豊臣秀吉の朝鮮侵略は最悪の愚行であると共に、朝鮮半島のみならず、東アジアに激震をもたらすものでした。朝鮮には道を借りるだけで本命は明であり、直隷平野で明軍と決戦し、北京を占領して天皇を北京へ移すという、妄想としかいいようがないものでしたから、殆どの日本人は反対していました。
中には、日本軍は無敵だから簡単に明を降して、大陸で領地が貰えると考えていた者もいたでしょうが、そんな感覚で戦争に臨むことが出来る人間はごくごく少数です。
豊後の大友宗麟が大坂城にやってきたときに、公儀のことは秀長に、内々のことは利休にと言われたのはよく知られた話ですが、秀吉が朝鮮侵略に本気になるまではその体制で豊臣家は動いていました。
天正16年(1588年)吉川平介事件が起きます。当時、秀長は大和と紀伊と和泉で110万石を領していて、吉川は雑賀で7000石を取る秀長の家臣で山奉行も兼ねていました。その吉川が秀吉の命令で伐採した紀伊の材木20000本を大坂で売却したが、その金を着服するという事件が起きます。
吉川は12月に斬られそれで終わるはずなのに、翌年の正月に大坂城を年賀に訪れた秀長か追い返されるという事件が起きます。家来の着服くらいで、秀吉の弟で良き補佐役であった秀長が、年賀も許されないというのは異常事態です。
その後、秀長は居城の郡山城に籠もったまま大坂に行かなくなります。大坂城に登らなければ政務には関与できません。公儀のことは秀長にと言われていた地位から滑り落ち、公儀のことは石田三成ら奉行の者たちが仕切ることになります。この吉川事件は、秀長を主人公にした小説では無視されていますが、秀長の政権内での立場が失われた重要な事件です。
秀長は豊臣家の執政として朝鮮侵略には反対でした。人並み以上に良識に富んだ温厚な政治家でしたから、反対するのは当たり前ですし、身内ですから本気で止めます。
宿老の徳川家康も前田利家も反対ですし、内々のことを任されていた利休も反対です。この四人が一斉に反対すれば秀吉としても強行は難しくなります。取る足らない吉川事件を口実に秀長を大坂城に来られないようにしてしまえば、朝鮮侵略反対の中心人物が消えることになります。
長くなるので明日に続きます。