(C)「多十郎殉愛記」製作委員会
▼中島貞夫監督、84歳。劇映画としては約20年ぶりの新作、チャンバラの在り方を追求した時代劇『多十郎殉愛記』が4月12日公開。高良健吾さんや多部未華子さんというキャストをきっかけに見に行く人にも、中島監督の映画人生の一端をここで知っていただきたい。最近の記事を見ると、高良さんも多部さんも、中島監督から昔の撮影現場の話をいろいろと聞き、楽しんだようです。
▼【急降下】
まずは簡単に中島さん(千葉県出身)が映画界に入った時代の状況。東映入社の前年1958年は、国内映画館入場者数がピークの11億人。映画は娯楽の王様。しかしわずか5年で5億人にまで落ち込むという激動期だった。(ちなみに72年以降は、昨年まで1億数千万人で推移)
▼【ギリシャ悲劇だから京都?】
中島さんが東大在学中、同級生には脚本家・倉本聡さんがいた。中島さんは「ギリシャ悲劇研究会」を立ち上げて芝居を上演。
東映に入ると、人事課長が「ギリシャ悲劇は時代劇やな、京都行け」と、こじつけな理由で京都撮影所(京撮)配属を言い渡された。中島さんいわく「東映の東京撮影所は反戦映画なんかの評価が高かった一方で、京撮は時代劇しか作ってなかったし、職人気質だから打たれ強くないと務まらない。大半が東京志望だった中、『京都行け』。これが人生の分かれ道。もし東京だったら、僕は頭でっかちな映画を撮っておしまいだったかもしれない」
▼【名匠たち】京撮には、マキノ雅弘さん、田坂具☆(隆の生の上に一)さん、今井正さんといった名監督がいた。その下で助監督をするだけでなく、脚本も手伝わされた。名匠それぞれの思考、流儀を浴びていった。
▼【冷やかし、土下座】
1964年、『くノ一忍法』(原作は山田風太郎の小説)で初監督。だがこれが、京撮初のエロ路線だった。
「労働組合もやって生意気だった僕に、京撮所長の岡田茂さん(後の東映社長)が『おい、うるせえの、企画の1本ぐらい持って来い』と。どうせ通りっこないから、冷やかしで出した企画なんですよ(笑)。岡田さんは『こんなもん映画になるか!』と言ったけど、その後リサーチしたんでしょうね。数日後に『脚本を書け。撮るやつおらんから、おまえ撮れ』。僕は『堪忍してください』って3回も土下座したんだけど、駄目だった(笑)。錦ちゃん(中村錦之助=萬屋錦之介)は『監督になるときは出てやるよ』と僕に言ってくれていたけども、エロ路線と知って『絶交だ!』って。結局、脚本は倉本聡に手伝ってもらったんです。これがヒットしてね、京都市民映画祭新人監督賞を頂いた。誰よりも早く『よかったなぁ』って連絡をくれたのは錦ちゃんでね、彼は本当にいい男でしたよ」
▼【健さんともめる】
1967年、監督・脚色を担った映画『あゝ同期の桜』は、戦時中、特攻で命を落とす若者たちのドラマ。主役は当時若手だった松方弘樹さん、千葉真一さんら。ところが、脇役をスターの鶴田浩二さん、高倉健さんが固めることになってしまった。スターには見せ場をつくらねばならない。鶴田さんが演じる指揮官も特攻へと飛び立つ見せ場を設けたが、「みんな飛んで行っちゃうわけにいかないからね」。健さんには居残る役を演じてもらい、見せ場も設けた。
▼【呼び出し】
撮影期間中のある晩、中島監督は健さんから「話がある」と、宿に呼び出された…。
・健さん「監督、俺も(特攻に)飛び立つ方に行かせてくれ」
・監督「え? 健さん、健さんは残ることの重みというか、全部を受け止めてもらわないかんので…」
・健さん「分かる…」
<暫く沈黙が続く>
・健さん「でも行きたい」
・監督「いやいや健さん、だからこの役は…(丁寧に再度説明)」
・健さん「分かる」
<長い沈黙>
・健さん「…でも、どうしても行かせてほしい。俺は行きたい」
<同じやりとりリフレイン>
「ずっと健さんが引かないもんだから、この繰り返しで結局朝になっちゃった(笑)。朝になったから時間切れってことで終わったんだけどね。夜中に大もめで翌日は現場で眠いし、困っちゃいましたよ」
▼【1度ではない】
この逸話は、中島監督の分厚く楽しい著書『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』でも短く触れられている。ただ筆者も監督の京都の自宅にお邪魔して長時間、話をうかがったことがある。
監督いわく、健さんの“わがまま”はこの時だけではなかったという。『日本侠客伝』シリーズで中島監督が脚本を手掛けた時(恐らく1967年)のこと。
「旅館で脚本を書いてたら、健さんがこっそり一人でやって来るんですよ(笑)。プロデューサー(俊藤浩滋さん)もいないところにね。そういうのは組織の中で問題になっちゃうことだから、当時は僕も誰にも言わずに黙ってましたけど。健さんは僕に、こうしたい、ああしたいと言うわけです。でもそれは、明らかに俊藤さんは盛り込まないようなことなんですよ(笑)。健さんはやっぱり役に入るんじゃなくて、高倉健という男が発想する人物像、役がそのまま高倉健じゃなきゃいかんわけなんですね。それはそれでいいと思うんですよ。だから僕は、健さんという人は東映という枠の中には絶対収まっていられない人だと思ってました。その後の『高倉健』というものの萌芽が、当時からありました」
▼【時代劇衰退】
中島監督が京撮に入った頃は、ロケバスの横っ腹に「明るく楽しい東映映画」「時代劇は東映」と書かれていたそうだ。しかし映画の観客は急減、製作予算が減る。時代劇はセットに、衣装に、小道具に、と金がかかる。しかも時代劇は「勧善懲悪のパターンでマンネリ化して、ラス立ち(ラストの立ち回り)までに話はだいたい終わってる。ラス立ちはスターのショーになっちゃった。アクションの見せ物としてはいいんだけれども…」。テレビの連続時代劇となると、主人公が斬られるなどもってのほか、確実に生き残るラス立ちとなり、マンネリ化は加速した。
時代劇の東映は60年代、ヤクザ映画に活路を見いだし、鶴田浩二さん高倉健さんらの「任侠映画」を当て、70年代には『仁義なき戦い』に代表される「実録ヤクザ映画」をヒットさせていく。
中島監督もこの流れの中で、現代劇、それもセット不要な全編ロケや、さらに低予算で撮れるドキュメンタリーなど幅広いジャンルを経験。時代劇は静かに衰退していく。
▼【育てる】
1987年から中島監督は、大阪芸大教授、同大大学院教授を歴任、約20年にわたり後進を指導した。
「僕が学生たちに言ったのは『素材は何でもいいから思い切って自由にやれ。文句を言ってくるやつがいたら、こっちで対応する。肝心なのはシナリオ、それだけは俺はうるせぇぞ』と。『映画でやっていきたいやつは、名刺代わりに1本映画を撮ってから卒業せえや』と言って、4年生の本来のカリキュラムは無視しちゃった(笑)。熊切の『鬼畜大宴会』は脚本から面白かったし、山下は女が腐っていく変わった短編を早くから撮っていて、僕は『このままいけ!』と声を掛けました」
熊切和嘉監督、山下敦弘監督ら一線で活躍する映画人が育った。熊切監督にもかつて大芸で何が良かったかを聞くと、「中島さんが本当に枠にはめずに自由にやらせてくれたことです」と返ってきた。熊切監督は今回の『多十郎殉愛記』の現場に馳せ参じ、師匠中島監督の補佐を務めた。
▼【時代劇をもう一度】
その後、中島監督は京都映画祭のプロデューサーを務めるうちに、「京都から何が発信できるのか」と真剣に考えた。
「『スター・ウォーズ』にも影響を与えたチャンバラだと。京都の映画史から入って、戦後にGHQ(連合国軍総司令部)がいわゆる「チャンバラ禁止令」を出したのはなぜか、という点に突っ込んでみる。日本刀が持つ精神性が、日本人の死生観と結びついて、不気味だったんじゃないかと。その精神性と死生観を中核に据えて、見せ方を今に合わせれば、『もう一度時代劇は…』と思ってもらえるんじゃないか」
それがドキュメンタリー映画『時代劇は死なず ちゃんばら美学考』(公開は2016年)となった。中島監督自ら出演して案内役を務め、日本映画のチャンバラの歴史を丁寧に振り返った。見やすく、ためになって面白い。そして「今あらためて、いいチャンバラ時代劇が見てみたい」と期待を喚起する。ラストに監督は、数分間のチャンバラを撮り下ろして入れたのだった。つまりこの作品が、パイロット版的、予告編的役割を果たし、『多十郎殉愛記』の実現へとつながる。『時代劇は死なず―』はDVDが出ているので、興味が湧けばぜひ。
▼【名手、鬼気迫る立ち回り】
最後に、半世紀前の中島監督作品からチャンバラのエピソードを一つ。
実際にあった暗殺をオムニバス形式でオールスターキャストで描いた『日本暗殺秘録』(1969年)。その最初が「桜田門外の変」である。
水戸浪士と共に大老・井伊直弼の乗った駕籠を襲撃する主人公・有村次左衛門を演じるのは若山富三郎さん。『座頭市』の勝新太郎さんの兄であり、「日本映画史上、殺陣の名手といえば?」と映画人たちに問えば、近衛十四郎さん(松方さんの父)か若山さんかと名が挙がるほどの腕前であった。
撮影は、雪が舞う中、待ち伏せる若山さんらが、駕籠が近づいたと知るや、まっしぐらに駆けていき、立ち回りとなり、井伊を討つまで、一息でやろうということになった。
「段取りをやってみたら1分40秒ぐらい、皆さんそのぐらいだなって感じて、『富さん、いけますか』って聞いたら、『そんなもんいけるよ』と。じゃあ本番って、やってみたら、半分の50秒ぐらいになっちゃった。それ以上は持たないわけ。普通の殺陣だったら途中でじっと休めるような間も作れるんだけど、暗殺秘録の場合は、『とにかく誰が来ようが斬って、井伊直弼に向かって突っ込んでいって。キャメラが追うから』って言ってやったから、休む間がない。それでまあ『これでいいですわ』って言ったら、富さんは『もう1回やる』と。それでもう1回やったら、今度はもっと短くなっちゃった(笑)。富さんはもう息が上がっちゃってて、『(ハァ、ハァ…)中島が(ハァ、ハァ)俺を、殺そうとしてる…』って(笑)。いやぁやっぱりね、鬼気迫る、本気の立ち回りってのはすごいと思った、しびれるものがありますよ」
(宮崎晃の『瀕死に効くエンタメ』第122回=共同通信記者)