朝ドラ『なつぞら』広瀬すずヒロインのモデル・奥山玲子さんの全て
連続テレビ小説『なつぞら』(NHK 4月1日から放送)に「アニメーション時代考証」として参加する小田部羊一氏は、日本のアニメーションとゲームに、巨大な足跡を記すマイスターだ。故・高畑勲氏、宮崎駿氏と共に、『アルプスの少女ハイジ』『母を訪ねて三千里』を創り上げた(小田部氏はキャラクターデザインと作画監督を担当し作品の質を保ち続けた)。さらにゲームの世界に転じ、任天堂で「スーパーマリオブラザーズ」や「ポケットモンスター」のキャラクターデザイン監修、アニメーション監修を務めている。
朝ドラ『なつぞら』が描くのは日本のアニメーションの草創期。「北海道・十勝編」「東京・新宿編」「アニメーション編」で構成され、地方出身のヒロイン、奥原なつ(広瀬すず)がアニメーション業界に飛び込み、みずみずしい感性を発揮してゆく姿が描かれる、という。
そして、広瀬すずが演じるヒロイン「奥原なつ」のモデルは「奥山玲子」さん※1。奥山さんは小田部氏の夫人で、日本のアニメーションの草創期を支えた女性アニメーターである(惜しくも2007年5月に死去)。日本のアニメーション界とゲーム界、両方の礎を築いた巨匠、小田部羊一氏が奥山玲子さんについて語る貴重なインタビューをお届けします。文中「※」は、本記事末に解説を設けています。
「動画」と「童画」をカン違いしてアニメの世界へ
ーー(以下同)奥山玲子さんは、日本のアニメーションの歴史で女性アニメーターの先駆者の一人でしたが、ご自身ではあまり多くを語られる人ではありませんでした。どういった方だったのでしょう?
小田部:子供の頃は病弱だったらしいです。学校もよく休んだりして、「日本文学全集」や「世界文学全集」とかを読んでいたそうです。その後、父親が教員だった影響で東北大学の教育学部に行ってたんだけど2年で辞めて、家出同然で東京に出てきちゃうんです。
ーー絵の勉強は我流でやられてたんですか?
小田部:そのようです。でも高校では友達のマンガ的な似顔絵やスタイル画を描いているし、東北大学では油絵を描いていました。とにかく「仙台から出て東京で自立するんだ!」って。そんなとき、たまたま映画撮影所と関係のあった叔父から東映動画の募集を教えてもらって。それを本人は「動画」を「童画」と間違えたそうで、絵本とかの仕事が出来ると思ったみたいです。後で聞いたら、本当は東京でファッションとか語学とか、そういう関係に行きたかったようですが。
奥山は敗戦で教科書に墨を塗らされたりして、価値観が全部ひっくり返った経験から「もう何も信じられない」となった人で、負けず嫌いで反骨精神のある自立した女性でした。例えば僕らの同期にはアニメーターや仕上げ(セル画の色を塗る職種)で女性が多かったのですが、当時、女性スタッフは「結婚したら退職します」っていう誓約書を書かされていたんです。奥山はそれに反発するんですよ。「そんなこと許されてたまるか!」って。
負けず嫌いだから、アニメーターとしてもたくさん描いたり。大塚康生さん※2は1日に40枚くらいを毎日描く人だったんです。
僕らの入社時、新人は会社から1日15枚のノルマがあったけど、同期生はみな5枚くらいしか描けないでさっさと帰っちゃう(笑)。
そんなとき、奥山は負けず嫌いだから「大塚さんがその枚数なら、私も同じだけ描く!」と残業してでも、たくさん描くんですよ。臨時採用※3ということもあったから。
ですから後に結婚してから奥山に「定期社員は甘ったれてたよね」て言われました(笑)。
毎日違う奥山の服装をスケッチする同僚たち
小田部:奥山は洋服をたくさん持ってるわけじゃないですけど、毎日、出勤する服装は何かしら違えていました。自分のその日の気持ちで服やアクセサリーを選んで組み合わせて着ていたらしいです。気持ちが落ち込んでいたら逆に強い感じの色を選ぶとか。
で、それを見ていた大塚さんが、いつ同じ服装になるかと、こっそり観察して絵を描き始めたんです(笑)。
ーーいたずら好きな大塚さんらしい茶目っ気ですね(笑)
小田部:でも、奥山は毎回何かしら変えてくるんですよ。アニメーションの制作用語で「同トレス」って言葉があるんです。動画は基本的に違う絵の連続ですけど、同じ絵を使うときは色鉛筆でなぞる(トレスする)だけ、それを「同トレス」と言うんですけど、大塚さんは(奥山さんの衣装の)同トレスがいつ来るかを待っていたんです(笑)。
でもその日が来なくてね、とうとう音を上げて、やめてしまった。そしたらツノヤン(角田紘一氏※4)がそのあとを引き継いでこっそり観察描きを続けてたんですよ。でも二代目の彼もやはり音を上げて(笑)。奥山はそのことに全く気付いてなかったようで、何だかいつも変な目つきで見てるな〜って(笑)。
アニメーターから銅版画家へ転じた理由
ーーその人が聞く音楽のジャンルって、パーソナルな部分を端的に示すと思うのですが、奥山さんはどういうものを聴いておられたんでしょう?
小田部:モダンジャズです。セロニアス・モンクとかを聴いてましたね。クラシックでよく聴いてたのはガブリエル・フォーレのレクイエム。僕はモーツァルトのレクイエムが好きで奥山に薦めたんだけど、奥山はフォーレのレクイエムの方がいいと言ってよく聴いてました。
ーーロックはお聴きにならなかったんですか? 体制に反逆的な(笑)奥山さんのイメージ的にはローリング・ストーンズとか……。
小田部:もちろん好きでしたよ(笑)。あとジャニス・ジョップリンとかも。
文章を書くのも好きでね。専門学校(東京デザイナー学院アニメーション科)で教えていたとき、生徒に対して何か気づいたら、すぐ手紙を書く。そのせいか教え子たちにも慕われていました。
学生のアニメーション映画祭でも必ず全部観て、何か思ったことがあったら手紙を書いてその人に渡してました。あるプロダクションで新人教育をしていたことがあったのですが、アニメーターの一人一人の評価を丁寧に書いたものが残っていました。そのプロダクション社長が、『なつぞら』の人物像の参考になるのではないかと貸してくれたので、シナリオライターの方にお見せしました。
考えてみると、教育学部にいたことが、反映されているのかもしれませんね。
ーー晩年は銅版画をやっておられました。きっかけはなんだったのですか?
小田部:奥山は、自分が何を描くにしてもアニメーション風になってしまうのを嫌っていました。銅版画だと、彫ったり刷ったりしていくことで、より深みが増します。手癖で描いていた線が、さまざまな条件で変わるのが新鮮だったみたいで。それでセルアニメーション的なものから一歩抜け出したいこともあって、どんどん銅版画が好きになり、横浜のカルチャースクールに通っていました。
そんな時に岡本忠成さんから『注文の多い料理店』※5で銅版画調でアニメーションをやってくれと頼まれたのです。その後、川本喜八郎さんの『冬の日』※6に参加し銅版画アニメーションを作りました。新作も計画していたのですが、果たせなかったのは心残りだったと思います。
『なつぞら』には草創期の熱気、女性たちの仕事ぶりを描いて欲しい」
ーー『なつぞら』が4月1日にスタート。アニメーション業界の黎明期を描くドラマを作ると聞いたとき、どう思われました?
小田部:NHKの人から「『白蛇伝』※7をやっていた頃の東映動画や女性アニメーターの世界を描きたいから、参考になることを教えてくれ」って言われたので、当時を知る人たちを紹介して、いろんな人に取材をしてもらいました。
小田部:当時を知る人たちとかが、「これは奥山さんとは違う!」とか指摘してくれるんです(笑)。でも僕自身は奥山をその通り描いたら、ちょっと気張った感じばっかり出るんじゃないかと思っていたんですよ。制作現場も今はすっかり変わってますから、当時を忠実に再現するのは無理だと思ってますし。
奥山は仙台出身ですが、ヒロインは北海道出身。だから奥山の伝記じゃなくて、「モデル」というか「ヒント」なんです。奥山を通して、当時のアニメーション業界の世界を描くということでいいんじゃないかと。当時の東映動画にはディズニーを追い越せという気概があって、みんな大変だったけど楽しんでいたあの頃の熱気とか、奥山や女性スタッフたちの仕事ぶりとか、そういう雰囲気が出ればいいなって。
だけどね、広瀬すずさんを見たときに「あ〜もう、これで充分。当時と違っても全然いいや」って。
(一同爆笑)
僕、『海街diary』※8を観て、広瀬すずさんが好きだったんですよ(笑)。
ーー単なる広瀬すずファンの発言じゃないですか(笑)。
小田部:(笑)動画スタジオのセットも良く出来ていましたよ。動画机とかも東映アニメーション(旧:東映動画)からちゃんと借りたりして。だから、「らしい」感じは出てますよ。視聴者のみなさんが「当時はこんなんだったんだ」って思ってもらえると思います。
永遠の“ヒロイン”奥山玲子さん インタビューを終えて
小田部さんから聞く奥山玲子さんの数々のエピソードはどれも「自己表現の追求」と「意志の強さ」でした。
自分なりに一生懸命行動し、自分自身で道を切り開いていく……。これがいかに難しいことか、我々は日々の生活で痛いほど知っています。
それを奥山さんは凛とした態度で実現してきています。アニメーションの世界という限定されたものではなく「夢の実現」「女性の地位向上」「後進の育成」と我々が共感できるものばかりです。まさにドラマのヒロインのモデルとなるにはピッタリの人でした。
誰もが認める巨匠であるにも関わらず、そんな素振りを全く見せない優しい口調の小田部さんが紐解く、貴重で楽しいトークは「東映動画という“学校”」(仮)「奥山さんと小田部さん」(仮)などとして公開予定。ご期待ください。
人物・用語の説明
※1 奥山玲子(1935~2007):宮城県仙台市生まれ。宮城学院高等学校卒業。東北大学教育学部中退。1958年東映動画(現・東映アニメーション)入社。『白蛇伝』(動画)、『わんぱく王子の大蛇退治』(原画)、『太陽の王子ホルスの大冒険』(原画)、『アンデルセン童話 人魚姫』(作画監督)、『龍の子太郎』(作画監督補)、『注文の多い料理店』(原画)、『冬の日』(絵コンテ・原画)。1985年より東京デザイナー学院アニメーション科講師。1988年より銅版画制作。
※2 大塚康生(1931〜)1951年入社の東映動画第1期生。現在の日本のアニメーションの動き、特にアクションやメカ描写のスタイルの基礎を作り上げた。高畑勲、小田部羊一、宮崎駿ら数多くの後輩を育て、彼らに活躍の場を与えた。著書『作画汗まみれ』は氏のアニメーション人生とともに日本のアニメ史が創成期から語られている貴重な内容となっている。代表作:『太陽の王子ホルスの大冒険』(作画監督)、『ルパン三世1st』(作画監督)、『未来少年コナン』 (作画監督)、『ルパン三世カリオストロの城』(作画監督)ほか。
※3 臨時採用:当時、東映動画での臨時採用の給与は、定期採用の半分程度。さらに男女格差があり女性は男性より給与が低かった。そのため残業代で生活費を稼がざるをえなかった。
※4 角田紘一(1939〜2014):1963年東映動画入社。『マジンガーZ』シリーズ(作画監督)『銀河鉄道999劇場版』(作画監督補佐)『サイボーグ009超銀河伝説』(総設定、メカニック作画監督、メカニックデザイン)、『1000年女王劇場版』(美術)など、数々の東映動画制作のアニメーション映画を多様な立場で支えてきた。また東映アニメーション研究所主任講師、成安造形大学教授、創造学園大学講師などを歴任。後進の育成に尽力した。
※5 注文の多い料理店:1992年作の短編アニメーション。製作途中で監督・脚本の岡本忠成が急逝し、川本喜八郎が引き継いで完成させた。毎日映画コンクール第30回大藤信郎など数多くの賞を受賞。
※6 冬の日:2003年作の川本喜八郎が企画・監督を行い、松尾芭蕉の芭蕉七部集の一つ『冬の日』を題材にした35人のアニメーション作家による「連句アニメーション」。第7回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門大賞受賞
※7 白蛇伝:1958年公開、設立されたばかりの東映動画による日本初の長編カラーアニメーション映画。この映画を見た多くの若者たちが東映動画に集まってきた。その中には高畑勲、宮崎駿らもいた。奥山さんは動画で参加。後にこの作品を観た小田部さんが東映動画に入社した
※8 海街diary:2015年公開、父親の死をきっかけに集まった4姉妹を描いた吉田秋生の同名コミックの実写化。監督・脚本は是枝裕和。共演は綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆。広瀬すずは4女にあたる異母妹の中学生を演じた。
小田部羊一(こたべ よういち)プロフィール
1936年台湾台北市生まれ。1959年、東京藝術大学美術学部
日本画科卒業後、東映動画株式会社(現:東映アニメーション) へ入社。『わんぱく王子の大蛇退治』(1963)『 太陽の王子ホルスの大冒険』(1968)『長靴をはいた猫』( 1969)『どうぶつ宝島』(1971)などの劇場長編映画で活 躍。『空飛ぶゆうれい船』(1969)で初の劇場作品作画監督。 東映動画退社後、高畑勲、宮崎駿と共にメインスタッフとして『 パンダコパンダ』(1972)『アルプスの少女ハイジ』( 1974)『母をたずねて三千里』(1976) のキャラクターデザイン・作画監督を担当。
その他劇場作品の『龍の子太郎』(1979)、『じゃりン子チエ 劇場版』(1981)でキャラクターデザイン・作画監督。
1985年、開発アドバイザーとして任天堂(株)に入社。「スーパーマリオブラザーズ」「ポケットモンスター」シリーズなどのキ ャラクターデザインおよびアニメーション映像の監修。 2007年任天堂退社後フリー。2015年度第19回文化庁メディア 芸術祭で功労賞を受賞。
取材・構成・文:藤田健次
(ふじたけんじ)(株)ワンビリング代表取締役。電子書籍アニメ原画集・資料集E-SAKUGAシリーズを企画・制作。アニメ・アーカイブのデジタルでの利活用を提案・プロデュースしている。東映アニメーション60周年記念ドキュメント「僕とアニメと大泉スタジオ」、アニメビジネス情報番組「ジャパコンTV」(BSフジ)共に企画・監修。
企画協力:木川明彦
(きかわあきひこ)(株)ジェネット代表取締役。アニメ、特撮、SF、ゲーム関連の雑誌・書籍の企画編集に関わる。特に設定考察、図解にこだわる 自称「図解博士」。近著に小説『高速バスター ミナル』(スペースシャワーネットワーク)がある。