Sound: Eleanor Degry
「日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住 した人々や,招聘された人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の 子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国 の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄 与したことと思っています。 私自身としては,桓武天皇(在位781-806年)の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀(しょくにほんぎ) に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代 々招聘されるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。 しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはな らないと思います。ワールドカップを控え,両国民の交流が盛んになってきていますが,それが良い方向に向かうためには, 両国の人々が、それぞれの国が歩んできた道を,個々の出来事において正確に知ることに努め,個人個人として,互いの立 場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ,このことを通して,両国 民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。」 【2001.12.23毎日新聞 天皇陛下御誕生日の合同インタビュー記事】
上記は、平成天皇が昨年(2001)12月23日の誕生日を前にした記者会見で述べた「韓国ゆかり」発言である。皇室と渡来 人の関係は古代史家の間では常識であるが、天皇自らが認めたことは初めてで、広く世間の耳目を集めた。 この発言で世間は、平成天皇が「桓武天皇」「天皇の生母高野新笠」「百済武寧王」「続日本紀」等々の日本古代史に結構詳 しい事を知ったのだった。宮内庁がよく許したものだと思うが、影響も当然考えた上での発言であることを考えれば、天皇自 身の勇気に敬意を表したいと思う。この発言は韓国においてもおおむね好感を持って迎えられたようで、ワールドカップとい う1イベントのためとかではなく、今後の長い日韓交流に向けてのエールと受け取られたと言ってよい。
韓国・公州市にある武寧王陵墓。一帯は史跡公園として整備されている。ソウルから約3時間。かつて百済の都だった公州は 今は静かな大学都市になっている。武寧王陵はその市街地を望む山の上にある。墳墓そのものは、韓国のいたる所に残る土饅 頭の墳墓と少しも変わらない。周りにいくつも同様の墳墓があり、格別目立った築造ではない。墳墓は当然密閉されていて入 れないが、内部を忠実に復元した資料館が建てられている。資料館の中にも代表的な出土物のパネル写真が掲示されているが、 資料館から墳墓までの間の側道にも、発掘時や出土品の写真が並べられている。
以下が、陵墓の内部を復元展示した「武寧王陵資料館」である。墓の内部が発掘当時のまま再現してある。廻りの壁には出土 品のパネル写真がたくさん掲示されていたが、これらの実物は現在「国立公州博物館」に展示されている。韓国では日本と違 って、主要な遺跡の展示物はその出土した地域の博物館にあることが多い。上野の国立博物館に相当するのは、韓国ではソウ ルにある「国立中央博物館」だが、日本のように主要な遺物は何もかもここにあるという訳ではない。むしろ地方に博物館を 建てて、なるべくそこに展示するようにしている。このやり方のほうがはるかに理にかなっているが、こういう運営も日本に 学んだのだ。韓国が国立博物館を整備するにあたっての委員会には、多くの日本人学者達が参加している。 翻って日本の現状を見てみると、過去はいうまでもなく、今でも文化庁などはどうかすると出土物を中央(東京)へ集めよう とする。主要なものはみな中央に置いて、見たかったらここまで来い、というわけだ。現地には立て看板を一つ立てるだけ。 こういう発想そのものが、いまだに写真撮影禁止などという措置を生んでいるのだろうと思う。
墓の入り口には獣の石像が置いてあった(上右)。説明では「石獣」とあるが、ガイドブックには「石熊」と書いてあるもの もある。熊と豚と猪を掛け合わせたような姿をしているが、想像上の動物と言う。しかし、建国神話が熊を取り上げている所 を見るとどうやら熊が主体のもののような気がする。どこかの土産物屋で私はブロンズのレプリカを買ってきたが、5、6万ウ ォン(5、6千円)だった。
石獣は羨道の入り口中央に外を向いて置かれていた。石獣は凝灰岩製で、ずんぐりした口を開き、鼻は大きいが鼻の穴はない。 高い鼻筋は背まで続き、その左右に目と耳がある。背には隆起が4ケ所にあり、頭上の隆起の上面には、鉄製の樹枝状の角が くぼんだ穴に差し込まれている。胴体の左右には、前後に羽根上のたてがみが上図のように浮彫されていた。4本の足は短く て、爪の表現も明確ではない。出土当時から、右側の後足は破損していたという。この石獣は、中国漢代以来、悪鬼を追い払 う僻邪の意味で玄室の前に立てる、鎮墓獣の一種らしい。
この墓は、百済のほとんどの陵墓が盗掘を受けている中、西の山の南麓で1971年に奇跡的に発見された、宋山里古墳群の未盗 掘古墳で、見事な文様磚(せん:レンガ)作りの石室・豊富な副葬品・墓誌の出土で有名になった。宋山里古墳群には壁画古 墳もある。
上左の写真手前にあるのが火熨斗(ひのし)。武寧王妃が使用していたと思われる古代のアイロンであるが、これと同型のも のが日本では二カ所から出土している。大阪府柏原市の高井戸古墳と、奈良県橿原市の新沢千塚古墳である。いずれも女性の 墓と推定され、渡来人の墓である可能性が高い。
<武寧王陵の構造> 武寧王陵は、傾斜面の風化岩盤層を掘削して、磚で羨道と玄室、排水溝をつくり、その上に直径20mの円形封土をつくった トンネル形磚(せん)築墳である。玄室は平面長方形の単室墳で、南北4.2m、東西2.72m、高さ3.14mに達する。玄室の内部は、 南側の壁面から幅 1.09mの部分を除き、全体を床面から21cmの高さにして、王と王妃の合葬棺台とした。四壁のうち南北壁は 下から天井まで垂直で、東西壁は壁面の上部を少しずつ内側に傾けてトンネル形天井を構成した。 壁面の磚を積む方法は、長手積みと小口積みを交互に行うもので、長手積みは4枚の磚を横にして積み重ね、小口積みは、1 枚の磚を立てて配列した。玄室を構築した磚には、斜格子の網状文に6~8葉の蓮華文、そして忍冬文が施文されている。
玄室の壁面には計5ケ所の龕室が設置されている。北壁に1ケ所、東西壁に2ケ所ずつ龕を設置して、その中に白磁燈盞を1 個ずつおいていた。玄室の床面と棺台は磚を二重に敷いており、外に現れる上面の ?を網代状に配列して、下側の磚は石灰を 塗って岩盤に固定した。羨道は玄室の南壁中央に設置され、長さ2.9m、幅1.04m、高さ1.45mで、玄室と同じくトンネル形であ る。
床面には網代状に磚を敷いており、玄室の床面より高くて棺台と同じ高さである。羨道の入り口の左右には磚を垂直に積んで おり、その高さは 3.04mである。羨道の構築方法は玄室と同じである。排水溝は、玄室と羨道との境界からはじまって羨道中 央の床下に磚を用いてつくられ、南北長が18.7mである。
副葬品は黄金製のベルト、太刀、黄金のかんざし、薬師寺塔の水煙を思わせる頭飾り、棺の中には黄金で飾られた頭台と足台 などである。それぞれ素晴らしい装飾性で有名になった。以下のパネル写真は、この資料館の壁に飾ってある副葬品の写真だ が、日本の古墳から出土したものが、驚くほどそっくりなのは大いに考えさせられる。
羨道にあった誌石(墓碑)。墓地を神から買い取るための「買地券」として残っていた。(買地券は、同じものが太宰府など でも発掘されている。)その誌石に、「斯麻王」(しまおう)と文字が刻まれていたため、この墓は百済第二十五代武寧王 (在位502~523)の陵墓と確定した。 誌石からみて、武寧王は523年5月に死亡して525年8月に王陵に安置され、王妃は526年11月に死亡して529年2月に安置された。 そして閉塞用の磚のうち「士壬辰年作」の銘文磚は、王のなくなる11年前である512年に、既に築造準備がなされていたこと を示している。
誌石は2枚の長方形の石版である。横41.5cm、縦35cm、厚さ5cmの青灰色閃緑岩に、楷書体で文字を刻んだ。武寧王が523年に 亡くなると、3年葬を行うために2年3ケ月の間、仮埋葬をして、王陵に安置する時に王の墓誌と千支図、買地券をつくった ものと理解される。その後、526年に王妃が亡くなると、3年葬を行って529年に葬るときに、買地券を上下逆にして、裏側に 王妃の墓誌を刻んだ。
この誌石は、韓国の誌石のうちもっとも古いものであるだけでなく、この誌石が出土したことで、武寧王陵は三国時代の王陵 のうち被葬者の身元を確認できる唯一の墓となった。たとえ省略されているとはいえ、「三国史記」から脱落していた事実を 補充する事ができ、買地券からわかるように、百済人の思想研究に重要な端緒となった。この誌石2枚が古墳の築造年代をは っきりと示してくれたために、王陵出土遺物は、三国時代の考古学研究、特に編年研究の基準史料となっている。
墓室は磚(せん)を積み上げて作ってあり、アーチ型の天井である。ここに、槙の木でできた王と王妃の柩が安置されていた。 日本語の説明板には無かったが、英語版の方に「この柩は日本の近畿地方南部の Koya-Mountain でとれた槙の木で作られて いた。」となっている。コウヤマキは日本にしか生育せず、この柩の材料は日本製ということになる。武寧王と日本の深い関 係が窺える。
韓国の古墳にクスノキの棺 鉄の見返り、日本から運ぶ? 2006年02月20日08時42分 ASAHI.COMクスノキとわかった棺。大木をくりぬいた舟の形で「海に浮かべて日本から運んだのでは」との見方も出ている =韓国国立昌原文化財研究所提供(05年5月撮影) 朝鮮半島からもたらされた鉄の見返りに、日本から何が運ばれたのか。古代史最大級の謎に、新たな仮説が登場した。 木材だ。韓国南部の古墳で昨年、朝鮮半島では自生しないクスノキの棺が発見されたからだ。中国を含む東アジアに特定 の樹木を貴ぶ文化があったという新しい歴史像も浮上している。 木棺が見つかったのは、慶尚南道昌寧郡の松●洞古墳群(全23基)の7号墳(5世紀末~6世紀初頭)。当時一帯は 加耶(かや)と呼ばれ、小さな国がいくつもあり、7号墳は、そうした国の支配者のものとみられる。 国立昌原文化財研究所の池炳穆(チ・ビョンモク)所長が1月に早稲田大で開かれた研究会に参加し、調査の概要を日 本で初めて報告した。 木棺は長さ3.3メートル、幅0.8メートル、高さ40センチほどで重さは258キロ。科学的分析の結果、昨年秋 クスノキと判明した。 照葉樹のクスノキは朝鮮半島には自生しない。済州島にはあるが、大きく育たない。古墳の構造や土器の様式から、昌 寧一帯は新羅の強い影響下にあったとみられるが、済州島は新羅と敵対する百済の領地だった。台湾や中国南部にはある が、これも遠隔地。こうした点から、「近い日本から運ばれた可能性が高い」と池所長は考える。 魏志倭人伝にも倭国の産物としてクスノキが記されている。虫がつきにくく長持ちするのが特徴で、特産品として知ら れていた可能性が高い。 分析結果を受け、早稲田大の李成市教授(朝鮮史)は、過去に韓国の古墳で発見された木材類を改めて調査。すると、 百済や新羅の多くの古墳でクスノキやコウヤマキの木片があった。コウヤマキは日本にしかない木だ。 逆に、当時の日本では鉄は未発見で、朝鮮半島からの渡来品は極めて貴重。見返りとしては米や塩、人が考えられてき たが、どれも朝鮮半島にもあり、「対価になりえない」との異論があった。 李教授は「木片は棺だったと考えていいだろう。クスノキなど棺に適した樹木が自生しないため、日本に求めた。その 貴重さは鉄との交易に見合うはずだ」と話す。 この新しい歴史像は、「飛鳥時代の仏像がなぜクスノキなのか、という大きな謎を解くきっかけにもなる」(仏教美術 が専門の大橋一章・早稲田大教授)という。 日本に残る飛鳥~白鳳時代(7世紀~8世紀初頭)の木製の仏像は20体近くあるが、1体を除くとすべてクスノキ製 だ。 中国や朝鮮半島に古い時代の木製仏像が残っていないこともあって、仏像作りは朝鮮半島を経由して伝わったが、素材 にクスノキを使うことは日本独自で、当初から自主性を持っていた――との考えが長く有力だった。 大橋教授は「クスノキの仏像は中国の南朝で生まれたのだろう。朝鮮半島の仏像もクスノキで作られていたのだろう。 そして、日本で仏像を作ったとすれば、それを手本にしたとも考えられる。外国文化を受け入れる場合、普通は丸のみす るものだ」と語る。 鈴木靖民・国学院大教授(東アジア古代史)は「仏像と棺はどちらも死や来世とつながる。東アジア全体に耐久性にす ぐれたクスノキなどの木材を大切にする文化が広がっていた可能性がある」と話している。 (●は「山」へんに「見」)
武寧王陵の復元展示館から陵墓群までは歩いて4,5分である。その間の歩道に、発掘時の様子をパネル写真にしたものが 掲示されている。以下がそれらの写真群であるが、残念なことに解説がない(ハングルでも)ので、内容はわからないが、 何となく発見時の様子は伝わってくる。
発掘の日、王の眠りを妨げるな!とデモ行進をした人々もいたそうだ。日本でも天皇陵は「皇室の尊厳」を守れと叫んで発 掘などもってのほかという意見の人たちもいるので、それは韓国でも同じのようである。嘘のような本当の話で、発掘の日 には雷鳴が轟いたそうで、発掘を担当した教授は、「一瞬王の怒りかとも思った」らしい。墓の内部は木の根が進入しては びこり、それを除去する作業に3か月を費やしたという。
百済中期の都、熊津は錦江の中流に臨み、今の忠清南道公州にあたる。町の北西の丘陵上にある宋山里(ソンサンリ)古墳 群は、当時のやや大型の横穴石室封土墳が集中している。そのうち二つの古墳は他と異なる特徴を持っている。昔から四神 図の壁画を持つことで知られている第6号墳と、1971年、その修理中に偶然発見された「武寧王陵」である。 この二つの古墳は、他の古墳がすべて石室墳なのに比べて、磚(せん:粘土を固く焼いてレンガのようにしたもの)を積み 上げて墓室の壁にした磚(ほんとは左側の”石へん”は”土へん”なのだがPCでは表示できない。)室墳なのだ。 中でも武寧王陵は、 (1).この墓が「武寧王」のものであることを墓自らが証明したこと。 (2).墓は盗掘されておらず、?室の美しさと百済王墓の副葬品の豊かさを当時そのままに残していたこと。 で、一躍世界中に知れわたった。発掘時、羨道に置かれた誌石は、墓地を神から買い取るための「買地券」であったが、そ こに刻まれた文字は「斯麻王」(しまおう)であった。すなわち、この墓は百済第二十五代武寧王(在位502~523) とその王妃の合葬墓である事が明らかになった。墓主の名前が明らかになることは、たとえ王であっても極めて稀で、実際 百済の王墓で被葬者が特定できるのはここしかない。 「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到。(癸卯年=523年)乙巳年八月癸酉朔十二日 甲申、安登冠大墓。(乙巳年=525年)立志如左。 」 南向きの羨道から達する玄室は、南北4.2m、東西2.72m、高さ3m余りの縦長の長方形で、南北の壁は垂直に立ち、 東西両側壁は上方にせり出してアーチ状の天井になった、いわゆるかまぼこ型の部屋である。奥の北壁と側壁にはそれぞれ 龕(がん:壁に突き出た小さなでっぱり)を設け、磁器の灯盞(とうさん:ランプ)を置き、その一つには灯芯の燃えかす が残っていた。この形式の墓室は、朝鮮三国の歴史を通じて他に類例がないが、中国江南地方に見られる。 玄室内には木棺が置かれ、その材質となった木材は細胞の分析結果から、日本の近畿地方南部にしか見られない「コウヤマ キ」であることが確認され、武寧王時代の百済と日本の関係、また、武寧王自身の出自などを巡って論争が巻き起こった。 墓から、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、銅鏡、陶磁器など約3000点近い遺物が出土 したが、驚くべきことに百済製の土器は1点も出土していない。すべてが中国の南朝からの舶来品であって、この王朝がい かに中国南朝に傾斜していたかを物語っている。
東に公山城が見え、西には錦江、南には忠南地方の名山である鶏竜山という眺めが見渡せるこの場所は、風水学でいう「非 常によい墓場」にあたるそうだ。宋山里古墳群とは 西紀(紀元)600年代の百済熊津時代の王陵群で、武寧王陵を始めとす る7基の百済古墳を指す。この内3基は墓の前に入り口があり、中に入ると玄室(棺を安置した部屋)がある。6号壁画墳や 武寧王陵などは、学術的、歴史的価値が非常に高く、熊津時代の百済古墳の研究における貴重な資料となっている。 ・場 所 : 公州市錦城洞 ・交 通 : 公州市外バスターミナル前から市内バスで15分 ・入場料 : 800 ウォン ・時 間 : 09:00~18:00(11~2月までは17:00) 1971年、排水口工事中に偶然発掘された武寧王陵は、百済時代の王陵としては初めて、その埋葬されている人物が明らかで あるのに加え、数多くの遺物が非常によく保存されたまま発見され、百済文化研究の転機を作り出した。三国時代の確かな 年代、およびその時代の社会像、文化像など歴史的な事実を立証する108種類 2,906点の遺物が出土され、韓国古墳 発掘史における最大の発見であると言える。 この内の12種22点におよぶ遺物が国宝に指定され、現在は国立公州博物館に展示されている。武寧王陵から出土された 遺物の中で最も注目を集めたのは、この王陵が百済第25代武寧王(462~523)と王妃の合葬陵である事を明らかにした誌石と、 地祇(地神)から土地を買ったと刻まれた買地券である。また炎を形どった王と王妃の金製冠飾や金製耳飾り、金の首飾りな どの遺物は百済文化の水準と風習の一面を物語る重要な資料と評されている。 武寧王は庶民の生活を安定させ、国力を伸長させるなど対内外的に大きな業績を成し遂げ、その息子である聖王の時には百 済中興が成し遂げられた。 武寧王陵の発見は、百済文化のすばらしさとその確かな年代を証明した歴史的な発見で、輝かしい百済文化の位置を一層高 めたと言える。 しかるべき手順を踏んで申し込めば、王陵の中に入ってガラスの壁を通して見ることもできるそうだが、宋山里古墳群の前 に設けられた実物大の模型展示館で見た方が、その内部構造が解りやすいと思う。
「日本書紀」の雄略天皇5年の条に、「百済の武寧王は、筑紫の各羅(かから)島で生まれたので島君(せまきし)と言う。」 という記事があり、武烈紀にも同様の記事があり、「武寧王の諱(いみな)は斯麻王と言う。」とある。「三国史記」にも 武寧王の名は斯摩となっている。島で生まれたから、斯麻王という名前が付けられたという。各羅島は、現在の松浦半島の 突端にある呼子島の真北にある加唐島(かからじま)のこととされている。これは一体何であろうか? 雄略天皇5年条の記事 雄略五年[461]「夏四月、百濟加須利君、【蓋鹵王也。】飛聞池津媛之所燔殺、【適稽女郎也】而籌議曰、昔貢女人爲采女。 而既無禮、失我國名。自今以後、不合貢女。乃告其弟軍君【昆支也】曰、汝宜往日本、以事天皇。軍君對曰、上君之命不可 奉違。願賜君婦、而後奉遣。加須利君、即以孕婦嫁與軍君曰、我之孕婦、既當産月。若於路産、冀載一船、随至何處、速令 送國。遂與辭訣、奉遣於朝。六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒。仍名此兒曰嶋君。於是、軍君即以一船、 送嶋君於國。是爲武寧王。百濟人呼此嶋曰曰主嶋也。秋七月軍君入京。既而有五子。【百濟新撰云、辛丑年[ 461]、蓋鹵王 遣弟昆支君、向大倭、侍天王。以脩兄王之好也。】 武烈天皇四年条の記事。 是歳、百濟末多王無道、暴虐百姓。國人遂除、而立嶋王。是爲武寧王。【百濟新撰云、末多王無道、暴虐百姓。國人共除。 武寧王立。諱斯麻王。是[王昆]支王子之子。即末多王異母兄也。[王昆]支向倭。時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不 至於京。産於嶋。故因名焉。今各羅海中有主嶋。王所産嶋。故百濟人號爲主嶋。今案、嶋王是蓋鹵王之子也。末多王、是 [王昆]支王之子也。此曰異母兄、未詳也。】
武寧王の陵墓が発見されたことで、これらの記事の正しさが立証されたが、では斯麻王すなわち武寧王は日本人なのか? どうして佐賀県で産まれたのか? とまた、新たな謎を生むことになった。単なる伝承だとする意見もある。 民俗学者の谷川健一氏は、「当時日本と朝鮮半島の交流は現代では考えられないほど活発で、庶民も自由に行き来してい た。特に武寧王の時代は百済との間に強い親交があった。武寧王が各羅島で生まれたという説話も、王や貴族層の間で生 まれたのではなく、庶民の間から生まれてきたものだろう。頻繁に百済と北九州の間で往来が続くうちに、いつのまにか 武寧王の出生を筑紫の島と結びつける物語ができあがっていったのだろう。」という。 一方で、これらの記事は真実を語っていると主張する意見もある。以下に続く新聞記事に見られるように、日韓双方でそ う主張する学者もいるのだ。その説に従えば、武寧王は日本生まれで、半島へわたり百済の王になったという事になるが、 そうなると当時、朝鮮や日本などと言う識別があったかどうかも疑わしいし、北九州は百済の一部だったかもしれないと 言うことになる。あるいはその反対という考えも成り立つ。日本書紀の雄略紀・武烈紀は、百済百撰という書物を元に書 かれているらしいという説もあり、百済と日本がどの程度の関わりを持っていたのか非常に興味深い。
佐賀県鎮西町(鎮西町役場:〒847-0401 佐賀県東松浦郡鎮西町大字名護屋1530番地 TEL 0955-82-2111(代) FAX 0955-82-5337)が企画した現地見学会」の案内 百済武寧王「鎮西町加唐島」生誕伝承の現地見学会 平成14年1月14日(月) 場 所 佐賀県鎮西町加唐島(オビヤの浦) 集合場所 佐賀県名護屋港(名護屋大橋下船着場駐車場) 集合時間 午前9時30分 定 員 80名 申込締切日 平成14年1月10日(定員になり次第締切) 申込方法 往復はがきに,住所,氏名,性別,年齢,電話番号を記入のうえ下記まで申し込んでください。 申込受付は確定後(80名)お知らせいたします。 ※強風中止については,前日お知らせいたします。(相互確認をお願いいたします。) 申 込 先 郵便番号 847-0401 佐賀県東松浦郡鎮西町大字名護屋1859番地 百済武寧王研究交流鎮西町実行委員会(事務局 鎮西町観光協会内) 参 加 料 一人 1,600円(往復船賃 加唐島の手づくり弁当) 申込受付確定後返信はがきで振込先をお知らせします。 問合せ先 鎮西町観光協会 電話 0955-51-1052
百済の武寧王生誕伝説の見学会 2002年1月15日 毎日新聞(mainichi.co.jp) -------------------------------------------------------------------------------- 朝鮮半島の古代国家・百済の第25代武寧王(ムリョンワン)の生誕地伝説がある佐賀県鎮西町の加唐(かから)島の 見学会が14日、あった。天皇陛下が昨年の誕生日を前にした会見で、武寧王を紹介しながら韓国とのゆかりを話された ため注目を集め、歴史ファン約70人が悠久の昔に思いをはせた。 加唐島は本土から船で約20分で、周囲12キロの島。南西部の「オビヤの浦」と呼ばれる海食洞が生誕地と伝えられ ている。現地では、加唐島生誕説を唱える韓国・慶北大学のムンギョンヒョン名誉教授が「百済の使節が日本に向かう時 に、王の母が産気づいて島に立ち寄った。古代の交流は想像を越える親密さだった」などと解説した。海食洞「オビヤの浦」で参加者に生誕地伝説を説明する文教授(右)=14日、佐賀県鎮西町の離島・加唐島(田中操写す) (c)Copyright Mainichi shinbun co., LTD
武寧王は5世紀初めに20余年(在位502(501年説も。)~523)在位したが、この間高句麗の侵略をくい止め、 一方では508年に耽羅(済州島)を征服した。日本では継体天皇2年にあたる。さらに512年には任那国4県の割 譲を日本に要求し承認させた。これに対する返礼として、百済は五経博士を日本へ送る。百済にとっては領土拡大の代 償であったが、日本にとっては漢学文化の輸入という、文化史上画期的な招聘制度となった。百済の領土要求はその後 も続き、先に獲得した4県東部の蟾津口の上流・下流を要求し任那へ侵攻する。任那はこれを不服とし、日本に対して 恨みを抱き新羅に接近するが、新羅はそれをよいことに任那を征服しようとする。 危機感を抱いた大和朝廷は、527年、近江毛野臣(おおみのけのおみ)を派遣して新羅に征服された任那の失地を回 復しようとするが、筑紫の国造磐井に遮られる。いわゆる「磐井の反乱」である。ここから磐井は新羅と通じていたと いう推測が生じる事になる。日本では継体天皇21年にあたり、武寧王の死後4年目の事であった。 磐井の乱については現在でも様々な憶測がなされているが、見てきたように朝鮮半島の政治情勢が複雑であった事、半 島と筑紫は殆ど同一地域のような地理的環境にあったことなどを考えると、この乱そのものも朝鮮半島の政治情勢と深 く関わっていたという可能性も捨てきれない。 日本書紀には、白村江の戦いで唐・新羅軍に敗れた百済から、臣官ら難民数千人が日本へ亡命したとある。