これからエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』とM女性について現代社会の構造とM女性の出現、心理について考えていきたい。
最初にこれから考えていくことの本質的な問題について象徴的な文章をバルザックの『幻滅』から引用しよう。
「すべての孤独の中でも、精神的孤独がもっとも恐ろしいものだ。神と住む最初の隠者は、精霊たちの世界にびっしりと取り囲まれて生活していた。癩病患者であれ、囚人であれ、罪人であれ、病人であれ、最初に浮かぶ考えは、彼(彼女)の運命に同伴してくれる者が欲しいということである。この生命そのもののような衝動を生かすために、人間は全力を尽くす。生活のすべてのエネルギーを費やす。」
これは人間は日本の哲学者和辻哲郎が言うように何らか神秘的なことではなくて、人間とは人-間と書くように人間は他人との何らかの関わりなしには生きられないということである。
ロビンソンクルーソーでさえフラデーを連れていた。彼がいなければ、恐らくキチガイになったばかりか、実際に死んでしまっていただろう。
エーリッヒ・フロムはこう書いている。
「人間は誰でも子供の時に、他人の助けが必要であることを痛切に経験する。もっとも重要な機能についても自分自身で処理することができないために、他人(母)との接触は子供にとっては生死の問題である。ひとりぼっちで放っておかれる可能性があるということは、子供の全存在にとってもっとも重要な脅威とならざるをえない。」
しかし、問題は他者との関わり合いにとどまらない。人間には主観的な自己意識の認識、あるいは自己を自然や他人と違った存在者として意識する認識能力がある。この自覚の程度には色々と変化があるが、たとえぼんやりとしていても、死や病気老衰を意識することによって人間は宇宙や自分以外のすべてのものと比較して、その圧倒的な広大さを前に、自分がどんなに無意味で卑小な存在であるかを感じざるを得ない。それなので、
「(人間は)どこかに帰属しない限り、また生活に何らかの意味と方向が無い限り、人間は自らを一片の塵のように感じ、彼の個人的な無意味さに押しつぶされてしまうだろう」
この認識の出発点からエーリッヒ・フロムは下記のようにやや一見すると意外なテーマを提起する。
「他人や自然との原初的な一体性から抜け出るという意味で、人間が自由になればなるほど、すなわち彼がますます『個人』となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性に中で外界と結ばれるか、でなければ自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかであるということである」
こうした自由な孤独の中で、人間は自然の一部でありながらしかも自然を超越するという悲劇的な運命を持っている。色々な幻想で死を否定しようとしても、結局死が究極的な運命であることを意識せざるを得ない。
しかも現代資本主義においては、経済活動の成功や物質的獲得がそれ自身目的となっている。ここにおいては、経済的組織の発展に寄与することや資本を蓄積することを、自分の幸福や救済という目的のためにではなく、目的それ自身として行うことが人間の運命となっている。こうして、「人間は巨大な経済的機械の歯車となった」のである。
このような近代人の孤独感や無力感は、彼(彼女)のあらゆる人間関係の持っている性格によって、更に拍車をかけられる。
「個人と個人の具体的関係は、直接的な人間的な関係を失い、駆け引きと手段の精神とに彩られてしまった。市場の法則があらゆる社会的個人的関係を支配している。競争者同士の関係は、相互の人間的な無関心に基づかなければならないことは明らかである。もしそうでなければ、どのような
書きかけ
最初にこれから考えていくことの本質的な問題について象徴的な文章をバルザックの『幻滅』から引用しよう。
「すべての孤独の中でも、精神的孤独がもっとも恐ろしいものだ。神と住む最初の隠者は、精霊たちの世界にびっしりと取り囲まれて生活していた。癩病患者であれ、囚人であれ、罪人であれ、病人であれ、最初に浮かぶ考えは、彼(彼女)の運命に同伴してくれる者が欲しいということである。この生命そのもののような衝動を生かすために、人間は全力を尽くす。生活のすべてのエネルギーを費やす。」
これは人間は日本の哲学者和辻哲郎が言うように何らか神秘的なことではなくて、人間とは人-間と書くように人間は他人との何らかの関わりなしには生きられないということである。
ロビンソンクルーソーでさえフラデーを連れていた。彼がいなければ、恐らくキチガイになったばかりか、実際に死んでしまっていただろう。
エーリッヒ・フロムはこう書いている。
「人間は誰でも子供の時に、他人の助けが必要であることを痛切に経験する。もっとも重要な機能についても自分自身で処理することができないために、他人(母)との接触は子供にとっては生死の問題である。ひとりぼっちで放っておかれる可能性があるということは、子供の全存在にとってもっとも重要な脅威とならざるをえない。」
しかし、問題は他者との関わり合いにとどまらない。人間には主観的な自己意識の認識、あるいは自己を自然や他人と違った存在者として意識する認識能力がある。この自覚の程度には色々と変化があるが、たとえぼんやりとしていても、死や病気老衰を意識することによって人間は宇宙や自分以外のすべてのものと比較して、その圧倒的な広大さを前に、自分がどんなに無意味で卑小な存在であるかを感じざるを得ない。それなので、
「(人間は)どこかに帰属しない限り、また生活に何らかの意味と方向が無い限り、人間は自らを一片の塵のように感じ、彼の個人的な無意味さに押しつぶされてしまうだろう」
この認識の出発点からエーリッヒ・フロムは下記のようにやや一見すると意外なテーマを提起する。
「他人や自然との原初的な一体性から抜け出るという意味で、人間が自由になればなるほど、すなわち彼がますます『個人』となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性に中で外界と結ばれるか、でなければ自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかであるということである」
こうした自由な孤独の中で、人間は自然の一部でありながらしかも自然を超越するという悲劇的な運命を持っている。色々な幻想で死を否定しようとしても、結局死が究極的な運命であることを意識せざるを得ない。
しかも現代資本主義においては、経済活動の成功や物質的獲得がそれ自身目的となっている。ここにおいては、経済的組織の発展に寄与することや資本を蓄積することを、自分の幸福や救済という目的のためにではなく、目的それ自身として行うことが人間の運命となっている。こうして、「人間は巨大な経済的機械の歯車となった」のである。
このような近代人の孤独感や無力感は、彼(彼女)のあらゆる人間関係の持っている性格によって、更に拍車をかけられる。
「個人と個人の具体的関係は、直接的な人間的な関係を失い、駆け引きと手段の精神とに彩られてしまった。市場の法則があらゆる社会的個人的関係を支配している。競争者同士の関係は、相互の人間的な無関心に基づかなければならないことは明らかである。もしそうでなければ、どのような
書きかけ