7.
うだるような暑さ、という表現は毎年のようにテレビで使われているけど、今年は今のところそういった言葉は聞かない、7月の下旬。
夏休み前の期末考査は悲喜こもごもといった感じではあったけど、休みに入ってしまえばそれも全部弾けてみんなウキウキしていた。ちなみに佐伯先輩はやはり一番だった。朱里は追試を受けていた。
夏休み中も生徒会業務はあるとはいえ、さすがに学期中よりはかなり落ち着く。つまり今私はかなり暇なのだ。中三だった去年は受験に向けて本格化していった時期だったから、よけいにそう感じる。
夏休み開始から3日経ったけど、やることもなく家でゴロゴロ、同じような日ばかり送っていると、何かしなきゃというような焦りが生まれてくる。なんとなく身体が重たくかといって夏バテでもない。要はなまっているのだ。
これではいけないと思い、ランニングでもすることにした。
動きやすい格好にイヤホンをつけて外に出る。快晴の空はにわか雨の心配もないだろう。徐々に足を早めつつ、聴き放題アプリの中からお気に入りのプレイリストを流し始める。
夏らしいキラキラした歌たちはラブソングも多分に含んでいて、この間までの私だったら避けていたかもしれない。けど、今はすんなり心地よく聴くことができる。
それはきっと、先輩のおかげなのだと思う。
先輩が以前見せた、中学時代の恋の苦しみ。私はそれについて全部を知ったわけではないけど、ひとりじゃないんだと思った。そして先輩を支えてあげたいとも。それと同時に不思議と自分も救われたような気がしたのだ。
それぞれ何かしらの問題を抱えていて、それをひとりじゃどうにもできないのなら、解決はできなくともお互いを少しでも救えるようにできたらいい。
現に私はいまだに「好き」ということがわからないけど、それを焦って悩むこともないのだと実感できているのだから。
そんなことを考えつつしばらく走っていると、前方に見覚えのある後ろ姿があった。
「菜月?」
「え? おー侑じゃん」
ショートヘアのいかにも快活そうな彼女は中学時代の同級生で、かつ同じソフトボール部員だった。傍らには人懐こそうな柴犬がいた。
「ゴールデンウィークぶりか?」
「だよねー。なかなかタイミングも合わなかったしね」
「まあお互い忙しかったもんな。侑は生徒会だっけ?」
私は一旦ランニングをやめ、犬を撫でたりしつつ菜月と立ち話をする。
「生徒会って普段どんなことするんだ?」
「うーん……虫取りかな」
「なんだそりゃ」
「うちの生徒会室軽く山だからさ……けっこう大変なんだよ」
私が虫を触ったりするのが平気だと知ってから、先輩は虫が出れば全て私に処理させるようになった。
先輩は虫全般が苦手なようで、処理している間は仕事にならない、いや落ち着き払っているように見えるのだけど仕事のほうは手が止まっているという有様だった。
だから私は毎日のように虫に対処しているのである。去年までどうしてたんだろう。
「侑、ランニングずっとやってるのか?」
「いやいや、今日から」
「なーんだ、じゃあめっちゃ身体なまってんじゃないの?」
「うん、ソフトやってた頃と比べたら全然」
「だよなあ。ま、無理はすんなよ」
菜月はソフト部の兄貴分? という感じでみんなから慕われていた。高校のソフト部でもそれは変わらないのだろう。
「あ、そうだ。侑明日空いてない? 買い物付き合ってほしいんだけど」
「明日? うんいいよ」
「お、マジで。サンキュー」
時間などを決めてから、菜月とは別れた。私はまたイヤホンを挿し、ランニングを再開する。
やっぱ偶然であれ誰かと会って話すと気持ちが軽くなる。明日も会えるのは楽しみだ。
そういえば先輩、どうしてるかな。
あの人のことだし、勉強とかしてるのかな。常に一番でいるためには当然それだけの努力をしているのだろう。改めて考えるとやっぱりすごい人なのだなと思う。
でも、本当は弱い面とかかわいい面もあって、私は先輩のそういう顔のほうが好きだ。
会いたい、かな。
帰ったら連絡とってみるか。よし、と私は気持ちを新たに足を早めた。
「小糸さん」
「えっ、どぅおえぇっ!!??」
その瞬間誰かの声がして、自転車がいきなり私の目の前にドリフト利かせて回り込んできた。
私は急に足を止めた反動で尻もちをついてしまう。
「いった〜……って先輩!?」
「あら小糸さん大丈夫? でも気づかないあなたも悪いわよ」
唐突に現れた先輩はツバの非常に広いハットに薄手のカーディガンを羽織った、軽井沢とかにいそうないかにも避暑地然とした格好だった。
「気づかないって……?」
「私、5分くらい前からあなたの後ろにピッタリついてたわよ」
「ええっ!? い、言ってくださいよお〜……」
「呼んだわよ、何度も。でも小糸さんイヤホンしてて気づかないんだもの」
「ああ……まあそれに考えごともしてたもので」
「考えごと?」
「はい、せんぱ……ゲフンゲフン」
「いま先輩って言ったわね。私のことね」
「ち、違いますよ……」
「まあいいわ、それよりまず立ちましょう。ほら」
そう言って先輩は手を差し伸べてくる。そういえば先輩の手握るのってショッピングモールのとき以来だなあ。
そんなことを思いながら私は立って土をはらう。
「先輩、こんなところで何してたんですか?」
「サイクリング」
「ほんとですかあ?」
「本当よ。勉強の合間に」
「暑くないですか」
「別に苦じゃないわ。夏は空が綺麗だし」
とくに嘘とかはついてなさそうだけど、空が綺麗って何だその清純派なセリフは。先輩そんなキャラでしたっけ?
「さっき一緒にいたのは彼氏?」
「って、どこから見てたんですか!?」
「見つけたのはかなり早かったわよ」
「それってもう尾行なんじゃ……っていうか女の子ですからさっきのは」
「え、彼女?」
「なんでそうなるんですか……」
なんだろう、この謎の既視感……
それにしても先輩、もう発言に何の遠慮もなくなってきましたね……やっぱり先輩はこういうほうが似合う。
「さっきの子、犬を連れてたわね」
「先輩は犬好きですか?」
「そうね、でも猫のほうが好きかしら。家でも飼ってるし」
「へーいいな〜」
「なら見に来る?」
「え?」
「うちの子は割と大人しいから」
「い、いいんですか?」
「ええ」
そういう展開になるとは思っていなかったから、少しうろたえてしまう。
先輩の家ってどんなだろう。見た目に違わずお屋敷だったりするのだろうか。
結局後日行くという運びになり、日時など決めた。ただでさえ先輩の家なのに豪邸かもしれないと思うと余計緊張してくる。
「それじゃ、そろそろ帰ろうかしら」
「そうですね、ではまた当日」
「走って帰るの?」
「はい」
「熱中症には気をつけてね」
「先輩こそ……そうそう、今の季節とか自転車で走ると口に虫とか入りそうになるから気をつけてくださいね」
ちょっとからかう意味も込めてそう言ったら、その瞬間に先輩の動きが止まってしまった。
「……」
「せ、先輩?」
「それじゃ小糸さん、送っていってもらえるかしら」
先輩は乗りかけた自転車から降りて、サドルをポンポンと叩く。
「ええ……」
「これも体力作りよ」
「そこまでして作りたくないですけど……」
「青春らしくていいじゃない。私たちカップルなんだし」
「ここでそのネタ持ってきますか……」
私たちがよく行く「Echo」というカフェがある。生徒会の副顧問である箱崎先生と店主の都さんが"友人"ということもあり、割と都さんとはよく話す。で、行くたびにカップルだなんだとからかわれているのだ。
「もう、わかりましたよ。後ろ乗ってください」
「あらありがとう、小糸さんの優しいとこが私好きよ」
「いいですからそういうのは……」
自転車の後ろへ横向きに座った先輩は、それはもう深窓の令嬢という趣で、すれ違う人たちをみな釘付けにしていた。
まあお人好しの私は先輩が「ここでいいわ」と言うところまで汗だくでしたけど……
…………………
「ちょっとこういうのに挑戦してみてもいいよなー」
「お、まじで」
翌日、菜月とやってきたショッピングモール。
スポーツ用品店にでも行くのかと思ったら菜月は服売場に直行したので、少し意外だった。
で、いま菜月が手に取っているのは大人っぽい開襟のシャツ。胸元とかもけっこう緩めで、それでいてかわいくも見えるから私もそれなりに惹かれた。
「私もこれ買おうかな」
「お、お揃いにするか? どの色にする?」
先輩の家にお邪魔するとなって、さすがにいつものTシャツとかでは気が引けるなと思った。こういう大人っぽさのあるシャツなら丁度いいかなと考えたのだ。
それぞれの服を買い終え、ドラッグストアに立ち寄ってからモール内のカフェに落ち着いた。そういえば以前先輩と来たなここ。
「侑、ドラッグストアで何買ったんだ?」
「忌避剤」
「キヒザイ?」
「虫除けの薬だよ」
「お前そんなに虫苦手だったか?」
「私は虫の担当だからね」
「はあ」
菜月はよくわからないといった顔をしている。うん、私もよくわかんないよ……
「それにしても菜月がそういうの買うなんて珍しいね」
「そ、そうか?」
「うん。なに、ファッションにでも目覚めた?」
「い、いやーその……」
冗談半分でそんなことを言ったら、急に菜月の歯切れが悪くなった。
「?」
「じ、実はさ……今度クラスの男子と、その、出かけることになってさ……」
「……ええっ、マジで!?」
失礼ながらそうくるとは思っていなかったので、声が上ずってしまった。はあ〜あの菜月がねえ……
「そ、そんなに驚くなよお」
「ごめんごめん、けっこう仲良いんだ?」
「え、いや〜まあ、よく話はするけどさ? べ、別にそんな仲良くはないってか? だから誘われたときはちょっと驚いたっていうか?」
そう言って頭をかきながら視線を泳がす菜月の姿は乙女そのものだった。
「人って変わるもんだねえ……」
「ちょっ、やめろよその顔! そ、それに好きとかじゃないからな全然!」
「うんうん」
「う〜……」
ああ、なんか槙くんの気持ちがわかったような気がするよ私……お姉さんは見守っているよう、菜月ちゃん。
「ゆ、侑のほうこそどうなんだよ!」
「へ、私? 私は……ないなあ」
「嘘つけ! クラスの男子に告られたって朱里から聞いたぞ!」
「なんだそりゃ……そっちのほうが嘘だよ」
たしかに以前男子から呼び出されはしたけど、それは単に佐伯先輩に紹介してほしいというだけの話だった。朱里のやつめ……
まあそれはいいとして、友人の恋は素直に応援したい。菜月は終始口を尖らせていたけど「楽しんできなよ」と伝えたら、へへ、と顔を赤らめつつはにかんでいた。
菜月ってかわいいなあと微笑ましく思いながら、私は私で先輩と会うのが楽しみになっていた。
8.
「ただいま」
「お、お邪魔します」
閑静な住宅街の中にあった佐伯先輩の家は大豪邸とは言わないまでも、歴史を感じさせる十分に立派な和風の佇まいだった。
「あらいらっしゃい、あなたが生徒会の後輩さん?」
「あ、はい。小糸といいます」
「小糸さん、いつも沙弥香ちゃんがお世話になって」
「い、いえいえとんでもない! 私のほうがお世話になりっぱなしで……」
出迎えてくれたのは先輩のお祖母さんだった。柔らかな物腰でありながら堂々とした威厳がこの家の雰囲気にぴったりだった。
「私の部屋はこっちよ」
ひと通りのやり取りを終えると先輩の部屋へ案内された。
家の外観とは反対に、フローリングの現代的な部屋だ。
手前に座椅子、テーブルなどが置かれてあり、ベッドは奥にある。本棚には本屋の娘なりに知っているものはあっても、読んだことのない名前ばかりが並んでいた。
和室も似合うのだろうけど、先輩の雰囲気にはやはりこういう風が合ってるなと思った。
そして、座椅子には黒い塊があった。先輩の猫だ。黒地に茶色がかった模様のある、いわゆるサビ猫というやつだ。
丸まって眠っていたけれど、私たちが入るとピクっと反応し、不思議そうに顔を上げた。
「うわ〜かわいい」
「その子は大人しいわ」
「触っても大丈夫ですか?」
「人見知りしないからいけると思う」
そっと手を伸ばすと猫はこっちに顔を近づけてクンクンと探るように嗅ぎ始めた。
「もう1匹連れてくるわね」
「はい」
言い残して先輩は一旦部屋を出ていった。
残った私はゆっくりサビの頭を撫でる。毛並みがツヤツヤしていてとても綺麗だ。気持ち良さそうに目を閉じてされるがままになっている。
「待たせたわね」
しばらくすると先輩がもう1匹を抱いて戻ってきた。白地に黒の模様が入っていて、こちらもとてもかわいらしい。のだけど……
「かなり嫌がってますね……」
「今日は機嫌があんまり良くないみたいね。あいたた」
白黒は先輩の腕から抜け出そうと暴れ始め、さすがに先輩も床に下ろす。
私と目が合った白黒は明らかに警戒していて、半身で距離を取る。
「ちょっとダメみたいですね……」
「動物としては正しい反応なのかもしれないけど……これ使ってみたら?」
先輩が手渡してきたのは猫じゃらしを模した猫用のおもちゃだった。
「ほーらおいでー」
私は視線を合わせるため四つんばいになってそれを振る。けれど白黒は先ほどの体勢のまま動かない。
むしろサビのほうが興味深そうにおもちゃを顔で追っている。
しばらく振ってはみたものの白黒は動かず、もう関心も無くなったのか前足で顔をくしゃくしゃとかきはじめた。なんか招き猫みたいだ。
「やっぱダメかあ」
「まあいいじゃない、そっちには懐かれたみたいだし」
たしかにサビのほうは早く遊んでと言わんばかりに前のめりになっている。私というよりおもちゃにしか興味がないといった感じもするけど、まあいいか。振ってあげるとぶんぶんと身体ごと一緒に振り始める。
ちょっと高い位置してやると丸っこい手をいっぱいに伸ばして捕まえようとしていて、とてもかわいい。
先輩は四つんばいになっている私の正面に位置する椅子に座った。が、私はとくに気にも留めず猫の動きに夢中だった。
「ほんとかわいいですね〜」
「喜んでもらえてよかったわ」
「えいっ、えいっ、ほらこっちこっち」
「小糸さん」
「なんですかー?」
「見えてるわよ」
「え? 見えてるってなに……がっておわあっ!!??」
私は慌てて起き上がり胸元を抑える。
し、しまった……今日は始めて着るシャツで首回り緩いんだった。おまけに開襟だから余計に……
「ず、ずっと見えてました……?」
「ええ、もうバッチリと」
「言ってくださいよお!!」
「邪魔しちゃ悪いと思って」
「うぅ……」
澄ました顔の先輩とは反対に、私は顔が赤くなるのを感じる。
見られたことも恥ずかしいけど、その原因が猫と遊ぶのに夢中になって無防備だったからとか……子どもかよ。
そのときコンコンと部屋のドアがノックされた。
「はい」
「お邪魔するわよ、よかったらお茶菓子でもどう……ってあらあら」
お祖母さんがお菓子の乗ったお盆を持って入ってきた。そして何故か私たちの姿を見て驚いた表情になる。
「こりゃあ本当にお邪魔だったかしら」
「な、なに言ってるんですか!?」
「いえねぇ、小糸さんが顔を赤くして胸を隠してるもんだからね……あたしゃてっきりナニかおっぱじめるのかと」
「まだそこまではいってないわ」
「って先輩!? 誤解されるでしょお!!?」
「あらあらあら」
くうう……やっぱこの人先輩のお祖母さんだよ……
…………………
その後一応の弁明はしたけれど、正直向こうにとっては何だっていいのだろう。お祖母さんはサディスティックに笑いながら部屋を後にした。そのやりとりの最中に猫たちも出ていったようだ。
私と先輩は持ってきてくれた美味しいお菓子を食べながら、読んでいる本の話などをした。
「小糸さんけっこう詳しいのね」
「はい、家が本屋っていうのもあって小さい頃から色々と」
「ああ、そうなの?」
「言ってなかったでしたっけ? 藤代書店ってとこで」
「藤代……昔行った気がするわ」
「え、そうなんですか」
「すれ違ってたかもしれないわね」
「ほんとですねえ」
「そういうことならまた行ってみたいわ」
「あ、なら家にもあがっていってくださいよ」
「いいの?」
「はい、なんなら明日とかでも全然」
「明日? 明日は……ダメ。明後日はどうかしら」
「大丈夫ですよ」
明日は予定があるのか。さすがに急すぎたなと思い少し反省する。でも明後日には会えるのだと思うと、素直に嬉しかった。
夕方にさしかかり、そろそろお暇することにした。
お祖母さんに挨拶していくとリビングで優雅にお茶していた彼女は、先ほどと同じ笑みを浮かべていた。
夕飯も食べていけばいいと言ってくれたけど、さすがにそれは遠慮した。なんか色々と訊かれそうだし……
リビングを出る際、ふと壁にかけてあったカレンダーが目にとまった。明日の日付に何か書かれてある。これってーー。
「小糸さん?」
「あっはい、すみません」
先輩に呼ばれ、慌てて廊下に出ていく。最後にお祖母さんに一礼するとまたいつでもいらっしゃいね、と言ってくれた。
「気をつけてね」
「はい、ありがとうこざいました」
外は綺麗な夕焼けだった。
先輩の明るい髪と白い肌は照らされて、その光景によく映えていた。
さっき私は先輩と会えるのを「嬉しい」と感じた。それは先輩といるのが楽しいからだ。
でも、その嬉しさは日常的に感じるものとは違うような気もした。ただその正体は曇りガラスの向こうにあるようで、よくわからず少しもどかしかった。
でも別に、それを積極的に探ろうとも思わなかった。今はただ楽しいと思えることに身を任せようと、そう思って。
9.
駅で待ち合わせた佐伯先輩はパステルカラーのワンピースが涼しげでよく似合っていた。
今日はとくに日差しも燦々と照っていて、さすがに先輩は日傘を使っていた。ほんと街中より高原とかのほうが似合うよなーとか考えながら、家まで案内する。
「こんにちは」
「あらあら! どうもいらっしゃいませ!」
家に着くと、店番をしていたおばあちゃんがお母さんを呼んでくる。家事でもしていたのか、慌ただしく出てくる様子がちょっと恥ずかしい。
「佐伯沙弥香と申します。侑さんにはいつも生徒会で助けてもらっていて……」
「いえいえ〜! もうこの子がご迷惑おかけしてないか……」
よそ行きの先輩の挨拶はなんだか背筋がむずかゆくなる。そういえば下の名前で呼ばれたの初めてだなあ。
「それにしても聞いてた通り美人さんだわ」
「聞いてた通り?」
「ええ、もうこの子ったら学校の話になるといつも先輩先輩って」
「ほー……」
そう言いながら先輩がこちらを見てくるので、私は反射的に目をそらしてしまう。ったく、そんなに言ってないでしょうが……
「ああもう、わかったからお母さんは引っ込んでて!」
「はいはい、それじゃ佐伯さんごゆっくり〜」
「ありがとうこざいます」
私の部屋に入ると先輩はやや物珍しそうな表情をしていた。
「かわいい部屋ね」
「そんなことないと思いますけど」
「もっと簡素なイメージだったわ」
「それは先輩のほうじゃないですか?」
「そうかしら、まあ女の子らしくはないかもしれないわね。ここみたいにぬいぐるみとかもないし……これ何?」
「あ、これですか? こっちはチンアナゴでこっちの子はニシキアナゴです! かわいいでしょう」
「チン……ニシキ……?」
お気に入りのぬいぐるみに先輩が目をつけたので説明したけど、チンプンカンプンといった感じだ。
「どこで売ってるの? こんなの」
「水族館です! ショップに行くともっとたくさん種類があるんですよ」
「水族館とか行くのね」
「はい、かわいいのたくさんいますしショーとかもあったり……楽しいですよ」
「ふーん」
先輩は興味があるようなないような、いまいちな反応。今度誘ってみるのもいいかもしれない。こういうのは実際行ってみないとわからないものだから。
「他にもあるのかしら、ぬいぐるみ」
「はい、ありますよ。この押入れにたしか……」
「ふーん」
「……」
押入れを開いて中を探る後ろから、先輩は私の肩にアゴを乗せる形で覗き込んでくる。近いなあ……いや別に女同士だしドキドキとかしないけどね?
一緒にいてもとっくに緊張感はなくなっているけど、やっぱりこの人の距離感は未だによくわならない。
「……って重い重い! 先輩体重かけないでくださいよ!」
「重いとは失礼ねえ」
「もう、何がしたいんですか……」
「女子校ではこういうの普通だったから」
「ほんとかなあ……」
「本当よ」
まあいいけどさそんなことは……けど最近は中学時代の話もしてくれるようになった。
前は失恋の"噂"があったから私も積極的に聞くことはしなかったけど、そういったわだかまりもなくなってきているみたいだ。
しばらくすると甘い匂いが漂ってくる。
「いい香りね」
「はい、今日は怜ちゃん……姉がケーキ焼いてくれてるんです」
「お姉さんいるのね」
「いま大学生で。彼氏が来たりご機嫌な日は作ってくれるんですよ」
「お菓子が作れるなんてすごいわね」
「おいしいんですよー」
お世辞抜きに怜ちゃんの作るものは何でもおいしい。いまは大学も夏休みだし家にいる時間も多いので、頻繁に作ってくれる。
私も甘いものは好きなので、自然と心が弾んでくる。楽しみだなあ。
「その様子じゃ本当においしいみたいね」
「うん♪」
「『うん』?」
「あっ、す、すいません!」
ついウキウキしすぎて調子に乗ってしまった。自室ということもあり敬語が頭から抜け落ちて先輩に突っ込まれてしまう。ま、まずい……怒られるかな。
「ふふふ……」
「せ、先輩?」
「ふふふ……『うん♪』だって……ふふふふ」
何がおかしいのかわからないけど、先輩は今のがかなりツボに入ったようで、両手を口元に当てて身体を震わせている。やめてくださいよ……余計に恥ずかしくなってきた……ていうかまたこんな子どもみたいな姿をさらしてしまった……
おーいと声がする。怜ちゃんだ。ケーキができたという合図だろう。これ幸いとばかりに私はまだ笑っている先輩を一旦置いて部屋を出る。
「あ、きたきた。はいこれ」
「怜ちゃんありがとー」
「あんたも律儀ねー。なんか顔赤いけど大丈夫?」
「だ、大丈夫大丈夫! またお礼するから! じゃね」
「はいはい」
怜ちゃんの切り分けてくれたチーズケーキをふた皿受け取る。私の様子に少し不思議そうな顔だったけど、説明するのも面倒なのでそそくさと戻っていく。
「お待たせしました」
「ありがとう」
先輩はさすがにもう笑いやんでいた。頰が少しピクピクしてるけど……
「おいしそうね、それじゃ……」
「あっちょっと待ってください」
「え?」
そう言って私は先輩のケーキにあるものを刺す。
「これって……」
「はい、先輩誕生日おめでとうございます」
「1」「7」の数字にそれぞれ形どられたロウソク。昨日からの、先輩の年齢だ。
先輩の家にお邪魔した際、壁にかけてあったカレンダーの29日に『沙弥香 誕生日』と書かれてあった。先輩が「明日はダメ」と言ったのはこのためだったのだろう。それで私も急遽怜ちゃんにケーキを頼んだというわけだ。
「1日遅れちゃいましたけどね」
「そんなことないわ……家族以外にこうやって祝ってもらったのは初めて」
「そうなんですか」
「小糸さんが私の初めてね」
「まーたそんな言い方して……」
「嬉しいわ」
先輩は私に優しく微笑んだ。
その顔はいままで見たことのないものだった。というかいままでに味わったことのない感情を私に与えた。
その感情とやらが具体的に何だったのかは、不思議と後になっても思い出すことができなかったけど。
ただ確かなのは、その笑顔は一瞬だけ燃え広がって消えるフランベのように、私に強い何かを垂らしたのだ。そして、その笑顔に見惚れてしまったことも。
「……あっ、ああそうだ、よかったらこれもどうぞ!」
ハッと我に返って、私はリボンのついた小さなラッピングを渡す。
「これは……ヘアピン?」
「はい、先輩に似合うと思って」
選んだのは黄色い小さな花のついたヘアピン。先輩の見た目的にもそういったかわいらしいものがいいんじゃないかと考えた。
それに……使ってくれてるのがわかるほうがいいなと思って。押しつけがましいかとも思ったけど、これは私のちょっとしたワガママだ。
「かわいい花ね、何かしら?」
「ウチワサボテンです!」
「サボテン……?」
名前を聞いてやや訝しげな顔になったものの、サボテンの花というのはかわいいものだ。細かな花びらが連なり丸っこい形を成している。まるで和菓子のようだ。
「どうかしら?」
「わっやっぱりすごい似合います。これ、先輩の誕生花なんですよ」
「そう? じゃ今日はこのまま着けて帰るわ」
気に入ってくれたのか先輩はそう言ってくれた。確かに実際とても似合っていた。先輩のふわっとした髪にちょこんと花が乗った姿は愛らしい。
…………………
怜ちゃんにも顔を合わせ、そろそろ帰る頃合いになって、先輩は何かオススメの本はあるかと聞いてきた。一冊買ってくれるらしい。
なるべく普段読まないようなものがいいと言うので、私は好きな古いSF小説を選んだ。そういったジャンルは全く読んだことがないようだ。
「面白いタイトルね」
「ええ、もちろん中身も面白いですよ」
「ならこれをいただくわ」
「はい、ありがとうございます」
先輩から本を受け取りいつものように会計をする。作業をお客さんにじっと見られるのは最初やりづらかったけど、さすがにもう慣れっこだ。
「小糸さんは本屋を継ぐの?」
「いやーどうですかね」
「こんなにちっちゃくてかわいらしい店員さんなら人気出そうね」
「ちっちゃいは余計ですよ!」
「ははは」
いつのまにか脇に立っていた怜ちゃんが私たちのやりとりを見て笑う。
「いやーいいコンビみたいだね、あんたたち。佐伯さんだっけ? 侑のことよろしくね」
「はい、大切にします」
「えっ」
「もお、だから変な言い回しやめてくださいってば!」
相変わらず先輩の言動は危なっかしいとはいえ、今日は楽しかった。これからは先輩との寄り道コースに私の家を加えてもいいかもしれない。
あ、私が楽だからとかじゃないからね?
10.
8月に入った。
夏夏夏、アイスクリームも一瞬で溶ける夏本番だ。
林の中の生徒会室では豪雨のように全方向からセミの鳴き声が降ってくる。
「今日はこれくらいにしましょうか」
「うーす……」
「お疲れ様です……」
連日の猛暑にへばっているのか、槙くんと堂島くんの声にも元気がない。佐伯先輩は全然変わらないけど……
「ねえねえ小糸さん」
「ん?」
「会長とは進展してるの?」
「進展って……だからそういうんじゃないから」
「えーでも前よりずっと距離が近づいた感じだよ?」
「まあ、お互いの家には行ったりしたけど」
「へえ、順調じゃない。外堀もしっかり埋めていってるんだね」
「だからそっち方向にねじ込もうとするのやめて……」
「それに会長のヘアピン、あれ小糸さんがあげたんだよね。会長もかなり気に入ってるんじゃない?」
「あーもう、この話やめやめ!」
「えー」
最近は槙くんに会うたび報告を求められる。こういう話になるとほんとイキイキするなこの人……
先輩とのことはそういう方向には変に意識したくないので、なるべく避けたいのだけれど、槙くんは巧みに聴きこんでくる。だから結局ついつい話してしまうのだ。
話に出たヘアピンを、先輩はいつも着けてくれているようで、その点は嬉しかった。堂島くんが目ざとく見つけて、
『会長のヘアピンかわいいっすねー。何の花ですか?』
『サボテン』
『サボテン……?』
みたいなやりとりもあった。そんな変なチョイスかなあ……
……………………
「暑いですねー」
「暑いわね」
「もう『暑い』しか言わなくなっちゃいますよね」
「極端に暑かったり寒かったりするとみんなバカになるのね、きっと」
「ははは」
確かにこう暑いと思考もそっちばかりに気がいって単純化してしまいそうだ。最近はしきりにテレビなどで外に出ないように、激しい運動を避けるようにと呼びかけているので、ランニングも控えている。
しばらく歩いていると、私の出た中学校が見えてきた。
グラウンドではソフトボール部が元気な声をあげている。うひゃーよくやるなあ。
「よくやるわね」
「ほんとですねえ」
「小糸さんソフトボール部って言ってなかった? あれソフトボールよね?」
「はい、あとここ私の中学なんですよ」
「ああそうだったの?」
「ええ、知ってる顔もチラホラ……」
と、そのときファールボールがフェンスを越えて私たちの近くに転がってきた。反射的に私はそれを拾う。夏ミカン大のボールの感触が懐かしい。
「すいませーん、って侑先輩!」
「おー」
ボールを受け取りに近寄ってきたのはその知っている顔のひとりだった。
「お久しぶりです! 今日は部活とかですか?」
「うん、そんなとこ」
「へーそちらは?」
「ああ、この人は高校の先輩」
「あ、そうだったんですね。こんにちは!」
「こんにちは」
後輩は即座に頭を下げる。相変わらず運動部らしい礼儀正しさだ。
「菜月先輩とは会ってます? 高校別だったと思いますけど」
「うん、こないだ会ったよ。最近好きな人できたみたい」
「えーマジですか! 詳しく聞かせてくださいよ!」
「ていうかいいの? 練習戻んなくて」
「今日は顧問もいないですし、みんなのんびりやってるから大丈夫ですよ」
言われて見ると、グラウンドでは戻ってくるのを待たず、練習を再開している。といっても笑い声なんかも聞こえて、確かに気楽な感じだ。
「そうだ先輩、よかったらちょっと打っていきませんか?」
「えっ、いいよいいよ。部外者が入るのもアレだし」
「卒業生なんだから問題ないですよ。ほら」
「えーでも……」
「いいじゃない小糸さん、後輩たちにお手本を見せてあげれば」
後輩の誘いに私は乗り気じゃなかったけれど、先輩が急に首を突っ込んできた。その発言に乗せられて、後輩は私の手を取る。
「ですよねー! ほらほら、先輩の力あいつらに見せてやってくださいよ」
「わかったよ、もう……」
……………………
誰? って表情の1年生たちと、小糸先輩だー、お疲れ様でーすと声をかけてくる2、3年生たちの間をちょっと恥ずかしい思いで抜けながら、私は久しぶりの打席に立つ。夏の日差しを照り返すグラウンドがまぶしい。
「せんぱーい、この子将来のエース候補。球見てやってくださいよ!」
「よ、よろしくお願いします!」
連れてこられた1年生はあまり気は強くないようだけど、手足が長くて確かにいい球を投げそうだ。
先輩はフェンスの向こうから見ている。
無駄にプレッシャーがかかるけど、私が結局誘いを断らなかったのは、先輩にちょっといいとこ見せてやりたいという思いもあったのだ。
最近の私はなにかと先輩に隙ばかり見せてるような気がするから……ソフトは久しぶりだけど打ってやる、と気を引き締めた。
「かっとばせー、こ・い・と!」
「手加減しなくていいですからねー先輩!」
「で、ではいきます!……えいっ!」
躍動感のあるフォームに私はタイミングをとる。勢いよく放たれたボールはまっすぐに私のほうへ向かってきて……って、え?
「うぼぉっ!!??」
「うわっ! 先輩大丈夫ですか!?」
脇腹に衝撃と継いで激痛が走り、私は瞬間エビ反りになってそこを抑える。
デッドボール。
みんなが私の元へ駆け寄ってくる。
「す、すみませんすみません! 大丈夫ですか!?」
「おまえー、初球からそれはないだろー」
「モロに当たっちゃいましたね……先輩」
ピッチャーの1年生がしきりに謝ってくる。
今にも泣き出しそうな顔に、さすがに怒ることもましてや私が痛みに泣くなんてこともできない。
「……いやー、ダメだね。やっぱ全然球見えないや」
「先輩?」
「ケガとかもないから大丈夫。もう行くね」
「えっ行っちゃうんですか」
「うん、めっちゃノビのあるいい球だったよ。これなら大会もいいとこまでいけるよ。がんばって。 じゃね!」
「あ、せんぱーい! 私遠見受けるつもりなんで待っててくださーい!」
その言葉に返事をかえし、私はグラウンドを後にした。
今日は先輩とお昼を食べるつもりで一緒だった。だからいつもは通らないグラウンドの前まで来ていたというわけだ。
「おーいてて……」
「ソフトボールって球を身体に当てるゲームなの?」
「んなわけないでしょう……」
それにしても先輩には情けないところを見せてしまった。成り行きとはいえ後輩の集まりに乱入して、ただぶち当てられて帰ってくるとは……なんともお粗末だ。
「けどバットを構えた小糸さん、かっこよかったわよ」
「い、いいですよ……無理にほめなくて」
「本当よ、また見たいわ」
「う……じゃあまたいつか、バッティングセンターででも」
「何それ?」
「マシーンが球を投げてくれて、それを打つんですよ。ピッチャーの映像が出るのもあって」
「面白そうね」
「ま、ストレス発散にはなるかもですね」
「なら、お昼食べたら行きましょう」
「えっ、今日ですか!?」
「小糸さんのかっこいいとこ見たいもの」
「……もお、わかりましたよ」
バッティングセンターではさすがにデッドボールはないにしても、うまく打てるかわからない。
けど、かっこいいなんてほめるのはずるい。先輩の言葉にはお世辞とか感じられないから。できればそういう言葉をもっと聞きたいと思ってしまうじゃないですか……
11.
「先輩」
「あらこんばんは」
8月からは佐伯先輩も何かと夏期講習であったり色々と予定が入ってしまって、なかなか会うことができなかった。
もう月も半ば。生徒会の活動後も寄り道できない日が続いていたから、こうやってプライベートでゆっくり会うのは久しぶりだった。
今夜は毎年行われている夏祭り。けっこう本格的で花火なんかもあるのだけれど、先輩は小学生以来行ったことがないというので、誘うことにした。
「えー槙、お前来たことないの? ここ」
「うん、家からは微妙に遠かったからね」
「もったいねーなー、祭りっていいもんだぜ」
今日は槙くんと堂島くんも一緒に来ている。
堂島くんは毎年来ているらしいので誘わなくたってどうせ来たと思うけど『会長の浴衣が見れるかもしれないんだから絶対行く!』と張り切っていた。
が、残念ながら今日の先輩は普段着。ちなみに私もTシャツ姿だ。
残念だったね、とこっそり堂島くんに言うと『でも会長の私服見れたしいいやー、クラスの奴らにも自慢できるし』と笑顔だった。こういう楽天的なところは羨ましい。
「人が多いのね」
「まあお祭りですからねー」
「でも昔ほどじゃないわね」
「昔から多かったでしょ?」
「ええ、でも今はきっと楽しいからかもしれない。昔は無理矢理連れて来られてたから」
「今は楽しいんですか?」
「そうね、小糸さんと一緒だから」
「……先輩、最近ワンパターンですよ」
「ワンパターン?」
「私をたぶらかしすぎです」
「そんなつもりはないけど」
「それじゃほとんど好きって言ってるようなもんですよ」
「それのどこが悪いのかしら」
「悪……くはないですけど、勘違いされちゃいますよ」
「小糸さんは勘違いするようなちょろい人なのかしら?」
「え、いや……違いますけど」
「ならいいじゃない、こういうことは小糸さんにしか言わないんだし」
そういう発言こそ勘違いされてしまう気がするけど……もういいや、考えるほど意識しちゃいそうだし。
先輩が興味を示したので射的をやらせたらめちゃくちゃ上手くて若干引いた。
10発中まだ5発しか撃ってないのにもう3つも景品を落としている。「スナイパー佐伯……」と堂島くんが呟くのが聞こえた。
コルクの弾が当たるのを見て、こないだのデッドボールを思い出す。この弾は当たったら痛いんだろうか。あっ、また落ちた。いや何でそんなにうまいんですか。「お嬢ちゃん上手だねー……」と言う店のおじさんの笑顔はやや引きつっていた。
結局先輩は5つも景品を落とした。最後のほうは親子連れとか何人もギャラリーがいて少し恥ずかしかった。もちろん先輩は気にしていなかったけど。
「はいこれ」
「え?」
先輩から景品のひとつを手渡された。見るとホオジロザメのぬいぐるみストラップだった。
「好きなんでしょ?」
「いやサメはあんまり……」
「なんでよ」
「なんでと言われましても……けど嬉しいです」
「はじめから言えばいいの」
「水族館の話、覚えててくれたんですね」
「当たったのは偶然よ」
「ウソだあ」
「ウソよ」
「ええ……」
「狙ってたわ」
「認めるの早すぎでしょ……ていうかそんなこと言われたら使うしかないじゃないですか」
「ふふ」
その後先輩は槙くんにデジタルの目覚まし時計、堂島くんには何かよくわからないものをそれぞれあげていた。
堂島くんはとくに喜んでいた。もらえれば何でもいいらしい。
あまりお腹は空いていなかったので何か甘いものをと思い、りんご飴を買った。
割と一個を食べるのには苦労するのだけれど、お祭りに来るとついつい手が伸びてしまう。
「りんご飴っておいしいの?」
「はい、りんごけっこう好きですし」
「一口もらっていいかしら」
「私の食べかけですけど」
「気にしないわよ、そんなの」
「じゃあ、はい」
飴を先輩に向けて差し出す。先輩は果肉の部分を少しかじって、口元に手を添えながら咀嚼する。
「案外食べにくいのね」
「でしょう?」
「でもおいしい」
「一個食べるのって実は苦労するんですよねー……よかったらもう少し食べません?」
「いいの? じゃあいただくわ」
今度は先輩に棒ごと手渡す。飴を舐める先輩の姿は大人っぽい外見とのギャップで、なんかかわいい。
「何?」
「あ、いえ何でも」
「何でもないのに人をジロジロ見るのは感心しないわね」
「はいすみません……ってふふ」
「ん?」
「いや、このやりとり懐かしいなーって」
先輩と出会ったばかりの頃は、こんな会話ともつかない会話ばかりだった。
いまこうやって普通の友だちみたいに過ごしているのが嘘みたいだ。
先輩とは、ずっとこうしていられるのだろうか。
毎週水曜日の寄り道も、いずれはできなくなるんだろうか。
来年になれば先輩は受験が始まるし、そもそも生徒会は引退。きっと会う日数も徐々に減っていくんだろう。
やだな、と思う。
「小糸さん?」
「……あ、先輩、もうすぐ花火が始まりますよ」
先輩は不思議そうに押し黙った私を見てくる。飴をペロペロ舐めながら。
その姿に未来への寂しい気持ちがやわらいだ私は、時間を見るふりしてスマホのカメラを起動し、写真を撮る。シャッター音はお祭りの喧騒にかき消された。
「ん? いま撮らなかった?」
「ほら、よく見える場所に行きましょう。槙くんたちもそこで待ってるって」
「あ、ちょっと小糸さん、引っ張らないで」
先輩の手を取り私は急ぎ足で歩きだす。いたずらっ子のようにべっと舌を出しながら。
別にいいよ、と思う。この時間がいつか終わるにしても、私たちがお互いを嫌っていなければ、きっと続いていくんだろう。
少しずつ形を変えながら。
柔らかな先輩の手の感触は、私をそう信じさせるには充分なほど確かな"いま"だった。