ちなんて私たちの戦う理由になったらいけないと思う?』
その問いはリヴァイにとっては愚問だ。良い悪いだなんて考える前にその一心でこっちに転がり込んだ男だ。
「理由なんて何だっていいだろうが。俺たちは国防軍だ。結果として国を護れたのかどうかってのが大事なんだろ」
何を思って戦うのか、それは個人の自由だと考える。たとえ軍の方針が『護るために戦う』だったとしても、リヴァイが戦う理由はそれだけでは収まらない。今生きている仲間を護ることも大事だ。それが何より大切なのはわかる。でももう戻ってこないとしても、忘れられて悲しいと思う心すらどこにも残ってないとしても、トリガーへ手を掛ける瞬間に浮かんでくるのは死んだ仲間の顔だ。自分が怒るための理由に彼らを勝手に使うべきではないと思っても止まらないのだ。
前にエレンを『怒り』と表現したことがあったが、それは自分にも言えることだ。リヴァイを真っ直ぐ立たせる芯の正体は怒りである。リヴァイの怒りとは飢えだ。
何にも縛られず自由に生きることなんて、この世の一番暗い場所で生きていた自分は知らなかった。大人になって知った自由への渇望という名の怒りが最強のファイター・パイロットを作り上げたのだ。それが異常なことはわかっている。他人からしたら気味が悪い話だろうということも。
だけどもう一人、自分と同じように怒りを支えに立っている人間を見つけた。
エレン・イェーガーは怒りを解放することに一種の快感を感じている。そして目の前で仲間を殺されるという経験をした。温室育ちのお坊ちゃまのくせに、エレンには自分と同じ景色が見えているのだ。広い世界で見つけたたった一人の仲間に特別を感じないわけがない。
そして何より重要だったのは、彼がアンノウンの手から逃れ帰ってきたことだ。その時の感情を表現できる言葉をリヴァイは知らない。口下手なので上手く言えなかったが、エレンに対する自分の気持ちを女子特有の恋愛直結思考で判断されるのは気に食わなかった。
『そうだね。でもさ、漠然と国って言ったって想像つかないだろう。国ってさ、領空であり領土であり街であり家であり人であるんだよ。結局私たちが護る国ってのは、大切な人の住む街の空であり土地であり住む家であり、その人のすべてなんだ。国ってのは見えないようで確かにそこにあるんだよ。私はそう思う。…さっきは変なこと言ってゴメン。ナナバの無念は忘れないけど、何よりもまず今を生きている人のために戦うよ。こう見えて意外と自制できる人間なんだ』
リヴァイが何を言ったわけでもなかったが一人で納得して結論までたどり着いたハンジはスッキリした声で言った。
生きている人のために戦うのが一番の理由だという言葉は響いた。綺麗にその通りになれないのに、それが正しくて理想的なのだと理解してしまっているのがリヴァイの辛いところだ。心の中では護りたいという気持ちを持ち上げるように奪いたいという気持ちが膨れ上がっている。やられたらやり返すなんて生易しいものではない。叩き潰せと教えられ育ってきた。
『だからさリヴァイ、私が言いたいことはつまりさ』
ハンジの声は他人をからかう時の軽いものになった。
『あなたも誰かに恋をしなさいってことだよ』
電話の向こうでハンジが笑っているのが手に取るようにわかる。目の前にいたら殴ってやれるのに、500キロも離れているのではどうしようもできない。戦闘機に乗っている時とは違う。生身の人間にはとてつもない距離なのだ。
「こんなにてめえの顔を見てえと思ったことはねえよ」
『熱烈な愛の告白をありがとう。でもごめんね、もう心に決めた人がいるから』
「ぬかせ」
言葉から受ける印象ほどは不機嫌ではないリヴァイは窓の外を見つめた。そこには海だけではなく、境目がわからなくなった空も一緒に広がっている。この空のずっと遠くでハンジもだらしない格好をしてベッドに寝そべっているのだろう。
『実際にはねリヴァイ、そこからここまでなんてそんなに離れてはないよ。本気で会おうと思ったら会えるじゃないか。本当に遠いっていうのはもう会えなくなった人のことだ。会えなくなってから顔が見たいなんて言ったって遅いんだから。自分の気持ちには素直に向き合いなよ』
同じ歳のくせに諭すような口調だったが、どうしてかその言葉は素直に受け取れた。そうかよと言って電話を切ろうとすると、妖怪・お節介メガネは最後の一撃をかましてきた。
『私はあなたがショタコンでも友達だよ』
「ちょっと待て、何だショタ…とは」
『ひとことで言えば"少年好き"』
「おい、エレンは少年じゃねえだろ」
『私はエレンだなんて言ってないけど』
勝ち誇ったようないやらしい声が響く。瞬間、眉間にシワが寄った。
「てめえ…」
『言い訳は結構。今度そっちに遊びに行く時には多少進展しててよね』
「誰があんなガキ!」
相手にそんな関係になるか――と言い終わる前にハンジは電話を切ってしまう。どうしても届けたかった最後の言葉がぽつり、虚しく部屋に響いた。
*
昼時を少し過ぎて空いてきた食堂にその後姿を見つけたエレンは走って駆け寄った。
「ハンネスさん!」
大きな声で呼ぶとハンネスは振り返ってエレンに手を振る。白身魚のあんかけ定食はまだ半分しか手が付けられていない。ここへ来てから五分も経っていなかったのだろう。
「おおどうしたエレン」
「これ、百回観ました。ありがとうございます」
エレンはそう言ってDVDを手渡した。パッケージには特別にカラーリングされた六機の練習機T-04、通称『ペンギン』が飛んでいて、その写真を背景に『パーフェクトガイド・ブルーバーズ2×××』の文字がある。リヴァイが隊長だった当時の第4航空団機動研究部第8飛行隊が出演しているものである。六機で作られた三角形の頂点がリヴァイの操縦する一番機だ。百回観たというのは盛り過ぎたかもしれないが、百回再生したというのは間違いではない。部屋にいる時はエンドレスリピートだった。
整備士のハンネスはエレンの倍近く歳をとっているが、気さくで話しやすいおじさんだ。エレンがはじめてのアラート任務に就いた日に整備してくれたのも彼だった。
それなりに歳を食っていると詳しいかもしれないと思い、オルオの快気祝いの時に聞いたブルーバーズの話をすると、リヴァイが隊長だった頃のDVDを持っていると言うので、土下座をする勢いで貸してくれと頼み込んだ。あまりにも必死なエレンを笑うように快諾してくれたハンネスは、やはりあの女将と同じようにブルーバーズのファンなのだそうだ。
「アッカーマン二佐は凄いだろう。何たって当時の年齢は二十七歳だ。ブルーバーズの隊長としては歴代最年少なんだぞ。普通一番機って言ったら戦闘部隊の隊長レベルが指名されるもんだから異例の人事だったな。最初の頃は色々言われたもんさ。操縦技術があるだけじゃ隊長は務まらん、とかなぁ。広い視野と的確な指示、仲間からの信頼に社交性も必要なポジションなんだぞ。ソロ課目のある五番機、六番機は花形だが、そんなヤツらをまとめ上げるのが編隊長である一番機だ」
熱のこもった話に本当にブルーバーズが好きなんだなということがよくわかる。憧れのパイロットが見たくてDVDを借りた自分をミーハーだと感じて少し恥ずかしくなる。正直こうしてDVDを観るまでアクロバットチームのことを戦闘部隊である自分たちより下に見ていた。彼らは普段からアラートに就くこともなく、ひたすら同じ演目を飛ぶばかりだ。国防軍にいながら一体どうしてサーカス団みたいに魅せることに拘るのか、エレンには理解ができなかった。
しかし今回DVDを観れたことによってそんな未熟な考えを改めることができた。ブルーバーズに憧れた少年がやがて空軍のパイロットになることも珍しくないとの言葉に納得できる内容だった。圧倒的な技術を見せつける展示飛行は『うちの国にはこんなに凄いパイロットたちがいるんだぞ』という他国への牽制にもなる。
調子に乗ったことを言うと、もし今後ブルーに誘われることがあったら挑戦してみるのも面白いかもしれない。尊敬するリヴァイが通った道ならそれもいい。
「俺もブルーのファンになっちゃいましたよ。コックピット映像とかもはじめて観たんですけど興奮しちゃいました。普段仲間がどんな風に操縦してるかなんて知る機会ないですし」
本当に気に入ったので同じDVDを買おうと思った。
「勉強熱心で結構なことだ。昼はもう食ったのか?」
「今からです。ここ座っても大丈夫ですか?」
「もちろん」
ハンネスの正面に席を取ってから揚げ定食を食べていると、食堂に飛行服を着た二人組が入ってきた。第845飛行隊のシンボルである翼を広げた鷹のワッペンを胸に着けている。20センチくらいの身長差がある二人はアニとジャンだった。
「おう、おまえらもこっち来いよ」
先にハンネスが声を掛けたのでエレンは黙って近付いてくる二人を見ていた。ジャンはエレンの姿を見つけてあからさまに嫌そうな顔をしている。こっちだっておまえの顔を見ながらメシを食ったら不味くなる。その後ろを歩いてくるアニの無表情はいつものことだ。
「遅い昼飯だな。今日のフライトは?」
「午後から訓練空域へ。こいつと組むの久しぶりだからメシ食おうかってなったんです」
ジャンが自分の正面、ハンネスの横に座るアニを見てそう言った。
「その言い方だとこっちも積極的だったみたいじゃない。私は一人で食べにいくつもりだったのに」
「おまえな…何もそうとげとげすることもないだろ」
言われたジャンが傷付いた顔をして引き気味に言う。エレンが聞いた話ではアニとジャンは同期のはずだが、特別仲がいいということはないらしい。その原因は性格が悪いと言われるジャンの方ではなく、他人との関わりを執拗に避けるアニの方にあるように見える。
「そういえばハンネスさん、アニってブルーに誘われたことあるって知ってましたか」
エレンは重くなった空気を取り払うようにわざと明るい声で問い掛けた。話を変えるダシに自分を使われたアニは眉根をキュッと寄せる。
「そりゃあ知ってるよ。受けてたらブルー初の女性パイロットだったんだ。航空ファンも喜んだだろうに」
「私は曲技飛行に興味はありません」
「俺もこの前までそうだったよ。おまえも一回DVD観たらいいぜ。正直操縦技術なら戦闘部隊の俺たちよりすげえから」
「ブルーの隊員だって元を辿れば戦闘部隊出身だよ。元々秀でているファイター・パイロットが引き抜かれるんだから、あんたたちより上手くて当然」
言外に『そのブルーから誘いを受けた私もあんたたちより上なのよ』という意味を勝手に察したエレンは口をへの字に曲げた。
「アニ、おまえってブルーが嫌いなわけじゃないんだな」
ブルーのパイロットの技術を素直に褒めたアニを見てジャンは言った。彼女の口から肯定的な意見が出ることは珍しい。
「嫌いじゃないよ。ただ私が行くのは無理ってだけ」
「そうか…じゃあ好きってことか」
全然じゃあとはならないぞと思いながらエレンはジャンの言葉の続きに耳を傾ける。正面のハンネスはといえば、まるで子どもの喧嘩を見守る保護者のような生暖かい表情になっている。
「そこまでは言ってないんだけど」
「気付いてねえだけだろ。おまえが認めるなんてもう好きって言ってるようなもんじゃねえか」
「あんたに知った口利かれると面白くないね」
「ぷっ」
完全に箸を止めて繰り広げられる二人のやりとりについにハンネスが吹き出した。何がおかしいのかエレンにはわからなかったが、ケラケラと笑っている。
「おまえら仲いいなぁ」
喧嘩するほど…というヤツだろうか。あの言い回しは気に食わない。それが事実だとすればエレンとジャンも仲良しになってしまうではないか。
「全然仲良くなんかないっすよ」「全然仲良くなんてないですけど」
二人は綿密に打ち合わせでもしていたかのように寸分違わぬタイミングで似たようなセリフを発した…のだからハンネスは面白くて仕方がないのだろう。『だからそれが仲良いってことなんだよ』と笑う。
そのからかわれ方が何だか自分と上官に対するそれに似ていて、エレンは何とも言えない苦い顔になった。
*
自由の翼の幹部がトウキョウに集まったのはアンノウン襲来事件から二か月経った頃だった。
ハネダ基地司令のエルヴィンに、ハネダ基地所属第0航空団第845飛行隊からリヴァイ、コマツ基地所属第6航空団第170飛行隊からはハンジ、ニュータバル基地所属教育飛行隊からはミケ・ザカリアス二等空佐が来た。
今回の作戦本部もハネダ基地の最寄り駅からすぐの所にある個人経営の小さな居酒屋だ。
通された個室の机には四つのビールが並んでいるが、どれも四分の一ほどしか減っていない。グラスに手を伸ばすのも忘れてしまうほどに四人が夢中になっているのは一枚の写真だった。
「本当にこいつなのか」
静かに怒りを孕んだ声を上げたのはミケだった。彼が写真一枚にここまで怒る理由を知っている三人は頷いた。
「まず間違いないと言っていい。万が一勘違いだったなら謝ればいいし、それで許されなくたってしょうがないさ。可能性を一つ潰せると考えれば悪い話でもない」
エルヴィンはしれっと言った。彼が歩く道は正しくないが、彼の目指す場所は正しい。この場に揃った他の三人にはそれがわかっている。何事も正しい道を選ぶことはとても根気と勇気のいることで立派だがしかし、その結果が最終的に正しい場所へ繋がるのかと訊かれれば否と答える。
一概に言えるわけではないが、この国防を揺るがすテロ事件においては過程よりも結果が重視されるべきである。少なくともエルヴィンを入れた四人はその考えで一致している。
「尻尾を掴めたところでこれからどうする」
ミケがエルヴィンに目をやると彼はすぐに口を開いた。まるでその言葉を待っていたみたいだ。
「自由に泳がせてみよう。向こうにはこちらが悟ったということを知られてはならない。そうしていつも通りに行動させ、その行動をこちらの都合のいいように誘導する。上手くいけば敵の作戦の決行日がわかるかもしれない」
エルヴィンが出した答えは現状維持だった。空軍としては今までと同じような態度を取りつつ、裏では自由の翼として敵を監視する。周りから見て空軍もエルヴィンたちも何も変わりはないように思わせなくてはならない。
「で、決行日がわかったとしても彼らがどこをどの規模で攻めてくるかってのはわからないんだよね」
ハンジの疑問にエルヴィンがそうだと答える。
テロリスト集団の存在と目的は過去の調査によって判明しているが、それだけでは自分たちには何もできない。護るためにある国防軍は過去に完結している攻撃に対しての反撃はできない。正当防衛以外での自国領域外での武力行使は原則認められていないので、報復という道はそもそも存在しない。テロリストが少なくとも領空線上にあるウォール・ローゼを突破してからではないと攻撃行動はとれないのだ。
それにしたって相手が自分に攻撃してきてからという条件が大前提で、たとえ爆弾を積んだアンノウンが何機来ようと、現行の国防軍法で空軍にできることは音声警告の実施と信号弾の発射、監視のみである。
「空軍全体にこの事実を明かせれば少しは準備のしようがあるが、現状それは厳しい。だが今の人数でこのテロに対して準備をするというのもまた難しい話だ」
「エルヴィン、らしくねえ。ハッキリ言ってくれ」
眉根を寄せたリヴァイは奇妙な持ち方でジョッキを持つとビールを流し込んだ。しかしそのビールは飲み込むことができなかった。
「おまえのお姫様を我々に貸して貰えないだろうか」
「げほっ!!」
「うわっ、リヴァイきったねえ!」
限界まで捻った蛇口もびっくりするくらいの勢いでビールを吹き出したリヴァイにハンジが身をのけぞる。いつもとはすっかり逆の立場である。
「エルヴィンてめえ、気でも触れたのか。ヤツが誰の何だと」
リヴァイは汚れたテーブルと自分の服に不快そうな顔をしながら珍しく声を荒げる。
「ヤツか。俺は誰とは言ってないが…思い当たる人物はいるようだな」
元々口論で自分が負けるなんて考えてもいないエルヴィンは別に勝ち誇るわけでもなく真顔でそう言い、そんな煮ても焼いても食えない上司にクソッタレと毒を吐いたリヴァイだが、エルヴィンもハンジも生暖かい目でこちらを見ている。どうしようもなく居心地が悪くてしょうがない。
あんなのが姫なもんか。どいつもこいつも勝手に騒ぎやがって。
リヴァイの心の中は自分たち二人を勝手に舞台に上げようとするギャラリーへの怒りでいっぱいだった。
「何だリヴァイ、恋人がいるのか」
意外そうに訊いてきたのはミケだ。反射的にそんなわけねーだろと返しそうになるがグッと堪えた。仮にも向こうは恋愛のつもりでこの話題に触れてきたのだ。今のミケ相手に突っぱねることはいくら空気を読む気のないリヴァイにだってできない。
「そんなんじゃねえ。こいつらが勝手に盛り上がってるだけだ」
それは自分自身に言い聞かせるようにゆっくりと、そしてハッキリと言われた。
結局その日にいつもの居酒屋で午後九時から始まった会議は午前零時まで三時間に及んだ。その間何度もからかわれたリヴァイの機嫌は斜めどころか完全に倒れたが、幹部四人によって自由の翼の今後の活動方針は決定した。
*
エレンが何人かの隊員と一緒に普段はあまり使われていない団長室の隣にある会議室に呼び出されたのは突然のことだった。
集まった顔ぶれの中にはよく見知ったものもある。その最たる先輩に話しかけてみた。
「なぁアニ、これ何の集まりだと思う?」
「知らないよ。っていうか口の利き方」
歳は同じで階級は一つしか違わないが航空学生では二年先輩になるアニは勤務中なのにフランクな物言いの後輩を窘めた。横で話を聞いていたジャンが呆れてものを言う。
ジャンも二人と同じ歳で、アニの航空学生時代の同期であり階級も彼女と同じだ。しかしエレンからすればアニには負けを認めざるを得ないが、この馬の顔を顔面に描いたような馬面の男を先輩として尊敬しろというのは無理な話だった。放たれるひとこと一言はアニの方が辛辣だがジャンの方が量が多い。おまけに意味のない突っかかりも多々ある。一々受けて立つエレンもエレンだが、理由を探してまで文句を付けるジャンもジャンである。要するに二人は馬が合わないのだ。
そんな二人が言い争うのを煩わしそうに聞くアニと、呆れて肩を落とす隊員たちに一気に緊張が走る。
扉を開けて登場したのはハネダ基地司令であるエルヴィンだった。
地方にある小さな基地ならまだしも、全国の戦闘部隊を統括する総隊司令部も同時に配置されているハネダではそう頻繁に見られる顔ではない。場所を選ばないエレンとジャンの罵り合いに気の抜けていた隊員たちは一斉に背筋を伸ばして握った右の拳を左の胸に当て、左の拳は腰に当てる。
全員の訓練された敬礼を見たエルヴィンはまぁ座ってくれと、大学の講義室のように段になって何列にも並ぶ長い机と一緒に置かれている椅子を指した。隊員たちは少し戸惑いながら、エルヴィンが立つ正面のホワイトボードがよく見える程度には前の方にバラバラに座り始めた。エレンもその流れに乗ってホワイトボードの右側の端にあたる列の前から四番目に腰を下ろす。二席空けて真横にアニ、さらに二席先にはジャンが座る。遠慮なく覗き込んで二人の位置を確認したあと正面へ向き直ると、エルヴィンの左側にはリヴァイが退屈な映画でも観ているかのような顔で立っていた。自分が確認した瞬間にリヴァイもこちらを見たような気がしてドキッとした。
エレンは一応プライベートでも二人と親交があるのでそう驚くことはなかったが、自分たちの基地司令に四つある飛行隊をまとめ上げる兵長の登場とあって他の隊員は目に見えて焦り、事態の重大さに嫌な汗が出ているようだ。
それを感じたのかエルヴィンは少しトーンを上げて話し始めた。
「今日ここに君たちを呼んだのは、ある組織への加入を勧めるためだ」
言っていることはたぶん重要なことなのだろうが、その声色は昨日観たテレビドラマについて語るような軽いものだった。ある組織とは何なのか。その場にいた大多数の隊員には想像もつかなかった。エルヴィンは続ける。
「二か月前にアンノウンが襲来してうちの845・850飛行隊から三機が撃墜された事件は記憶に新しいと思う。我々はそのアンノウンが…正しくはそのアンノウンと同じ組織からやってきたと思われる戦闘機が、過去に同じような事件を起こしていることを知っている」
十年も前の過去の話に隊員たちは一斉に首を傾げた。世間では国防空軍と識別不明機の接触事故よりも旅客機墜落事故の方が重大であり記憶に残っている。年長の者でも当時は未成年であり、まだ航空学生にすらなっていないので当然だろう。そのために若いパイロットを中心に集められたのだ。
「我々は過去の事件を極秘に調査し今後も起こるであろうこのような事態を防ぐため、あるいは起こってしまった場合に対処するため、非公式で極秘の対テロ組織を立ち上げた」
椅子に浅く腰掛ける隊員たちの顔に血の気が戻ってきた。自分にとって悪い話ではなさそうだとほぼ全員が理解し始めている。
「役職や階級は問わず、重視するのは能力のみだ。今回は君たちの上官である各隊の隊長、そして845飛行隊の隊長を兼任するアッカーマン兵長によって設けられた最低ラインを大幅に満たしたパイロットのみが集められている。つまりこの場に揃うのは特に優秀なパイロットだけということだ」
現場で飛び回るパイロットからすれば雲の上のような存在のエルヴィンにそう評価されるのはとても誇らしいことであり、事実その場に揃う顔は口元がニヤけそうなのを必死に抑えるように歯を食いしばっているものばかりだ。すべてを手の内で転がす男はそんな当たり前のことは置いておいて…とでも言うように淡々と続ける。
「我々の活動は主に情報戦だ。正確な人数や役職はこの段階では明かせないが、名前くらいは聞いたことのあるだろう人物も何人かいる。彼らは独自の方法で様々な面から情報を集めてくれている。今回君たちパイロットに声を掛けたのは、二か月前の襲来以来、識別マークを持たないアンノウンの出現が多発しているからだ。我々ものんびりしているわけにはいかない。例のアンノウンに対抗するためにより専門的な訓練を行う必要があると判断し、我々の求めるレベルへ到達する可能性のある優秀なパイロット…それも国防軍に対して冷静に距離を保てる人間のみを緊急で呼んだわけだ」
重ね重ね褒められて悪い気のする人間はいない。それもわざとらしいお世辞ではなく、エルヴィンのような人に媚びない人種の口からとなれば尚更だ。
「もちろんこれは強制ではない。選ぶのは君たち自身だ。しかし、入る入らないに限らず、この部屋で聞いたことは他言無用だ。まぁ…信用できない口の軽い人間は選考の段階で弾いたからその心配はないだろうが」
上手い具合に決め手となる一言を投じられ、一番後ろに座る男が勢いよく手を上げた。
「自分も参加させて下さい!」
一人がそう言うと我先にと言わんばかりに次々と手が上がる。結局ものの五秒ほどでエレン、アニ、ジャン以外のメンバーは参加を決めた。
一番端に座るエレンは信じられないと言った目でリヴァイを見ていた。
この場に集められたのは優秀なパイロットのみ――それはつまり自分も含まれるわけで、しかもその選考基準を作った一人がリヴァイである。そんなの何だかリヴァイに認められたみたいで嬉しいじゃないか。あの厳しい兵長が、戦闘機に乗り始めてたった数か月の新人をそう評価するのか。
これをどうひねくれて落ち込んだりできるだろうかと握った拳が震える。人はそれをぬか喜びと呼ぶ。
「あの、特に優秀なパイロットが集められたと仰っていましたが、この場にはどう考えてもその基準に満たないと思われる隊員がいます」
おそらくリヴァイを除けばこの場で一番優秀なパイロットである女性から出た冷静な指摘に各人は自分のことかと浮き足立った。
しかしよく周りを見渡してみれば、集められたメンバーの中に一人異質な人物がいることに気付く。
若手のみ数名揃った中には配属されてたった四か月の新人がいる。アニとジャン以外に845飛行隊のメンバーはいないが、広い基地でもパイロット同士はよく顔を合わせるのでわかった。そもそも彼は色んな意味で有名なのだ。
「それが誰かは訊かないでおこう」
「いや、言えよ」
自分の意見に反対するように即座に声を重ねた部下に、エルヴィンは一瞬目を横へ向けた。
「こういうことはその場で処理しとくもんだ。あとで不満を言われたら堪ったもんじゃねえ」
「…だそうだ。二尉、続けてくれ」
リヴァイから視線を戻したエルヴィンにより許しを得たアニは一呼吸置いてから口を開く。
「私や団長から名前を出すのはどうかと思います。本人が名乗り出るべきじゃないでしょうか」
「名乗り出るか…しかし君が基準に満たないと判断しただけで本人にその自覚があるかどうかはわからないだろう」
「自覚がないのならパイロットとしての適性を疑った方がいいレベルです」
「言うじゃねえか」
「本人を貶める意思はありません。ただ説明よりこの組織には半端なものは要らないということがわかったので、少なくとも今はまだ選ばれるべきではないと思ったまでです」
一切の感情を封じた事務的な声にリヴァイは不快感を隠さなかった。もっともリヴァイの場合はいつでも不快そうに話すのだが。
――まったくあの兵長に突っかかるなんてアニのヤツ怖いもの知らずだな。それに基準を満たしてないパイロットとやらも早く名乗り出ろよ…今に兵長がブチギレるぞ。
なんて呑気に考えていたエレンはふと視線を感じてそちらを見た。右側から刺すような気を感じる。会議室の一番左に座ったエレンが右を向けば当然他の隊員を見渡せるのだが、彼らは一言も発さず、だがしかし相談があったかのようにエレンを凝視している。
――え…え…?
「…まさか俺?」
「他に誰がいるんだバカ野郎!」
会議室全体をビリビリと揺らした怒声は諦めたようなリヴァイのものだった。
「バ、バカって…バカって!」
「バカにバカと言って何が悪いんだバカ」
怒りは収まってないのか冷やかにそう言われた。
ああ確かに、一瞬でもリヴァイに認められたと勘違いしていた自分はバカだ。でもそれを罵っていいのは自身だけだ。いくら上官と言えどそんなこと言われる筋合いは…ほんの少しくらいあるかもしれないけど…ほぼ大体ほとんど概ねないと言って差し障りないはずだ。
「ハァ…まぁいい。おまえらもわかってるだろうがエレンはまだ四か月目で飛行歴は浅いし技術も追いついてない。そんなことはわかっているが、こいつがベテラン三人を撃墜したアンノウンの追撃から生還したという事実を忘れて貰っちゃ困る」
黙ってリヴァイに注目していた隊員たちは頬を叩かれたような顔になった。
「…聞いた話によれば兵長が指示を出したらしいじゃないですか。それでもエレンが評価されるんですか」
アニは責めるでもなくやはり事務的に聞く。
「ORも取ってなかったのに指示通りの機動を取って生還しただけで十分だろ」
二人の間には火花が見える。どちらも声を荒げてはいないので逆に怖い。エレンは話題が自分だということを忘れて両者を交互に見た。
確かに、と言ってから一呼吸置いてリヴァイはゆっくり続ける。
「エレンはクソに毛が生えたくらいの実力だが、あの襲撃で非凡なG耐性が証明された。技術はおまえらの方が百倍ある。だがことG耐性においてはエレンの方が三倍ある。前者は訓練で埋めることのできる差だが後者は才能だ。ないヤツはないでどうにもならねえ」
話し始めはクソに毛が生えたくらいの実力というのは一体どんなレベルなのか、そもそもクソに毛なんて生えるのか、なんて別のベクトルに飛んでいた隊員の意識は、G耐性という単語が出るとえげつない角度でエレンの価値についての話へ戻ってきた。
アニも何も言い返せないようで黙っている。その姿は言い負けして悔しそうには見えず、冷静に状況を窺っているように見える。
「そういう理由があるのも本当だし、はっきり言ってしまえば『例のアンノウンに接触したパイロットには声を掛ける』という決まりがある。一度でも会ったならもう無関係ではないだろう。実際に空でまみえた者にしかわからない何かがあるかもしれないしな」
エルヴィンがそう締めるとアニも息を大きく吐いた。団長ともやり合う気はないらしい。実に賢明な判断だと言える。
「…わかりました。お話を止めてしまってすみませんでした」
結局その場に集められた七人は、全員が対テロ組織への参加を決めた。
エレンは実力を認めて貰ったわけじゃないならと内心渋りそうになったが、石が坂道を転がるように当たり前に頷いた。認められることも大事だが、そんなことばかりを気にして止まっているようでは追いかけたい背中は離れていくばかりだ。リヴァイと同じ組織に身を置ける、少しでも近付ける。それなら理由なんて何だって良かった。
09
対テロ組織『自由の翼』メンバーのパイロットたちによる防衛訓練が始まったのはすぐだった。頻繁になっている識別マークのないアンノウンの出現からして、あまり時間に余裕がないという話は最初にメンバーを紹介された時に同時にされている。
しかし中部方面隊の団長であるエルヴィンがその権限をこれでもかというくらい振りかざしてめちゃくちゃなシフトを組んだのは若手には驚きだった。彼の気品すら感じられる圧倒的な横暴さを知っているリヴァイなどはいつものように流すのみだったが、エレンを始めとする新人たちは声も出なかった。
自由の翼にはハネダ基地所属の845・850・180・196飛行隊からそれぞれ数名のパイロットが参加しているが、隊を跨いで編隊を組ませ訓練へ上げるのは空軍では異例と言っていい。リヴァイ以外の各隊の隊長に怪訝な顔をされたのも当然だ。だがそれもエルヴィンが手を回していたおかげですぐに仕方ないと部下たちを貸して貰えた。
話は先日加入した七人を選ぶ頃にまで戻る。
新メンバー選考のために資料を集める時、エルヴィンから各隊長へ『有事の際に即時対応できる精鋭部隊を構想中だ』と伝えられていたのである。決して所属を変えるわけではなく、各飛行隊に席を置いたまま非常事態が起これば召集されて任務に就く…とのことだった。有事の際というのはわかりやすく言えばこの国が危機に瀕する時ということだ。具体的に例えると爆弾を積んだ爆撃機が大量に攻めてくるなど、そういう切迫した国家の危機を指すらしい。
そんな事態が果たして起こるかどうかはともかく、対策をしておくことは大事だった。何も起きなければ二週間に一回程度の召集のみと説明したので、隊長たちは育てた部下たちを惜しみながらも貸してくれたのだ。
そうしたやりとりの上にハネダ基地所属のメンバーで組まれた対テロ飛行隊は基本的に四機編隊になる。その四機も状況に応じて二機ずつに分かれるようになっている。メンバーの中で二機編隊長資格を持っていないのはエレンだけだったのでローテーションには融通が利く。実際にアンノウンがやって来た時にどういう編成で上げられるかはわからなかったが、あらゆるパターンを想定しての訓練が組まれた。
「一番機、編隊長・俺だ。二番機、オルオ。三番機、第二編隊長・アニ。四番機、エレン。今日はこの組み合わせでいくぞ」
「はい!」
誰よりもいい返事をしたエレンだったが、班員がリヴァイにアニという、『テンションの低い人ランキング国防空軍部門』の一位二位を占める二人では張り合いがなかった。相も変わらず身内の葬式のような顔のアニと犬のフンでも踏んだようなリヴァイは慣れた手付きで紙をめくる。
フライト前のブリーフィングには飛行隊庁舎にある物置のような会議室があてがわれた。少し埃っぽいその部屋に綺麗好きを通り越してもはや病的であるリヴァイは露骨に嫌な顔をしたのだが、いくら何でも掃除をしている時間はなかった。
二人に倣って紙をめくると見慣れない文字があった。
『フィンガーチップ・テイクオフ』
テイクオフという単語から編隊離陸の種類だということだけ感じた。その文字を見つめたまま動かないエレンにオルオが呆れたように口を開いた。
「おいエレン、わからないことがあったら俺に訊いてもいいんだぜ?何たって俺はおまえよりずっと前に自由の翼に勧誘されていたからな…俺の実力を考えれば当然の話だが」
「まさかオルオさんがメンバーだとは思ってもみませんでした」
「おい」
嘘ではない。エルヴィンが『例のアンノウンに接触したパイロットには声を掛ける』と言った時その場にオルオの姿がなかったことを一瞬疑問に思ったが、まさか既に一員だったとは想像もできなかった。
「エレン、わからねえことがあるのは悪いことじゃねえから訊け」
「あ、はい!」
エレンは飼い主に呼ばれた犬のように瞬時にリヴァイの方を向くと紙を指差した。
「このフィンガーチップ・テイクオフって何ですか?」
エレンの悪意ない疑問に三人は固まった。しばらくしてアニは呆れて息を吐き、オルオはシャンプーのCMのように髪をかき上げて天を仰いだ。リヴァイは酔っ払った部下が汚い服のまま自分のベッドで勝手に寝ようとした時のような何とも言えない顔になり、やがて頭痛薬のCMのように額に手を当てて俯いたあと、
「…エレン。左手の指を真っ直ぐ伸ばしてくっつけろ」
「…?はい…こうですか」
エレンは小首を傾げながら言う通りにした。
「爪を見てみろ。指が向いている方が進行方向で、中指が一番機、人差し指が二番機、薬指が三番機、小指が四番機だ」
「お、おお…」
わかったようでわかってないエレンにリヴァイは舌打ちをした。フィンガーチップと呼ばれる所以を交えて説明しようとしたのだが書いた方が早かったらしい。黒のマジックを取ってホワイトボードに可愛らしいキノコを書き始める。
本人は至って真面目にデフォルメされたF-55を描いているつもりなのだが、会議室はいきなり『笑ってはいけない国防空軍24時』のロケ現場になってしまう。アニはボードを見ているようでその向こうにある見てはいけない何かを見ていた。オルオに至っては目を瞑り舌を噛み切らん勢いで挟みながら小刻みに震えて笑いの波に耐えている。バカ真面目にボードを見るエレンは四つの歪なキノコに『#01』『#02』『#03』『#04』という数字が書かれるまでそれが四機編隊のF-55だと気付くことはなかった。
↑
#01
#03 #02
#04
つまりはこういうことである。
一番機を先頭に左右後方に二、三番機、三番機の更に斜め後方に四番機。手の指を真っ直ぐ伸ばした時の爪先に似ていることからフィンガーチップと呼ばれるこの編隊は、離陸後に四番機が真横…一番機の真後ろに移動すればダイヤモンドと呼ばれるひし形の編隊となるためブルーバーズのテイクオフでも使われる。それだけ基本的なフォーメーションだったのでエレンが知らないことに三人が瞬間冷凍されたのも無理はない。
「こんなの航空ファンなら一般人でも知ってるぞ?」
「俺はそもそも航空ファンから入ったわけじゃないですから。二機編隊しか組んだことないんですよ…」
拗ねるように口を尖らせるエレンの頭にリヴァイの拳骨が落とされた。いってえ、という叫びが埃臭い会議室に響く。
「威張るな。知らないなら覚えればいい」
一体どんな骨密度をしているのか、鉄板でも埋め込んだような重い拳を受けた頭頂部を押さえながらエレンは涙目でハイと鳴いた。
インディビジュアル・テイクオフで一機ずつ離陸してから上空で待ち合わせるよりも編隊離陸した方が手っ取り早い。それが自由の翼に危険な編隊離陸を選ばせたほぼ唯一と言っていい理由である。
ブルーバーズのように展示目的ではなく戦闘部隊のそれなので離陸後はそれなりに距離を取るが、それにしたって難易度は高い。かつてブルーバーズで隊長を務めたリヴァイは問題ないとして、他の三人は四機編隊を組んでの離陸ははじめてだった。ブルーバーズからの誘いを受けていたアニですら表情が強張って見える。
「まぁ何事も慣れだよな…というわけだ、」
『スノーホワイト・ゼロワン、チェック』
『ゼロツー』
『ゼロスリー』
「ゼロフォー」
『ハネダタワー、スノーホワイト・フライト。レディ・フォー・ディパーチャー(ハネダ管制席、こちらスノーホワイト編隊。発進準備完了)』
『スノーホワイト・フライト、ハネダタワー。ウインド・ツー・セブン・ゼロ、ディグリーズ・アット・スリー、ランウェイ・ゼロフォー・レフト、クリアード・フォー・テイクオフ(スノーホワイト編隊、こちらハネダ管制席。風は270度より約3ノット。滑走路04L、離陸を許可する)』
『スノーホワイト・フライト、クリアード・フォー・テイクオフ』
二機編隊は『エレメント』で二機編隊長は『エレメント・リーダー』だが、三機以上の編隊になると『フライト』と呼ばれ編隊長は『フライト・リーダー』となる。
いきなりかよとツッコむ暇もなく、エレンは右斜め前の三番機を見ていた。
滑走路04Lの端に待機している。間もなく離陸だ。全機で滑走路を駆けて速度が120ノットを超えれば一番機のリヴァイから機首を上げ、二、三番機は同時に、そして四番機のエレンも間を置かず上げる。そのまま上空20000フィートまで上昇する。
いつものように先に一番機が離陸して空いた滑走路を使うわけではなく、目の前には三番機の左翼が触れそうな距離に見える。アフターバーナーを焚いてないのは幸いだった。
エレンの手は汗でびしょ濡れだ。一歩間違えれば死ぬ。だんだんと慣れてきていた戦闘機の操縦が危険だということを改めて思い知る。
何とか離陸した四機は予定通り東海の訓練空域を目指した。途中で二機編隊に分かれそれぞれ別のコースで向かうことになる。四番機のエレンはアニをフライトリーダーに二機編隊を組み、リヴァイ・オルオ組と分かれる。
「なぁアニ、フィンガーチップ・テイクオフってやったことあんのかよ」
『航空無線で余計なこと喋るって、航学の頃どういう教育受けてきたのアンタ』
「だって…」
『だって、でも、そんな言い訳がましい言葉ばっかり使うヤツって信用できない』
「おまえ…!ほんと容赦ねえな!可愛くねえ」
『ファイター・パイロットが可愛い必要あるの?』
そんな必要があったら昼夜問わず汗だくで国を護っている国防軍のパイロットたちは一斉にP免だ。それはわかっているのだが素直にないとは言えない。たとえ可愛くはなくても女に負けるのは悔しい。エレンに女性を卑下しているつもりはなく、男であるが故のちっぽけなプライドだ。世の女性たちが聞いたらくだらないと笑われるようなものである。
「ったく…俺はおまえを褒めようとしたんだぜ。経験ないと思ったのにやけに編隊離陸が上手かったからさ」
『そう。ありがとう』
アニはエレンの賛辞を当然と言いたげに肯定するとそれ以降は黙っていた。
二機編隊になってからは高度を更に上げて飛んでいる。アフターバーナーは点火していないが速度は亜音速だ。雲の上は太陽の光が余計に眩しい。よく見ている景色なのにいつもの訓練とは違うというだけで世界が変わって見える。
F-55の巡航速度であるマッハ0.9で飛び続け到着しただだっ広い空域で、四機は再び合流した。
「帰りはまた二機編隊を組む。俺とエレン、アニとオルオだ」
『ラジャー』
『ラジャー』
『はい…えっ、俺?…じゃなくてラジャー!』
一番最初のラジャーは冷静に答えたアニ、二番目は少し不服そうにも感じられるオルオ、三番目の論外がエレンだ。リヴァイは送信されないように注意してから大きく息を吐いた。
「おまえな…ただでさえ技術じゃケツなんだ。もう少し訓練に集中したって罰は当たらねえと思うんだが」
供給される高濃度の酸素でいつもより枯れている声は自分のものじゃないみたいだった。エレンは慌てて言い訳を送ってくる。
『すみません!集中はしていたんですけど、びっくりしちゃって混乱しました』
ついに戦闘機パイロットが飛行中に『びっくりしちゃって混乱しました』と言える時代になったかと頭を抱えたくなった。いつ如何なる時も冷静に状況を見て判断する、それはパイロットに求められる重要な素質の一つだ。
「おい、一応訊いておくが一体何に驚いたんだテメーは。まさかコックピットにゴキブリが出たとか言うなよ」
『あ、はい。思い返せば俺、兵長と一緒に飛ぶのははじめてなんですよ』
ヘッドセットから聞こえてきた言葉に自分でも驚くくらい動揺した。
傍から見たら指の先が少し動いた程度のものだったが、リヴァイの心象風景は陸軍の総合火力演習並みの大爆発だった。
何よりも動揺したのはどうして自分がこんなに揺らいでいるのかがわからないことだ。一緒に飛ぶのがはじめてだからなんだと言うのか。それを言えばこの面子で四機編隊を組むことだってはじめてなわけで、要するにエレンにとって重要なのは『はじめて』ではなく『兵長と一緒』ということになる。
どうしてそこに反応するのか、何となく訊けなかった。
「おまえ…何でもねえ」
『え…何ですか気になりますよ、言って下さい!』
エレンは迫って来るが、言えと言われても何を言うつもりだったのか自分でもわからないので無理な話だ。何かを言おうと思えば思うほど言葉は底に沈んでいってしまう。
『ちょっとリヴァイ兵長!』
「うるせえ。耳元でキャンキャン騒ぐな」
『キャ…!誰がそんな子犬みたいな騒ぎ方しましたか!』
「騒いだことは認めてるじゃねーか」
『う…でも耳元じゃないですし』
「ヘッドセット越しに聞いてんだから耳元だろうが」
『ああ言えばこう言う!』
「どっちがだクソガキ」
『鬼上司!』
こんな調子でハネダ沖にてアニ・オルオ組と再会するまで続けられた二人の喧嘩には何度か地上の指令所から注意が入っていたのだが、本人たちに聴取したところ覚えていないとのことだった。幸いにもこの編成は大きな問題はないということになったが、私語が多いとの評価を食らった。
『有事の際の精鋭部隊構想』を隠れ蓑にした自由の翼による対テロ飛行隊の防衛訓練は公約通り二週間に一回の頻度で開かれていた。しかしそれは実際のフライトはという意味で、都合のつくメンバーを集めてのシミュレーションは週に何度も行われた。
他の仲間には言えないが国防のためと奮闘することに新しく加入したメンバーの多くは満足感を得ていた。選ばれたという優越感もあっただろう。
しかしエレンは選考理由が理由だったためにそこのところは共感できなかった。正直国を護るというのは漠然とし過ぎていてよくわからない。自信を持って言えるのは『他国を蹂躙するのはいけないことだ』ということだ。
いけないことをするヤツは悪いヤツだ。悪いヤツは害虫と同じだ。害虫らしく駆逐されるべきだ。言葉をはしごして戦う理由を正当化する。そしてそれはおそらく間違いではない。
国防軍は護るために戦うのだから、殺される前に殺すことは許されるべきである。
自分たちが戦うのは武器を持たない民間人ではなく武装したテロリストであり、人の命は平等と言えど、護るべき国民のそれと彼らの生命・生活を脅かす脅威のそれとでは重さが違うのは事実だった。
目の前で仲間を殺されたからにはもうテロリストに対する正当性はできていた。少なくともエレンの中では揺らぐことはない。もしもまた会うことがあったらその時は決して逃がさない。迷わずにトリガーを引くだろう。空軍の人間として、そもそも人として当然の行いだと考える。
小さな頃から医者を目指していたエレンは父親に似て頭もそこそこ良かった。
だけど友達は中々できなかった。それは自分の中にある異常性を同級生が感じていたからだろう。大人になった今は冷静にそう思える。考えてみればその頃から付き合いのあるアルミンは彼自身も相当のひねくれ者で、やはり同じように煙たがられていたのだから類は友を呼ぶというヤツだ。
この歳になって多少仮面を被ることも覚えたが空軍には血の気の多い者が多く、少しの攻撃性はそう異質がられることもなかった。医師になっていたら自分はどうなっていたのか、考えるだけで恐ろしい。これが天職だったのだと心底思う。
そんな空軍で思いがけず再会したのは四年前に出会った小柄な男だった。
自分よりも十歳年上の男は改めて接すると非常に嫌味たらしく、清々しいくらい態度の悪い上司だった。嫌がらせのように自分に実働資格を与えず、少し口答えをしたくらいで殴る蹴るの暴力を加えるような鬼上官だ。上官に口答えする方がおかしいと言われればそこまでだが、配属当初は毎日『俺の親がモンスターペアレントじゃなくて良かったな』と心の中で毒づいていたものだ。
そんな悪魔のような上官に対する気持ちが変わったのは配属から二か月経った頃に起こった例のアンノウン襲撃事件だ。
空軍機が三機も撃墜された大事件から生還したエレンはイバラキにある病院の一室で目を覚ました。寝起きの頭は案外すぐ作動し始め、目の前でついさっきまで話していた女性が被弾する光景まで鮮明に思い出し、自分が息をしているのが苦手な上官のおかげだということも理解した。
あんなことがあったらもう、リヴァイに対する自分の気持ちがわからない。
時々本気で刺してやろうかと思うほど憎い瞬間もある。だけどそれよりずっと大きな、隠せない何かがある。
人類最強と謳われる彼に一パイロットとして憧れているのか、厳しくも時たま優しい上官に部下として敬意を抱いているのか、命の恩人に救われた者として感謝しているのか、どれもあっているようで違うような気がした。間違いではないが正解でもない。
リヴァイに対する数ある気持ちの中で一番大きなピースが真っ白だ。エレンは今までの経験からこの気持ちに付ける名前を探してみるがどうにも思い当たらないのだ。父とも母とも違う、友人でもない。もっと遠くて、でももっと近付けそうな何かだった。
それがわからないことがもどかしくて、だけど知るのが怖い気持ちもある。
名前を呼ばれればすぐに駆けて行くし、上官であるリヴァイの命令は何としてでも守る。国防軍人として当たり前だ。だけど最近はからかわれることが多くなり、意味もなく悪態をついてしまうことも多くなった。
四機編隊の訓練時だって他の仲間も聞いている無線だと思ったら妙に照れ臭くて喧嘩腰になってしまった。リヴァイもリヴァイで軽くあしらうか本気で窘めてくれればいいものを、エレンと同じ土俵まで下りてきて言い争う始末だ。おかげで要撃管制官と偶然DCを見にきていたピクシスに大目玉を食らった。
人間関係で頭を悩ませるなんていつ振りだろうか。
性格上他人との衝突は多いがそれは悩みと呼ぶにはあまりに些細なことであり、ここまでエレンの頭を痛ませることのできる人間は他にいない。リヴァイだけだ。
…一体あの人は何なんだ。
部屋でベッドに寝そべり、そんなことをグダグダと考えていたエレンの携帯が震えた。どうせメルマガだろうと思ったが、きっかけがなければこのまま朝まで起きないかもしれないと気合いを入れて立ち上がる。机の上に放置された携帯には知らないアドレスからのメールが来たことが通知されていた。怪しみながら開けてみる。
『うぇーい(^O^)/
おまたせ!コマツ基地所属第6航空団第170飛行隊隊長のハンジ・ゾエでーす
エルヴィンからアドレス聞きましたぁ
あ、今どうしてリヴァイ兵長じゃないんだろう?って思ったでしょ!?鋭い!!
そう、何を隠そうそのリヴァイについて話があって君にメールしたんだよ!
ちょっと昔話に付き合って欲しいんだ。
三等空佐としてじゃなくて、リヴァイの友人としての頼みだから無理にとは言わないよ。でもこれは私と君の、そしてリヴァイのためにもなると思う。
こんなこと言うと身構えちゃうかもしれないけど、もしもその気になったら時間作れる時にこの電話番号に連絡下さい。
080-****-****
マッテマス<●><●>』
メールを開いたまま二分くらいは固まっていただろうか。エレンはようやく意識の旅から帰ってきた。
差出人はまさかのハンジだった。あんな噂を悪びれもなく流した人間なのだから今さらメールをよこすくらいでは驚かないが、ハンジ・ゾエという存在自体を忘れていたのでまさに青天の霹靂だった。こんな表現をするくらいにはエレンもハンジという存在の危険度を理解していた。
しかしどうにも無視しづらい内容のメールが来たものだ。
顔文字で砕けて始まったメールは仮にも上の階級の者からだという緊張感を程よく解したし、それでも大事な所は句読点のみでシリアスなテンションを守っているところは冗談ではないということを物語っている。自分のためでもありエレンのためでもありリヴァイのためでもある、という言い方もズルい。そして極めつけは最後の顔文字だ。待ってる感が半端ではない。無視したら生霊が枕元に立ちそうな勢いだ。
時計を確認すると午後の十時半だった。今から電話してもあと一時間は話せるだろうか。夜分に迷惑かとも思ったが、視界の端にチラつく顔文字が強烈で早くこの苦痛から解放されたいと意を決した。
『誰~?』
「ハンジさんの携帯でしょうか?夜分にすみません。エレンです」
『おおエレン!さっきメール送ったばっかりなのに早いな君は!』
「ちょうど時間があったので。そちらはお時間大丈夫ですか」
『うん、ちょうど一休みしようとしてたところだから平気だよ。じゃあ早速だけど、本題に入らせて貰おうかな』
明るくおどけていたハンジの声が一瞬で落ち着きを見せた。エレンはベッドに寝そべり携帯に充電器を繋ぐ。
『エレンさ、リヴァイのこと好き?』
質問はここ一月で耳にタコができるほど訊かれたものだった。相手は845の先輩だったり違う隊の同期だったり整備士の女子だったり食堂のおじさんだったり、どこへ行ってもそんなことを訊かれるので答えることに慣れてしまった。
「尊敬できる上官です。そういう意味では好きととって貰って構いません」
『困るなぁ逃げないでよ。誰かさんそっくり』
別に嘘を言ったわけではないので責められる謂れはない。ハンジの声はエレンの警戒を解くように再び砕けたものになったが、エレンは絆されないようにとさらに気を張る。ハンジはたぶん頭が良い。自分自身ですらわからないリヴァイへの気持ちを変に誘導されるのが怖かった。
『本当は答えを聞きたかったんだけど、どうやら君自身もまだ見つけてないらしい。まぁいいや。じゃあリヴァイの話をしようか』
心臓が跳ねた。ハンジのメールには昔話と書いてあったので、エレンの知らない頃のリヴァイの話が聞けるかもしれない。自然と顔がニヤけそうになるが本人は全く気付かず、落ち着くために天井のシミを数えていた。
『もう十年前になるかな』話はそう切り出された。
当時私とリヴァイはハネダの845に配属されて三年目だった。二十四歳だったかな…今の君と同じくらいだった。
もう後輩も入ってきていたし戦闘機の操縦にも慣れてきていた。って言ってもリヴァイは最初から慣れているみたいだったけどね。まぁそれはいい。とにかく全くの新人ぶれる程若くはなかったんだよ。
ちょうどその前の年に私たちの一つ下の女の子が隊に来てね。すごく可愛い子だったんだけどさ、何かこう思い立ったら突っ走るみたいな感じで、よく当時の隊長から注意食らってたよ、うん。
リヴァイはあんな顔であんな性格だから特に年下の女の子なんかには怖がられることが多かったんだけど、その子はやけに懐いてた。あんな反応薄い奴に何話したってつまらないだろうに、一人でずーっと喋ってるの。バカみたいでしょ。当のリヴァイは気付いてなかったけどさ、周りから見たらどう考えたって彼のことを好きだった。微笑ましいくらいにね。
で、リヴァイもあんまり他人に構う方じゃなかったんだけどその子は前のめりすぎて目が離せないというか…下手したら自分が死ぬからね。実際に訓練中に接触しそうになって二人して死にかけたこともあったし。だからたまーにご飯行ったり相談乗ったりはしてあげてたのよ。珍しくね。
それである日のこと。
その子はついにリヴァイに告白してね、フラれた。
次の日だったかな。タイミング悪く二人で編隊を組んで
短距離ミサイルの訓練に上がった時、国籍マークのないアンノウンに襲撃されて彼女は死んだ。
航空学生からの付き合いだったけど、私はあの時はじめてリヴァイが本気でキレるのを見たよ。
「キレたって何したんですか」
『アンノウンを墜とそうとした。もちろん機関砲の一発も発射してないけどね』
スピーカーの向こうから聞こえてきた言葉に目を見開いた。一瞬のうちに色々思うことはある。だけど一番優先された疑問はこれだった。
「武器も使わないでどうやって…?」
『君はもう知ってるでしょう。二か月前に武器を使わないでアンノウンを退けたらしいじゃないか』
「あれはリヴァイ兵長が…」
口に出してようやく気付いた。
そうだ。他の誰かでは思い付かなかった指示で自分の命を救ってくれたリヴァイ。自分の命を救ってくれたあの単純であり得ない機動。ぼんやりとしか記憶にないがおそらく人体の限界に迫っていたマイナスG。プラスのような圧迫感ではなく圧倒的な不快感が蘇る。特別な技術がいるわけではなかったが、命懸けの逆宙だった。
リヴァイはあの無謀な動きにアンノウンが着いてくると知っていた。どうしてか。
――過去にもそういうことがあったから?
黙り込んだエレンにハンジは続ける。
『君は今何に驚いているのかな。リヴァイを好きな人がいたってこと?その人が死んだこと?リヴァイが本気で怒ったってこと?十年前にも国籍マークのないアンノウンが現れていたこと?リヴァイに実戦経験があったこと?』
矢継ぎ早に問われて責められているように感じた。
「わかりません…俺は…」
言い訳のように小さくなっていく声に携帯の向こうからは軽く笑う声が聞こえた。自分より十歳は歳を食ってるだけはあって余裕を感じる。
『この戦いはリヴァイにとっては復讐と言ってもいい。アンノウンに撃墜された彼女ね、遺体は爪の一かけらですら揚収できなかった。辛うじて見つかったのは機体の一部と飛行服の切れ端だけ。あの子は今も冷たい海のどこかに沈んでるんだ』
体が芯から冷えていくのがわかった。
目の前で仲間を殺されて、遺体すら掬い上げてやれない。まるで自分のことのように辛い。
二か月前の事件で自分が最期を見た一人の女性パイロットを思い出す。彼女から受け取った伝言は直接家族に伝えることができた。所属していた第196飛行隊の仲間にも、彼女が理不尽な制約にも最後まで諦めず戦おうとしていたことを伝えた。エレンが関われたのはそこまでだったが、婚約者と顔見知りだというリヴァイが彼にも伝えてくれたらしい。
そうやって残された人たちと会っていると自分が生きていることが申し訳なくなってくる。どうしておまえではなく彼女が死んだのだと責められている気になってしまうのだ。
もちろんそんな言葉を言う人はいなかったし、彼女の両親からは『あなただけでも助かってくれて、私たちも娘も救われています』とまで言って貰えた。
それでも生きている人間は死んだ人に対して負い目を感じてしまう。たとえその人の死に自分の責任がなかったとしてもだ。
エレンはテディと名乗ったあの勇敢な女性を一生忘れることができないだろう。
そしてたぶんリヴァイも自分を好きだと言って死んだその人をずっと忘れない。
だから何だと自分自身に問いかけてみる。目の前で亡くした仲間を忘れる方がおかしいだろう。心に刻むことは当たり前で、むしろ彼女たちを簡単に忘れてしまえるような薄情な自分たちの方がずっと嫌だ。
だけどわかっているのに、どうしてかこの事実に傷付いている自分がいる。胸が苦しい。心が痛い。辛い。涙が出そうだ。
急にリヴァイに会いたくなった。会ってくだらない喧嘩をしたい。あの殺風景な部屋で夜を明かしたい。怒ってもいいから殴ってもいいから自分のことを見て欲しい。もういないその人じゃなくて今生きている自分のことを。そうしないと何だかリヴァイまでそっちに行ってしまいそうな気がするのだ。
『エレン、泣いてるの?』
すみません、そう謝ろうとしたが嗚咽が邪魔をする。泣きたくないのに涙が出た。それが情けなくてまた泣ける。息を吸うタイミングも自分で選べずにだんだんと呼吸が苦しくなってきた。
「あ…ハッ…ハー、ハー」
エレンが息を吸いたい一心で何とか声を出そうとしても、ハァハァと空気が漏れていくだけだった。
ダメだ。どれだけ吸っても苦しい。
『エレン?ねぇ…ちょっと大丈夫?』
息ができない。
『私の声聞こえてる?苦しいの?ねえ、』
苦しい。
『エレン!』
怖い。助けて。
『……!ごめん、電話切るよ!』
助けてリヴァイ兵長。
*
どれくらい経った頃だろうか。うつ伏せになりシーツを握りしめて必死に二酸化炭素を求めるエレンの部屋のドアが乱暴に開いた。バンと大きな音が鳴り尉官以上の使う幹部宿舎に響き渡ったが、息を吸う以外を考える余裕のないエレンの耳には聞こえなかった。ドアを開けた人物が風を切ってベッドに近付いてきても、肩を掴まれ引き起こされるまでわからなかった。
「何やってんだバカ」
されるがままのエレンを自分に引き寄せたその人は同時にそう言った。その声が息もできない海の底に沈んで苦しむエレンの意識を掠める。
「ハァ、ハァ、ハァ、あっ…ハァ、ハァー」
「大丈夫だから落ち着け」
「ハァーッ、ハァーッ、ハァー」
自分を支える誰かが声を掛けてくれているのは感じた。だけど今は何より呼吸だった。二酸化炭素が欲しくて堪らない。苦しさから零れ出る生理的な涙が頬をぐっしょりと濡らしているが、それを気持ち悪いと思う余裕もなかった。このまま窒息して死ぬのではないかと恐怖する。
嫌だ怖い。
無意識に目の前にいる誰かにしがみついた。
「おいバカ、離せ」
火事場の馬鹿力というやつだろうか。エレンは普段からは信じられないくらいの力でその人のジャケットごと肩を握り締めた。
しがみつかれた人物は机の上に見つけた売店のビニール袋を取りにエレンの元を離れようとした時に急に掴まれたので動けなくなってしまった。
一時は医師を目指していたエレンには当然知識はあったのだが、経験するのははじめてだった。対処法さえわかっていれば自分で何とかできるものだと思っていたのだが、苦しくて動くことすらできなかった。
「ハァーハァーハァーっ…あっ…ハァハァ、ハー…」
「エレンてめえ、離せよ」
ハイパーベンチレーションと呼ばれるその症状の対処法の一つとしてペーパーバック法というものがある。紙袋などを外気を遮断しないように口と鼻に当て、患者に自身が吐いた空気をもう一度吸わせ血中の二酸化炭素濃度を上げる方法だ。これを繰り返ししばらくすると呼吸が正常に戻ることから、二酸化炭素濃度の高い空気を必要としていることがわかる。要するに人間の吐いた息なら他人のそれでもいいわけだ。
「チッ」
わざとらしく大きく吐かれたため息は苦しげな呼吸音にかき消されて本人にすら届かなかった。
紺色の制服に身を包んだ男は苦しむ部下の青白い顔を両手で乱暴に掴んで固定した。深く息を吸ってそれをエレンの口の中へ送り込む。
「ん、んう……ハァ……」
数秒かけたあとにその倍の時間でゆっくり吐かせる。エレンが息を吐き終えたところでまた自分の吐く息を吸わせる。部屋に響くのは酸素を移す瞬間に漏れる青年の喘ぎ声と、そのあとに吐かれる息の音だけだった。それをしばらく繰り返していくうちに荒い呼吸も落ち着きを取り戻してくる。
「ん…ハァ……ハァ…」
男がもう一度息を吹き込もうとすると、それは少し冷えた手で止められた。
「あの…もう大丈夫です…」
自分の口に当てられた手のひらから逃げるように腰を引くと、真っ直ぐに自分を見据える、いつもは気の強い瞳があった。目が合うと申し訳ないと思ったのか逸らされてしまう。きっと過呼吸に陥ってパニックになった自分を見られたことが恥ずかしいのだろうと思った。涙の跡が残る頬は赤く染まっていた。
「落ち着いたか」
「はい。あの、これ…」
立ち上がったエレンは机の上のティッシュを取って顔を背けたまま自分を掬い上げた人物に渡す。男は意味がわからないのか目で何だと訴える。
「唇…切れてます」
そう言うとは目をギョッと見開いてから黙ってティッシュを受け取った。唇の中心付近に赤が滲んでいる。
その怪我を自分がさせたのだと思い知ると、エレンは堪らなく恥ずかしくなった。この場から逃げ出したい気持ちを誤魔化そうと口を開く。
「リヴァイ兵長…どうしてここに来たんですか?」
「クソメガネから急いでおまえの所へ行けって電話が来たんだよ」
「ハンジさんが…」
そういえばいつの間にか電話は切れていた。自分から切った覚えはないがハンジの方から切っていたのだろか。
「で、何だって過呼吸なんかになった。それにどうしてハンジがおまえの異変に気付けた」
「それは…」
ハンジがエレンの異変に気付けたのは過呼吸になった時にちょうど電話をしていたからで、過呼吸になったのはその電話で聞いたリヴァイの過去の話が原因だ、とは言いたくないし言えない。
言葉が詰まって出てこない。過呼吸に対しては体調が悪かったなどいくらでも言い訳が利くが、ハンジがエレンの変化に気付く理由なんてそうあるもんじゃない。電話をしていたと知られれば、次はどうして電話なんかしていたのか、何を話していたのか、と訊かれるに決まってる。リヴァイのいない所でリヴァイを探るような真似をしていたことを本人には知られたくなかった。
「言いたくありません」
そう言うしかなかった。助けてくれた人に対して自分は背中を向けるようなことをしていると自覚して申し訳なさでいっぱいになる。リヴァイは怒るだろうか。もう自分のことなんて見てくれないだろうか。
また泣きそうになって唇を噛んだ。自分はいつからこんな泣き虫になったのか。それが情けなくて嫌で余計に涙腺が緩む。ベッドに腰掛けさせたエレンを黙って見下ろしていたリヴァイはその様子にいつもよりさらに眉根を寄せている。
「わかった、だがこれだけは答えろ。ハンジに何かされたわけじゃねえんだな」
「はい。具合が悪くなったのは自己管理が甘かったせいで、ハンジさんのせいではありません」
「じゃあついでにもう一つだ。今日は一人で大丈夫なのか」
予想外の問いにエレンは間抜けな声を上げてしまった。子どもじゃないんだし、いくら何でも二十四になろうとしている男が一人で寝られないわけがないと言い返した。ところがリヴァイが言いたかったのはそういう意味ではなかったらしい。
「アホか。俺が帰ったあとにまた具合が悪くなって窒息死でもされたらこっちが気分悪いんだよ」
ああ、そっちだったのかと肩から力が抜けた。バカにされて子ども扱いを受けたわけではないらしい。一人では眠れるが過呼吸にならないで済むかどうかは正直わからなかった。今この瞬間もハンジとの会話を思い出し、リヴァイの持つ消せない過去に胸が苦しくなる。切なくなる。そして焦る。
目の前を見上げるとリヴァイがいつも通りこの世のすべてに興味のないような顔で立っている。さっきまでは何ともなかった光景が奇跡に思えた。文字通り死ぬほど、過呼吸になるほど会いたかった人だ。
まるで少女漫画のヒーローのように、この人は自分が危ない時はいつも助けてくれる。ヒロインになりたいわけでは決してないが、その気分の良さをもう知ってしまった。ボーッとする頭で理性は満足に働かず、なりふり構わず両手を伸ばせそうな気がした。
――行かないで。
風邪を引いた子どもが母の姿を探すようにとにかくそばにいて欲しかった。
「今から俺がわがままを言ったら怒りますか」
「わがままの内容にもよるが」
「今日だけでいいんです。一緒に眠ってくれませんか」
予想外のわがままだったらしくリヴァイは白目を大きくした。鳩が豆鉄砲を食ったような顔に、引いてしまっただろうかと不安になる。大の男が添い寝を頼むなんて笑われても引かれてもおかしくはない。
「断る」
その冷たい声は両手を握りしめて返事を待つエレンの部屋に静かに響いた。しかしエレンがああダメだったかと落ち込む暇も与えず次の言葉が続いてきた。
「だが、どうしてもと言うなら考えてやらんこともねえ」
「どういうことですか」
「俺は寝相が悪いんだ」
「はぁ…」
エレンは考えてみる。自分の想像では大人の男が寝たらそれでいっぱいになってしまう狭いベッドで並んで眠るはずだった。それは冷静な脳みそで考えると軍の周波数で痴話喧嘩とからかわれる言い争いを披露するよりずっと恥ずかしいことだったが、リヴァイが自分の隣にいるということを、そしてその瞬間は確かに生きているということを実感できるのだった。
だけど寝てる間に自分が…下手したら死ぬかもしれないとは穏やかではない。
眠る自分をリヴァイがサンドバックのように扱う。たくましい腕で殴られるのか、あるいは鍛え上げられた脚で蹴られるのか、もしかしたらダイヤモンド級に硬いと噂の頭で頭突きをかまされるのかもしれない。それで死ぬわけがないなんて楽観視はできない。相手はあのリヴァイなのだと想像して鳥肌が立った。
「それは恐ろしいですね」
「好きにしろ。俺にはどっちも同じだ」
迷った挙句、エレンはベッドに横になり端へ詰めて半分を空けた。何かおかしいと痛む頭でも少しは理解できていたが、この時の彼には一人で苦しむくらいだったら二人で恥ずかしい方がまだマシだった。
「今日だけ兵長専用サンドバックになってあげます」
「いつもそうだろうが」
言われてそういえば殴られるなんてよくある話だと思い出した。まあ起きている間はそれなりに手加減してくれているんだろうが。
「じゃあ抱き枕でお願いします」
半分夢の中にいた自分がどれだけ恥ずかしいセリフを吐いたのか、後のエレンが知ったら顔から火を吹くだろう。
リヴァイの部屋のセミダブルとは違い隊舎の一人用ベッドは狭いし固かった。大の男が二人で横になるにはきつかったが、二人は仰向けではなく横向きに寝ている。エレンは肩にリヴァイの胸が、頭のすぐ上に顔があるのを感じて中々寝付けなかった。
それはもうびっくりするくらいの抱き枕扱いだった。エレン・イェーガーは巨大なバナナのクッションではなく二十四歳の筋肉質な男だということを冷静に思い出してみてもいいのではないかとツッコミたくなる。
最初は軽く胸に手を回されるくらいだったのが、いつの間にか脚まで絡められていた。もう寝ているのか規則正しい呼吸が頭皮を優しく掠めてこそばゆい。身体中あちこちにリヴァイの体温を感じる。自分より少し低いそれは火照った身体には気持ち良くてますます恥ずかしくなった。
「おかしいだろこれ…」
ニコリとも笑わない恐ろしい上官が何故か自分を抱いて寝ている。隊のみんなが見たら大爆笑か顔面蒼白の二つに一つだろう。
だけどたとえ自身のわがままによるものだったとしても、今のエレンはリヴァイが自分の横で息をしているという事実に安心していた。助けられたのは自分なのに、自分を抱くリヴァイが母親に縋りつく子どものようで何だか堪らない気持ちになる。
その夜、二度目のハイパーベンチレーションに襲われることはなかった。
*
『スカイリー・エレメント、アンド・ブルーフル・エレメント!ノック・イット・オフ!訓練中止、訓練中止!』
やけに焦った管制官の声が聞こえたのは、俗にSR-AAM(Short Range-Air to Air Missile)と呼ばれる短距離空対空ミサイルの訓練のために東海の訓練空域に入ってから三分も経たないうちだった。
最近になって国防空軍で取り入れられた短距離ミサイル『15式空対空誘導弾』の使用訓練は、三週間以内にすべてのパイロットに済まさせろとの命令だった。この15式空対空誘導弾『AAM-2』…通称サイドワインダーは国防軍ではじめて発射後に目標をロックオンする『LOAL(Lock-On After Launch)式』を採用した短距離ミサイルだ。全パイロットの訓練が終了次第スクランブル装備となることが決定しているらしく、現場のパイロットたちには時期尚早ではとの混乱もある。
ハネダ基地の訓練は大きく分けて午前と午後の2ラウンドで、一番早い組は午前九時にテイクオフとなっている。訓練枠は決まってしまっている上に三週間との期限付きなので、普段は1対1で行う訓練だが今回は二機編隊を組んでの2対2となった。
ブルーフル編隊は三等空尉を編隊長として二等空尉が僚機に着いている。対するスカイリー編隊は三等空佐を編隊長として二等空尉が僚機だった。先に離陸したのはスカイリー編隊で、予定通り三分後にブルーフル編隊も離陸する。訓練空域に到着したスカイリー編隊は空域の一番奥に控えブルーフル編隊の準備が整うのを待った。
『スカイリー・リーダー、ブルーフル・リーダー!当該空域に到着した。こちらはいつでも大丈夫だ』
『ブルーフル・リーダー。ではマルキューフタマルより移動開始。すれ違った瞬間にファイツ・オンだ』
『ラジャー!』
『リヴァイ~間違えて発射したりしないでよ~。ちゃんとマスターアーム・スイッチはセーフにしてる?』
「当たり前だろうが」
ブルーフル・ゼロツーのコックピットでは二等空尉がため息を吐いた。ただでさえ面倒な2対2なのに相手が軍の周波数でくだらない話を仕掛けてくる同期ともなれば無理もなかった。
おまけに今日は階級が一つ下の後輩が編隊長を務める。彼女はまだ二機編隊長資格を有していないが、845隊の隊長でありこの訓練においてスカイリー編隊のリーダーも務める三等空佐の命令だった。多少熱くなりすぎる所は否めないがもともと技術はあったので、今日の訓練が無事に終われば近いうちに編隊長資格も取れるだろうと思われた。
ブルーフル・ゼロツーのパイロット、リヴァイはヘッド・アップ・ディスプレイの右下にある計器類の中の時計を見た。あと一分。リーダーに倣って緩い旋回をしている。残り三十秒にもなればそろそろスピードと位置を調節し始めてもいい頃だ。
斜め前のリーダー機は旋回から離脱し空域から抜け出すように水平飛行をし始める。機体を右に傾けたところでシャンデルを行うつもりだとわかった。水平飛行から45度バンクを取り斜めに上方宙返りを行って速度を高度に変えながら針路を180度変更する機動だ。高度を得る機動を利用しての変針は悪くない。
同じように45度バンクを取った時にオペレーション・ルームからの交信が入った。
『スカイリー・エレメント、アンド・ブルーフル・エレメント!ノック・イット・オフ!訓練中止、訓練中止!』
管制官の声から非常事態が発生したということはわかった。
『スカイリー・ゼロワン。一体何があった?』
『Z空域に民間機が侵入しようとしている。ただちに当該機への警告を実施せよ。場所はブルーフル・エレメントの9時方向10マイル!』
Z空域とはA~Zまである国防軍の訓練空域の中でも東海側にある内の一つで、主に空対空ミサイルと空対空機関砲の射撃訓練に使われている。現在ブルーフル編隊とスカイリー編隊が飛行中の空域である。
『ラジャー。ブルーフル・ゼロワン、これより警告へ向かう。リクエスト・フォー・ベクター』
『ラジャー。レフトターン、ヘディング045、クライム・エンジェル26』
『ヘディング045、クライム・エンジェル26』
『当該機は青空航空1044便。コールサインは"スカイブルー・ワン・ゼロ・フォー・フォー"。トウキョウ・コントロールからの呼びかけには答えていない。
国際緊急周波数にて警告を実施せよ』
『ラジャー!』
やけに元気のいい声にリヴァイは内心穏やかではなかった。
訓練空域内は国防軍の管制空域となるので、民間機は普通全国に二十六あるその空域を避けて航行しなければならないのだ。機体に異常がなくまともな状態のパイロットが操縦する旅客機ならまず国防軍の訓練空域に侵入してくることはない。つまり民間機が侵入してきたということは、少なくとも機体が正常な状態ではないか、パイロットが正常な状態ではないか、あるいはそのどちらもか…最悪の場合、ハイジャックという可能性もないとは言えない。
面倒なことになった。
距離にして10マイル(およそ16キロメートル)はF-55の巡航速度であるマッハ0.9で向かえば約一分でたどり着く。目標の右斜め後方から食らいつくように接近しているおかげで実際にはもう少し掛かるだろうか。
この瞬間はまだ自分がエレメント・リーダーではなくて良かったと考えていた。
しかし、結果としてリヴァイは自分が編隊長を務めていなかったことを後悔することになる。もしもそうしていたら未来は変わっていたのかもしれないと。
『目標発見!――え?』
ブルーフル・ゼロワンから1044便を捉えたとの報告と、少し遅れて驚きの声が上がった。その時ハネダ基地の滑走路が見渡せる位置に構えられた待機所下のオペレーション・ルームではまだ状況を飲み込めていなかったが、それも無理はない。
前面のモニターには当該セクターが大きく映し出されているが、それは上空から見下ろす視点のものであり、飛行物体を二次元で捉えることしかできない。例えば巨大な旅客機を隠れ蓑に戦闘機が真下に張り付いて接近してきたとしても、この距離では気付けないのだ。
驚倒しているリーダーの代わりに呼びかけに応答したのは二番機のパイロットだった。
『アンノウンだ!旅客機の下にアンノウンが潜んでいる!一機、機種はSu-69、国籍マークは確認できない』
「何だって!?」
担当の要撃管制官はほとんど悲鳴のような声を上げた。アンノウンの接近や領空侵犯は日常茶飯事だが、こうも簡単にウォール・マリアの内側に入られたことは彼が知る限りなかった。おまけに地上レーダーサイトを欺く驚きの手口だ。民間機を盾に押入ってくるなど、これはもはやテロと判断してもいい。
「ブルーフル・ゼロワン!まずは対領空侵犯措置だ。民間機に気を付けてできる限りスホーイに接近し警告を実施せよ」
『ラジャー!』
『待て、おまえは何もするな。俺が行く』
天井のスピーカーから聞こえてきたのはリーダーを制止する二番機のパイロットの声だった。
『何故!今日の編隊長は私です!』
『訓練だからだ。ここからは俺が指揮を執る』
『嫌です!このフライトは私がリーダーだと、ブリーフィングでもそう言ってたじゃないですか!』
『非常事態だ。言うことを聞け』
『編隊長資格は持ってないけどOR資格は持ってます!いつもアラート任務にも就いてるし、できます!』
「おい、言い争いはやめろ!編隊長はブルーフル・ゼロワンだ!ゼロツーは通常のスクランブル時同様のファイティング・ポジションを維持せよ」
『ゼロツーはファイティング・ポジションを維持せよ』その命令が下った時、リヴァイの中の嫌な予感は爆発しそうなまでに膨らんでいた。
止める間もなく一番機はスホーイへ接近していく。
『ウォーニング!スカイブルー・ワン・ゼロ・フォー・フォー及び真下を航行中のスホーイに告ぐ!こちらは国防空軍!貴機らは国防軍の訓練空域に侵入している。ただちに針路を転換して立ち去れ!』
「おい止せ、離れろ。そいつには何を言っても無駄だ」
民間機にでもスホーイにでもなく目の前を飛ぶ一番機に警告をしながらリヴァイはそのすぐ後ろに着く。
『無駄でも何でもやらなくちゃいけないでしょう!』
「死にてえのかバカ!」
『死にたくないですよ!でもこれが私たちの仕事じゃないですか!』
「てめえの仕事は国を護ることだろうが!そんな無意味な警告で何を護るつもりだ。下らねえルールか」
『……っ!どうして意地悪ばっかり言うんですか』
急に泣きそうな声になったのでリヴァイの方も多少怒りが引いた。自分よりもあとに入ってきたこの後輩が泣くところを見たことはない。昨日だって恐らく自分の言葉に傷付いたはずなのに彼女は泣かなかった。
『おかしいですよ。いつも上の言うことに逆らうなって言うのはそっちじゃないですか!どうして今日に限って言うことを聞くなって言うんですか…!』
頭を殴られたような衝撃が走った。
彼女の言うとおり、リヴァイは常日頃から彼女を含む後輩や仲間に対して『命令は絶対だ』と口にしていた。そんなことは軍隊なら当たり前だが、この国の軍は普通ではなかった。上から下る命令は国防に対して消極的で隊員に対してあまりに理不尽なものが多い。入隊してから六年経つが、この国が他国から攻撃を受けたら国防軍は反撃する前にその戦力の大半を失うと思っている。
それは現場で戦う者が弱いわけでも兵器が乏しいわけでもなく、『戦え』と命令できる者がいないからだ。誰も戦いの責任を取ろうとしないから簡単に『戦うな』という命令が通る。国防軍が護るのは国ではなくて権力者の地位や財産なのだ。
だからこそリヴァイは『絶対に命令に従え』を守りそう唱え続けてきた。『戦うな』という命令に背く者が出ないように。すべてはくだらない国防軍を根から葉の先まで完全に腐らせるためだ。
そう思ってきたのにどうして自分は今、勝手に死のうとしている後輩を助けようとしているのか。
目の前を飛んでいる一番機の斜め前にいるスホーイが旅客機の影から脱した。それを見た一番機も追う。
「おい、やめろ」
『やめません!』
「俺の言うことが聞けねえのか!」
珍しく全力で怒鳴った。
『先輩よりもっと上からの命令があります!酷いですよ…女はみんな好きな男の言うことなら聞くとでも思ってるんですか!』
「今はそんなこと関係ねえだろ」
『私にはあります!』
『ブルーフル・エレメント!いい加減にしろ!』
聞くに堪えない言い争いについにオペレーション・ルームから二回目の仲裁が入る。二人はようやく黙り込んだ。
その時だった。スホーイが突然速度を上げる。
逃がすかと同じように速度を上げる一番機はもう罠に嵌っていた。
『あ…っ!』
すぐ真後ろに迫るように着いてくる一番機に対してスホーイはアフターバーナーを点火した。ドオンという着火音とともに加速する。空気の薄い上空では地上ほどの加速はないにしろ、普通に飛んでいたら追いつけない。Z空域はハネダ沖約80キロの地点にあり、約25キロ地点にある領空線…ウォール・ローゼはすぐそこだ。絶対に領空侵犯を許すわけにはいかない。迷わずにフルスロットルの奥、A/Bに倒した。
『野郎逃がすか!』
「バカ、罠だ!」
迷ったがすぐにリヴァイもスロットルを押し込んでアフターバーナを点火させた。
嫌な予感通り一番機はスホーイに超音速で迫っている。距離を詰めすぎだ。どれだけ近付いたところで訓練用で実弾は装備していないからまともな攻撃はできない。短距離ミサイルは安全ピンを抜いていないし、機関砲も中身は訓練弾だ。それでも20mmの弾が当たればただでは済まないだろうが、自分たちは国防空軍。相手が領空を侵そうとしているだけでは攻撃権は生まれない。
リヴァイがそんなことを考えているうちにその瞬間は来た。
『何!?』
スホーイが一番機の目の前から一瞬にして消えた。つい一秒前には確かに目の前でバーナーを吹かしていたあの不気味なスホーイが視界のどこにもいない。レーダーからも消えた。
『バカな…どこに!』
無線から聞こえる声は焦っていることがよくわかるものだった。一番機より400メートル後方を飛んでいた二番機のヘッド・アップ・ディスプレイからもスホーイはすぐに消えた。
しかしリヴァイにはそれがどこに消えたのかがわかった。Su-69はポストストールマニューバ能力が高い。アンノウンの機種がわかった瞬間にヤツがどういう機動で戦うのかを頭の中でシミュレーションした。今スホーイが取った機動はそのうちの一つに違いない。
「ハンマーヘッド…!」
最悪だ。
たった今自分たちはオーバーシュートしてしまったのだ。バックを取っていたはずの敵機を追い越してしまうという、ファイター・パイロットとして最低の失敗であり最悪の状況だ。
無線で一番機に呼びかけながら機首を上げて速度エネルギーを高度に変える。思った通り自機のすぐ下をスホーイが通過した。すかさずに今度は機首を下げて追いかける。敵機より優位な速度を利用するハイGヨーヨーという機動の応用である。
リヴァイはスロットルレバーを押し込もうとした。脊髄からの命令で両手が動きそうになる。
『排気を絞れ!敵はバーナーを切ってる!』
一番機のパイロットがバックミラーを確認すると米粒みたいな黒が見える。それがスホーイであることは僚機が教えてくれた。
『バーナーを切れ!ロックオンされるぞ!』
アフターバーナーは推力を増強させると同時に大量の熱を生み出す。熱源からの赤外線を検知する赤外線誘導ミサイルに後方から狙われたら絶好の的になってしまうのだ。
そして赤外線ミサイルにロックオンされてもそれを知る技術は現実にまだない。辛うじてわかるのはモーターから出る赤外線を感知してからの『発射された』という事実だけだ。
イヤホン越しに響く男の声は今までに聞いたことがないくらい怒っていた。普段から機嫌は悪そうだがこんな風に怒鳴ることは多くない。まさかこんな日に聞くとは思ってもみなかった。この人は自分を護るために本気で怒ってくれたのだ。
たった一つだけど、今日は本当にいいことがあった。
「あ――――」
震える手でスロットルを引こうとしたが間に合わなかった。
物凄い衝撃を顔面に感じて目が覚めた。痛む鼻に手を当てようとするとその手を何かに押さえられる。仕方なく重い目蓋を開けると、段々明るくなっていく視界の中に自分の左手を両手で掴むエレンの顔があった。
「………なにしてる」
「それはこっちのセリフなんですけど…ここ俺の部屋ですよ」
そんなことは百も承知である。どうやらエレンは自分の部屋で上官が寝ている状況に混乱して、こともあろうにその上官の顔面目がけて拳を振るったらしい。痛む鼻がその事実を物語っている。命を知らぬ度胸には拍手を超えて敬礼したいくらいだ。リヴァイの左手が反撃をしてくると思ったらしく必死に押さえている。
「おまえまさか…」
嫌な予感がした。十年前から冴えまくっている第六感に対する信頼は絶大だ。
「覚えてないのか」
「何をです」
「いや…忘れたならいい。それより早く着替えろ。モーニング・レポートに遅刻したら殴るからな」
「言われなくても遅刻なんてしませんよ!っていうかホントに何で俺の部屋で寝てるんです?家に帰らなかったんですか」
家に帰ろうとした時にハンジから電話が掛かってきて飛んできた…とその他もろもろすべてを明かしてやったら目の前の部下はどんな顔をするだろうか。きっと顔面を真っ青にして謝るだろう。それを見たらこのイラつきも少しは晴れるかもしれないが、する気にはならなかった。
「どこで寝ようが俺の勝手だ」
「他人の部屋で寝るのはいけないと思いますよ」
正しいことを言っているのだが今のエレンに言われると腹が立つ。ここで一発殴っておこうかとも思ったが、また過呼吸にでもなられたら堪らない。
「おい…今日のフライト、少しでも気分が悪くなったら無理はするなよ」
リヴァイは頭の上にクエスチョンマークを十個くらい出しているエレンを置いて部屋を出た。面倒だからと上着だけ脱いでそのまま寝た制服はシャツにシワができている。どうせ今から飛行服に着替えるがそれにしたって気分がいいものじゃない。
だけどこの気分の悪さの一番大きな原因は服にシワができたからでもエレンが昨日のことを覚えてなかったからでもない。嫌な夢で最悪のシーンを思い出したせいだ。
*
「うわ兵長、どうしたんですかその顔」
モーニング・レポートが終わったあとに男子トイレで出くわしたジャンに遠慮なく驚かれた。感覚からして鼻に痣ができているのはわかる。いい歳して喧嘩でもしたと思われたのか元気ですねなどと言われてしまった。
「どこかの女にやられたんですか」
どうして女が出てくるのか疑問だったがスルーした。顔面ストレートをかます暴れ女の知り合いなんて今は一人しかいないがヤツは直接の原因ではない。
「いや…鼻をかみすぎただけだ」
「え?」
ジャンは困ったように言い直す。
「鼻じゃなくて口です。カサブタできてますよ」
びっくりして触ってみると確かに固い何かが皮膚の上にくっついている。そういえば昨日はティッシュで軽く拭いただけでそのあとはすぐに眠ってしまったのだ。
無理に剥がしたらまた血が出るだろうから放って置くことにした。
「ところでジャン、おまえ好きなヤツはいるのか」
「はい?」
信じられないものを見るようなジャンに面白くないと感じた。確かに上官から『好い人はいないのか』とか『結婚は?』と訊かれると放って置いてくれと思うのはわかる。リヴァイ自身若い頃はそうだった。しかし今こうして若い奴を目にすると警告したくなるのだ。
人生はあっという間で、人が老いるのは早い。この十年を音速で駆け抜けたリヴァイがそう言えば説得力があるだろう。
「いや、嫁を取るなら早い方がいいぞ」
自分は好きで独身なのだから俺みたいになるぞとは言わなかったが、ジャンの方は勝手にそういう意味で取ったらしく申し訳なさそうに頭を下げた。
「好きな奴っていうか、まぁ、ちょっと気になるって感じのヤツならいますけど…」
「結構じゃねえか。頑張れよ」
「…あの」
ジャンは俯いたまま目線を不自然に泳がせている。その姿を見れば今から口に出すことが彼にとって言葉にしづらいものだということがわかる。リヴァイは直立不動のまま部下の口からそれが飛び出してくるのを待ってやった。
「アニのことどう思ってますか?」
質問は意外なものだった。
「優秀な部下だ。根暗だが」
「それだけですか」
「他に何を思えと?」
「いえ…アニは兵長のことが気になるみたいだし、兵長も最近アイツに対して優しいっていうか何ていうか…」
気まずそうに目を逸らすジャンを見て思い出す。自分と同じように恋愛なんかに興味はないと思っていたミケが『部下に告白された』と相談してきた時と同じ顔だ。これは困っている顔なのだ。相手が嫌いだからではなく、相手が好きだからこその表情だ。
「おまえアニが好きなのか」
「はぁ?!」
男子トイレの壁は驚きの声をよく反響させた。ジャンの顔は見る見るうちにリンゴみたいに染まっていく。エサを待つ鯉みたいに口をパクパクと閉じては開くその姿は彼が嫌いだと豪語するエレンにそっくりでおかしい。
「ああもういい、言わなくていい」
わざわざ言葉にして貰わなくても嫌というほど伝わった。この反応でアニなんか好きじゃないとうそぶくなら、来年にでも特別天然記念物に指定してやろうと思った。
「アニがどうして俺を見るかわかるか」
「……好きだから…」
「それはないな。おまえ俺と話している時のアイツの顔を見たことはあるか?『このクソ野郎ぶっ殺してやる』って顔に書いてあるぜ」
「そんなのは!アイツってもともと人相悪いじゃないですか…」
「そのうちわかるさ。それよりだジャン、まぁそんなことはないと思うんだが…もしもだ、もしも万が一アニのことを女として見てやってもいいと思えることがあったら、アイツには…そうだな…優しくしてやれ」
ジャンは言われたことの意味は理解できたが、どうしてそんなことを言われたのかがわからなかった。だけど根拠は何一つ明かされなかったがリヴァイの言葉には自信が感じられ、アニがリヴァイを好きだというのは自分の勘違いかと思った。
もともとはエレンを好きかと思っていたのだが、よく考えたらあの二人の話をする時はいつだってリヴァイの方を見ている。エレンには『リヴァイと付き合っているのか』と訊くがリヴァイにはあまり訊かない。アニが気にしているのはリヴァイなのだ。それはもう間違いない。
しかしリヴァイは恋愛感情を否定した。アニは鬼すら仏に感じられるほど厳しい上官に恋心を抱いているわけではないらしい。
じゃあどうして気にするのか。鬼上官が去った男子トイレで一人、自分にはわからないアニの気持ちをリヴァイが理解できていることに嫉妬した。
10
自由の翼による対テロ飛行隊の飛行訓練は二週間に一回程度だが、それも日々の訓練やアラート任務と一緒にこなしていくとそう期間も空いていないように感じた。
「サッチ・ウィーブ?」
三回目のフライトで試すことになった
空中戦闘機動ははじめて耳にするものだった。素直に疑問を口にしたのだが、周りの顔を見るにとても基本的なものらしい。だが言い訳をするなら航空学生の頃にやらせて貰ったことはないし、ここに来てから五か月ほどになるが隊の訓練でも実施したことはない。
「基本的な機動だ。覚えておけ」
リヴァイは紙に目を下ろしたままそっけなく言った。
二日前に何故か自分の部屋で寝ていたリヴァイはそれ以来顔を合わせてもすぐどこかへ消えてしまうし、まるでエレンを避けているようだった。あの日にエレンが作ってしまった痣は消えたが、唇にあったカサブタは何かの拍子に剥がれてしまったらしく新しいものができている。鼻は確かに自分がやった記憶があるが、そっちには覚えがない。だから謝ることもしていないのだが、もしかしたらあれも自分の所為なのだろうか。リヴァイはそれを怒っているのかもしれない。
「今日は三人なんですかね」
あてがわれた物置のような会議室はいつの間にか掃除がされていて埃っぽさは消えていた。しかしせっかく空気が澄んだ部屋になっても集まった面子のおかげでそれは重苦しいものに変わってしまった。
アニはリヴァイと同じように紙に目を落としたまま黙る。
「今回は機動テストだ。三人いれば十分だろ」
リヴァイは信じられないほど顔に紙を近付け、まるでそこに書かれているセリフを読んでいるみたいになっていた。棒読みに近い喋り方が拍車をかけている。
凍てつく空気がそっくりだとは本人たちには言えないが、この二人は本当に似ていると思った。冷めた目やダルそうな声や、違う目線で世界を見ているようなところが他と一線を画している。
「午前中にオルオ・ペトラ・ジャンの三人でローテーションさせやらせてみたが、成功したのはオルオの一回のみだったそうだ」
「そんなに難しい機動なんですか」
中堅のオルオやペトラですら手こずる機動なら新人のエレンにはとんでもない難易度であることは明白だ。
「単純だが見かけより楽な機動じゃねえな。空中衝突の危険もあるから気を付けろよ」
リヴァイは黒いマジックを取るとホワイトボードに説明を書いてくれた。
『8』という数字に似たその動きは必ず二機編隊で行うことが条件らしい。二機のうち一機(罠機)が囮となり敵機にシックスを取らせる。そしてもう一機(攻撃機)の前をS字に飛行する。もう一機(攻撃機)は追われる味方とは逆のS字に飛行し、二機の機動を合わせるとちょうど『8』のような形になる。罠機・敵機と攻撃機はこの8の字の中心で一回交差し、再び交差しようかという瞬間が攻撃の大チャンスだ。斜めから食らいつく形になるので罠機に弾が当たってしまう心配もない。
シンプルだが味方との連携が大事になってくる。見かけほど楽な機動ではないはよくわかった。
「この前のミグみたいに食らいついて機関砲攻撃を仕掛けてくる敵ならこの技で嵌める。基本は四機編隊での行動を想定してるが、実際に戦闘に入ったら敵一機に対し二機で攻める。間違っても相手の数の方が有利な状況を作るな」
「ですがサッチ・ウィーブは代表的な空戦機動の一つですよね。相手だって知っていると思いますが」
「知っているのと避けられるのは違えだろ。もちろん状況に応じて他の機動に変更する場合もあるが…そもそもこの機動は敵にそれと気付かれないように嵌めるもんだ」
リヴァイとアニが話している間エレンはホワイトボードに描かれた機動を見て想像していた。仲間との連携が重要なこの機動では無線での交信は欠かせないはずだ。この前みたいに言い争って邪魔をすることは絶対にあってはならない。
午後一の訓練へは一番機・編隊長リヴァイ、二番機アニ、三番機エレンで出た。
最初はエレンが敵機役を務め、アニが攻撃機、リヴァイが罠機だ。
その次はエレンが罠機、アニが敵機、リヴァイが攻撃機を務める。
最後の回はエレンが攻撃機、アニが罠機、リヴァイが敵機でいく。
『スノーホワイト・ゼロワン、チェック』
『ゼロツー』
「ゼロスリー」
『よし。じゃあまず俺が逃げるからエレンはひたすら着いてこい。それ以外の行動はいらねえ。アニは俺からの合図で機動に入れ。右側から入る時がレフト、左側から入る時がライトだ。以降もターンするタイミングでコールする』
『ラジャー』
「ラジャー!」
右がレフトで左がライトとはややこしいと思ったが、罠機のリヴァイが攻撃機アニの右側から入ってS字機動をとった場合、逆のS字を描くアニは敵機であるエレンを左側に捉えて向かってくる。最終的に目標が自機の左側にくるからレフトなのである。
ブリーフィングの際にエレンはわかりにくいと訴えたのだが、アニとリヴァイに言わせれば逆の方がわかりづらいらしい。片や元ブルーバーズの隊長で、片やブルー初の女性パイロットになるかもしれなかった女だ。悔しいがフライトに関する感覚は似ているのかもしれない。
『じゃあ行くぞ。来いエレン』
「はい!」
加速したリヴァイのF-55を追ってエレンもスロットルレバーを倒す。ひたすら着いてこいと言われたのでその通りに着いて行くだけだ。訓練と言えど目の前のリヴァイは自分の敵機として扱い、機関砲でロックオンできる距離を維持する。いや――それだけじゃない。
ウェポンスイッチで兵装選択をSRM(短距離ミサイル)からGUN(機関砲)に変更する。ヘッド・アップ・ディスプレイに映っていたFOV(Field Of View)サークルが消えて十字のレティクルが現れる。敵機をその中心に持っていくように飛ぶ。
もちろん発射などしないしそもそも訓練装備なので物理的に不可能だが、実戦の緊張感の百分の一でも味わいたい。
『アニ、レディ?』
『レディ』
――来る。
目の前のF-55が大きく左にバンクを取った。
『レフトターン・ナウ』
そのまま旋回には入らず大きく半円を描いたあとに、
『ライトターン・ナウ』
今度は右にバンクを取る。…取ろうとした時だ。バックミラーに黒いハエのようなものが飛ぶのが見えた気がした。見間違いでなければあれがアニだ。今の瞬間がサッチ・ウィーブの特徴である8の字のちょうど真ん中部分の交差だったのだろう。
その機動で来るとわかっていなければこんな風に気付けはしないと思った。リヴァイは知っているのと避けられるのは違うと言ったが、エレンはまさにその通りだと実感することになる。
大きく旋回するリヴァイの尾を追うエレンの死角から再び現れたアニは、エレンが気付かぬ内にヘッド・アップ・ディスプレイの中心に浮かぶレティクルにF-55を捉えていた。その事実はアニの機体を視認することすらできないエレンにもすぐにわかった。
『フォックス・スリー』
「うわ!」
渇いた声が冷静に『機関砲発射』のサインを告げる。驚いて右後方を振り返ってみたがアニはもう通り過ぎたあとで、グレーのシルエットはいつの間にか左側に並んでいた。これが実戦だったら20mmのバルカン砲がエレンの機体を襲っていたはずである。
「うお…すげえ」
『大したもんだ。タイミングは良かったな』
リヴァイの口から褒め言葉が出るとは驚きだった。アニはやはり上手い。二年先輩というだけでこうも違うのだろうかと考えざるを得なかった。
『おいエレン、驚いてる暇があったら集中しろ。次はおまえが罠機で俺が攻撃機だ』
「はい!」
たとえ三人での訓練だろうとリヴァイと組めるのは嬉しい。
この前は本当に飛ぶ以外のことはしていないし口喧嘩ばかりでまったく楽しめなかった。訓練を楽しんでどうするのかと怒られてしまいそうだと感じながら、エレンはそれでもリヴァイと協力できる今の状況に確かな喜びを感じていた。空を飛んでいる間は憧れのパイロットだからという理由で正当化できる。
「リヴァイ兵長、いいですか?」
『ああ』
「じゃあ行きます。アニ!」
『ツー』
アニの素っ気ない返事を聞いてエレンは加速する。バックミラーで確認すると後方にしっかり着いてきているようだった。
「ライトターン・ナウ」
先ほどのリヴァイが左バンクから入ったので今度は逆にしてみる。こうするれば攻撃機であるリヴァイは敵機であるアニの左側から襲う構図になるはずだ。同じように倣って大きく半円を描き、
「レフトターン・ナウ」
左バンクをとりS字を翔る。そろそろリヴァイが来る頃だろうかとバックミラーに注意する。すると恐ろしい光景が目に入った。
『……!』
おそらく二番機のコクピットの中ではアニが息を呑んでいる。送信はされてこないがその緊張感が伝わってきそうだった。
攻撃機のリヴァイがアニの後方にぴったりと張り付いているのだ。F-55の主翼が生み出す後方乱気流にもまったくブレず、見えない糸で先行機に引っ張られているようだ。何より言葉を失ったのは二機の距離だった。機体を傾け首を捻って確認するにも限度があるが、目算でおよそ1、2メートルだ。その距離で自機の後ろに正確に着いてこられるとパイロットに掛かるプレッシャーは相当なものだ。それがたとえ訓練中の仲間の機体だったとしても…考えただけでゾッとする。
『フォックス・スリー』
寝言のように呟かれた機関砲発射のコールに心臓が飛び跳ねてどこかへ行ってしまいそうになった。アニの機体を挟んでいるとはいえ、リヴァイはエレンの真後ろから機関砲を発射しようとしたのだ。
『兵長…真後ろからガンを撃ったら私の前を飛ぶエレンに当たるかもしれませんよ』
『おっと、そうだな忘れていた。実戦では気を付けなきゃな』
「はぁ?!」
ついうっかりしていたと開き直るリヴァイに素っ頓狂な声を上げた。ブルーバーズ、アグレッサー、そして今は要撃飛行隊の隊長を務めるほどの男がそんな初歩的なことを忘れるなんてありえるのだろうか。
「な、何ですかその軽い感じは!俺は今死にかけたんですよ!?」
『マスターアーム・スイッチはSAFEにしてある』
「当たり前ですよ!!ったく、俺が同じことしたらブチギレるくせに…」
とんでもない上官だと文句を言い続けるが、もちろん誰にも聞かれないように最後の部分は送信スイッチを押していない。二人のやりとりを黙って聞いていたアニが最後の回を済ませようと声を掛けてきたので、三機は何とも言えない空気のまま準備に入る。
『エレン、レディ?』
「レディ!」
『リヴァイ兵長、行きます』
ヘッドセットから聞こえてくる声をかき消すように元気よく返事をするとアニがリヴァイを呼んだ。二機が加速して遠ざかるのに食らいつくよう後ろを着いて行く。
『ライトターン・ナウ』
先行する二機のF-55が右バンクで緩いカーブを描く。それを鏡に映したようにエレンは左バンクで膨らんでいく。
――嘘だろ。
そう思うより他はなかった。
さっきまで『ライト』『レフト』という罠機からのコールだけで完璧にタイミングを合わせていたリヴァイとアニが信じられない。当然だが二機のシンボルはレーダーに映ってはいない。これにタイミングを合わせて交差するというのは思っていたよりずっと難しいことだった。早過ぎたら衝突するし遅過ぎたら間に合わない。
エレンがそうやって焦っていることを知らないアニは再び冷静に『レフトターン・ナウ』と必要最低限の言葉だけを放つ。
ああもうしょうがないと思い、スロットルレバーを倒した。ビビって何もしないのは避けたかった。二機の姿をヘッド・アップ・ディスプレイの端に捉え、加速して向かって行く。タイミングは合っているだろうか。迫ってくる二つの影に体から汗が噴き出しているのがわかる。仲間のケツを追いかけている敵機の左斜め後ろから襲いかかろうと操縦桿を握り締めると、黒い米粒はあっと言う間に見慣れたグレーの戦闘機になった。
そして配属五か月目の新人は、敵機役を務める鬼上官の目と鼻の先で配属以来最大のミスをぶちかました。
「え――うわ!」
『…………っ!』
一瞬のことで何が起こったかわからなかった。
いよいよ敵機であるリヴァイに襲いかかろうという時、エレンの三番機は上方からの吹き付けによって突然失速して機首が下がったのだ。反射的に操縦桿を引いて機首を上げようとするが操縦が利かない。
瞬間、物凄い力で座席に体が押し付けられる。同じ方向に掛かり続けているGが遠心力によるものだと気付いた。エレンの操縦する三番機は失速し回転しながら降下している。いわゆる
錐揉みに入っているのだ。
「クソ…!」
スピンからの回復にはまず旋転と逆方向の
方向舵ペダルを踏めばいいのだが、旋転はどっちだ。普段のエレンなら冷静に判断できたかもしれない。少なくとも本人はそう振り返るのだが、それならば今日は運が悪かったとしか言いようがない。焦るあまり視界から入ってくる情報を上手く処理できなかった。
『右だ、右ラダーを踏め!』
地獄に垂らされた蜘蛛の糸のようにヘッドセットから聞こえる声に右ラダーを思いっきり踏み込んだ。遠心力の所為で驚くほど重いが、しかしそれにも負けず普段から鍛えている脚に力を入れる。目の前のネイビーはすごい勢いで近付いてきているのだろうが、それもよくわからずとにかくペダルを折ってやるほどの気概で踏み続けた。不本意な旋転はだんだんと落ち着いてきてついにコントロールを取り戻す。しかし機首はまだ下を向いたままである。焦らず、ゆっくりと操縦桿を引く。
前面の風防いっぱいに映っていた濃紺の海が流れ、正面に水平線が見えてきた。スピンからの回復は成功だ。何分にも感じたが時間にして数十秒といったところだろうか。助かってから思い出したように心臓が激しく脈打つ。錐揉みに陥ったのは航空学生の頃のスピン・リカバリー課目以来だ。
「ハァ、ハァ…」
それにしても、今起こったのは何だったのか。スピンの原因は上方からの吹き付けで片翼がバランスを崩し失速した所為だと想像がつくが、そもそも何故そんな強烈な吹き付けが起きたんだろう。
エレンには自分がどんなタイミングでどこに突っ込んだのかがまだ理解できていなかった。
『機体は安定したか』
「はい、もう問題ありません」
『そうか。少し早いが基地へ帰るぞ』
「え?はい…」
四十分の予定だった訓練はほんの少し時間を残したまま終えられ、三機は帰路に着いた。帰りは前回のフライトの言い争いが嘘のように静かなものだった。
頂上から下っていく太陽にエレンの気持ちも着いていく。戦闘機越しだろうがリヴァイの放つ圧倒的な機嫌の悪さは嫌というほど伝わってきた。自分がどんなことをしてしまったのかはまだわからなかったが、鬼上官の怒髪天を衝いてしまったことだけはわかった。
ガシャーンという大きな音がブリーフィング・ルームに響き渡る。フライト後のデブリーフィングをしていた班は他にもあったが室内は一気に静まり返った。
エレンたち三機は帰投したあと、あてがわれた会議室ではなく隊の訓練時に使ういつものブリーフィング・ルームに戻ってきた。戦闘機から降りたリヴァイが黙って二人をここへ連れてきたのだ。その間に余計な会話は一つもなかった。
部屋へ着いて空いているテーブルを探して座る。言われるまでもなくアニとエレンはリヴァイの正面に着いた。
アニが涼しい顔をしていられるのはリヴァイが怒っている原因が自分にないからであり、エレンが顔を上げられない理由はリヴァイをここまで怒らせたのは自分に原因があるとわかっているからだった。
すう、と一呼吸置いてからエレンと名前を呼ばれた。肩が素早く上がり、顔こそ向けられなかったが自分が呼ばれたことに気付いたというサインを送った。
「おまえ、自分が何したかわかってんのか」
「いえ…スピンに陥ったとしか…」
こんなことを言うと新しい導火線に火を点けてしまいそうだったが嘘を吐くことなんてできやしない。そう思った次の瞬間、エレンの体は別の班がデブリーフィングをしていた二つ先のテーブルまで吹っ飛んだ。
ガシャーンという大きな音がブリーフィング・ルームに響き渡る。
一瞬で静まり返った室内にいた隊員たちは拳を握りしめたまま仁王立ちする二等空佐と、彼に殴り飛ばされ四メートルほど吹っ飛んだ三等空尉を交互に見つめた。
「いって…」
長方形のテーブルの上に横たわるエレンは鉄の拳が飛んできた顎を押さえて起き上がる。彼が吹っ飛んできた時に他の隊員が巻き込まれなかったのはリヴァイが調節したからだろう。そのテーブルで話していたパイロットたちは戦いて席を立ち、しかし心配そうにエレンを覗き込む。
凍らせたバナナの方が幾分柔らかいのではないかという凍てついた空気の中、リヴァイは遠慮なく風を切り力いっぱい殴った部下の元へ向かう。その足音が自分の前で止まると俯いて顎を押さえていたエレンは呼吸が止まったように固まった。
「いいかエレン」
頭上から静かに呼びかけるその声に、まるで躾けられた犬のように上を向いてしまう。エレンをこんな風に変えてやったのは確かにリヴァイその人だった。
「今のはてめえの下手くそな操縦で死にかけた俺の分だ」
耳を疑いたくなる言葉は果たして空耳なのか。エレンは黙って続きを待つが、鬼の方がまだ可愛げのある上官は口よりも先に手を動かし彼の胸倉を掴んで持ち上げた。
エレンの方が十センチ長く身丈があるはずなのに足が床に着かない。両手で持っていた服から右手を離したリヴァイはそれを固く握りしめて同時に左手を離し、目の前に落ちてきた部下の幼い顔目がけてさっきよりもずっと重い二発目の顔面ストレートをお見舞いした。
エレンの体はフリスビーのように再び宙を舞い、またもやテーブルを飛び越え今度は四つ先に並んでいた椅子へと激突した。
「これがクソみてえな操縦で勝手に死にかけた部下の分だ」
何だそれ。そんなのありですか。
エレンは馬鹿力で同じところを二回も殴られたのだからさすがに怒ってもいいかと思ったが、こんな言葉を言われたらそんなことできるはずがない。
エレンの下手くそな操縦とやらでリヴァイが死にかけたというなら彼が怒るのは当然だが、殴られた強さでこの上司が本当に怒っているのは彼自身が死にかけたことではなく、エレンが自分の命を投げ捨てるような機動を取ったことだとわかった。
「すみません」
素直にそう謝るしかなかった。自分のミスで自分が死のうが自分の勝手だなんて言えるほど未熟ではない。
何より愛想もなく口喧嘩も絶えないこの上官が自分の身を案じて本気で怒ってくれたのだと思うと嬉しくて、同時に目の前で仲間が死ぬ光景を見せてしまいそうになったことが本当に申し訳なかった。それがどれだけ辛いことかはエレン自身、身を以て知っている。
「謝るのは早えぞ。まずは自分が何をしたのかを知れ」
リヴァイに促されて元いた席へと着き、リヴァイとそして自分自身の命を危険に晒した機動について説明を受けることになった。
結論だけ簡潔に言えば、エレンはアニ・リヴァイの針路とほぼ垂直に交わり、二機の間を通過してしまったらしい。それだけ訊けばさすがに自分が何をしてしまったのかわかる。
さほど距離をあけず亜音速で飛行する二機の間をすり抜けるなど、狙ってできるものではない。今回はエレンのミスによって引き起こされた事故だった。
敵機に迫ろうかという時に突然感じた上からの吹き下ろしは、何と自分が攻撃しようとしたリヴァイの機体のジェット後流だった。それをもろに浴びた片翼がバランスを崩したエレンの機体は失速をして降下、スピンに陥ったということだ。
では何故ジェット後流を食らうような事態になったのか。
それはリヴァイが直前にアフターバーナーを点火し機首を上げて高度を確保したからだ。どうしてそのようなことを行ったかと言えば、攻撃機役のエレンをヘッド・アップ・ディスプレイの端に捉え、そのままだと九時の方向からぶつけられると思ったからである。自機の後方から来ればいいものを、あろうことかエレンは先回りしている状況になっていた。
もちろんジェット後流を食らわせてしまう可能性も頭にはあったが、音速機はコンマ一秒の遅れが命取りになる。機首を下げ高度を低くとったとして、自機の垂直尾翼がエレンの機体と接触せずに間に合うとは言い切れなかった。
一秒以下でここまでを考え、リヴァイはスロットルをミリタリーの奥、A/Bと押し込んだのだ。
その判断がなく、例えばミリタリー推力(A/Bを使用しないで発揮できる最大推力)のまま機首を上げていたら、高度をとるのが間に合わずエレンの機体の垂直尾翼が自機を抉っていたかもしれないし、逆にスロットルをアイドルまで絞り、エアブレーキも作動させ急な減速をしても、それこそエレンの作った後方乱気流に突っ込む形になっていたかもしれない。自機の方が速度で優位なら回避も可能なので、エレンよりスピードを落とすことも考えられなかったのだ。
「本当にすみませんでした」
エレンは下げた頭を上げられなかった。リヴァイに命を救われるのは二度目だ。
「レーダーだけ見てるのも景色だけ見てるのもダメだ。両方確認しろ。タイミングは…まぁそのうちわかるだろう」
何も言っていないのにレーダーに夢中になっていたことがバレている。やはりこの人には敵わないと落ち込んでしまう。エレンが本当に犬だったらその尻尾と耳は力なく垂れていただろう。それくらいわかりやすく落ち込んでいた。
「じゃあ解散だが…エレン、おまえは今日の夜付き合え」
リヴァイが目の前に二人で座っている部下のうちエレンを見据えた。その横でアニは黙って状況を見守っている。エレンが殴り飛ばされてから一言も発していない。
エレンからすればここ二日ばかり避けられているという事実は抜きにしてもリヴァイに誘われるのは久しぶりで変な感じがした。わかりましたと返事こそ素直だったが、内心また殴られるのではないかと身構えてしまっていた。
その日の夜、エレンは自分でも信じられない場に呼ばれることになる。
11
「エレン、久しぶりぃ~」
「はぁ」
「話は聞いている。立派になったな」
「いえ!っていうかあの、改めてお会いできまして光栄です!」
「何だ、二人は知り合いだったのか?」
「F-55の機種転換操縦課程はニュータバルだったので」
「それにしたってエレンの方はともかく、教育隊の隊長が航空学生の顔なんて一々覚えてんのか」
「優秀な学生限定だ」
もはや恒例となった小さな居酒屋の個室でエレンは、ハネダ基地司令官兼中部管区の団長、元ブルーバーズ隊長かつ教育飛行隊員・現第0航空団飛行兵長兼第845飛行隊長、コマツ基地所属第6航空団第170飛行隊長、ニュータバル基地所属教育飛行隊長…極め付けは全員極秘対テロ組織『自由の翼』幹部という、全国のパイロットたちが飛び跳ねて五体投地するレベルの顔ぶれの中に何故か混ざっていた。
国防軍の戦闘機パイロットは尉官以上という決まりがあるためエレンも一応は三尉という立派な幹部なのだが、他の四人は佐官であり息苦しくてしょうがない。
「優秀だなんてとんでもないです」
誰か勝手に注射でもして血を抜き取っているんじゃないかと疑わしいほどに青ざめた顔で、エレンは精一杯謙遜した。自分にはもったいない…否、ありえない言葉だ。
どうしてこんなメンバーの前に呼ばれたのか。考えてみると一つしか思い浮かばない。きっとリヴァイは自分のパイロットセンスを見限ったのだ。今日のフライトですべてが終わってしまった。この場でこのそうそうたるメンバーから重々しくP免を言い渡されるのだろうか。やばい、泣きそうだ。
「実はだな、今日の訓練で――」
リヴァイは残酷にも何の前触れもなしに本題に入ろうとしている。せめてもう少し酔ってからなら心も穏やかに聞けそうなのにとビールに手を伸ばしたくなった。しかし他の三人は黙ったままグラスには目も向けていないのでそれもできない。
そんなエレンの困惑などお構いなしに続けられた話は意外な方向のものだった。
「いい作戦を思い付いた」
――いい作戦?
「それもこれも、コイツが俺と心中しようとしたおかげだ」
「し…」
何て表現をしやがるんだこのクソ上官は!と叫び出したいのを唇を噛んで必死に耐えた。
心中――世間一般では相思相愛の男女が自ら望んで命を絶つ場合に使われることが多い。思わず誰が相思相愛やねんとツッコミたい衝動に駆られる。
「おまえたちがいつの間にかそんな仲になっていたとは知らなかったが…続けてくれ」
生温かい目で見つめてくるエルヴィンを見ても自分の失言に気付かないリヴァイは何を訂正することもなく話を続けた。代わりに否定してやろうかと思ったが、一等空佐と三等空佐を前にして二等空佐の話を三等空尉の自分が遮るなど、国防軍に所属している以上あってはならない。普段どれほどの悪態をついているかなんてことは今は関係ないのだ。
「エレン。今日の訓練で何をやらかしたか説明しろ」
「…サッチ・ウィーブの機動中に先走り過ぎて長機と敵機の間を通過しそうになりました…っていうか敵機に体当たりするところでした」
優れたパイロットを前にして自分のミスを自分の口から言わせられるこの苦痛は、きっとこの人たちにはわからないんだろうなと思った。
「それはまた何と言うか…」
ハンジは珍しく茶化すことはしないで素直に驚いている。エルヴィンはいつもと変わらず冷静にリヴァイを見つめている。ミケは目を細め顎に手を当てて難しい顔をしていた。
「それで、これがどういい作戦に繋がるんだ?」
エルヴィンの声にリヴァイは真横に座るエレンの方へ顔を向けた。
「例えばあの時俺がアフターバーナーを点火しないで代わりにアニへ向けて機関砲を撃ってたらどうなったと思う」
「どうって…何発かは俺の機体に命中してたかもしれないですね」
エレンがそう言うとエルヴィンはなるほどと一人で納得したようで、ようやく泡の少なくなったビールへ手を伸ばした。
「え?ちょっと何、どういうこと?」
「つまり今の話で例えると、罠機であるアニが本当の攻撃機ということだ」
「えっ、あ…あああ~!そういうことね!」
校長先生に見習わせたいくらい手短な話でハンジも察したらしい。ミケは黙って目を瞑り腕を組んでいるが、これはわかっている人間の顔だ。
状況を一人飲み込めていないのはOR資格を取得してからまだ三か月のエレンだけだった。今の話をどう捻じ曲げて解釈したらアニが攻撃機になるのかがわからない。
しかしなるほどなるほどと盛り上がるこの場に『どういうことですか?』なんて爆弾を投下する気にはならなかった。
「エレン」
そんなエレンの事情を察したのか、ジョッキを空にしたエルヴィンが話しかけてきた。
「君には何が見える?敵は何だと思う?」
真剣な表情の団長にエレンは思わず首を傾げた。
「…エルヴィン団長の顔が見えます」
「ぶっ」
どこが面白かったのかツボに入ったらしいハンジがケラケラと笑う。どうやら的外れな答えを言ってしまったらしい。言葉を真っ直ぐに受け取る性質が仇となったが、別に嘘を言ったわけではない。エレンの視界には確かにエルヴィンが映っているのだ。
だけどそうではない。エルヴィンが言っている『見る』とは『see』ではなく『judge』という意味の方だ。国防軍が立たされている前代未聞の危機をどう判断しているかと訊かれているのだった。
鼻からビールを出すくらい爆笑するハンジほどではなかったが軽く苦笑したエルヴィンは、見るという言葉の意味から始め、懇切丁寧に発言の真意を説明してくれた。この上なくバカにされているように感じなくもないのだが、エルヴィンが相手だと何故かそれが当然のように感じられるのが凄い。
団長曰く、自分たちにとって一番怖いのは前を向いている時に後ろから刺されることらしい。
「後ろって…まさか軍の内部に敵がいるとでも言うんですか」
「内部というか上部だ。敵という言い方は正しいがテロリストと通じているわけではない。私たちが戦う時に必ず障害となるということだ」
「軍の上部?」
「具体的に言えば空将たちはもう腐っている」
リヴァイの出した名前に顔が青ざめる。空軍の上部に敵がいるわけではなく、空軍の上部が敵だと言うのだ。
驚きのあまり声を失ったエレンにエルヴィンが続ける。
国防軍のシステムについてだった。
この国の軍には交戦規定というものがない。攻撃の判断は常に何週間、何か月と時間を掛けて政治家が下すのだ。唯一現場の判断で武器を使用することを認められたのものが正当防衛だが、それも個人という単位に限り、例え味方が撃墜されたとしても敵が自分に対して攻撃を仕掛けてこない場合は反撃できないのだという。他国の軍からはありえないと笑われているらしい。自分の家にナイフを持った男が押し入ってきても、そのナイフが振り下ろされるまでは何もできないということなのだ。
それでも現場の隊員は健気に技を磨き、有事に備え訓練を重ねている。保有している火力も多く、戦力は決して乏しいわけではない。空軍にしたってパイロットの練度は近隣諸国に全く引けを取らないと言われている。
しかしどこの国の軍隊も国防軍と戦ったとして負けるとは思っていない。『彼ら』には引き金が引けないと知っているからであり、『彼ら』が最初の一撃は甘んじて受けることを前提に存在しているからだった。
この国の国防軍法は、この国の国民を護るためではなく仮想敵国の軍を護るために存在しているようだ。エレンはそう感じた。
エルヴィンが怒りすらも感じさせない表情で言う。
「知っての通り我が国は海洋国家だ。そして国防軍が専守防衛を謳っている以上、最初の戦場となるのは我々の領空か領海になるだろう。権力者が護ろうとしているのは自分たちの地位や財産で、この国の国民ではない。だから政権運営に不利となる判断はまず下されないと言っていい。世間には国防軍に否定的な団体もたくさんあるし、軍事行動を取らせれば内閣の支持率は下がる。だから我々を容易には動かそうとしないわけだ。彼らは『過去百年何もなかったのだから、今後百年間だって何か起こるはずはない』と考え安心しきっている。いざ自分たちの命が危険になった時にだけ国防軍を使えばいいと思っているんだ。この前のように国の名前を背負わずにやってくる犯罪者の襲撃対して、現場で戦う隊員の命は踏み潰すためにあるようなものだと思わないか。軍人も一人の国民なのだという事実を忘れている政府が我々のために防衛行動許可を発令したことは、過去に一度もない。戦うことを許されず、盾にもなれず死んでいく。犠牲になった隊員の命は何のためにあったと思う?」
さっき爆笑していたことが嘘のようにハンジは静かだった。リヴァイはいつものこととして、ミケに至っても怒っているように見える。
「私たちの戦う力になるためだ。彼らの死に意味を与えられるのは我々しかいない」
エルヴィンの目は綺麗な空色だったが今は青い炎のように見えた。
「私はついこの前、今を生きる人のために戦おうと決めたんだ。私たちの戦いの理由が復讐になってはいけないからね。だけど私はこれからも常に亡くなった仲間と共にある。あのテロリスト共をぶちのめすまではずっとだ」
「…俺も同じだ。絶対にこの手でケリをつける」
ハンジとミケが穏やかに怒った。リヴァイは何も言わなかったが言葉にされなくても嫌というほどわかった。
エレンは拳を握りしめる。ただただ怒りに震え、同時に嬉しかった。
理不尽という名の暴力は絶対に許せない。不当な圧力をかけることは自由への冒涜だと思う。この戦いは怒るためにはこの上なく相応しい舞台で、エレンはその舞台に上がることを許されたのだ。
「話はわかりました。つまり自分たちの戦いは『どうやって攻撃権を得るか』というところから始まっているんですね」
「そういうことだ」
エルヴィンが軽く笑った。リヴァイは目を瞑っている。
なるほど確かに、そういう意味では政治家との癒着がある軍の上層部は敵と言える。せめて空軍だけでもまともな人間で組織されていたら何とかなったかもしれないが、こうなると前も後ろも油断できない。
「内閣総理大臣により発令される防衛行動許可にはあまり期待できない。となると、我々に残された手段は正当防衛のみとなる」
エルヴィンがエレンを見つめそう締めると、リヴァイも顔を向けてようやく口を開いた。
「ここでてめえが犯してくださった前代未聞の偉大なミスが出てくるってわけだ」
酒のせいで少し赤くなったエレンの顔から火が噴き出るかと思ったのは言うまでもない。
そのあとリヴァイが描いた作戦の内容説明を受けたエレンは、時間を作り訓練のための事前会議に参加をすることになった。
実際に実行するには相当な技術が必要となるらしいので、この作戦は自由の翼の精鋭の中でも群を抜いているリヴァイとミケが担当することになる。元・教育飛行隊員と現・教育飛行隊長の最強コンビ相手にやり合うであろうまだ見ぬテロリストの顔に同情の涙が出そうだ。敵にするとこんなに恐ろしい人たちはいないだろう。そして彼らが味方で本当に良かったと安堵して肩の力が抜ける。
国防軍に交戦経験がないことは知った上で入隊したエレンは、まさか自分が在籍している間にこんなことになるとは思っていなかった。もちろん軍人である以上いつどんな事態が起きても対応できるように心構えはしっかりしていたし、先陣を切る空軍なら尚更だ。それでも訓練ではなく実戦でミサイルを発射する日が来るかもしれないというのは間違いなく衝撃だった。
だけど怖くはない。二か月前に死にそうになった時のことは忘れられないが、今は頼もしい仲間たちの存在を知っている。
自由の翼は少しずつだが確実に前進していると実感できた一日だった。
*
深夜零時過ぎ、駅前の小さな居酒屋を出たリヴァイはハンジに呼び止められる。エルヴィンたち三人はすでにタクシーを拾おうとしていたので、ややうざったそうに振り向く。
「ねえ、今日家に泊めてくれない?」
「断る」
「そんなこと言わずに、ね?何もしないからさ」
そういうセリフは普通男の方が言うべきだろうが、ハンジが相手となると冗談にも聞こえないので怖い。
リヴァイは出されたラーメンの汁にオヤジの指が浸かっていた時のような顔になった。不潔の象徴と言っても過言ではないこのクソメガネを家に泊めるなんて正気の沙汰ではない。それを許したら最後、次の休日は家中を大掃除するハメになる。別に過剰な表現ではない。実際にこの前勝手に使われた風呂場は黒魔術の儀式でも行われていたのかと目をひん剥くような惨状だった。
「こ・と・わ・る」
母国語も聞き取れない哀れなメガネ女にもわかりやすいように胸倉を掴んで言ってやる。別に嫌がらせで断っているわけではないのに納得のいかないという顔で膨れるのが憎い。潔癖症のリヴァイと無精者のハンジの相性の悪さは折り紙付きだった。
そんな二人のやりとりを、先にタクシー乗り場に向かった三人は離れた場所から見つめていた。
エルヴィンとミケはあいつら相変わらず仲が良いなと笑っている。その横でエレンは何とも言い難い表情になっていた。怒っているような傷付いているような、彼自身にも自分の感情は見つからない。
「エレン、あの二人を呼んできてくれないか。乗らないなら私たちだけ先に帰ろう」
「わかりました」
本人たちにその気はないにしても傍から見れば酔っ払いの痴話喧嘩にしか見えない二人に近付くのは乗り気ではなかったが、上官命令とあらば動くしかない。小走りで駆け寄る間迷った挙句、自分とほとんど変わらない高さにあるハンジの細い肩を叩いた。
「あの、タクシー拾えましたけど。お二人はこのあとまだどこかへ行かれるんですか」
「行くわけねえだろ、帰る」
「そうそう、二人でリヴァイの家にね」
心なしか語尾にハートマークが付いているような気のする甘い声を出すハンジにリヴァイは舌打ちをした。自分よりも高い位置にある前髪を引っ張って目線を強制的に同じ高さへ持ってくる。
「てめえは基地に部屋が用意されてんだろうが。自分の巣へ帰れ」
「え~」
ハンジは不満げに声を漏らし、しかしすぐに妙案を思い付いた。
「わかった!じゃあ基地に帰るよ!エレン、君の部屋行ってもいい!?」
「いいわけねえだろうがクソメガネ…」
本人が断る前に額に青筋を浮かべたリヴァイが眼鏡を握り潰しそうな勢いでハンジの顔面を掴んでいた。
「いたっ、いたい。ちょっとリヴァイ、私これでも嫁入り前の女なんですけど」
「嫁入り前の女が男の家に泊まるなんて口にするもんじゃねえな」
今時高校生だってそんなに真面目に生きてねえよと悪態をつくメガネにリヴァイは握力を強めてみる。
「うわぁ!ギブ、ギブッ!離してよ痛いって!」
ハンジの悲鳴から演技臭さが抜けたところでようやく腕は離された。少し日に焼けた顔にはくっきりと指の跡が残っている。女にも容赦のない上官に一連のやりとりを横で見ていたエレンは息を呑んだ。
「わかったよ、自分の部屋に帰るから。でもあのタクシーに五人は乗れないだろう?エレン、私とリヴァイは次ので行くから先に行ってて」
「…わかりました」
エレンは一瞬気に食わなさそうな顔をしたが、すぐにいつもの顔に戻って駆けて行った。
「おいハンジ――」
「鈍いなぁ。話があるって言ってるんでしょうが」
つい今までのふざけた顔はどこへ行ったのか、目の前の女の顔は冷めた目になっていた。
「別に家じゃなくてもいいしね。何なら飲み直す?」
真面目な話がある時もふざけて誘いをよこすのはハンジの数ある悪い癖の一つだと思った。最初からその顔で時間が欲しいと言われたらこっちだってそれなりの対応はできるのだ。
リヴァイはほんの少しの間迷ったが、結局人目を気にせず話せるということで自分の家に呼ぶことにした。同時に次の公休日は一日掃除で潰れることが決定した。
*
約二か月ぶりにリヴァイの部屋を訪れたハンジはいつものように風呂にも入らずベッドに上がるような暴挙には出なかった。代わりに冷蔵庫を漁り出したが、リヴァイはもうどうにでもなれと放って置くことにした。ハンジはクリームチーズとクラッカーを持ってきて豪快に床に胡坐をかいた。常備してあるワインも勝手に開けている。
「ま、飲み直しながら話そうよ」
どうしててめえが仕切ってるんだよとは言わなかった。日付的には昨日だが、ずいぶん久しぶりにフライトで死ぬかと思ったので疲れた。思いっきりぶん殴ってやったエレンの顔は鼻に痣ができていて、一瞬悪いことをしたかもしれないと思いそうになってしまった。
悪いのはエレンの方だ。自殺だって立派な殺人なのだ。
自分の部下が勝手に死のうとすることを許せるはずがない。本人にはその気がなかったとしても、たった一瞬のミスで自分たちは本当に死んでしまうのだ。たった一瞬だ。航空学生時代に教官から死ぬほど言われているはずだが、少しでも油断するようなら教育し直すのも隊長の役目だ。その時に多少手や足が出たとしてもご愛嬌である。
「訊かないの?この前エレンの所に行ってくれたんでしょ。どうして私があの状況を知ってたか気にならないの」
「どうせ電話でもしてたんだろ」
「ああやっぱりバレてたか」
隠すつもりもなかったくせに白々しいと思いつつ、それでもあの件に関しては礼を言わなければならない。リヴァイが行かなければエレンはどうなっていたことか。万が一異変に気付いた隣室の者がやってきたとして、自分と同じ状況に陥り同じ対処をしたりしたら…と考えてイライラする。不本意ながら他の誰かではなく自分へ連絡をよこしたことに感謝するしかない。
「実はさ、十年前のアンノウン襲来事件のこと話したんだ。あの子のことも一緒に」
ああやっぱりそうかと納得した。何となく予感はしていたのだ。
あの日、普段からは想像もつかない態度を取ってきたエレンを見てハンジから自分の話を聞いたのだと思った。一体何の話をしたのかまではわからなかったが、大方事件のことだろうと予想していた。
ハンジがどんな風に語ったのかは知らないが、リヴァイにとってあの事件は人生のターニングポイントだった。あれを境に国防軍に根を張ったと言ってもいいくらいだ。
死んだ後輩のことを一人の女として特別に好きだったわけではない。同じ状況で別の仲間が撃墜されていたとしても、自分はやはり同じように怒ったと思う。
ただ、護ってやりたいという気持ちの大きさこそ他の仲間と変わらなかったが、後輩は特別だった。生まれてはじめて面と向かって自分に『好きだ』と言ってきた女なのだ。
「俺にもよこせ」
リヴァイは早くも空になってしまったグラスいっぱいにワインを注いだ。酔いたくなるのは久々だった。
「リヴァイ、怒ってる?」
「…別に」
「そういえばもうすぐ命日だけど、お墓参りはまだ行かないの」
「ああ」
リヴァイはあの日亡くなった後輩の墓の前に立ったことは一度もない。その墓石の下に彼女はいないのだと知っていると行く気にはならなかった。それなら海を見ている方がいくらか近い気がした。あの小さな体はリヴァイの部屋から見えるだだっ広い海のどこか深くに沈んでいるのだ。
空っぽの棺で行った葬送式も違和感しかなかった。激しい喪失感に襲われたことを今でも覚えている。同じ気持ちは返してやれなかったが、かけがえのない存在だった。
「私は怖いよ。このままテロリストたちとの戦いに入ったらあなたが死んじゃいそうで」
酔っ払って再び顔が赤くなってきたハンジの目は少し潤んでいる。
「復讐のために戦ってるでしょう。そういう人はすぐに命を投げ出すんだ。残される人の気持ちも知らないで」
「別に死ぬ気はねえよ」
むしろ何が何でも生き抜いてやると思ってるくらいだ。復讐のためと言われたら否定はできないが、無駄死にしてやる気は爪の先ほどもない。
「リヴァイ。どうしてエレンは過呼吸になったと思う?」
「俺が知るかよ」
「奇遇だね私もだ。あの話を聞いたエレンが何を考えてあんな状態になってしまったのかはわからない。でも少なくとも過呼吸になるくらいショックを受けたんだよ。わかる?あの子はリヴァイの過去に泣くほど思うことがあってあんな状態になった。勝手に話した私が悪いけど、ここから先はあなたの責任だからね」
頼んでもないのに他人の過去をベラベラと話しその部下の心を乱しておきながら、あとはおまえが何とかしろなんてとんでもない女である。
「四六時中そばにいて体調を崩さないように見張ってろってか」
「まさか!そんなことしたら今のエレンには耐えられなくてぶっ倒れちゃうよ」
一体何が耐えられないというのか、皆目見当もつかず黙って眉を寄せた。
「私が言いたいのはさ、エレンを大切にしなさいってこと」
六杯目でいよいよ気分が良くなってきたリヴァイは首を傾げる。
普段の唯我独尊ぶりからするとずいぶん可愛い姿だった。ハンジは笑う。
「二か月前に十年ぶりに例のアンノウンがやってきて、国防軍機は三機撃墜された。だけどそんな絶望的な状況からもエレンはちゃんと帰ってきたでしょ。あなたはそれがとても嬉しかったはずだよ。今度は護ってやることができたんだから。そんな達成感と満足感をくれた相手には情の一つや二つできるのが人間ってもんだ」
「何が情だばかやろう」
「いい加減認めてもいいと思うんだけどなぁ」
呆れて赤ワインを飲み干したハンジは、未開封だった白ワインも開けてグラスに注いだ。
意地っ張り。そう言って苦しげに笑うハンジにリヴァイは何も言い返さなかった。ただ黙り込んでずっと窓の外に広がる闇を見ていた。
エレンは自分の過去をどこまで知ったのだろうか。知って何を思ったのだろうか。
自分は軽蔑されるかもしれない。
あの事件に関わる話は最重要機密であり、リヴァイの存在とその後の配属の理由について空軍の隊員たちが知ることはない。もしも知ることがあったらいくらでも非難を浴びてやるつもりだ。この国の人間には怒る権利がある。
あの日仲間を殺したのは自分のようなものだ。
それが大きな後悔となって今のリヴァイを作り上げた。二つに分かれた道でこっちを選んだ自分の選択は正しかったのだと、今でも信じている。彼女に言い聞かせていたように国防軍人として正しいことをしたのだ。
ただ、時々どうしようもなく虚しくなる。
どれだけ力を蓄えようと、国防軍は『やり返せ』と言われるまで無抵抗で殴られるしかない。目の前で殺されたあの後輩のように、敵が襲ってくるのを待つしかないのだ。
彼女の死は王と政府、そして軍の上層部に対する無言の抗議だった。
このまま現行法に則り動いているといつかまた彼女のような殉職者が出る。矛にも盾にもなれずに死んでいく仲間を作ってしまう。
訴えたが政府の考えは変わらなかった。
そしてあの事件から十年、再び同じように命を落とした仲間が二人出た。一人はやはりあの時と同じように遺体の一部すら見つからなかった。捜索に当たったダイバーは体力の限界まで潜ると言って聞かなかったらしい。救難ヘリの搭乗員が申し訳なさそうに頭を下げ涙を流したことも忘れてはいない。
だけど権力者はこの事実を数字として見る。肥えた欲望の塊が、名前もあり意思もあり息をしていたはずの隊員を知るのは『死者二名』との文字を見た時だからだ。
それを実感した瞬間、持っていたすべてを捨てて飛んできたこの十年がどうしようもなく虚しく感じられた。一体何のために、何を護るために戦っているのかがわからなくなりそうになる。
だからこそあの日エレンがヒャクリ基地に着陸したと連絡を受けた時のことは忘れられない。
心臓が震えた。今度は帰ってきた。十年前にこの道を選んだのは、このクソ生意気な部下たった一人を助けるためだったんじゃないかと思えたのだ。
「ところでその唇のカサブタは?居酒屋からずっと気になってたんだけど」
静かな部屋に女にしては低い声が響いて意識が呼び戻される。
「別に、犬に噛まれただけだ」
「ふーん…で、この前はどうだったの?エレン助けてあげたんでしょ。何かなかったの」
「何かって何だ」
「それは察してよ」
「知るか。それにあいつはせっかくおまえが話した十年前の話も覚えてねえよ。朝起きたら全部忘れてやがった」
「何それ!ちょっともう一回思い出させてよ!」
無茶を言うなと思ったが、そもそも空軍自体が無茶苦茶な組織なのだから仕方ないのかもしれない。
フットワークが軽く機動力が命の空軍は『電光石火』、海洋国家ならではの強力な艦隊を持つ海軍は『威風堂々』、民間人に身近な存在で規模も最大の陸軍は『油断大敵』だなんてどこかの軍事評論家が言っているが、本人たち曰く『即断即決』『意気衝天』の陸、『迅速果断』『豪快奔放』の海、『変幻自在』『前代未聞』の空である。
国防軍とは要するに、それぞれが強烈な個性を持った三軍が巣食う前のめりで競争意識の強い組織なのだ。特に陸と海の仲の悪さと言ったら表彰ものである。
そして目の前にいる女は、そんな中のどこの部隊にぶち込まれても馴染めると保証されるくらいにぶっ飛んでいた。
「あんまり意地を張るから少し意地悪をしちゃおうかな」
指紋でコーティングされたレンズを光らせ物騒なことを口にしたハンジにリヴァイは身構えた。そんな男の姿を見たメガネ女はワイングラスを顔の横に持ってきて、モルモットを目の前にしたマッドサイエンティストのように不気味に微笑んだ。
「リヴァイが要らないなら私がエレンを貰っていい?」
まるで件の部下には意思がないかのような扱いに顔をしかめた。そして次に生まれた怒の感情にリヴァイ自身驚いている。ハンジはリヴァイを挑発するために無駄のない適切な言葉を選んでいた。
「要るだ貰うだ…エレンは物じゃねえだろ」
不機嫌の理由を一つに絞ったリヴァイは人権の侵害だと抗議した。
「そんなことはわかってるよ。しかし恋愛ってのは恐ろしいものだ。物ではなく人を相手に『自分のものにしたい』と思わせてしまう程の力がある」
「違うって言ってんだろう」
リヴァイにはわからなかった。
自分には仲間がたくさんいて彼ら一人ひとりを護りたいと感じていると思う。それが戦う理由の一つでもある。だけど自分のものにしたいだなんて思ったことは一度もない。そもそも自由を尊重する質なので、必要に迫られた時以外にそれを犯そうとは思わないし実際にすることはない。愛だの恋だのよくわからないが、自分や相手を縛り付ける不自由なものではないと思いたかった。
リヴァイにはわからなかった。
エレンを渡したくないと感じたのはハンジの態度を不快に思ったからなのか、相手がエレン・イェーガーだったからなのか。
自分の脳みそが一瞬、エレンを人ではなく都合よく扱える物として捉えたことを不快に感じる。相手にも意思があり選ぶ自由があるのだということを忘れてしまうほどの焦燥と飢餓感。周りの人間はやかましく『恋だ』と指摘してくるが、百万歩譲ってそうだとしたらそれはドラマで描かれるような綺麗なものではないらしい。
自分にはわからない『好き』というものが、自分の中にあるこの汚い感情のことでないようにと切に願った。むかし生まれてはじめて向けられた、強烈でとても美しく、同時に優しくてあたたかったそれを壊したくなかった。
リヴァイはまだわかっていない。
「あなたってほんと子どもみたい。まだ人を好きになるって知らないんだもんね」
うるせえと言った。恋というものはよくわからないが、たぶん幸せなことなんだろうという想像はできる。そしてそれは辛くて悲しいことでもある。届かないことだってあるし、届いたとしても必ず受け入れて貰えるわけじゃない。恋をされることも同じだ。気付いたとしてもすべてに応えられるわけじゃない。相手を傷付けたいわけじゃないのに傷付けてしまうこともある。
それを知ってるだけで十分じゃないかと思った。自分には縁のない話だが、別に他人の恋を否定するつもりはない。むしろ恋の一つや二つくらい早くしてみろと心配させられる部下すらいるのだ。
不機嫌を察したハンジは当たり前のように話題を変えた。
「あの作戦本気でやる気なの?」
「他にいい案があるなら是非とも却下したいところだがな」
リヴァイは何杯目かもわからないグラスの中身を流し込んだ。
「下手したらミケかあなたが死ぬよ」
「もしそうなったとしても仕方がねえだろう。無抵抗で空軍の全戦力を削がれるわけにはいかねえ」
「…そうだね。残念ながら今の私にはそれ以上に有効な攻撃権の奪い方が思い付かない」
「そう暗くなるな。死ぬと決まったわけじゃねえ」
「うん…もしも死んだらケツの穴にAAM-2を撃ち込んでぶっ殺してやる」
「どうやって死んだ人間を殺すつもりだ」
リヴァイがそう訴えるとハンジはそれもそうだと豪快に笑う。いつもは喧しく感じるその大声も、今はこの部屋にこもった重い空気を誤魔化してくれるので悪くはなかった。
12
「3対1?」
サッチ・ウィーブの機動テストから二週間、次の対テロ訓練時に集まったメンバーは一様に怪訝な顔をした。エレンだけではなくジャンも、そしてあのアニも納得のいかない様子だった。原因はいつもの会議室でその日の敵機役を務めるリヴァイから説明された訓練内容だ。
「厳密に言えば3対1じゃねえ。俺が敵機を務めるが、おまえら三機は同時に攻撃行動には参加させない。一人ずつ俺と戦え」
「戦えって…」
「もちろんGUNとSRMどちらを使用してもいい。というか、まずはアウトレンジを狙ってこい。俺は機関砲しか使わねえが」
リヴァイにその気があったのか三人にはわからないが、自信に満ちた彼の顔は『有効射程圏外から一方的に狙われようが勝つのは俺だ』と言っているようだった。
そしてエレンは実際に、自分たちだけ短距離ミサイルの使用を許されてもこの上官に勝てるとは思えなかった。ファイター・パイロットである以上最後まで諦めないが、リヴァイはレベルが違いすぎる。航空学生時代の教官たちがこぞって赤子のように見えてしまうくらい技量が突出しているのだ。
「それともう一つ、今日俺が乗るのはF-55じゃなくてSu-69だ」
リヴァイの言葉に全員が言葉を失った。Su-69"フランカー"…F-55"イーグル"のライバルで国防軍が保有しているはずのない、外国産の戦闘機だ。アラート待機室の壁に貼られている数々の航空機の写真の中にもある、仮想敵国の空軍が使用している機種である。それに乗るとは一体どういうことなのか。そもそも何の訓練もなしに操縦するなんて可能なのだろうか。
「まぁ…おまえらにも色々言いてえことはあるだろうが、今は細かいことは気にするな。それともう一つ、俺たちが戦おうとしているテロリスト集団だが、標的名は『タイタン』に決定した」
「巨人?」
「それを相手にするくらいの気持ちでやれってことだな」
告げるリヴァイには動揺は見て取れないが、エレンの方は標的名が決まるといよいよ本当に戦うのだと緊張も高まってくる。
「俺からは以上だ。午後一でZ空域に出るぞ」
その日の正午過ぎ、エプロンに姿を現した謎の機体に事情を知らない整備士やパイロットの間には衝撃が走った。駐機してあるグレーの鷲の中に一機だけ、白とグレーが混ざった鶴がいる。仮想敵国のマルチロール機・Su-69である。
訓練を終えた隊員や、機体の状態を確認していた整備士もみんな手足を止めその美しいシルエットを見つめている。何だあれという困惑の声があちこちから聞こえていた。
国防軍が200機を保有する世界最強の戦闘機と名高いF-55だが、Su-69はそれに匹敵する性能を持っていると言われている。
最大で計十発のSRM(Short Range Missile)、MRM(Middle Range Missile)を搭載できるその機体は機動力に優れ、水平飛行から高度を変えず急激な機首上げにより速度を落とす『コブラ』は有名である。
またF-55がHUD(Head Up Display)を搭載しているのに対し、Su-69はヘルメット装着の型のHMD(Head Mounted Display)を採用している。最大速度マッハ2.3、航続距離4000㎞。国防軍のF-55が搭載するミサイルはAAMのみだが、このSu-69は空対地ミサイル(Air to Surface Missile)及び空対艦ミサイル(Air to Ship Missile)も装備できる。
強くも美しい鶴は、国防空軍の愛する鷲の良きライバルだった。
「アッカーマン二佐、チェックリストお願いしますよ」
特別な研修を受けた自由の翼の一員でもある優秀な整備士が声を掛けてくる。
「ああ」
潔癖だと言われるその手で機体に触ってすべての確認を終えたリヴァイはハンネスに向き直ると受け取った書類にサインをした。久しぶりに触れるその機体にはもう懐かしいと感じられるほどの何かはなかった。
「悪いな。本来は専門じゃないのによ」
「いや、やってみるとこれが中々面白い。国防空軍がSu-69を持っているなんて知ったら保有国は真っ青になるかもしれませんがね」
「そりゃあ悪くない話だ。戦闘機ってのは本来テロリストが手にできるような代物じゃない…どこかの国がパトロンになってるのはわかってるんだからな。自分の手は汚さないハイエナ野郎なら少しくらいビビらしてやった方がいい」
「その通りですわ。子どもに武器を取らせるテロリストも、それを支援するようなヤツも、そういう人間は駄目だ」
ハンネスは困ったように頭をかいた。リヴァイはそれを見てこの男は整備士になって正解だったと思う。
「あのネコはまだいるのか」
「います。みんなが高いエサやるもんだから、うちの基地で一番いいもん食ってるのはあいつですよ」
軍人になるには少し優しすぎる男はそう言って笑った。
午後一のフライトは予定通りリヴァイが単機で飛び立ち、三分後に一番機アニをフライト・リーダーに二番機のジャン、三番機のエレンが続いた。
『ブルーシー・ゼロワン、スノーホワイト・リーダー。到着しました』
心なしかアニの声はいつもより低い。
『わかった。じゃあまずはアニ、おまえから来い。"イー"コンビはそこで旋回して待ってろ』
イーコンビって何ですか、なんてツッコまなくてもエレンとジャンはわかった。『イーグル』と『イーグレット』のイーから来ているのだろう。リヴァイには二人のTACネームをバカにするつもりはなく、仲の悪い二人を一緒くたにして虐めるつもりもなかった。ジャン、エレンと一人ずつ呼ぶよりまとめた方が早い気がしたのだろう。それは呼ばれた当の本人たちもわかっている。
エレンはジャンに『おまえと一緒にされて最悪だ』と言ってやりたかったが、軍の周波数でそんなことを話しているとあとでまた管制官や今度はリヴァイからもお叱りを受けるかもしれない。それはもう御免だったので無線のスイッチは押さずに黙って唇を噛んだ。
リヴァイの操縦するブルーシー・ゼロワンが構える奥へはアニの一番機だけが進んだ。残されたエレンたちは旋回をしながら無線とレーダーに映るシンボルで状況を探る。
『もうすぐマキシマム・レンジを切りますが、本当にアウトレンジ攻撃でいいんですね?』
『もちろんだ。ただし撃てるのは四発までとする』
AAM-2の
最大射程距離は21マイル…約34キロメートルだが、今リヴァイのSu-69もアニへ向かって飛んでいるはずだ。となると単純に34キロメートル先のものを狙うわけではない。仮に両者がマッハ0.9…時速約1101キロメートルで飛んでいるとして、相対速度はマッハ1.8以上だ。約一分後にすれ違う計算になる。
アニはすでに兵装選択でSRMを選択しているはずだが、最低でも発射25秒前にはシーカーの冷却を始めなくてはならない。訓練なので実際には冷却しないがそれを計算しなければ意味がない。今から始めたとしても25秒後には距離4.7マイルだ。ミサイルには弾頭の安全装置が外れるまでの時間があり、それが実質の
最少射程距離になってくる。AAM-2の場合は約3マイルである。
シーカーの冷却が終了した時点ですでに最少射程まで1.7マイル…対向している二機の速度がマッハ0.9だとすれば約3秒で切ってしまう。シーカーの冷却時間と足して28秒。AAM-2は『LOAL(Lock-On After Launch)』と呼ばれる捕捉方法を取っているので、ミサイルのシーカーによるロックオンは発射後にでも可能であるが、少なくともその28秒以内に母機のレーダーでは目標を捕捉しロックオンする必要がある。
エレンは空域の端で旋回しながらレーダーを見ていた。
確かに二つのシンボルがあり、IFF(敵味方識別装置)の質問に対して一機が友軍機と返答するが、もう一機は答えない。リヴァイの操縦するSu-69だ。ハネダ基地を自分たちより三分前に離陸したあの美しいシルエットを思い出す。そういえばはじめてのアラート任務の時にやって来たアンノウンはSu-69だった。近隣諸国では採用している空軍も多く、そう珍しくもない機体だ。
アニがアウトレンジ攻撃の確認をしてから10秒は経っただろうか。二機は確実に距離を詰めている。無線からは当たり前だが何も聞こえてこないので状況はわからない。
ミニマム・レンジを切るまであと10秒弱…アニはまだスホーイを捉えられないのか…そう思った瞬間、レーダーからブルーシー・ゼロワンを示す赤色の三角形が消えた。スキャンした瞬間、前回のスキャン時にはあったはずの機影がなくなったのだ。アニのスノーホワイト・ゼロワンは映っていることから自機レーダーの故障ではない。
エレンは一瞬で最悪の事態を想定した。
リヴァイの機体が墜ちたのか、あるいは何らかのトラブルが発生したのか。
「おいジャン、レーダーから兵長が消えた!」
『そっちもか。一体何があったんだ…?』
その答えは空域の端で待機する二人にはわからなかった。しかし間を置かずにリヴァイの声が無線から聞こえてきた。
『いいのかアニ、おまえも見えてるんだろう。遠慮せずロックオンしろよ』
低い声でアニを挑発するリヴァイ。アニは答えない。見えているとはどういうことか。アニのレーダーにはリヴァイが映っている?…いや違う、二機は接近していたのだからとっくに目視確認できる距離にいるはずだ。リヴァイの目にはF-55が映っているし、アニの目にはSu-69が映っている。リヴァイは機関砲が使える距離まで接近するつもりだろうが、何故アニは何もしないのか。
しばらくしてから男の声で『フォックス・スリー』という機関砲発射のコールが響いた。
『ジャン。次はおまえだ』
指名されたジャンははっきりと返事をすると旋回を離脱し空域の奥へ機首を向けた。アニの機影はかなりの大回りでリヴァイとジャンの最短ルートを避けているのが見える。わずか二、三分足らずでアニから撃墜判定を取ってしまったリヴァイはやはり凄いとしか言いようがない。
エレンは次こそ何が起こるのか見逃さないようにしようとレーダーに注目した。
しかし今度は二機の距離が37マイルを切る前に再びスホーイの機影がレーダーから消えたのだ。無線からは何も聞こえてこないが、ジャンのレーダーからも同じように消えたのだろうか。あっという間にマキシマム・レンジを切ったが、ジャンから『フォックス・ツー』という短距離ミサイル発射のコールは聞こえない。しばらくして無線で語りかけたのはリヴァイの方である。
『ジャン。せっかくSRMを使うなら有効射程ギリギリから狙った方がいいと思うんだが、何か考えでもあるのか?』
悪気のない嫌味にジャンは何も答えない。ようやくレーダーに姿を現した赤のシンボルはF-55にお尻を見せている。ジャンはシックスを取っているのだが何もしない。両者の距離はAAM-2のミニマム・レンジ3マイルを割っているが、バルカン砲の有効射程約800メートルには届いていないのかもしれない。その距離だと攻撃方法がないのだ。近付くか離れるかするしかない。
進み始めた赤のシンボルを緑のシンボルは同じスピードで追っていく。レーダー上ではよくわからないが距離は多少詰められたのだろうか。緩く旋回をしながらVSDを見ていたエレンはまたもや我が目を疑った。
レーダーがスキャンした瞬間、先ほどと同じようにスホーイの機影が消えたのだ。ほんの数秒の間のことだった。そして次にスキャンした時には不気味な赤のシルエットは再び現れ、見事に緑のシンボルのシックス・オクロックに位置していたのである。レーダー上ではどれほどの距離かわからないが、この赤い三角形のパイロットがリヴァイだということを考えれば、Su-69に搭載された機関砲の最大有効射程だという1500メートル前後には入っているのだろうか。
次にスキャンした時には二つのシンボルはほとんど重なっていて、怖いほど冷静な声で『フォックス・スリー』というコールが響いた。
アニもジャンもあっという間にやられてしまい、最後に残ったエレンはリヴァイに名前を呼ばれる瞬間、それがまるで死刑宣告のように感じられた。何とか元気よく返事をしようとしたのだが声が裏返ってしまい、新人歓迎会の二次会で連れて行かれたまさかのオカマバーのオカマそっくりの声になったのは最悪だ。
緩く描いていた円から脱し、今はレーダーにくっきりと映るスホーイの機影に向けて機首を向ける。マキシマム・レンジを切ったらいつでも発射できるようにシーカーの冷却はもう始めなければならない。頭の中で色々なパターンをシミュレーションしながらレーダーのシンボルをにらみつける。
するとさっきまでは黙っていたリヴァイが話しかけてきた。
『そういえばまだ、どうして国防空軍がSu-69を保有しているのか話してなかったな』
エレンは答える余裕なんてなかったが何とか送信スイッチを押し短くそうですねと言った。それを聞いたリヴァイが教えてやろうと言う。確かに気になるがあと五分かそれくらい待ってくれてもいいんじゃないかと思った。こっちはいつ有効射程に入ってくるのかと緊張して待ち構えているのに。
『この機体はな、十年前に空軍の訓練空域に侵入してきたアンノウンだ』
ヘッドセットから聞こえてくる声に意識が持っていかれる。
『こいつは警告に向かったF-55一機をSRMで撃墜した。その撃墜されたFの僚機は正当防衛を訴えたが、上は許可しなかった。結果としてヒャクリ基地への強制着陸が実行されたわけだ』
「強制着陸…?」
我慢できずにエレンは声を上げた。
アンノウンが大人しく空軍の指示に従うことなんてあるのだろうか。いくらバルカン砲を向けられようが、撃ってこないとわかっていたら怖くはないだろう。そのまま振り切って空域を出て行ってしまえば国防軍機はウォール・マリアの外側までは着いてこないはずだ。
『強制着陸させることには成功したが、パイロットは着陸後に自殺した』
「はぁ?」
ますます意味がわからない。どうせ死ぬなら機体ごと海にでも突っ込めばこうして敵にスホーイを奪われることもなかっただろうに。何故わざわざヒャクリに着陸してから死んだのか。
『パイロットの遺体や遺品からは身元を示すような情報は得られなかった。唯一の収穫がこのSu-69ってわけだ。性能が俺たちのF-55に引けを取らないというのはわかっていると思うが、実際にこの鶴は強いぞ。仮想敵国と戦闘になることは今までなかったが、国籍を明かさないテロリストは構わず撃ってくる。撃てるSu-69と撃てないF-55…どっちが強いと思う?』
それは話にならない。撃てない戦闘機が相手なら、パイロットが寝てない限りポンコツだって勝てる。本当に戦いになった時に撃てないというなら、最強の戦闘機という称号もどんな装備も性能も意味はない。
「撃てないなら勝てませんよ。でも負けるかどうかはわかりません。…それで、今回兵長がその撃てるSu-69に乗っている理由は?」
『タイタンが使う機体は今のところミグとこのSu-69が確認されている。恐らくこれから先も、この国を襲いに来る時はそれらを用いると思われる。このSu-69だが、ポストストールマニューバ能力が非常に高えからな…この機体にしかできない機動がある。今回はおまえらにそれを体験させるためにコイツで敵機を演じてるってわけだ』
ポストストールマニューバ能力…つまり失速下での機動性が優れているということだ。
エレンはアニとジャンが味わい、そして今から自分も知るであろうその空戦機動に息を呑んだ。
レーダーを見ればまだリヴァイの機影は捉えられている。もう有効射程に入るだろうか。ヘッド・アップ・ディスプレイに表示されるであろう『IN RNG』の文字を今か今かと待つ。
その時だった。
ついさっきのスキャン時には確かに映っていた機影が消えた。アニ、そしてジャンの時と同じだ。
「くそ、どこだ」
シンボルが消える瞬間までの距離は21マイルを切っていた。レーダーでさえ捉えられればLOALを利用してSRMを発射できる。できるのだが、レーダーで捉えられないのだ。
――どういうことだ?
いくらステルス機と言っても完全にレーダから逃れられるわけがない。機体には必ずレーダー波を反射してしまう部分も存在するはずなのだ。
アニとジャンが最大有効射程内に入っても撃てなかった理由がわかった。やはりあの時二人のレーダーからもリヴァイは姿を消していたのだ。LOAL方式も可能なAAM-2ならミサイルのシーカーはロックオンできなくても問題はないが、少なくとも母機の方は敵機を捉えていないとミサイルはとんでもない方向に飛んでいくことになるかもしれない。
なるほど、それであの二人もミニマム・レンジを切るまでミサイルは使えなかったわけだ。こうなるとあとは目視で敵を捕まえ機関砲で狙うしかない。
どこだ、どこだ、どこだどこだどこだ。
エレンは水色の絵の具をぶちまけたような空とその下に広がる海、浮かぶ雲の中を必死に探す。先に相手を見つけたらそれだけ有利になる。リヴァイ相手に出遅れたらもう勝ち目はないに等しいだろう。何としてでも白とグレーの美しい鶴を見つけなければならない。全神経を目に集中させる。
時計を確認してさっきからどれだけ時間が経ったのかが知りたかったが、そんな悠長なことをしている暇はなかった。
『エレン』
リヴァイは余裕のある落ち着いた声でいつも通り話しかけてくる。
何ですかうるさいですよ。そう言ってやろうかと思ったが、やっぱりヘッド・アップ・ディスプレイから意識が逸らせない。目の前に広がる空のどこかにリヴァイは潜んでいるのだ。雲の隙間か、グレーがかった水色の海を背景に同化しているのか、あるいは――
『なぁエレン』
「…訓練中ですよ。敵が話しかけてくるのはおかしいでしょう」
さっきまでSu-69の話を黙って聞いておいて今更だったが、イライラを我慢できなくて口が滑ってしまった。
『それはそうだが、いつまでもこのままじゃ訓練にならねえからな』
「どういう意味です」
『後ろ見てみろ』
――後ろ?
エレンはバックミラーを見た瞬間に心臓がフレームアウトするかと思った。
そこには白とグレーの鶴がその美しい姿を見せつけるように、自機の後ろをぴったりと、ほんの数メートルだけ間隔をあけてついてきているのだ。思わず悲鳴を上げそうになった。
『もう15秒はこうやって飛んでるが一向に気付きやしねえ』
「15秒!?」
信じられない。いつの間にかシックスに回り込まれていただけでもびっくりなのに、まさか自分が15秒間もその事実に気付かなかったなんて、情けなさすぎて全部消してもう一度やり直したい。
それにリヴァイもリヴァイでいい性格だ。バックを取ったならとっととご自慢の30mm機関砲で仕留めてくれればいいものを、自分が気付くまで黙って飛んでいるなんて敵機が取る行動じゃない。――ちくしょう、なめられてる。
エレンが悔しさに歯を食いしばっている間にスホーイはFの上を追い越し、何故かエレンの目の前、少し加速すればぶつけられそうな距離にいた。この上官の頭のネジの何個かは爆発して弾け飛んでるのかもしれない。
「何を…」
『さて、俺は今から逃げようと思う。ついてくるも距離を取ってSRMを使うも自由だ。好きにやってみろ』
言い終わるのが先か、目の前にあるスホーイの双発エンジンがオレンジを噴き出した。アフターバーナーを点火したのだ。
エレンは考えるよりも早くスロットルレバーをA/Bまで押し込んだ。リヴァイのスホーイはレーダーから消える以上、目視で確認できる圏内より外に出すのは危険だ。また知らない間にシックスを取られているなんてことになりかねない。それを防ぐために必死に追った。
二匹の鳥は火を吐きながら大空を翔けて行く。
F-55の機関砲の有効射程800メートルを割ったら仕留めてやる。そう狙っている内にその瞬間はやってくる。
エレンが親の仇でも見るような目で必死ににらみつけているヘッド・アップ・ディスプレイからスホーイの姿が消えたのである。突然のことに目ん玉が飛び出そうになった。
レーダーから機影が消えるのはまだわかる。それは世界からその物体が消えたわけではなく、『レーダーを反射するものはない』ということなのだ。簡単に言えばレーダー波を透過させる物質があれば『レーダー上では存在しない』ことになる。
しかし視界から消えるのはわけが違う。そんなはずはないのだが、一瞬であのスホーイがこの世から消えてしまったのだと思わずにはいられない。まるで魔法みたいだ。
そう思って気付く。リヴァイの操縦する機体はいつもそうだった。ああ消えた、どこにいる、そう思った時次に姿を現すのは必ず目標の背後だ。
バックミラーを確認すると、F-55のお尻にキスしそうな距離にSu-69が構えていた。
冷たい声が『フォックス・スリー』とコールするのと同時に、エレンは今度こそ我慢できずに全身を振るわせるような悲鳴を上げた。
『Su-69』vs『F-55』の結果は3対0でスホーイの圧勝だった。
とはいえ、この結果にはパイロットの技量が大きく関わっているので一概にスホーイの方が優れているとは言えない。
「おまえらもわかっていると思うが、今回教えたかったのはSu-69のポストストールマニューバ能力の高さだ。残念ながら今日俺がおまえらのシックスを取ったあの機動は国防軍のF-55じゃできない。だがな、だからといって俺たちのFが負けてるわけじゃねえ」
デブリーフィングでリヴァイはそう言った。
全長19メートルを超える大きな機体に巨大な主翼を持ち、左右の翼下・胴体横と胴体下にある九か所のパイロンに計八発のミサイルを搭載できる。最大速度マッハ2.5、航続距離4600㎞以上。最大運用高度は62000フィート以上とされ、記録に残っている中では102000フィート(約31000メートル)を超える。
強力な二発のエンジンが高い格闘戦闘能力を可能にするその機体は、1975年に3000、6000、9000、12000、15000、20000、25000、30000メートルへの最速上昇の世界記録を更新し、後にそのうち五つをライバルであるSu-69に塗り替えられているが、現在でも20000メートルへの最速上昇世界記録122.94秒は保持しているのだ。
大空を翔けるその姿は鷲と比喩されることもある。
そして世界のさまざまな軍で独自に改良され配備されているその最強の鷲が空対空戦で撃墜されたのは、実際に運用され始めてから今日までの間でたったの四機だ。
十年前に一機、今年に入って三機。全て国防空軍の保有する機体である。
負けたくないと思った。
F-55には他に負けないだけの素晴らしい力がある。だけどそれを生かすも殺すも結局はパイロット次第だ。戦うために生まれた彼らが撃てないまま墜とされることは、護るために戦う自分たちが撃たれることよりずっと悔しいだろう。
エレンは爪が食い込んで血が滲むほどに拳を握った。
訓練では三人とも無様にシックスを取られ撃墜判定を食らったが特に怒られはせず、今日のフライトは本当にSu-69の機動力の高さと恐ろしさを教えるためだけのものだったようだった。前回は体が宙を舞うくらい殴り飛ばされているのでお叱りの一つも受けないのは物足りないような気もしたが、別にそれを期待していたわけでもないのでエレンは安堵の息を吐いた。
リヴァイとアニが会議室を足早に出て行ったあと、ジャンが話しかけてきた。また何か文句を付けられるのかと身構えたが、ジャンは目線を下に下げたまま言いづらそうに今日の夜付き合ってくれねえかと言ってきた。顔を合わせれば喧嘩が始まる自分たちがプライベートで会うなんてお友達みたいな行為には吐き気を覚えたが、ジャンの顔は真剣そのものだった。念のため槍でも降るのかと窓の外を確認したが、それらしき影は見えない。
相手が相手なのでしばらく渋ってしまったが、結局奢ることを条件に話がついた。
13
「で、何の用だよ?」
一杯目のビールで乾杯したあと、エレンはいきなり本題に突っ込んだ。四年間もの間飛行機バカとしか接してこなかったせいか、あるいはもともと空気が読めなかったか、相手が言い出すのを待つような気の利いた性格ではないのだ。
何の遠慮もなしにグイグイ来るエレンにジャンは意表を突かれたような顔をしたが、よく考えれば自分たちの間に相手を思いやったりする気遣いは不要だったことを思い出して諦めたようにため息を吐いた。
「アニのことなんだけどよ…」
生涯の喧嘩相手から飛び出た名前は少々意外だった。ジャンが大嫌いな自分を呼んでまで相談したいというのが、不愛想な一匹狼のことだとは予想もしていなかった。確かにジャンとアニは航空学生時代からの同期だと言うし、今も同じ845飛行隊の仲間なのだから関わりは多いのだろうが、そこまで仲が良いようには見えない。
「何だよ。アニに何か言われたのか?あいつ毒舌だもんな」
「いや…別に何か言われたりされたりしたわけじゃねえんだ」
「じゃあ何だよ」
エレンはわけがわからんとピクルスに箸をのばした。前置きとかそういうのはいいから単刀直入に言えよと毒づくのは心の中だけに留め、ジャンが続けるのを待ってみる。
「アニってよぉ…リヴァイ兵長のこと好きだと思わねえか」
「全然思わねえ」
「そこは少しくらい同意しろよ!話が進まねえぞクソ野郎!」
「何だよ離せって!服が破けちゃうだろうが!」
テーブル越しに胸倉を掴まれたエレンは普通の感覚からは少しズレたポイントで怒りを露わにした。ジャンはジャンでエレンの服が破れようが弾け飛ぼうが心底興味はなかったが、男の乳首なんかは見たくはなかったので手を離した。
「…今日は喧嘩は止めとこうぜ。基地外じゃいつも仲裁に入ってくるヤツらもいねえしな」
「同感だ、話を戻そう。アニが…何だっけ?」
「リヴァイ兵長のことを好きなんじゃないかって話だ」
ジャンの言葉にエレンは固まった。
「それはない」
「何でそんなこと言えんだよ」
「だってアニ本人が否定してたぜ」
今度はエレンの言葉にジャンが固まった。
「アニに直接訊いたことあんのかよ」
「だってあいつ、俺に何度も『リヴァイ兵長と付き合ってるのか?』って訊いてくるんだぜ。そんなのリヴァイ兵長のこと好きだからだと思うじゃねえか」
ジャンは自分が『エレンを好きか』と訊いたことは棚に上げて、直球過ぎだろと思った。しかしエレンが訊いた時に否定したというならやっぱり勘違いだったのかもしれない。リヴァイもアニは自分へ恋心なんか抱いていないと妙な自信を持って言い切っていた。
「てかジャン、むしろおまえがアニ好きなんじゃねえの?」
「はぁ!?」
「うわ汚えっ。唾飛ばすんじゃねえよ」
そうは言ったがジャンからすれば唾も飛ばしたくなるのだろう。不本意そうに歪んでいる目が訴えている。
「おまえ…どこをどうしたら俺がアニを好きだなんて愉快な展開になるんだよ…」
「どこをどうしたらって…おまえの言動、どっからどう見てもアニに絶賛片思い中にしか見えねえけど」
ジャンは目をひん剥いた。それはそうだろう。キング・オブ・ニブチンことエレン・イェーガーの目にそう映るならこの世界の誰が見たってそう映るに違いない。もちろんアニの目にもだ。
「俺は別にあいつのことなんて!ただアニが異常にリヴァイ兵長を気にしてるから、何かあるのかなって思ってだな」
ジャンが言い訳がましくぶつぶつと呟いているのを右から左へ流し、エレンはチーズの盛り合わせを摘まんだ。
自分でも不思議だが、目の前のジャンがアニのことを好きだということに関しては自信を持って言える。今までは他人から教えてもらうまでそういう話には気付けなかったし、全く興味なんてなかったのだが、アニにリヴァイと付き合っているのかと訊かれた辺りからわかるようになった気がする。今はほんの少しだけ、誰が誰を好きなのかが気になったりする。
例えば本人は否定しているが、あの恐ろしい上官には好きな人がいるのかどうか。リヴァイのことを好きな人はいるのかどうか。
その結果によって自分に何か変化があるわけではないと思っているのに、どうしても考えてしまう。
「まぁ確かに…アニって兵長のことをよく見てるよな」
ブルーバーズの元隊長だし、一度はブルーから誘いを受けていた身としては気になるのだろうか。
「エレン、おまえは気にならねえのかよ。リヴァイ兵長だってアニに対しては意識してると思うぜ」
ジャンの言葉にチーズを挟んだまま箸が止まる。
なんだその言い方は。ジャンがアニのことを好きなように、まるで自分がリヴァイのことを好きだと言ってるみたいじゃないか。
「何で俺が気にするんだよそんなこと」
そうは言ってみたが、『リヴァイ兵長だってアニに対しては意識してる』という言葉はエレンの心を想像以上に乱した。リヴァイは他に類を見ない優秀なパイロットだし、アニも同年代の中では一人だけ突出した実力を見せている。お互いにしかわからない何かがあるのかもしれない。
悔しいと思った。リヴァイは口が悪いしすぐ手が出るし、お世辞にも人当たりが良いとは言えない。時々凄く怖くて逆らえない瞬間もある。
だけどエレンにとってはやはり命の恩人で、尊敬できるパイロットで、厳しくも見守ってくれる上司なのだ。誰よりもまずリヴァイに認めて欲しいという気持ちがある。あの人が自慢できる一番の部下になりたい。
この憧れの気持ちを周りの人間は『恋だ』と騒ぎ立ててくるが、生まれてこの方恋などしたことのないエレンにはそう思えなかった。エレンの知識の中では一部を除いて男とは女に恋をする生き物なので、男であるリヴァイに対して抱く気持ちが恋であるはずがないと感じていた。自分が特殊な人種である一部に入るとも思えなかった。
そして同時に恥ずかしかった。あの鬼上官のことを好きだと思われるのは、嫌というより恥ずかしいと表現する方が正解に近い。
「おまえさ、本当にリヴァイ兵長のこと好きじゃねえんだな?」
ジャンは改めて低く真面目な声で訊いてくる。いつもみたいに軽いノリで好きなんだろうと言ってくれれば、こっちだってふざけて否定できるのに意地悪だと思った。
「それは…」
答えに迷う。ジャンの言う好きの意味はわかっているから『そういう意味では好きじゃないけど尊敬はしてる』と言うのは簡単だ。実際にそれが一番リアルで当たり障りのない答えだと思う。
だけど酒が入っているとはいえこんなに真面目なテンションでそれを答えてしまったら、その言葉はこの先エレンを縛り付けるだろう。自分が口に出したことには責任を持つ性質だ。上官は尊敬できる上司としてだけ存在し続け、その人へ向ける気持ちが変わることはない。
それを思うと怖かった。それを怖いと思うことがどういうことだか、何となくわかりかけていた。そんなはずはない。首を左右に振りたい衝動を我慢する。
「わからねえ」
「何だそれ。迷ってるって時点で好きなんじゃねえか」
「ち、違う」
「違うのか。じゃあ好きじゃないんだな」
「違う!…あ、いや、その…好きじゃないというか…」
「面倒なヤツだな。好きって認めろよ」
「うるせえそんなわけあるか!だってあの人俺より背低いんだぞ!?」
答えの出ない自分を責め立てるジャンに半ば逆ギレでそう抗議したエレンは、まだ自分の発言の決定的なミスに気付いていない。ジャンが目を丸くしているのは鼓膜がぶち破られると思うほどの怒鳴り声の所為ではなく、エレンのとんでもないカミングアウトが原因である。馬と間違われることに定評のあるその顔面で同僚を見つめる。その顔は新種の生物を発見した学者のようなものだった。
「何だよ…何か言いたいことでもあんのかよ」
大声を上げたおかげでシャレたBGMの流れる店内の注目を一気に集めてしまったエレンは恥ずかしそうに小声で言った。
「おまえ、自分より背が高いヤツが好きなのか?」
「え…あっ」
ジャンからの問いかけに今度はエレンが目を丸くした。一瞬何をそんなに驚いているのかがわからなくて間抜けな声を上げたのだが、次の瞬間にはすべて理解した。
『俺より背が低いから好きじゃない』という自分の主張からすると、その好みは自分よりも背が高い人ということになる。男性側のものとしてはかなり珍しい。『自分より背が高くてもいい』という人は見るが、『自分より背が高い方がいい』というのは中々いないのだ。
成人男性の平均身長と同じくらいのエレンより背が高い女などそう多くはなく、自分よりも背が高い人を好むのはそもそも一般的に女の性質であり、それを考えるとエレンは恋愛対象に少なくとも男性的な性質を求めているということになる。おまけにその対象に対して自分の方が女のような立場を取りたいと思っているという、これまたどう考えてもゲイルート以外ありえないという展開だった。
「ち、違う!俺は断じてゲイじゃない…!お、おい、何だよその顔は…どこ見てんだよ…俺のこと見ろよ、どこに焦点合わせてんだ?おいジャン!ジャンン!!」
*
「…出るか」
「…はい」
隣の席から聞こえる話が衝撃的すぎて落ち着いて食事も取れないのでもう諦めることにしたリヴァイとアニは逃げるように店を出た。
リヴァイはジャンのことを、アニも知りたいことがあってこんな所までやって来たのに、当の本人たちが来店し真横の席に着くなんて珍事はそうあるものではない。仕切りで顔がわからなかったのは不幸中の幸いだったが、件の二人は横に本人が座っていることなど気付かずに自分たちの話を始める始末だ。無表情ランキング国防空軍部門第一位、二位を爆走中のリヴァイ・アニを以てしても表情筋が痙攣する事態だった。
基地の連中に会いたくないとの一心で三つ先の駅にある、むさ苦しい男共とは無縁でオシャレなレストランを選んだのだから、オシャレのオの字も知らぬ筋肉の塊が二人でやってくるなんて想像できなくて当たり前だ。
大きなため息と共に店を出た二人は駅前のコインパーキングに向かって歩き始めた。
今夜は満月で外は薄明るい。ハネダ基地はわりと都会にある方なので街の明かりがあるが、他の基地は大体とんでもない田舎にあるので満月の光は貴重だった。こんな夜のスクランブルは敵機がよく見えるのだ。
「…おまえは好きなヤツ作らないのか」
リヴァイは星なんか見えない夜空を見上げながら言った。
「何度も訊かないで下さい。部下の恋愛事情に口を出す上司なんて嫌われますよ」
アニは素っ気なく返す。こういう話題は最も嫌いなうちの一つだった。
「おまえはもともと俺のことが嫌いだろう」
はっきりとそう言ったリヴァイは無表情のまま横目で見てくる。アニはその目が嫌いだった。何を考えているのか全くわからない。この男は自分のことをどう思っているのか。
「リヴァイ兵長は昔…」
そう言いかけて止まった。自分は何を言おうとしたのか。リヴァイは黙って歩き続ける。月明かりはどこか似ている二人の冷めた目を薄っすらと照らしていた。
「アニ、俺が怖いだろう」
ビクッと肩が震えた。今日の訓練を思い出す。
デブリーフィングで聞いた限り、ジャンとエレンはリヴァイにシックスを取られて負けたそうだが、アニの場合はその前にもっと恐ろしい目に遭っている。キャノピー越しに見たリヴァイの目は自分を敵と認識していた。あれは本当に訓練だったのか。その思いが消えない。
「怖いか?他のヤツらみてえに女だからと優しくはしてやらねえしな」
自分より少しだけ高い背が前を行く。だけど肩幅や筋肉の量は全然違った。力がものを言う男の世界に無力な女が入っていくのはどれだけ怖いことか、この男に理解できるのだろうか。
「だけどな、優しいヤツもいるぞ。例えば俺がおまえを殺そうとしたら、止めるようなヤツがきっといる」
「物騒な例え話はやめて下さい」
たった一人いたそんな人はもういない。そう思いながらそのまま話していると、代わりにジャンが浮かんできた。優しいヤツと言われてあの男の顔が浮かんだのは、さっき隣であんな話をされた所為なのだろうか。
人の気も知らないで全力で否定した馬面を思い浮かべると、何だか無性に会いたくなった。はじめての焦燥感。会って話したいのか殴りたいのかはわからなかったが、この上官の顔を見るよりは百倍マシだ。
好きなんかじゃない。だけどいつの間にかはっきり嫌いと言えるほど嫌だとは思えなくなっている。
不本意ながら車で基地へ送って貰う間、車内のラジオから流れていた陳腐なラブソングに生まれてはじめて共感できた。
*
『いいのかアニ。おまえも見えてるんだろう。遠慮せずロックオンしろよ』
無線から聞こえてくる声の主に本当にミサイルを撃ち込んでやれたらどれだけ楽だろうか。あらゆる制約がなくなれば自分はまずこの男を殺すだろう。
広がる視界には確かにリヴァイのスホーイの姿が小さく映っている。しかし垂直状況ディスプレイ(VSD)に機影は映らない。目視圏内なのでレーダーはACM用のスーパーサーチモードにしているが、全く捉えられないのだ。これじゃあAAM-2は使えない。
いくらSu-69のステルス性が高いと言ってもこんなことがありえるのだろうか。
現代の空戦において重要なのはパイロットの目よりもレーダーの質だと言われている。今日撃墜される航空機の八割以上が目視外からの攻撃によるものだとされているのだ。
何故リヴァイの操縦するスホーイはレーダーから逃れられるのか。美しい鶴にも見えるその機体が今は不気味でならなかった。
そのうちに視界からも完全に消えたブルーシー・ゼロワンが次に姿を現したのは自機の真上からだった。冷静だと自負している自分でさえ悲鳴を上げそうになった。突然キャノピーに影が掛かり、本体の重さだけで17トンを超える機体が降ってきたのだ。
ぶつかる。そう思ったが鶴は間隔を一メートル弱だけ残してピタリと止まった。その時の恐怖たるや忘れることはできない。
顎を上げて上を見てみるとSu-69は背面飛行をしていて、キャノピー越しに見えるのは機体の腹ではなくこちらと同じコックピットだった。そこにハーネスで縛り付けられている男がバイザー越しに自分を見ている。いや、もしかしたら見ていないのかもしれない。
はじめてリヴァイが敵に向ける目を知った。あれは人間に向けるものじゃない。虫けら、ゴミ…いや違う、道端に落ちている石ころを見る目だった。嫌悪感すらない、何とも思っていない目だ。
殺されると思った。とにかく怖かった。
何もできずにあっという間にシックスを取られて訓練は終わったが、しばらくの間震えは止まらなかった。国防空軍を敵に回すということはあの目を容赦なく向けられるということだ。殺意すらないあの目を、敵パイロットは一人で受け止めなければならない。
深夜、全く眠れなかったアニは部屋を出て基地の中を散歩していた。広大な敷地内は考え事をしながら歩くのにはちょうどいい。今日は満月なので満足に星も見えないが、それでも夜空を見ていると幾分心も落ち着いた。
目的地だったわけではないが、たどり着いたのはアラートハンガー脇にある草むらだった。例のネコの姿は見えないが腰を下ろす。
夜とはいえアラート任務に就いている隊員もいるので、基地内は全くの無音というわけではない。明かりの点いたハンガーからは少し離れ、ほんの数メートル先の景色も見えない闇の中、アニという存在は世界によく馴染んでいた。
TACネームを付けてくれた教官がどんなつもりだったのかは知らないが、バットという名前は自分にお似合いなんだなと再認識した。光の当たる場所では生きていけない。生きる力を持っていないのだ。
しばらく膝を抱えていると、遠くから何かが走ってくる音が聞こえてきた。人だ。こんな時間にランニングだろうか。
アニからすれば足音で相手の位置がわかるのだが、向こうからすれば暗闇の中で黙って座り込むアニの姿なんて見えるわけがない。足音は真っ直ぐ、そしてかなりの速さで近付いてくる。このままではぶつかると思い立ち上がると、タイミング悪くペースを上げた人物の腕が思いっきりアニの肩にぶつかり横を通り過ぎる。
「いた…っ」
思わず声を上げると目の前を通り過ぎた人影は十数メートル先で止まって振り返る。
「あっ、すいません!今ぶつかりましたよね」
謝りながら駆け寄ってきた顔にびっくりした。見覚えのある馬面だ。
「ジャン…?」
「アニ?おまえ…こんな時間にこんな所で何やってんだ」
その言葉をそっくりそのまま返してやると、ジャンは襟元で汗を拭いながら寝付けなくてランニングしていたと答えた。上がっている息に合わせて顔も少し赤くなっている。汗をかいている姿ならフライト後に見飽きているが、勤務時間外に、しかもこんな夜遅くに見るといつもと違って感じた。
「私も同じ。眠れなかったからここで涼んでた」
そう言ってもう一度草むらに腰を下ろす。ジャンは居場所がなさそうに困った顔をしていた。このまま放って置けば走ってどこかに消えてしまうだろう。
満月の力か、酒など一杯も飲んでいないのにやけに素直になれそうだと思った。
「座れば。風が涼しくて気持ちいいよ」
最後の意地で『少し話さない?』とは言えなかったが、アニにしては信じられない進歩だった。ジャンも驚いたようで困った顔をしたが、すぐにアニの横へ腰を下ろす。
お互い無言だった。
アニが月を見上げれば、それを見たジャンも黙って天を仰ぐ。星のように見える小さな光は航空機のものだ。こんな時間でも世界中の空を飛行機が行く。宇宙飛行士か戦闘機パイロット以外の人間はこの夜空を見た時に宇宙を感じるのだろう。全く自然というものはすごい。神なんているのかはわからないが、その目から見れば人類なんてちっぽけな存在であり、たった一人の悩みや迷いなどはあってないようなものなんだろう。きっとその生死さえも。
二人はしばらくの間黙ったままだったが、やがてアニが沈黙を破った。
「今日凄かったね」
「え?」
「スホーイ」
「あ、ああ。リヴァイ兵長…何で操縦できたんだろうな。機体は十年前のものだって言ってたけど、訓練とか受けたのか?」
ジャンの声はどうしてか震えている。たぶん緊張している所為だと思うが、今さら何を緊張しているのかはわからなかった。
「さぁ…してたとしてもそんなに時間は取れないと思うよ。この十年でブルーバーズとアグレッサーに行ったんだし」
「…兵長って凄いよな。何でもできて敵わねえよ」
そう言って悔しそうに笑うのでアニは首を振った。
「そんなことない。人間は万能じゃないし、いくら凄くてもあの人は人間だよ」
それは自分に言い聞かせるようなものだった。
「ねえ、もしもリヴァイ兵長が私を殺そうとしたらどうする?」
「はぁ?」
ジャンの口からは素っ頓狂な声が出たが予想通りだった。自分で言っていてもおかしいのだ。
「もしもって、そんなもしもありえないだろ」
「いいから答えてよ」
随分頭の悪い話し方だなとは思うが今日はもう何でも言えそうな気がした。
ジャンは難しい顔をして悩んでいる。意地悪なことを訊いているとの自覚はあった。だけど早く答えが聞きたかった。リヴァイが自分を殺そうとする…二人がパイロットである以上、その場面はやはり戦闘機による空戦で再生される。最強のパイロットに殺されそうになっている同期。ジャンはその時どうするのか。答えを聞くのが怖いのに期待している自分もいる。
「俺は…どっちかを説得するよ」
ジャンがようやく出した答えにアニは首を傾げた。
その様子にジャンが何とか言葉を探して説明を試みようとする。
「おまえとリヴァイ兵長が戦うってことは、どっちかが俺たちと敵対してる状況だろ。だったら俺は敵となった方を説得する。帰ってこいって言う」
想像以上に現実的な答えに思わず吹き出した。『俺がおまえを助けてやる』なんて期待していたわけじゃないが、ある意味それよりも意外だった。だけど国防空軍のパイロットとしてはギリギリ合格圏内の答えなのかもしれない。見かけによらず甘い男だと呆れ半分の笑いが出る。
「駄目だねジャン。たとえ仲間でも敵になったのなら倒さなきゃ。そうしなくちゃこの国は護れないよ」
「…俺は空軍のパイロットが強いのは仲間がいるからだと思う。だから、一度仲間になったヤツはそう簡単には切れねえよ」
ジャンは真っ直ぐにアニを見てそう言った。
すべての隊員がそうだというわけではないが、国防軍には優しすぎる人が多いと思う。何かを護るためには何かを犠牲にしなくてはならない。全部護ってやろうなんて虫のいい話だ。空軍のパイロットとしてはそこが不安になる。
だけど今の答えでジャンはアニのことを仲間だとはっきりと言った。それがくすぐったくて辛い。
「『ずるいコウモリ』って知ってる?」
「何だそれ」
「童話だよ。むかしむかし…」
昔々、鳥の一族と獣の一族の間で激しい争いが起きました。
その様子を一匹のコウモリが見ています。
鳥の一族が有利になると『私は鳥です。その証拠にほら、あなたたちと同じ翼があるでしょう』と言って鳥たちの前に姿を現しました。
獣の一族が有利になると『私は獣です。その証拠にほら、ネズミに似た灰色の毛皮に牙があるでしょう』と言って獣たちの前に姿を現しました。
やがて争いは終わり、鳥の一族と獣の一族は共に暮らすようになりました。
しかし、彼らの間を繰り返し寝返っていたコウモリに居場所はありませんでした。
鳥からも獣からも弾かれたコウモリは、やがて暗い暗い洞窟の奥で一匹、ひっそりと暮らすようになったのです。
「ああ、子どもの頃に親が読んでくれたよ。可哀想な話だよな」
「可哀想?」
はじめて聞いた意見だ。コウモリは自分に都合のいい時に都合のいい方へ傾くズルいヤツだったから自業自得だという人が多い。
「うーん何て言うか…自分にとっていい環境ってのは常に変わるだろ。例えば会社とかだって、入って実際に働いてみないとわからないことの方が多いしさ。あ、やっぱり違うなっていう感覚は誰にでもあるんじゃねえの」
「それはコウモリが両者の間を寝返るのとはちょっと違う気がするけど」
「いやだから例えだって。とにかく俺は可哀想だと思ったんだよ」
自分の言いたいことを上手く伝えきれなかったからか、ジャンの顔はつまらなさそうに膨れている。それがおかしい。自分の頬の筋肉が小刻みに震えているのがわかる。同じ名前だからか、少しだけ境遇が似ているからか、コウモリに自分を重ねていたアニの沈んでいた気持ちが少しだけ浮かび上がる。
あんまり長居すると寝る時間がなくなってしまうのでそろそろ戻ろうかと立ち上がった。涼んだおかげでよく眠れそうだ。
「アニ」
男子隊舎と女子隊舎の分かれ道で背中を向けてしばらく歩いたところで呼び止められる。立ち止まって首だけで振り返るとジャンはこちらに走ってくる。目の前までやって来られたらさすがに背中を向けたまま話すわけにもいかず、仕方なく向き直った。
ジャンは自分より二十センチは低い肩に手を置いて真っ直ぐアニを見て口を開く。
「さっきの続きだけど…もしもおまえが助けてって言うなら、俺はどんな立場でもそれに応えてやりたいって思う」
アニが反応するよりも早く、名残惜しげもなく肩から手を離したジャンは背を向けて走っていってしまった。言い逃げされたアニはしばらくその場に立ち尽くしたが、やがて周りに人がいないかを確認して一際大きくため息を吐いた。
やっぱり今日は穏やかに眠れそうにはない。
*
ジャンとアニが草むらで星を眺めていた同じ頃、エレンはリヴァイに呼び出されて久しぶりに殺風景な部屋へ来ていた。
ジャンと飲み終わり隊舎に帰ったところでリヴァイから電話が来たのだ。今暇かと訊かれた時はすでに十一時過ぎだったが、酒も抜けきっていなかったのですぐには眠れないと思い呼び出しに応じることにした。色々と訊きたいこともあったからちょうど良かったのかもしれない。
いつも通り家に入るとまずうがい手洗いをさせられ、必要最低限のものしかないリビングの床に座る。リヴァイのことだから飲むつもりだと思って来ていたが、意外にも出されたのは未開封のペットボトルに入ったミネラルウォーターだった。はじめてのことだったので不思議そうに受け取ると、今日はもういいだろうと意味あり気に言われた。
呼び出したくせにリヴァイは特に話をせず、エレンの方もだんだん酔いが醒めてくる。
せっかくだから今は自分が会話の主導権を握らせて貰おうと、昼間からずっと気になっていたことを訊いてみることにした。
「今日の訓練で兵長のスホーイは俺たちのレーダーから何回か消えました。あれはスホーイの特性なんですか」
「いや、特殊な機動を取ることによってF-55でも可能だ。Su-69がステルス機と言ってもレーダーから完全に逃れられるわけじゃない。機体の構造上どうしてもレーダー波を反射してしまう部位も存在する。だからそれを逆手にとり、わざとレーダー波に反応してみせればいい。次にスキャンされる時に今度はレーダー波を反射しなければ、敵機のレーダーはこっちの機体を探知することができない」
「そんな方法があるんですか」
現代の空戦で物を言うのは機体の性能だと思っていたが、パイロットの技量次第で戦いはこんなにも有利になるらしい。そしてそれを自分の乗機ではないSu-69でやってしまうリヴァイの才能には相変わらず驚かされる。
「一朝一夕でできるようになるもんじゃねえが、少しずつでも慣れていけ」
「そうします」
F-55でもできるということは訓練次第であの技を自分も使えるということだった。もしものにできたらリヴァイのように戦えるのだろうか。考えるだけでワクワクする。
「あともう一つ、兵長が俺の前から急に消えてバックを取った技は何ですか?」
「ハンマーヘッドと言われてる機動だ」
聞き慣れない名前にエレンは首を傾げた。
「相手が自機のシックスについている時にオーバーシュートさせる機動だが、かなりの荒業でな。ポストストールマニューバ能力の高い機体でないと危険だ。両者がアフターバーナーを点火している状態で機首をほぼ垂直に上げ、機体を上昇させエアブレーキを作動させる。傍から見れば空中で止まってるように見えるらしい。その間に敵機は自機を勝手に追い越してくれるってわけだ。瞬間的に上昇するから距離を詰めすぎていると目の前から急に消えたように感じるんだろうな」
リヴァイの説明でようやく自分が陥っていた状況を理解することができた。レーダーから消えたのも視界から消えたのも、どちらも特殊な機動によるものだったらしい。魔法でないことが確定しただけで随分落ち着けた。
「そのハンマーヘッドはFにもできるんですか」
「できなくはないかもしれねえが危険だ」
「そうなんですか…」
Su-69にできてF-55にできないのは少し悔しかった。だけど自分たちを陥れた謎の技の正体が判明したのは良かった。パイロットがリヴァイであるということを抜きにしたってスホーイは脅威だ。昼間にリヴァイが言ったように、国防軍は先手を取ることができない。敵が撃ってくるまで基本的に攻撃ができないのだ。
もしも防衛行動命令が発令されれば襲い来る脅威に対してはいくらでも武力を行使してやるつもりだが、過去一度も出されたことのないものに期待しても仕方がない。軍の上層部と政府の重い腰を上げさせることはこの戦いにおいて最優先項目だが、そのためにエレンにできることは何もないのだ。現場のパイロットとして、いつでも出撃できる覚悟をしておくくらいしかない。
それでも最悪の時は正当防衛が認められているだけでまだマシだった。さすがに自機が攻撃を受けてもやり返すなというのは承服しかねる。
ただ暗いだけの外の景色を見ながら考え事をしていたエレンに、リヴァイも同じ景色を見ながら口を開いた。
「十年前な」
そう切り出されるとエレンの肩はビクリと跳ねた。デジャヴだ。十年前というワードがどうしてか怖かった。
「ハネダに来て三年目、まだ二尉だった俺は当時同じく二尉だったハンジ、三佐で隊長だったエルヴィン、そして後輩の三尉と四機でAAM-2の訓練に向かっていた。俺と三尉が組み、ハンジとエルヴィンが組んだ。三尉は二機編隊長資格を持っていなかったが、訓練ということでそいつがエレメント・リーダーを務めた」
嫌な予感というものはこれが原因だと思える根拠がないことが多い。沈黙を破り十年前の話を切り出された瞬間、そのどこに不安を感じたのかエレンにはわからなかった。しかしほんの少し話が進んだだけでその予感は確信に変わる。何故かその訓練で非常事態が起こることを知っていた。
「フライトは予定通り進んでいたが、いざ訓練開始という時にDCから交信が入る。訓練空域に民間の旅客機が侵入してきたと言うから俺と三尉の編隊で警告に向かった。旅客機は乗客乗員合わせて五百人を超えるジャンボジェットだった。だけどまさか思わねえよな、その機体の下に戦闘機が張り付いてるなんてよ。DCからの指示で三尉を編隊長としたまま警告を実施した。当然だが全部無視だ。そのうちに戦闘機…Su-69は旅客機の影を脱し、三尉もそれを追った。追うFに対してスホーイはアフターバーナーを点火し、Fもそれに倣う。そこから先は今日おまえらがやられた通りだ。ハンマーヘッドで嵌められた三尉は後方からSRMでロックオンされ撃墜された」
リヴァイは事実だけを淡々と話す。そこに彼自身が押し殺しているだろう感情はなく、だからこそ強い憎しみを感じた。
そして不思議なことにエレンはやはりこの話を知っていた。結末を聞いてもああやっぱりそうかと驚きはしなかった。いつ知ったのだろうか。昼間にSu-69の入手経路について話してくれた時の撃墜されたF-55…それがこの三尉なんだろうか。だとしたら正当防衛を訴えた僚機というのがリヴァイになる。
「それでその三尉はどうなったんですか」
「死んだ」
たった三文字で告げられた悲劇はエレンの心を打った。
僚機が目の前で撃ち落されて仲間が死ぬ。それは一体どれだけの痛みなのだろう。エレンも僚機を撃墜され仲間を殺されたが、オルオは生きて帰ってきてくれたしテディはウイングマンではなかった。そこがイコールでなかっただけまだ自分は救われていたのかもしれないと思った。
身を裂かれたように悲痛な表情のエレンに気付いたのか、リヴァイは気の抜けた声で『三尉…いや、一尉か。あいつは今も海の底に沈んだままだ』と言った。わざとゆっくりドラマチックに告げるでもなく、今日の夕飯はハンバーグだと言う時と同じように、抑揚のない声である。
エレンは頬を叩かれたようにハッとした。リヴァイはベッドに腰掛け窓の外の暗闇を見ている。こんな話をしているからかどこか辛そうに見える。リヴァイが海を見る目は綺麗なものや怖いものを見るものじゃなく、大切なものに向ける時のものだ。
その瞬間、どうしてこの部屋を選んだのかを理解した。
ここからは未だその腹のどこかに一尉を飲み込んでいる海が見えるからだ。もう帰って来られない仲間をせめて見守ってやれる場所にいようと決めたに違いない。ベッドに腰掛けると正面には窓が見える。ソファーに座ってテレビを見る時には上手い具合に外の景色は目に入らない。すべて計算し尽されたこの寂しい部屋の理由が辛い。
リヴァイは前に海が好きかとの質問に対してどうだかなと答えた。海が嫌いかとの質問に対してもやはりどうだかなと答えた。僚機とそのパイロットを奪ったまま返さない海を好きにはなれないが、もはやかの人の棺となったそれを嫌いになることもできないのだ。きっとそうなんだと思った。
エレンに昔話をしている内にリヴァイも当時のことを鮮明に思い出して珍しく感傷に浸っていた。
はじめて家に呼んだその日からずっと、いつかこの話をしてやろうとは思っていた。どうして自分がエレンをここに連れてきたのか、それは決してどちらかに相手をあてつけようとしたわけではなく、互いに互いを会わせたかったという気持ちによるものだった。
窓の外に映る闇の正体は境目のわからなくなった空と海であり、そこで十年前のあの日に、今のエレンと同じく当時三尉だった後輩の命は奪われたのだ。実際に彼女を殺したのはSu-69のパイロットだとわかっていても、空軍のパイロットでさえなければ、空を飛んでさえいなければあんなことにはならなかったと考えてしまう時もあった。
だけどどうしても感じてしまうそんな気持ちは封じ込めた。それは彼女への、そしてすべてのファイター・パイロットへの冒涜なのだ。
戦闘機は兵器である。無機質なそれらは何の躊躇いもなく人の命を奪い、そこに後悔も反省もない。あるのは残された者の苦しみだけだ。
だからこそファイター・パイロットが必要なのだ。残酷な無機物に血を通わせるために固い座席に自分を縛り付け、人の手でトリガーを引かせることによって戦争で壊すのは敵国の兵器だけではなく、そこに乗っている人間の命もなのだということを思い出させる。
他人を素手で殴った人間は、己の拳も痛むから殴られた相手の痛みに寄り添うことができる。だけど銃を撃った人間には相手の痛みがわからない。自分の拳が痛まないから簡単に何度でも引き金を引ける。国同士がそうなったら、人類はいつか人同士の争いで滅びるだろう。
だからこれから先どれだけ科学が発達しようと無人戦闘機の開発が進もうと、ファイター・パイロットの存在は絶対に必要なのだ。
他人の命を奪うかもしれない、他人に命を奪われるかもしれない。世界中の戦闘機操縦者はそんな覚悟を持って飛んでいる。空を飛んでいたせいで死んだなんて、そんな彼らの覚悟への冒涜に他ならない。いつかこの空が墓場になるかもしれない、この機体が棺になるかもしれない。それを知ってて自分たちは飛ぶのだ。
「リヴァイ兵長は一尉のことが好きだったんですか」
エレンはいつの間にか窓の外ではなくリヴァイの顔を射るように見つめていた。顔に穴が開くんじゃないかと心配になるくらいの熱視線だ。
質問の意図はわからなかったが意味は理解できたので素直に『恋愛感情はない』と答えた。満足したのかエレンはそうですかとだけ言うとペットボトルの水を一気に飲み干した。
自分からは直接見えない角度に顔を背ける。喜んでいるのか怒っているのか困っているのかわからない。たぶん探られたくないんだろうと思って自分も窓の外から視線を動かさない。
ハンジがほとんど同じ話をエレンにしたことがあるが、エレンはそれを覚えていない。今だってこの話をはじめて聞いたと思い込んでいるはずだ。
だけどハンジの話を聞いた時には取り乱して心因性の過呼吸に陥った。何が原因なのか、ハンジの話からは見当が付かなかった。こうして様子を確認しながら話していても、多少の動揺は見られるが、呼吸が乱れるほどの衝撃が走ったようには見えない。
思い出せなくても記憶が消えたわけではないからだろうか。無意識の内に衝撃を和らげているのだろうか。目の前で撃墜された女性パイロットのことを話されてもあそこまでの動揺はなかったのに、十年も前の知らないパイロットが死んだ話であんな状態になるものだろうか。
ハンジに言われた『リヴァイの過去に泣くほど思うことがあってあんな状態になった』との言葉を思い出す。
今の話のどこに泣けたのか訊いてみたい。エレンが泣くところを見たのはあれがはじめてだった。それが生理的な涙だろうと自分に原因があるのだと思ったら、その場に自分がいなかったとしても妙な気分になる。困ったことに、エレンにとって自分は過去の話だけで泣かせるほどの影響力がある存在らしい。
そして何が本当に困っているのかと言えば、そんな厄介な立ち位置が案外悪くないと感じている自分自身だ。
別に嫌いだから嫌がらせをしてやりたいと思っているわけではないのに、エレンが自分に関わることで泣いて取り乱すのなら強い自己肯定感を得ることができる。普段あまり感じることがないので忘れかけていたが、これは優越感と呼ばれるものに似ている。
一生忘れることのない、自分にとってはある種恩人とも言える後輩が沈む闇を見たままそんなことを考えていた。
「今日はどうして俺を呼んだんですか?てっきり飲みたくなったんだと思ってたんですけど。毎回毎回ありがたいですが、二佐ともあろう方が当日に外泊届をねじ込むのって部下に示しが付かないと思います」
耳に入ってくる全然可愛くない言葉でさえ今日は何だか許せる気分だ。
エレンはようやくこちらを見て、本気で怒っているわけではないその顔を見せる。わざと喜の感情を隠すように怒ろうとしていたことはもう知っていた。ああ顔を背けやがったと思ったが、よく見たら夜の窓ガラスは地下鉄の窓のように、下を向いて何かに耐えるエレンの健気な顔を映していたのだ。
直前に言った言葉が蘇る。恋愛感情はない。それが思わず口元を緩ませてしまいそうになるほどの吉報だったのか。
まさかありえない。ついさっきレストランで偶然聞いたセリフは一字一句忘れずに脳みそに刻み付けてある。いや別に、拗ねたり怒ったり傷付いたりしているわけでは決してないが。
――だってあの人俺より背低いんだぞ!?
思い出すと多少頭に血が上るが、ACM中にかかるマイナスGの負荷に比べれば全然大したことはない。身長のせいで生意気なクソガキに迷惑をかけた覚えは一度もないのにどうしようもないことを公衆の面前でボロクソに言われても隣の席に殴り込みにいかなかった自身の菩薩の如き優しさに、生まれてこの方見たことはないが涙すら流せそうだ。
少し時間が経てば、まあ男同士だしなと冷静になれた。相手が女ならあそこまで怒らなかったんだろう。誰だって好きでもない同性への気持ちをしつこく疑われればイラつくし怒鳴りたくもなる。そこで『だってあの人男だぞ』と言わないエレンの言葉選びのセンスの悪さにはため息が出るが、あれも一応被害者だ。
「エレン」
呼ぶと真っ直ぐ目を見てハイと返事をする。飼ったことはないが躾のなっている犬ってのはこんな感じなんだろうか。
「何ですか?」
呼んだはいいが言うべきことが特にないことに気付いて言葉に詰まる。本当にただ名前を呼びたかっただけなのだ。だけどここで『呼んでみただけ』なんてどこかのドラマのヒロインが言いそうな文句を出すことは憚られた。とっさに思い付いたことを口にする。
「チビで悪かったな」
「はぁ?何の話ですか」
エレンは一気に呆れた顔になって肩を落とした。
「悪かったって、別にそれで何か迷惑をかけられた覚えはありませんけど」
わざとらしくチビをフォローされても腹が立つが当たり前のように話を進められるのも腹が立つ。それでようやく自分にとって身長の話題がタブーなんだと気付いた。
迷惑をかけた覚えならこっちだってねえんだよ。
心の中でだけ言い返す。
「むしろ兵長の強さはその身軽さのせいなんじゃないかと思いますよ。ほら、女性の方がG耐性高いとかって言いません?」
今度はフォローしてくれようとしているのは十分に伝わってきたが、残念ながら身軽なのはエレンの方だ。鍛え上げた軍人のウェイトを舐めるなと言ってやりたい。
急に身長の話題が出てもその原因を理解してないところを見ると、ついさっきレストランで自分が叫んだことはもう忘れているらしい。言った本人は忘れるが言われた方は覚えているなんてよくある話だ。きっと人の記憶は何をしたかよりも何をされたかの方が強い。リヴァイ自身、傷付けたことより傷付けられたことの方が先に出てくるのだ。
「兵長…何か怒ってます?」
「べつに」
「嘘だ、顔に『このクソガキふざけやがって』って書いてありますもん」
「そりゃあおまえ、あれだ」
「あれだって…」
あれだって言ったってどれのことだか自分でもわからなかった。このクソガキふざけやがってと思っていることについては否定しない。それがすべてではないが事実でもあった。
はじまりはいつだったのかわからないが、きっかけはタイタンのアンノウンがやって来たあの日だ。
あの時からエレンは何人もいる大切な部下の一人だけではなくなった。もう二度と失くしたくはないと思った仲間の命を護ってくれた。それがエレン自身の命だけだったとしても、生きて帰ってきてくれたことに十年越しの罪悪感がほんの少しでも救われたのだ。
絶対に護ってやると思って管制官からマイクを奪ったあと、エレンは自分の言葉を疑わず忠実に従った。危険な賭けだったがあの場で出せる指示は単純なものに限られていてもはやそれしか道はなかったのだ。
無線で確認を取る時は珍しく手に汗を握った。応答がなければG-LOCに陥ったということだ。機首上げが間に合う高度を切る前に意識が戻らなければ死ぬ。エレンが勝てば命の恩人だが、意識を飛ばしていたら人殺しになる。それでも黙って見ていればやはりエレンが死ぬ未来は変わらないのだから、たとえ部下の命を自分が奪うかもしれなくても僅かな可能性に賭けようと決めた。何の躊躇いもなくその道を選べたのは、自分たちには迷う暇などないということを教えてくれた後輩のおかげだった。
帰ってきてくれてありがとう。
言葉にするならたぶんそんな感情だ。声に出して伝えたことはない。エレンはリヴァイを命の恩人だと言うが、リヴァイからすればエレンが恩人だ。エレンは陸で待つリヴァイの代わりに自分で自分を護った。着陸と同時に気絶するくらい極限の状態で、それでもここへ帰ってきた。
あの時のあの気持ちは何と言えばいいのか、三十四にもなる男には未だ見合う言葉が見つからない。きっと好きだとか恋だとか、そんな廃りのある儚い感情じゃない。もっと絶対的で恒久的で変わらない何かだ。リヴァイにはその答えがわからなかった。
「なんか…今日の兵長はオジサンみたいですね」
人の気も知らないで可愛くないことを言う部下を無性に虐めたくなった。
後編につづく