昨日の続きになりますが、豊臣秀吉の朝鮮出兵に対して、ネトウヨは、あれは元寇の仕返しだから正当な出兵だったのだといいます、文永11年(1274)と、弘安4年(1281)で、秀吉の朝鮮出兵は文禄元年(1592)に始まりますから、その間は311年であり、仕返しというには余りにも時間が空きすぎていますし、元寇は元の皇帝のフビライの意思で行われたものであり、高麗は被害者なのですが、ネトウヨはそこも捻じ曲げて、反日国家の高麗が頼んだから元が出兵したという歴史上あり得ない嘘を言い続けています。
仕返しというには時間が空きすぎていると指摘すると、ネトウヨは、韓国の朴槿恵大統領が千年も恨みは忘れないと言っているのだから、311年くらいはたいしたことはないと言うのですが、朴大統領の千年は気持ちの強さを伝えるための言葉の綾であり、千年後までの恨みの持続を保障したものではありません。
豊臣秀吉は、朝鮮ではなくて明の征服を企てていて、自分は日輪の子だから外国も従わせるのだ、北京を陥落させて天皇を北京に移す、朝鮮はその道案内をせよという考えでした。弟の大和大納言秀長も千利休も徳川家康も前田利家も、そのような妄想としかいいようがない明の征服には反対していました。それを秀吉が、秀長の病死という出兵に有利な条件を手にして、千利休を切腹させ、家康や利家を黙らせて兵を出したのが、文禄、慶長の役です。
秀吉は明の征服を考えており、朝鮮が道案内を断ったので、朝鮮国相手の戦争になったわけで、当時の記録のどこを調べても、高麗の依頼によって行われた元寇の仕返しだから正しい戦争だった、などといった主張は書き残されていません、ネトウヨの中で当時の記録を調べて、ここに元寇の仕返しだと書いてあると立証した者はいません。
元寇の仕返しだなどと言っているネトウヨは、朝鮮出兵当時の記録など一つも読んでいないものと思われます、だからこそ史実とかけ離れた妄想を並べ立てることが可能なのですが、それを指摘されると、記録がなかったから、その考え方がその時代に存在しなかった証拠にはならないと言い出します。自分たちの主張は可能性がゼロでない限りは正しいのだとする、ネトウヨ特権全開なってしまい、一般人は議論に勝てなくなります。
明日は、朝鮮通信使に対するネトウヨの妄想を取り上げます。