昨日の続きです。
豊臣秀長は、天正19年(1591年)1月22日に亡くなっています。小田原の陣から半年後であり、全国平定を受けて秀吉が本格的に朝鮮侵略の準備に入ったときです。秀吉にとっては絶好のタイミングで亡くなっています。
内々の人は利休にと言われた千利休も、秀長が郡山城に籠もるようになると政権から遠ざけられ、秀長が亡くなった翌月には堺で蟄居を命ぜられ、2月28日に自刃に追い込まれます。2年前に大徳寺の山門に自分の像を置いたという、古いことを持ち出しての処分であり、親しかった秀長の死を待っていたとしか思えないやり方で消されるのです。
利休の処罰は理由がはっきりせず、幾つも説が出て来ましたが、今では朝鮮侵略に反対していたのがその理由ではなかったのか、とする説が有力になって来ています。
利休は堺の商人であり、堺の利権を代表する立場でもあります。貿易商である堺の商人にすれば、明との戦争で明との貿易が途絶えることは大打撃です。銅銭、生糸、薬種、書籍、茶器、絵画、絹織物など、先進国である明からの輸入品は珍重され大きな利が得られました。
堺は武器も作っていました、堺にとっては、貿易は自由に出来て、内戦で武器が売れるといった状態が最も美味しいのです、戦国時代はこの状態がずっと続いてきました。日本には戦国期に作られた鉄砲や槍や刀が大量にありましたから、出兵となってもこれを持って行くので新規の需要は期待できず、その一方で明との貿易は断絶する、それでは堺としては困ります。利休は秀長と共に、朝鮮侵略には反対でした。
反対する者は大勢います、秀吉は利休を殺すことによって、反対する者たちへの見せしめとしたのです。寵愛されていた茶頭でも朝鮮侵略に反対したらこうなるのだ、という事実を世間に示しました。