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【社会】

<平成という時代>特捜検察の光と影 「人質司法」から脱却を

所得税法違反罪の初公判に車いすで出廷する金丸信自民党元副総裁=1993年7月22日

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 土曜の夕方、ポケットベルが鳴った。一九九三(平成五)年三月六日。東京地検の次席検事が夜、緊急に記者会見を開くという。慌てて職場に戻り、他社の記者と探り合いをしていると、高橋武生次席検事が部屋に入ってきて小さな声で言った。

 「金丸と生原(はいばら)を逮捕しました」。一瞬の沈黙の後、記者たちは広報文を奪い合い、速報のために会見場所から走り出た。金丸とは自民党で「ドン」と呼ばれていた金丸信元副総裁。生原とは「金庫番」と呼ばれた生原正久秘書だ。容疑は所得税法違反。ゼネコンなどから集めた献金で割引金融債を購入していた。

 金丸氏は東京佐川急便から五億円のヤミ献金を受け取ったとして、政治資金規正法違反容疑で略式起訴されたばかりだった。罰金刑で捜査を終えた東京地検特捜部は激しい世論の批判を受け、検察庁の表札には黄色いペンキがかけられた。威信回復の「逆転打」につながる情報は東京国税局からもたらされた。

 特捜部で金丸氏を調べたのは、後にプロ野球コミッショナーになる熊崎勝彦副部長だった。拘置所に入る写真を他社に抜かれていたらクビだな、と胃が痛くなったが、すべてのマスメディアが特捜部と国税局に出し抜かれていた。東京拘置所に車で入る時、待ち構えていた記者がいなかったため、金丸氏は「記者さんたちに恨まれますよ」と熊崎氏に言ったという。

 金丸氏側に献金していた建設会社への一斉捜索で「宝の山」を得た特捜部はこの後、大手ゼネコン首脳を相次ぎ逮捕、元建設相をあっせん収賄容疑で逮捕した。金丸氏は公判中に死亡し、控訴棄却となった。元建設相は懲役一年六月、追徴金一千万円の実刑判決が確定し、収監された。

 自民党の一党支配が続いた時代、特捜部は「最強の捜査機関」として存在感を発揮していた。ロッキード事件、リクルート事件に代表されるように、疑獄に切り込めば政局が動いた。恥ずかしながら、特捜部を取材していた当時、捜査当局の権力行使を監視するという発想は乏しかった。捜査機関と一体化した気分で取材していた。多くの記者の意識も同じだと思う。

 世界最大の破たんといわれた日本長期信用銀行の粉飾決算事件で、最高裁は二〇〇八年七月、元頭取に逆転無罪判決を出した。取材した元役員から届いた翌年の年賀状には「特捜を誤らせた責任の一端はマスコミにあり…」という一言が添えられていた。検察と一体化したメディアの姿勢が「特捜神話」を築き、過剰な世直し意識を助長させたことは否めない。

 二〇一〇年に起きた大阪地検特捜部の証拠改ざん事件を機に「冬の時代」が続いた特捜検察は、日産のカルロス・ゴーン元会長を逮捕し再び脚光を浴びる。「司法取引」という強力な武器を手に入れながら、十年一日のごとく「人質司法」を続ける捜査手法は、大いに批判されてしかるべきだろう。本来、切り込むべき政権絡みの疑惑には腰が引けたままだ。特捜検察が暴走した責任は、供述調書を過信してきた裁判官、批判精神を欠いたマスメディアにもあった。その反省を忘れないようにしたい。 =肩書は当時(瀬口晴義)

 

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