日本書紀の謎を解く・104(木羅斤資・木満致)

仁徳十六年秋七月条、宮人桑田玖賀媛を引き取った播磨国造の祖、速待(はやまち)は中臣鎌足のちの藤原鎌足ということを前前回述べた。允恭紀では絶世の美女衣通郎姫(そとほしのいらつめ)を天皇の命令で坂田から連れてくる中臣烏賊津臣としても登場する。

速待(はやまち)という名前は、おそらく隼人のハヤ、マチは蘇賀満智のマチではないかと思う。履中二年冬十月にだけ名前が出てくる人物である。しかも何故か蘇我ではなく蘇賀なのである。玖賀媛にかけて漢字を変えたのかもしれない。
また木羅斤資(もくらこんし)の子、木満致(もくまんち)のマチではないかと思う。
木羅斤資、木満致は百済人だと思われるかもしれないが、私は日本書紀を何度も読むうちに、朝鮮半島の記録は実は国内の出来事を言っているのではないかと思うようになった。使い方が正確かどうかわからないが隠喩のようなものと言ったらいいのか。
以前神功皇后三十九年、四十年、四十三年条は魏志を利用して、実は倭王武の遣使のことを述べているのではないかとブログに書いたはずである。
この際なので、その他ものを紹介する。
例えば欽明六年是年条と欽明七年是年条の高句麗の記録である。

欽明六年是年
百済本記に云はく、十二月の甲午に高麗国の細群と麁群と宮門に戦ふ。鼓を伐ちて戦闘へり。細群敗れて兵を解かざること三日。尽くに細群の子孫を捕へて誅しつ。

欽明六年是年
百済本記に云はく、高麗、正月の丙午を以て、中夫人の子を立てて王とす。年八歳。狛王に三の夫人有りき。正夫人は子無し。中夫人、世子を生めり。其の舅氏は麁群なり。小夫人、子を生めり。其の舅氏は細群なり。狛王の疾篤するに及りて、細群・麁群、各其の夫人の子を立てむとす。故、細群の死ぬる者、二千余人なりといふ。

この百済本記の記録は、実は安閑天皇の二人の隼人族の皇子、欽明天皇(上殖葉皇子)と火焔皇子が天皇位を巡って争った記録だと見ている。ただ麁群と細群についての詳しい説明が六年ではなく七年になっているのが不自然で、どう見てもこの二つの記録は一つのものを二つに分けている。七年の「故、細群の死ぬる者、二千余人なりといふ。」の前に六年の記録が入るべきである。二つの記録を合わせると

高麗、正月の丙午を以て、中夫人の子を立てて王とす。年八歳。狛王に三の夫人有りき。正夫人は子無し。中夫人、世子を生めり。其の舅氏は麁群なり。小夫人、子を生めり。其の舅氏は細群なり。狛王の疾篤するに及りて、細群・麁群、各其の夫人の子を立てむとす。十二月の甲午に高麗国の細群と麁群と宮門に戦ふ。鼓を伐ちて戦闘へり。細群敗れて兵を解かざること三日。尽くに細群の子孫を捕へて誅しつ。故、細群の死ぬる者、二千余人なりといふ。


これでスッキリしたはずだ。
この二つの記録を日本国内の記録とするもう一つの理由は、「正夫人は子無し。中夫人、世子を生めり。其の舅氏は麁群なり。小夫人、子を生めり。其の舅氏は細群なり」がまったく安閑天皇の妃皇子と同じなのである。正夫人は春日山田皇后、中夫人は日向髪長媛こと弟橘媛、小夫人は吾田隼人の木花之開耶媛である。
春日山田皇后と安閑天皇の間には、まだ春日山田皇后が継体天皇の皇后だった時安閑天皇との不義密通で生まれた石姫がいるのだが表に出せない日影の皇女なので、正式には子供はいないことになっている。石姫誕生の隠された物語は雄略三年夏四月条に記される。石姫は宣化天皇(安閑天皇と同一人物)の妃、橘仲皇女(弟橘媛)の子供とされている。
中夫人は弟橘媛で欽明天皇(上殖葉皇子)を生んだ。弟橘媛の父、日向国諸県君牛は応神紀のエピソードから麁群としていいだろう。麁は荒々しいという意味だが本来の漢字「麤」は鹿三つで、この場合鹿を表したいのだと考えていいだろう。
そして小夫人は吾田隼人の木花之開耶媛、子供は火焔皇子である。
この日向隼人と吾田隼人の二人の皇子が天皇の位を争って戦った記録だろうと考えている。

ただ七年の方の記録で「中夫人の子を立てて王とす。年八歳」の「年八歳」の部分はさらに欽明天皇死後、彼の子供が天皇になった記録を紛れ込ませているのではないかと思われる。
八歳といえば印象的なのが古事記、安康天皇の目弱王(眉輪王)の変についての記録である。目弱王が父大日下王(大草香皇子)の死の真相を知り安康天皇を殺すのが七歳である。七歳の子供が大人を殺せるわけがないから誰かが代わりに殺したのだろう。
安康天皇は「神牀(かむとこ)に坐して、昼寝したまふ」ときに殺されている。これとそっくりな殺され方をしたのが天稚彦である。「時に、天稚彦、新嘗して休臥せる時なり」(神代下 第九段本文)。つまりこの安康天皇は天稚彦、火焔皇子であることを示している。(雄略天皇も火焔皇子である。)
目弱王の父大日下王(大草香皇子)の母は日向髪長媛(弟橘媛)で、安閑天皇の分身である大鷦鷯天皇(仁徳天皇)との間に生まれているから、欽明天皇(上殖葉皇子)ということになる。目弱王はその欽明天皇(大日下王)と中蒂媛、又の名前長田大郎女の間に生まれている。大日下王(大草香皇子)を父とする目弱王(眉輪王)は七歳の時父欽明天皇が火焔皇子に殺され、翌年八歳で天皇となったということにならないだろうか。目弱王は「まよわのみこ」だが日本書紀では眉輪王と書いて「まよわのおほきみ」となっているのである。「おおきみ」である。

ここでまた脱線する。いつ書けるかわからないから頭の中にあるうちに書いてしまう。
この長田大郎女(長田大娘皇女、長田皇女)は日本書紀では中蒂媛という名前でも記録される。つまり日本書紀は長田皇女と中蒂媛は同一人物としたいらしいのだが、雄略紀の記録を読むと直感的ではあるが何か不自然さを感じるし、欽明天皇の皇后石姫は近親相姦の結果身体障害者で子供ができなかったと思うので、長田皇女と中蒂媛は別人ではないかと考える。
古事記で雄略天皇が若日下王(中蒂媛、幡梭皇女)を妻問するときの歌に

いくみ竹 いくみは寝ず
たしみ竹 たしには率寝ず
後もくみ寝む その思ひ妻 あはれ


「いくみ」は根本が絡み合うさま。「たしみ」は枝葉が密に茂ったさまをいう。しかし竹は真っ直ぐに成長する植物で根が混じり合ったり絡み合うことは考えられないし、「寝ず」とある。「後にくみ寝む その思ひ妻 あはれ」は「いつの日にか絡み合って寝たいものだ。私の思う妻よ。哀れ」とあって、雄略天皇の皇后になっても実際に同衾することがないことを暗示している。このことは安康元年春二月条で大草香皇子(大日下王)が妹幡梭皇女(若日下王)を雄略天皇の妃として安康天皇の使いのものに差し出す時の言葉「今陛下、其の醜きことを嫌ひたまはずして、◯菜(をみなめ)の数に満ひたまはむとす。是、甚(にへさ)に大恩(おほきなるめぐみ)なり」が、彼女が普通の女性ではないことを表している。実際雄略天皇(火焔皇子)の皇后は子供がいない。
それでも何故皇后とするのかといえば、古代は女性が継承権を握っていたからである。たとえ彼女が身体障害者で同衾できずとも彼女と結婚しなければ天皇として認められなかったのである。
では長田皇女は誰なのか。私は継体天皇の皇女に、茨田連小望(まむたのむらじをもち)娘関媛が娘を生んでいるのでこの皇女ではないかと思っている。


脱線が長くなったが海外の記録と見せかけて実は日本国内の出来事を記していることがほとんどである。書きにくい本当のことを海外の記録を装って記しているのである。
再び本題とも言える応神二十五年条の木満致の記録に戻るが

百済の直支王薨りぬ。即ち子久爾辛、立ちて王と為る。王、年幼(としわか)し。木満致(もくまんち)、国政(くにのまつりごと)を執(と)る。王の母と相淫(あひたは)けて、多(さは)に無礼(ゐやなきわざ)す。

ここで大日下王(欽明天皇)の子供が八歳で天皇となったのと一致するのである。


中臣烏賊津臣が大伴磐である証拠は、仁徳三十年冬十月条と允恭七年十二月条の記録からである。
天皇の命令で妃を天皇の元に連れて行こうとするがなかなか妃が承諾しないので、承諾を得られるまで何日も庭に伏せていたというストーリーが瓜二つなので、使いの人間が同一人物だろうということである。仁徳紀では弓の名手的臣(いくはのおみ)、そして允恭紀では烏賊津臣である。同一人物である。

しかし木満致の正体が大伴磐(穂積磐弓、葛城襲津彦、野見宿禰、烏賊津臣、鎌足他)というなら、その父木羅斤資は大伴金村(穂積押山)ということになる。
少し前のブログで垂仁天皇に登場する都怒我阿羅斯等の阿羅斯等は安羅人ではないかとした。安羅人としたのは以前のブログにも書いたが欽明紀の長々とした百済と倭国間の記録、恐らく倭国内の出来事と私は見ているのだが、ここで使うために便宜上安羅人としただけで、私はこの木満致の記録からも大伴金村は百済人が正しいのではないかと思う。
その理由として、彼に関する死亡の記録がないからである。継体二十三年秋九月に巨勢男人、宣化元年秋七月条に物部麁鹿火の記録があるにもかかわらずである。なぜこれほど重要な人物の死の記録がないのか。
私は継体七年秋八月条の記録、「百済の太子淳陀(じゅんだ)薨せぬ」ではないかと思っている。継体七年八月といえば継体が崩御して半年後である。天皇と大連が天然痘にかかていたら、ありえなくもない。
なぜそういう人物が日本にいたかということだが、百済記をどこまで信じていいかわからないが、雄略二十年冬に高句麗が一度百済を滅ぼすという事件が起きている。このとき蓋鹵王始め大后、王子等、皆高句麗によって殺されるということが起きているらしいいので、王子の一人ぐらい逃げて家臣共々日本へ渡来した可能性がなくもない。
ただこの事件が起きた乙卯年は、私の年表では二朝並立が終結年となっていることを付け加えておく。この記録も日本国内のことを書いている可能性は大だ。


(年表の欽明天皇と火焔皇子との在位期間は初めの頃に考えていた形で、その後訂正していない。正直未だに二朝並立は見えていない。ここでは終結したのは乙卯年というところだけ拡大して確認してほしい。)

また木満致は木羅斤資が新羅を討ったときに、新羅の女性と結婚してできた子供だと応神二十五年に記される。ということになれば母系社会において大伴磐(穂積磐弓・葛城襲津彦)は日向襲国の部族ではなくなる。これは日本の出来事を朝鮮半島に置き換えて記しているからで、実際は日向襲国の女性首長との間にできた子供でいいのではないかと思う。だから木羅から羅の文字を抜いて木満致としたのかもしれない。ちなみに日本書紀の説明では木羅は百済の名家だそうだ。


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