**************************************** HOME 概要 気球 リリエンタール ライト兄弟 リンドバーグ ホイットル Ⅴ フランク・ホイットル 世間の無理解に耐えて、ただ一人新型エンジンの開発にいそしむ青年飛行将校。 ジェット機は、彼の切り開いた道をたどって成長した。 1 未来を見とおす目 top 一九二八年、リンドバーグが見事大西洋横断に成功したあくる年のこと、イギリスのクランウェルにある空軍士官学校の教官室で、一人の教官が生徒の答案調べをやっていた。 何か、科学に関係のある問題について書けということで、生徒たちに勝手なテーマを選んで論文を書かせたのである。 「何々『航空機設計の将来の発展』。 ホホウ、変わったテーマだな。誰の論文だろう? フランク・ホイットル。ああ、あの宙がえりのうまい、派手な飛び方をする生徒か。ドレドレ」 教官は論文の第二ページに目を走らせる。 「航空機は現在すばらしい発達を続けている。 この勢いでいけば、近い将来、スピードは時速八〇〇キロをこえるだろう。 しかし、そういう大きなスピードを実現させるためには いまのエンジンや機体の設計をそのまま改良していくだけで、充分だろうか? 今までと違った全く新しい行き方が必要なのではなかろうか?」 教官は出だしから気をのまれて、目をパチクリさせる。 「時速八〇〇キロとはおそれいったね。 飛行機が生まれてから二十五年、いまだに時速はギリギリ二四〇キロぐらいしか出ない。 八〇〇キロ出せるのは今から何十年先のことだろう。えらくまた、先のことを心配したもんだな。」 教官は先を読み続ける。 |  フランク・ホイットル
| 「そういう大きな速度を出すためには、飛行機はどうしてもうんと高い空を飛ばなければならないだろう。 超高空なら空気がうすくて抵抗が小さいから、エンジンの力を無駄なく飛行に利用することができる。 低空では空気の抵抗が大きくて、エンジンの力はその抵抗に打ち勝つために食われてしまうから、余り大きなスピードを出すのは経済的でない。」 なるほどそれはそのとおりだ、と教官はつぶやく。 「しかし、超高空を飛ぶ時は空気が薄いから抵抗は少なくなるが、その反面、酸素が少ないため、燃料が充分うまく燃えないという重大な困難が出てくる。 この困難をのりこえるためにはエンジンに過給器(スーパー・チャージャー)を取付けて、あらかじめ薄い空気を圧縮して濃くし、それをエンジンにおくる方法があるが、これもうんと超高空を飛ぶ時には、充分に効果を発揮できないだろう。 私は普通のピストンエンジン、つまりシリンダーの中でガソリンを燃やしてピストンを往復させ、それでプロペラを回すやり方では結局、超高空を時速八〇〇キロ以上で飛ぶことは無理だと思う。 まるきり別の原理を使った、新しいエンジンが必要なのではなかろうか? そして将来の高速飛行機は、すべてそういうエンジンを使って飛ぶことになるのではなかろうか?」 オヤオヤこの男、ガソリンエンジンはもう駄目だと決め付けているぞ、と教官は腹の中で苦笑いする。 「新しいエンジンはどういう処からみつかるだろうか、それを私は考えてみたい。 結局のところ、空気の薄い超高空では今までのようなプロペラで空気をおしのけ、その反動で前進するといういき方はむりではなかろうか。 むしろ空気に全くたよらず、作用・反作用の原理だけを使って後ろにガスを勢いよく噴き出し、その反動で飛ぶ方式のほうが理想的ではないだろうか。 つまり、ロケットエンジンである。 しかしロケッ卜は燃料もそれを燃やす酸素も全部あらかじめ積みこんで飛ぶ。 だから空気の全くない真空の中でも飛べるし、いやむしろ真空中のほうが抵抗が全くないから、いっそう有利でさえある。 しかし、超高空を飛ぶ飛行機の場合はそこまで徹底しないでもよいだろう。 むしろ、わずかでも存在する空気の酸素をうまくとりこんで、燃料を燃やすのに使うほうが徳ではなかろうか? つまり燃料だけ積みこんで、大気中の酸素でそれを燃やす。 そして燃えた廃気ガスを後ろへ噴き出して、その反動で飛ぶのだ。 これをロケットと区別して、ジェット(噴き出す流れ)エンジンと呼ぶことにしよう、 ジェットエンジンにはもちろん、ピストンエンジンは使えない。 それと違った新しい型のエンジンが必要だろう。 何が一番よいか、それはまだ私にはわからない。今後研究をつづけていきたい。 しかし多分ガスを燃料に使う反動タービン、つまりガスタービンが、一番見込みがありそうな気がする。」 読み終わった教官はガッカリした顔で、「何だいこれは?」とつぶやいた。 「くだらん論文だ。いくらなんでも、時速八〇〇キロとは話が大きすぎる。 そんな先のことを心配しないだって、飛行機はいまのピストンエンジンのままで、いくらでも進歩するさ。 エンジンの力を強く目方を軽くして、機体も流線型にスマートにする。 それだけで、まだまだスピードは速くなるよ。」 教官は論文の表紙に「可」と点をつけた。 落第点でないだけまだしもだった。 フランク・ホイットル、彼こそのちに初めてターボジェット・エンジンを発明して、人類の大恩人となった人である。 彼は二十才で早くもガソリンエンジンの力の限界を見抜き、将来それに替わるエンジンは何かといつも考えていた。 |  60年の進歩は飛行機の姿をこうも変えた
| しかし彼の目は同じ時代の人々に較べて、余りに遠い先を見越していた。 そのため、彼の思いつきは長いあいだ人々に理解されなかった。 それを書いた彼の答案はあぶなく落第点をとるところだった。 その後彼はこの論文と同じ目にたびたび会い、人々の無理解に一人苦しみ続けるのである。 2 幼年時代 top フランク・ホイットルは一九〇七年の六月一日、イギリスのコベントリーで生まれた。 父はイギリスの綿業の中心地ランカシャーの貧しい家に生まれ、十一才の時から木綿工場の職工になって、つらい労働のなかで機械工として腕をみがいた。 父はやがてランカシャーから自動車生産の中心地バーミンガムにほど近いコペントリーに移って、自動車工場に勤めた。 息子フランクはここで生まれた。 父は貧しい職工生活のなかでセッセとためた金で、レミントンに小さい工場を買い、弁やピストンリングを作って暮らしを立てた。 工場といっても使用人は一人もなく、父一人でコツコツ工具をふるっていたのである。 この父は器用だったばかりでなく、発明や工夫が大好きで、休みの日にはいつも製図板に向かって、自分の思いつきを図にかくのが楽しみだった。 子のフランクはのちにこういっている。 「父はすばらしい才能の持ち主だった。もしも私と同じに正規の教育をうけていたら、きっと優れた技師になったに違いない。」 フランク・ホイットルはこの父から、技術の才能を受継いだばかりでなく、大変大きい影響をうけた。 彼はごく小さいうちから父の真似をして、製図道具を上手に使った。 四才の時、クリスマス・プレゼントにもらった獏型飛行機は彼に一生涯かわらない飛行機熱を植えつけた。 フランクは十才の頃から学校から帰ると、父を手伝ってドリルで弁に穴をあけたり、旋盤をまわしたりした。 父は彼に職工なみに、出来高ばらいで賃金を払った。 彼は初めコベントリー、次にレミントンの町立小学校に通った。 成績がすばらしくよかったので、十一才で奨学金をもらってレミントンの高等学校に通えるようになった。 しかしここでは、成績は余りよくなかった。宿題が大嫌いで、ろくにやらなかったからである。 彼は宿題をすっぽかすかわりに、夜おそくまで科学の本、特に飛行機の本に読みふけった。 うちにある本ではとてもたりず、毎日のようにレミントンの公立図書館に通って、飛行機の理論や実際を書いた本を、かたっぱしから読んだ。 おかげで頭の中では、飛行機のくわしい構造が隅々まで手にとるようにわかってしまった。 「いますぐ飛行機に乗せられて、飛んでみろといわれても、ちゃんと失敗せずに飛び上がってみせるぜ。」 と、彼は友だちに威張っていた。 タービンについても、このころから興味をもって調べていた。 どうにも飛行機に乗りたくてたまらない。彼はとうとう空軍にはいる決心をした。 まず手はじめに一九二二年、十五才の時クランウェルにある空軍の幼年学校の入学試験をうけた。 これは飛行機の整備をする下士官を養成するための学校である。 ところが学科試験はすばらしいできだったが、身体検査でつまずいてしまった。 身長も体重も足りないのだ。身長一五〇センチほどしかなく、痩せっぽちだった。 スゴスゴ帰ろうとすると、訓練係の軍曹がよびとめた。 「成績はすばらしくよいんだが………気の毒だな。そうだ、僕が指導してあげよう。 身長も体重もすぐに見ちがえるようになるよ。」 フランクは彼の指導で栄養の多い食事をえらび、特別な体操を毎日やった。効果はてきめんだった。 半年後には、身長は八センチもふえ、みちがえるほど肉がついてきた。 今度こそ大丈夫だと、ホイットルははりきってつぎの入学試験に出かけていった。 ところが、またうまくいかなかった。 受付係に、「君は前にこの学校を受験したことはないか?」ときかれて、正直に、 「この前受験しました。でも身長と体重がたりなかったのです。今度はこのとおり、絶対大丈夫です。」 そう答え、胸をはった。それがいけなかった。 規則でこの学校では一度受験して落第した者は、二度と受験させないことになっているという、 フランクはまたスゴスゴ家に帰った。しかし、どうしてもあきらめきれない。 「仕方がない。むこうが規則づくめでくるなら、こっちはその裏をかくまでだ。」 フランクはそのつぎの受験の時は度胸をきめて、前に試験をうけたことはありませんとしらばっくれた。 こんな詐欺みたいなやり方で、彼は一九二三年、無事に幼年学校の生徒になることができた。 3 あこがれの空軍将校 top フランク・ホイットルはクランウェルの空軍幼年学校でバラック兵舎に住みこんで、整備兵になるための厳しい教育と訓練をうけた。 彼はよく勉強をし成績もよかったが、何といっても空を飛びたい一心だから、機械いじりばかりではどうにも物足りない。 せめてものなぐさめにと、彼は学校仲間で組織する模型飛行機クラブに入って活動をはじめた。 彼はクラブの一つのチームのリーダーとなって、ガソリンエンジンをつけた三メートルもある模型飛行機を作りあげた。 これは学校の卒業式のとき飛ばす予定だったが、その間際になってエンジンの点火栓がたった一つ故障したため、オジャンになった。 このとき以来、彼はガソリンエンジンに強い不信を抱くようになった。 さて三年間の修業をおえて、ホイットルは幼年学校を卒業した。 この幼年学校の卒業生のうち、成績が五番までのものは無試験で空軍士官学校に入学を許されることになっていた。 士官学校を出れば将校となって空を飛べる。 幼年学校だけなら下士官どまりで地上整備勤務、大変な違いである。 もちろんホイットルは一生懸命勉強したが、残念ながら卒業成績は六番だった。 ところがどこまでも運のよい男で、トップの生徒が身体検査の結果不合格となったので、ホイットルは繰上げで士官学校に滑り込むことができた。 一九二六年、ホイットルはやはりクランウェルにあるイギリス空軍士官学校の学生となった。 ここでは幼年学校と違って、飛行機の組み立てや整備だけでなく、理論や構造さらに自然科学や人文科学まで、広い分野にわたる教育をうけた。 |  ホイットルは幸運にも、空軍士官学校に入学できた
| しかし、もちろん一番重要なのは飛行の実地訓練である。 ホイットルの操縦はずばぬけてうまく、命しらずの曲芸飛行となるといつも真っ先にとび出した。 「少し低空を飛びすぎる。見物の喝采をあびようとして、ムチャをしすぎる傾向がある。」と教官が批評するほどだった。 学業や訓練が忙しいので、子供の時から続けた模型飛行機ども、これでプッツリ手をきってしまった。 本当に飛べるのだから、模型などに熱をあげることもないわけである。 しかし、飛行機の構造や性能については相変らず興味をもち、人知れず研究も続けた。 その結果が、はじめにあげた「航空機設計の将来の発展」と題するあの論文になったのである。 こうしてホイットルは一九二八年、二番というよい成績で、空軍士官学校を卒業し士官候補生となった。 ピカピカの真新しい軍服を善气卒業証書をにぎって士官学校の校門を出る時、さすがにホイットルの胸は高鳴った。 「子供の頃からの夢が、とうとう本物になった!」 そして彼の目は、今度は新しい青年の夢、ジェットエンジンヘと遠く向けられていたのだった。 4 ターボジェットの考案 top 一九二九年からホイットルはウィタリングにある中央飛行学校に入って、飛行教官になるための訓練をうけた。 ここで彼は操縦技術をいっそう鍛えたばかりでなく、いろいろ有益な講義を聞いた。 将来の飛行機のエンジンはどういうものが適当かという問題は、相変らず彼の頭をはなれなかった。 忙しい学業のかたわら、彼はジェットエンジンの可能性についてもいろいろ考えをめぐらし、理論的な計算を繰返した。 そのうちに一九二八年の論文の頃は、まだボンヤリと浮かぶだけだったその姿が、彼の頭の中でしだいに具体化してハッキリした形をとるようになってきた。 前の車と後ろの車は一つの軸につながっているから、ガスが大きい管の中を通っているあいだ、後ろの車と一緒に前の車も回って休みなしに空気を圧縮する。 つまり太い管の中に熱いガスが絶間なしに流れており、その中で軸につながれた二つの車が風車のようにクルクル回っている。 燃料が燃えて出すエネルギーは、大部分は後ろの口から噴き出す廃気ガスのエネルギーになり、これが推進力として役にたつ。 生まれたエネルギーのうちほんの一部が、管の中のタービンを回す力になり、空気の圧縮のために消費されるのである。 ホイットルが考え出したこのタービンを、ジェットエンジンに使うやり方を、ターボジェットといっている。 これまでピストンエンジンはもちろん、蒸気タービンやガスタービンでもすべてエネルギーは軸の回転として取り出された。 その軸をプロペラや車輪に繋(つな)いでそれらを回転させ、その力を飛行機や自動車や機関車の推進力に利用したのである。 ところがこのホイットルの考え出したジェットエンジンは、廃気ガスの流れをそのまま推進力に使い、軸はなくなってしまった。 なるほど管の中に軸はあるが、それは前と後ろのファンを繋いでいるだけで、全く外部に連絡していない。 軸のないエンジン――これこそ今までの技術者には夢にも思いつかない、革命的なアイディアだった。 ホイットルのような天才が初めて、それを考えつくことができたのである。 ホイットルがさらにくわしく計算した結果、このターボジェットは超高空を高速で飛ぶ飛行機のエンジンとして、ピストンエンジンよりずっとすぐれていることがハッキリした。 構造も簡単だし、ガソリンではなく灯油やアルコールなど、いろんな安い燃料を使える長所もある。 またのっぺらぼうの管の形だから、翼をつければそのまま飛行機になる。 しかしこれを実際に作るとなると、材料の面で非常に大きな困難があることもわかってきた。 まず空気の圧縮機は今までの飛行機が使っている過給器に較べて、ずっと強力でなければならない。 つぎにエンジンの燃焼室はすごい高温になるので、今までのよりずっと、熱に強い材料で作らなければならない。 第三に、タービンの刃はすごい高温高圧の中で大変な速度で回転しなければならないが、この条件に耐えられるほど丈夫な材料はまだできていない。 ターボジェットの前には、この三つの重大な難関が立ちはだかっている。 どの一つをとってみても、まだ手がつけられていない分野で、その解決には今後何年かかるかわからない。 ターボジェットが実用的なものになるかどうかは、ひとえにこの材料の問題にかかっていた。 5 ジェットエンジンの特許 top こうして、ホイットルのターボジェットの思いつきはだんだん具体的な形をとり始めた。 同時にその前に立ちはだかる難関も、靄(もや)が晴れていくように次第に高くけわしい姿を現わしてきた。 彼は自分の話に興味をもってくれる人なら誰にでも、このアイディアを隠すところなくぶちまけて、意見を求めた。 しかし大部分の人は、「そりゃ、君の夢だよ。とても実現しっこないさ」と笑って相手にしてくれなかった。 しかしたった一人だけ、彼の話に真剣に耳を傾けてくれた人があった。 彼の教官のパトリック・ジョンソンである。 この人は法律を学んで特許の仕事をするつもりだったが、年が若すぎるので一、二年を空軍ですごすつもりで、飛行将校になったのだった。 技術のことにくわしく頭のするどい人で、ホイットルの思いつきのすばらしさをすぐ見ぬいた。 「ホイットル君、たしかに君のいうとおりだ。将来、飛行機は今よりずっと高速度になることは間違いない。 その時は、いまのプロペラ方式では役にたたないだろう。 君のターボジェットはいずれピストンエンジンに替わって、航空界の主役になるだろう。 ジェットエンジンはかならず、航空の科学を根本からひっくり返す原動力になるに違いないよ。」 このジョンソンとめぐりあったことは、ホイットルにとって大変な幸運だった。 |  教官のジョンソンはホイットルに、 ターボジェットの特許を取ることを勧めた。
| ジョンソンはその後もずっと影ながらホイットルを助け、ジェットエンジンの発達に力をつくした。 ジョンソンは商売がら、ホイットルにターボジェットの思いつきを特許にとっておくよう勧めた。 「さもないと、ほかの人がそっくり君のアイディアをぬすんでしまうかもしれない。 将来のために、いまちゃんと特許を出願しておくほうがよい。手続きは僕が教えてあげる。」 しかしホイットルは現役の軍人だから、特許をとるには一応空軍省の許可をもらう必要がある。 彼は空軍省にターボジェットの内容を報告し、特許をとる許しをもとめた。 空軍省からは「君の思いつきに空軍省としては別に関心をもっていないから、自由にしてよろしい」という返事がきた。 そこでホイットルは一九三〇年の一月十六日ターボジェットの特許を出願し、あくる三十一年にそれが認められてホイットルの特許権が確立した。 一九三〇年、ホイットルは一年の教育を加え、空軍中尉に任官した。 そして正式に飛行教官となり、生徒を教えることになった。 教官の仕事は大変おもしろく、彼は熱心に生徒を教育した。 パイロットとしての腕前もすばらしかったし、教え方もうまかった。 この年、コベントリーに住む幼な友だちドロシー・メリー・リーと結婚し、幸福な家庭をもった。 あくる年の五月に息子が生まれ、ホイットルは二十四才の若い父親となった。 しかしこのあいだも、ジェットエンジンのことは 彼の頭を離れなかった。 すでにジョンソンは空軍をはなれ、特許の仕事についていた。 彼に紹介してもらってホイットルはいくつかの航空会社を訪れ、ターボジェットの開発と研究に協力してくれるよう頼んだ。 けれどもどこでも冷たく断わられた。 一九三〇年の末にはラグビーにあるブリティシュ・トムソン・ハウストンという大きい会社を訪問し、タービン部門の主任技師と会って、いろいろ話をした。 けれども技師は、 「ホイットルさん、あなたのアイディアは立派ですが、それを実現するには少なくとも六万ポントの費用をかけなければならないでしょう。 うちの会社はハッキリした成功の見込みのない計画に、そんな大金を出す余裕はありません。」と断わった。 ちょうど一九二九年から、世界大恐慌という不景気の大嵐が全世界をふきまくり、たくさんの銀行や会社がつぶれている最中だった。 とてもジェットエンジンのような冒険的な仕事に手を出せる状態ではなかったのである。 6 ケンブリッジの大学生 top 一九三〇年の末から、ホイットルは一時海軍に席をおいて、フェリックスストー軍港でテストパイロットを勤めた。 おもな仕事は、軍艦から飛行機を飛びたたせる時に使うカタパルトの装置をテストし、改良することだった。 飛行機をカタパルトにのせ、火薬を使ってうち出して、たった二〇メートル走るあいだに、時速一〇〇キロという大変なスピードを出させるのだ。 飛行機に乗っているパイロットにとっては、大変むずかしい、危険な仕事である。 海でテストする前に、まず地上にカタパルトを組み立てそれで実験する。 人間を乗せる前に、ヒッジを操縱席にしばりつけて発射し、発射される時に体がうける衝撃をくわしく調べる。 そしてたしかに大丈夫だと確かめてから人間を乗せてテストし、最後にカタパルトを軍艦にすえつけて、実際に海に向けて飛行機をうち出すのである。 ホイットルはこの危険なテストを繰返し行ない、カタパルトの改良にいろいろ力をつくした。 そればかりでなく自分の経験をもとにして、全く新しい型のカタパルトも発明した。 またカタパルトの仕掛を応用して、飛行機に爆弾を積む新しい方法を考えだした。 水上機の銃のねらいを手早くきめる新しい図表も工夫した。 あたえられた自分の職務のかたわら、海軍のためにいろんなくふうをしてやったのである。 このあいだも相変らずホイットルは会う人ごとに自分のエンジンの話をし、暇をみては航空会社を訪ねて協力を求めた。 けれども、まじめにきいてくれる人はほとんどいなかった。 「空軍省や航空会社の人たちに自分の発明の価値を認めてもらうためには、まずエンジンの専門家たちにターボジェットの原理や構造を正確に知ってもらうほうが早道だ。」 そう気がついたホイットルは、ターボジェットの理論と実際についてくわしい論文を書き、王立航空協会の雑誌に発表した。 彼はこうして自分の発明の中身を、国内だけでなく全世界にむかってぶちまけたわけである。 ターボジェットはもう秘密ではなくなった。しかしそれでも、なんの反響もなかった。 そのうちに、ホイットルは飛行将校として最初の四年間の任務をおえた。 その後はなにか専門の職務につくことになっている。 ホイットルは技術科を専門にえらんで、一九三二年の夏から二年間、ヘンローの航空技術学校で工学を勉強することになった。 しかし最初の呼び試験で、平均して百点満点で九十八点というすばらしい成績をあげたため、二年間の課程を一年半ですませることを許された。 いまあらためて気がついたことだが、ホイットルは四年にわたる実地訓練のあいだに、知らす知らずそんなに多くの技術の知識を身につけていたのである。 ヘンローでの一年半の学業をおえると、ホイットルは「もっと技術を勉強したいので、ケンブリッジ大学に留学させてください」と空軍省に申し入れた。 元々空軍では、成績の特別良い技術将校を毎年一、二名ずつケンブリッジ大学に留学させて、学問的な訓練をうけさせる制度があったのだが、そのころ一時途絶えていた。 空軍省はホイットルが願い出だのを機会に、この制度をもう一度復活し、彼をケンブリッジ大学へ入れることにした。 「ただし、普通の人なら三年かかって大学を卒業するのだが、君はそれを二年で済ませてもらいたい。 君の成績と今までの実地経験からすれば、充分できるはずだ。」 こうしてホイットルは現役将校のまま一九三四年からケンブリッジ大学に通うことになった。 この年、彼は空軍大尉になったが、二十七才のすでに妻子のある軍人大学生である。 ケンブリッジ大学でうけた理論的な教育は ホイットルにとって特別おもしろかった。 普通に学校生活を続けてきた学生にとっては、全く学問的な興味しかもてないような事柄も、実地の訓練を長く続けてきたホイットルにとっては、今まで気付きながらも訳のわからなかったことを、見事解きあかしてくれる鍵の役をはたした。 彼が身につけていた実際的な知識が、理論に基づいてガッチリと築き直された。 この二年間の大学生活は、ホイットルにとってきわめて貴重な体験だった。 7 失望と希望 top さて、一九三〇年一月に特許を出願したホイットルのターボジェットの発明は、一九三五年一月でいちおう特許の期限がきれる。 特許の権利を引続いて確保しようと思ったら、手数料五ポンドをそえて特許再登録の手続きをしなければならない。 さもないと、特許権はそれきり消滅してしまう、 ところがそのたった五ポンドの金が、ホイットルには出せなかった。 二番めの息子が生まれたばかり、家族も病気がちで下級将校の給料では、とても余分をひねりだせる状態ではなかったのである。 途方にくれたホイットルは、とうとう空軍省に頼み込んだ。 「ターボジェットは将来軍用機のエンジンとして、大変な役にたつと思います。 なんとかここで特許権が切れないよう、援助していただきたい。」 でも、空軍省の返事は冷たかった。 「余り将来の見込みもないことに、たとえ五ポンドとはいえ、国の金を支出するわけにはいかない。」 ホイットルは全く手のつくしようもなく、歯ぎしりしながら月日のたつのにまかせるばかりだった。 こうして彼のターボジェットの特許は、一九三五年一月をかぎりに無効となった。 それから三か月たったころ、ケソブリッジのホイットルのもとへ、空軍士官学校時代の友人が二人遊びにやって来た、 「どうした、まだ例のジェットエンジンとやらに、首をつっこんでいるのかい。」 学校時代さんざん話をきかされた仲だ、二人ともまだ忘れていない。 「うん、研究のほうは着々すすんでいるんだが、誰も価値を認めてくれないんだ。 せっかくとった特許権さえ、切れちまったという始末さ。」 ホイットルは力なく、そのいきさつを語った。そして、その後自分が研究したことをくわしく説明した。 「もう理論的な計算はすっかりすませてある。 このエンジンがちゃんと働いて、すばらしい力を出すだろうということは、責任をもって保証するさ。 あとは、実際に模型を作って実験するだけでいいんだ。 模型が実際に動くところを見たら、だれだって納得するだろう。ただ残念ながら、実験の費用がないんだ。」 二人は深くうなずくと、目を輝かせてホイットルの手をにぎりしめた。 「君、それはぜひ実現させようや。費用のほうは、僕らも一肌ぬぐよ。」 ホイットルのジェット熱は、たちまち二人の友人にも移ってしまったのである。 幸いなことに二人とも、軍を辞めてから経済界に入って成功し、かなり有力な実業家になっていた。 こうして二人の友人が駆け回って口をきいてくれたおかげで、とうとうフォーク銀行が二千ポンドの資本金を出し、これをもとにして、パワー・ジェットという小さい会社が創られた。一九三六年三月のことである。 社長はフォーク銀行からきたL・ホワイトという人で、前にラザフォードやアインシュタインのもとで物理学を勉強したこともあり、そのせいもあってジェットエンジンの価値も正しく見ぬいていた。 このパワー・ジェット社がターボジェットの開発を受持つことになり、まずラグビーにあるブリティシュ・トムソン・ハウストン会社に注文して、ホイットルが設計したターボジェットを作らせることになった。 ホイットルも役員として、パワー・ジェット社の仕事にたずさわることになった。 |  士官学校時代の二人の友人の協力で、ターボジェットを造るパワー・ジェット社が設立できた。ホイットルも現役のまま、会社の役員となった。
| しかし彼は現役の軍人だから、民間の仕事に関係する時は空軍省の許可をえなければならない。 そこで、空軍省にいきさつを報告し、許可をもとめた。空軍省は、 「ジェットエンジンの研究にたずさわることはよろしいが、軍務をおろそかにしないよう、一週間に六時間以上会社の仕事をしてはならない。 またハッキリいっておくが、空軍省は君のこの仕事を、公務とは認めない。」と言い渡した。 しかしとにかくターボジェットを実際に作って、実験と開発をすすめていく道がひらけたわけである。 ホイットルは天にも上る気持ちだった。 ホイットルは体がいくつあってもたりないほど忙しくなった。 ケンブリッジのジョーンズ教授のもとで、空気力学の研究をつづけなければならない。 エジンバラにあるパワー・ジェッ卜社の役員会にも顔を出さなければならない。 ラグビーにあるブリティシュ・トムソン・ハウストン会社の工場にいって、エンジン作りの指導もしなければならない。 目がまわるほどせわしない日々だった。 おまけに、まもなくケンブリッジ大学の卒業試験がせまってきた。 ホイットルは試験前五週間というものは、ジェットの仕事は何もかもほっぽりだして、ひたすら試験勉強に熱を入れた。 そのかいあって、卒業成績はすばらしかったが、勉強がすぎてノイローゼぎみになった。 これはのちのちまでたたり、彼はずっと頭痛や耳鳴りになやまされることになった。 こうしてホイットルは優秀な成績でケソブリでシ大学を卒業したが、大学の教授たちは彼の才能をおしんで、「引続きもう一年間、大学院で勉強させてはどうか。」と空軍省に申し入れてくれた。 ところが空軍省は案外あっさりそれを認めて、もう一年、ケンブリッジに留まることを許してくれた。 「この風変わりな青年将校が熱を上げている仕事は、ひょっとしたらすばらしい物を生み出すかもしれない。」 空軍省の中にも、内々そう考える人が出てきたのである。 こうしてホイットルは一九三六年から三七年にかけての一年間、なんのわずらいもなく、ジェットエンジンの開発に全身をうちこめることになった。 8 ジェットエンジン第一号 top 今までにない全く新しいエンジンを作るからには、部品を一つ作るごとに厳重にテストをし、たしかに設計どおりうまくいくかどうかを確かめながら、順を追って組み立てていかなければならない。 けれどもホイットルはそんなことをしていられなかった。 部品のテストをするには、今までにない新しい強力な検査装置をつくらなければならない。 エンジンの圧縮機の部分をテストする装置だけでも、ざっと二万七千ポンドかかるだろう。 ところがパワー・ジェット社の資本金はたった二千ポンドである。 この二千ポンドで、ともかくエンジン全部を作らなければならない。 仕方なしにホイットルは部品の検査をやらないで、すっかり全体を組み立ててしまい、それからいっぺんにエンジンの運転テストをすることにした。 |  ホイットルの第一号ジェットエンジン、左は前、右は後からの写真
| 数千馬力も出るエンジンを予備検査なしに作ってしまおうというのだから、常識はずれで危険きわまることである。 ともかくブリティシュ・トムソン・ハウストンの工場で、一九三六年の末までに第一号エンジンは大体出来上がった。 費用は三千ポンドだった。 一九三七年の四月十二日、この工場の庭でいよいよ最初の試運転にとりかかった。 ホイットルはエンジンのそばに立ち、号令をかける。エンジンはゆっくり動きだす。 様子を見て、ホイットルは燃料弁をひらく。ゴウゴウとすごい音がして、エンジンはグングン、スピードをます。 「すごい馬力だな。たいしたもんだ!」 まわりを取巻いた工場の技術者たちが、目をみはり手をたたく。しかしあとがいけない。 エンジンはドンドンスピードを上げるばかり、止めようがなくなってしまった。 ホイットルは燃料弁を閉じ必死になってエンジンを落着かせようとするが、暴れ馬みたいにちっともいうことをきかない。 とうとうエンジンは、サイレンみたいな金切り声を出し始める。燃焼室の金属がやけて、真赤に光りだした。 「大変だ、エンジンの暴走だ。爆発するぞ!」 |  資金不足で予備試験なしに本試験を行ったため、エンジンが暴走し 皆んなが逃げ出す騒ぎとなったが、幸い事なきを得た。
| ハウストン会社の技術者たちはタービンの専門家だけに、ことの重大さを悟って青くなって走りだす。 大いそぎで物かげにかくれる。彼らは知っているのだ。 タービンが暴走した時は、タービンの刃先は、それこそ鉄砲の弾のような速さで回っている。 だからもしもエンジンが爆発したら、粉々になった破片は弾丸みたいな勢いで八方にとび、人間の体などうちぬいてしまう。 燃料もあたりに飛散り、火の海になるだろう。 あわてふためくのも無理はない。 ホイットルは一人エンジンのそばに残って、なんとか暴走をしずめようとした。 それは何のききめもなかったが、幸いなことに燃料がつきたとみえエンジンは静まりやがて止った。 爆発は起こらずにすんだ。さすが大胆なホイットルも真っ青になっていた。 二回めの試運転のときも、エンジンは同じように暴走した。 今度は後ろの廃気ガスの口から火をふきエンジン全体が炎に包まれてしまった。 周りで見ていた人たちはそれこそ飛行機みたいな速さですっとんで逃げた。 あとで調べた結果、エンジンが暴走したのは燃焼室の底に少しずつ燃料が溜って、それにいっぺんに火がついたせいだとわかった。 だから溜った燃料が燃えつきるまでは、どう手をつくしても暴走を停ることはできない。 あらかじめ部品の予備テストをしておいたら、こんなことは決して起こらなかったに違いない。 ホイットルのように、テストパイロットできたえあげた勇敢な人でなかったら、とてもいっぺんに運転テストをするようなムチャなことはできなかっただろう。 何もかも、資金がたりないせいだった。 その後実験を繰返す時にも、この資金の不足は大変なさしさわりとなった。 エンジンを作るだけで、資金はほとんど全部使ってしまったから、たとえ部品がこわれても、新しく買いなおすこともできなかった。 タービンの刃が少し欠けた時など、反対側の刃を同じ大きさに欠き取って釣合を持たせ、そのまま運転を繰返すというような軽技までやった。 しかしとにかく、ジェットエンジンが一つ、初めて生まれた。 実物があるのとないのとでは、大変な違いである。 人々にジェットエンジンの価値を認めさせるにも、この第一号エンジンの存在が大きく物を言う。 これを使えば、理論的技術的な問題もいっそうハッキリし、開発も研究もぐっとスピードをますに違いない。 ことに、一番むずかしい材料の問題も、初めて実験から手びっけることができる。 いよいよターボジェットにとって、新しい発展の幕が開かれたのである。 9 研究のすすみ top 第一号エンジンの誕生は空軍省や航空関係の人々の注目をひいた。 けれども、まだまだ彼の仕事はよく理解されなかった。 資金の援助を申し出る人もボツボツ出てきたが、実際に集まった金は、ほんのわずかなものだった。 だから実験も中々、思うようにすすまなかった。 しかしヨーロッパではドイツのナチスが盛んに周りの国々に侵略の手をのばし、戦争の黒雲がしだいに広がりつつあった。 このような雰囲気のもとで、空軍省もしだいにホイットルの研究に強い関心を寄せるようになった。 一九三七年、ホイットルはケンブリッジの大学院での研究をおえ、空軍少佐に進級した。 空軍省はとうとう、軍用機としてのジェット機の開発に本気でとりかかることになった。 「ホイットル少佐、君は一時、軍務をはなれて、パワー・ジェット社へ出向いてくれたまえ。 そこで専心、ジェットエンジンの開発に取組んでもらいたい。」 ホイットルはこの秘密の特別任務をもらって、正式にパワー・ジェット社に移った。 空軍からの資金援助も始まった。いよいよ何のわずらいもなく、ターボジェットの研究にうちこめる。 ホイットルは、トムソン・ハウストン会社の工場の庭を実験場に借りていたのをやめ、腰をすえて実験を進めることにした。 そこから二〇キロほど離れたラッターワースというところに、古い鋳物工場の建物と敷地を買い取って、実験場とした。 ホイットルはこの古ぼけた工場の周りを有刺鉄線で厳重に囲み、その中でひっそりと実験を繰返した。 ここには夜になると夜警が一人と犬が一ぴきしかいないし、昼間かよってくるのはホイットルと助手一人だけだった。 中からやかましい奇妙な物音が聞こえる。 当然、近所の人のうわさのまととなった。 「あの中で何をしているんだろう。変な音がするが、」 「多分、ソーセージを作っているんだろうよ。あやしげな肉を材料に使っているもんな。 人に見られたくないから、鉄条網で囲っているのさ。」 「いや、そうじゃない。新型の電気洗濯機の試験をしているんだそうだ。」 うわさはとりどりだが、新型のジェットエンジンの研究をしていようとは誰も気づかなかった。 一九三九年の六月には エンジンは毎分一万六千回転というすばらしいスピードを出すまでになった。 しかし速度にむらがあって、安定した運転を続けることができなかった。 燃焼室についてはまだまだ重大な困難があった。 けれども空気圧縮のタービンについては、ホイットルは非常な成功をおさめた。 実験と理論から研究をすすめた結果、彼は正しいタービンの刃の形をつきとめたのである。 今までタービンの刃は、飛行機の翼と同じ流線形がよいとされていたが、ホイットルはそれが全く間違いで、流線型とは違った型のねじれも今までより二倍も大きい刃が、ずっとすぐれていることを発見した。 この発見はガスタービンばかりでなく、蒸気タービンの刃の設計にも重要な改良をもたらした。 しかしなんといっても、最大の困難は高温高圧にたえる金属材料の問題だった。 これはホイットルには畑違いであり、ほかの人に研究、開発してもらわなければならなかった。 この問題が解決されないかぎり、実用的なジェット機を作ることはできなかった。 傍の人が期待したほど、ジェットエンジンの研究はすすまなかった。 空軍省もジリジリして、思うように成果があがらなければ、ホイットルの特別任務を取消して、軍務に戻すぞと脅かした。 パワー・ジェット社の役員や民間の出資者たちも、あせっていた。 こちらのほうは自分の出した金が、元も子もなくなりはしないかと心配した。 あいだにはさまったホイットルの悩みは深かった。 何もかもが、彼の肩に負わされた。 彼はつもる苦労に消化不良をおこし、激しい頭痛におそわれた。 |  空軍にターボジェットの素晴らしさが認められ、パワー・ジェット社は 国有化された。しかしホイットルには専門外の材料の 耐熱性の問題がでてきて、実用化は足踏み状態となった。
| 10 第二次世界大戦始まる top 一九三九年九月、ドイツ軍はポーランドに攻めこみ、いよいよ第二次世界大戦の幕が切って落とされた。 「優勢なドイツ空軍をうちまかすには新型ジェット機を一日も早く飛ばすことだ。」 空軍省もいまや必死だった。 戦争ともなれば、飛行士の数はとてもたりない。 ホイットルのような優れたパイロットを地上勤務にしておくのはもったいないかぎりだが、空軍省はそんなことには目をつぶって、ひたすらジェット機の開発に全力をそそがせることにした。 政府はパワー・ジェット社ばかりでなく、いろいろな航空会社にたのんで、ジェットエンジンの研究と生産に協力させた。 パワー・ジェット社が研究の中心となり、ホイットル以下全力をあげて、昼夜を忘れて仕事にいそしんだ。 ラッターワースの古い鋳物工場は、空軍の機密工場となり、監視兵が立って厳重な見張りをした。 今まではほとんどホイットル一人でコツコツ実験をしていたのが、数人の空軍将校をふくめた十六人の若い技術者たちが一度に加わって、たいそう賑やかになった。 一九四〇年一月には人数はさらに増えて、二十五人になった。 平均年令三十才以下という若いピチピチしたグループで、祖国のために身をわすれ、ひたすら新しいエンジンを生みだすために力を合わせて頑張った。 大戦の初めの頃はドイツ軍の方がずっと優勢で、連合軍はさんざんに負けた。 けれどもパワー・ジェットの技術者たちは、前線の勝敗を余り気にかけず、ひたすらジェットエンジンの開発にうちこんだ。 「このエンジンをものにすることこそ、勝利に導く一番の早道だ。」 彼らはそう信じて疑わなかったのである。 多くの若者たちの協力をえて、ホイットルの研究はめざましくすすんだ。 燃料を安定して燃やす方法もついにつきとめられ、一九四〇年の末には、思うままに運転・調節のできる第三号エンジンが完成した。 一方ホイットルは開戦の二ヵ月前から、ジェットエンジンを積みこむ飛行機の設計にも手をつけていた。 機体のほうはグロスター航空会社がうけもって、エンジンと平行して設計製作を進めた。 そのころ、イギリスは全くあわれな状態にあった。 ヨーロッパじゅうがドイツの手におち、島国イギリスは周りをすっかり敵に囲まれて孤立した。 毎日毎晩、ドイツ爆撃機隊が侵入してはイギリス各地を空襲した。 彼はほど近い生まれ故郷のコベントリーが、大空襲をうけて猛火に包まれるのを見た。 「このジェット機さえ早くできていたら、こんな目には会わなかったものを。」 ホイットルは歯ぎしりして口惜しがった。 11 ジェット機誕生 top パワー・ジェット社をはじめ、民間航空会社が力をあわせて必死の努力を続けた結果、とうとう一九四一年五月、ターボジェットをそなえた第一号ジェット機グロスターE28が出来上がった。 最初の試験飛行は五月十五日に、クランウェルで行なわれた。操縦士はグロスター航空会社の主任テストパイロット、P・E・G・セイヤーだった。 パワー・ジェット社の研究員や各航空会社の技術者かずらりと並んで見守るなかでエンジンかスタートし、吠えるような音が響きわたった。 「それ、出発だ!」 合図の銃声がなりわたると、機はサッとすべりだした。 驚くようなスピードで、楽々と空中に飛び上がると、みるみる地平線の向こうへ姿を消した。 しかしすぐ戻ってきて十五分余り、目のまわるような速さで上空を飛びまわると、フワリと着陸した。 操縱の具合も上々、何もかも申しぶんなかった。 |  第二次大戦が始って軍からの支援も増え、開発が急がれた。 そしてイギリス最初のジェット機グロスターE28の飛行に成功した。 しかし材料の耐熱性の問題の解決には、なお2,3年必要であった。
| この時の速度は約六〇〇キロ、ピストンエンジンでは思いもよらないスピードだった。 何もかも、十三年前にホイットルが論文で予言したとおりに、実現したのである。 「おめでとう、フランク、見事に飛んだじゃないか。」 友人たちが夢中になって、彼の肩をたたき手を握る。かえってホイットルの方が落着いていた。 「そうさ、飛んだとも。飛べるのが当り前じゃないか。」 そういって、急に彼の顔はクシャクシャになった。 「飛ぼうと思えば、もっとずっと前に、飛ぶこともできたんだ。」 今までの苦労がいっぺんに胸にこみ上げてきた。 最初のジェット機、グロスターE28はとうとう飛んだ。 しかし、問題はこれで全部解決したわけではない。 高温と高圧にたえる金属材料は、まだ生まれなかった。 ジェットエンジンに使える新しい合金ができあがるにはまだ三、四年必要だった。 それまでは、ジェット機は長い時間続けて飛ぶことはできなかった。 ジェット機が本当に実用的なものになったのは、結局第二次大戦が終わってからあとのことである。 しかしこの第一号機だけでも、ジェット機が普通の飛行機に較べて、いろいろな優れた点をもっていることはすぐわかった。 速度の速いことはもちろんだが、このエンジンには普通のガソリンエンジンに使えない軽油や重油、アルコールなど低級な安い燃料を使うことができた。 極端なことをいえば、どんなものでもジェットエンジンに使うことができたのである。 のちにアメリカの空軍の将校たちがこのジェット機の見学に来た時、イギリスの技術者たちは「甘いビールでも苦いビールでも、燃料に使えます。」と自慢した。 まさかそれほどでもないだろうが………。 普通の飛行機は飛んだあと、いちいちエンジンを点検しなければならないが、このエンジンはその手数がいらなかった。 構造が簡単なせいである。 パワー・ジェット社の技術者たちは、エンジンの唸りを聞いただけで、調子が良いか悪いか見分けることができた。 戦争の真っ最中のことだから、ジェット機が生まれたことは、秘密のうえにも秘密にしなければならなかった。 一般の人々は、そんなものが研究されているということさえ、まるで知らなかったし、空軍の将校でもそれを知る者は少なかった。 前線からクランウェルに帰ってきたある飛行将校が、食堂でお茶を飲んでいた。 突然、外でものすごい音がしたので、将校は胆(きも)をつぶして窓の外を見た。 黒いコウモリみたいなものが、あっというまに地平線の向こうへ姿を消したのを見て彼は驚いたのなんの。 「ありゃなんだ? 飛行機みたいだが、プロペラがないぞ。俺は頭がおかしくなったのかな?」 将校はなんども目をこすり、首をひねったという。 民間人ともなれば、もっとまごつくのも無理はない。 |  しかしジェット機の開発は軍事機密なので、前線から帰って来た 将校などは、プロペラのない飛行機を見て、驚く始末だった。
| 少しあとになって、一台のジェット機が試験飛行中に墜落して、メチャメチャに壊れてしまった。 すぐに警官たちが駆け付けて、かけらをひろい集めたが、プロペラがどうしてもみつからない。 「こりゃ困った。ほうっておいては、我々の役目の落度になる。」 何も知らない警官たちは、ご苦労にもあるはずのないプロペラを探し求めて、何日もまわりの地面をほじくり返したという。 ジェットエンジンはすごい勢いで前の口から空気を吸い込む。 知らない人はよく、傍によりすぎて帽子を吸い込まれた。 ある時、食堂のウェイドレスがコーヒーを運びながらジェット機の傍を通ったところ、アッという間にコーヒー茶碗がエンジンの中へとびこみ、手にはお盆だけ残った。 こんな珍談はたくさんある。 この第一号ジェット機グロスターE28は、歴史上の記念物として、いまロンドンの科学博物館にかざられている。 12 ドイツのジェット機 top 大戦が終わってからハッキリわかったことだが、ホイットルたちの仕事とほぼ平行して、ドイツでもイタリアでも、ジェット機の開発をセッセとすすめていた。 イタリアのカプロニ社で、中途半端なジェットエンジンを作って、それで一九四〇年にジェット機を飛ばしたことは、前に説明した(4節)。 ドイツのジェットエンジンの進歩は、イギリスよりもむしろ早かった。 その中心となったのはハインケル航空会社のハンス・フォン・オーハインというない技術者だった。 オーハインのエンジンも、ホイットルのと同じターボジェットだった。 彼の発明がホイットルと全く無関係か、それとも一九三二年に発表したホイットルの論文をよんでヒントをえたのか、それはハッキリわからない。 ともかく、オーハインは一九三五年頃からターボジェットの研究に手をつけ、ホイットルとほとんど同じころ最初のエンジンを作った。 そして一九三九年八月、つまりホイットルの第一号機が飛ぶ二年も前に、ドイツ最初のジェット機ハインケルHe178を作り、十分間飛ばした。これこそ世界最初のジェット機である。 しかしこのジェット機は欠点が多くて、研究はまもなく打ち切られた。 ほかの航空会社も別な方向からジェット機の開発に取組んだが、ホイットルと同じく高温高圧にたえる金属材料がないため、ゆきなやんだ。 それでも大戦の終わり近く、一九四四年の秋頃から、世界最初の双発(ジェットエンジンを二個取付けたもの)ジェット戦闘機、メッサーシュミットMe262が戦場に姿を現わした。 これは連合軍の爆撃機隊をむかえうつためのもので、安全性や長く飛ぶことなど少しも考えず、ただ高速度を出すだけの目的で作られたものである。 やぶれかぶれの最後の手段だったが、それでもこのジェット戦闘機の威力はすさまじかった。 ある時など三十六機のアメリカ爆撃編隊のうち、じつに三十二機まで落とされたことがある。 一方ホイットルのグロスター戦闘機は、ついに戦場に姿を見せなかった。 充分実用化されないうちに、戦争は終わってしまったのである。 ドイツは戦争に負けジェットエンジンの開発も、そこでピタリと途切れる。 だから、その後のジェット機はホイットルが切り開いた道にのって成長していった。 13 親の手からもぎとられた赤ん坊 top 日本がアメリカと戦争を始める少し前に、ホイットルのエンジンのくわしい報告がアメリカに送られた。 これがアメリカのターボジェット開発の出発点となった。 ゼネラル・エレクトリック、ウェスチングハウス、ベル航空機などの大会社が、これをもとにして、いっせいにジェットエンジンの研究に乗出したのである。 一九四四年はじめ、連合国の優勢がほぼハッキリしてきた頃、ホイットルはアメリカ側のすすめに応じて、自分のジェットエンジン研究のいきさつを初めてくわしく発表した。 その内容はイギリスやアメリカの新聞に大きく報道され、彼の長い苦労と努力の物語は人々に非常な感動をあたえた。 ジェットエンジンの父フランク・ホイットルの名はいっぺんに有名になった。 世界じゅうから彼のもとに手紙が送られてくる。 町を歩けば、「あれがジェット機を発明したホイットル大佐だよ。」と指さされ、声をかけられる。 汽車に乗れば、「ホイットルさんですね。あなたのジェットエンジンについてお聞きしたいんだが………」と何人かにとり囲まれて、質間ぜめにあう。 ホイットルはホトホト困りきって「あんなことを発表するんじゃなかった。少し早すぎたな」と後悔したが、もう追いつかなかった。 けれどもそれからまもなく、ホイットルを心からおこらせ、失望させる出来事が起こった。 ジェット機の開発が進むにつれて、ますます多くの有名なエンジン会社、飛行機会社が仕事に加わってきた。 ホイットルのひきいるちっぽけなパワー・ジェット社はしだいに影が薄くなり、中心に立って指導する力を失ってきた。 大企業は軍からまかせられた仕事を勝手に進めるようになったし、軍の方もホイットルたちに相談なしに、直接大企業と話をきめることが多くなった。 「このままでは、ジェットエンジンの仕事はすっかり大企業に横どりされて、我々は片隅におしやられてしまうのではないか。」ホイットルは気が気でなくなった。 彼は大企業に対して、強い不信の念をもっていた。 ジェットエンジンのような革命的な発明は、利益ばかり追う大企業の手にまかせたのでは、世のためにならない。 いまは戦争中で、一時も早くジェット機をものにしなければならないのだから、民間企業の力を借りるのも仕方がないが、いずれ戦争が終わったら、パワー・ジェット社を中心として、国の力でジェットエンジンの開発を一手にすすめるのが一番よい。これが彼の理想だった。 最近の軍や大企業の動きは、この彼の理想と正反対の方向に向いている。 ホイットルは空軍省の研究開発部長テ。ダーに、自分の心配をうちあけた。 テッダーはわらって、「そりゃ君の思いすごしだよ。ホイットル君。安心したまえ、軍は生まれたばかりの赤ん坊が親の手からもぎとられるようなことは、絶対させんよ。」といった。 ところが、その保証は全くあてにならなかった。 一九四四年春、航空機生産省の大臣スタフォードークリップスが、 「パワー・ジェット社を国で買いあげて、国有のガスタービン研究所にする。」と発表したのである。 つまりパワー・ジェット社を国有化して、ジェット機の開発や生産から切りはなし、純粋の研究機関とする。 ジェット機の仕事はいっさい民間の会社にまかせる、というのだ。 ホイットルの考えとはまるっきりあべこべで、彼の心配したとおりの結果になってしまった。 「全くけしからん話だ。 ジェットエンジンの開発がここまで進んだのは、みんな我々パワー・ジェット社の連中が、血のにじむような努力を続けてきたからではないか。 その研究の費用は、ほとんど軍から出だのではなかったか。 そのあいだ民間の大企業はそっぽをむいて、なんの援助もしなかった。 やっとジェット機の将来の見込みがついたいまとなって、パワー・ジェット社を国有化してこの仕事から占め出し、開発や生産をそっくり民間産業の手に渡すとは何ということだ。 それでは軍の金で開発した発明を、企業がそっくりただでもらって、濡れ手で泡の大儲けをするだけではないか。」 カンカンになったホイットルは、航空機生産省に怒鳴りこんだ。 「パワー・ジェット社を国有化するなら、ジェットエンジンの研究だけでなく、開発も生産も一切まかせるべきだ。 さもなければ、今後ジェット機の生産にたずさわる会社は、すべてパワー・ジェット社と同じに国有産業とせよ。」 しかし航空機生産省の大臣クリップスは、ホイットルのいうことなど相手にしなかった。 「ホイットル君、君は軍人だから、なんでも国でやればいいと思っている。 しかし政治や経済のことは、君なんぞにはわからん。黙って我々にまかせておけばよい。 第一イギリス政府は社会主義者の集まりではないよ。航空産業を残らず国有化するなんて、できることじゃない。」 政府と大企業が手をにぎった時の政治力のすさまじさを、ホイットルは身にこたえて知らされた。 政府はホイットルの抗議など耳もかさずに、ドンドン方針をすすめた。 パワー・ジェット社を国有化する代償として、出資者たちに合計十三万六千ポンドをあたえる。 最大の功労者ホイットルには、そのうち四万七千ポンドがわりふられた。 しかしホイットルは憤然としてそれを断わった。 「私は軍人ですし、ジェットエンジンの開発は軍から私に課せられた特別任務でした。 当然の義務を果たしたというだけのことで、たくさんのご褒美をいただくいわれはありません。」 国有化されたパワー・ジェット社は、国立ガスタービン研究所と名を変え、供給省の所属になった。 ホイットルはこの研究所の技術主任顧問の肩書をあたえられた。 一九四五年、ドイツと日本は降伏して、第二次世界大戦は終わった。 ジェット機も平和のおとずれとともに、新しく民間航空の分野に進出し、空の輸送に革命的な変化をまきおこす時代にはいった。 しかしホイットルの心は楽しまなかった。 彼が親となって生み育てたジェットエンジンは、まだ赤ん坊のうちに彼のもとからもぎとられ、彼の手の届かない民間大企業の壁の向こうに移された。 もうどうしようもない。 彼が顧問をしている国立ガスタービン研究所は、民間企業の圧迫をうけて、ジェットエンジンの生産はもちろん、やがてはその研究にさえ手が出せないようになってしまった。 ホイットルと一緒に、ジェットエンジンの開発に若々しい熱情をもやした仲間たちも、パワー・ジェット社の国有化とともに、そっくりこの国立ガスタービン研究所に移ってきたが、こんな状態に嫌気がさし一人二人と去っていった。 残った連中も、全く気力を失った。 「もう私の出る幕ではない。私の任務は終わった。もう身を引く時だ。」 一九四六年一月、ホイットルは国立ガスタービン研究所に辞表を出した。 14 開拓者の栄誉 top 希望を失って職を退いたホイットルには、しかしその前からありとあらゆる栄誉が降り注いでいた。 一九四四年には土木学会のユーイング・メダルと王立航空協会の金メダルをうけた。 四六年には機械技術者協会のクレイトン賞、四七年にはケルビン・メダル、五〇年には王立協会のランフォード・メダル、五一年は国際航空連盟の金メダル………。 いちいちあげていたらきりがない。 ほかに一九四七年に王立協会の会員に選ばれたこと、四八年にナイトの位を授けられて、サー・フランク・ホイットルと名乗るようになったこと、これだけつけ加えておこう。 同じ四八年、彼は健康状態が悪くて軍務にたえられないという理由で、空軍を退役した。 最後の階級は准将(大佐と少将のあいだ)である。時にまだ四十一才だった。 空軍を去ったホイットルは、一九四八年から五二年まで、BOAC(イギリス海外航空公社)の名誉顧問を勤め、ジェット旅客機の開発の手伝いをした。 その後は石油会社の顧問などを勤めて、今日にいたっている。 プロペラとピストンエンジンを使った今までの飛行機は、鳥の体を真似、その動きを機械化したものといえるだろう。 プロペラの回転は翼の羽ばたきにあたり、ピストンの上げ下げは筋肉や骨の動きに相当する。 けれどもジェット推進は、飛行機を今までとまるで違ったものに変えた。 それはもう鳥の真似ではない。 ガスの噴出という鳥には見られない方法を使って、鳥にはとても飛べない高空を、鳥には出せないスピードで飛びまわる。 人間は生物には真似のできない新しい飛び方を考え出したのである。 それを初めて思いつき、実現した人として、フランク・ホイットルの名を永久に忘れることはできない。  最初のジェット旅客機コメット(イギリス) しかし高高度を飛ぶことによる、機体の圧力変動への対策が不充分であったため、 何度か墜落事故が起こり、コメットの世界への普及がすすまず、アメリカのボーイング社のジェット旅客機時代となった。 その後、英仏が共同でエアバス社を立ち上げ、今はボーイングとエアバスが、ジェット旅客機メーカーの世界の二強となっている。
| いまジェット機は、すばらしい勢いで発達を続けている。 ターボジェットやターボプロップのほか、ラムジェット、パルスジェット、バイパスジェットといったいろいろな型のジェットエンジンが生まれ、成長しつつある。 マッハ一、つまり音の速度の速さもうとっくに破られた(一九四七年)。 一九五二年、イギリスのBOACのコメット機がロンドンからアフリカのヨハネスブルグまで定期航空を始めてからこのかた、ジェット機による航空輸送はグングン発展して、世界の主な航空路はほとんど大型ジェッ卜機が一人占めする形となってしまった。 マッハ二から三といった超高速のジェット機が、まもなく生まれようとしている。 「このすばらしいジェット機時代の第一歩を踏み固めたのは、この私なのだ。」 フランク・ホイットルは今日も満足そうな微笑みを浮かべて、ジェット機の飛びかう大空を見上げていることだろう。 top **************************************** |